64.理央
どれくらいそうしていただろう。
泣きすぎて頭が痛いなんてことあるんだな、と思える程度に頭が冷えたところで体を起こした。
ナオトは戻ってこない。黒服の男も、看護師や医者ですらも。
窓の外はずいぶん日が傾いていた。もしかしたら泣きながら寝てしまったのかもしれない。
こんな歳になって、葬式以外で泣いたのはほぼ初めてだ。あの世界で色々あったせいで涙腺も緩くなっているのかもしれない。
本当はこのまま目覚めるまでここでこうしていたい。だが、そういうわけにもいかない。リオは俺を知らない。リオの関係者でもなんでもない俺が、今ここにいるのだって不自然なのだ。
いくら向こうの世界で思いが通じていたからといって、通らない話だ。
今は離れなければ。わかっているけどそう思うだけで胸が痛んだ。
ようやく出会えたのに。
握りしめたままの手を離す前に、一度だけ、と指を絡める。いわゆる恋人つなぎ。
そうして手の甲にキスを落とすと、もう一度リオの顔をジッと見てから手を離そうとした。
だが、それは叶わなかった。……力なく握られるだけだったはずのリオの手が、しっかり俺の手を握っていたから。
まさか。
日が落ちて、だんだんと薄暗くなっていく病室の中で、俺は身動きも出来ずに立ち尽くした。
これは、夢なのか。
それとも俺の願望か。妄想を、幻覚を見るほどにひどくなったのか。
まるであの時みたいだ。
どくん、と心臓が高鳴る。
いや、そんなもんじゃない。
全身から汗が噴き出す。喉の奥から心臓が飛び出してきそうなほど、緊張してるのが自分でもわかる。
あの時はどうだったろう。
ふるりとまつ毛が揺れて、それからーー。
「……ここ、どこ」
酸素マスク越しだけど、ちゃんと聞こえた。
そうだ、リオはそう言った。俺を見ずに。
あの時は、誰が答えたんだっけ。ハルだったか。
でも、ここにハルはいない。
ゆるりと開いた紫水晶が迷うように天井をさまよいーー俺を見た。
その時のことを、きっと一生忘れない。
俺は、緊張でカラカラに乾いた口を一度閉ざし、ぎこちなく笑みを浮かべて、涙をたたえるリオに告げた。
「ようこそ、現実の世界へ。……リオ」
手をぎゅっと握られる。それだけで、リオがここに確かにいるのだ、と実感する。
さっきまで胸を満たしていた冷たい思いがあっという間に氷解していく。
ぽろりとリオの目尻から涙が溢れるのを、手を伸ばして拭い取る。
「ほんとに……ゆーと……?」
不安げな声も何もかも、とても愛おしい。現実のリオを見つけることができてーーしかも目を覚ましてーー何より、俺を覚えている。
これ、奇跡と呼んでもいいよな?
「ああーーお前の水先案内人の、神原遊人だ」
泣きそうになりながら、俺は微笑んで見せる。視界は滲みっぱなしだが、構うものか。
向こうではリオが俺の水先案内人だった。だから、こっちでは、俺が水先案内人になる。
迷いそうになったらいつでも、リオを暗闇から連れ出してやる。
俺はきっとそのためにここにいる。今度こそ、この手は離さない。
折れそうなほど細い白い手を握りしめて、強く強く心に誓った。
◇◇◇◇
「よかったわ、あの子が目覚めて」
いつもの俺の個室で、ナオトは目尻を緩ませる。
俺は眉間にしわを寄せたまま、ブラックコーヒーをすする。
なんでここに戻ってきたかといえば……あのあとやってきた医者と看護師に病室を追い出されたからだ。
ナオトもその場にいて、俺を強引に連れ出した。そして、振り出しに戻る。
「いつまでも拗ねてんじゃないわよ。検査さえ済めばいくらでもいちゃいちゃできるんだから、少しくらい我慢しなさい?」
すまし顔で言うナオトをジロリと睨む。あんたはいいだろうさ、ずっと待っていてくれた聖ちゃんが個室に一緒に寝泊まりしてるんだから。
せっかく会えたってのにーーしかも俺のことを覚えてーー次にいつ会えるかわからないんだぞ?
