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モグトワールの遺跡  作者: 無依
第2章 土の大陸
24/24

3.土の魔神 【02】

...083


 会議が終わってアーリアはエイローズの首都の屋敷に戻ろうとしていた。

「アーリア様!」

 両親といたはずの、若き王がアーリアに声をかける。アーリアは振り返って、セーンの元まで歩み寄って一礼する。

「陛下、わたくしは貴方の臣下。どうぞ、アーリアと呼び捨てになさってくださいませ」

「あ、えっと。アーリア」

 セーンがどもりながら言い直すのがほほえましい。

「なんでございましょう?」

「えっと。俺が正式に王になるまでにもう少しだけあるだろう? その間に二人きりで話がしたい。いろいろ聞いておきたいから、難しいだろうけど一、いや、二日くらい俺のために時間をとってくれないか?」

 セーンは大君と認められているが、戴冠式は吉日に行うことになっているため、二週間ほど時間が空いている。アーリアはその間に、当主と大君という上下関係などをはっきりしたいのかも、と考え逡巡する。

「ご命令とあらば喜んで。いつがよろしいでしょう?」

「俺なんかより、アーリアの方が忙しいだろう? そっちが決めて構わない」

 アーリアは秘書を呼び寄せ、予定を確認する。そして秘書と短いやり取り。

「三日後であれば、可能ですが」

「うん。じゃ、二日後の晩に迎えに行くよ。エイローズの屋敷にいてね。そうそう。俺、まだお屋敷とか王宮に慣れてないんだ。だから、場所移動したいから、厚着しておいて。夜は寒いから」

「は? はぁ……? あの、護衛を考えると、場所はこちらで指定しますが」

 セーンの意図が読めないアーリアが提案する。

「あ、大丈夫。危険なことなんてないから」

「え? あの!」

「じゃ、二日後、楽しみにしていてね!」

 セーンはそう言って笑うと、両親の元に駆け寄って行った。アーリアは首をかしげるが、セーンにはユンをつけている。なら、多少暗君を増員すれば大丈夫だろう。

「アーリア様、お断りした方が良かったのでは? まだまだ根回しが必要で仕事を空けられますと、会談の段取りなどが……」

 秘書が予定を組みかえながら唸った。

「わたくしたちが認めた方ですもの。支援するのは大事だけど、陛下のご意思が一番大事でしょう?」

 くすり、とアーリアがほほ笑む。先ほどの会話を思い出していた。テルルをかばおうと、頭を回転させて反論する姿。論戦は稚拙だが、とても誇らしかった。

 ――ああ、彼は変わらなかった。今もなお、輝かしい。わたくしの、憧れ――。

 魔神が彼を王に選んでくれてよかった。彼こそがこの国に必要な、導き手。ああ、彼を殺さなくてよかった。まだ理解しあえてはいないし、彼は自分を警戒し続けるだろう。でも、それでいい。

 彼のこれからの危険は自分が排除することになろう。彼が望まない汚いやり方を使ってでも。彼の輝く道を支えよう。

 正直にいえば、王にふさわしいのは自分だと思っていた。エイローズのことなら誰よりも理解していると自負していた。

 当主になるための教育を受け、そのための生き方しか知らずまともな育ち方をしていない。それでも、そのためにアーリアは努力をし、皆にそれを認められていた。

 だから、望まれるまま王になるべきだと自負していた。王に選ばれずに悔しくなかったかと言われれば嘘になる。

 十九を数えて王紋が現れず、こっそり心で涙を流した回数は数えきれない。

 王になり、エイローズを導くのはアーリアの誰にも言ったことのない、秘かな夢でもあった。

 ――でも、セーンになら。託すこともできるだろう。

 今は、かすかな期待だけがある。希望といってもいい。だって、セーンだから。唯一、アーリアが焦がれた人物なのだから。唯一、殺すかどうか、迷いに迷って決断できなかった人物なのだから。

 殺したいほど揺れて、焦がれ、悩ましいほどに想った相手。――黄金の印を戴いた、ドゥバドゥールの新たな、我らがエイローズの王。



 ルイーゼ家に戻ったアイリスとカナは会話もなく、アイリスの自室へと収まった。アイリスが人払いをする。カナはそれを確認して、アイリスに言った。

「お前は知っていたんだな」

 アイリスは困ったように視線を逸らせた。それはアイリスが相手を気遣っている時のくせだ。

 だから、カナはアイリスのそばに歩み寄り、その小さい体を抱きしめた。アイリスが驚いて身じろぐが離さない。

「俺が何も考えないで、武君になるためだけに日々を費やしている間、お前は当主になった。グラファイ叔父様ともにこやかに会話した。おれだったらとてもできない。セトを、フリア姉様を殺したんだ。ぜってー、許せない。闇討ちでもしたかもな」

 苦笑とともにつぶやかれる言葉。アイリスは首を振った。

「いいえ、わたくしも、同じ。グラファイ叔父様を許すことなんて、できませんでした」

「何言ってんだ。お前は、頑張ったよ」

 アイリスは激しく首を振った。

「いいえ。カナ。わたくしはあなたが思うような、貴方が知っているアイリスでは、もうなくなってしまったの」

「どういう、意味だ?」

 カナはアイリスを見下ろし、アイリスはカナを見上げた。その瞳は揺れている。

「わたくしが必死に当主になったのは、お兄様の仇を取るため。わたくしが当主になってはじめてやり遂げたことはなんだと思います? ……グラファイ様を殺すことですよ?」

 そして、悲しそうに笑う。

「わたくしはグラファイ様を殺すためだけに、当主になったのです」

 カナが驚いて目を見開く。二人は見つめあったまま、無言だった。

 しばらく時が流れたあとに、カナはゆっくり目を閉じた。そして再び見つめあう距離さえつめて、アイリスを抱きしめる。

「それでも、お前は頑張ったよ」

「……カナ」

「私は、この国の王を殺したのですよ?」

「魔神に見放された王だろう」

「でも、陰で殺すような、汚い手を」

「相手が先に仕掛けたことだろう?」

 アイリスの言葉を遮るように、カナがすべてこたえる。アイリスの目から涙がこぼれた。

「だから、わたくしはっ、聖女、なんて……柄じゃっ……っ」

「ルイーゼのみんながお前の行動を見て、聖女と思ったんだ。なら、それが真実だろう。民から王を奪った罪滅ぼしだとしても、事実、ルイーゼのみんなはそれで、助かっただろう? それでいいじゃないか」

 カナはアイリスの頭をセトがよくしてくれたように、やさしく撫でた。

「おまえは、よく、頑張ったよ。アイリス」

 その小さな肩にルイーゼのすべてを背負い、失った兄を思い、折れそうな手足で踏ん張ってきた彼女。

「カナ。わたくしを甘やかしすぎですよ」

「おまえだっていつも俺に甘いだろう?」

 涙が止まらないアイリスを見ないように、カナは頭をなで続ける。

「今度は一緒だ。セトはもういないけど、セトが作りたかった国を二人で作ろう。お前はセトに言ったように国一番の文君で。俺は一番の武君で。もう、お前だけに背負わせない。俺も同じものを一緒に背負う。だから、もう、ひとりで悩むなよ」

 アイリスは頷いた。涙を流しているがゆえ、声を出さずに、何度も。何度も。



「おっはよう! 諸君」

 元気よく挨拶したのは、一行を待ち構えていたミィだった。その隣には双子のキィもいる。

 キィはあの儀式というか、事件の後に宝人と同じような契約紋に似たものが顔に描かれていたが、なにせ神子という特殊な身の上のために、初めての事例として特に注目はされていないらしい。

「ミィ! ひさしぶりだな」

「お二人ともおはようございます」

「今日は一緒にごはんが食べれるの?」

 それぞれの返答をしながら、各自席につく。双子も席に着くことから、朝食を一緒にとる時間はあるらしい。

 和やかに食事が済むと、待ってました、とばかりにミィが身を乗り出した。

「あのね、みんなをモグトワールの遺跡に案内できそうな日程が決まったのよ」

「本当か?」

 セダも身を乗り出し、逆にヌグファが恐縮する。

「ありがたいのですが、大丈夫なのですか? お忙しいのでは?」

「うん。まだ戴冠式は済んでいないから、公式にはまだ王じゃないの。正式になる前に、魔神様に挨拶に行った方がいいっていうのは、いろんな人のアドバイスで」

 キィはミィの後をつなげて話す。

「一応、生贄の儀式は中断されたわけだから、魔神の意向を伺おうってこともあるんだ。だから、俺もついていくよ」

 それは、もちろん卵核が半数破壊されたこともあるのだろう。セダたちは偶然にも水の大陸でも卵核が破壊された現場に居合わせ、これで、卵核の破壊が意図的であったことが判明した。

