2.地竜咆哮 【03】
...075
「どうしてこのような事に……」
それは白亜の宮殿と言わんばかりの美しい由緒ある建物。ドゥバドゥールの民なら誰しも知るその建物を神殿と云う。その奥へと続く場所。一般だけではなく、神官も官位が低いと脚を踏み入れることもできないような場所。その場所で数人の高位の神官に囲まれながら初老の男性がうなだれていた。
「神官長」
「ここも危険なれば、お早くの避難を……」
周囲の神官がそう言って神官長を囲む。
「ああ……」
神官長はそう言いながら緩慢な動作で立ち上がった。
「だが、なぜ……」
神官長の悩みはその一点に尽きる。どうして、どうしてだ、と。
「神官長様……」
「おお!」
新たに現れたのは、若い神官だった。
「外は混乱に見舞われております。ここもいつまで無事かわかりませぬゆえ、急いで避難をお済ませくださいませ」
「ああ、わかっている。だが、何故なのか。何故、魔神様はお怒りを露わにされたものか?」
ようやく歩き出しながら神官長はそう言う。隣に追従するように若者が斜め後ろに並んだ。
「やはり、魔神様は生贄の儀式が失敗したからではないかと……」
若者も何が何やらと言った表情のまま、神官長に言う。神官長も、追従する神官たちも不思議そうだ。
「しかし、あの場ではああするしかなかったのだ! 魔神様が見ておられるやもしれぬ生贄の儀式で偽王の名乗りを許すわけには……どうすればよかったというのだ」
最後はうなだれ、しぼむような口調で神官長は言った。
「はい。神官長のなさった事に間違いはございません」
若者も頷く。周囲の神官たちもつられるように頷いた。
「とにかく、ここは危険ですし、王家がどう動くかわかりません。神罰を下した神官が王家の穢れた手にかからぬとも限りませぬゆえ、早くこの場を離れましょう」
「そうか? この大事に神殿におらぬ神官長とはいかがなものだろうか」
「いえ、途方に暮れた民を導くことが神官長の務めでしょう。こういう事態だからこそ、民の前で祈りを捧げる我らの姿が救いとなりましょう」
足早に移動しようとする一団に、奥から新たな神官が駆けてきた。
「神官長!!」
「どうした?」
駆け寄った神官は跪き、早口で述べた。
「避難してきた民で神殿の入り口はふさがれております。神殿への避難を求めています。神兵が押さえるのも時間の問題です。いかがいたしましょう」
神官長は困った顔をする。そしてすぐに決断した。
「一般公開されている大聖堂までは侵入を許しても、その奥は聖なる場所。いかなる理由があろうとも、神官以外の侵入は許さぬ。全神兵にそう伝えよ」
そう命令された神官は困った顔を隠せず、逆に困惑して言った。
「この状況下で民を拒否すれば、何が起こるか……」
そう言った瞬間、隣の若者が怒鳴った。
「愚か者! 神聖な神殿をなんと心得るか! これだから魔神様のお怒りに触れたのだ! 民にはそう申し伝えよ」
「は、はい」
隣で怒鳴った若者を頼もしそうに神官長は見て、そして自信を持ったように頷いた。
「そうだ」
そう言い去って一行は神殿の奥へと踵を返す。
「このままでは暴徒と化した民に、御身を晒してしまいますね……」
若者がそう言って憂慮な顔をする。神官長も深刻な顔で頷いた。民を救うと言ったことも忘れ、民から逃げようとする神官長とその連れ。
「奥の通路が外に通じております。禁踏区域を使いましょう」
「しかし、あの場所は……」
禁踏区域への侵入が許されているのは宝人と王のみだ。
「何を仰います。ここは神殿。貴方様はこの神殿の頂点に立つ尊きお方。その神官長である貴方様が立ち入りを許されない場所等あるはずもございません」
若者が大げさにそう言うと、神官長はそうかとただ呟き、力強く脚を進めた。
内部を熟知している若者は迷うことなく最短距離で誰も普段は立ち入らない神殿最奥――禁踏区域にたどり着いた。
「ここが……私も初めて来たが……」
「どうぞ、神官長様」
若者が扉を開ける。中は何もなかった。灯りすらないが、神聖な空間だと言う事が肌で感じた。ごくりと知らずの内につばを飲み込む。雰囲気に圧倒され、神官長は脚が止まる。
「お早く、神官長様」
若者に言われて、我に返った神官長は、光晶石でつくられた心もとない灯りを持った神官の後に続いた。
「っつ!」
灯りを持った神官が暗いゆえに何かに躓いた。
「どうした?」
「なにか、石の様なものがあるようです。お足もと、お気をつけください」
部屋の中に入って奥に進むにつれ、確かに何かが床に転がっている。誰も立ち入らないとはいえ、何にそんなに躓いているのか、神官長は分からなかった。
「邪魔だな……」
周りの神官が何かを蹴飛ばす。からーん、という軽い音がして何かが蹴られ、どけられたようだ。
「できれば、この邪魔な石を蹴飛ばしてくれ。これでは足元が不安だ」
「はい、神官長」
周囲の神官が応えた。からーん、こーんという石を蹴飛ばす音がしばらく響いた。
「禁踏区域は一体どこまで続くのだ?」
暗いのでわからないが、傍にいるはずの若い神官に神官長は尋ねる。
「おい、どこにいる?」
若者の声は返ってこない。そこで、神官長はふとその若者の名前を思いだせない事に気付いた。あの頼れる、魔術に強く、どの神官よりも魔神や大綱、神官の在り方に秀でた若く優秀な――誰か。
「おい、あいつはどこだ?」
「え? どなたのことでございますか? 神官長」
「あいつだ、ここまで案内してくれた若い神官がいただろう?!」
周囲の神官は不思議そうに黙りこみ、神官長にとって信じられない事を言った。
「そんな者おりましたか?」
「なんだと? 誰も覚えていないのか?! あいつを!」
暗い周囲。急に認識できなくなった若者。魔神の怒り。急に不安が膨らみ、神官長は怒鳴る。
「シっ! お静かに」
周囲の神兵が急に言った。喘ぐように短く呼吸をし、神官長は気持ちを落ち着かせようとした。
――あれは誰だったんだ?
急速に、砂時計の砂のようにさらさらと若者についての記憶が失われていく。いつどこで出会った?
