110話:名前
「ピクルスよ。釣りに行くぞい」
まだ日も昇らぬ早朝、竹竿片手に麦わら帽子を被った頭のおかしいヤギの声がする。珍しく寝つけず、まだ薄暗い森の景色をボーッと窓から眺めていた俺は、まるで少年のような恰好をしたヤギ爺を呆れ顔で見ながら言う。
「行くわけないでしょ、状況分かってますか?」
「ほほ、確かに釣りには不向きのピーカンじゃ。しかし心配無用、そのくらいの不利はわしの『超古代文明疑似餌大作戦』でお釣りがくるわい、釣りだけに」
上手い事を言ったとばかりにニヤリと笑うヤギ爺。どうやらこいつはプラムジャム将軍をルアーにする気らしいな、別にいいけど。
「そうではなくて今は呑気に釣りなんてやってる場合じゃないでしょ」
そもそも俺がこのログハウスに運ばれて来たのが昨日の話だ。昨日の今日で何故こんな通常モードなんだこいつは?
ブンブンと竿を振り回して急かすヤギ爺に俺は大きな溜息をこぼしながら話を続ける。
「大体、ヤギじ……スクエア殿はミックスベリー将軍の護衛でここまで来たんでしょ。その任務を放って釣り遊びに興じたら駄目でしょ」
「ほ? わしはミックスベリー将軍の護衛で来たわけではないぞ? ミックスベリー将軍がわしの護衛について来てくれたんじゃ」
「いや、それおかしいだろ! あんたビースト軍を守護する四獣王だよね? よりにもよって誰に護衛してもらってんだよ!」
「……わかっておるわい。しかしどうしてもわしの口からお前に伝えなくてはならん事があったのじゃ」
いつになく神妙な面持ちのヤギ爺。
なんだ? こんな表情初めてみるぞ?
「どうしても伝えなくてはいけない事ってなんですか?」
俺も真剣な顔つきでヤギ爺に問う。
「……ここでは話しにくい。少し外に出んか?」
うつむきかげんに呟くヤギ爺に対して俺もただ事ではない気配を感じ取る。
「分かりました。外で話しましょう」
「ひゃっほーい! 釣りじゃあぁぁ!!」
拳を天に高々と突きあげて勢いよくドアを開けるヤギ爺。
えっ!? まさか釣られた!?
満面の笑みで俺の分の竿を持って来たヤギ爺に殺意を覚えながら、仕方なく部屋を後にする。
――――朝日に照らされ輝きを放つ水面。サラサラと心地よい音を奏でる清流。やって来たのは俺が先日力尽きて倒れたまさにその場所だった。
「やはりここがベストスポットじゃのぉ」
声を弾ませて水面を見渡したヤギ爺は早速岩場に腰を落ち着けて釣り糸をポトンと川へと放り投げる。
俺もあまり乗り気ではなかったが、ここまで来たら釣りをしようがしまいが一緒だと観念し竿を受け取る。絶対釣れるはずがないと確信を持ちながらもヤギ爺の隣に座って川へ釣り糸を垂らす。ヤギ爺はそんな俺を見て嬉しそうに釣りに対する心構えを講釈していたが興味がないので適当に相槌を打って聞き流す。
そう言えば結局ここで俺を助けてくれたのはヤギ爺とミックスベリー将軍だったんだよな……
抜群嗅覚で俺を追って来たミックスベリー将軍は道中で懐かしい臭いに気付いた。そうブリキ将軍のプラムジャムだ。ミックスベリー将軍は先にプラムジャム将軍に会いに行ったらしい。そこでどんな会話が行われたかは知らないが、以前と何変わらぬ関係性で話す二人の姿を見るとわだかまりはないように見えた。
三大勇者の一人だったポシェットを匿ったブリキの反逆者。それに対して完全に魔王軍側のミックスベリー将軍では和解の着地点など普通は見えない。だからこの二人は普通ではないのだろう。プラムジャム将軍の大切なものなら危害を加えるつもりはない、多分そんな感じだ。
そして一つ気付いた事もある。こいつ等魔物は魔王のことを大事だと思ってはいるが崇拝はしていない。だからこそブリキはどっちにも寄らない中途半端な立場でポシェットから魔王を、魔王からポシェットを守っていた。そこにきっと優劣はない。
それはミックスベリー将軍も、いやサイ君たちもそうだ。魔王を絶対の存在とはせず自分たちの意思で行動している。それが例え魔王に背く事になってもだ。
