68.さよなら
両親に会うのは一年ぶりくらいか。忙しくて帰らないことの方が多かったからな。
二人ともフォーマルスーツで、眠りから覚めた感動の再会、とはいかなかった。俺の姿を見下ろすなり、お袋にため息をつかれ、親父には首を横に振られた。
だからやだったんだよ。
「もう少しまともな格好はできんのか」
「あのねえ……第一声がそれ? もうちょっと他に言うことあるだろ」
「未払いの賃金なら係争中だ。まあ、戻るものは少ないだろうから、忘れとけ」
俺が倒れた後の手続きを引き受けたのは親父だと聞いてはいた。
入院中のことだって、全く顔を出さなかったわけじゃなかったことも、後で知った。
ただ単にタイミングが合わなかっただけなんだろう。サバサバした両親ではあるが、俺たちのことを考えてくれていることはわかるから。
「うん。……ありがとう」
「あらまあ、遊人が謝るなんて、今晩は雹でも降るかしら」
俺、そんなキャラだったっけ。親に対して何か思うことなんてなかったはずだ。まあ、そりゃ確かに会話は少なかったかもしれないが。
言葉を続けようとしたら、直斗がやって来た。
その隣には、可愛らしいオレンジ色のドレスに身を包んだ理央が、恥ずかしそうに立っている。
こう言う格好も似合うだろうとは思っていたけど、マジやばい。めちゃくちゃ可愛い。目が離せなくなる。
「遊人、妹が可愛いからってあんまりじろじろ見ないでくれる?」
「うるせえ」
こんなに可愛いのに見るなとか、拷問か。
そして、先日会ったばかりの直斗の父親が、綺麗な人を連れてやって来た。若々しいその人か直斗の母親と聞いて納得する。直斗がそのまま女性になったみたいだ。直斗の姉と言われても納得しそうになる。
直斗の両親もいい人だった。みんなフォーマルな姿の中、どうして俺はここにいるんだろうと遠い目をする。
お袋と直斗の母親とは同年代らしく、話題が合うとあっという間に周囲を置いてけぼりにして盛り上がり始めだ。
美味い料理に舌鼓をうち、これまた美味いコーヒーを飲みながら直斗の……いや、理央の父と仕事の話をしている時だった。
店の雰囲気が慌しくなったかと思ったら、支配人らしい姿の男性が寄って来た。
せっかく個室にしたっていうのに、騒動が丸聞こえなのはいただけない。
俺は直斗に一つ頷くと席を立つ。
こんなタイミングで、しかもこんな格好のところに押し入って欲しくないんだけど、ほんとに仕方のねえやつらだわ、
「ゆーと、ボクも行く」
「ダメだ。お前は守られとけ」
「だって……」
事情を察して、理央が立ち上がった。でもダメだ。これは俺の役目だ。
「俺に守らせろ」
「ゆーと」
「そ。そんなにかわいく化けた姿を見せたらさらわれちゃうもの。可愛い妹を守らせてちょうだい」
代わりに直斗が立ち上がる。
俺一人でも、と言いたいところだけど、この姿じゃそもそも取り合ってもらえないだろう。何より、まだ体が万全じゃない。力に物を言わせるのは無理だ。
「ちょっとだけ待ってろ」
「……うん」
無茶しないでね、と呟く理央の頭を撫でて、個室を出た。
◇◇◇◇
店の中では黒服の男たちが対峙するように立っていて、中央にはスーツ姿の男がいる。確か直斗の親父さんの秘書だ。
向かいにいるのは……夢よりさらに老けた、あのクソババアが何事か聞き慣れない言語で喚き散らしている。日本語も喋れたと思っていたけど、夢だったからなんだろうな。
「あれね」
「ああ」
そういや直斗も見たんだよな、あの夢。ちらりと見れば、直斗は眉根を一瞬寄せたかと思うと、見事な笑みを浮かべて見せた。
「ご挨拶、しなきゃねえ」
そう呟いた直斗の目は笑っていない。
ドン引きしてるうちに、直斗はさっさと俺を置いて黒服の壁を超えた。
「初めまして、奥様。何か私どもにご用がおありでしょうか?」
はっきりと日本語で言うと、あの女は眉を跳ね上げた。
「使用人に用はないわ。わたくしの娘を出しなさいと言っているの!」
「おや、それはおかしいですね。今この店にいるのは私の妹です。何か勘違いをなさっておいでだ」
口調は丁寧で、壁越しだがにこやかに笑っているのは想像がつく。でも、ブチギレてるのは感じた。
両親の前でさえあの口調を変えなかったのに。
あの女が息を飲むのがわかる。確かに、黒フォーマルの直斗はぱっと見だと店の者と間違われてもおかしくない。支配人より着てるものは上等だろうけど。
「あ、兄の忘れ形見ですもの、娘のようなものだわっ」
「おや、聞こえませんでしたか? この店にいるのは私の妹です。貴女の兄の忘れ形見などではありません」
「知らないとでも思ってますのっ」
「貴女こそ、我々が何も知らないとでも?」
声に気がついて顔を向ければ、俺の横には社長……理央の父がいて、黒服の壁を越えていく。慌てて周りを見回したが、理央の姿はなくてほっと息をつく。こんな場面、見せたくない。
「あなたはっ……」
「私の息子が失礼したね。……そうだ、良い機会だ。お披露目しておこう。実は娘が結婚したのでね。家族水入らずで食事をしていたところだ」