「何者かが跡をつけているようです! 神官長、お早く!!」
神兵がそう言って神官に先に行くように示す。わけのわからぬまま、神官長は誰とも知れぬ手を引かれて足元に転がる石の様なものを蹴り、踏みつぶし進んでいく。不安が襲い、いつしかそれは駆け脚になっていた。
「待てぇえええ!!」
若い男の声が響き渡り、同時に、扉が激しく破られた。
「てめぇら、ここで何してるんだ!?」
その声を聞いた瞬間に、神官長は何かが弾けた。自分がしていた事は間違っていたのではないか。不安が膨らみ続けて、そして許容量を超えて弾けた。
神官長は我知らず叫んで、ひたすらこの暗闇を駆け抜けた。
「ったく、奥ってどこまで行きゃいいんだよ!」
セダがカナに聞こえるように怒鳴る。民衆が神殿に救援を求めて集まっていたので、カナは方向を変え、神殿の中庭に続く通路を突っ切った。いつもなら神兵がいるのだが、この災害のためか、誰も中庭にはいない。それをいい事に馬でそのまま乗り込んでいるのだ。
「キィでもないと神殿の内部を把握しちゃいねーよ」
カナは馬を走らせながら言う。しかしいつも行った事のない場所でも方角さえわかればなんとかなる。神殿は通路が広く、馬を走らせることができた。カナでさえここまでやろうとは思っていなかったが、緊急時のため仕方ない。蹄の音が怖い位に通路内で反響していた。
「だが、神殿の広さを考えれば、そろそろ禁踏区域に入ると思う!」
人が歩けばかなりの広さと複雑さだが、馬を全速力とは言わずともかなりの速度でほぼ無人の神殿内を走らせているのだから、かなりの時間短縮にはなっているはず。
「にしても誰もいねーな。神殿ってそうなのか?」
「いや、いつもならうじゃうじゃいるがな。ほとんど王家の端っこの人間の集まりだ。とっくに逃げ出したんだろう。敬虔な神官なら大聖堂辺りで祈っているだろうさ」
「へー」
おかげでこんな暴挙を誰にも知られていないのだから良しとする。
「おい!」
セダが言った瞬間、カナが馬をとめた。
「通路が……ない?」
一本道で続いている通路が突然消えたように何もない。
「いや、違う。暗いんじゃないのか?」
カナがそう言って近寄る。セダも抜刀して歩み寄った。
「本当だ。暗いだけか。……今、昼だよな?」
振り返ったセダとカナは、今まで通って来た通路が暗くもなく、むしろ積極的に日の光を取り入れる構造であることを確認した。
「おー、ビンゴ?」
「あやしぃ~」
二人はそう言うと、暗闇をものともせずに進んでいく。すると脚が何かにぶつかった。そう思うほど周囲は夜と思うほどに真っ暗だった。
「お前、光晶石持ってる?」
カナが尋ね、セダが頷いて光を灯す。仄かな光だが、ぶつかった物がなにかは判明した。
「神官??!」
カナが驚き、セダが慌てて呼吸を確認する。
「気絶しているだけみたいだ。目立った外傷はない」
カナが抜刀した。見えずとも二人の息が合う。
「扉だな」
セダが目の前の何かに触れて言う。材質と壁の様な感触から、扉と判断した。壁で行き止まりのわけがない。なにせ、この通路の設計と目の前で倒れているこの神官。不自然さが際立っている。
「奥で音がする」
カナが扉に当てていた耳を離して頷いた。そして息を吸い込む。
「待てぇえええ!!」
カナが叫んだ。セダとカナが同時に扉を破壊する! 破壊された扉が激しい音を立てた。それと同時に複数の足音が響き渡った。何者かが逃げようとしている空気が伝わる。
「てめぇら、ここで何してるんだ!?」
セダも叫んだ。
「こう暗くちゃ……」
セダが短く叫ぶ。ここが禁踏区域なのか、それともただの通路なのかそれすらもわからないのだ。
「この闇は魔法かなにかだろう。じゃなきゃおかしい」
カナが後ろを振り返る。扉を破壊したのに、光が差してこないからだ。
「だが、行くしかないだろ」
「ここがもし禁踏区域なら卵核がどこにあるかわからない。うかつに動いていいものか」
セダが追いかけようとしたカナを留める。カナとセダは脚を止めてしまう。だが、逃げている人物が逃げている以上妖しいことこの上ない。早く追いかけなければならない。
「あー!! もー!!」
カナが怒って、剣を床に突き刺した。
「うっとおしいな! 闇よ、晴れろ!!」
カナがやけになって叫んだ瞬間、カナが剣を突き刺した場所から闇がさーっと晴れて室内に光が差し込む。
「え? ええ!!?」
やった当人が一番驚いている。カナは気付かなかったがカナの項には黒い紋様が光っている。カナは王に選ばれたことで、その魂は半人である。闇のエレメントを知らず操ったのだ。
「でかした!」
セダがそう言って駆けだそうとして止まる。
「おい!」
セダが足元に散らばる小さな石を示した。
「やばいぞ!」
カナも駆けだそうとして留まる。
「まさか、これが?」
「たぶん」
二人は脚を止める。砕けた石の欠片としか思えないもの。だが、割れた卵によく似た形で、なおかつその岩は妙に光っていた。奥には割れていないものもいくつか存在しており、その割れていない物は命を主張するように、それはまるで鼓動を刻むように瞬くように光っている。
「……あれが、卵核」
「じゃ……」
二人とも絶句した。水の大陸のように全て破壊されたわけではない。総数はわからない。だが、確実に踏みぬかれ、壊れている卵核も多くある。おそらく半数は壊れてしまっている。
「俺たちは……」
「遅かったんだ!!」
セダはそう言って武器を投げ出し、壊れた卵核を元に戻らないと知りつつ、欠片を集めた。欠片を集めるだけで両腕が一杯になる。
――アアアアアアア
――イアァアアアアアア
「……」
耳に聞こえたわけではないのに、悲鳴が聞こえた気がした。セダには覚えがある。
――ああ、水の大陸の時と、同じだ。
「何か、聴こえたよな?」
カナが同じように欠片を大切に拾い集めて言う。
「遅かった」
セダが外の様子が分からないまま、呟いた。
「宝人が、怒り狂っている」
「どういう、ことだ?」
セダは厳しい目をして、拾い集めた欠片を生きている卵核の周囲に静かに置いた。カナもそれに倣う。
「行くぞ。やつら、逃がしちゃならない」
「ああ」
武器を拾い、セダとカナは卵核を避けて駆けだした。カナは水の大陸での事件を知らない。だが、状況を理解せずとも、魂が理解していた。
――人が、また侵してはならぬ罪を犯したと。
...076
「私たちは、どうなるの?」
「王を射るような真似をするから、魔神様がお怒りになったんだ」
「どうが、ご慈悲を」
「魔神様、お助け下さい」
儀式場から、その付近の町から逃げたくとも逃げられないドゥバドゥールの民は、上空に浮かぶ土の竜を呆然と見上げながら祈り、呟き、うなだれる。
「あの、地竜は我々を滅ぼすのだろうか」
「魔神さまの使いならば、そうだろう」
「ああ、お助けくださいませ」
一気に絶望に飲まれ、目に光を灯さない民が救いを求めてぼうっとする。逃げなければとか、周囲の人を助けなければ、等と言った思考が働かないのだ。あまりの恐怖で通常の思考が麻痺しているのかもしれない。
「助けは来るよ!!」
――そこに絶望を切り開くように、叫ぶ少年の声。人々はのろのろとその声の方に視線だけを向けた。
「さあ! 立ち上がって!」
少年が力強く励ます。だが人々は動けない。襲い来る不安と絶望が重すぎて。
「魔神様が罪もないみんなを罰するわけないだろう! さあ! 立って、動いて!」
少年がそう言う。側にいる老婆に手を貸して、立ち上がらせた。迷惑そうだった老婆も立ち上がらせてくれた少年を見て、否、正確にはその少年の胸に光り輝く印を見て、眼を見開いた。口を手で多い、そして言葉を無くして、目から涙を流す。
「ああ、ああ」
少年の姿を見た誰もが同じように、涙を流した。生きる事に、生き延びようとする事に無力だった人々が目に光を取り戻して行く。
「ああ! 貴方さまは!!」
まるで少年から光を発して居るように、この少年こそが、眩しく光り輝く存在に見えた。
「陛下! 大地大君陛下!!」
その存在が、魔神が遣わせた、人の頂点・この国の導となる者!
