60.最後の夢
行ってしまった。
光に飲まれて、ナオトのように。
最後まで笑っていた。
リオの笑顔が光に消えて行くのを、最後まで見ていた。
「遊人」
気がつけば俺は冷たい床の上にへたり込んでいて、靴のつま先だけが視界に入る。
声のする方に顔を向ければ、ずっと遠いところにハルの金髪が見えた。
視線は床をふらついて、上を向こうとしてみるものの、床から視線が動かない。
自分の中に空洞がある。
とてつもなく深い穴が。
覗き込んだら最後、二度と出てこられそうにない。
こんな、喪失感。
「遊人」
今度は近くで聞こえた。幼い男の子の声に顔を上げると、へたり込んだ俺の前には小さなハルがいた。ハルが、俺の顔に手を当て、額をくっつけてくる。
「なに……」
「姉さんを思ってくれてありがとう」
その言葉にふと疑問が浮かんだ。
リオは兄と呼び、ハルは姉と呼ぶ。本当はどちらなのか。
……でもそれも、もはやどうでもいいことだ。
「姉さんが帰る気になってくれたのは、間違いなく遊人のおかげだ。僕は一生、ここに姉を隠し続けることを覚悟していた」
それほどまでに現実に戻りたくなかったのだ、リオは。
死を選ぶということがどれほどの覚悟なのか、俺はなにもわかっていなかったのかもしれない。
「でも、姉さんは生きることを選んでくれた。……僕からも礼を言わせて」
「……お前のためじゃねえよ」
そうだ、あくまでも俺のエゴ。俺のためだ。俺と共に歩いてほしい。ただそれだけだ。
「いいよ、それで。僕が勝手に感謝してるだけだから」
ため息をついて目を閉じる。ハルは俺の顔から手を離さない。くっついた額がなんだか暖かい。
「僕はね、遊人」
俺の頬に当てられたハルの手がプニプニで柔らかい。小さなリオの手もこんな感じだった。
「遊人が選ばれた理由がわかるような気がするんだ」
なんだ、と言いたかったが、喉のところで引っかかる。
「みんなが……リオでさえ恐れてる『カミサマ』に楯突こうとする人なんかいなかった。ましてや、それに名前をつけようなんて思う人、どこにもいなかったよ」
あれはただ単に呼び名がないと面倒だと思っただけだ。カミサマぶん殴る気になったのも、リオが泣くから。
ただそれだけ。ご大層な理由なんかありゃしない。
俺は、リオに笑っていて欲しかっただけなんだ。
「だから、ごめんね」
「……は?」
ハルの謝罪に顔をあげれば、ハルは眉をハの字にして申し訳なさそうに俺を見ていた。
「これは僕のワガママだから。……僕と姉さんのために」
ぐにゃりと世界が歪む。
ハルの顔が渦を巻いて引き延ばされる。胸の奥がムカムカする。
「全部、忘れて」
「っ、ハルっ!」
ハルの顔はもう判別がつかない。白かったはずの世界がどす黒く染まり……ブラックアウトした。
◇◇◇◇
今俺は夢を見ている。
なんでそれがわかるかといえば……なんでなんだろうなあ。
俺の見下ろす先に、俺がいる。俺の頭上から俺を見ていて、でももう一人の俺が考えていることも手に取るようにわかる。
俺を見下ろしながら、ああ、またかと思う。上から自分を見る夢は、昔からよく見ていた。この世界も、小さい頃からよく見ていた場所で。
記憶によれば、母方のばーちゃんちの近所だと思う。自然が豊かな、言い換えればそれ以外何もない、田んぼだらけの山と川のある緑の光景。
だから、すぐにこれは俺の夢だと知れた。
でも、今日はいつもと違う。
いつもの風景に銀色の風が吹く。幼いその子は俺にニカッと笑いかける。
何歳くらいだろう。俺の外見からすると多分十歳くらいで、銀髪のその子は四歳くらいだろうか。
日に焼けない白い頬に泥を跳ねさせて、一生懸命泥遊びをしている。
「何してんだ」
俺はぶっきらぼうに聞く。そういや子供の頃は今よりずっと口下手だったっけな。
「どろあそび」
「見りゃわかる。なんでそんなかっこでやってんだ」
どう見てもよそ行きの白いワンピース。こんなのに泥つけたら母親に怒られるだろうに。
「いいんだ、これ、すきじゃない」
母親に無理やり着せられた口か。汚して帰れば怒られるけど二度と着せられないに違いない。
ちっちゃいのに頭回るガキだ。
「おにーちゃんは?」
「え?」
「なにしてるの?」
銀髪のガキは紫色の目を俺に向けてくる。泥ハネさえなきゃ絶世の美少女だ。
俺はふと自分を見た。手には虫取り網、腰には虫取りカゴ。そういやこんくらいの頃はばーちゃんちに帰るといつもカブトムシ取りに行ってたな。
「カブトムシ取りに」
「いく」
泥だらけのガキは立ち上がる。両手をワンピースの裾で拭って……あーあ、手形くっきり。
それでもニカッと笑うあいつに、俺は苦笑するしかなくて。
「お前、名前は?」
「んと、りお」
どきりと胸が高鳴る。その名前もこの笑顔も知らないはずなのに、胸が苦しい。
「おにーちゃんは?」
「へ?」
「なまえ。おしえて?」
「……遊人。神原遊人」
「……ゆーと」
りおに呼ばれたことがなぜか嬉しくて、銀髪を撫でる。さらさらなその感触は、とても心地よかった。
場面が変わる。中学の夏休み、高校の冬休み。ばーちゃんちに帰るたびにりおに会う。どこに住んでいるのかも何歳なのかも知らない、ばーちゃんちに戻った時だけの幼馴染。
だんだん女らしくなるりおに、俺はどんどん心惹かれていく。
告白したのは、今度は俺が先だった。りおは泣きながら抱きついてくる。その柔らかなからだと甘い香りに理性が飛びそうになる。
そんな自分を見下ろしてる俺と、りおを抱きしめる俺が同時に存在してて。
そういえばこれは夢だった、と思い直す。
これは、夢だ。
こんな事実、どこにもない。
だって、リオとはまだ会ったことがないのだから。




