1.男装少女と女装少年 【05】
...061
ヴァン家の屋敷に周囲には青い色が見えない所がなかった。周囲の人々もヴァン家のミィを見て挨拶をしたり、笑いかけたりしていた。セダもヴァン家に世話になって少しだが、ヴァン家の人を皆が愛していて、共に過ごしていると感じた。
だが、このエイローズ家では赤い色が見えない場所がない。人が違い、場所が違い、主が違うだけで同じ景色が見られている。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
アーリアを見てエイローズ家の周囲にある町並みに住む誰もが頭を下げ、笑いかける。
「おかえりなさまいませ」
「こちらはヴァン家のミィ様ですか!? ようこそおいで下さいました」
すぐに気付いたエイローズ家の者が近寄ってくる。馬車を降りるときにセダでさえ、手を差し伸べられたので驚いてしまった。びっくりしていても初老の男性はセダの手を取った。
「ご主人様……」
「こちらのお客人は別件だ。西塔の特別室にご案内差し上げて」
「はい、承知いたしました。では、こちらへおいでください」
「あ、待てよ!」
ルビーだけが執事の男性に別室に案内されそうなのを見て、セダが声を上げる。
「セダ様、こちらはエイローズの問題です。しばしご容赦下さいな」
甘くアーリアが微笑んだ。その微笑みに何かを感じ取ったか、ミィがセダを制する。
「さぁ、ミィ様、セダ様。こちらへおいで下さいませ」
アーリア自身が先頭に立って屋敷の中に入っていく。違う国とも言える位に文化が違うとされていただけあって、エイローズの屋敷内部の装飾などはヴァン家とは違う。ヴァン家が派手で華美な印象なのに対し、エイローズはシックな印象がある。色遣いも大人というか、あまり派手ではないが、高級感の溢れるものが多い。
「ヴァン家ではきらびやかな美しいものが多いでしょう? ミィ様のお目に適うものがあるか少し不安ですが、如何でしょう? 少しお待ちくださいね、今お茶をお持ちいたします」
セダからすれば呆気にとられる程の広さの客間に通されて思わずセダは辺りを見渡してしまった。
「珍しいですか? セダ様」
「あ、いや。というか、その……セダ、様っていうの止めてくれるか?」
「慣れないのですか? では、セダ様ではなく、セダさんとお呼びしましょうか。ミィ様のお客様ということでしたが、どちらからお出でになられたのですか?」
アーリアが尋ねる。セダは一瞬ミィにアイコンタクトを取って口を開いた。
「水の大陸から来たんだ」
「水の大陸ですか? 遠いところからいらしたのですね。水の大陸といえば、神国のシャイデが有名ですね。他にもラトリア、ジルタリアの名がこちらにも伝わっておりますが、その辺りから?」
「いや。俺たちは公共地の学校の生徒なんだ。そういえば、土の大陸には公共地はないのか?」
「ございますよ」
「土の大陸はドゥバドゥールが治めているから目立たないだけ。ここに来る間にもあったのよ」
「へー」
まったく気が付かなかったというセダに旗色がない場所があったでしょう、と言われ納得した。
「失礼します」
メイドが入ってきてお茶を置く。一礼してメイドが去った後、ミィが口を開いた。
「それで、あの、アーリア様」
アーリアがにっこり微笑む。それだけでミィもセダも一瞬黙り込んでしまった。
「ミィ様とセダさんでは別の事をお聞きしたいようですね? どちらからになさいます?」
その微笑みは何でも分かっているような顔つきだった。ミィとセダが思わず顔を見合わせる。
「不思議そうなお顔ですね。だって、話はサクッと、スッキリ解決が一番でしょう? 時間は有限ですよ」
ミィとセダが頷きあう。時間を延ばさなければならない。
「俺、この前土の大陸に来たばかりなんだ。だからいくつか質問させてもらっていいか?」
「ええ、構いませんよ」
「ええっと……」
聞く事を考えていなかった。さて、どうしようと悩み、とりあえずお茶をゆっくり口に含み視線を彷徨わせる。
「ドゥバドゥールの三大王家っていうのは、ミィのヴァン家とあんたのエイローズ家と、残りは……」
「ルイーゼ家」
ミィがつついた。セダが苦笑いをする。
「そのルイーゼ家はどんな家なんだ?」
アーリアは困ったように少し笑う。
「それをわたくしたちエイローズに訊きますか? では、ヴァン家のミィ様はいかがお考えですか? 先にお聞かせ願えればと思うのですが」
「ええ!」
ミィが突然ふられて慌てている。
「ええっと……」
「ふふ、少し意地悪でしたか? ではわたくしから申し上げましょうか。まず、我らエイローズは武に秀でた一族です。武君の育成に力を注ぎ、一族内での地位や考え方は軍部の統率によく似ているのが特徴です。他家ですが、まずミィ様のヴァン家をわたくしらではこう捉えさせていただいております。導かれし一族、と」
優雅に音も立てずにお茶を飲むと、アーリアは微笑む。
「導かれし一族、ですか?」
ミィが尋ね返した。
「ええ。神子に導かれる定め。神子が不在の際は神子を待つ一族とも言いかえられます」
ミィがどきりとしたのが気配でわかった。
――ミィの弟はその神子だ。
「どういう意味かわかりかねるのですが」
「わたくしたち、王家はそれぞれの始祖に縛られていると思いませんか? ミィ様。だから、ルイーゼは均一で平等に見えて、根が深い。諍いが生じれば、水面下で激しく動き回る。全てを均一に照らし、導く星が必要。それがルイーゼ。わたくしたちはそう感じております。こんな勝手を言ってはそれぞれに叱られてしまいますね」
国の事情を知らないセダには二人の間に何が交わされているかはわからない。
「それって、始祖に従っていることが不服ってことなのか?」
アーリアは首を横に振った。
「いいえ。争いしか生まぬ現状をそれぞれが憂い、三国で同盟を組んだ。騒乱を無くし、民のために手を取り合った。それは素晴らしい事です。始祖は正しく、始祖に連なる者もその教えや導きに従って正しく生きた。しかし、それでもどうしようもないこともあると思うのです」
「……どうしようもない事、ですか?」
ミィが言う。アーリアは頷いた。
「いくら優れていても、それを忠実に守っても、時が経てばそれが正しいとは限らない。時代に合ったやり方というものが在りましょう。しかし、だからといって変わり過ぎてはそれはもう違うもの」
アーリアはそう言ってミィを見つめた。灰色の目はミィを引き込むかのように逸らされることはない。
「わたくしはね、ミィ様。その違い、変化それが積り積もって歪みきって、そのしわ寄せが今、来ていると思っているのです。だから、わたくしたちで正さなければ」
「正す?」
「そう。わたくしとミィ様、ルイーゼではアイリス様ももちろんのこと、若い力で」
アーリアはそう言って微笑んだ。ミィは困ったように笑い返す。
ミィからすれば、ミィはキィと一緒にこれからもヴァン家でヴァンの民と共に幸せに暮らせたらいいと思う。国を代表する王家の生まれで在りながらミィの視野は狭く、そこまでの事は考えられないのが正直なところである。これを持ちかけられたのが、弟のキィであったならば、食いついたかもしれない。
「わたくしでは、お力になれるかどうか……」
「いいえ。ヴァンではあなたが相応しい」
アーリアは確信したように言いきった。
「キィの方が優れていると思うのですが。こう申し上げたら失礼でしょうが、わたくしは何もできないのです。キィに頼りっぱなしで、彼がいないと何もできない」
「何も優れているから上に立つ資格があるとは限りません。その点、ミィ様は十分に上に立つ資格を有しているとわたくしは僭越ながら感じている所なのです」
ミィが困惑し、アーリアを見つめる。
「ミィ様は周囲を引き込む才能がおありです。不足な点は周囲が喜んで助けてくれるでしょう。キィ様は確かに優れておいでですね。彼は一族を率いる神子であるお方。では、貴女は? ミィ様、差し出がましい事を申し上げます。キィ様がいずれ上に立つ方となられた暁、貴女は如何するのですか? 今はよろしいでしょう。しかし、キィ様とミィ様は別人です。いつまでも同じ道を歩めません。キィ様が上に立つその隣にミィ様が存在するためには、その隣に立つだけの能力を求められます。……ミィ様。貴女はそれに応える事ができますか?」
「そ、それは……」
ミィが困り果てて、青ざめる。
セダはキィに会ったのは、あの奪還作戦の一瞬だけだが、確かに双子というだけでは府に落ちない点として、この双子は互いに互いを欲しすぎている気はする。ミィはこれからの生にキィがいることが当然と思っているのは丸わかりだ。キィはミィの話しやティーニの話を聞く限り、それを嫌がったりはせず、逆にキィも同様に考えているように思える。
アーリアはそこを指摘する。いくら仲が良い双子とてこれからの人生を今まで通り半分に、互いに分け合って暮らしてはいけないと。キィが己の道を定めた時、ミィはどうするのか? 逆もまた然り。
「キィ様は神子であらせられます。その身は今も無き王位のために神殿におわします。いずれ王がたって、いよいよ王家も当主が交替し、次代が担うに至った際、キィ様はその立場上当主にならざるをえません。ミィ様がキィ様と隣立っておられる為には、理由が必要なのです」
「どうしてだ?」
事情がわからないセダが問いかける。アーリアは嫌な顔一つせず理由を明かしてくれた。
「ヴァン家で神子が生まれたならば、その神子は一族を導く当主となるか、もしくはその身を散らせるしか過去に例がないからです」
セダがはっとした。ミィを思わず見る。
「それって、死ぬか当主になるかしかないのか?」
「過去ではそうですね? ミィ様。過去は過去ですから必ずしもというわけではありませんが」
ミィ自身は明るく、あまり権力や家に縛られていない。だが、現実はそうでもないようだ。
「現在、次代の当主が定まっていないのはヴァン家だけ。ヴァン家の現状では当主の候補として上げられていらっしゃるのはミィ様、キィ様と……ティズ様くらいですか?」
「は、はい」
ヴァン家の現当主はガルバ・ジルサーデであるジルドレ=ヴァンが兼任している。ジルドレの弟がミィとキィの父である。ヴァン家の直系での当主候補が現在この三名。ジルサーデが魔神の意志で選ばれる以上、当主を誰に据えるかをジルドレは悩んでいるらしい。ミィがそれらしい話を聞いたことはないし、当主になろうと思ったこともなかった。
「他家のわたくしが口を出すことではありませんが、おそらく三家すべてで次期ジルサーデが選出されれば、ヴァン家も先延ばしにした次期当主を選ばざるを得ないでしょう。ミィ様はミィ様の意志関係なく、当主争いに巻き込まれる事になりましょう。特に今回は神子であるキィ様がいらっしゃる以上、すんなり決まるか、波乱に満ちるかどちらかでしょう」
セダからすればヴァン家は争いから遠い明るい家だと思っていただけに意外だった。
「そんな……ヴァン家はそういうことがない家です」
ミィも弱弱しくそう言い返した。
「それはミィ様が大切に育てられたからでしょう。三大王家の強大な権力を前にして争わないわけはないのです。わたくしエイローズにしろ、ルイーゼにしろ」
ミィはショックを受けたようだったが、毅然とアーリアを見つめ返した。
「それはあるかもしれないです。それで、アーリア様はわたくしを支援して下さるとでも仰いますか?」
それはアーリアに言われる事ではない。ヴァン家で解決すべき事だとミィは言外に含ませた。
「いえいえ、そんな差し出がましい事は、さすがに厚顔なわたくしでも出来かねます。ただ、わたくしはこれからの国のために、ミィ様のお力もお借り出来たらと思った次第です」
ここでセダはようやくグッカスが言っていた言葉の意味が分かった気がした。
――裏では何を考えているか分からない女だ、と。
「そういえば、元々ミィ様をご招待させていただいたのは、キィ様のお噂をご存じなかったと御伺いしたことでしたね。ミィ様は現在キィ様が神殿内で一緒に過ごされている方をご存知ですか?」
「一緒……?」
それはめっぽう剣が強かったキィを追いかけてきた少年だろうか。
「ルイーゼ家の方で、名をカナ=ルイーゼ様と仰います」
「いえ、知りません」
キィが地下から地上の部屋に移ってからミィはキィと会っていない。
「大層剣に優れるお方で、元々はルイーゼ家のご当主、アイリス様の武君を務めるご予定のお方です」
それはルイーゼの直系に近い血統の持ち主ということだ。身分はそこそこ高い。
「そのカナ様がキィとどのような関係が……?」
「本当にご存じないのですね。そのカナ様とキィ様が最近大層親しいそうですよ」
言われてもミィはきょとんとしている。セダも同様だ。仲良くなったなら別にいいんじゃないの?