「そうだよ。魔神様はこの国を、みんなを見捨ててなんかいない! 俺は王に選ばれた!」
セーンは生きる希望。この国はまだ魔神に見捨てられたわけではないという。
「聞いて! もうしばらくすれば王家がみんなを救出するために動き出す! みんなは王家に従って安全な場所に避難を!! 動けない人には手を貸して! みんな協力して助けあうんだ!」
「陛下」
「陛下!」
この小さな少年の存在そのものが、勇気を力を与えてくれるようだ。それほどこの少年が王と認識できる事、励ましてくれる事が力になる。
「しかし、陛下。あの地竜は……」
皆が不安に思っている事を言う。陰る表情にもセーンは笑顔で応えた。不安を見せたら皆が不安になると知っているから。
「大丈夫。新しい砂礫大君が誤って傷つけられたことに怒っているだけなんだ。俺があの地竜をなだめてくるから、何も問題いらないよ」
「しかし、あんな巨大な……」
口ぐちに不安を口にする民に、語りかけるようにセーンは笑いかける。
「大丈夫。俺を信じて。それに射られた砂礫大君は無事だよ。彼女も地竜を静める為に今、あそこで頑張っている。新しい岩盤大君も一緒だよ。何も不安に思う事はないんだ」
いくら大丈夫と言われても信じられないのだろう。不安そうな目は変わらない。
その時、明るくリズムのいい歌が聞こえてきた。はっとすると、セーンが唄っている。
「みんな、確かに怖いよね。不安だよね。だけど、そう思っていたら不安に脚が止まってしまうよ。いい事を考えてみて。ううん、それが無理なら無理矢理でも明るい気分になろう。さあ、一緒に歌って! 気軽に唄ってこの難局を皆で協力して乗り切ろう」
セーンはそう言って唄いつづける。
「こんなことは大したことじゃない!」
母親の手に抱かれて、泣きそうだった子供に笑顔で唄いかける。しばらくして子供もおずおず歌い始める。つられて母親が。うたうことに協力してくれた人に、満面の咲くような笑顔を。周囲が明るい歌で包まれていく。
「そう、唄いながらリズムよく! 楽しくね。こんなことはすぐに終わらせよう!」
セーンはそう言って一人一人に唄いかける。励ます。そうして全員が立ち上がると、頷いた。
「じゃ、俺は行くね! くれぐれも気をつけて、一緒に頑張ろう!」
「はい、陛下」
セーンはそう言ってふわりと浮きあがる。人間ではありえないその行為ですら、彼なら自然に見えてしまう。ゆえに、彼は魔神の加護を受けた、万民が待ち望んだ王であることが魂が震えるほどに歓喜して理解出来る。彼はこれからのこの国の灯火だ。民を、国を必ず正しい方向に導いてくれる、確かな光――。
いつしか民が唄いながら瓦礫をどかし、そして隣の人と手を取り合って立ち上がる。セーンはそのまま地竜に向かって飛翔した。
ヌグファは光と楓に分けてもらった風晶石を基点に魔法陣を描いていく。竜を相手にするだけあって、魔法陣もヌグファが走って描くほど、かなりの大がかりなものだ。魔法陣の作成には全員がヌグファの指示に従って描いていく。大がかりだった魔法も、セーンを待つ間に完成した。あとは、理論構築に従ってうまく発動するかだけが問題だ。
「待たせた!」
宝人のように飛翔したセーンがヌグファの元に着地する。
「はぁ……見事なものですね」
「まぁね。これで夜逃げを決行してたからね。で、準備は?」
「任せて下さい」
ヌグファが杖を構えて言う。その顔はいつもの不安さは影に隠れて、力強い視線があった。
「うん。お願い」
セーンはそう言って楓と光を見た。二人もセーンの後ろで頷く。
儀式場からそう離れていない場所で、右往左往していた民が、何事かとセーン達を遠巻きに眺めている。民は襲い来る竜から逃れたくとも砂漠の地割れで取り残された人たちだ。セーンは先程彼らを励ましていたが、セーンが何をしようとしているかはわからない。
「僕達は、土を留めることに集中すればいいんだよね?」
楓が言うので、セーンは頷いた。四人が一斉に竜を見つめる。竜はすでに高く上空へ昇っていた。相変わらず上空からは雨のように砂が降り注ぐ。時折咆哮が聞こえ、その度にわずかに大地が揺れる。
本格的に竜が動き出すのは時間の問題だ。今まで砂を纏う為に留まっていたにすぎない。身体も十分大きくなった竜は、これから何をしようとしているか誰も分からないのだ。
「では、私から行きます!」
セーンがヌグファに向かって頷き返した。ヌグファはそれを見て、深呼吸をする。緊張がないかと言えば嘘になる。不安がないかと言われればこれまた嘘だ。だが、出来なくてもいい気がした。失敗したら、その原因を探って、構成を変えようとすら思える。
セーンはセダやヌグファのように、失敗したらそれをフォローしてくれるような頼もしさはない。ミィのように助けてあげなくては、とも思わない。だが、一緒に物事を成そうとする力が在るように思う。成功するか、失敗するかわからない。だが、彼とならどっちの結果でも最終的にはうまくいく気がするのだ。だから、一緒の学校の仲間がいなくてもヌグファは堂々と胸を張れる!
白い杖を掲げ、魔力を最大限に練る。集中を高め、高め、高める。極限まで、己の持つ最大まで!