 しかし、水の大陸では踊らされたラトリア王、ドゥバドゥールではこれまた、踊らされた神官長が、己の意思と関係なく破壊している。犯人にまだたどりついてもいない。

「わかった。日取りはいつだ?」

 グッカスが問い返す。確か、ミィたちの戴冠式まで時間はそうなかったはずだ。

「あのね、急で悪いんだけど、今日。しかも、これから。……ダメ?」

 ミィが両手を合わせて申し訳なさそうに言う。道理でキィを連れて朝から来るはずだ。

「いや、こちらこそ。お忙しい中、ありがとうございます」

 ヌグファが舌打ちしそうなグッカスが反応する前に、礼を述べた。むしろ、国の管理である施設を一学生団体が見学させてもらうのだ。日程がどうであれ、感謝すべきところだ。

 ただ、ミィの軽い感じと今日の予定を狂わされたグッカスが不機嫌になったのは、彼の性格ゆえだろう。

 隣でテラが肘でつついてけん制しているが、その辺りは承知の上か、グッカスがテラをにらみ返していた。

「そ! よかった。じゃ、一時間後にホールに集合して。結構遠いから、三日以上の旅は覚悟してね」

「え? 移動にそんなに時間がかかるのですか?」

 以前の話だと、このヴァンの屋敷からそこまで離れていないというものだったはずだ。

「この前の儀式で竜が地割れを起こしただろう? その周囲は立ち入り禁止なんだ。当然迂回路を取る。片道で一日半はかかる。本来なら往復で一日ってところなんだけど」

 キィがそう言った。

「そうそう。移動はミィも俺も偉い人になったから、護衛がつくが気にしないでほしい。あと、長距離の乗馬ができない人はいるかい?」

 キィは重ねて問うた。光と楓が挙手した。

「長距離ってどれくらい?」

 テラたち学生は乗馬の単位があるので、乗れるが長距離となると不安が残る。

「休憩をはさみながらだけど、どのくらいかかるかな?」

 傍らのファゴに問いかける。ファゴはすぐに返事を返した。

「最低半日程度は乗り続けることになるでしょう。砂漠を渡ることになりますから、予想以上の辛さかもしれませんよ」

「大丈夫かな?」

 テラがヌグファに問いかける。乗馬したまま長い距離を踏破した経験は学生の身分ならそうない。

「仕方ない。脚は遅くなるが、やっぱり駱駝を使おう」

 キィがそう言い、ティーニが頷き、手配のために身をひるがえした。

「らくだってなに?」

 キィはミィのように知らないの、とは聞かなかった。相手が水の大陸から来ているなら、駱駝を知らないことを知っているようだ。

「見てのお楽しみ」

 キィはにやりと笑ってミィを伴って退出した。一行も少し呆けたものの、出発の準備のために各自用意を始めた



 掌に乗っているのは、小さな黒い石だ。闇晶石あんしょうせきである。

「ただの伝書カラスじゃなかったわけ」

 気配もなく、背後に妙齢の女性が座っていた。背を合わせてはいるが、その間には椅子の背もたれがある。隣の席の背向かいの席に座っているのだ。

 一見、その女性と背中合わせに座っている男性が知り合いと気付く者はよっぽど観察眼があるか、じぃっとその二人を見つめていたものだけだろう。それほど、会話は小声で行われ、互いに他人を装っていた。

 女性は散歩の途中に席に腰掛け、一休みしているだけに見えたし、男性は昼休みの転寝をしているようにしか見えない。

 男性は褐色の肌に白い髪を持ち、筋肉質な腕を目立つ鮮やかな水色のコートで覆い隠している。

 白髪の頭には紫色の飾り帯。生え際の髪に編みこまれた装飾具。格好も土の大陸特有の詰襟ではないことから、他の大陸から来たことがうかがえる。

 それも、当然。この男は『暗殺師』・ランタン=アルコルだ。この大陸でランタンに知った顔で話しかけてくる他人に誰? と問うのは愚かなことだ。

 自分を知っており、知った顔で核心を突く情報を仄めかしたされたときには、特に。それは相手は十中八九、『千変師』の名を継ぐ世界傭兵・テルル=ドゥペーに違いないのだから。

「一つの闇石に複数の命令を込めるなんてのは、イェンにとっちゃ呼吸に等しいかんな」

 ランタンが寝たふりをしたまま、他人のふりをしながら会話を続ける。その口は動いてすらいない。

「そういうお前こそ、王宮に正式に呼ばれたんだろ? なんだった?」

 声だけは疲労した調子で、貴婦人のテルルが言った。

「この一連の流れ、世界公共団体のせいで、その手下と思われた俺らへけん制。あきれ返ったけど、セーンが必死に俺をかばうから、逆に調子崩したな」

 ランタンがかすかにわらう。

「見切り付け損ねたか」

「おうよ」

 テルルもかすかに笑う。そして、話題を変えるようにテルルは言った。

「で? お前の姫さんからの頼みは?」

「地竜になった神子がいたろ。なんつったっけ? 王家のお坊ちゃん」

 かけらも笑う様子を見せていない貴婦人は小声で笑う。

 互いに姿を偽って気持ちを表した口調でやり取りしているのだ。そんな芸当は世界傭兵同士ではよくみられる。特にテルルは姿を隠しているだけあって徹底している。

「キィ=ヴァンな。公式には次期王を殺そうとしたのを守ろうと魔神が派遣した使いを鎮めた神子になっているはずだが?」

「ああ、そいつ。イェンの見立てだと、早々に教育しないとまずいんだと。なんつったって、やつらのせいで世界が揺れているからな」

 貴婦人は遠くを見つめたまま、声だけ驚かせて返答する。

「そうか。じゃ、早々に一度集まるか?」

「どうだろうな。ジルが本調子とは言えないからな。しかもシャイデは動きだしたばかりだろう? 国を空けさせたらまずいんじゃないか?」

 しばしの沈黙は、テルルが対応を悩んでいるせいだろう。テルルはしばし悩んだ末にこう切り出した。

「じゃ、ルルを引っ張り出すか?」

「それこそだめだろう。ルルは呪剣のせいで、もう長くない。空元気も大陸移動は持たないだろうよ」

 二人の間にまたもや沈黙。

「だが、動き出したならやつらは早い。もう二つ卵核が落とされたからな。悠長じゃ後手に回る。次は、お前のところだろう。姫さんもそうそう寝てられないだろうよ」

「そうだな。イェンも気づいているだろう。次はうちだとな。ジルには無理してもらうか。若いしな。それにあそこは複座の王だ。すぐ帰せば問題ないよな」

 ランタンは最後には自分のいいように納得したらしい。そうと決まれば話は具体的に動き出す。

「わかった。通知はどうする? お前がするか?」

「そうだな。いや、お前に頼もう。世界傭兵とは言え、もう二座は欠番同然だ。世界一周、難儀か?」

 最後はからかいを含めてランタンが言う。テルルが苦笑する気配がある。

「老体に鞭打ちさせる気か」

「おいおい、年齢不詳が。自分の設定を悔やめ」

「はいはい。好きで千変なんじゃねーっての。じゃ、場所は? いつものとこでいいな?」

「わかってる。イェンを連れていこう。どれくらいでいける?」

 ランタンは世界に散る世界傭兵への連絡がいつ済むかを聞いた。

「二週間でいけるだろう。それより姫さん引っ張ってこれるのか?」

 世界を一周近く行うという話になるが、さすが世界傭兵だけあって大陸移動に支障はないようだ。

「寝ていたら俺が抱える。問題ない」

 貴婦人のテルルが呆れている気配が、声だけでわかる。

「おまえと違って姫さんには役割があるだろう。それにビスマスも来るなら闇はガラ空きじゃないか」

 そう言った刹那、ランタンが鼻を鳴らした。

「なら、集まるなんてのは土台無理な話だ。なぁに、何日も空けるわけじゃないんだ。それでどうにかなりゃ、むこうの不手際であって俺らのせいじゃない」

「おまえは姫さん第一だったわ。愚問だわ」

 貴婦人はそう言い、立ち上がる。小休止というにふさわしい短い時間。話は唐突に終了した。

 だが、二人の世界傭兵の間では、この短いやり取りで取り決めを交わし、互いに去っていく。無駄な会話はしない。それが世界傭兵の決まりごとなのかもしれなかった。


...084


 ドゥバドゥールは温暖な気候で、年中暖かいか少し暑い程度だ。しかし空気は砂漠を多く含むせいか砂漠に近い首都は乾燥しており、夜は冷え込むことが多い。昼夜の寒暖差が大きいのだ。