「……ええっと、恋人同士になられたとのお噂ですよ?」
直接的な表現に変えて言いなおしてくれて、初めてミィの顔色が変わった。
「なんですって!!?」
確か、ミィから聞いたところによれば、土の大陸の神殿は女人禁制。すなわち、そのカナは男であり、キィも当然、男であるからして―。
「えええ!!?」
セダも叫んだ。
「神殿では時々そういうことがあるとは伺っておりましたものの、わたくしも目から鱗と申しますか……」
「嘘、嘘、嘘~~!!!!」
アーリアの前と言う事が吹っ飛ぶほどミィが叫んでいる。
「あ、えっと……ミィ様?」
ミィが青くなったり、赤くなったりしてぶつぶつと独り言をつぶやき始め、さすがのアーリアも、すまなさそうな顔をしている。セダは驚き、ミィを見つめた。
「信じられない」
「アーリア様!」
身を乗り出してミィが言うので、アーリアも驚きながら返事をした。
「それ、どこからお聞きになったのですかっ?」
「えっと、わたくし共エイローズの神官見習いからですが……」
「許せん!! キィめぇええ!」
セダが呆然としたが、はっとしてミィをなだめにかかる。
「ミィ! ちょ、ミィ。落ちつけよ! な!?」
肩を揺さぶられて、ミィがはっとする。
「取り乱しまして、大変失礼を。申し訳ありません、アーリア様」
「いえ、御姉弟の事ですから、当然でございましょう」
「そう仰っていただけると助かります。大変、お見苦しい所をお見せいたしました」
今更な気がするが、王家の令嬢らしく、にこやかにほほ笑み着席するミィ。
「ご心配かたじけないです。しかし、ヴァン家の問題はヴァン家で、キィのことはこちらで対処いたします」
「はい、差し出がましい真似を致しました」
アーリアもにっこり微笑む。ほっとミィが一息ついた。
「それにしても美味しいお茶ですね。もしや、エイローズで有名な雪解け茶では?」
「さすがミィ様。こちらでも雪解けの無い山のふもとで取れた茶葉を使用しております。お口に合いましたのであれば、幸いですわ」
口当たりがまろやかで仄かな甘みがある。どうやらエイローズ地方の特産物のようだ。
「ご相伴にあずかりまして、光栄でございますが、あの今さらですけれど……ルビーさんは?」
ミィが尋ねる。今回聞きたい事の本題が上がった。セダもアーリアとミィの会話に注目する。
「あれは客人ではありませんから。別室で待機させております」
カップに視線を落としてアーリアが即答する。
「失礼ながら、ずいぶんと手荒ななさりようでしたが、エイローズではどのようなお方かお伺いしてもよろしゅうございますか?」
ミィもなんだかんだ言いつつ、王家の一員だけあって話運びは巧い。
「そういえば、お知り合いのようでしたね。ご説明の前に、ミィ様とはどのようなご縁があったのかを是非お伺いしたいのですが」
ミィがぐっと言葉に詰まるが、不自然ではない間を置いて話し始めた。
「砂岩加工の素晴らしい腕をお持ちでしたので、スカウトしようと思いました。エイローズの方とは存じ上げませんでしたので」
「ああ、そうですね」
アーリアはミィの答えでどの程度の関係かを理解した様子だ。
「ルビィ、ルビーなどという名で活動しておりましたあの者は、本名をセーン=エイローズと申します」
「セーン様?」
「はい。御承知の通り、エイローズの者でございます」
「よく御見かけしない方ですが、本家の方ではないのですか?」
「エイローズの中でも下流に相当する家の出です」
想像していた通り、情報を教える気はあまりないようだ。
「あんたらエイローズでは、親戚同士でそうやって罪人みたいに引っ立てて連れてくるのかよ。あんなに嫌がってでも無理やりに連れてくるのか?」
セダがアーリアに厳しい視線を向けて問うた。アーリアは苦笑する。
「手厳しい。セーンは半成人の儀式をすっぽかしました。本家の命令に背いたのです。ゆえに、本家ではその行方を追い、真意を問いただそうとしていたのです」
「半成人の儀式?」
「それだけの理由ですか?」
二人同時に別の事を尋ねる。
「まずは、ミィ様。我らエイローズはヴァン家とは違い、当主の命令は絶対です。背くことはすなわち王家の義務を放棄したとみなし、人々の生活を支える我々としては重い罰を下すこととなっています。我々エイローズでは責任が重い者ほどその職務を蔑ろにした場合の罪は重くなります」
「そんな……」
ミィが呟く。アーリアは今度セダの方を見て話し始めた。
「セダ様。半成人の儀とは我ら三大王家が己の歩む道筋を宣言する、いわば将来が決まる大切な儀式です。王家ではそれをどうしても無理な場合を除き、出席しないのはあり得ません」
「じゃ、セーンって人は、罪人に近いってことなのか?」
「仰るとおりです」
アーリアがそう言った。
確かにそう説明されると納得できる。セーンが元々エイローズ家内でのしきたりを破ったと言うのなら、セーンが悪いのだろう。でも、だからといってそれだけで女装をしてまで逃げようとするだろうか。
「じゃあ、なんでルビー、いや、セーンって人はそんなにあんたに対して怯えてたんだよ?」
「怯えていましたか?」
セダとアーリアでは話し合いの場数が違う。事実を、それもアーリアに負い目が在るのにそれをちらとも見せず平然としている。ここにグッカスがいれば、少しは違ったのだろうが。
「真っ青な顔をしてた。なぁ、あんたが言うセーンの罪は普通だったらどんな罰を与える? ミィ、ヴァン家ならどうだ?」
「え? ああ、確かにお叱りは受けそうだけど、そもそも犯罪ってわけじゃないし。うちはそんなに嫌なら無理にとは言わないし……。そりゃエイローズは厳しいお家って聞いているけれど」
ミィは独りごとのように小さく呟く。セダはそれを聞いて頷き、アーリアを見つめた。
「そうだろう。あんたの家がどうかは知らない。だけど、将来の事を決める儀式をさぼった位で、そのお叱りで怯えるなんて、あんたの家おかしいんじゃないのか?」
それは自分の将来を決める大切な王家の儀式だという。王家の義務だとも。
確かに王家ならば責任も多く、将来すべき仕事も決まっているのが当たり前なのかもしれない。ミィだって領主をやっている位だ。
だが、それが嫌な将来だったらどうするのだ? 王家と言うしがらみから抜け出せなくて、自分の将来は自分で決めたくて、それでさぼったのならば、それには正当性が在るように思えた。
その意志を聞かずに罰するのも一方的だと思う。セーンの意見を聞いてあげることが一番だと思う。
「おかしい?」
「そうさ。確かにあんたの言う事は一理あるかもしれない。だけど、自分の将来を自分で決める事が悪いとは思えない。それで怯えるほどの罰を課すなら、あんたん家はおかしいよ」
「さぁ? そこまでの厳罰を課したことはないと記憶しておりますが、さて……」
セダの責めにもアーリアは意も解さない。しれっとやり過ごされる。ミィも動揺を誘えるかと思っただけに残念そうだ。
「あの子とあんたの関係は? 大きな家にしてはやけに知り合いなんだな」
「知り合い? ですか……当主といたしましては一族を把握しているのは当然のことかと」
「ヴァン家も大きな家ですからその規模はわかります。さすがアーリア様、把握していらっしゃるとは」
ミィがそう言う。それに対し、アーリアは謙遜で答える。
「いえ」
「よろしければ教えていただけませんか? ルビーさん、いえ、セーンさんのことを」
アーリアはにっこりと微笑んだ。ようやく、核心を話し始めたな、と言いたげだ。
「わたくしがルビーと名乗っている彼がなぜ、ルビーと偽名を名乗り、女装をしているかは想像の域を出ませんので、割愛さえていただきますが、彼は山間の長閑な村で生まれ、育ちました。わたくしたち王家の思惑や行動などとは疎遠でした。ゆえに王家の責任を理解していないのは仕方のないことなのかもしれません」
「砂石加工師の家の生まれですか?」
ミィが問いを重ねる。それにすらすらと答えるアーリア。
「いいえ。彼の両親は酪農を営んでおりましたが、彼の近くにその職の者が居りました。それゆえでしょうね」
「それであの腕ですか。ではアーリア様は、彼をエイローズ専属の加工師として、ご命令を?」
「いえ。それは考え付きませんで。というのも、彼がそれだけの腕を持っているとわたくしが知ったのも、お恥ずかしい話、ごく最近のことでして。今ではそれもよいかと思いますが」
軽く笑いながら言うので笑いながらミィも答える。
「それは残念、ヴァンの方でスカウトを考えておりましたものを」
ミィが肩をすくめておどけて見せる。アーリアもそれを聞いて優雅に笑った。
「わたくしの方でもその腕を知っておりましたら、エイローズで囲っておりました」
笑い声に花が咲いたところでノック音が響き、給仕の女性が一礼して入ってくる。
「新しい御飲み物をお持ちいたしました」
そういえば、カップを覗き込むと紅茶はすっかり冷めている。招く側として冷めた紅茶をそのまま出すのは失礼にあたる。時間をタイミングを見計らって新しいものを持ってくるとはさすが行き届いていると言えるだろう。逆に、長居する予定でもないのに、お茶のお代わりを貰うほど時間を先伸ばすのは尋ねた側の失礼にあたる。そろそろ頃合いだとミィが視線で告げた。
「まぁ、もうそんなにお時間が。申し訳ありません、とんだ長居を」
「いえ。お楽しみいただけたなら幸いですわ。新しいお茶もご用意したところですし、もう一杯分お付き合い下さいな。今度は違う地方の茶葉で、ブレンドも少々違いますよ」