閉じていた目が見開かれた! 杖をより高く掲げる。練られた魔力が一斉に放出され、描かれた魔法陣に魔力を供給する。力が行き渡り、魔法陣が発光して、魔法が完成する。
魔法陣が緑色に発光し、魔法が発動したのを確認してセーンが楓と光に向かって振り返る。二人は頷いた。ヌグファは魔法の維持のため、集中しているようだ。その表情は見えないが、凛とした後ろ姿が大変頼もしい。
セーンはそれを見て、もう一回頷いた。
――大丈夫。皆ついてるじゃないか。セーンが深く息を吸い込んだ瞬間、ぐらりと大きく大地が揺れた。
「わぁああ!」
大地に投げ出され、身体をしこたま打つ。セーンは状況を把握しようと無理矢理視線を上に向けた。
――アアアアアア
――イアアアアア
「え? 泣いてる?」
一人ごとのように呟く。怒り狂っていたはずの竜が、泣いているようにセーンには思えたのだ。
「セーンさん!」
ヌグファがかろうじて少し光る杖を掲げ続けている。そうだ、ヌグファが維持しなければ魔法が効力を発しなくなってしまう。だから、腕だけでヌグファは頑張っているのだ。
「卵核が!!」
楓が悲痛に叫んだ。楓と光が耳を押えてしゃがみこむ。二人は卵核の『鳴き声』がはっきりと聞こえていた。そして、竜が悲痛な悲鳴を上げている。
「そんな! セダは間に合わなかったの?!」
光の叫び声は竜の咆哮にかき消される。大地の揺れが収まらなくなった。
「どうしたの?」
セーンが視線だけを宝人の二人に向ける。その声は地震に負けないように怒鳴り声だ。大地に必死につかまろうにもその大地が揺れている。身体がどこに行くか、どうなるのかわからない。
「『鳴き声』が! 卵核が破壊されたみたい……!!」
楓が叫び返す。水の大陸の時のように怒りに飲み込まれていないのは、距離があるからだろう。だが、この抑えられない怒りと、哀しみは……! 楓は声を抑えられないと知りながら耳を押さえた。
「どうにかなってしまいそう!」
光が上空を見つめて叫ぶ。飲み込まれてしまう。このままでは宝人の本能に従って怒りと悲しみに呑み込まれる。
「竜が!」
上空に滞空していたはずの地竜が下に降りてきて、しきりに咆哮する。大地に向かって、否、人に向かって攻撃しようとするかのように叫ぶ。激しい音を立てて、砂漠に亀裂が走る。人が泣き叫び、混乱しながら逃げようともがく。それをあざ笑うかのように大地が揺れ、人を絶望に落としこむ。民が再びの悲鳴を上げた。
「どうしよう……!」
光が泣きそうになりながら不安を口にする。卵核が破壊された事実。魂を揺さぶり、衝動のままに怒りをぶつけたくなるほどの魂の叫び。それ以上の哀しみと、身を引き裂かれたような苦しみと痛み。
――これが鳴き声。これが、同胞を失う苦しみ。
「竜が……これじゃ、もう止まれない……」
楓が呟いた。かつて自分も炎と化して意識を失った。あの竜は、いや、竜と化したキィはあれではもう自我がないのではないか。おそらく卵核の怒りに支配されて、もう破壊することしかできないのではないだろうか。
竜の咆哮につられて怒りに染まった宝人が何人も転移して移動してくる。その瞳には一様に怒りと悲しみがあり、暴走の兆候に見えた。光とそれを経験した楓は、自分たちが本能に負けないように抑えるのに必死だった。
竜は怒り狂ったように地を舐め、咆哮を上げた。激しい揺れと共に砂粒が礫のように民に襲いかかろうとする。それと同時に集まった宝人もエレメントを掲げる。
「だめだ!!」
セーンが民を守るように竜の眼前に立ちふさがった。今にも竜の咆哮を受けて、もうだめだと感じた民は自分たちの目の前に立ち、守る小さな影を見た。胸には黄色に輝く王紋!
「だめだよ」
セーンが竜の目を真っ向から見つめ、言った。セーンの力で竜の攻撃はすべて無効化されている。セーンは半人の王、守護を受けたエレメントは風と、土!!
「悲しいのはわかる。だけど、他の人を、別のものを壊しても何もかえっては来ない」
セーンが竜に語りかける。
「それに、このまま怒りに支配されたら、一番大切なものまで失くしてしまうよ」
セーンはまるでキィに語りかけるようにそう言う。呆然として楓と光はセーンを見つめる。セーンの王紋を見て、セーンの瞳の優しさを見て、怒りと悲しみがほどけていく。いつしか集まろうとしていた宝人の気配もほどけるように元に戻るようだ。
「わかるよ。引っ込みつかない時ってあるよな。一緒にがんばろう」
セーンはそう言って民の方を向いた。
「安心して。これからだ。大丈夫」
ほほえみ、そしてこの緊迫した雰囲気を壊すようにやわらかく微笑む。
「ヌグファ、頑張れる?!」
「……がんばります!」
そうとしか言えない、だが立ち上がり杖を掲げるヌグファ。
「お願い!!」
セーンは竜を見据え、ヌグファに短く告げる。その様子を見て、楓と光は頷き合った。
「何が起こっても、俺がすべきことは変わらない!!」
セーンは意地のようにそう呟いた。そうだ、この竜を止め、キィとミィを救い、人々の不安を取り除くことこそが今必要な事!
――俺は、この国の王なのだから! 魔神にこの国の未来と在り方を約束した、王であると!
揺れが激しすぎて立ち上がれずとも、身を懸命に起こし、真っ向から竜を睨み、竜と向き合った。まばゆい黄金の王紋が竜の目にも映っているだろうか。
竜が咆哮しようと口を広げた瞬間――透き通った声が、響いた。
ヌグファの魔法によってその声が拡張されて、響き渡る。砂が舞い散る中、セーンが歌う。
その歌には歌詞がない。言葉にならない唄。だが、力強い、生命の力強さを表すような、最初は深く、低い音程から始まる。同じメロディを重ねて、それは次第に大きく、高く、重厚になっていく。不安を吹き飛ばすような調子で声を乗せていく。
「……すごい」
光が呟いた。その声は実際砂岩の加工をしてもらって知っていたのだが、改めて、人を圧倒させるような歌だった。今回はいつもに増してすさまじい。神々しさが増しているとでも言えばいいのだろうか。
それはわずか数節のメロディなのに、何回も音程を変えて、雰囲気を変えて何度も、何度も聞かせるためだけのよう。耳にしみこんで、ただただ、聞き入って、聞き惚れて、動けなくなってしまう。思わず立ち止まって耳を澄ませてしまうような歌。
セーンの声にひるんだかのように竜もまた、動かない、動けない。
「そうだね、僕達がやることも、少ししかなくても変わらないね」
楓が光の手を握る。光もはっとして楓の手を握り返した。もう、怒りと悲しみに支配されない。
「うん」
楓の反対側に握る黄色い土晶石が光り、効力を発揮するように土の精霊が集まってくる。
「あの竜に土の力をこれ以上分け与えないで」
楓が精霊にそうお願いする。精霊が頷いた。光は楓を通して、エレメントが通じる。世界とつながる。その証拠に光は何も言っていないのに、光の手に握られた土晶石も効力を発揮して光る。
「砂が……」
光が呟いた。自分が、否、自分を通してエレメントが動く。これこそが宝人の本懐。
舞い上がっていた砂が、その動きを次第に緩やかになり、竜に巻き上げられる。竜が集めようとする土と、楓と光の願いに従う土が拮抗して、砂が上空で迷うように滞空を続ける。
「っく……!」
楓と光の額に汗がにじむ。竜を相手にするのは宝人二人では分が悪い。みるみるうちに土晶石が小さく成っていく。二人してポケットから新しい土晶石を取り出し、願い続ける。
ヌグファも風晶石を基点にしているとはいえ、この大魔法と呼んでも差しつけない規模の大きい魔法の維持に必死だ。息が切れるほど、体力の消耗が激しい。
だが、三人とも、止めようとは思わない。この澄んだ声が響く限りは。この歌が砂漠を満たすまで。
――希望が行き渡るまでは!