 アーリアはセーンに言われたとおり、外套を用意して、部下に仕事を任せ、セーンを待っていた。アーリアの元には暗君が数名控えているし、万が一の時も大丈夫だろう。

「アーリア様」

 ノック音と共に侍女の声がした。来たか、とアーリアは席を立つ。

「陛下がお見えになりました」

「お通しして」

 かすかな返事とともに扉を開けた執事の後ろから侍女に案内されて小柄なセーンが姿を現した。

 屋敷の中だというのにセーンは外套を脱いでもいなかった。お茶でも薦めようと準備をさせていたのだが、すぐに出かけるつもりなのだろうか。

「今晩は、アーリア」

 セーンがアーリアからすれば珍しい、緊張を含んでいない笑みを見せた。アーリアもつられてほほ笑む。

 ただ、自分はちゃんと微笑んでいるか、アーリアには自信がなかったのに加え、本物の笑みがよくわからなかった。

「こんばんは、陛下。ようこそいらっしゃいました」

「うん」

 セーンは珍しそうにアーリアが待っていた応接間を眺めている。

「外は冷えたでしょう。まずはおくつろぎになってはいかがでしょう? お茶を用意させます」

 侍女に目くばせしようとしたが、セーンが首を横に振った。

「ううん。お気づかいありがたいんだけれど、時間がないんだ。すぐに出かける」

 アーリアは少し驚いた顔をするが、今度は執事を見た。

「そうですか。では、馬車を……」

 セーンはまた、首を横に振った。

「ううん。必要ない」

 セーンはアーリアの背後にある大きな窓を見上げた。背丈よりはるかに大きな窓は毎日磨かれていることもあって曇りひとつない。

 セーンは窓ではなく、窓枠に手をついて、窓から外を見た。そして、一般的な窓の作りだからか、格子を押して、観音開きの窓を押し開けた。

 とたんに室内に夜風が吹きこみ、豪華なカーテンがまるで急に騒ぎ出したかのようにはためいて騒がしさを演出する。

「見て、アーリア。いい月夜だ」

 夜空には真っ青な月が見事な満月で昇っていた。

「はぁ」

 アーリアはセーンが何をしたいのか分からず、かといって窓を閉めさせるよう指示を出すわけにもいかず、少し思案する。

 その間にセーンがアーリアに近寄った。なぜかわきに抱えていた毛布を出すと、アーリアの肩にふわりとやさしく掛け、アーリアを毛布に包みこんだ。

「何を?」

 すると、セーンは唇に人差し指を当てて、いたずらっ子のように無邪気に笑った。

「ええっと、皆さん!」

 セーンは残された執事や侍女の方を見て、声を上げる。

「アーリア様を今からお借りします! 無事は保証します。だから、ついてきてもいいけど、邪魔にならないように視界に入ってきたりしないでください」

 執事も侍女も何を言われたか、唐突すぎて目を丸くしている。アーリア自身も頭が疑問でいっぱいだ。

 セーンはそう言ってアーリアの肩を抱き寄せた。アーリアはそんなことをされたのが初めてだったので、目を白黒させている。

 事実、アーリアは直系の娘。エイローズの当主。礼儀からしてもそんな大胆なことをする男性は皆無だったのだ。

「じゃ、失礼。しっかりつかまっていてくださいよ!」

 セーンはそう言うと反対側の腕でアーリアの腰を抱き寄せた。

「え。いったい、な、何を……ひっ!!?」

「それでは~!!」

 セーンがそう言った瞬間、セーンの周囲から円を描いて風が吹き荒れ、セーンとアーリアの体がふわりと浮きあがる。

 セーンはのんきに笑いながら開け放たれた窓から逃げるように飛び上る。アーリアを抱いたまま。

「アーリア様!!」

「へ、陛下!?」

 仰天した部下が腰を抜かしたり、窓から身を乗り出したりしていたが、セーンの身はすでに中空。誰もつかまえることはできない。が、そのすぐそばを漆黒の影がよぎる。

「おっと! さすが、優秀だな」

 セーンがつぶやきながらよける。闇の中飛び出したのは、暗君の頭を任せているユンだろう。小柄な人影がアーリアを連れ去るセーンを邪魔しようと、周囲の暗君が一斉に飛び出してくる。

「伊達に何度も暗君から逃げてないよ!」

 楽しそうにセーンは高らかに言い放ち、さらに高度を上げた。風が吹きすさび、暗君がいくら優秀でも近づくことはできないようだ。アーリアはそれを当惑しながら見下ろすことしかできない。

「陛下! わたくしを、どうしますの?」

 空を飛ぶ経験などしたことのないアーリアは、セーンがどの程度の速度で移動しているかはしらない。だが、周囲の風の音に負けないよう、声を大きくして言った。

「お楽しみだよ!!」

 セーンは明らかに楽しそうに言い放つ。セーンは空を飛ぶことに慣れているのだろう。怖がっている様子のアーリアを安心させるように強く抱きながら飛行を続けた。

 セーンは街の上空を抜け、外れの砂漠まで飛んだ。しかし、飛ぶことをやめない。

 いったいどこまで連れて行かれるのだろうか、この距離ではセーンから離れてもすぐにエイローズの本家まで戻ることはかなわない。

 ある程度の地理は把握しているものの、市街部を抜けてしまえば、どのあたりにどの町がある、くらいの知識しかアーリアには備わっていない。

 さまざまな街をエイローズの当主として回ってはいるものの、馬車に頼りきりで、自分の足で移動したわけではない。道順は知らないのと同義だ。

 それに対し、セーンはこの数年を全土にわたって逃げ回っている。地理はセーンが有利だろう。

 彼は一体何をしたいのだろうか。自分の安全や、聞かれたくないなどといった理由で自分をここまで連れだしたわけではないだろう。

 アーリアにも、王となったらはっきりさせておきたいこと、などといった理由がすでに嘘とわかっている。そうすると、アーリアを拉致に近い形で連れ出した理由がわからない。

 もしかすると、両親を軟禁したことの仕返しや、セーンを狙ったことに対する仕打ちだろうか?

「寒い?」

 アーリアがとりとめもなく考えていると、すぐ近くから声がした。そのことに内心驚きながら、抱かれているのだから当たり前か、とも納得する。

「いえ。ただ、あの……」

 不安、とはアーリアの立場や性格上言うことができない。相手に付け入るすきを与えてはいけない。

「もう少し飛ぶことになる。疲れるだろうけど、ちょっと我慢してほしい」

 セーンは申し訳なさそうに言いながらも楽しそうだ。

「ほら、見て。今日は満月なんだ。上空は地上で見るより少し大きく見えるだろう? きれいでしょ?」

 セーンがそう言って視線を上げる。するとすぐ真横に大きな水色に輝く月が見えた。

「わぁ」

 思わず歓声を上げてしまった。眩しいくらいに光かがやくのは陰の水月だ。淡く青く光る月は満月なだけあって見事に地上を淡く照らす。地上で見るより大きく、迫力があった。

「満月だと逆に星が見えづらいけど、確かにあるんだよ。西を見て」

 セーンは視線だけでアーリアに説明する。

「先月は陰の火月。その影響で、この時間帯だと地平線近くの星は、火月の影響を受けて赤く見える。もう少し宵の時間なら、反対側、東に来月の月の光の影響を受ける星が出てくる」

 確かに地面すれすれの星はみな、淡い赤い色をしているように見える。

「よくご存じですのね」

 空を見上げる暇などないアーリアは感心した。そうか、月は暦を知るためだけだと思っていた。

「夜空はきれいでしょう? 毎日少しずつ見える景色が変わる。面白いよ」

 セーンはそう言いながら、今度は星座の説明を始めた。説明を受けるとひとつの輝きでしかなかったものが、形に見える。もう、他のものには見えない。不思議なものだ。

 そんなことを話している間に、いつの間にか砂漠を抜け、山間部へと移動していたようだ。山頂には雪が残る、土の大陸でも土壌が豊かな土地。

「もうすぐ着くよ」

 セーンがそう言って山の方を目指して飛び続ける。景色が夜でもわかるほどにがらりと変わる。

 広がっているのは一面の自然な大地だけだ。人が暮らしている雰囲気などないように見えるほどに、緩やかな丘が広がっている。

「ああ、見えたね」

 セーンがそういう。山の麓まで飛んで、その麓に人が確かに暮らしていることを証明する灯りがちらほらと見えた。

 セーンは懐かしそうに微笑んで、山の麓、点在するいくつかの明かりのうちの一つの元とへとようやく飛び上ったときと同様にふわりと降り立ったのだった。

「疲れたでしょう? 長旅、御苦労さま。そして、ようこそ、サルンへ」

 セーンは肩にかけていた毛布を取って、両腕を広げた。セーンの背後にそびえたつ高大な山々。

「サルン?」

 アーリアが驚いて問い返す。セーンは頷いた。

「さ、寒いし、入って、入って」

 セーンは当惑するアーリアを無視するような形で手をぐいぐい引いて灯りの元、すなわち小さな小屋の中へとアーリアを誘ったのだった。

「ただいま~」

 セーンがアーリアの手を引いたまま、朗らかに笑いながら暖かな光の元へとはいっていく。小さな小屋の中にはセーンの両親、すなわち、ディーとリリィが同じように笑いながら二人を出迎えた。