アーリアがそう言って微笑み、お茶を勧める。確かに一口飲むと先程のとは違い、後口にすっきりした味が広がる。そして香りも違う。
「これはファス地方のフェイミント葉では? 美味しい! このブレンドは初めてですが、とてもすっきりしていて、元のお茶はフラン? とにかく甘いのにすっきりしている。癖になりますね」
ミィはさすがお譲さまというだけあって、セダとは違い、ちゃんと感想を述べている。
「さすがミィ様。仰る通りです。既存のフラン果実茶にあの葉をくわえるとこんな味になります。このすっきりした味を出すのに苦労したんですよ」
「よい茶師をお持ちですね。さすが、感服です」
「そう言って頂けると幸いです。茶師も喜びましょう」
セダも確かに二、三杯軽く飲める味だとは思ったが、さすがにそこまではついて行けない。
茶の感想を述べ、二、三話を膨らませただけで頃合いと見たか、ミィが暇を告げた。セダも頷いて立ち上がる。
「ごちそうさまでした。ヴァン家でも茶葉のブレンドには力を入れなくては。勉強させていただいた気分で、得をしてしまいました」
屋敷の外まで見送ってくれたアーリアに二人して深く礼をする。アーリアは微笑んで謙遜を重ね、そこで会はお開きとなった。エイローズの家紋の入った馬車に揺られて、セダとミィはグッカス達が動くまでの時間が稼げただろうかとしきりに見えもしないのに振り返る。そういう躾なのか、騒ぎにはなっていないようだが、グッカス達は間に合っただろうか。
「出来ることはやったよな?」
「そうよね。あれ以上は無理だわ。失礼にあたる」
セダたちは目的が済めば離れればいいが、ミィはそうはいかない。これからもずっとアーリアと顔を合わせなければいけない。少しでもしこりを作らせてはいけない。
アーリアは馬車が見えなくなってもしばらく手を振り続けていたが、音も聞こえなくなったころ、ようやく腕を下ろした。それを見て、執事や家来が寄ってくる。
「ミィ様を見張るキョセルを誰かやれ。あの馬車がヴァン家まで行った後に、ミィ様がヴァン家のどこに行くか知りたい。キョセルはまだ余っている?」
家来の顔を見ることもなく、屋敷に向け脚を動かすアーリア。その歩みは女性にしては早く、テキパキとしている。
「はい」
応える部下もそれに慣れているのか、同じ速度で会話を続ける。
「では、あの客人、セダといったか。彼にも付けて頂戴」
「承知致しまして。ちなみに、先に放ったキョセルより、あの客人達の素性をある程度調べてございます」
「軽く報告して」
「はい。どうやら彼らは水の大陸からの親使の役を負った集団のようです。水の大陸の神国より、我がドゥバドゥールとの国交を結び直す親書を携えているそうです。しかし、妙な点があります」
「続けて」
アーリアはそのまま屋敷の中を歩き、階段を上っていく。
「彼らが皆学生であるという点です。重要な役目に関わらずシャイデの出身者ではないようです。彼らは水の大陸の公教育学校の生徒であり、学校か、はたまたシャイデかわかりませんが、そちらから出た課題などもこなしているようです」
「複数の目的を持っているということね。構成員は?」
「はい。先程ミィ様についていたのはセダ=ヴァールハイト。剣士に近いようです。他に同じ学校の生徒と思われる学生三名が居ります。一人は同じく男性、名をグッカス。橙色の髪が特徴です」
「ああ、それなら見たわ。ヴァンの使用人のふりをしていた彼ね」
「他は女性。テラ=S=ナーチェッドとヌグファ=ケンテ。ヌグファの方は魔法を使うようです。テラは弓でしょう。弓を携えた姿を目撃しております」
「他は?」
「宝人を連れているようです。しかも子供と言える年齢。名前は楓と光。能力は良く分かりませんが、契約紋があることからいずれかの者と契約している可能性が在ります。最後はリュミィと名乗る女性。唯一成人のようですが、出自がわかりません。一行のまとめ監視役なのかもしれません」
「ふーん」
アーリアは聞いているのかというような印象だが、部下はこれで主人の頭の中に情報として残ったことをちゃんと知っている。
「詳細はまだ調査中です」
「続けて。もういいわ。下がりなさい」
「はい」
調査結果を聞くうちに、目的の部屋の前に辿りついたからだ。ずいぶん高さが同じ屋敷とは言え違う。当たり前だ。ここは屋敷の中でもずいぶんと高い尖塔の内部の部屋なのだから。簡素なドア。それに見合わぬ鍵。部下が鍵を開ける。
アーリアは一応ノックをした。
「失礼するわよ」
それはまさしくノック音を聞いて慌てて立ち上がった様がうかがえた姿だった。かといって立ち上がっても数歩歩く位の広さしかない部屋だ。立ち上がって後退したところでどうすればいいかわからずに、その場で立ち済んでしまったようだ。
見た目はまさしく少女。化粧気のない顔や整えてもいない髪、みずぼらしいと言える薄汚れた格好。でも少女は生き生きして見えたし、輝かんばかりに見えた――この屋敷に来る前までは。
「こんな手荒い歓迎でごめんあそばせ」
少女は口を利かない。口を聞いて声が少し少女にしては低い事を気にしているのかもしれないし、己の自由を取り上げたアーリアに怒っているのかもしれないし、はたまた、これから起こりうることを想像して恐怖して口が利けないのかもしれなかった。でも、アーリアにとってはどうでもいいことだ。
「名は、どちらで呼んだ方がよろしいの? ルビー? それともセーン?」
「わたくしはしがない砂岩加工師の卵でございます。アーリア=エイローズ様」
「そう」
アーリアは甘く微笑んだ。対する少女はもっと青ざめる。
「では、ルビーとお呼びするわ」
「何の御用ですか? 腕の披露というには狭い場所ですね」
「わたくしがこれからあなたに砂岩加工を披露せよと、ここに連れだって閉じ込めたとでも?」
アーリアが一歩踏み出す。少女は一歩後退する。微笑まずにはいられない。なんて哀れな。そして自分にとってはなんて愉快な。獲物を追い詰める肉食獣にでもなった気分だ。
「逃げることはないのよ?」
口で囁き微笑んでも警戒を解かない、弱き獲物。もう、後退できない壁際まで追い詰めた。追いかけっこをするには狭すぎたのだ。
「ルビー」
偽名を呼んでやる。同じ位の背丈では、その顔の傍に腕を置き、もう動けないようにすることはたやすい。
「ちょっとごめんあそばせ」
もう片方の手で前髪を梳いてやる。さらりとした髪は手入れもろくに慣れておらず乾燥したものだったが、逆にそれが心地よい気さえした。そのまま髪から指を離し、顔のラインに沿うように頬を撫でる。
誰もがその魅力的な瞳に魅入られ、男女関係なくその指先に触れられる事を自ら請うような美しいアーリア。そのアーリアが触れても少女は嫌悪感を示す。彼女の美しい萌黄色の瞳が指先を追っていたが、アーリアの指がそのまま顎に達し首に移ろうとした時、その瞳がアーリアの瞳を射抜くように見上げた。
「触るな!」
三大王家エイローズの頂点に立つアーリアに喜んで身を差し出す者は五万といるだろうに、その真逆で触れるなと命令する者など、同じエイローズでは、この目の前の人物だけだろう。
「いやよ」
よりいっそう微笑んで、アーリアは首筋を整った爪先で軽くひっかくように下ろして行く。きっちり一番上まで締められた詰襟。飾りボタンに手を掛けると少女の動揺が伝わって来た。
「何をなさいます? いくら高貴の身の上とはいえ、服を脱そうとはいただけませんよ?」
「ふふふ。いいじゃない。女同士なら、なおさら。見られて困らなくてよ」
女装が仇になったとでも言いたげに、ルビーはその身を軽く震わせている。
「そう言う問題でもなく、はしたない行為ですよ。貴女の評判を落としかねません」
「いいのよ。あなたとのうわさが立てられるくらいなら、本望だわ」
甘く、そう、より一層甘く。誘惑するように、囁いてその瞳を覗き込む。
「人を拉致して、軟禁して、あまつさえこのような行為に及ぶ趣味があおりとはね」
「そうよ。あなた限定で。あなたにわたくし、興味があるの」
少女が目を見開く。
「うそだろ?」
「ほんとうよ」
アーリアはそう言って一番上のボタンをはずした。喉が息を飲んで上下した。
こんな行為をするのは初めてで、少しドキドキする。それ以上にエイローズの職務がある。だから、こんな変態と言われても仕方ない行為をしている。その飾りボタンをあと二つほど外し、その胸の上に白い肌だけが広がっているのか。それとも――。
確認せねばならない。彼女、いえ、彼のその胸に……。
――黄金に光り輝く王紋がその存在を主張しているかを、確認する必要があるのだから!
「やめろ」
ルビーが本気で叫び、その手を一回払いのける。
「いやよ」
「やめろったら! 俺に触るな!」
ルビー暴れ出す。アーリアもさすがに一人では抑えられない。入口に控えている部下を呼ぼうとしたその時――。
二人以外の音が、存在を知らせた――。
...062
密かにエイローズの屋敷の隣にある雑木林まで移動したグッカスは、素人目だが、矢が放ちやすく、なおかつルビーが囚われている場所にテラが矢を放てる場所に目算をつけた。
そのまま、気配を殺して、渡された火晶石を握りこむ。そしてその火晶石を自分から少し離れた地面に置いた。火晶石で転移するということは、おそらくあの火晶石は燃えるのだろうと予想してのことだ。
グッカスは楓たちと別れた後に、屋敷の者にある物を要求し、それを持ってきた。そして、二人を待つ。
――ボッ!