それにーー。
「それに、よかったじゃないの、アンタも。退院できるんでしょ?」
「……よくない」
せっかく会えたのに、また離れ離れだ。
それにしても、親も同僚たちも冷たいよな。結局一度も顔を出さなかった。
いつも通りの日常になんて、戻れるんだろうか。
とっくにクビになってるんじゃないのか。
ここまでなんの反応もないと、精神的にもやさぐれるってもんだ。
「通えばいいでしょ?」
「……簡単に言うなよ」
「だって、退院って言ったって、検査は続くんでしょ?」
「だとしても、来られるかどうかわからねえよ。……復職もしなきゃならねえし」
「まあ、そうよね。リオを迎えに来るんでしょ?」
そうだ。そのためにはプータロをやってる暇はない。元どおりとまではいかなくとも、リオを養えるだけは稼がなきゃ、迎えになんて来られない。
わかってる。でも、あのブラックな職場に戻ったらリオと会う時間もなくなるに違いない。定時とは言わない。せめて人並みに食事が取れる時間に帰りたい。
「安心なさい。アタシはまだしばらく入院だから。理央のことは逐一報告したげるわよ」
にこやかにスマートフォンを振るナオトに俺は顔をしかめる。なんでこいつだけスマートフォン持ってるんだよ。
三ヶ月遅れて目覚めた俺が退院で、ナオトが入院のままって、おかしくないか?
「仕方ないでしょ。アタシまだ時の人なんだもの。店に出たりしたら大変なことになっちゃうのよ。実際、なっちゃったし」
俺の顔を見てナオトが口を尖らせる。確かにそんなことを言っていた。ナオトはテレビ映りもいいだろう。看護師に聞いた話だと、芸能プロダクションからも口説かれてるらしい。
ナオトなら芸能界入りしても渡っていけるだろう。それくらいのイケメンだ。悔しいけどな。
「……安心しなさい。理央はちゃんと守るから」
リオ……現実の理央は夢より美人で可愛かった。スリーピングビューティーなんてつけられるはずだよな。
しかも、夢の中の通りなら、性格もいい。素直で優しくて魅力的で。
……なのに、どうしてあんな仕打ちができたんだよ。クソババアども。
リオが何したって言うんだよ。
あいつらが関わらなきゃ、きっと理央は幸せに暮らせたはずだ。育ての親と、リオの周りの人たちとともに。
血のつながりなんかクソ食らえだ。
ああいや、それよりも、これからのことだ。
理央は可愛い。
きっと、元気になったらもっと可愛くなる。
性格が良くて美人。男どもがほっとくはずない。
俺がいない間に俺なんかよりよっぽどいい男が現れたら?
俺は平々凡々な男だ。金なし家なし車なし、顔も普通だし、理央に似合う男じゃない。
リオの思いは知ってる。でも、理央は……?
不意に頭を叩かれて顔を上げると、ナオトが不機嫌そうに眉根を寄せていた。手にはどこかの週刊誌。
「リオの百面相は見てて飽きないけど、アンタのは見てらんないわ。……もう少し自分てものに自信を持ちなさい?」
「……うるせえな」
何もかも持ってる男に言われたくねえ。
ナオトはため息をつくと、俺の頭に雑誌を乗せた。落ちそうになるそれを受け止める。
「アンタより早くこっちに戻ってきてたのに、アンタより遅く目覚めたのよ。アンタを待ってたって、思わないの?」
「……そんな都合のいいこと」
「だからダメなのよねえ、アンタは。今まで……それこそアタシが目覚めてからずっと、全くなんの反応も示さなかったあの子が、アンタが目覚めた日から反応するようになったのよ。……それもアンタの話をしてる時に限ってね。医者からも覚醒の兆候があるって言われたわ。だからアンタを連れてきたのよ。医者も看護師も、警備も無理言って全部下がらせて。そしたらどう? 予想通り、アンタが来たら目覚めた。……これ以上の証拠、要る?」
ナオトの言葉に俺は無言で首を横に振った。
俺を待っていてくれた、なんて烏滸がましいと思いもするさ。
それでも、ナオトの言葉が本当なら……。
「……無自覚なデレってこんなに腹立つのねえ」
「……なんだよ」
「気がついてないの? アンタ、スッゴい嬉しそうよ」
言われて慌てて手で顔を隠す。
そりゃ、嬉しいに決まってるだろ。リオが俺を覚えてた。それだけでも奇跡なのに。
「ま、いいわ。アンタにとっては奇跡だもんね。……さて、堅い話はここまでよ。はい、これ」
ナオトが差し出して来たのは、黒地に金文字の踊る、名刺のようなものだった。
「これは?」
「アタシの店のカードよ。困ったらそこに連絡して。アタシはいないけど、聖ちゃんがいるから。話は通しとくわね」
「……わかった」
カードには店の情報しかなく、ナオトの名前もなかった。メールアドレスと携帯電話の番号が手書きで書き込まれている、
「ま、元気でね。たまには顔出しなさいよ」
「ああ」
可能な限り、理央に会いに行く。そのためなら頑張れる。