...077
神殿の鐘楼にたたずむ少女がいた。遠目に儀式会場を見渡すことができる絶好の場所とも言える。
少女は危険を何も感じていない様子で、眼を閉じている。その目はここではないどこかを見渡している様だ。
「何も、壊すだけが破壊に通じるとは限らないわ」
くすりと笑って少女が目を開いた。
「まぁ、全てを破壊とはいかなかったみたいだけど、半数も壊せば上場でしょうね」
少女はそう言うと、苦笑し、儀式会場を見やる。少女が感知したように、地竜も卵核の破壊を感じ取ったようだ。一際大きい、ここまで声に寄る衝撃が圧力となって届くほどの大咆哮が空気を震わせた。少女は眼を思わず閉じて、耳を押さえて満足そうに笑う。
「予想外の地竜出現がここまでうまく運ぶなんて。ラッキーだったわ」
満足そうに地竜を愛でるように見つめる。何度目かの咆哮の後で、少女ははっとした。
「何?」
鐘楼から身を乗り出して、はるか先を見やる。
「誰? 私の魔法陣を利用して、新しい魔法陣を組んだの?」
少し、楽しそうに。そしてほんの少し悔しそうに少女は儀式場を見やる。そこには、不安をあおる魔法陣を組んでいたのだ。そのままにしてあったのを気付いた誰かが利用したようだが、さて、どう利用したのか。魔法陣を破壊するような、逆探知するような魔力の流れは感じ取れない。
「え?」
そこに、澄んだ声が響き渡る。何の言葉もない、どんな意味があるかすらわからない。
だが、意志を感じられる、力強い歌声が遠く離れたここまで響く。
「唄?」
少女は片目を閉じる。それはまるで儀式場を見るようだ。
「へぇ。土を抑える対極のエレメント、風の利用に歌を使うなんて。面白いけれど、廻りくどいわ。素人考えね」
口調は軽いのに、その視線は冷たい。
「……王紋? 殺し損ねた王がいたのね」
少女の片目には歌うセーンの姿が映っているようだ。どうやら利用された魔法陣は少年の声を増幅するためらしい。声を響かせて地竜を静める心づもりとみた。土の対極のエレメントである風を唄を利用して相殺しようとは、発想は斬新だが、人の歌などでどうにかしようというのだろうか。
いつもなら鼻で笑うところだが、相手は魔神が選んだ王だ。その身は人ではなく、半分は祝福を受けた半人。奇跡を起こすために造られた魔神の遣い魔。
「やはり、王が出張るか」
その言いようは予見していたようでもある。
「この歌は聴いていたいけれど、ちょっとおもしろくないわね」
少女はそう言ってはるか遠くの歌う少年の王に向ける。その口元には笑みがある。余裕で少年をどうにかできると言わんばかりに。
「たっかいトコロが好きなのはっ♪」
「え?」
澄んだ声が響き渡る空間に場違いとしか言いようのない、癇に障る鼻歌。
誰かと振り返る前に、肩に衝撃。見ると短剣、否、暗殺者が好んで使用する暗剣が刺さっている。
「馬鹿と、お偉いさんと勘違いヤロウ」
そこにはドゥバドゥール独特の暗君の格好をした、正体不明の人間が暗剣を構えて立っていた。
「さぁて、お前はどれかしらぁ?」
鼻歌は底抜けに明るいのに、視線だけは鋭い。
「普通はバカと煙よ」
少女は苦痛に顔をしかめながら剣を抜き、投げ捨てた。
「じゃ、お前は煙じゃないからカテゴライズはバカでいいか?」
暗剣がたて続けに投げられる。少女は今度は迎撃の体制を取った。少女の指先が空を軽やかに動いていく。すると、瞬時に投げつけられた暗剣が何もない透明の壁に当たったように跳ね返って床に散らばった。
「初対面にバカとは、呆れてものも言えないわ」
「現にここにいて高みの見物。自分の成した事の成否を確かめずにはいられない。満足そうに下を眺めて、指揮者気取りで魔法を使う。バカか勘違いじゃなきゃなんだってんだ?」
暗君はそう言う。表情は布で隠れて見えずとも笑っていることがわかる。
「そういうお前はなんなの? 暗君にしてはおしゃべりな事ね。何のために私を邪魔するのかしら?」
「俺はこの歌が好きなんだ。邪魔をする理由はそれで十分だろう」
少女は侮蔑の混じった目線を向けて、あからさまなため息を一つ。
「酔狂なことね。邪魔者は消す、構わないわよね?」
「もちろん。俺もそれが目的だ」
背景に荒れる砂漠と、それを打ち消すかのような澄んだ歌声。それに似合わない殺気で向き合う二人。動いたのは暗君が先だった。飛来する刃の奥に、短剣で迫りくる怒涛の攻撃。少女は指先を軽やかに動かして、ことごとくそれを弾いていく。
「口ほどにもないってのはこのこと?」
「まーねー。俺そんなに強いほうじゃないしね」
暗殺者は余裕な口ぶりでそう応える。
「あら。弱気な事」
少女がそう言って笑った瞬間、少女の指が動きを止めた。
「何?!」
少女の軽やかに動いていた指は、見えにくい糸のようなものでがんじがらめにされていた。それだけではない。見えにくい極細の糸は少女の全身を今や捕えている。
「つっかまえた!」
暗君はそう言って糸を手繰る。それに合わせて少女の身体が引っ張られた。
「動かない方がいいよ~。無理に動くとバッラバラの指がお目見えだ」
「何者?」
手に激痛が走る。これは予告だ。こうして痛めつけることができるという。
「そっちこそ、名乗る気は? まぁ、名乗らせるけどね」
ピンとはられた糸のどれかを暗君が弾く。すると、その衝撃が思わぬところで少女を襲った。
「あう!」
「まずは、お前は誰だ?」
少女は視線を走らせる。どこか自由になる場所はないかと。
「おおっと、魔法使いはやっかいだからねー。動くのは無理だよ」
くいっと糸を動かすだけで少女の動きはすべて封じ込められている。焦った少女は内心を見破られないように、逆に笑みを浮かべた。
「ずいぶん、魔法使いと戦う事に慣れているのね」