着火音が響いた刹那、橙色の炎が何もない雑木林の隙間で広がり、大きめな炎の中心に影が映る。影が映ったと思った時にはその影が色を濃くし、そのまま人影となって炎から二人の人間が吐きだされるように出現した。二人が移動した後には、あんなに燃え盛った炎は瞬時に消え、火晶石は半分に割れた後に、昇華するように塵も残さず消えていた。役目を終えた晶石は消えるからだろう。
「待たせた?」
初めて転移を経験したテラは自分の感覚に慣れないようで身体をあちこち触ったり、きょろきょろと辺りを見渡していた。炎の宝人である楓は至って普通の様ですぐにグッカスに声を掛ける。
「いや、どうだろうな」
何せ、時間を確認しようにも木のせいで太陽の位置を確認できないからだ。
「じゃ、早速やろうか」
テラがようやく転移の感覚を忘れたのか、切り替えたのか知らないがグッカスに声を掛けた。
「その前に、これを着ろ」
グッカスは用意した黒衣を二人に手渡す。
「なにこれ?」
テラが手に取ってうろん気に、楓が不思議そうに視線で問う。
「相手はやり手の女当主だ。何故かセダの名を知っていた。もしかすると、俺たちの名前位はばれていると思う。姿を隠した方がいい。テラは矢を放った後でもいいが、楓は最初から着ておけ」
楓は素直に頷いて、グッカスに手ほどきを受けながらなんとか目線だけのぞかせるような、見事な妖しい不審人物に早変わりした。テラは着ようか迷っていたようだったが、腕の、特に弓を引く動作に邪魔になると判断したようで、着こみはしなかった。
「それと、楓。お前は契約紋の色で何を扱う宝人かすぐに知れる。絶対フードは取るなよ」
「うん」
深いフードのおかげで目立つ契約紋は見えない状態になっている。
「あと前にヌグファに聞いた事が在るんだが……。楓、炎を出す際にモーションをくわえてほしいんだ。できるか?」
「モーション?」
グッカスが頷いた。
「魔法の基本は円らしい。つまり炎を出す前に適当に円形を空中に描くフリができれば宝人の仕業とは思われにくいというわけだ」
魔法は使いやすさから近代魔法が圧倒的に使用者が多いが、古代魔法なら詠唱がいらず、複雑な魔法が可能となる場合が多い。炎の宝人が少ない現実と火が付きにくいゆえに炎の魔法が滅多に使用されないことからして、宝人の炎と魔法の炎の見分けがつかないと踏んだ訳だ。魔法使いと勝手に思ってくれるとこちらは正体がばれる確率がいっきに下がる。
「それって、こんな感じ?」
楓は目の前で大きな円を空中に描くとその指先を追うように火が一瞬点り、炎の円形が描かれて消えた。
「んー? こんな感じだよ」
テラがルームメイト同士、見たことがあるのか身体の前で円を描き、その後で何かを付け加えるように複雑に手を滑らせた後で言う。魔法使いがみれば一瞬でばれそうな魔法陣の真似だった。
「こんな動作の後にポッと火が付けばリアルな魔法ってとこじゃない?」
「そうだな。そんな動きが近いか」
ヌグファは近代魔法と古代魔法を両方使うので、二人の記憶もあいまいだ。他の魔法科の生徒も数多く見えているはずなのだが。近くにいる者が印象強くなってしまうと言うところか。
「ええっと……」
テラのまねをするように楓が円形を描いた後に適当に指を動かして、炎が点る。
「こんな感じ?」
「そうそう。だいぶ近い」
「いいんじゃないか」
「……不安が残るね。余裕があれば出来そうだけど」
「近場に宝人がいれば別だが、人間相手なら騙せそうだな。もちろん、余裕があればでいい」
「わかった」
楓は緊張と不安を隠すようにフードを深くかぶりなおした。テラが笑いかけて楓の肩を叩くと、やっと辺りを見渡した。
「あの尖塔の窓?」
「そうだ」
それを確認したテラは木々の枝の位置を確認すると良さそうな場所を自分で見つくろい、樹に登り始めた。
「グッカス。悪いけれど、転移は僕と触れ合っていないと一緒に運べないんだ。テラと手と繋いだままで僕が転移してくるのを待つかしてくれると助かるんだけれど」
グッカスはそれを聞いてその状況を軽く考えたようだ。
「わかった。テラの肩に小鳥の姿で留っていることにする。俺の姿が見えなくても気にするな。最悪鳥の姿でやり過ごせるし、自分で帰れるから」
「そう。わかった」
楓は頷くと、尖塔に視線を向け、テラを見上げた。
一番に位置にある枝を選んだテラはしばらく風向きと強さを確認しているようだ。テラの前髪が時折風になびいている。テラは静かに姿勢を正した。グッカスは真下からそれを見上げている。背に背負った少女が持つには大きな弓を下ろし、弦の張り具合を確かめる。 そして、深呼吸を一回。
準備が整ったようだ。
テラが静かに弓を構え、すっと視線をはるか彼方に向ける。番えた矢の飾り羽には小さな火晶石がくくりつけられていた。見ているだけで弓弦が引っ張られる音が聞こえてきそうなほどに、テラの全身を使って弓が引かれて行く。引いている途中は弦の強さに負けて震えていた指先も、引き切ってしまえばびたりとも動かない。見据えられた目。引きしまった口。定まった的。
パン。
乾いた音を立てて矢が放たれた。残心を崩さず、そのままの姿勢をしばらく保ったまま、テラは矢の行方を追った。自分の腕を信じていないわけではないが、最後までいつも少しの不安があったりする。その刹那の思考さえ奪うように、本当に矢は瞬時に結果を知らせてくれるのだが。
ガシャーン。
距離が遠いおかげでそこまで大きな音ではなく、まるで嘘のように聴こえたが、確かに的が外れなかった証拠だ。テラはようやく姿勢を崩し、小さくガッツポーズをした。下を向いて二人を見ようとした時、音もなく楓が炎と共に消えた。――転移したのだ。それを見て、作戦はむしろこれからだと気を引き締め直し、弓を素早く背負いなおして樹を降りる。
「さすがだな、テラ」
グッカスの短い賛辞に少し照れながら、黒衣を身につける。するとグッカスが小鳥に変じてテラの肩に止まった。
「これだと目立ちそうだ。テラ黒衣の中に入れてもらってもいいか?」
「ん? どうぞ」
少し襟元を緩めると温かな小鳥が飛びこんで、動かなくなる。
「楓大丈夫かなぁ?」
「どうだろうな」
耳元で声が聞こえるのが少しくすぐったい。
「なんにせよ、賽は投げられた、むしろ矢は放たれた」
「そうね」
二人は窓ガラスが無残にも破られた、ここからでは小さな的を眺めつづけた。
矢が狙い通りに窓を突き破って室内に侵入した。それを確認した刹那、楓は己が生み出した火石に向かって転移した。
――だが。
(……どういう状況??)
楓が混乱したのも無理はなかった。なにせ、ルビーだけがいると思われた部屋には複数の人がいたからだ。そういう意味では変装を指示したグッカスは場数を踏んでいて先見の明がある。
ルビーの顔は覚えていたからすぐにわかった。壁際に追い詰められている小柄な少女だ。ルビーの前には漆黒のドレスを着こなした美女が新たに侵入した楓を睨みつけている。その他にはおそらくここの屋敷の人物であろう臙脂色のエンブレムを付けた同じ服を着た人が数人入口の付近におり、何より楓が混乱したのは、自分と同じような黒い衣に身を包んだ、あからさまにあやしー人物がエイローズの屋敷の人とにらみ合っていたからだ。
「またしても曲者か!」
美女、当主のアーリアが叫び、エイローズの者が緊張する。
「仲間か? 人の屋敷を壊して日中から堂々としたことだな!!」
だが、当然元々怪しげな人と楓はお知り合いではない。怪しげな人たちも新たな侵入者である楓に殺気を向けている。
(困ったな)
こんなに人がいるとも思わなかった。そこは楓の経験の浅さが招いた結果だろう。困っているテラたちになにか手伝ってあげたくて快く引き受けたのだが、ルビーを攫う為に他の人間と争うという想定をしていなかったのである。
「まとめてひっとらえよ!」
アーリアが叫び、エイローズの屋敷の者が武装して部屋に入ってくる。黒い服の者らは応戦しつつも、残った人数でアーリアとルビーを囲む。それも当然で狭いこの部屋では入ってこられる人数も限られている。
「その少女を渡せ」
黒服の一人がアーリアに言う。
「誰に物を言っている!!」
アーリアが肩を怒らせて逆に言い返した。
「怪我をすることになるぞ!」
「それでわたくしを脅せると思うか!!」
武器も何一つ持っていない少女は胸を張って侵入者である黒衣の者をにらみ返した。そうやっている間にも黒衣の一人が楓を排除しようと向かってくる。
(傷つけないで)
小さく指先で円を描いて、その後に適当に指を走らせる。そして向かってきた黒服に向けて指を差す。
――ボッ!!!
「うわぁあああ!!」
男がフードの先に点った炎を見て、仰天し、部屋を後退しつつ、というか、駆けまわる。
(よし、こんな感じでいこう)
楓は先程より大きな円を描き、縦横無尽に腕だけでダンスを踊るように動かす。一瞬で黒服たちが一部燃えだした。場は一気に混乱する。その間に楓はアーリアの前まで移動する。
「わたくしも燃やすか?」
黒服の仲間ではないと分かったと見え、アーリアがそう言う。相変わらずに敵意はそのままだ。
(どうしようか)
屋敷に侵入して、それを守ろうとした主人に見えた楓にとって、この女性に恐怖心を与えるのは気が引けた。
「どうした? やってみるがいい!」
アーリアは炎を恐れなさそうだ。楓は指をアーリアの前に差し出す。アーリアは瞬きもせずにその指を視線だけで折ろうかと言う位の眼光だった。だが、そうやってルビーから視線が逸れた刹那、楓はルビーの腕を取った。
(テラ!!)
念じて、瞬時応えるかのように明るい炎が燃える!
――テラ!!
「来る!」
テラが短く叫んだ刹那、雑巾林の先の方で、こっちだ、という声が聞こえた。
ルビーの部屋で何が起きているかは知らずとも、硝子が割られた方向からどこから矢が射られたかを察し、警備の者が駆け付けると踏んだからこそ、グッカスはテラにも変装をさせたのである。
「楓か?」
「たぶん」
足音が近づいてくる。まだテラの耳には届かないかもしれないが、グッカスの内心は焦る。
しかし、次の瞬間、着火音が聞こえ、黒い服の少年がしっかりルビーの腕を握って姿を現した。
「急げ!」
グッカスが叫ぶと楓は返事もせずに反対の手でテラの手を取った。
瞬時、炎が燃え、刹那で消える。
「くそ! いないぞ! 周囲を探せ」
炎で消え去ったとも知らず、エイローズの屋敷の警備兵は辺りの散策を続けた。
楓が炎で転移した後、残された尖塔の部屋では、目的の人物が消えたと知って、黒服が窓から一斉に逃げ出した。
「逃すな!」
アーリアの命令がなくとも、すでに侵入者を追うキョセルが放たれているはずだった。
「アーリア様……」
「わかってるわ。貴方達の不手際じゃない。どうやらあの子を狙う者は複数いるようね。カール!」
アーリアが呼ぶと背後に黒い影が控える。
「ユンと共に最重要に今のやつらを探って」
カールと呼ばれた青年が頷く。
「腐れジジ王め。ついに尻尾を出したわね……」
アーリアはそう言って反転する。この部屋にもう用はない、と言いたげに。
「うわぁ!」
小屋の中で一行を待つヌグファと光の元に大きな炎が噴き上がるようにして三人の人影が現れた。
声を上げたのはテラでもグッカスでもましてや楓でもない。ルビーだった。
「追っ手は?」
「たぶん大丈夫」
答えたのは楓。投げ出された形でへたり込んだルビーは状況がつかめなくて益々混乱する。
「セダたちは?」
テラが尋ね、ヌグファが応える。
「まだです。ですが念をということで、この小屋の出入りは楓の転移に頼ろうという話をリュミィと」
「それがいい」
グッカスが目を白黒させているルビーの視界に入らない場所で人に戻る。
「楓すごーい」
「いや、初めてで、僕もどきどきだよ」
光と楓が微笑ましい会話をする。テラが黒衣を脱ぎ捨て、ルビーの目の前に座った。
「初めまして。ルビーさん。私はテラ」
