1.男装少女と女装少年 【04】
...057
物心ついた時には、すでに左の耳に一つ、穴が開いていた。目立つものじゃない。細い糸が一本通るくらいの小さな穴だ。だけど、両親はその穴をあまり他人に見せてはいけないよ、と幼い自分に言い聞かせていた。
「どぉして?」
「これはね、セーンが特別なお家の生まれであることを証明しているのさ。父さんや母さんがお前くらいの歳には同じ場所に穴があったよ」
しかし見せてくれた父の耳に穴は開いていない。
「特別なお家?」
「そうさ。だけど、それはいろんな人に見せて回るようなものじゃない。特別な家に生まれたといってもこの家には父さんと母さんとおじいさんにセーンしかいないだろう? セーンは村のみんなと同じ暮らしをしていて、何も変わららないだろう?」
「うん」
「だから、自分から皆とここが違うのだと言いふらす必要はないのさ。よく考えて御覧、セーン。この穴を誰かお友達に見られてしまって、それ以降セーンと口を利かなくなってしまったら、哀しくないか?」
「やだ! トリ君も、フィーナちゃんも、ルイもみんな友達だよ!」
「そうだろう? でも特別っていうのはな、何も良い事ばかりじゃないんだ。人によっては嫌な風に感じる人もいる。いつも言っているだろう? 人の嫌がることはしていけないよって」
セーンは頷いた。
「この耳の穴を見せると、嫌な風に思う人がいるんだね?」
「そうだ。だけど、皆に見せて回って嫌ですかって聞くわけにもいかないだろう? だから、セーン、父さんと約束できるよな? この耳の穴は見せてはいけないよ、誰にも」
「うん!」
だから幼い時から左側の一房の髪は肩まで伸ばしていた。いくら女みたいだとからかわれても、母さんのお気に入りの髪型だからとか適当に言い訳をしてきた。
「でも、父さん。なんで特別なお家に生まれた俺には穴が開いているの? なんで父さんと母さんは今は開いていないの?」
「そうだなぁ。それはセーンがもう少し大きくなったら、教えてあげるよ」
「わかった! 父さんも俺と約束だよ!」
「ああ」
親子でそうやって約束し合ったのは遠い昔だ。
セーンが育ったのは、都市部からかなり離れた田舎の村だった。すぐそばに山脈が連なる自然豊かな村だ。村の人口は二百名程度の小さな村。閉塞的な村で、両親はセーンを身籠る前に都市部から引っ越してきた。村には医師もいなくて、誰かが怪我や病気の時はひとっ走りして隣村の医師を呼んでこなければならないほどだった。
そんな田舎に夫婦で穏やかに過ごすことを望んだ両親は、不幸な山の事故で息子夫婦を亡くした年老いた男性と一緒に暮らした。そして、その老人に様々な事を習いながら、村の人に倣い村の習慣を覚え、山の裾で小規模の一家を養えるだけの規模の酪農を生業にした。主に飼育しているのは羊で、その他に乳牛三頭、ヤギ六頭、馬一頭、その他鳥を数羽の生活だった。
朝は早く、動物に何かがあったら昼夜問わずつきっきりだ。それでも、その生活がセーンには楽しかった。羊の世話を羊牧犬と一緒に行い、遊んで暮らす。村の子供とは仲が非常によく、いつも遊んで暮らし、時には友人の家を手伝うこともしばしばあった。畑を持つ者もあれば、セーン達よりも大規模に酪農をしている所もある。村は協力し合って過ごしているのだ。
セーンは朝早くに置きだして、家畜の世話をし、羊を山に放つ。その頃には母が朝食を用意してくれていて、別の仕事を終えた一家全員で朝食を囲む。朝食が終わると両親と一緒に話をしながら手伝いをして、その後友達と隣村の学校に出かけて行く。昼には学校が終わり、そのまま遊び疲れて帰る。
時には羊の世話をしながら山に登っているおじいさんを追いかけておじいさんの作業を飽きずに隣で見ていることもある。日が暮れる前に羊を連れ戻しながら家畜を小屋へ入れる。そうして夕食の時間だ。
両親は都市部で働いていたことがあったからか、面白い話をたくさん知っているし、おじいさんはこの村での様々な自然に関する話しや村に伝わる昔話を話してくれ、その話を聞くことがセーンは大好きだった。
――とにかく、セーンは小さな動物の方が数が多いこの暮らしが大好きだったのだ。