「アーリア。夕食は食べてきた?」

 セーンが問う。アーリアは驚きながら頷いた。

「そっか。じゃ、体も冷えただろうからヤギのミルクでも飲む?」

 セーンが驚き、どうしたらいいかわからないアーリアをテーブルに座らせた。アーリアの向かいに微笑むディーがいる。暖かそうな鍋をゆっくり回すのはリリィ。……これは、なんだ?

「セーン。彼女が当惑しているよ。ちゃんと説明したのかい?」

 ディーがさすがに見かねてそう言ってくれた。アーリアは隠しようのない驚きに頷かざるをえなかった。

 リリィが湯気の立つミルクをアーリアの前に差し出した。お礼を言いながら器を受け取る。その瞬間に、温かさが手のひらを通して伝わった。

 寒いとは感じなかったが、緊張はしていたのだろう。ゆっくりといろいろなものがほどけていくようだった。

「そうだね」

 セーンがそう言ってアーリアの隣に座る。リリィはセーンの向かいに。それぞれが席に着いた。

「アーリアはきっと覚えていないだろうね」

 セーンはカップの中を覗き込みながら、さみしそうに言った。

「俺は十歳の時に、十四の君と出会った。浮いている俺を見かねたのか、君だけが俺に話しかけてくれた。俺、その時うれしかったし、君があまりにも美人だったからびっくりしたんだよ」

 セーンが思い出すように言う。アーリアは驚いたことを気づかれないよう、ひそかに息をのんだ。

「何を話したか、覚えてないよね、もちろん」

 セーンがつぶやく。アーリアは内心首を横に振った。そんなことはない。すべて覚えている。貴方こそ、きっと忘れていると思っていた。アーリアの大事な思い出――。

「きらびやかな世界。優秀な子供。そして大人たちに囲まれて、すべてを持ち合わせる君が、とてもつまらなさそうに見えたんだ、俺には。約束したんだよ? 友達になろうって。だから、サルンに君が来たら、一緒にサルンで俺がいつもしていることを一緒にして、一緒に遊ぼうって」

 かなわなかった約束。違う立場、だから、憧れて――。

「その約束を今、一緒にかなえられたら素敵だなって、思ったんだ」

 セーンはカップから顔をあげてアーリアを見つめた。照れたようにはにかみ、視線をすぐに逸らす。

「もちろん、アーリアの立場は理解しているつもりだ。サルンに遊びにくるような暇は君にはない。来ても視察とかになって、ゆっくり過ごすことはできないだろうし、君にも責任と立場がある。だから、一日位なら大丈夫じゃないかと思ったんだ」

 セーンは覚えていてくれた。それだけでもうれしいのに、約束を果たそうとして、こんな行動に出た。

「もちろん、今のアーリアはそんなことを望んでいないことは承知だけど、王になる前の、王になる俺の望みと思ってわがままをきいてくれないかな?」

 アーリアは感極まって口を開けば、何を言うかわからない気がして、ただただ、頷いた。

「そっか! よかった!」

 セーンが一安心したように、力を抜く。それと同時に彼の両親も力を抜いた。それを見て、くすりと笑う。

「明日だけれど、サルンの朝は早いんだよ。朝一に動物の世話からなんだ。といっても、俺らが飼っていた動物は今、俺の友達の家にあげちゃったから、お邪魔するつもり。アーリアも一緒に来るでしょう?」

 セーンがそういう。そうだった、そういう約束だったのだ。彼と同じ生活をして、一緒に遊ぶ。セーンには当たり前のその行動をとってみたかったのだった。

「じゃ、今日はもう寝よう!」

 セーンはそう言って飲み終わったカップをアーリアの手元からさらい、寝る支度を始めるようだ。どうやら、彼の家族も同様のようで、アーリアはどうしようと考えたが、それは杞憂に終わった。

 リリィがアーリアの肩をやさしく叩いてアーリアを促した。

「おやすみ、アーリア。母さん」

「おやすみ、セーン。あなた」

「ああ、おやすみ」

 一家が寝る前の挨拶をした。そんな挨拶アーリアはしたことがなかった。

 なにせ、物心つくことから侍女に囲まれ両親と離されて過ごしたのだから。両親とは住む建物さえ違い、週に何回か食事を共にするだけだった。

「お、おやすみなさい」

 アーリアの戸惑いの混じった挨拶を聞いてセーンが笑顔を浮かべた。それだけで心がこんなに満たされるなんて。

「ごめんなさいね、セーンのわがままに付き合ってもらって」

 リリィはセーンの望みを理解しているのだろう。アーリアをエイローズの当主としてではなく、セーンの友人として扱ってくれた。

 その証拠がアーリア様とも呼ばず、敬語を使わない態度だった。

「いえ。正直、驚いていますが、お心遣いが嬉しいです」

「そう。それはよかったわ」

 小屋の二階の一室に案内され、使用するベッドに案内された。ベッドの上にはアーリアが着たことのないような質素な毛織物の、有体にいえば、下等な衣服があった。確かに王宮や屋敷ではこんな恰好はできない。恥ずかしいとか、馬鹿にされたと思うことだろう。

 だが、この場所では自分が今着ている服のほうが浮いている。それは十分理解できた。

「その服はとても似合っていて素敵だけど、この村で過ごすにはちょっと不向きかしらと思ってね。飾り気のないものだけれど、我慢して頂戴ね。セーンは思いついたはいいけれど、こういう気遣いをできないのが男の子よねぇ」

 リリィはそう言って笑いながら部屋を出ていく。アーリアが着替え終わったころ、ノック音とともに再びリリィが姿を現した。その手には湯気の出る盆を抱えている。

「お化粧も落としてから寝たいでしょう?」

「あ、ありがとうございます」

「きっと気になるとは思うし、恥ずかしいと感じるでしょうけれどこんな田舎じゃろくなお化粧もしないのよ。口紅くらいなら私のを貸せるんだけれど。でも、アーリアさんはとてもおきれいだから、お化粧をしなくても大丈夫よ」

 お世辞ではない、自分の容姿を褒めてくれる、そんな言葉を聞いたのは初めてだった。

「じゃ、本当に明日は夜明け前から仕事をするから、早く寝た方がいいわ。おやすみなさい、アーリアさん」

「はい。おやすみなさい」

 今度はさらりと言えた。リリィはほほ笑みを残して去っていく。

 彼女は夫のディーと一緒に寝るのだろう。ずいぶん狭い小屋に思えたが、セーンはどこで寝るのだろうか。セーンの家は焼け落ちてもうないはずだ。では、この小屋は誰のものなのだろう。

 しかし、そんなことは気にしなくてもいい気がした。とにかく、明日のために寝よう。こんなに気持ちよく寝入れそうなのは久しいことだ。


...085


 翌朝、リリィに起こされるまでアーリアは寝入っていた。表で顔を洗っていらっしゃいと言われ、枕もとに顔を洗う侍女が立っている生活を思い出して笑ってしまう。

 リリィはすでに台所に立っていた。その片隅、テーブルの端っこで椅子に座ったまま毛布を巻きつけてセーンが寝ていた。顔を洗い終えてリリィの元に戻る。

「寝起きの顔は殿方には見せたくないものでしょう?」

 お茶目に笑ったリリィはそのあとで、セーンを起こしにかかっていた。目をこすりながら覚醒したセーンは毛布を落としながら体全体を伸ばし、あくびをひとつ。

「あ、おはよう! アーリア」

「おはようございます」

「おはよう、母さん」

 セーンは元気よく挨拶すると、表に出て行った、顔を洗うのだろう。と思ったらすぐに扉が開いてセーンが顔を出した。アーリアを手招きする。

「じゃ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

 セーンは元気よくそういう。アーリアは手を引かれたまま、小屋を後にした。

 身支度をする暇さえなかった。恥ずかしい気持ちと、自分がどう見られているかの不安があって、まともにセーンの顔を見ることができなかった。

 セーンはそんなささやかな女心の機微など気づくこともない。手を引いて小高い丘の方へアーリアを連れていく。、朝がやってきてわくわくしている気持ちがすべてのようだった。

