32.ゲンジツ
唇を離し、真っ赤なリオの顔を覗き込んだ途端、歓喜と背徳感が一気に流れ込んできた。
普通に誘われるように唇を重ねたけど、リオはまだ年端も行かぬ少女だ。――少なくとも外見上は。
そんな彼女の唇を奪ったなんて知れたら……。
ぞくりと背筋が震える。
「――どうした? 遊人」
「ああ……いや、これが現実だったら俺は捕まってるな」
「そうなのか?」
「……ああ」
片手で口元を覆う。
よくて女子中学生、悪けりゃ女子小学生。そんないたいけな女の子とキスしたなんて言ったら、間違いなく手が後ろに回る。
俺にこんな性癖があるだなんて思わなかった。それとも――リオだからなのか。
いや、でもあの夢が現実なら、リオはすでに十分大人の女性になっているはずで。
何も問題は……あるはずない、よな?
「……ダメ、か?」
上目使いでねだるように見上げてくるリオ。おい……どこまで反則なんだよ、畜生。
ぐいと胸の中に抱き込んで、リオの表情を見えないようにする。
「ダメなわけねぇよ」
俺のシャツを握るリオのほんの少しの動きでさえ、俺を煽ってるの、気が付かねえ……よなぁ。
空を仰いで息を吐く。
いつまで俺、我慢できっかな。
……いやいや、現実に戻るまで、いや、戻ってからもリオを見つけて、リオが未成年なら成人を待って……数年ぐらい、待てる。――待って見せる。
「リオ」
「ん」
だいぶおさまってきて――いや、マジで前屈み状態でなきゃ歩けねえ状態になってて、リオに気が付かれねぇようにすんの、すっげえ気ぃ使ったんだぜ――ようやく、リオから少し体を離す。
「――お前、現実に戻りたいか?」
「ゲンジツ……」
きょとんとした顔をするリオ。どこまでの記憶が洗浄されちまってるのか。
「現実って、わかるか?」
「……うん、落っこちてくる人が住んでた世界」
「そうだ。俺もナオトも、そこからきた」
「あ、そうか。……ナオトも落っこちてきた人だもんな」
うんうん、とうなずいている。ああ、かわいいなぁ。
「で、俺は元の世界に戻りたい。もちろんナオトも、リオも連れて」
「うん……え? オレも行けんの?」
ものすごく不安そうな顔をしてる。俺は微笑みを浮かべるとリオのほっぺたをつんつんした。
「お前が言ったんだぞ。俺がどっかに行くなら連れてってくれって。だから連れていく」
「う、うんっ」
途端に目がキラキラしはじめる。
俺と一緒ならどこにでもっていうのは本気らしい。それなら――戻れるかもしれねえ。
でも、問題はまだある。
今のリオは現実で受けた心の傷を覚えていない。どうしてここに来ることになったのか、それを克服できないと、戻っても辛いだけだ。
ここでのやり取りも――忘れてしまうんだろうか。
ふと不安がよぎる。
俺も――忘れるんだろうか。リオやハル、ナオトのことを。
いや、絶対忘れない。忘れたらきっと、一生悔やむ。
「俺の体が現実にあるように、リオの体も現実にある。もちろん、ナオトにもな」
「現実の体……それって、今のオレみたいな感じかな」
「さあな、わからねぇけど、きっとリオと変わらないんじゃねぇかな」
「……遊人も?」
俺を見上げる目に少しだけ影が見える。
「ああ、ここにいる俺と全く同じ俺がいるよ」
「そっか」
にかっと笑い、俺の胸にまた顔を擦りつけてくる。ああなんだよこの小動物。めちゃくちゃ可愛い。
「現実は辛いかもしれねえ。……いや、現実は辛い」
「……辛いの?」
「ああ、死にたいと思う時だってある」
「……遊人も?」
毎日終電まで続く仕事。上司からの叱責、クライアントからの辛らつな言葉、部下からの突き上げ。締め切り前なんか泊まり込みで、家に帰っても寝るだけ。職場に住んでると言ってもいい状態だ。
それでも死なずに済んでるのは、仕事のあとのビールが美味いからとか、自分の作ったプログラムがうまく動いたときの全能感とか、そういうのがあるからだ。
ああ、全能感っていえば、『神々の戯れ』の全権を手にしたときの全能感は半端なかった。何かを生み出せる――しかも詳細をわからなくてもいいとか――感覚は病みつきになりそうだった。
世界の創造主っていいよな。
「遊人?」
「ん? ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
覗き込んだリオの目はやはり暗い影を帯びている。
「でも、生きててよかったと思うことも多い。だから、生きてる」
「生きてて、よかった?」
「うん。――こうやってリオとも出会えたろう?」
額をくっつけて微笑む。たとえ今の現実の俺が手術後に昏睡状態に陥ってたとしても、戻ってリオを探し出せれば、そんなのは簡単にプラスに転換できる。
「うん。生きててよかった」
にかっと笑ってくれるリオに、やっぱり生きててよかったと思う。
リオは俺に寄りかかり、耳をぺったりと胸にくっつけてくる。
何か聞こえるんだろうか。俺、たしか心臓は止められたままだよな?
「なんか聞こえるか?」
「うん。――遊人の鼓動が聞こえるよ」
「え……?」
びっくりして右手で自分の首を触る。確かに脈々と鼓動が指の先に伝わってくる。
「いつの間に? ナオトが外してくれたのか?」
「ううん、オレがやった。――カミサマはもういない、ハルは遊人を傷つけないだろ? だから、もういらないと思って」
目を丸くしてリオを見つめる。
さすがはリオというべきか。ハルがこの世界の創造主なのはわかってるだろうけど、リオもハルと同じ権限を持っていることは知らないはずだ。なのに、すでに使いこなしている。
「さすがだな」
「え?」
「あ、いや。こっちのこと。そういえばナオトは? 店に戻るって聞いてたけど」
「……追い出した」
途端にリオはほっぺたをパンパンに膨らませた。ナオトを追い出す? リオが?
「へぇ?」
「だってっ! 遊人がもう戻らないって……言ったんだもんっ。その上、殴ったって聞いて……」
言われてそういえば、と左頬に手をやると、触っただけで痛かった。でもなんだか冷たいところを見ると、氷かなんかで冷やしてくれてたんだろう。
「……そりゃ悪いことしたな。あとで謝んないと……」
「何も悪いことしてないよっ」
「いや……俺がな。ナオトにも怒られたんだよ。……リオを捨てる気かって」
びくっとリオが体を揺らしたのに気が付いて、ぎゅうと腕を回す。
「やだっ……」
「うん、だから全面的に俺が悪い。ナオトにぶん殴られたのも当然だ。……ごめんな、リオ。俺は――その、お前にとってはただのおっさんだろう? だから、言えなかったんだ」
「おっさんじゃないよっ、遊人は遊人だよっ」
「さんきゅーな。……ナオトに謝るよ。今どこにいるか知ってるか?」
リオは顔を上げると扉のほうをちらりと見た。途端にすごい勢いで扉が開いてナオトが転がり込んできた。――文字通り。
「いったぁいっ! なんで急に開いたのよっ!」
したたかにぶつけたのだろう、床にへたりこんだまま涙目になったナオトと、戸口で苦笑を浮かべたハルがこっちを見ていた。




