5.神々の戯れ
「振り向くなってあの子は言わなかったかねえ?」
くい、と俺の左手を引っ張っているのは銀色の煙管だった。
視線を煙管に沿って動かすと、それを持つ手は白く、綺麗に伸ばした爪はピンクに塗られている。
黒かと思うほど濃い紺色の髪の毛が両肩にするりと流れる。
白い頬には薄ピンクの頬紅、目尻は赤く縁取られ、赤地に金やら銀やら派手派手な絵が染め付けられた着流しを着た――えっと、オネエさん、だよな?
声は艶はあるけど男のそれだし、着物の襟から覗く喉にはきっちり喉仏が覗いてる。
うん、正真正銘男――のはずだ。物言いがちょっとアレなだけで。
そんなことより、なんでリオの言葉を知ってるんだ?
「え、あんた」
「ナオトって呼んでよね。リオから話は聞いてるわ。さ、お入り」
何故か左手に引っ掛けられた煙管はどうやっても外れない。そのままぐいぐい引きずられるように連れられて、俺は朱色の柱の間をくぐった。
「え?」
くぐった途端、世界がくるりと反転したように感じた。
さっきまでいた埃っぽい路地の気配も何もかも消えて、無音の空間がそこにあった。リオの声も聞こえてこない。
何の匂いもしない、何のノイズも聞こえてこない。
色のあまりない、真っ白な部屋。
「ここは……?」
「ようこそ、神原遊人。ここはね、『神々の戯れ』っていうお店よぉ」
オネエは社長椅子みたいな深いワインレッドの革張りの椅子に腰掛けて、優雅に足を組んだ。白い部屋の中で椅子と派手な着物のオネエだけが妙に浮いて見える。
なぜか俺の名前を知ってる知らないオネエ。
それに、神々の戯れって……なんか嫌な予感しかしねえんだけど。
店、と言われてあたりを見回す。
確か食い物屋に向かってるって話だったはずなんだけど、店という割には何もない。カウンターぽいものもテーブルと椅子のようなものもない。
靴や服もここで手に入ると言われてたのに、ブティックらしいものもない。ブティックなら棚とか服が一杯かけられたハンガーラックとか、鏡とかなんかあるもんだろ?
「店って……何の店だ?」
「ふふ、ここは何でもありの店よ。アンタが欲しがってるものが何でも手に入る、そうねえ……魔法の店、と言ったらいいのかしら。今アンタが欲しいのは、食事と靴、それから服ね?」
「あ、ああ」
まるでリオとの会話を聞かれてたのかと思うほどだ。いや、たぶん俺の話をリオから聞いてたっていうから、そのあたりもリオから聞いたんだろう。
「じゃ、そこに座って」
示されたのは、白い椅子だった。テーブルも白い。何もない部屋に見えたけど、壁も床も白く、影もない。
――影もない?
どこが光源なのかわからないけど、オネエの座ってる椅子の足元にも影はない。
恐る恐る自分の足元も見てみた。やっぱり、影はない。
「ここは一体どこなんだ」
「だから言ったでしょ? 神々の戯れってお店だってば」
なんかこのノリはリオに似ている。ていうかこっちの人間はみんなこんなノリなのか?
この後の展開がなんとなく予想がついて、ぐったりと示された椅子に座り込んだ。
「あらあら、疲れちゃった? ここまで歩くの大変だったでしょ。靴はあとでサイズ合わせてあげるからねぇ。とりあえず食事とお酒?」
俺が返事をする間もなく白いテーブルの前に瓶ビールとコップが置かれる。何でここに来て麒麟マークのビールなんだよ、と突っ込みたくなったが、そんなことを言っている場合じゃない。
「そうじゃなくて、リオを助けに行かなくていいのか?」
「え? 何で?」
きょとんとした顔で問い返されて、俺は言葉を失った。
何でって、追いかけられて、俺を逃がすために囮になって、わんわん泣きじゃくってたんだぞ?
それをほっとけっていうのか? 十かそこらの幼女を。
まあ、中身はおっさんだけどさ。
「アンタ、ほんっとわかりやすいわねえ。リオから聞いてたけど、ここまでとはねえ」
オネエは目の前でくすくす笑うとぽん、と煙管のタバコを煙草盆に落とした。
「大丈夫よ、リオはもう戻ってきてるから。それに、あの時追っかけてきたのは……」
「呼んだか?」
視界の端でくるりとなにかが翻ったように見えた。途端、白いテーブルの目の前にリオの顔があった。
「リオ! 大丈夫だったのか?」
俺は立ち上がるとテーブルをぐるりと回ってリオの前に立ち、ぱんぱんと体を確かめるように叩いた。
「痛えよ、遊人。あんなのなんでもねえって。それより、もう注文したか?」
「え?」
「食事だよ、食事。ほら、腹減ったって言ってたろ? ここはナオトのお勧めなら何でも美味いんだ」
「ああ、そういえば」
リオが襲われてるんじゃないかと気が気でなかったせいで、空腹だったことをすっかり忘れていた。
思い出した途端にくぅと腹が鳴る。
くすくすとオネエは笑い、立ち上がった。
「じゃ、アタシのお勧めで揃えようかねえ。食べられないモノはないわね?」
やっぱり俺の返事を待たずにとっととオネエはどこかに消える。
てか、どこかに扉があるんだろうか。白い壁は目を凝らしても切れ目はわからないし、リオもどこから入ってきたのかも分からない。
そのうちに確かにいい匂いがしてきた。これはカレーだろうか。
「お、今日はカレーうどんか。熱々なんだけど美味いんだよなぁ」
にまにまと笑いながらリオはテーブルにつく。
――ま、リオが無事でいつもの笑顔が見られたからいいか。
俺もリオの向かいに座ってオネエが戻ってくるのを待つことにした。