「そういうお前こそ、近接戦闘との戦いに慣れているね。ただの魔法使いってわけじゃなさそうだな」
「そうね」
「じゃ、どこぞの魔法学校出身者かな?」
暗君が言葉を重ねていく。しかし、その言葉は少女から答えを引き出そうとしているように思えた。
「魔力主義」
暗君はそう言う。思わず少女が息を飲んだ。図星だったからだ。
「魔法陣や媒体なしで魔法の使用を可能とする高等魔法……古の魔女組織出身者かな?」
自分の魔法系統を見破られる事は今までなかった。相手はただの土の大陸の案じゃというわけじゃなさそうだ。自分の出身組織を見破ったことから、世界を見たことが在る人間だとこちらも確信する。
「当たり? エレメントの六色思想じゃなくって、虹を配し、世界を考えるその思想は……魔女組織の中でもヴィアンカ、…キュヴィエくらいか?」
まさか着ている服の模様からそこまで推察されるとは思わず、少女は息を飲んだ。逆にそこまで知った相手と分かり、敬意を払って余裕で応えるよう意識する。暗君というよりかは暗殺者というべきか。
「便利と言う事はそれに見合う何かを支払っているということだもの」
「ふーん。キュヴィエか。滅んだ魔女組織の中でも遠くの昔に廃れたはずだけどなぁ? お前が当代の『キュヴィエ』だろう? 名乗ったら? 魔女の名が泣くぜ?」
暗殺者が言葉を重ねる。相手は自分の反応を見て、情報を得ようとしているようだ。
「名など、キュヴィエで十分よ。そちらこそ、相当の腕をお見受けしたわ。名乗って頂けるとありがたいけれど」
「女性から声を掛けられることは慣れてなくてね、緊張して名前などしゃべれないさ」
「冗談がお上手」
キュヴィエはそのまま動くことを諦めた。対する暗殺者――テルルは魔女の次手を警戒して動けない。
「私を捕えて、何を求めるの?」
「背後関係でもしゃべってもらったら嬉しいけどね。好みの女性のことは何でも知りたいのが男だ」
「そういう軽薄な男性は好みじゃないの、ごめんあそばせ」
ぎりりと糸が引かれる。痛みにキュヴィエは眉をしかめた。
「それに、これで私を捕えたと思っていたら、少し甘いわ」
キュヴィエのほほ笑みにテルルが警戒を最大限に強めた瞬間、キュヴィエが叫んだ。
「エウロ!!」
その瞬間、テルルの視界が真っ黒に染まった、と思ったほど、黒衣が視界を覆った。テルルは反射で糸を自ら切って距離を取る。そして、黒の正体が判明した。
「呼んだぁ?」
目の前にもう一人。それは気配で分かっていたことだが、驚いたのは若いセーンよりも若い少年だったことだ。少年は黒衣の一張羅を着ていた。それは、独特なデザインであったがゆえに、テルルには彼が何者かも理解した。
「ちょっとピンチだったの、ありがと。多勢に無勢ね。しゃべってもらうのはあなたの方よ」
キュヴィエが指を掲げた。
「闇の宝人か……」
テルルが呟く。キュヴィエの号を持つ凄腕の魔女に闇の宝人。
「あら、さすがね」
キュヴィエの指が何かを描くように空を描く。それに合わせて無邪気な笑みを浮かべる少年も闇に溶けるように黒衣が滲むように、黒色が広がっていく。
「っく!」
闇に捕えられたら終わりだ。それは闇の宝人の独壇場。傍らにはサポートできる魔法使いも一緒。
――ならば!
テルルは一気に距離をつけ、こちらも叫んだ。
「ランタン!!」
その瞬間、濃密な暗闇を光が切り裂いた。
「ビンゴはそっちか」
そこには目立つ白髪に派手な水色のコートを着た青年が立っていた。褐色の肌に浮かぶ白い紋様――契約紋だ。
「ランタン=アルコル!!?」
キュヴィエが叫ぶ。
「俺を知っているなら、商売敵だったともあるのかな?」
ランタンは静かに敵である二人を見据えた。キュヴィエが焦ってエウロと呼ばれた少年の袖を引っ張った。キュヴィエの様子が気に入らないのか、エウロはむっとして言った。
「なに? 殺す?」
事態を認識してないのかどうなのか、気楽に尋ねる少年にキュヴィエが首を振る。
「いえ、逃げるわ。目的は達したのだし」
「えー? あれくらい俺、やれるよ?」
首をかしげて言うエウロ。
「ふーん、俺を殺す。面白いじゃねぇの。やってみな?」
強烈な光が刹那走り、少年の黒衣がばっさり切り裂かれていた。エウロはそれを見て、初めてランタンを認識したように、睨む。無言でキュヴィエの手を取ると闇の転移をして姿が消える。
「追うか?」
ランタンが顔を半分以上隠したテルルに短く問う。
「いや、いい」
「にしても、お前の読み、当たったな」
ランタンはそう言った。テルルは頭をすっぽり覆っていた布を取り払う。いつもの金髪が流れ落ち、少女の姿が顔をだした。
「ああ、バカとナルシストと金持ちは高い所が好き、これ俺の持論。今まで外れたことはないね」
「言い得て妙」
テルルは儀式場でミィが射られたのを見、すぐに思考を切り替えた。地竜が出現したことから、混乱に乗じて黒幕が動くと思ったのだ。それなら、確認のために黒幕は高い場所から見るだろうと。
この国で儀式場が見られる高い場所はこの神殿の鐘楼と、王宮しかない。テルルはいくらでも変装して内部に潜り込む事が出来る。逆に、もう一か所に敵が現れた場合を想定して、同じ世界傭兵仲間のランタンを招聘した。
ランタン『光』のエレメントのおかげで高さをものともしない移動ができる。ゆえにランタンを王宮に派遣し、自分は神殿に潜り込んだのだ。
「にしても、あれがジルが言ってた奴ら?」
テルルがランタンに尋ねる。ランタンは頷いた。
「おう。卵核を狙っている団体な。水の大陸の卵核は奴らのたくらみで全滅。土の大陸は半壊ってとこだろう」
テルルは眼を見開いて驚いた。
「嘘だろ?!」
ランタンが首を横に振った。
「いや、宝人の俺は『鳴き声』を聞きとった。間違いない」
「何が目的だ?」
「さぁな。今のところは」