「今から羊を起こすから。でも、それには相棒が必要なんだ」

 セーンはそう言って、指を口にくわえた。刹那、甲高い音が響き渡る。その音に驚いてアーリアが目を見開く。その様子を見てセーンは笑った。

「指笛。知らない?」

 セーンが吹き方を教えてくれたが、アーリアには空気の抜ける音がするだけだった。セーンがもう一度高らかな音で指笛を吹く。すると身軽な足音ともに黒い中型犬が三匹駆け寄ってくるのが見えた。

「きゃ!」

 犬は確かに知っているし、屋敷では番犬として飼われているがアーリアの目の前などに現れたことはない。アーリアに万が一のことがあっては困るからと近寄らせてもくれなかった。

「あれ? 犬も初めて?」

 セーンは座り込んで犬の首に両腕を回し、抱きしめながら頬ずりして撫でまわす。犬もセーンを知っているようではっはっと短い呼吸の間に舌を出してセーンとじゃれていた。

「よくそんなことができますわね」

 犬が初めてなので恐怖心が勝り、アーリアは近くに寄ることをためらう。

「昔からの友達。家族と言ってもいいかな。こいつが、ビー。こいつがルー。で、こいつがユー」

 三匹を示しながらセーンが三匹を平等に撫でた。

「犬は賢いんだ。ちゃんと離れていても俺のことを覚えている」

 セーンはそういうと、違う指の咥え方をした。すると違う音が響いた。アーリアがその音に驚くのと同時に犬たちが瞬時に反応し、丘を駆け上がっていく。セーンは長い棒を構えて犬を追いかけるように歩き始めた。

「さ、行こう」

 セーンはそう言って丘を登り、丘の中腹でアーリアの脛のあたりまであるの柵の一部を外した。するとアーリアから見れば小汚いとしか思えない白い色をした毛玉の塊、に見える羊が放たれる。

「これが、羊ですか?」

「そう。もうちょっとしたら毛を刈る。その毛がこういった布になる。服とか毛布とかになる」

「こんな汚い毛で、つくられているのですか?」

セーンは驚いているアーリアに笑うが、一瞬眉をひそめた。

「その、敬語やめない? 友達として連れてきたんだから。友達同士は敬語なんか使わないもんだよ」

「そうですか? あ、でも……わたくしこの話し方しか、存知あげませんの」

 アーリアが戸惑いながら言うとセーンは残念そうに肩を竦めるにとどめてくれた。

 その後、セーンは様々なことを説明しながら、次々と飼っている動物の世話を続ける。アーリアは後ろで見ているだけだったが、初めて見るものばかりで、驚きの連続だった。

 セーンはアーリアをよく見ていて、できそうなことや興味を示したことは試しにやらせてくれた。

 セーンの行うことはいわば、すべて始まりなのだ。アーリアが普段目にし、身につけるものはすべて最後のもの。洋服の始まりである布の最初である毛を扱う羊に始まり、料理で使用される乳や肉の始まりである飼育。つまり酪農だ。

 アーリアは知識として知っていると思い込んでいたことがこんなに大変で、たくさんのことをしないと手に入らないというのをはじめて実感できた。

 セーンは汚いことも、疲れることも、なんでも笑顔でこなす。これが毎日やっていたのだというから驚きだ。感心する。

 たとえば、アーリアならよだれを垂らす動物に近寄ることさえ遠慮したい。動物が食べる草を集めたり、動物を洗ってあげたり、そんな作業は手が進まない。

「慣れだよ。慣れ。生まれたときから当たり前にやっているからな、嫌って思わないのかな」

 それはアーリアが生まれた時から他人の表情を見て、相手の思考の先を行くようにしたり礼儀作法に気をつけたりそういうことなのだろう。だが、セーンは楽しそうだし、苦痛に感じてもいないようだ。

「あとは、そうだな。これをしないと食べていけない、生きていけないって知っているからかな?」

 アーリアが多少礼儀をわきまえなくとも、他人の目を気にしなくとも問題なくとも、セーンは動物の世話を怠れば動物の調子が悪くなり、生活できなくなる。

「それに結構成果が見えるしね。動物は想いをこめれば、それだけ動物も思ってくれる。これは、農業も一緒じゃないかな? 毎日天候をみて、育てるものを見て、調子を見て、それで世話をする。そうすると一年の終わりには確かに成果がある。そりゃない時もあるし、うまくいかない時もあってつらいときもある。でもさ、これをして誰かが食べておいしいって言ってくれたり、自分がおいしいって感じたりしたらそれは最高なんじゃない?」

 セーンはそう言った。朝起きてから朝食も食べずにこんなに歩き回ったのは初めてだ。

「お腹空いたでしょ? これで朝の仕事は一区切り。朝ごはんたべようか」

 セーンは手をきれいに洗うと、そう言って小屋の中に入って言った。同じように別の作業を終えたディーがリリィとともに待っていた。リリィは狭い家の台所で湯気を立てながら何かを作って待っていてくれたようだ。

「おかえり」

「おかえり、御苦労さま」

「ただいま」

 このやり取り。アーリアが物語の中だけのものだと思っていた暖かなもの。それを自分にも分けられていて、自分もそのあたたかなやり取りの中に入れて。胸が詰まるようだ。

 どう言ったらいいかわからない感情に支配されていて、アーリアは返事をするのでやっと。

「俺のことちゃんとみんな覚えていたよ。うれしかったなぁ」

「そうか。セーンがちゃんと毎日世話していたからだなぁ」

 ディーが笑う。セーンも笑っている。だが、ふと思う。セーンはこうやって動物の世話をしながら暖かな家庭で笑顔を見せるのはこれがきっと最後だ。

 セーンは王に選ばれたのだから。

 せっかく動物が覚えていても、その動物たちとあのように触れ合う機会はないだろう。

 アーリアが客人として初めて動物に触れ、たった一回の貴重な経験をするのと同時に、セーンは久しく会う動物たちとたったの一回の逢瀬で別れを告げなくてはならない。

 アーリアをもてなしてくれる。その貴重な短い時間は、同時にセーンが故郷に別れを告げる時間でもあるのだ。

「お口にあうといいのだけれど」

 リリィがほほ笑みながらアーリアからすれば質素としか言いようのないささやかな朝食を出す。

「いただきます」

 パンもかごにあふれているわけじゃない。スープだって高級な材料をふんだんに使い、一流の料理人が作っているわけじゃない。でも、おいしいと思った。

 毒味を終え、食事を共にする者もおらず、冷めた料理がテーブルいっぱいに並ぶだけ並んで、好きな物を好きなだけ食べて終わる。アーリアにとって食事とはそういうもので、食べなければ死ぬから口にするにすぎない。

 ここは違う。セーンは家族が集い、笑いと暖かな団らんの中でパンひとかけらと出汁しかないようなスープだけの食事をあたたかうちに食べる。セーンはこういう環境で育った。

 今はうらやましいと感じる。こんな環境で育ったら自分も違うだろうと思う。でも、毎日この生活に耐えられるかと言われれば、首をかしげる。所詮、自分とセーンは違うのだと実感してしまう。

 セーンたちが穏やかに話すのに耳を傾けているだけだが、アーリアは満足した気分になった。

「アーリア、これからどうする? 村に行ってみようか? それとも丘に行ってみる?」

どうやら夕方まで時間があるらしい。

「わたくしではわかりませんわ。お任せします」

「うん」

 セーンはそう言ってアーリアを促して立ち上がる。アーリアは付いて行くに留めた。

 セーンは村のあちらこちらを案内し、さまざまな発見と驚きをアーリアに提供した。セーンの昔からの友達にも会ったし、その友達どうしてささやかな遊びもした。

 アーリアは一生分走ったのではないかとさえ思うほど体を動かした。

「ちょっと疲れたね。休憩しよっか」

 セーンはそう言って村から離れて羊を放牧している丘に向かう。休憩と言う割には結構上った。アーリアが疲れたと言おうとした頃に、やっとセーンが振り返った。

「ごめんね、実はこの景色を見ておきたくって」

 セーンがそう言って振り返る。アーリアも振り返った。羊の群れは視界の下の方で広がっている。それよりも、丘の上からでは村の様子を見渡すことができた。

 セーン達の小屋は村から少し外れた場所にあることもやっとわかったし、先ほど村人とあった場所も、セーンが案内してくれたさまざまな場所がすべて視界に納めることができるのだから。

