52.リオの記憶とナオトの思い
「おい、リオ!」
桜の絨毯に倒れ込んだリオを抱え上げる。軽く頬をはたいてみたが、目を覚ます様子はない。
「遊人」
声に顔をあげれば、ハルが戸口に立っていた。
「ハル、リオが急に倒れた」
「ああ。……そろそろかなと思ってた」
眉根を寄せてリオを見るハルの表情は暗い。俺はハルをにらみ上げた。
「どういうことだ」
「たぶんだけど、体に心が引きずられてるんだ」
体が心に? だとしても、おかしいだろう? 今のリオは確かに大人の体だ。でも――。
「ハル。……ここにいるリオの現実の記憶はすべて消されているんだよな?」
「ああ」
「なら、おかしいじゃないか。……覚えていないはずなのに、桜を見て懐かしいと言っていたんだ。『桜』という名も覚えてなかったのに。思い出せる記憶はないはずだろう?」
しかし、ハルは眉尻を下げて首を横に振った。
「体に引きずられてる証拠だよ。今のリオの年齢で持っているはずの記憶を、体が取り寄せようとしてるんだ。ないはずの記憶を思い出そうとして混乱したんだろう。……封じていた記憶はゆっくり夢の中で追体験するようにしておいたんだけど」
「前にリオに見せたみたいに、か?」
ハルはうなずいた。以前見せた時には夢の内容がリオの中で都合のいいように改変されていたが、あれも『子供の』リオだったからなのかもしれない。
体に心が引きずられたというのならば、今度はきちんと内容を理解できるのかもしれない。
……どれも『かもしれない』ばかりなのに、それに頼るしかないなんて、なんて歯がゆい。
「じゃあ、リオが倒れたのは?」
「心に負荷がかかりすぎたんじゃないかと思う。僕が考えていたよりリオの変化が速かった」
リオに視線を落とし、頭を撫でる。
――わくわく、でも切ない。そう言っていた。
彼女の記憶を知っている俺にはその理由が分かる。桜舞い散る中、中学校の入学式に臨んだリオは新しい始まりにわくわくしていた。両親――養い親に見せた笑顔は本物で、心底嬉しそうだった。
それを――今のリオが懐かしく思ったのだろう。
親子三人で過ごした時期の、もっとも幸せな記憶があれなのだとしたら、現実のリオにとっては羨ましい記憶なのかもしれない。
中学校の入学式、か。
これからどんな未来が待っているのか、どんな自分になれるのか。自分はどうなりたいのか。大したことなんか考えたことはなかったっけな。
毎日が楽しかった。友達もできて、新しいことを学ぶのが楽しかった。パソコンを使いこなすようになったのも中学校のクラブがきっかけだった。今の俺があるのは、あの三年間があったからだ。
リオにとってもこの三年間は楽しかったはずだ。自分の生みの親のことで悩むことはなかったようだし、紫色の瞳は常に明るい光を宿してまっすぐに前を向いていた。
それを、思い出しかけたのかもしれない。思い出しかけて――現実のリオには耐えられなかったのかもしれない。
「リオ……」
膝に抱く彼女の額にまとわりつく髪を払いのける。
「とりあえず、部屋へ運んで。眠ってる間の夢の誘導は僕がするから」
「……わかった」
リオを抱き上げるとふわりと髪の毛が風に揺れ、力ない腕がだらりと垂れる。頭が俺の肩に乗っかるように抱き直すと、ハルの後ろを歩き出した。
地下に運び込むのには抵抗した。リオがあれほど恐れていた地下だ。次に目覚めた時に見る光景があの天井だとしたら、リオは壊れてしまうんじゃないか。
そう抗弁してようやく、ハルは階上の部屋に案内してくれた。俺がナオトにぶん殴られて運び込まれた部屋――ハルの私室だ。
「地下の方がいろいろ都合がいいんだけどね」
「自業自得だ」
「……そうだね」
自嘲気味にハルは笑う。地下はリオのための揺り籠だと言っていたけれど、リオにとっては檻でしかなかったのだ。
ベッドに横たえたリオの髪を梳る。夢を見ているのか、時折眉間にしわが寄る。
「遊人、ちょっとどいて」
ハルはそう言うと俺を押しのけ、ベッドに乗りあがった。そのままリオの横に体を横たえようとするハルの肩を抑え込んだ。
「何のつもりだよ」
「……だから地下にしようって言ったのに。ここだと接触してなきゃリオに夢を送れないんだ」
「嘘つけ。『神々の戯れ』で俺に夢を送ってきた時にはお前、宮殿にいただろうが」
眉根を寄せてぐっとにらみつけると、ハルは苛立ちを隠さずに俺の手をはたき落した。
「あれはあんたの記憶に干渉しただけだ。でも今回は違う。記憶をゆがめずに見せるのは存外神経を使うんだ」
そういえば、前に夢を見せられた時は地下で一人で眠った時だった。そのあと、リオと同じ夢を見せられたのは、ハルと三人で寝た時だけだ。
「そのぐらい、宮殿の支配者としてちょちょいのちょいで何とかならねえのかよ」
「できればとっくにしてる。……邪魔しないでよ」
「……わかった」
じろりと睨まれて、一歩下がる。ハルはリオの寝顔をちらりと見てからリオの左手を握り、体を横たえた。
「遊人も見たいんなら見せるけど」
「いや。……しばらく邪魔しない方がいいんだよな?」
「そうしてもらえると助かる」
「わかった。じゃあ俺は一度『神々の戯れ』に戻る」
「うん、お願い」
ナオトには話をしておいた方がいいだろう。
部屋から出ると、玉座の間に開けた穴から『神々の戯れ』に戻った。
◇◇◇◇
