38.店の客
水音が響く。湯船に体を伸ばし、背もたれに背を預けたまま、僕は目を閉じる。
本当は、風呂に入るなんて僕には不要だ。
でも、この空間は僕のじゃない。体を清めることも何もできない。
本当はナオトの空間だから、僕の権限で上書きできる。
でもしなかった。
僕を普通の子供のように扱ってくれるから。
ナオトは僕をリオと同じように子ども扱いする。
夜になれば早く寝ろと怒られ、朝起きたら顔を洗えと怒られる。風呂から上がれば清潔な着替えが用意されていて、髪の毛が濡れていれば乾かしてくれる。
――いやじゃなかった。
ガラスのこちら側で見ていることしかできなかったことを、自分がしてもらえるだなんて、思ってもみなかった。
まるで魔法をかけられたみたいで、自分でも浮ついてるのを自覚する。
僕の部屋の改装を自分たちでやることになったのも、面白いと思った。
部屋の権限自体はすでにナオトから渡された。でも、手を振って全部をリセットする気にはなれなかった。
ここで力を使ってしまうと、魔法が消えるような気がしたから。
部屋に詰め込まれた不気味なものたちを自分たちで運び出し、火にくべる作業も遊人とリオがいたおかげで楽しかった。
体がくたくたになったのも初めてだ。伸ばした体があちこち痛い。これが筋肉痛というものだろう。
「ハル?」
すりガラスの向こうから声が聞こえる。体を起こすと水音がした。
「ああ、よかった。のぼせてんじゃないかと思ったわよ。いい加減出てらっしゃい」
「あ、はい」
ずいぶん長いこと浸かってたらしい。
風呂場を出るともうそこには誰もいなかった。置いてあった服に着替えて脱衣所を出ると、ソファに座っていたナオトが立ち上がって僕を手招きする。
「ここ座って。髪の毛乾かすから」
言われた通りに座って周りを見回すと、遊人もリオもいなかった。ナオトはタオルで優しく髪の毛をぬぐっていく。
「あの、遊人は?」
「ああ、酔いつぶれたから部屋に運んどいたわ。だから今日はアンタはアタシの部屋で寝なさい」
「え?」
遊人が酔いつぶれたってなんで?
振り返ろうとしたら、頭を動かすなと怒られた。目の前に大きな鏡のついた鏡がせりあがってきて、ドライヤーを手にしたナオトと僕が映っているのが見える。
よく見れば、ナオトもずいぶん赤い顔をしていて、目もなんだかとろんとしている。遊人と一緒に飲んでいたのだろうか。
「リオが遊人を看病するって張り切っちゃってねえ。酔っぱらって寝てるだけだから大丈夫だって言ったんだけど、聞かなくって」
遊人の看病なら僕がするのに。
するとナオトは笑いながら僕の頭にぽんと手を置いた。
「アンタもほんと、遊人が好きよねえ。唇尖らせてんじゃないわよ」
「だってっ」
「だって、じゃないっての。……惚れた男を看病するのはリオの権利よ。譲ったげなさい」
ナオトの言葉に口をつぐんだ。
昨日だって、リオが後から来ることを知っていたら泣きついてそのまま寝たりはしなかった。……片付けが終わらなくてもう一日、一緒に寝られるのは嬉しかったけど。
仕方ない。
ブラシの刺激が気持ちよくてつい目を閉じる。
「仕方ないな……姉さんに譲るよ」
「……え?」
ブラシの手が止まった。熱風が顔の横を通り過ぎて思わずよけると、慌てたようにナオトはドライヤーをよそに向けた。
「嘘。……アンタ、リオの弟……?」
「……になるはずだった」
それからしばらく、ナオトは無言のまま僕の髪の毛を乾かすとドライヤーを切った。目の前の鏡には、眉根を寄せて考えごとをしているナオトの顔が映っている。
ナオトが手を振ると、鏡と壁は消え失せ、いつも通りの白い室内に戻った。
「……ありがとう」
「ちょっと待ってなさい」
カウンターの内側に入ったナオトはしばらくしてマグカップを手に戻ってきた。
「はい、ホットミルク」
「あ、ありがとう」
もう一つのカップを手に、ナオトは向かいのソファに座る。ふんわりと広がるミルクの香りにほんのりとはちみつの匂いが混じっている。
「……アンタの髪の毛ってきれいな色よね。はちみつみたい」
ふふ、と笑いながらナオトが傾けたカップからはアルコールの香りがする。同じホットミルクのようだから、たぶんブランデーか何かを落としたのかな。
「……父親に似たんだ」
「目も?」
こくり、とうなずく。
「じゃ、リオは母親似なのね。……そう」
ナオトは笑みを消して目を閉じ、カップを両手で包むように持ってソファに背を預けた。
「……アタシねえ、店を持ってんの」
僕は首をかしげる。
ナオトが店を持ってることは知っている。大事な人がいることも、店を自分の城だと思ってることも。そのためにがむしゃらに働いてきたことも。
何しろ……リオのためにナオトを選んだのは僕なのだから。
「……まあ今はどうなってるか知らないけど。昔ね、そこによく来る客がいたのよ。子連れでね」
ふぅ、とため息をつくナオトの顔は寂しそうだった。
「バーだし、条例に引っかかるからって夜遅くなる前に追い返したりしてたんだけどね。……ある日を境にぱったり来なくなっちゃったのよ」
いつぐらいの話なのだろう。ナオトがここに来るずいぶん前なのかもしれない。
「それから十年ぐらい経って、偶然に旦那さんと出会ってね。『また三人でおいで』って誘ったのよ。そしたらね」
僕はマグカップを膝の上に置いたまま、じっとナオトを見る。ナオトは僕から視線を外していた。
「……泣きそうな顔をしながら笑顔を浮かべて『はい』って答えたのよ。もしかして離婚でもしたのかと思ったんだけど、指輪は相変わらずしてたし、服装も整ってたから違うなと思ってね」
「で、奥さんに会いに行ったの?」
途端にナオトは刺すような視線を僕に向けた。
「まさか、行くわけないでしょ? 十年も来てないお客さんの家に何しにいくってのよ。……それから時々旦那さんだけ来るようになったのよ。でも、すっかりふさぎ込んじゃっててね。酔っ払ってはよく泣いてたわ」
「奥さんは……?」
「知ってたわよ。酔って泣いて酔いつぶれたらいつも迎えに来てたもの。……うちの店に来るたびにつらそうな顔をしてた。だから、あの子がどうしてるのか、聞けなかったの」
ナオトが言いたいことの中身が僕にはわかる。僕はそっと視線を外し、ナオトはため息を一つついた。
「あれ……リオだったのね」