「これから、どうするのです?」

「これから? 日があれくらいに傾いたら動物の世話だけど……」

「いいえ。わたくしを連れてきてくれて本当にうれしい。いい気晴らしになりました。初めてのこともたくさんできました。でも、あなたはもうここには戻ってこれないのでしょう。あの小屋はどうしたのです? あなたの家はあの時燃えたはずでしょう?」

 セーンはアーリアの問いかけを受けてさみしそうに微笑んだ。そしてその場に腰を下ろす。アーリアも倣って隣に腰を落ち着けた。

「そうだね。アーリアには俺の気持ちを伝えておかないといけない。そう思って誘ったのも本当なんだ。エイローズのお屋敷だと緊張してうまく伝えられない気もしたしね」

 セーンは遠くを眺めている。見納めとなる景色を切なそうに。

「俺は王に選ばれた。だから、この命が尽きるまで俺はドゥバドゥールのもの。ドゥバドゥールの民のものだ。だから、そう、この景色は今日で見納めだね。俺がこの地に戻ることはきっとないんだろうね。……家はどうしたかって聞いたね。あの家は第二の家っていうとおかしいかな。もともと父さんが、大綱集を隠していた場所なんだ。名義は他人の、村人のものだけど父さんが借り受けていたもの。大綱集は神殿に戻したから、その役目を終えたんだ。で、父さんと母さんが住むことにしたんだよ」

 大綱集のための目くらましの家を造っていたとは、ディーは相当警戒していたんだろう。

「え? 住むって……」

「そうだよ。父さんと母さんはここに戻るんだ。王宮の仕事には復帰しない。二人は王位継承権も放棄しているからね。復帰するには王族の支援の下、国家資格を取得し直しからだからね。面倒なんじゃないかな。元々王宮の暮らしが好きではなかったらしいから」

 セーンが淡々と語る。アーリアは思わずセーンを見た。

「そんな……。そんなことどうとでもなります。お二人とも優秀な方なのに」

 そして口先まで出かかった言葉がある。では、彼は独りなのだ。敵しかいないような王宮で王として一人で戦わなければならないのだ。両親と気軽に会えることもできず、友人もおらず、心休まる場所もなく。

「俺が王だからといって二人がついてくる必要はないよ。俺はもう、王なのだから」

 自分から逃げ道を絶った、ということなのだろう。

「それがあなたがわたくしに伝えたかった覚悟?」

 確かに一般人だったセーンが両親と離れ、敵中に一人で挑む覚悟なのは立派だ。しかし一人で今までエイローズを治め、闘ってきたアーリアにすれば今更といえる覚悟だ。

「君とって俺の覚悟なんて鼻で笑えるものだろう?」

 セーンが笑う。自覚があったことだけでもアーリアからすれば驚きだ。

「うん、わかっている。俺の世界はまだまだ狭い。一人で戦ってきた君にはかなわない面もたくさんあると思うよ。だけどね、俺は王だから。それもエイローズの王」

「?」

「そう。君と俺は特別な関係だ。君と俺が協力しないとね。過去の過ちを犯すのは一番愚かなことだ。だけどなれ合いもいけない。君と俺はつかず離れず、いい距離を取って付き合う必要があるだろう」

 ルイーゼ家は王と当主の不仲が原因で、それを組織に付け込まれた結果が今回につながっている。ゆえに、アーリアと仲良くしたいということなのだろう。

 だが、エイローズはそういう家ではない。エイローズの当主には大君でさえ従う、絶対的な君主。それがエイローズ。そのしきたりがエイローズ内部での争いを退けた。

「それは、わたくしには例えエイローズの王でも従わないということですの?」

「そうとっても構わないよ」

 セーンは笑いながらそう言う。

「君は、エイローズの頂点、それも血の上に立っている」

 アーリアは黙り込んだ。それが、事実だからだ。エイローズは当主が圧倒的な上位に立つ家柄。そして大きな当主争いもせずに絶対的な当主が立つ家。それが軍事力を誇り、力で成り上がったエイローズ。

 実際のところ、当主候補は複数存在する。十歳に至るまでに周囲の大人たちからありとあらゆる面で当主候補は査定されている。そして当主候補たるもの、他者に負けることはすなわち、死を意味する。

 それは、アーリアは少なからず自らの手を汚すことはなくとも、他者の命を確実に摘み取ったということ。セーンはそれを知っている。

 だから、なんだというの。今までのわたくしの行為を断じたとて、わたくしの何も傷つけられやしない。

「何が言いたいのです?」

「誤解させた? 君のこれまでを否定したつもりはない。君の行為によってエイローズは今まで平穏を築いたのだからね。だが、王が部下の機嫌を伺うようなことはあってはならない。絶対的な支配を良しとはしない。エイローズはこれまで二つある頂点のうち、優勢を当主においた。でも、俺はそれに従うつもりはない」

 アーリアは鼻でセーンを笑う。

「さすが、陛下。やる気がみなぎっていらっしゃるのね。ご自分で決められたいなら、わたくしたちはそれに従いますわ。何もあなたを傀儡のように扱って今までもエイローズが栄えたわけではないのだから」

 肩をすくめて言うアーリアにセーンはその肩をつかんで、セーンの方に向き直らせる。

「俺だって子供な気持ちで王になるつもりじゃない。勘違いするな! 責任を当主だけに負わせるような真似はしない! 俺が言いたいのは自分で決めることができなくなるような、己で責任が取れないようなそんな真似をするつもりはないってことだ」

 セーンはまっすぐアーリアを見つめてそう言いきった。アーリアは驚いた。

 この国は王が三人存在する。それだけで権力が三つに分かれることとなり、命令系統も三つになる。意見が分かれれば統一は難しい。

 だが、その頂点の下にはそれぞれの支配力の高い権力が存在し、それとは異なる王家が連なる。うまく権力を動かすためには、自身の連なる王家の人員をうまく動かさねば成り立たない。

 そのためにその王家をまとめあげるのが当主。その当主を使って国を動かすのが王だ。

 エイローズでは自我の強いエイローズの民をまとめあげる当主こそがエイローズを把握し、ぱっと出のエイローズの"誰か"がなる王ではエイローズをまとめられないと悟ったのだ。

 ゆえに王より当主の力の方が強い権力関係で今まで平穏を築いた。エイローズで王が当主より権力を持ったのは王と当主が重なった時――初代のみ。

「それでうまく回ると思うのですか?」

「できないと思うの?」

 セーンが逆に問いかけたきた。そして笑う。

「逆に訊くけど、できないと本当に思うの? ここで新しいことを始められないと思うの? 俺と、万能で有能な"君"とで」

「っ!!」

 アーリアは思わず吐き出そうとした言葉を飲み込む。ここで言い返してはいけない。こんなやすやすと乗せられるような言葉運びなどに惑わされては。私が背負うのはすべてのエイローズの民なのだから。

「俺だけならできないかも。でもさ、俺には君がいる。有能なるエイローズのみんながいるじゃないか! なら、このドゥバドゥールのすべて、この国を俺が背負うのは不可能じゃないだろう?」

「ドゥバ、ドゥール? わたくしとあなたで?」

「そうさ。俺はエイローズで選ばれたこの国を背負う王なのだから当たり前だろう?」

 自分が一番に考えるのはエイローズだ。しかし、彼はドゥバドゥールを背負うという。

 当たり前だ。彼はこの国の王に魔神によって選ばれたのだから。その覚悟を負っている、そのことは認めなければ。

 彼は王の器であることは、アーリアには敵わなかったと認めなくてはならない。

「うまい言葉ですこと。それで? わたくしに頷けと仰るの?」

 セーンについていってしまいたいと思うのは、彼が魔神に選ばれた存在だからか。いや、そうじゃない。彼が、彼だからだろう。魂では理解してしまっている。

「別に。いいよ。行動で示そう。俺の決意を伝えとこうと思っただけだからね」

 肩をすくめたのは今度はセーンの方だった。アーリアに賛同してもらえず残念そうだったが、その顔には決意をみなぎらせた視線が、確かにあった。

 頭ではわかっているのに、セーンに賛同できないアーリアはそのセーンの顔をなぜか残念に思ってしまう。セーンにゆだね、自分は彼を支えることができたら。二人でよりよくできたらどんなにいいか。