ランタンが土の大陸に来ていたのは、ジルから緊急の通達が来たからだ。土の大陸での仕事ついでに警戒しとこうとしたところで、テルルから打診がきたのだ。その集団が動きそうだから一緒に見張らないか、と。
「お前のとこの姫は占えないのか?」
「イェン? いや、星が霞むって言ってたな。たぶん、さっきの女が魔法で邪魔してんだろう。イェンが深く潜れば見えない星はないが、いまのとこそこまで無理させて占わせたくない。ただでさえ、水の大陸の一連を占ってから寝ていることが多いからな」
テルルはふーんと頷くに留めた。
「じゃ、余計やべぇな。さっきのやつらセーンを襲うみたいな感じだったし、あの地竜もどうにかしないとだしな」
ランタンは遠くに見える竜と歌声が響く景色を眺めた。
「いんや、心配には及ばないんじゃねーの。この歌聞いてるとそう思わねぇ?」
絶えず儀式場と竜の咆哮に混じって力づよい、歩きださせようとするような、立ち上がる力を、気力をくれるような歌声が響いている。
「まぁ、そうだけど。だからって確実じゃねーだろう」
ランタンがほほ笑みながらその光景を眺める。ランタンが眺める空に黒い点が浮かぶ。その点はだんだん大きさを増し、黒い烏であることがわかった。烏はまっすぐランタンめがけて飛んでくるとランタンの差しだした腕に留って闇として姿を失った。
「およ?」
テルルが珍しそうにその光景を見る。ランタンは解けた闇を全身に浴びた。
「その心配はなさそうだぜ?」
黒い石がランタンの手に落ちた。
「あ?」
「イェンがこの一連は心配いらねーって。新しい王に期待したら? それこそお前の教え子なんだろ?」
テルルは少し思うところがあるらしく、視線を彷徨わせた。知っているからこそ、放っておけないのだ。
「どういう意味?」
「イェンが視たらしい。竜が生じるが王がどうにかするってな。王って、あそこで歌っている奴だろう? お前の弟子の」
テルルは頷くに留めた。だが、その顔は複雑そうな表情が浮かんでいる。
「信じてやれよ、それも大事だ。互いにとってな」
ランタンが笑う。テルルはしぶしぶ黙りこんで歌声の響く儀式場を見つめた。
...078
竜が動きを止めた。セーンはいつしか立ち上がって腹から声を出した。歌はこう歌おう、とかどうしようとは思わなかった。自然と口から出てきたメロディ。それをまるで輪唱のように何度も何度も続ける。
眼だけは竜から逸らさない。今や、竜はセーンだけを見ている。セーンも竜だけを見ている。
歌で竜の動きは止めた。次は竜をどう『加工』するかだ。
ふっとミィの姿が浮かんできた。そうだ、あの竜はミィを飲みこんでいるんだっけ。キィの姿は詳しくはわからない。だが、それでセーンはどう向き合うかを決めた。
先ほど竜に話しかけたのを思い出したのだ。それで歌の調子を変える。抉るように、深く、だが優しく。余分なものをそぎ落とすように、かつ、竜にとって苦痛にならないように。
いつしかいつものように手が踊るように伸ばされて、己の手で加工するように手が動いていく。その動きの度に竜の身が少しずつ削られて、砂が散る。見た目では変わらない、そんなほんの少しの削る作業を根気よく続ける。
思い描くのは二人の双子。仲の良い、一人は活発な女の子。もう一人はそれを心配する男の子を。
――大丈夫、もう、誰も君たちを傷つけないよ。
セーンは思いが届くまで、否、届かなくても必死に歌い続ける。
緊急に急きょ造られた避難対策本部。何度目かの竜の方向が轟いた。遠雷のように今度は地に沁みわたり、震えが来るような大きな声だった。その次の瞬間、そこに激しい揺れが襲う。アーリアとアイリスの二人は悲鳴を上げる暇もなく床に叩きつけられる。
二人の護衛の武官が駆けこもうとするが、あまりの揺れに動けない。揺れが収まってから二人を庇うように武官が駆け付けた。大きな揺れから立ち直り、被害状況を確認する。
しばらくして微かな歌声が響いてくる。ふと手を止めてその歌を聴く。砂漠の端で、微かなのに記憶に残る力づよいメロディだった。歌詞は無く、聴いたこともないのに、活力を与えてくれるような歌。
「……これは?」
アイリスが顔を上げる。アーリアもそれに倣った。セーンの命令によって民の避難誘導案を三当主が直接話し、具体的な案が上り、実行に移したところだ。
ジルドレは岩盤大君で軍を統率する王なので、軍を引き連れ、一番被害の多い、儀式場の近くで救出作業に乗り出した。アイリスとアーリアで避難民の戸籍の確認や誘導を引き受けている。
「ご報告申し上げます!!」
アーリアの配下が駆けこんでくる。アーリアは視線だけで報告を促す。
「宝人の部下より、この土の大陸の、いえ、ドゥバドゥールの卵核が半壊とのことです!」
「なんですって?!」
アーリアが驚き、アイリスは眼を見開いた。
「それにより宝人が複数『鳴き声』によって精神的に苦痛を訴え、暴走の危険があります」
「……!」
アーリアとアイリスが目を合わせる。アーリアが言った。
「宝人たちはどう動くの?」
「我を忘れて遺跡に向かって移動をしているようです。どうやら、竜が呼んだようです」
「ジルドレ様にご連絡は?」
「既に」
短いやり取りの間に才女の二人の頭が高速で回転する。
「この歌は? どこから、誰が?」
アイリスが問うた。報告は別の所から響く。
「大地大君陛下です」
丁度二人の背後、戸籍の確認を行っていた住民が興奮しながら告げた。
「セーンが?」
アーリアの呟きは小さく、しかし表情は安心させるために住民に向かって笑顔を造る。
「大地大君は……」
アイリスと目を合わせる。そう言えば、セーンから命令は受けたが当の本人が指揮をしているわけではない。一体、彼は何をしているのだろうか。三大当主の前に姿さえ現さず、何を……?