手を差し出すが、警戒に戻ったルビーは手を握り返そうとはしない。
「助けてもらって感謝するけど、あんたら何?」
「えっと、何って……えっと、なんだっけ?」
テラがグッカスを振り返った。グッカスが呆れた声で言った。
「お前馬鹿か」
「とりあえず、あんたはエイローズから追われていて捕まりたくないんだろう? それを傍で見てたお人よしがいて、そいつの指示であんたを攫ってきた。逃げられると苦労が水の泡になる」
グッカスがそう言うと、ルビーは疑惑の眼差しを向ける。
「お人よし?」
「そ。底なしのな。あんたが捕まる時に一緒の場所にいて、お茶に誘われたお嬢さまのお付をしてた金髪少年。あれ」
ルビーが目を丸くした。
「ってことは、ここはヴァン家!?」
中々洞察力のある人物の様だ。
「ご明察」
テラが笑う。
「冗談じゃない!」
立ち上がったルビーに向けてテラが腕をつかんだ。グッカスが溜息をつく。
「いや。俺たちはヴァン家の者じゃない。というか、土の大陸の人間ですらない。あんたらの事情はおそらく半分も知らない」
「土の大陸じゃ……ない?」
驚きが少し交った顔で尋ねると全員が首を縦に振った。
「私たち、水の大陸のセヴンスクールと言って、ご存じかわかりませんが、そこの生徒です」
ヌグファが苦笑しつつ言った。
「まぁ、俺らが世話になっているミィはけっこう間抜けだし、裏表ないし、嘘つける器用人じゃないからな。信用してくれと言って信用しなさそうだが、数日気を静めるつもりでいてくれると助かる。少なくともあんたを助けたがったセダとミィが戻ってくるまではな」
「そうそ。あなたを助ける為にミィは苦手なアーリアさんだっけ? とお茶したし、セダも慣れない場所を承知で時間稼ぎしたんだから。ちょっとは信じてほしいわ」
テラが笑いながら言う。
「ちょっとでも隠すと信用なくしそうだし、状況を教えましょうか?」
テラがにっこり笑いながら言う。
「ここはヴァン家の敷地内なんだけれど、その中でもミィとミィの双子のキィと二人のお付の人しか知らない場所なの。倉庫の一つって言ってたかしら? そこを間借りさせてもらったの。あなたを匿う為にね」
「匿う?」
「そう。なんか追われているみたいだし。しかもこの国キョセルだっけ? っていうのがいるからさ、ただヴァン家に招いたらばれちゃうかなってない知恵振り絞ったのよー? で、こういう待遇になってます」
おわかり? と言いたげにテラが窓の外を示した。
「で、どこまで効くかわかんないんだけれど、そこにいるヌグファが魔法でこの小屋全体に人避けの魔法をかけているの。人の移動はさっき経験したと思うけど、宝人の楓がやってくれるわ。これであなたがここにいることはまずばれないかなーって思っているの」
楓が照れたように軽く手を振った。光も一緒に振っているのが何故か微笑ましい。
「じゃ、あんたらで保護してくれるってそういう話? ずいぶん親切なんだねー。犯罪者とか考えなかったの?」
疑惑の目線はまだ緩まないようだ。それはそうだろう。あそこまで徹底的に逃げて隠れてきたのだ。ちょっとした事で人を信頼して、痛い目に何度もあって来たのかもしれない。
「あなたはそんなことしていない。だって魂がこんなに澄んでいる人も珍しい」
光が遠くを見るような目でそう言った。言われた瞬間に少女が驚く。
「何言って……?」
「一応紹介するわね。彼女は光。彼女も宝人で、宝人だけの特技を持っている子なの」
ええっと、と言いたげにテラが光を見る。光もなんと説明しようかと思っているようだ。そこにグッカスが割り込む。
「まぁ、状況は分かってもらえただろう。とりあえず、セダたちも戻らないことだ。こちらに害意がないことは少なくとも理解してもらえただろう。少し休んでもらえばどうだ?」
「じゃ、案内するよ! 一生懸命掃除したんだ」
光がそう言って、ルビーの手を取って二階に誘う。一人の空間の方が安心するかと、皆と別れた後に二階を掃除したのだ。楓も一緒に二階に上がっていく。テラたちはあえてそれについて行かず、二人に任せる事にした。
「さて、これでどうなることかな」
グッカスがそう言う。
「まったく、とんだ大事に巻き込まれたものですわ」
リュミィが初めて口を開く。
「そうだな。だが、あの少女、じゃなくて彼が鍵を握っていることには間違いないんだ。世話になっている手前、ミィには手助けしてやるべきだろう」
「……あれ? いつもより親切じゃん。グッカス」
グッカスは鼻を鳴らして、ふいっと横を向く。その様子を見てヌグファが軽く笑った。
...063
アーリアが訪れたのはエイローズ家の離れだ。この時間なら二人とも居る時間と知ってのことだ。
「失礼しますわ」
ノック音に応える声がする。
「ご機嫌いかがです?」
部屋の中には男女がそれぞれの仕事から手を休めてアーリアを出迎える。しかし、その目線に親しげな感じはなく、むしろ歓迎していない雰囲気がほんの少し漂う。
「いつもとかわりありませんわ、アーリア様」
答えたのは女。中年を迎える年齢とは言え、その顔つきは若々しい。
「何かわたくし共に御用でしょうか?」
「そんなに構えずともよろしいのですよ。お二人とも。わたくしとて、なんとなく会いたくなる方というのはいらっしゃるのですわ」
微笑んで部屋に入る。
「とはいえ、こんな待遇を強いているわたくしを歓迎できようはずもありませんわね。でも、少しお話しに付き合って下さいな。ディー様、並びにリリィ様」
「いえ。ここまで良い待遇で迎えて頂き、文句などある筈もございません。エイローズに連なる者としては貴女様に意見等とんでもないことでございます」
拝礼の形を取って男性が応えた。女性はお茶を注いだカップをアーリアに差し出した。アーリアも一礼して受け取った。香を嗅いで、ふっとリラックスした気分になる。一口飲んでほっとした溜息をついた。
「美味しい。リリィ様が入れて下さると、どうしてこんなに安心できるのかしら。ここまで疑いもせずに飲めるからかしら……」
「医術を志したことが在る身ゆえ、命の大切さを知っていると自負しております」
「本当に、お二人からは学ぶことが多いですわ。わたくしもまだまだと思いなおします。あなた方お二人の元で育ったからこそ、彼はあんなに真っすぐお育ちになったのでしょうね」
アーリアが微笑むと二人がびくり、とした。
「先程久方ぶりにご子息にお会いしましたよ」
「え?!」
「どこで?」
二人が食いついたのを見て、アーリアは満足そうに微笑んだ。
「無事なのですか?」
「今は、どこに?」
「元気そうでした。でも、逃げられてしまいました。お二人をこのような目に合わせているのですもの。わたくしは相当彼に嫌われているようですわ。わたくしは、彼ほど印象に残った人物はおりませんでしたのに」
寂しそうに言う。リリィが慌てた顔を戻し、母親のように微笑んだ。
「セーンのことをそこまで気にいって下さいましたの?」
この二人こそ、セーンの両親。セーンが逃げている傍らで、両親である二人はアーリアによって保護という名目で穏やかな軟禁生活を送っている。
「はい」
それは大切な想い出を抱くようにアーリアは微笑む。
「あれは十歳の儀式の時で、初めて彼、いえ、セーンに会ったのです。大変印象的でした。彼だけが輝いてわたくしには見えたのです」
セーンが様々な事を叩きこまれてエイローズの本家に脚を運んだのは新年が開けてからだった。すぐさま両親や村人と離されて大きな部屋に案内された。明るい部屋に着飾った同年代の子供達。豪勢な料理がずらりと部屋の両脇に並び、あちらこちらで会話が花開く中、セーンは誰も知り合いがおらず、かといってどうすればいいかなどの指示も受けていないため、しばらくは席について様子をうかがっていた。
幼い子供らは知り合い同士で固まって会話を楽しんでいる。そこに到底入って行ける雰囲気ではなく、セーンはせっかくだし、自由にしてもよいと案内してくれた大人の人に言われたので、この会を楽しもうと料理に手を付けた。この部屋にある以上、自分らをもてなすために造られたのだろうし、食べないのは食物に悪い気がした。
「おいしい!」
失礼にあたらないように、かつ食べ過ぎないように、適度に気になった料理を口に運ぶ。
「君、見かけない子だな。どこの子?」
それは綺麗に見えた菓子を取りに行った時、近場の男の子に掛けられた言葉だった。
「サルン」
短く応える。どう考えてもその目線が見下されているようで不愉快だったからだ。
「サルン? どこだっけ?」
「どこだ? それに、なんだい? そのみずぼらしい服」
セーンはむっとして少年を見返す。確かに少年に比べれば布地も上等じゃないし、装飾品や刺繍だって多くもなければ美しくもない。でも村人たちが長い時間をかけてこの会の為だけにセーンにあつらえてくれたものだ。見劣りはするだろうが、セーンはこれをみすぼらしいなどとは思わなかった。
「おい、なんて名前だ? もし君が俺の陣営に入る気なら、考えてあげてもいいよ。将来は何になるんだ? その体つきからして武君じゃないだろう? 文君かい?」
セーンは少年をねめつけて、一言述べた。
「まず人に名を訪ねる時は自分から名乗るのが礼儀じゃないの? それにそうやって人を見下すような発言はすべきじゃないと俺は思う」
セーンはそう言い返すと目的のお菓子を取って踵を返した。
「な! 生意気だぞ!! お前、俺をだれかわかっているのか?!」
少年は叫び、周囲にいた子供達も同調するように言った。
「俺を敵に回して将来後悔するぞ」
セーンは振り返って呆れた。こんな子供の時から将来を気にしてどうするんだ。
「俺は君がどこの誰か知らないし、興味もない」
セーンがそう言い放つと、少年は何かを言いたげに拳を震わせていたが、しばらくしてセーンから離れて行ったので、ほっと一安心した。
「あなた、面白いのね。彼は西の都市を治めるビーティ様のご子息よ? 大丈夫なの?」
お菓子を頬張ったところで話しかけられたので、セーンは驚いてむせてしまった。
「あら、驚かせた? ごめんなさい」
綺麗な少女はそう言って飲み物を差し出してくれる。セーンは一礼してそれを受け取り、なんとか飲みこむ事に成功した。同い年にしてはセーンより背も高く、大人びた少女だった。もしかしたらここらの子供の姉弟で一緒に会場入りしているのかもしれないと頭の片隅でそう思った。
「大丈夫もなにも、ああいう感じの人はたぶん友達になれなさそうだから」
「あはは。面白い考え方ね! 友達ね。そうか、そういう意味ではこの場で友達同士はどのくらいいるのかしら。せっかくの儀式と言う名のイベントなのに、それは少し寂しい事だわ」
少女は同じ飲み物を口に含んで微笑んだ。
「あなた、将来は何になりたいの?」
「なんでみんなそんなことばかりここで話しているのか、俺にはそっちの方が不思議だけど。俺の村では将来何になりたいかなんてみんな考えてないけれどなぁ」
セーンにとって将来もなにも、同じような暮らしを続けていきたいくらいしかない。村の子供達も同じようなものだろう。将来は何になりたいって言われても、同じように平和に幸せに健康に暮らしていければそれでいいと思っていると思う。
「だって、将来自分が何になるかによって自分の運命が変わってしまうのよ? みんな牽制し合うのは当たり前でしょう?」
セーンは首をかしげてしまう。
「運命? そんなに大事なの? 将来が? まだ決まってもいないのに? 変なの」
少女が逆に目をぱちくりとさせて不思議がった。
「決まっていないから、気になるんじゃないの」
「決まっていないから、自由に選べるんじゃないの? 俺の家の生計は羊毛だけれど、他にも動物を飼っているし、俺は他に興味のある事もたくさんあるよ。楽しく過ごせればそれでいいけれどな」
少女は驚いて、そしてセーンの発言を噛みしめるように頷いた。