 頭ではこんなにもわかっているというのに。気持ちがついていかない。

「ずるいわ」

「え?」

「あなたは、ずるい。わたくしが努力して血に明け暮れた上に成り立っているのに、それすらも超越してあなたは光かがやくの。そんな眩しさでは、わたくしはずっとあなたに手が届くはずもないの。……こんなことをせずとも命令すればいいのです。従えと。あなたなら間違ったことは起こさないと、わたくしだって理解はできているのですから」

 アーリアはセーンの隣から立ち上がってセーンの正面に立つ。そして頭を垂れて、跪いた。

「わたくしたちエイローズのすべては陛下の御為に」

 理解できている。彼はきっと良い王になる。エイローズを超え、ドゥバドゥールをこの、土の大陸をよい方に導く王になる。わかっている。

 だけど、頷けない。頷くには自分が過去に行った道はあまりにも暗い。彼の手を取ることは、己が彼の影になることは目に見えている。

 そんなのは耐えられない。今までの自分の行いと努力がすべて彼のために用意されたような結果に終わっては、自分が悲しい。

 頭では理解できているし、彼のためになることはうれしい自分がいるのも事実なのに。国と民のためになるとわかっているのに。

「そんなことを俺は望んではいない!!」

 セーンが怒鳴った。彼はまだ若い。彼はまだ国を、民を統治するその経験がない。だから、そんなことがいえるのだ。

 いずれはセーンがアーリアも認める賢帝になったのならば、頭を下げられることをすべてを捧げられることに慣れるはずだ。

「それが王のお役目です」

 セーンは跪くアーリアの両腕をとった。そして無理やり立たせる。アーリアの顔をのぞき込み、アーリアの目をのぞいて、視線を無理にでも合わせた。

「違う。俺は君と一緒に歩んでいきたいんだ! 君と、エイローズの民と、この国を治める。そのためには君が必要だなんだよ。アーリア! 君がいなくては。すべてを捧げてもらっても困る。俺は……」

 セーンが必死に言う。今までアーリアにこんな怒鳴り、激しく真剣にものを言った人がいただろうか。アーリアの世界には本音を隠し、言葉巧みに相手を翻弄して、自分の利に運ぼうとする攻防しかなかったのに。

「甘いかもしれない。無理かもしれない。馬鹿なことかもしれない。だけど、俺はみんなと一緒に、みんなの為に同じ場所で、同じ目線で物事を決めたい。俺の足りない部分は君に支えてほしい。いや、君だけじゃない。みんなに。エイローズから、すべてを変えるつもりでいたい。だから、君の理解と協力は絶対なんだ」

「甘い。そんなこと無理に決まっています。この前みたいに、すべてが歌で解決するわけないではありませんの。貴方は国民の人気がいま高い。期待度も高い。でも、それはしばらくして貴方が無能とわかれば簡単に離れていくもの。国を治めるということはそんなに簡単に仲良しこよしではできないのです。貴方だって頭では理解できていることでしょう」

「そうさ。わかっている」

「なら、そんなきれいごとでエイローズを傾かせることはできない。わたくしは当主なのだから。一番にエイローズを考える必要があるのですから」

 セーンはアーリアが言う常識に、こう返した。

「君こそわかっているだろう。これが理想だと。だけど、理想がなくちゃそういう風には変えられない。俺は困っている人がいたらみんなが手を差し伸べられるような国をつくる。そのためには治める人間が敵対していては話にならない。一方的に従うのもだめだ」

 セーンは目を輝かせて言った。

「わかるか? 俺の理想だ。俺の気持ちだよ。そして俺の決意だ。アーリア、一緒にそういう国をつくらないか? 自分たちの子供を育てるかのように、一緒に国を育てないか?」

 セーンはそう言ってアーリアに手を差し出した。

「ドゥバドゥールを支えるためにわたくしたちエイローズを使うのでは?」

「使うんじゃない。協力してもらうんだ。ひいてはエイローズのためになる」

 アーリアの心はほぼ傾いている。だが心のどこかでかたくなに頷きたくない自分がいる。その手を取ってしまえばいいだけの話だと理解しているのに。

「あなたはドゥバドゥールの王。だからドゥバドゥールのためと私を誘う。では、わたくしはエイローズのためにあなたを利用する。それでもよろしくて?」

 手をひっこめることはせず、セーンは意外そうに何回か瞬きをした。

「いいけど……俺に何をしろと?」

 アーリアはくすりと笑った。

「私的なあなたをすべていただけます?」

「?」

 セーンが何を言っているかわからない様子でアーリアを見返した。

「あなたはこの国の王になる。あなたのその身はもう国のもの。あなたはそうあろうとするでしょう。それで構わない。でもあなたは人間ですわ。半分が魔神に選ばれていても人間。ならば、ひとりで生きるのはつらいでしょう? わたくしが今までそうだったように。寄り添う人が必要では?」

「え、え? あ、あの? アーリア?」

 セーンがアーリアの言わんとしていることを理解し始め、目を見開いている。その様子を見てアーリアはようやく肩の力を抜いた。くすりと笑う。

 そうだ。彼をもらおう。今まで恋い焦がれるようにその光にあこがれてうらやんで、そして希望に、自分の生きる糧にしてきた。ならほんの少し。彼の少しの気持ちを自分に分けてもらえたら。

 彼の光のほんの一部を自分だけに当ててもらえたら。そしたら、自分のこれまでも、これからも少しは報われるのではないだろうか。

「わかりづらくていらっしゃる? なら、わかりやすく言いなおしましょうか。わたくしと婚約してくださいな。わたくしに次のエイローズを担う子を授けて下さいな。エイローズから出たエイローズの王よ」

 自分がこれまでしてきたこと、生きてきた道。それは胸を張れるものだ。だが堂々と自慢できるようなものでもない。

 セーンは違う。アーリアに語った理想を実現しようと光を纏って歩むだろう。自分はそんな彼を支えるために陰に徹することになるだろう。その生き方が嫌だとは思わない。

 それでも彼が対等にともに歩むといってくれるなら、その保証がアーリアは欲しい。

「お、俺を?!!」

 セーンが急激に自覚したのか、ほほを赤く染めてアーリアの視線を受け止めきれず目をそらした。その行動が年相応でアーリアはかわいいと感じてしまった。

「そうですわね。公的に妻にしていただかなくても構いませんわ。わたくしにはわたくしの、貴方には王という立場がありますもの。夫婦だと変な意味で共謀していると勘繰られやすいでしょうから。もしかするとお互いの立場で将来別の伴侶を持つ必要も出てくるでしょうし。正妻になりたいと申し上げているわけではございません」

「じゃ、どういう意味?」

「わたくし自分が認めた殿方との間に子が欲しいとずっと思っていましたの。確かに直系の血を残すことは大事ですからある程度覚悟はしていたつもりです。でも、婚約することで己の立場を弱くすることは耐えられません。その点、貴方は血統が低いとはいえ、魔神が選んだエイローズの王。直系の血ならそれで十分でしょう」

「違う! そうじゃなくて、アーリア様は俺のこと愛しているのか?」

 なんてうぶなのだろうか。王族同士の婚約で恋愛感情なんか存在すると思っているとは。

「愛、とは少し違うかもしれませんけれど、特別には思っていますのよ、これでも。でも、御安心なさって。貴方がわたくしを好きだとは思っていないことは存じ上げております。だからこそ、利害の一致というもので……」

「だめだよ。そうやって自分をもののように扱っちゃいけない。君が傷つく」

 セーンは逸らしていた目をまっすぐアーリアの方に戻してそう言った。

「ふふふ。まったくおとぎ話の王子様のようなことをおっしゃいますこと」

 アーリアはほほ笑む。そうだ、そういうまっすぐな所が好き。彼のそういうところが好ましいのだ。

「ふざけないでくれよ、俺はまじめだよ!」

「ええ。そうでしょう。それで、返答は? まぁ王であるならお答えは一つしかないのですけれど」

 そうやって逃げ道を断つのは常とう手段だ。話をそらせたと思ったなら甘いというもの。

セーンはおろした手を再びアーリアの方に差し出した。

「俺だって男だ。そんな秤に掛けられたくらいで君を選ぶと思われているなら、それこそ俺を馬鹿にしているよ。俺は最初に言ったはずだ。君に選んでほしいと。命令ではなく、対等でいるために。エイローズの当主であり、いままで努力してきた女傑であり、幼い友情を結んだアーリア=エイローズ、君に選んでほしいと」

「わたくしが?」

「そう。君が。アーリア=エイローズというすべてを抱えた君が選ぶ答えが俺は欲しい。君のお眼鏡にかなうのか、俺の未来が君の期待値に沿うか。君はこの俺の手を取るかは君が決めてほしい。なんだかんだ言って君は俺に本音を明かしてないのはわかっている」

 互いに手を差し出しても、相手に先に手を伸ばさせようとしている。そのまま二人はにらみ合った。求婚をした、された関係性とは思えない。

 セーンはため息をついた。アーリアが折れないとわかったようだ。アーリアも素直にはなれない。

「わかった。証を示そう。ちょっと手を拝借」

 セーンはさっとアーリアの手を取ると、確認するようにアーリアの指をなでた。アーリアは不思議そうにそれを見る。セーンは頷いた。

「うん。これなら用意していたので大丈夫そう。ちょっと、って言うには待たせるかも。座って」

 セーンはそう言ってアーリアを座らせると懐から穴のあいた石を取りだした。それは? とアーリアがきく前にセーンはどこに入れていた? と聞くような道具をいくつも広げ、石を加工し始めた。それは素早くそれでいて鮮やかな手つきで、洗練されていた。

 普通石を削るとなればどのくらいの時間がかかるか分からないが、アーリアが驚きながら見つめている間にセーンは穴のあいた石をリングに仕上げた。

 その形を見てアーリアは先ほどの行動から指輪を作っていたのだとようやく理解した。だが、なぜ指輪?