(そしてそんな考えを持つ魔物を生み出したのが魔王、か……)
俺が魔王ならどうするだろうか。きっと言う事を聞かない配下は排除するだろうな。いや、そもそもそんな思考を持つような魔物を作らないか。自分の言う事だけを従順に聞く下僕……そんな魔王軍を作っただろう、今のミュゼルワールがやろうとしている事と同じように。
(でも、なんでも自分の思い通りになる世界なんてつまんないよな)
川の流れで引っ張られる釣り糸を眺めながらそんな事を考える。
「ピクルスよ、何をにやけておるのじゃ?」
俺の顔を覗き込むヤギ爺。
本当に不思議なものだ、こんな考えをめぐらせる事自体が俺らしくない。だがそんな自分が妙に心地良くもあった。
「別になんでもないですよ。ところで全然釣れないですけど、ここ本当にベストスポットなんですか?」
「ふーむ、おかしいのぉ。やっぱり針がついてないと駄目かのぉ?」
今頃気付いたのか、それだよ。まあ知ってて付き合ってた俺も大概だけど。
「それよりどうしても伝えたい事って何ですか? 本当は釣りがしたいだけだったなら取りあえず川に放り投げますけど」
「ほほ、随分元気になったのぉ。じゃが安心せい、重大発表じゃ。お前の名前に関するな」
「俺の……名前?」
「そうじゃ、知らぬと思うがお前の名付け親は実はわしなのじゃ」
「へ~」
全然関心がない発表だった。本当にへ~という言葉以外出てこない。
「聞いて驚くでないぞ。お前のピクルスと言う名前の由来はな……」
由来? この名前に由来なんてあるんだ。
「お前がまだ赤ん坊の頃それはそれは可愛くてのぉ、ピクピクと必死に体を動かしておったのじゃ」
「そうなんですか。まあ赤ん坊の頃はそうでしょうね」
「じゃからピクルスじゃ」
「はぁ……?」
「じゃからピクルスじゃ」
何故二度言った!? え……っていうか終わり!?
「それだけ……ですか?」
「そうじゃ。ずっとお前に言わなければならないと思っておったのじゃが中々タイミングが無くてのぉ。やっと言う事ができたわい」
「いや、別に今もタイミング良くねーよ! 将軍に護衛させてまで言いに来るレベルの話じゃないし一生知らなくても差し支えない些事な由来だったよ!」
「ほほ、照れるな照れるな」
「照れる要素ねーよ! むしろ適当につけられた感が満載でガッカリだよ!」
白い髭を触りながら、あたかもいい事を言った気になっているヤギ爺を捲し立てる。
「そういえばピクルスよ、もうすぐお前の誕生日じゃな」
俺の言葉を遮る様に話を切り出すヤギ爺。
え? そうなの? そういや俺、自分の誕生日知らないな。
「ほほ、誕生日で思い出したが丁度50年前のわしの誕生日に魔王様から直接プレゼントを貰ってのぉ」
俺の誕生日の話終わっちゃったよ!
「魔王様の愛用しているTシャツを貰ったんじゃよ。凄いじゃろ」
魔王ってTシャツ着るのかよ!
ゴソゴソと手荷物の中から取り出して、誇らしそうにヤギ爺が広げたTシャツには大きくカタカナで『バ』と書かれていた。
ダサッ!
なんだこの『バ』って、まさか馬鹿の『バ』なのか? 自虐的すぎるだろ。
「これはちょっとセンスが……なんなんですかこの『バ』って」
「このセンスが分からんとはまだまだじゃのぉ。ちなみにこの『バ』は魔王様の名前から一文字拝借して作られたものじゃ」
「魔王の?」
「そうじゃ」
魔王にも名前があるのか。まあ考えてみれば当たり前か、魔王って役職名みたいなもんだし。
「へぇ~魔王にも名前があったんですね。なんて名前なんですか?」
俺は何気なく尋ねる。
「なんじゃ、そんな事も知らんのか? 魔王様の名前は『バク』と言うんじゃよ」
バク……?
俺はハッとする。そう言えば前にミックスベリー将軍が言っていたな。魔王は以前は俺たちビースト軍に近い姿をしていたと……バク……獏? まさか……
夢喰いの……獏?