「父さんっ」
「お前は黙っていなさい」
直斗は眉根を寄せて俺の方をじっと見ている。いやまさか、社長が出てくるとは思わねえだろっ。せっかく俺が追い返そうと思ってたのに。……まあ、あの様子だと、直斗がいなかったらつまみ出されてたのは俺だったかもだけど。
それに、なんか不穏な台詞が聞こえた気がしたんだが。
「紹介しよう。娘の理央と、婿の遊人だ」
ふわりといい匂いがした。腕に絡まる柔らかな感触にギョッとして振り向くと、理央の顔があった。
銀の滝をゆるく結い上げて流し、薄く化粧をした理央はめちゃめちゃ可愛かった。遠目であれなんだから、この至近距離ではもう、タマリマセン。
なんで理央を引っ張り出してるんだよ、と抗議しようとしたけど、でも、あまりの可愛さに理央から目が離せない。
じっと見つめていたら、理央は上目遣いで目を潤ませている。
「理央」
「ゆーと」
名を呼ぶだけでふんわり笑うとか、マジ天使。俺、こんな可愛い子を嫁にするんだ。嫁ってことは、あんなことやこんなことも、やっちゃったり、してもらっちゃったり……。
「ゆーと、大好き」
少し伸び上がって、理央が俺の耳元で囁く。ふわりと香った甘い香りにくらりときて、理央を抱きしめると頬にキスをした。そのまま、晒された白い首筋に顔を埋める。
唇が触れた途端、理央の体が硬直するのがわかる。
「理央、愛してる」
「ゆ、ゆーと、くすぐったい、よっ」
でも、積極的に体を離そうとしない。それは、受け入れてくれてるということだよな?
「あんな格好の男が婚約者ですって? 嘘をつくのも大概になさいっ!」
「婚約者ではない。夫だ。それに、あれを見てもダミーと言うのですかな」
「金でも払ってやらせてるんでしょうっ!」
社長とあの女のやりとりが聞こえる。
俺は少しだけ体を離して理央を見下ろした。理央は恥ずかしいのか白い肌をピンクに染めていたが、声は聞こえていたのだろう。俺が身を離した理由を悟って頷いた。
あの女に見えるように横を向かせ、唇を重ねる。理央の手が首に回されたのが嬉しくて、何度もキスを落とす。
俺だけならまだしも、社長や直斗、理央まで侮辱されて黙っていられるかよ。
俺のわからない言語であの女が喚いているが、構うものか。
……そりゃさ、こういうことを一応人前でするのは抵抗あるよ? でも、今回は特別だ。
俺と理央の決意表明だ。
理央は誰にも渡さねえ。
「お疑いなら、戸籍謄本をお見せしましょうか?」
戸籍謄本?
目を開けると、至近距離で理央の目にぶつかった。慌てて唇を離す。顔が熱い。
今日の会食、というか顔合わせは婚姻届を出すためのものだった。ということは、俺たちが食事をしてる間に提出され、受理されたってことか?
直斗に目をやると、黒服の壁の向こうから、きらっきらな笑顔が飛んできた。
どこまで用意周到なんだ。
まさか、今日あの女が来ることを知ってたんじゃないかと思うほど、きっちりとお膳立てされている。
養子縁組が成ったと聞いたのは今日のことだよな。
で、婚姻届書いて、両親の顔合わせ、婚姻届の提出に受理。
晴れて、理央は風間理央から神原理央になった。
そう思うとなんともくすぐったい。腕の中の理央は、正真正銘、俺の嫁。
「……ああ、来年には孫も生まれるらしい」
えええっ!
俺は理央の薄い腹を見下ろした。い、いや、俺まだ指一本……とまではいかないけど、子供ができるような行為……してねえよ?
理央も真っ赤になって俯く。それがあまりにも初々しくて、思わずぎゅうと抱きしめる。
「ゆーとっ」
「……ごめん、つい」
周り? 知るか。盛大に乱暴な口調でわめき散らして出て行ったクソババアのことなんか。
「はー、よかったわ」
後ろから腕が伸びてきて理央と一緒に抱きしめられる。
「お、義母様?」
「やだ、そんな呼び方しないでよ。老けた気になっちゃうわ。紗雪さんて呼んで」
そういえばそんなことを言っていた。でもさすがに社長夫人だぞ? 直斗の母で理央の義母で、俺の義母。
「いいから。……そう呼ばないんだったらうちの敷居、跨がせないわよ?」
「あ、あのっ」
「……紗雪さん」
理央と二人で暮らし始めれば、そうそう風間の実家を訪ねることもないだろう。とはいえ、理央の表情が悲しげに揺れて、俺は折れるしかなかった。
「二人の新居はすぐ建てるから、それまでは直斗と同じマンションを使って」
「え」
「遊人くんとこはセキュリティ甘すぎるから」
「あの」
「話はついてるから。……忙しくなるわよ、風間遊人くん?」
……え?
「えっ」
俺の横から戸惑ったような声が聞こえる。
理央も聞かされてなかったっ?
直斗に振り向けば、満面の笑顔――してやったりの笑顔で親指を立てる。
両親の方をむけば、深々とため息をつかれた。
「親父っ?」
「……まあ、そういうことだ」
「そういうことって……」
「励めよ」
ぽんと肩を叩かれる。お袋も目尻を拭きながら、紗雪さんに寄りかかっている。
神原遊人、二十八歳。
神原姓にさよならしました。