 粗方、削る作業が終わったのだろう。セーンはその後、口を開いた。透き通った声が谷間に響き渡る。

「っ!」

 アーリアは思わず息をのんだ。セーンの歌を聴いたのはこれで二度目だが、間近でこの歌は正直、反則だと思う。

 その歌に歌詞はない。リズムを取っているだけのようなのに、確かに込められた音色が気持ちを乗せて、石にその形を伝えていく。

 ただの石だったはずなのに、いつの間にか荒い部分がとれ、なめらかな表面を現した。歌が続けられる間に、光沢をもち、そして不思議な色合いを映し出している。砂岩独特の光沢と表面。

 彼は砂岩加工師を志していたのだった。アーリアは圧倒的な歌で忘れていたが、彼はおもむろに歌いだしたのではない。はじめから砂岩製の指輪を作る気だったのだ。――だが、何のために?

「さて、こんなものだと思うんだけど」

 セーンの歌が止んでいる。知らない間に立派な砂岩の指輪ができていた。それはアーリアを現すかのようにエイローズを示す、美しい赤から赤紫へと光の当たり具合で色を変えるものだった。

「ほらセダたちに会って改めて思ったんだけれど、俺ら土の大陸の人間は耳飾りは欠かせないからね。指なら装飾品として邪魔にならないだろうと思ってね」

 セーンはそう言うとアーリアの手をとった。

「これは砂岩製。言わずもがな、この指輪にはまじないをかけたよ。『君と俺以外が触れたら壊れる。』俺らの御印みたいなものだ。なぜかは、内側を見てのお楽しみ。君は右利きだよね? じゃ、邪魔にならないよう左にしよう。はっきり計っていないから、ちゃんと合うといいんだけど」

 セーンはそう言ってアーリアの左手の薬指に指輪をはめた。薬指にそれは誂えたかのようにぴったりとはまった。

「これが俺の覚悟だ。君はこれで自分の身を天秤にかけて俺と平等になろうなんて考えなくてもいい。俺は君の本音が聞ける。いいことだらけ」

 セーンはそう言ってそっとアーリアの手を解放した。アーリアは当惑した表情を隠せず、そのまま右手で指輪をすぐに外し、内側を見た。

「……『セフィラレーン』っ! これは、貴方の……!?」

「そうだ。俺の魂名。これが覚悟だ、俺の。さぁ、今度こそ君の答えを教えてほしい」

 魂名を教えることは、その者の命を自由にできることを意味している。

 砂岩製の指輪がアーリア以外の者が触れると壊れるということは、アーリア以外には知られることはないのだ。だから、セーンはアーリアに命をかけたのだ。自分の気持ちが、思いと理想が、その覚悟は本物だと知らせるために。

 それと同時にアーリアがセーンを従わせることはないと、心底アーリアを信用していると伝えている! 魂名をアーリアが勝手に扱うことはないと、共に歩む人物として信頼したということだ。

「こんなことをされたら……! わたくしこそ、答える言葉は一つしかないではありませんの!!」

 アーリアは指輪を再びはめなおす。大事に両手で包みこむ。

「わかってもらえたみたいで、何よりだ」

 セーンがほっとしたように肩をなでおろした。

「これからは共に歩みますわ。貴方の道をできる限り支援いたしましょう。わたくしの王」

 セーンの手をアーリアが握った。

「うん。よろしく」

 セーンもその手を握り返す。

「陛下」

 アーリアが手を握ったまま、セーンに言う。

「あ、その王になるとは言ったけど、正直アーリアに陛下って言われると違和感が……。セーンって呼んで」

「では、二人きりのときだけ。セーン」

「なんだい?」

「わたくしにも同じものを贈らせてくださいませ。この指輪と同じものを、貴方に」

 セーンが目を丸くした。

「いや、そう言うつもりじゃなくて! これは俺の決意の証っていうか……」

 焦るセーンにアーリアはほほ笑んでいった。

「いえ、わたくしもあなたに覚悟を形にして送らせていただきたいのですわ。それに、同じ指に同じ指輪があったら素敵じゃありません? 二人でした約束ならやはり両人が持つべきですわ」

「え? うーん、そう言われると反論しにくいような……。でも強制したみたいで感じ悪いなぁ」

「そんなことはありません。それともわたくしとて、同じだけあなたを信じていますのよ」

 セーンはアーリアに熱っぽく言われて仕方なく頷いた。

「わかった。創るよ。時間かかるけど待ってもらえる?」

「ええ。いくらでも」

 アーリアはセーンの作業をにこにこしながら見つめる。今度は作業についてアーリアが尋ね、セーンが説明する気持ちの余裕と楽しみが二人には会った。

「そうだ、何色がいい? アーリアのは勝手に俺が決めちゃったけど」

「何色でもよいのですか?」

「うん」

 アーリアはしばらく悩んでそして笑顔で言った。

「同じ色がいいですわ。お揃いになりますし、貴方がわたくしの色を身につけていると思えば、それはあなたを独占しているような気分で良いことです」

 セーンはそう言われて、再び顔を赤くした。

「そういう言い方は誤解する! からかわないでほしい」

「あら、わたくし本気ですわよ」

「え! さっきの本気? 結婚してほしいとか子供が欲しいとか。駆け引きじゃないの?!」

 セーンが真赤になって聞く。からかっている気分になってアーリアはたいそう気分が良くなった。

「本気ですわよ。わたくし自分が認めていない殿方との間に生まれた子など愛せない気がしますもの。一応立場は幼少のころより理解しておりますけれど、色恋に夢を見るのは女性の特権でしょう? なら、自分で決める立場にいれて、素敵な相手が見つかって、周囲も認めざるを得ない相手なら本気になるというものですわ」

「それが、俺?」

「ええ。ご存じありませんの? わたくし、貴方の事を六年前から認め、特別に感じておりましたのよ」

 セーンが驚きに目を見開く。その後、すぐにほほを染めて下を向いた。

 作業に集中しているように見せかけて赤く染まった耳がセーンの気持ちを移しているようでアーリアはセーンを飽きることもせずに見つめていた。

「できたよ。まじないは込めるの?」

「ええ。同じものを。貴方とわたくし以外が触れると壊れる、と。指輪の内側にはこう記してくださいませ。『アリフィリア』と。わたくしの魂名です」

「アリフィリア……素敵な名前だね。わかったよ」

 セーンはしばらくしてまた歌いだした。同じものを作るのに、歌は違うものだった。ずっと続いていればいいのに、と思うような歌が終わって、セーンの手にはアーリアと同じ指輪が載っている。

「見て」

 セーンはそう言ってアーリアの手のひらに指輪を落とす。アーリアが内側を覗き込むと、確かにアーリアの魂名が刻まれていた。

 ふっと自嘲する。まったく、流されて自分も愚かな真似をしたものだ。苦労せずして王の魂名が手に入ったのに、自分からそれをふいにするなんて。少し前の自分ならあり得ない。

「確かに。わたくしにはめさせてくださいますか?」

「いいよ。どうぞ」

 セーンが左手をアーリアに差し出すので、アーリアはセーンがしてくれたように薬指にそっと指輪を通した。

「これでお揃いですわね」

 アーリアが本当にうれしそうに微笑むので、セーンはふっとほほ笑んだ。

「いいよ。結婚しよっか? アーリアがまだその気ならね」

 アーリアが目を見開いた。そしてそのあとにまるで花が咲いたかのように微笑んだのだった。

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