57.神の国のリオ
きゅっと手が握られてリオを見下ろすと、ふるりとまつ毛が揺れた。
「リオ?」
そのまま、紫色の瞳が現れる。ぼうっと天井に向けられたままゆっくり瞬きをすると、何かを探すようにさまよいはじめた。
「……ここ、どこ」
相変わらず舌ったらずな口調で滑り出した言葉に、俺は息を飲む。
今ここにいるのはどっちだ?
現実世界のリオなのか、それとも、神の国のリオか。
……俺を、知っているのかどうか。
息ができないくらいに、いや、心臓が文字通り張り裂けそうな勢いで鼓動を打つ。
大丈夫、なんてことない。
なんて、自分に繰り返し言い聞かせながら、リオを見守る。
「ここは僕の部屋だ」
気がつかないうちに起き上がっていたハルがそう告げる。側に立つナオトもリオとハルを見つめて眉根を寄せている。
リオは声の方を顔だけ動かして見た。
「君は……」
薄い唇から紡がれた言葉に、俺は息を止める。
「君は誰?」
続く言葉を遮ったのは、ハルだった。今のハルは夢の中の遺影によく似ている。リオはしばらくハルを見つめていたが、目を瞬かせて眉根を寄せ、口を開いた。
「ボクはリオ。……神の国オルリオーネのリオ」
だが、その口調はとても頼りない。いつもの元気一杯の張りもなく、ぼそぼそと呟くのみだ。
俺は視線を繋いだままの手に落とす。
わかってしまった。
彼女は、すべての記憶を取り戻したのだと。
そして、夢だと思っていたこちらの世界にいることに戸惑い、こちらの世界での自分の記憶に戸惑っているのだ。
ここにいるのはリオであってリオじゃない。
まだベッドに寝そべったままのリオは、ハルの隣に立つナオトに目を向ける。ナオトはといえば、青い顔をして溢れそうなほど目を見開いて、リオを見つめている。
「ナオト」
呼びかける声には力がない。それでも、ナオトは眉根を寄せるとくるりと後ろを向き、目元を拭う。
「な、なによ。いつまでも寝てんじゃないわよっ」
照れ隠しと安堵の混じった泣き声に釣られないよう、俺は唇を噛みしめ、そっと握られたままの手を外そうとした。
なのに、リオの手はがっちりと俺の手を離さない。
ここにいるのはリオじゃないのに、リオに求められているような錯覚に陥り、振り払えない。
それがなおさら胸を穿つ。
不意にぐいと引っ張られて、体が持っていかれそうになる。慌てて背筋に力を込めると、俺の手を支えにしてリオが起き上がったところだった。
手を握ったままだというのに、リオは一度も俺を見ない。ナオトとハルが、ちらちら俺とリオを交互に見ているが、俺は無言を貫いた。
今のリオにとって俺がなんなのか、知りたくないから。
でも、そんな小細工は長く続かない。
上体を起こしたリオは、ゆっくりと首を巡らせて、俺の方を向く。せめてもの抵抗で、繋がれた手ばかりを見つめていると、その手が持ち上げられた。
つられて視線を上げると、銀の滝が、紫色の濡れた宝石が見えた。
「ただいま……ゆーと」
どくりと心臓が高鳴った。いや、痛いくらいに締め付けられる。息ができない。
この世のどこに、好きな女の泣き顔に動揺しないでいられる男がいるだろう。
「お、かえり。リオ」
うまく回らない舌を噛みながら、なんとか笑みを浮かべる。
いつもなら頭を撫でて、目一杯甘やかして。ナオトに呆れられる。
でも、今日はダメだった。手も体も表情だって思うように動かない。何より右手はリオに握られたままで。
それを察知したのか、ほんの少しだけ大きく見開かれた紫色の瞳は雫をこぼした。
いつものリオなら、体が大きかろうと小さかろうも関係なく、屈託のない笑みを見せて抱きついてくる。
でも。
今のリオには難しいのだろう。
表情を凍らせたまま、うつむいたリオは目元を擦る。ポタリと落ちた雫がシーツの色を変えた。
「リオ? 遊人、ちょっとアンタ、何泣かしてんのよ」
ナオトはさっさと近づくと、リオの手から俺の手を引き剥がした。その刹那、すがるような目でリオがこちらを見たのを俺は見てしまった。
夢の中で、俺を認識できなかったはずのリオが見せた顔。
養い親の中から見ていた、引き離されるリオの伸ばした手と泣き顔。
何度その手を掴んでやりたいと思ったことか。
そして今。
俺がそんな顔をさせているのだ、と気づくと猛烈に胸が痛んだ。
間違えるな、神原遊人。俺が欲しいのは、何だ?
ナオトの制止する手をかいくぐってベッドに乗り上げると、一度は引き離されたリオの手を取る。
まん丸な目をしたリオに微笑みかけて、手の甲に唇を寄せた。
「おかえり、リオ」
もう一度、苦し紛れに絞り出したものとは違う、心からの言葉を舌に乗せる。
涙目のリオは首を横に振りながら、さらに涙をこぼして抱きついてきた。
「ゆーと、ゆーとっ」
すがりつくように体を押し付けて、俺の首に腕を回してくる。抱きとめた俺は、柔らかく背に手を回し、ふわりと香るリオの髪に顔を埋めた。
「ああ。……おかえり」
それ以外の言葉が浮かんでこない。
ここにいるのはリオだ。他のことなんてどうでもいいじゃないか。
あの夢の中から、現実から逃げることもせず、ここに戻ってきた。
俺を忘れることだってできたはずだ。
そうすれば、辛い現実に向き合うことからも逃れられた。
今までと変わらず、ナオトやハルとともに楽しく過ごすことだってできたに違いない。
ハルはそのためにここを作ったのだから。
確かにやり方はまずかった。でも、今のハルはもう間違えないだろう。
リオが望む世界を、望む夢を見せ続けることはできただろう。
……もちろん、それがどういう結末につながるのか、俺にはわかる。でも、そうやって心の痛手を癒せば、いつから現実に戻れただろう。
リオはその道を選ばなかった。
それが何を意味するのか、わからない俺じゃない。
リオの銀の滝に埋もれながら、目を閉じる。熱いものが一粒こぼれた。
またまたお待たせして申し訳ありません。ようやく戻ってこれたよっ!
筆が乗ってきましたーっ!ようやくかよって石投げられそうです、ごめんなさい。
書き溜められそうなので、頑張って描きます。