「大地大君はあの場に残って、竜と対峙なさっています」
部下が耳を寄せる。アイリスの顔に驚き、アーリアの顔には疑問が浮かんでいる。
「ねぇ、避難はどのくらい済んだ? 調査の報告は上がったわね。それぞれの避難場所の状況を」
アーリアが尋ねる。即座に答えが別の文君と武君から返って来た。その答えからアーリアやアイリスが予想した場合よりはるかに早く、避難が済んでいる。これは直接の指揮に武君の頂点である岩盤大君であるジルドレが立ったのが大きいだろう。だが、一番は的確な指示を与え、確実にその指示が行き渡るようにしたセーンのおかげだ。
「アイリス様、では見に行きませんか?」
「え? 何を、ですか?」
「我らが次代の王が、何をなさっているか、ですわ」
アーリアは視線を巡らせる。何名もの部下が頷いた。後は任せても大丈夫だろう。命令は行き届いているし、今のところ新たな災害は発生していない。先ほどの激しい揺れは竜のせいなら、それを抑えるセーンがいる限り大丈夫に思えた。
アーリアもアイリスも市民の避難誘導やそれに関係する様々な調査で手いっぱいで今、何が起きていてどうなっているか具体的に把握していないのだ。
「はぁ」
アイリスは気のない返事をする。この避難の本部となっている場所に当主が一人もいなくて大丈夫か心配しているようだ。
「お任せ下さい、アイリス様」
ルイーゼ家の者もそう告げる。
「それに気になるでのはありませんか? 次代の岩盤大君陛下が」
それを言われた刹那、アイリスは視線を逸らした。
「そうですね。黒幕もそろそろ姿を現すでしょうから。ご一緒します、アーリア様」
二人の才女は部下に指示を出すまでもなく、外に向けて歩き始める。それを黙って礼をして見送る部下と、護衛と情報のやり取りのためにつき従う部下に分かれた。
杖を持つ手に汗が滲み、手から杖が滑り落ちそうになる。ヌグファは杖を掲げる腕が同じ姿勢を取り続けているせいで疲労がたまって震えてもいる。だが、少し先で懸命に歌い続けるセーンを見ると、この腕を下ろす事が出来ない。
同じメロディ。ずっと続けられる、聴き飽きてもよさそうなのに聴かずにいられない音。
セーンは初めは動かず竜と対峙していたが、今は竜が怯んだせいか腕を動かし、指揮者のように歌っている。周囲にはいつしか宝人が集まっていた。それに逃げ遅れ、軍の救助を待っている民衆もセーンをずっと見つめている。
セーンはそのことに気付いているだろうか。己が確かに今、何かを変えていることを。誰もがセーンを見つめ、その歌を聴き、セーンに期待している。いや、少し違うか。セーンに希望を抱いているのを。先程まで絶望の淵に立たされたかのように暗い顔をして、不安にしていた人たちが、今セーンのこの歌を聴いているだけで力がみなぎるようになっていくのが。
――これが王か。これが魔神に選ばれた王と言う事か。
ヌグファはキアたち、水の王を見た。彼らも王だと鮮烈な印象を残していた。
彼らのようになりたいとは思わない。だが、いざという時に。まさに今の様な、万民が希望に縋りたいと思う時にその希望を与えられるような存在は強烈に憧れる、とヌグファは思うのだ。自分には持ちえないものだけれど。憧れることは、きっと、自由だから――。
セダとカナは馬を入り口で捨ててしまったので、必死に禁踏区域から出た後の足跡を追う事になった。
「そこまで距離はなかったはずだが……」
カナはそう言ってセダと一緒に砂漠にわずかに残された足跡を走りながら追いかける。
「むこうさんも必死なんじゃねーか」
カナはセダと会話しながらも方角を確認して頷いた。
「奴ら、どうやら儀式場に向かっているみてぇだな」
セダは地理に詳しくないので、頷くに留めた。
「にしても、この歌はなんだ? どっから聴こえてくる?」
カナが不思議そうに言う。セダにとっては聴きなれたセーンの声だから不思議に思わなかった。
「セーンだよ」
「セーン?」
「ほら、お前にキィの救出を名乗り出た次の王だ」
「ああ!」
カナは頷いて、しばらく走りながら歌を聴いていた。
「待てよ」
思わずカナの脚が止まる。セダが遅れて気付いた。
「どうした?」
「この歌、次の王が歌っているんだよな?」
「そう。キィとミィを助ける為に竜をどうにかするって作戦だ」
「じゃ、居場所を知らせているようなものだろう……奴ら、セーンを狙っているんじゃないか?」
セダがそれを聴いた瞬間に眉根を寄せる。
セーンは王紋を誰かに見られてから王宮の者とエイローズ家に追われていた。
エイローズ家は王紋の確認のためもあっただろうが、王宮に追われる理由はよくわからないと言っていた。そしてミィは王であると宣言した瞬間に、何者かに射られた。
では、下手人がもう一度セーンを狙わない理由にはならない。あの場には戦える者がいない!
「急げ!!」
二人して叫ぶ。
「こっちだ! 狙いがわかりゃ、後を追う必要はない!」
カナの後をセダが追いかけながら問う。
「なんだって次の王を狙うんだ? 聴いた話じゃ次の王は国民の悲願だったんだろう?」
「そうだ。だけど、一部の人間はそうじゃなかったんだよ」
「! お前、理由を知っているのか?」
「ああ、謎を解いたのはキィだけどな。俺はキィのおかげで王である事を隠し続けていたから無事だったんだ」
「どうしてセーンは狙われたんだ?」
セダの問いかけにカナは話そうかどうか迷っているようだ。セダが急かすと渋った顔をするが、口を開いた。
「他国のお前には分からないだろうが、この国は初代の大君が定めた大綱集という骨子に沿って全てが成り立っていると言っていい。その骨子が意図的に書き換えられた。だから、正当な王であるはずの俺やセーン、ミィが狙われた。狙った方が悪いわけじゃない。奴らは法に沿って偽王と名乗る、いわば国家反逆をたくらむような輩を、民が知る前に消そうとしていた、そんなとこだ」
「そんな……だってお前の国は確か王紋が現れたやつが王だろう? どうやって書き換えるなんてことが?」
カナが他国で事情をそこまで深く知らないセダにはあまり説明したくないようだ。
「物事なんて突き詰めればそんな難しいことじゃねーのさ。まぁ、裏をかかれたってことだな」
カナはそうとだけ言った。この事実に至るまでキィと気の遠くなるような調査をした。アイリスやアーリアが答に追いついて、答合わせをしてみればこんなバカげたことだった。
「ただな、俺はこんなバカげたことで昔、主君と定めた大切な人間を一人失っている。俺にとってもアイリスにとっても大事な、大切な人だった。いつも正しくて、優しくて穏やかで……あいつの隣で国を支えていくと決めていた。それを、こんなバカみたいなことで叶わなかったんだ」
カナはそう言って前を見据える。
「ぜってー、許さねぇよ。だから、俺含めだけど、二度とこんなバカなことは起こさない」
カナはセダに言っているようで、自分の決意を一人ごとのように言っているようにも思う。セダはそんな厳しい横顔を見つめながら走った。
「俺が次の岩盤大君。国を守る剣であり盾」
セダはその顔を見てふっと思った。彼に過去敵わなかったのは、世界が広いせいだと思った。自分の実力が伴っていないからだと思っていた。
――剣にかける重さが違うのかもしれない。
「セーンもミィも必ず守る。死なせない、絶対守り切る」
ああ、敵わないなぁと思ってしまった。
思えば武器を一つに絞れないのも、全て得意で扱えると言えば聞こえがいいが、裏を返せば一つを究める決意がないということ。剣に何を懸けるかを決めきれない。そこまで深く考えられない。
剣の道はセダにとっていつしか学校の科目で、目標をクリアすることが目的だった。剣をうまく扱え、誰より強くなれたらいいと思った。だが、それはかっこいいな、等と言った軽い気持ちからだ。
カナに敵う訳ない。誰かをこれまで深く、強く決意して剣を握ったことがセダにはあっただろうか。
――そうか、俺に足りないのは、剣を握るための覚悟と意志か。
セダも同じように厳しい顔をして前を見据える。ただ駆ける。覚悟は異なっても、意志が軽くても、今は。この今だけはセーンを守ろうとするその意志だけは隣を走る少年と変わらないと、そう思うから。




