1.リオ
「なんだよこれ」
俺、手術中なんじゃないのか?
病院の手術室まで自力で歩いてって、自分で手術台に乗って、マスク被せられて。
三秒で眠りに落ちて、次に目が覚めたらベッドの上って聞いてた。
ぼーっと見上げた天井が潤んできたなーと思って、いよいよだなと思ってたのに。
何で俺、ヨーロッパな感じの街角に立ってんの?
何度か目をこすったりしてもみたが、どうやら幻じゃないらしい。そして……ほっぺたをつねると痛い。
気のせいじゃない……らしい。
それにしても……なんだ、ここ。あちこち視線を向けてみても、見たことのない町だし、見たことのない人たち。いったいどこだ。
パスポート切れてたんじゃなかったっけ、とか、ぼんやり考えてた時。
ぐいと後ろから引っ張られて見事に尻餅をついた。とっさに出した掌が痛い。
顔を上げたら、ぎりぎりのところを勢い良く馬車が走っていった。御者が「邪魔だどけコノヤロー」とか叫んでたような気がする。
土埃が巻き上がって思わず顔を背けると、くいくいと誰かに引っ張られた。そして。
「兄ちゃん、ぼけっと突っ立ってたら死ぬぜ」
舌足らずな女の子の声だが、口調はそこらのおっさんそのものだ。
驚いて顔を上げると、紫がかった銀髪が目に入った。茶色のベストの背に流れる銀髪は腰ぐらいまである。
ちらりと俺の方を見た目は深い紫色で、ぷにぷにの白い頬といい、白いシャツから覗くぷにぷにの腕といい、紺色の短パンから伸びるぷにぷにのすねといい……どう見ても十か十二の女の子、いや美少女だった。
「え……」
「おいおい、兄ちゃん。こういう時はありがとう、だろう? ったく、親のしつけがなってねぇなあ。それになんだよその姿。寝間着でこんなとこうろうろしてんじゃねえよ」
その美少女の口から出るのは、おっさんの説教だ。
「えっと……ありがとう?」
口調は気に入らねえがこの子のおかげで馬車に轢かれずに済んだのは事実らしい。
とりあえずお礼言っとくべきだよな、と口に出すと、少女はチッと舌打ちした。
……俺、なんかしたかよ?
眉間にしわが寄る。
「気に入らねえなあ。とりあえず謝っとけばいいとかとりあえずお礼言っとけばいいってのが丸見えでさぁ。ほんと、親の顔が見てぇわ」
幼女の声でおっさんの説教が耳に流れ込んできて、何かがプチンと切れた。
立ち上がって、手についた土を払うと幼女に向き直り、上からにらみ下ろしながら口を開いた。
「……さっきから聞いてりゃ何なんだよ。俺はさっきまで病院にいたんだ。いまから手術だったんだぞ。寝間着なのは当たり前だろうが。それより一体何なんだよ、ここは。あんたに命助けられたのは感謝してるさ。でもなんで俺がここにいるのかちっとも分からねえのに、状況分かってねえのに、なんで見ず知らずのあんたに頭ごなしに叱られなきゃならねえんだよっ」
目の前の少女は、俺の胸くらいの背丈しかなかった。これが中身も口調の通りおっさんなら胸ぐらつかんで揺さぶりたいところだが、見た目幼女じゃ手も足も出ない。
俺にも一応理性はあるからな。頭に血が上ってても、十歳の幼女に無体なことをするのはまずいとブレーキがかかる。
幼女はきょとんと俺を見上げてる。
「おい、なんか言えよ」
黙ったままずっと俺を見つめてる少女に苛ついて言うと、不意に少女は前歯が全部見える笑い方でにかっと笑った。
「なぁんだ、ちゃんと喋れるじゃねぇか」
「……は?」
いきなり態度が変わった。なんつーか、人懐っこい笑顔。
「いやぁ、悪かったな。最近こっちに落っこちてくる奴の多くがまともに喋んねえ奴ばっかりでさ。コミュニケーションの基礎がなってねえっての? こっちが何言っても『すみません』しか言わないのとかさぁ。こう、覇気がねぇって言うか。寝間着なんか着てるしさぁ、またヒキニートが落ちてきたのかと思ってたんだよ。ほんと悪かったな」
文字にしたらがっはっはとなる笑い声を上げながら少女は俺の尻をバンバンと殴る。
「痛えよ。ってかなんで尻叩くんだよ」
「仕方ねえだろ? この身長なんだからよ」
この少女にしてみれば、背中を叩いてるつもりなのだろう。まあ、それは許容しておいてやろう。
「ところで」
「あぁ、そういや言うの忘れてたな」
俺の言葉を遮ると、両手を腰にあてて胸を張った少女はにかっと笑った。
「ようこそ、神の国オルリオーネへ。神原遊人」
「は?」
神の国? おり……なんたら? てか、なんで俺の名前知ってんだよ。
「てか、俺の手術はっ?」
まさか俺、死んだのか? ていうか、命に関わるような手術じゃなかったんだぞ? それとも手術前に逃げたことになんのか? これ。どこかもわかんねえ場所に。
「ああいや、たぶん死んでねえんじゃねえかな。よく聞かれるんだけどさぁ、異世界だの転生だのって、そんなに憧れなわけ?」
「へ?」
「いやさぁ、落っこちてきたヒキニートが大抵口走るんだよね。『異世界トリップ』だの『転生』だのって。で、チート能力をくれとか言い出すんだよ。そんなもんねえっての」
ぷん、と頬を膨らませて幼女は怒る。
「じゃあ……ここは何なんだ?」
俺はまわりをぐるりと見回した。舗装されてない道路脇には石造りの家が並んでいる。日本じゃまず見られない光景。どう考えたって日本じゃない。
「だから言ったじゃねえか。神の国だって。おま、頭悪いのか?」
あきれ顔で言う少女の言葉にムカッときて唇を尖らせる。
「説明になってねーよ。現実じゃねえんなら俺の妄想の世界か? 現実の俺は手術終わって寝てるだけなのか?」
「さあなぁ。この世界の外のことは分からん。ただ落ちてくる奴がいるだけだ」
「神の国って言ったじゃねえか。ここに住んでる奴らは神なんじゃねえの? あんたも含めて」
途端に少女は物凄い目つきで俺を睨め上げた。
「はぁ? オレがカミサマにでも見えるってか? じょーだんじゃねえぞ。オレはカミサマに弄ばれた側だっての」
「じゃあ、何なんだよ、お前」
俺の名前知ってて、俺を出迎えた……んだよな、きっと……このおっさんな幼女が、ただの住人であるはずがない。
「オレか? オレはな、リオ。よろしくなっ」
やっぱり前歯が全部見える笑い方でにかっと笑い、幼女はぷにぷにの手を差し出してきた。