結構時間が経っているはずなのに、『神々の戯れ』に戻ってもナオトは部屋に引きこもったままだった。
実のところ、ナオトの部屋がどこにあるのか俺は知らない。俺やハルの部屋は、カウンターやソファのあるフロアから直接行ける。だが、ナオトの部屋に足を踏み入れたことはない。
まあ、そもそもこの空間の支配者でもあるし、自在に部屋を組み替えて、俺たちを遠ざけているのかもしれないが。
「ナオト」
どこに向かって声をかければいいのか分からない状態で声を上げると、奥の方から音がした。音の方向に歩くと、白い壁に切り込みが現れて、見る間に茶色の扉が現れた。なるほど、必要な時にのみ扉を作っていたのか。
ノブを引いて開ければ、ソファにナオトは座っていた。俺の部屋と同じく白い部屋だが、どことなく暗い。
足を踏み入れると、ナオトは顔を上げた。
だが、いつものはつらつとしたオネエ姿ではなく、どことなく気の抜けたただの男にしか見えない。いつもの色気も冴えがない。
「ナオト、どうかしたのか?」
「……別に。それより、どこ行ってたのよ」
じろりと睨む目つきはいつも通りだが、覇気を感じない。
それにしても、こっそり出かけたのにやっぱり気が付いてたとは。さすがに空間全体を支配しているナオトにはお見通しか。
「ああ、宮殿にな」
「……ハルとリオは」
「向こうにいるよ」
「そう」
ふぅ、とため息をついて、ナオトは手振りだけで俺に向かいのソファに座れと促した。
いつものナオトなら騒ぎ立てて二人を取り戻しに行っていることだろう。
だが。
沈黙とため息でこの白い部屋が埋まりそうだ。
正面のソファに座って顔をあげれば、眉間にしわを寄せたナオトは、視線をじっと床の一点に向けたままピクリとも動かない。
あのあとずっとこんな状態だったんだろう。
ナオトの混乱は分からなくもない。
ナオトがどれだけこちらに長くいたのかは分からない。現実から切り離され、戻る方法も見つからず、捕らわれた日々のうちでいろいろ諦めてきたのだろうことは想像に難くない。
なのに、ここにきていきなり現実に戻るためにハルが動き出した。
戻れると聞いて、何も感じないはずがない。
「……どうして」
片手で顔の半分を隠したまま、ナオトがぽつりとつぶやく。
それが何に掛かる言葉なのか分からず、俺は口を閉じた。
どうして自分がここに連れてこられたのか、なのか。いつでも現実に戻せたのにどうして今まで戻してくれなかったのか、なのか。
それとも――。
「……聖ちゃん」
同棲していたパートナーの名前を呼びながら、ナオトははらりと涙を落とした。
初めて会った時の余裕たっぷりに微笑む顔。リオに優しく接する顔。俺がリオをあきらめた時に本気で怒った顔。
いつも大人の余裕を見せていたのは、現実に戻れないことを意識の外に追い出していたからなのだろう。
前にその名前を口にした時も、ナオトはあきらめていた。その人のことも、現実に戻ることも。
だから、俺が見た夢の中で自分の傍に彼がいると聞いて、戻りたいと思ったのだ。――ただの夢だというのに。
「……前の日にね。大喧嘩しちゃったのよ。原因はもう覚えてないわ。忘れちゃうぐらい些細なことだったと思うの。でも、なんでかすっごく腹が立って。その時にね――田舎に帰れって、言っちゃったのよ」
はあ、と何度目かのため息をついて、ナオトは顔を両手で覆った。
だからか。もう田舎に帰ったはずだって何度も言ってたのは。
「……ナオト。そいつは、眠ったまま昏睡状態になったあんたを放って田舎に帰るような奴だったのか?」
「え……」
驚いたように顔を上げたナオトに、俺は言葉を続けた。
「あんたが言ったんじゃないか。眠ったままこっちに来たけど、彼がいるから大丈夫って」
「それは、そうだけど……でも、ほら。そういう時って……家族、とかに連絡を、取るもんじゃない? そうしたら、あとは任せてさあ」
家族、と口にした時、ナオトはすいと目をそらした。それだけで大体想像がつく。だが、そんなことはどうでもいい。
「そいつとあんたは家族同然だったんじゃないのか?」
そう告げると、ナオトは目を見開いた。
「俺には男同士のあれこれなんてわからねえけどさ。どんな形でも一緒にいたいって思っちゃいけないか?」
以前の俺には分からなかった。何を捨てても守りたいと思うなんて、傍にいたいと思うなんて小説やアニメの中だけのこと。現実にはあり得ない。そう思っていたからな。
でも、今の俺にはわかる。
たとえは無事に現実に戻れて、リオがまだ眠り続けていたとしても。俺は彼女が目覚めるまで傍にいたい。少なくとも、彼女が目を覚ました時、最初に目に入るのが俺であってほしい。
それぐらいには参ってるよ。
一度は思いが通じたんだ。その甘さを、多幸感を捨てられるはずがない。二度と失いたくない。
ナオトもそうなんじゃないのか?
「俺なら、そうする」
沈黙が降り立った。ナオトはもう一度両手で顔を覆うと深くため息をつき、顔を上げた。
その顔は、眉尻を下げてはいるものの、いつもの柔らかな笑みをたたえている。
「……遊人」
「なんだよ」
「アンタ、ほんといい男になったね」
「……ほめても何にも出ねえよ」
「バカね、こういう時はありがとうで済ませるのが粋ってもんよ」
唇を吊り上げ、妖艶に笑ったナオトの表情にはもう憂いも涙も残っていなかった。