「そうね。そういう考え方もできるの……。あなたってすごいわ」
「いや、すごいって……大したことは言ってないよ」
少女は身を乗り出して問うた。
「ね、あなたは普段どんな暮らしをしているの?」
「俺? 羊の世話をしたり、ヤギの乳を取ったり、家の手伝いをして、学校に行って、友達と遊んで……」
「へぇ! どんな遊びをするの? 羊の世話ってどんな事をするのかしら?」
少女はそんな調子でセーンの日常を目を輝かせて聞き入った。セーンもあまりに少女が楽しそうに話すものだから嬉しくなって話す。一通り話した頃、少女は寂しそうに呟いた。
「いいわね。わたくしも、そんな生活が一度はしてみたいわ」
「君はどんな暮らしをしているの?」
少女は溜息と共に言った。
「勉強したり、礼儀だのマナーだので堅苦しいことをしたりするわ。大人に監視されていない時間はないし、そうね……友達もいないわ」
今度はセーンが驚く場面だった。こんなに可愛くて聴き上手なのに、友達がいないなんて。
「かけっこだってしたことがないわ」
「じゃ、俺と友達になればいいよ! それで君がサルンに来るようなことがあったら一緒に日が暮れるまで遊ぼうよ! 俺がいつもしている事で君がしたいことがあったらみんな一緒にやればいいよ!」
少女は目を輝かせてセーンの手を両手で握る。
「本当に? わたくしと友達になってくれる?」
「うん!」
「じゃ、わたくしが、もしも、もしもの話よ。もし、あなたの村に遊びに行けたなら、その時は一緒に過ごして、一緒に遊んでくれる? ずっと一緒にいてくれる?」
「もちろんだよ! だって友達じゃないか」
セーンが笑顔で言うと少女は頬を赤らめてそしてとびきりの笑顔を見せた。
「あ、自己紹介がまだだったね。俺、セーン。セーン=エイローズ」
「セーンね。わたくしは……」
少女が名乗ろうとした時、入口の方で大人が声を上げた。
「アーリア様! もう、こちらにおいででしたか!!」
その瞬間、少女から笑顔がはがれおちる。無表情に戻った後に、セーンの手を離し、大人の方を振り返った。
「もうしわけありませんわ。気が急いておりましたの」
そして一瞬、セーンを振り返って、声には出さずこう言った。
(またね)
セーンもそれを受けて軽く手を振った。セーンは少女を見送る。少女はセーンから離れた瞬間に大人や大勢の子供達に囲まれていた。その時は人気者なんだな、くらいにしか思わなかったが、ずっと後になって彼女が当主であるアーリア=エイローズであることが知れたのだった。
逆にアーリアはセーンと話した事をずっと忘れていない。
会場の中でひっそりと自分の配下に相応しそうな子供を探していただけだった。軽い気持ちだったのに、一人孤立していたセーンを見つけた。最初は輪に溶け込めないのかと思ったが、違う。彼は一人でも平然と楽しそうだったのだ。
その姿が集まってこれからの保身に走る他の、大人たちの刷り込みを受けて大人ぶった子供に比べて輝いて見えた。平然と当然の事を言い返すその姿。もう、彼しか目に入らなかった。
――憧れた。
彼だけが輝いて見えた。彼の姿に、そのたった十年しか生きていないはずの少年の生き様に焦がれた。
大人とやり合う日常に浸かった自分が、彼の村で一緒に笑顔で羽を伸ばせたら。彼の様に笑い、当然の事を堂々と言えるその姿が、羨ましかった。彼のようになりたかった。
でも、現実はそうはいかず。
結局子供の口約束で、アーリアはセーンの暮らすサルン村に訪れることはなかったし、アーリアが彼に倣って清く生きることも叶わなかった。
それでも、心に彼のような者がいる。幸せなエイローズの民の代表のような彼の笑顔があったからこそ、アーリアは生き抜いてこられた。彼の笑顔がいつしか希望になっていた。
だから、これがどんな運命のいたずらだと、思ったのだ。
彼が――王家の汚い部分から最も遠い場所にいる彼が次の王に選ばれた可能性が在ることに。
それは魔神の悪戯にも思えたし、清廉な彼だからこそ、当然にも思えた。自分の気持ちは捨て置いて、エイローズの当主として、当然その事実は確認しなければいけない。だから、彼の両親を攫ってまで、彼を追い詰めた。
彼がもし王なら。彼が本当に王に選ばれているならば、自分はどうするべきだろうか――。
彼をこれから汚い欲望や因縁、生きているのが一度は嫌になるような世界で息をさせてしまうなら、彼にこれからいらぬ苦労を掛けてまで王になってもらうのがいいだろうか。
それとも、自分の中の彼の美しさを保持するために、自分勝手に、それこそ自分勝手としか言えないが、殺してしまおうか。殺した方が、自分に事は有利に進むが、それで彼ではない最悪の者が王に選ばれたらどうする?
考え過ぎて、セーンをどう扱えばいいのかわからない。自分の憧れと理想を確かに十歳の彼は持っていた。だからといって彼が変わっていない保証はない。
アーリアは心を決めかねている。
もし、本当にセーンが王であったなら、エイローズの当主として自分はどういった行動に出るのが、一番エイローズの民を幸せに、豊かに、安全にできるだろうか――。
セーンがいない場で鳥に戻ったグッカスはそのままヴァン家の屋敷まで移動し、帰宅したセダとミィに状況を説明した。ミィは作戦が成功したことを喜び、執事の青年に後の事を任せて、セダたちの部屋に移動した。そこには事前に転移を済ませていた楓が二人を待っていて、ミィとセダを連れて転移する。グッカスは一応ミィにも鳥人であることを内緒にしているため、楓に二回に分けて転移をしてもらった。
「たっだいま~」
「セダ! ミィ!!」
光が立ちあがって二人を出迎える。
「よくやってくれたわ! 皆、ありがとう! で、あの子はどこに?」
「二階だよ」
ミィは早くルビーに会いたくて仕方がないようだ。それもそうだろう。彼が王であれば、双子の弟のキィは生贄にならずに済む。ヴァン家に戻ってくるのだ。
「呼んでくるね!」
天真爛漫な光に感化されたのか、ルビーが唯一、警戒をしない相手なのだった。
少しして、二人分の足音が聞こえてきて、すぐにルビーが姿を見せた。
「よかった! どこも怪我してないみたいね。グッカスに聞いてはいたんだけど、そこは心配だったから」
ミィはルビーにそう言って笑いかけた。ルビーはそれを聞いて驚き、そして俯いた。
「一応大丈夫。助けてくれてありがとう」
ルビーはそう言って頭を下げる。警戒をしていたようだが、エイローズから救ってくれた事実は変わりないと礼が言える人物のようだ。
「で、計画を主導した人が帰って来たみたいだし、自己紹介を兼ねて説明をしてもらえると助かる」
少女はそう言った。ミィが頷いた。
「私はミィ=ヴァン。ヴァン家直系の娘。ここはヴァン家でも私とキィが隠れ家に浸かっていた森林管理用の小屋よ。ここを知っているのはここにいるメンバーと私の所在を知っている執事だけだから、数日はあなたの所在もばれないでしょう」
「俺はセダ」
「私、テラ」
セダをはじめに皆が自己紹介をしていく。
「で、どうして見知らずのヴァン家のお姫様が助ける流れになるのさ? もしかして砂岩の加工の腕を見込んで?」
「あ、それも興味あるんだけれどね!」
ミィは頷いた。確かに砂岩加工師としての腕もよくて、スカウトしたかったのは本当なのだから。
「私には双子の弟がいるの。キィ=ヴァンっていうんだけれど。キィはね、ヴァン家での言い伝えでは時々生まれる『神子』なの。実は……」
「神子?!!」
ルビーが驚いて聞き返す。
「ヴァン家の始祖は神子だって言うけど、本当にいて、本当に生まれるんだ? じゃ、土が使えるの?」
「ええ。小さい頃はなんで私とか他の人が使えないのか不思議そうだったもの」
ミィがそう言う。ルビーは信じられないような顔をしていたが、事情を少し考えて理解したらしい。こう続ける。
「じゃ、あなたの弟、今は神殿にいるんだね?」
「そうよ。なんでわかるの?」
そこでキィがいたら、王家なら知っていてもおかしくないだろうと突っ込んでいただろう。
「……神子は有事の際には神殿に昇って、役目を果たさなきゃいけないって聞いた」
「……。……そうなのよね」
表情を曇らせてミィが言う。
「いつから? 神殿に入ってどれくらい?」
「三年前」
「そう」
ミィはがばっと頭を下げてルビーに必死に願い出た。
「お願い! どうか、王に即位して欲しいの!!」
座って会話をしていたので、土下座している様子で、必死に願う。少女が逆に驚いて、そして慌てた。
「え、ちょ! どうしてそういう流れになるんだよ!」
とりあえず頭を上げるように少女はミィに促した。
「このままだとキィは魔神さまの生贄となって死んでしまう! 王が立たずにもう六年! キィは今年十九になる。そしたら、それまでに王が立たなければ死んでしまうの!」
セダたちはキィが十九になるまでに新しい王がたたなければ生贄に選ばれるという事情は知らなかったが、キィが生贄に選ばれるまでには現実的な時間のタイムリミットがあったようだ。それならミィも焦るだろうし、なんでもしようと思うはずだ。
「っ……!」
少女が息を飲んで必死に頼み込むミィを揺れる瞳で見ている。
「なんで、お、いや、私に頼むのさ。だって……」
少女がそう言い淀むと、横から光がきっぱり言った。
「ううん。あなたはもう王に選ばれているはずだよ」
その瞬間、少女の目が見開かれた。
「なんで、そんなこと……言うんだ」
「あなたの魂はもう半人の形だもの。あなたはすでにもう半人。王になっている」
理解できない事を言われ、そして縋る目線でミィに見られ、少女がおろおろとして周囲を見渡した。
「それに、すまないけれど、アーリアって人の話からあんたが男ってこともわかってる」
セダが言うと少女は身をこわばらせた後で、ふーっと息を吐きだした。
「じゃ、エイローズの人間だって、知っているの?」
ミィが無言で頷くとルビーは溜息をついた。
「そう。じゃ、本気の相手に対して嘘をつくのは失礼だね」
ルビーはそう言って頭に手をやった。こめかみのあたりに指をやる。そしてしばらく頭の中に指をつっこんでいたかと思うと、慣れた様子で髪の房を取り外した。その手には明るい栗色の長い髪の毛が束になって握られている。かつらの一種を付け、髪が長い変装をしていたのだ。襟脚などは整えておらず、前髪も長い方だが、短くなったそのヘアースタイルでは中性的だった容姿が、ずいぶん少年側に傾くことに気付かされる。
「改めて、俺の名はセーン。セーン=エイローズ。あなたと同じく三大王家の出身」
セーンはそう言う。襟元を少し緩め、わずかな凹凸ながら喉仏が見えた。
「で、あなたたちは王が俺だと信じて疑っていないみたいだけど、その根拠は?」
セーンの言葉を返したのはリュミィだった。
「それには宝人がなにかを知って頂くことからですわ。あなた『魂見』という宝人の特殊技能はご存じ?」
「魂見? 確か……宝人が人を選ぶ際に魂を見て親和性を試すっていうやつ?」
リュミィだけではなくグッカスも目を丸くして軽く驚いた。
「よく知っていたな」
「習ったからね。で、その魂見がどうしたの?」
「こちらに居る光は宝人です」
「の、様だね。それが契約紋でしょう?」
光の顔には薄い水色の契約紋が浮かび上がっている。
「光はその魂見の能力を持つ宝人ですわ。魂見はその者が持つ技能のレベルに寄りますが、様々な情報を魂から読みとることができますの。魂の形や、どのエレメントに対して親和性が在るか、果てにはその者の性質等も見通すことができるのですわ」
光が頷く。グッカスは今の間に集中してセーンを視る。確かに、光が言うとおり彼の魂はジルやヘリーのように水の王らと同じ形をしていた。
「その光が視たところ、貴方の魂は『人』ではないと」
「うん。あなたの魂の形は『半人』。水の王と同じ形。守護を受けているエレメントは土と風。特にあなたは風のエレメントに愛されている」
