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密やかな雨が降っていた。
まるで霧のように、けれど確実に全身をしっとりと濡らしていく。そんな雨だ。
人々は足早に家路につき、うつむき加減に石畳の道を行きかう。
ブラッドは、そんな町中を一人だけのんびりとした足取りで歩いていた。今日は休みなのだ。両親の経営する、少しばかり高級な食堂は、本日も満員。けれど、前の新月から今夜の新月まで、働きづめに働いた息子に与えられた数時間ばかりの休息だった。
とは言え、完全に休みでもない。今年で十二になるブラッドは、道楽者だった祖父の影響か、絵画の目利きが出来た。真贋を見分けるというよりは、良い物を良いと分かる、という方が近いけれど、とにかく、店にかける絵を選ぶのは自分の仕事と自負していた。
いい絵描きがいる、と聞いたのは、三日ほど前だ。同じ町で、美術店のような何でも屋のような店を営むアガンディ商会の息子は、同年代の友人だった。彼もまた、若いなりに目が肥えているのは育ちのせいだろう。その彼が、まだ年若いという絵描きを褒めた。珍しいことだった。そして今日、その絵師が店に絵を見せに来るらしいと聞きつけたので、ブラッドはたまたまの休みをつぶしてまで、それを見に行こうとしているのだった。
ブラッドの働く店の通りから、二本ばかり海側に抜けた通りに、アガンディ商会はある。小ぢんまりとはしているが、奥が広く、かつて間口の広さで税金が決められていた頃の名残を思わせた。
からん、とドアベルを鳴らして中に入ると、三つの顔が振り向いた。店の奥、カウンタの横にある小さな応接スペースで、絵を挟んで話をしていたものらしい。ひとつは件の友人の顔、そして隣にはその父親。
向かい側に座っているのが、話題の絵師だろう。
「いらっしゃい。いいところに来たな、飯屋の息子」
「おじさん、俺んちはその辺の酒場とは違うんだ。屋号で呼んでくれよ」
「何が屋号だ、メルキュール邸、なんざケツが痒くならぁ」
繊細な美術品を魔法のように繊細に扱う指先を持ちながら、どうにも粗野なところのある店主は、それでも間にある絵を真剣に見ている。
店の品を濡らさないよう、勝手知ったる店内の裏から手拭いを持ち出して肩と頭から水気を取って、彼らの方に歩み寄った。
いい絵だ。海の絵だったが、少し沈んだ色彩と、全体に僅かに丸く歪んだ輪郭が、もの悲しさを掻き立てる。
とは言え、楽しい食事の場にはそぐわないようだった。
正直にそう告げると、店主も息子も、分かっている、とばかりに頷く。だったらなぜ呼んだのか。いや呼ばれたわけではなかったが、興味を引くような話し方をしたのは友人だった。
それを読んだのか、
「いや、本当は可愛い動物の絵を、と頼んでいたんだ。それが出来上がったらこれってわけさ」
息子のリゼールが肩をすくめて言い訳のように言う。
それを聞いて、向かいに座っていた絵師は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん、海をみたら海が描きたくなってさ。依頼に間に合わないってことは分かってたんだけど、つい。そしてほんとに間に合わなかったから、描き上がったこっちを言い訳代わりに持ってきた」
殊勝な態度とは裏腹に、悪びれない物言いだった。
まじまじと見てしまう。少し肩にかかるくらいの、伸ばしっぱなしのような長めの髪と、絵師らしく絵具で汚れた着古しの作業着。
「まあいいさ。これはこれで、良いものだ。このくらいで買い取ろう。どうだね?」
書類をやりとりし始めたので、遠慮して少し下がり、店内を見渡した。すると、明らかに同じタッチの絵が2枚ある。無名の画家としてはそれなりの値がつけられていたが、それも納得できる出来栄えだった。
「あー、これで肉が食える。助かった」
「君さ……後先考えずに道具に財産突っ込むの、良くないって言っただろう?」
リゼールが絵師に向かって説教めいたことを言う。その物言いがやけに優しくて、おや、と思う。決して乱暴ではないが、ここの店長の息子であることがさもありなんという程度にはぶっきらぼうなところのある彼にしては、穏やかな対応だった。
言われた絵師は、少し不満げに、
「分かってますよ。でも良いものは次にいつ出会えるか分かりませんからね。ね、分かりますよね、その辺のところ」
と、なぜかブラッドに同意を求めて来た。
確かに、料理にも給仕にも携わるブラッドにとって、様々な仕事道具というのは一期一会で思い切って手に入れてしまうこともある。
「ああ、まあ。でも、お前はもうちょっとちゃんと食った方がいいんじゃないか? なんか貧相だし」
つい、言ってしまった。男にしては、ひょろひょろで、なんだか頼りなかったからだ。
それを聞いて、絵師は明らかにむっとした。そして、くるりと店主の方をむくと、
「じゃあそういうことで。また来ますねっ」
