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第三十一話「私は恋をしたの」

 コスモは足をもつれさせながら必死に走った。中庭に出ると、迷わず奥に入っていく。息は苦しいが、足が止まることはなかった。


 どんどん奥へ進み、開けた場所に出る。そこにあるベンチに、いた。


 そこに座っていたラッサムはコスモの姿を認めると目を見開いて立ち上がった。


「ラッ……」


 コスモは口を開くが、息が切れて上手く声が出ない。そのまま二人はしばらく見つめ合った。コスモの浅い息だけが夜の暗闇に響いた。


「ラッサム……」


 息が落ち着いてきて、コスモはラッサムの名前を呼んだ。ラッサムは表情を変えずにコスモを見つめている。その瞳には暗い影が落ちていた。


 意を決して、背筋を正してからコスモはラッサムに問いかけた。


「約束を……覚えている?」


 ラッサムが息を飲んだのがわかった。ひゅっと喉が鳴った。コスモはラッサムの言葉を待った。


 ごくり、とラッサムが唾を飲み込む音が聞こえて、それからゆっくりと口が開かれた。


「……あぁ」


 ぶわっと抑え込まれていたものがコスモの赤い瞳から溢れて流れ落ちた。


「覚えて……いてくれたのね」


「……あぁ」


 コスモが約束を交わしたのはアッサムではなくラッサムだった。その事実が胸の中の疑問をゆっくりと溶かしていく。


「何故……自分はラッサムだと、あの約束の時に教えてくれなかったの?」


 ラッサムは今にも泣き出しそうな程苦しそうに顔を歪めた。


「何度も……言おうと思った。でも、コスモは俺ではなくアッサムのことを想っている。それがわかって、どうしても……。全ては言い訳にしかならないことはわかっている。コスモの気持ちを踏みにじって、こんなに辛い思いまで……すまない。本当に、すまない」


 コスモに「忘れてくれ」と言ったあの時の表情を浮かべた。あぁ、今ならちゃんと言える。コスモは止まっていた足を動かして一歩ラッサムに近づいた。


「今までずっと、ラッサムはそのことで苦しんで来たのね」


「苦しむ、なんて……」


 また一歩ラッサムに近づく。


「私がアッサムのことを好きだと知っていて、それが言えなくて」


 一歩、また一歩。どんどんとラッサムの顔がはっきりと見えてくる。手が届く程近づいて、コスモは足を止めた。悲しく濁るラッサムの瞳と目が合った。


「約束、守ってくれたのね」


 コスモはラッサムの手を取って自分の両手で包み込んだ。


「忘れられてしまったのかと思ってた」


「忘れるわけがないだろう。俺は……」


「ねぇ、覚えている?昔、私がここでラッサムに独りぼっちで寂しいって打ち明けたこと」


「……あぁ」


「そうしたらラッサムは大丈夫、コスモが姫じゃなくてもずっと友達だからって言ってくれた。私がどれだけその言葉に救われたか」


 嬉しかった。本当に嬉しかった。そして今、それをようやく本人に伝えることができる。


「その時に私は恋をしたの。貴方に」


 ラッサムの瞳がキラリと揺れた。


「中庭で貴方と会う時間が何よりの楽しみだった。一緒に本を読んだりお花を眺めたり。私はケンリウムに帰ってからもそれを楽しみに毎日を乗り切ってきた。寂しい時も、辛い時も」


 言葉にするとその時の思い出が色鮮やかに蘇ってくる。思えばいつも喋るのはコスモばかり。ケンリウムであった嬉しかったこと、嫌なこと、色々なことを聞いてくれた。それは確実にラッサムだったから。アッサムだったら聞くよりも話すことのほうが得意なので、きっとコスモはこんなに満たされることはなかっただろう。


 全てわかれば今まで気がつかなかったことを不思議に思うほど腑に落ちる。一緒に作ってきた思い出は確実にラッサムとの思い出だ。そして、コスモはそんなラッサムに恋をしたのだ。


「私が好きなのは中庭で会うアッサムだった。昼間のアッサムも好きだけれど、それは夜のアッサムがいたからこその感情だった」


 ラッサムの口が僅かに開いた。


「ラッサムの妃になるって聞いた時、何故アッサムじゃないのかって酷く落ち込んだ。だから、真相が知りたくてコブルスルツに来たの。でも、当たり前だけれどアッサムは何も知らなくて、忘れられてしまったんだって悲しかった」


 絶対に約束を守ってくれると思っていたのに。あの時、コスモを妻にと言ってくれたあの瞳は濁りのない真剣なものだったから。


「アッサムと一緒に暮らすのは正直言って辛かったから、すぐにでもケンリウムに戻りたいって思った。だけど、一度受けてしまった婚約を破棄するわけにいかない。そう思ってラッサムと一緒に過ごして……」


 ラッサムと過ごす時間はいつも穏やかで落ち着いて。そして───


「そうする内に、私はもう一度貴方に恋をしたの」


 コスモが握るその大きな手がぴくりと動いた。


「ずっとずっと、あんなに想ってきたアッサムから気持ちが動くなんて思ってもみなかった。でも、今ならわかる。私が好きだったのは昔からずっとラッサムだったんだから」


 「コスモ」とラッサムの唇が動いた。声は出ていないが、ちゃんと聞こえた。


「約束、守ってくれてありがとう。私はラッサムのことが大好き。ずっと、ずっとラッサムの側に、ラッサムの妃として、いさせて」


「コスモ」


 今度はちゃんと声が聞こえて、コスモの身体はラッサムに包み込まれた。痛いくらい強く抱き締められてコスモは涙を一滴流した。そして、かすかに震えるラッサムの大きな背中に手を回した。


 ようやく会えた。あの日約束を交わした大切な人に。


 長く抱き締めあって、身体を離して目が合ったラッサムはあの日のように笑った。そうだ、あの日もこうしてはにかんで、嬉しそうに笑ってくれたんだ。


 しばらく見つめ合うと、どちらからともなく顔が近づいて二人の唇が重なった。微かに聞こえる花が揺れる音が二人を包み込んでいた。

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