光のその遠くを見つめるような目で見られ、セーンは驚いて一瞬呼吸を止めた。
「それで、俺が……王だと?」
「俺達、水の大陸からきて、水の神国の王に会っているんだ。その水の王らの魂と形が一緒なんだって」
セダがそう付け加える。
「お願い! 王になって。あなたが逃げているのには理由があるんでしょう? でも、キィを救うには王が即位しなければいけないの。どうか、お願い、王になって下さい」
縋りつかれてセーンが視線を泳がせる。そして堪え切れないように唇を強く噛んだ。
「……あと、二年なんだ!」
「?」
縋りついていたミィも思わず顔を上げる。
ぎゅっと目を閉じて、顔を背けたセーンは声を震わせて言った。
「王にはっ……なれないんだ!!」
「どうして!!」
絶望的な顔でミィが呟く。その手はセーンの肩を痛い位に握っていた。
「王にはなれないんだ。どうしても!!」
「なんで! どうしてよ!!」
ミィが叫んだ。セーンの胸倉を掴んで今にも飛びかからんばかりに叫ぶ。両目からは涙が零れ落ちた。
「ど、して! なんでキィを救ってくれないの!! やっと、やっと救えると……思ったのに!!」
セーンもつらそうに視線を逸らす。
「なんで!! お願いよ! キィは何も悪い事をしてない! 神子に生まれようと思ったことだってない。双子の私がどうして普通の人間で、キィは神子なの?! キィは望んでこうなったわけじゃないのに! どうして、どうして誰もキィを救ってくれないの?!」
胸を叩くようにセーンの襟元を握り、上下に揺すりつつ、興奮して叫ぶミィ。
「ミィ! やめろって」
セダが見かねて後ろからミィをセーンから話そうとミィの肩を引く。するとその力に引っ張られて、セーンの服の飾りボタンが二、三個はじけ飛んだ。
「あ!」
「……え」
それは一瞬の出来事だった。ミィの手が離れるより早く飛んだセーンの服のボタンは、秘められていたセーンの胸元を容易に開かせた。その同年代の少年と比べて日に焼けず白い胸元には、一つの印――。
――黄金に輝くドゥバドゥールの紋様があった。
「……王紋」
ミィが呆然と呟く。セーンが慌てて胸元を掻き合わせた。だがもう遅い。この場に居る誰もがその印象的な黄色い紋様を見てしまった後だった。
「大地、大君(ベークス、ジルサーデ)……」
ミィが言い放つ。セーンは視線を逸らせた。
これは驚くことだった。ドゥバドゥールの国民ではないセダたちもその印象的な黄色い胸で存在を主張する王紋と呼ばれる紋様を見た。
円と線で造られた模様。それは宝人の契約紋の様に、ただの刺青のようには到底見えなかった。まるで生きているかのように色が、黄色い色が脈打っているように、時々によって肌の色が若干変わるように見える。その文様は生きているのだ。生きて、輝き、王であると、この印が刻まれた者こそがこの国を治める王であると主張している。
それだけでセーンがこの国の王だと感じてしまった。これが魔神に選ばれるということなのだろうか。
「どうして? なぜ王紋があるのに、王になれないと言うの? もうあなたはすでに王なのに」
ミィの言葉にセーンは胸元を握りしめていた手を緩めた。そして言う。
「あなたが弟の命を案じているのはわかる。俺だって、あなたの弟を助けるために、いや、ここまではっきりと王になれと魔神に言われたのならやるべきなのかもと思っている」
「なら!」
「でも!!」
セーンが叫ぶように続けた。
「俺だって、家族を人質に取られているんだ! 俺が王に即位したら、俺の両親は死んでしまうかもしれない」
「……え?」
絞り出すような声でセーンが言う。
「俺も何度も命を狙われている。俺が王に即位すると困るやつがいっぱいいるんだ。俺は逃げるしか、なかったんだ。だから、あと二年! 十八になったら、俺は王位継承権を放棄して、それで国を出るつもりだったのに」
突然のセーンの発言に誰もが呆然とした。
「ちょっと、どういうことなんだよ?」
セダが慌てて言った。
「お国事情にもほどがあるだろう……!」
グッカスが頭を抱えて言った。
「念のために訊くけど、あなたたち本当にエイローズ家と繋がっていないんだな? あ、でもあなたはヴァン家直系ってことは、王宮とは繋がっているのか」
セーンがそう言う。胸元からちらちらと見える王紋。
「どういう意味?」
「エイローズから逃げるだけならこんなに苦労はしない。俺は王宮、つまり現大君にも命を狙われているんだ」
ミィが目を丸くした。
「嘘……!」
セーンはそう言うと力が抜けたように、ずるずると壁に背中を預けて言う。
「長い話になるんだけど……」
セーンはそう言って事情を一行に話し始めた。
...064
「俺に王紋が出たのは十四の時、今から二年前なんだけど」
セーンはそう言って話し始めた。セーンがエイローズの土地の中でも山間地方の田舎に住んでいて、王家とは全く関わり合いの無い暮らしをしてずっとその暮らしを続けていくと信じて疑わなかった事を聞いた。
王紋が出て、セーンの両親は王紋を誰にも見せてはいけないときつく言い聞かせたという。
「どうしてだ? 両親とも王家の人ならそのしきたりみたいなの知ってるんだろ?」
セダが問う。セーンは頷いて言う。
「俺の両親は王家の暮らしが嫌で王位を返上し、田舎暮らしを始めたような人なんだ。たぶん、王になるということをわかってたんだろう。王になって俺がどうなってしまうかも。だから少しでも俺のために、隠す事によって俺が正しい事を選べるまで成長させようとしてたんだと思う」
それはそうかもしれない。今まで王家のしきたりに沿って生きる分家とは違い、セーンは全く違う環境で生きている。それは慣れない王宮の生活に身を晒す事で在り、弁舌豊かな大人の周りで生きれば、言葉巧みに言いくるめられ、何が正しいか、たった十四の子供には選ぶことは難しいだろう。
「けれど、ある日めずらしく道に迷ったとかいうエイローズの一行が俺の村に来たんだ」
エイローズとはいえ直系ではなく分家の一つと思われる一行は家族連れも中には交っていた。それを警戒した両親はセーンに一行が居る間は村の中心に出ることも禁じ、羊の世話と万が一一行が訪ねてきても大丈夫なように、離れの馬小屋での生活を言い渡した。
理由を説明されたセーンは、両親の心配がいたいほど伝わってきて言いつけどおりに暮らした。滞在期間はわずか三日程度。その程度なら夏でもあったし、別段気にならない。
「家族連れの中に、すごい好奇心旺盛な子供がいて……」
動物に興味があったか、好きだったのだろう。山間で羊を放したり、ヤギなどを飼ったりしていたものだから、一行は自然とセーンの家の方まで近寄ってきた。セーンの家ではなく、隣の家で一行をもてなしたそうだが、セーンはその辺りは詳しく知らない。
「その子が脚の早いサドゥバっていう種類のヤギを追って崖か落ちたんだ」
まだ小さいその子はヤギが崖を登り降りすることを知らなかったのか、それともなにもわかっていなかったのか、普通なら脚を踏み入れない様な崖の多い斜面で夢中になり崖から落ちたのだ。そこまで高さのある崖ではなかったものの、大人たちはその子が山を登っているとは知らなかったようだ。
「羊の世話をしてた俺だけがその子のかすかな悲鳴を聞いて……」
セーンが気付いた時、その子は崖下でかなりの出血をしていた。慌てて降りた子供はもう血だらけで、骨折もしていたし、ひどい大けがだとわかった。とりあえず応急手当として出血を止める為に袖を破き、様々な箇所を縛った。折れていそうなところも裾を破って固定をした。
「運悪く前日雨が降っていたから、その子が落ちた先は水たまりというには大きい水がたまる場所でね、全身が濡れていたんだ。村人なら雨が降ってしばらくは危険だから寄りつかない場所だった。その水の中に怪我をして落ちたんだ。そのせいで震えていたし、身体が氷みたいに冷たかった」
一刻を争う状態だということは、セーンが母から医術を習っていなくても分かる状態だった。
「血も止まっていなかったし……」
温めてあげようにもなにもない。だが、斜面を慎重にこの子を抱きながら降りたら時間がかかる。それまでに身体を冷やしすぎたら、この子の命に関わる。なにか一枚でもこの子を外気から覆ってあげられたら。
「少しでも身体を冷やさないようにって、そう思って。俺、自分の上着を脱いで、その子にかぶせてあげたんだ」
絶対王紋を見られないように、上着を家の外では何があっても脱がないようにと言われていた。
「たった三十分程度、いや急いだからもっと短いかもしれない。それだけの時間だけど、ずぶぬれで、血も止まっていない小さな子が腕の中で震えていてさ。で、上半身裸のまま山を降りたよ」
その子を探していた人々に大けがの子を渡して、すぐに治療が始められた。そこは安心した。
「だけど、それで俺は村人だけじゃなくてその一行にも自分の胸に王紋があるって知られてしまった」
セーンはそう言って胸を抑える。
「王紋のやっかいなとこはさ、見られると誰もが王と認識するようになるところ」
一行はセーンを王として王宮に連れて行こうとしたんだそうだ。両親が必死に説き伏せ、セーンも逃げるように山に帰ったおかげでその場はしのげた。その晩は両親が山に入って、これからどうするか話し合ったという。
「子供は助かったの?」
「うん。一命は取り留めったって。その後は知らないけど」
セーンはそう言う。
「で、その後、すぐにエイローズ家から迎えの使節がきた」
両親は俺が砂岩加工の旅に出たと言って追い返したみたいだった。両親はいくら王家が嫌いとは言え、王紋が現れ魔神に選ばれた息子を王にしたがらない理由があるみたいだった。どうしても王になってはいけない。少なくともセーンが成人になるまでとそう言い張っていた。どうしてそこまで頑ななのか、出来るか分からないがセーンは王になるべきかもとすら思っていた位なのに。
「それから使節団は二、三回きた。俺はいつも村の人に協力してもらって身を隠した。だけどそうそう逃げられなくて」
ついにエイローズの直系、すなわち、アーリアがサルンの村にやってきた。
「俺はいつものように村人でもめったに来ない様な山の中に隠れたよ。父さんも母さんも皆が嘘をついて俺を隠してくれた。村人も協力してくれたみたいなんだ」
王紋に見えたかもしれません、でもあれは怪我した子供の返り血がそのように見えたのでは? 助けられた子供が意識を彷徨わせるうちにみた幻では? アーリアや使節の問いかけにそうやって村中ではぐらかしてくれたらしい。セーンはそれを見て嬉しく思ったし、同時に村人に自分のためだけに嘘をつかせているとわかって心苦しかった。
「アーリア様は納得していないみたいで、俺が帰るまで待つとまで言っていた」
村人だけなら嘘をつきとおせるが、村に立ち寄ったエイローズの分家一行にセーンは王紋を見られている。村中で嘘をついたからと言って到底言い逃れられるものではない。
「アーリア様がサルンに滞在したその晩、村で、いいや、俺の家とアーリア様が滞在した村長の家で火が放たれた」
楓がそれを聞いて絶句する。火は水の大陸では付きにくいものとして貴重で大事に扱われていた。火は必要最低限しか使われないのが常だ。それは土の大陸でも生活様式を見れば同じだと感じたが、どうやらそうでもないらしい。
「火は貴重だ。火事なんか起こるはずないんだ。それは、つまり火を放たれたってことだ」
セーンの瞳は暗い。その時を思い出しているようだ。
「幸い、アーリア様は部下を連れてきていたから、無事だったし、村長さん一家も無事だった」
しかし火の手はセーンの家でも上がっていた。明らかにそれは王紋が現れたセーンを狙ってのことだ。
「その時、火に紛れて同時にキョセルが放たれていた。父さんと母さんは殺されかけた。正確に言うとそのキョセルに連れ去られようとしていたんだ。父さんは怪我もしていたみたいだ」
