58.バイバイ、ナオト
「よかった……」
泣き止まないリオを抱きしめた俺は、その声に顔を上げた。
ベッドの脇にはナオトが立っている。その後ろからハルの頭が見えた。
ナオトは手ぬぐいで目尻を拭うと、リオの頭に手を乗せた。リオは俺から身を離すと、ナオトの方に向き直る。
ナオトの青みを帯びた髪の毛が、ことさら綺麗に見えた。
「もう、大丈夫ね? 理央」
ナオトの手がゆっくりとリオの頭を撫でる。リオは目を細めると、頷いた。
「ナオト、ありがとう」
頭を撫でるナオトの手が止まる。リオはナオトの手を取ると、両手で包んで手の甲にキスをした。
なんだか見ている俺まで照れてくる。目をそらしつつ横目で見ると、ナオトは穏やかな顔で微笑んでいた。
それは、子を見る母の眼差しに見えた。
「よかったわ。間に合って」
「間に合う……?」
なんのことかわからなくて鸚鵡返しに聞いたが、ハルもナオトも微笑みを浮かべるだけだ。
リオでさえわかっているらしいというのに、なんだか仲間はずれな気がして眉根を寄せる。
ナオトはくすりと俺を見て笑い、リオの頭をもう一度撫でた。
「ほんとにあんなのでいいの?」
これは俺にもわかった。……俺のことだよな、畜生。
リオは首を横に振り、それから力強く頷いた。
ナオトは、眉尻を下げてため息をつく。
「仕方ないわねえ……ま、根性だけは認めるけど、すぐ迷走するから、心配だわ」
「大丈夫、ボクがいる」
リオの言葉に、俺は苦虫を噛み潰し、ナオトは弾かれたように笑い出した。
あまりに大笑いしすぎたのか、最後には目尻に涙まで浮かべていたが。
手ぬぐいで新たな涙を拭い去ると、ナオトは微笑んだ。
「これで思い残すこともないわね」
まるで別れの挨拶のようだ、と眉根を寄せた。が、リオとハルは静かにうなずくだけで、何も言わない。
「ナオト?」
不審に思って声をかけると、ナオトは俺の方を向いてくいくいと人差し指だけで呼ぶ。
隣に座るリオを見れば、頷いてナオトの方を向く。行け、と言われているような気がしてベッドを降りるとナオトは俺の腕を掴んでベッドから引き離した。
「おい……」
「リオのこと、よろしくね。アタシは先に帰るから」
「……は?」
帰る、と言った。先にとも。
じっと見つめていると、ナオトは寂しそうな笑みを見せた。
「最後まで見届けられないのが残念だけど、きっと向こうで会えるでしょ」
向こう、という言葉が何を意味しているのか、ようやくわかった。
ナオトは帰るのだ。あの世界に。
「そ、っか」
俺は今どんな顔をしてるだろう。
帰れることと、ナオトと別れること、向こうで会ってもわからないかもしれないことへの思いがごちゃ混ぜになっているのが自分でもわかる。
喜ぶべきことなのだ。なのに。
「あら、アタシとの別れも惜しんでくれるの」
「当たり前だろっ」
夢で見た、ナオトの姿を思い出す。俺より年上で、現実ではきっと落ち着いた雰囲気の大人の男に違いなくて。
バーテンをしてると言ってた。俺の知らない店だ。同じ病院に入院してるとはいえ同じ街にいるとは限らない、偶然にもそこに行き着く可能性は限りなく低いだろう。
「あんたには世話になったから」
「言われるほど世話した気はないけど、まあ、気持ちはありがたく受け取っとくわ」
もしかしたら今生の別れなのかもしれないのに、ナオトはいつもと変わらない。
差し出してくる右手を握ると、不意に引っ張り寄せられた。
「おい……」
俺に抱きついたナオトは、リオから見えないように顔を背け、ほんの一瞬だけ肩を震わせた。
「おかしいわよね、早くここから出たいとずっと思ってきたのに、いざ出られる段になったら尻込みするなんて」
「あんた……」
「でも、アタシは選んだから。どんな現実だって構わない。聖ちゃんのいる世界でなきゃ意味ないから」
「……ああ」
ナオトの肩に手を置く。今ならその思いはわかるから。俺にできるのは後押しすることだけだ。
「早く行ってやれよ。きっとあんたを待ってる」
ぽんぽんと肩を叩くと、ナオトは顔を上げた。
その顔に不安のかけらはすでにない。
「じゃあ、またね。……もし気が向いたら店に来てよね」
赤い唇が弧を描く。ナオトの体が白く輝きだした。
「今度は現実で乾杯しましょ」
「ああ」
ナオトはリオとハルに投げキスを送り続け……光と共にいなくなった。