と言って、足音も荒く扉から出て行ってしまった。
意見に同意しなかったからといって、そんなに怒ることもあるまいに。ブラッドが唖然としていると、残った親子二人は、扉が閉まると同時に爆笑しはじめたのだ。
「う、嘘だろ、ブラッド、まさかお前」
「いやいや親父、こいつならあり得るよ。ほんとあれ、見る目があるのは絵だけなんだぜ」
そう言いあって、げらげら笑う。戸惑いながらぽかんとしているブラッドに、指まで指して。
「なんなんだよ、親子そろって。何が面白んだ」
「なあお前、あの絵師の名前、教えてやろうか?」
「はぁ? 名前?」
言われて初めて、店内の絵の隅に画家のサインがあるのを発見した。
アリシア。
「アリシア? なんか女みたいな名前だな」
そう呟くと、親子は床に転がり落ちて、苦し気にお互いを叩いている。ますます笑い転げる様子を見て、じわじわと、まさか、の予感がした。
「まさか……まさか女か! あいつ!」
もはや答えもない、彼らは笑いすぎて泣いていた。
ブラッドは慌てた。まさか、あんなに髪を短くして作業着を着て、男のような喋り方をする女がいるとは思わなかった。時代はやや女の台頭を許しているとはいえ、いまだ旧弊的な感覚は子供のブラッドにさえ染みついている。女は生まれた時から髪を伸ばし、貴族も庶民もひらひらした服を着ているものだと思っていた。
はぁはぁと息をついている親子を置いて、ブラッドは店を飛び出した。けぶるような雨を透かして、通りの景色に彼女を探した。遠く、まばらな街灯の下に、短い金髪を見つけた。毛先の跳ねた短い髪だけれど、彼女は美しい髪をしていたのだ。
顔に当たる雨も気にせず、その背中に全速で駆けた。
「アリシア!」
大声で呼ぶと、彼女は驚いたように振り返り、走るブラッドを待っていてくれた。
「その、申し訳ない。誤解だったんだ。そういうつもりじゃなかった。貧相というのはその、そういう意味じゃない」
しどろもどろのブラッドを、彼女はまじまじと見て、そして、笑ってくれた。
「分かってる、男だと思ったんだろ。慣れてるから。いやさすがに最近は昔ほど言われなくなったから、油断してた。本気で怒ったわけじゃない。こんなふうなナリでこんな喋り方してる私が悪いから」
ブラッドはほっとした。それが社交辞令などではなく、本気だと分かったからだ。
それでも、気が済まない。どうしようと考えた挙句、肉が食える、と喜んでいた彼あらため彼女の言葉を思い出し、
「ええと、良かったらうちに飯食いに来いよ。絵の完成記念に、お祝いしてやるよ」
「ああ……ありがたいけど」
「すぐそこだ」
「知ってる。メルキュール邸だよね。さっきアガンディさんが言ってた。嬉しいけど、ちょっと柄じゃないよ。こんな格好だし、振る舞いも似つかわしい訳じゃない。
気持ちだけ受け取っておく」
確かに、と思ってしまった自分を、ブラッドは少し軽蔑した。店は貴族御用達というほどでもなく、少し小金のある庶民で丁度いいくらいの店だ。たいそうな屋号で呼べと言ったのは、ブラッドの代にはもっと格を上げたいと考えているからだった。
そうして、そんな野望とは裏腹に、仕事終わりで身だしなみも整えていない女性を簡単に招待しようとする。自分にも彼女にも、そぐわないやり方で、一方的にお詫びをしようとしているのだ。
ごめん、と出そうになった言葉をかろうじて飲み込む。ここで謝ることだけは、してはならないとぎりぎり気づいたからだ。
「でももし、君の気が済まないのなら、買い物に付き合ってくれる? 何か美味しいものを作ろう。君には、良いものを選ぶ手伝いをしてもらおうかな」
「ああ……もちろん。むしろ俺が作るよ。少しは出来るんだ」
「ほんとかよ!」
「本当だとも。期待しろ」
それが二人の出会いだった。今から、十年も前のことだ。
以来ずっと、二人は気の置けない友人として過ごしてきた。アリシアはいつまでたっても色気のない格好で、だらしのない生活をしているが、じわじわと絵の評価が高まって、今ではもう食うに困ることもない。
ブラッドは、未だに父の下について修行の日々だが、きっと近々、店を完全に任せてもらえるだろうところまできていた。
変わらないようでいて、少しずつ変わって来た日々。それでも、このままずっと同じように過ごしていけると根拠もなく思っていたはずだった。
「やあブラッド、今日も美味しい料理をありがとう」
「とんでもございません、お気に召していただけたようで」
「時に、あの壁の絵は、アリシア・ネストだったね?」
「はい、他にもいくつか」
「ふんふん」
常連客は上品に口を拭いながら、世間話のように言った。
「彼女、結婚するんだって?」
ブラッドは、あまりの驚きに客の前で絶句した。
結婚?
誰が?
いや。
誰と?
それは、今までもこれからも続くと思っていた平穏な日々の、変化の始まりだった。
あまり長くならない予定です。
よろしくお願いします。