セーンは一人野宿をしていたようなものだったから、所在がキョセルにもわからなかったのだろう。セーンは火の手が上がったことすらしばらく知らなかったのだ。騒ぎを聞きつけた頃には、山の裾で自分の家が在るであろう場所が、夜闇の中、明るく燃え盛っている。あの光景は忘れられない。
「結果的にアーリア様が俺たちの家の方の騒ぎににも気付いて、自分のキョセルを放ってくれた。おかげで両親は命からがら逃げる事ができた」
楓がそれを聞いてほっとする。
「だけど、キョセルにやられたのか、おじいさんは助からなかった」
「そんな……!!」
セーンの拳がかたく握りしめられる。楓も悔しそうな顔をする。
「俺は驚いて、隠れ家から出て山裾で燃える自分の家を呆然と眺めていた」
「……それで?」
おそるおそるミィが訊く。
「その時、俺は誰かに突き飛ばされたんだ。肩に熱い痛みも覚えた。俺もキョセルに襲われたんだ」
暗闇で襲い来る暗殺者の魔の手。
「俺は怖くて逃げようとした。そうしたら、キョセルが、たぶん複数いたんだろうけど俺を突き飛ばして、で、暗いからよくわからなかったけど、俺の身体を拘束したんだ。で、服をこう、切り裂かれて……」
セーンはそう言って自分の服を縦に引き裂くように腕を動かした。その動きからセダたちでさえわかってしまう。その襲撃者は本当にセーンの胸に王紋があるか確認しようとしたのだと。
「見られたんだ。王紋を。この王紋ってすごいんだぜ? 暗闇でもうっすら光っているんだ。俺、呆然としちゃったよ」
苦笑しながらセーンはそう言った。
「で、『本物だ』、『始末しなければ』、そう言われた」
キョセルの振りかざした刃さえ、暗闇で見えなかった。だけど、殺されるってその瞬間感じた。
「たぶん、胸に振りかざされるはずの刃は、狙いがそれて俺の脇腹に刺さった。急所は逸れたんだ」
「どうして?」
テラが言う。セーンは頷く。
「テルルが助けてくれたんだ」
「テルル?」
「うん。数年前から俺の家に住み着いていた居候なんだけど。暗闇の中でも複数のキョセルを相手にテルルは俺のために立ちふさがってくれて、それで俺の命を狙ったキョセルから俺を救ってくれた」
ミィがその瞬間、手を叩いて叫ぶ。
「もしかして、『千変』? 世界傭兵・『千変』のテルル=ドゥペー?」
「そう。俺は知らなかったんだけど、テルルは世界傭兵のテルルで合っているよ」
セダたちにはなじみのない名前だが、土の大陸で有名な世界傭兵らしい。千変との名前の通り、隠密に長けた世界傭兵で、千の姿を持ち、本当の姿は誰にも知らないという世界傭兵らしい。
「テルルは俺を連れてすぐに村を抜けた。山まで移動して、それから俺の治療をしてくれた。テルルは俺の怪我が治るまで山間に隠れて、時々村の様子を見に行ってくれた」
それは後にわかったことだが、両親は身の安全を理由にエイローズ家に連れて行かれた。おじいさんの葬儀は村で粛々と執り行われた。自分の家は燃えて、もうない。自分達の家畜は同じ畜産を営む村人に引き取られた。
「そんな……」
テラが呆然と呟き、話題を変えるようにミィが尋ねる。
「どうして、テルル=ドゥペーと知り合いなの?」
それほどテルルは土の大陸では人気の世界傭兵らしい。とある舞台では彼を題目に演じられるものもあるのだとか。
「テルルはもともとひどい怪我をして俺の村に逃げてきたところを俺が見つけて世話していたんだ。前々から両親はテルルの正体に薄々気づいていたみたいで、何かあったら俺の事を頼むって言ってたんだって。だから、助けるのが間に合ったらしい」
そこからセーンの逃亡生活が始まった。テルルは千変と二つ名が付く位で変装の名人だ。そのテルルにやりやすく、正体がばれにくい女装を教わって、女の砂岩加工師として暮らす事になった。最初はそれは抵抗した。女のふりをする事に。だけど、そうは言っていられなくなった。セーンは逃げて一月も経たないうちにエイローズ家に捜索願という形で追われた。
「なんで襲った相手を王宮と?」
ミィが尋ねる。セーンは頷いた。
「テルルは怪我して俺の家のやっかいになることになったんだけど、そのテルルに怪我を負わせた相手が王宮のキョセルらしいんだ。で、俺を襲ったキョセルと王宮のキョセルは同じだったみたい。キョセルって同じように見えるけど、よくよく見ると家によって若干特徴があるんだよ」
「そんな……嘘」
ミィからすれば親しい叔父が新しい王であるセーンの命を狙ったことになるからだ。
「とりあえず、俺は王宮には命を狙われた。おじいさんも殺された。王宮は今でも逃げる必要のある敵だ。なんで王宮が俺を狙ったは知らない。でも、俺に王紋があることがわかったとたんに襲撃にあった。ということは」
その先をグッカスが続ける。
「お前に王になられては困るということか」
セーンが頷く。これは考え方が複数ある。セーンがエイローズ出身ゆえに、次の大地大君、内政をエイローズに執られては困るという考え。セーンが王家寄りの家出身ではないゆえに、権力を無知な者に任せては困ると言う考え。いろいろ考えられる。だが、セーンに正解はわからない。
とりあえず、王宮にとってセーンに次の王になられては困るということ。それによって王になろうものなら確実に殺されるということだ。
「でも、お待ちになって。それならあなたはエイローズ家に助けを求めればよろしいのでは?」
リュミィが尋ねる。
「確か、お前の両親を助けてくれたんだろ?」
セダもそう続けた。セーンは首を横に振る。
「それを理由に両親はエイローズ家で軟禁されている。俺が王になると表明したら今度は両親がどうなるかわからない。俺は王宮とエイローズ家から逃げ続けなければならないんだ」
セダが慌てて言う。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! なんで、それで両親が殺されることになるんだ?」
「そうですわね、保護してくれているとも考えられますわ」
「ミィさんは知っているだろうけど、エイローズの今の当主はそういう人かどうかわからないんだ。『魔女』って呼ばれている位だ。自分の敵には同族でも容赦ないって話だ」
「え? じゃあお前が王になられると困る理由がエイローズにもあるのか?」
あの美しく微笑む女性はそこまでセーンの事を敵視しているようには思えなかったが。
「でもわかるかも。アーリア様はエイローズの始祖に匹敵するとさえいわれるほど才女と名高い方なの。彼女が次の王に選ばれるとエイローズの誰もが疑わなかったわ。でも、彼女は選ばれなかった。相当悔しかったはずだし、誰もが落胆したでしょう」
「もう、アーリアって人が王になる可能性はないの?」
光が尋ねる。
「今までの歴史上ではないと思うわ。ちゃんと記録を洗えば違うかもしれないけれど。一般的には十九になったら王には選ばれないと言われているから。確かアーリア様は今年二十歳のはず」
「じゃ、それって逆恨みじゃないか」
セダが言うとミィが首を振った。
「ううん。アーリア様はそういうことわかっていらっしゃるとは思う。ただ、アーリア様を王に、って熱望する人は本当に多かったの。アーリア様の周囲には未だにそれを望まれている貴族も多くいるわ。それにアーリア様がこの人ならって思うような方がエイローズの中にはいないことも事実だし」
アーリアが優秀すぎた故に、アーリアを筆頭に引っ張っているがゆえに、アーリアとどうしても比べてしまう。そして誰もがアーリアより見劣りするゆえに、アーリアの上に立つべきではないと勝手に周囲が考えれば。
「じゃ、暴走した誰かによってエイローズも安全じゃないってこと?」
テラが尋ねる。ミィとセーンが同時に頷いた。
「王家って言っても一枚岩じゃない。それはどの家も同じよ。アーリア様の命令には従うでしょうけれど、その主君のために動いて、少しでも己の地位を上げようとする者も多いわ。アーリア様が命令したところでそれは止まらない」
「それでいずれ、アーリアさんは王に選ばれるの?」
テラが宝人に向かって問うた。
「どうでしょう? 慣例としてないのなら選ばれることはないのでは? それこそ、彼女が最後のエイローズにでもならない限り」
リュミィがそう言う。
「選ばれないよ。だって現実的にあなたが王に選ばれているんだから」
楓が静かにセーンに向けて言う。
「だから、暗殺のターゲットになってしまっている、と」
グッカスが続ける。セーンが生き続ける限り、アーリアが王に選ばれる可能性は皆無だ。
「今は保護という名目で両親は無事だ。でも、もしなにかの琴線に触れてしまったら、どうなるかわからない。関係のないおじいさんをあんなに簡単に殺してしまえるような相手なんだ。俺は怖いよ。俺が王だと言って王になったら、俺の周りには誰もいなくて、そしていずれ俺も消えてしまうのかと思うと」
アーリアが止めていてもアーリアが始終見張っているわけではない。何かのきっかけで暴走した誰かが両親を殺してしまえば、次はセーンだ。
「だから王になれない……?」
セーンは頷いた。
「本当にあなたには申し訳ない。だけど、俺も命を懸けているんだ。俺だって死にたくない!」
ミィが呆然とする。強制できるものではない。セーンはセーンで苦しんでいる。
「だから王位の返上を?」
セーンが頷く。
「知らなかったけれど、どうやら王位継承権を持っているとそうなのか、それとも俺が王に選ばれたからなのか、テルルと国境を越えようとした時、俺だけできなかった。俺は国内を転々と逃げ続けるしかない。だから、俺はあと二年、十八になったらこの王位継承権を返上して、王から退くつもりだ」
王位継承権を放棄すれば魔神に選ばれる権利が失せることになる。それで何もかもというわけにはいかないが命を狙われ続けることはなくなるだろう。もし、そうだとしてもきっと国を出て暮らすことができるはず。
「そんなこと、できるの?」
光が不安そうに尋ねる。セーンが顔を曇らせた。そんなことセーンにだってわからない。だが、そう思っていなければ一体いつまで逃げればいいのだ。自分は権力も何もないただの一般市民と変わらないのに、王家を相手にどこまで逃げ続ければいいのだろうか。それとも諦めろとでもいうのだろうか。
「できるさ。たぶん」
セーンがそう言う。それは自分に言い聞かせるように。
「だから、あんなに用意周到に準備を……」
グッカスがそう言ってセーンを見た。よく見れば彼は同年代の少年と比べて小柄だし、かなり痩せている。日々誰かに狙われているかもしれないという不安に加え、裕福な暮らしも満足にできない。そうとう辛い暮らしを続けてきたのだ。そんな相手にミィの事情で死んでくれと言うようなもの。
「そう。そうなのね……」
ミィも俯いた。すがりつきたい。セーンにすがって、王になってもらいたい。
でも、そんなことできない。
こんなに苦労して、こんなにつらい思いをして。そして今もそれを強いられているこの少年に、そんなことは願えない。現に彼はかけがえのない家族を一人失っている――。
「……わかったわ」
ミィはそう言ってむりやり笑顔を作る。
「ごめんなさい、こっちの事情に巻き込んで。とりあえず、そんな理由を聞かせてもらったわけだし、絶対にあなたの身を晒したりしないわ。もし、それでも、もし危険を察知したらいつでも逃げてくれてかまわない。少し休息が必要ならなんでも言って。用意するから」
ミィはそう言って立ち上がる。
「ごめん、ちょっと」
ミィはそのまま外に出る。ここが人避けの魔法を懸けてあることは知っているはずだから、外に出ても遠くは離れないだろう。きっと彼女は一人になりたかったのだ。
セーンが腰を浮かせかけ、そして自分には何もできないと知って再び座りこむ。
「なんで俺なんだろうな」
自嘲ぎみにセーンは呟いた。
「本当に」
セーンはそう言って空を仰ぐようにして一行の視線から逃れた。