血がつながっていなくとも、家族として一緒に暮らすおじいさん。そのおじいさんをお父さんと呼び、慕い、尊敬し仕事をする両親。自分の耳に小さな穴が空いていようがいなかろうが、セーンの暮らしには全くもって関係のない話だったのだ。
村人たちは昔から住んでいるようにセーン達一家とも仲良く過ごしたし、セーン達一家もこの村に最初から住んでいたように馴染んでいた。
さて、村には毎年新年となる、陽の光月には村の代表ら、大体五人程度だが、その集団でこの村を治めているエイローズ家に新年のあいさつをしに行く事になっていた。エイローズの街は大きく都会で、挨拶に行く事になる家に選ばれた子供はうきうきして一月以上前から、仲間内で自慢をするくらいだ。
村全体がお祭りのように、挨拶に行く人たちに世話をしてあげて、盛り上がる。新しい服を仕立てたり、贈り物を用意したり、新年のお祝いに便乗するように大人も子供も嬉しそうに騒ぐ。セーンが小さい頃に両親は一度選ばれた事があるそうなのだが、セーンは連れて行かれなかったらしく、全く覚えていない。
その挨拶にセーンとセーンの両親が今年は選ばれた。セーンは周りの子供たちが前々からうらやましがったり、前年度以前に行った子供達の話を聞いていたりしたので、選ばれただけでも誇らしく、うきうきしていたのだ。両親も村の中でははにかみ、嬉しそうな様子だったが、新年が近づくにつれて、両親の顔色は良くないようだった。
「おじいさん」
セーンは昨晩目が覚めた時に両親が話していた内容が気になり、その日は真っすぐ学校から帰って、おじいさんが羊と共に過ごす山に登った。おじいさんは気持ちよさそうに歌を歌いながら石をいじっている最中だった。
「おかえり、セーン」
「ただいま」
おじいさんは羊飼いであるにも関わらず、手先が非常に器用で、変哲もないただの石ころを宝石の様な美しい石に変える腕を持っていた。砂岩加工師だったのである。
「おじいさん、聞きたい事があるんだけれど……」
おじいさんは石を脇に置いて、優しげな眼を細め、セーンに向き合った。
「ん?」
「新年のあいさつに行くことは、父さんと母さんには嬉しい事じゃないのかな?」
「どうして、そう思うんだい?」
おじいさんは優しく問いかける。
「昨日の夜、俺、ふっと眼が覚めたんだ。そうしたら、母さんが挨拶に俺を連れて行きたくないって。父さんは十歳の節目に連れて行かないわけにはいかないだろう。今回はうまく逃げられない、……そう言ってた」
「そうかぁ」
「それに、みんな嬉しそうなのに、二人ともふっとした時に嫌そうだろう?」
おじいさんはそのまま黙り込んで遠くの山並みを眺めていた。こう言うときはおじいさんなりになにか考えている時とわかっているので、セーンも美しい緑の山並みを眺めていた。
「おじいさんはセーンみたいに子供のころからこの村で過ごしてきたよ。セーンと同じように動物と一緒に暮らして、村の仲間とはしゃいで、そうしてもう今はいないが、奥さんと優しい息子夫婦と過ごしてきた」
「……うん」
おじいさんの息子夫婦はひどい雪が降った年の冬、運悪く雪山で命を落とした。これから孫を生み、おじいさんの家業を継いでくれると思っていた矢先のことだったという。哀しみにくれたおじいさんはそれでも自分の奥さんと日々の暮らしを続けていた。ただ、二人とも歳を取り過ぎていて、息子さんを亡くした三年後に奥さんを亡くし、独りの生活を続けていたという。
「だけど、ディー君とリリィさんはちがう。二人とも首都や王家の直轄の土地からこの村に引っ越してきた。動物と一緒に、この仕事をする前は、二人とも違う仕事をしていたんだ」
「聞いたことがあるよ。父さんは偉い人の執事をしていたって。母さんも偉い人の家庭教師をしていたって」
父、ディーと母、リリィはあまり仲の良くない家同士の生まれだったが、仕事の都合上出会う機会があって、二人で結婚を決意し、それを機に仕事を止めて、この村に暮らすようになったという。
「偉い人っていうのは、俺達とは違ってお金や、力が動く。それはディー君に習ったね? 偉い人は俺達凡人とは違って、様々な責任のある仕事をする。時には大きくいざこざを起こして、険悪な関係になる人を作るような仕事をすることもあるだろう。きっとディー君とリリィさんはそういう生活の一部に触れたことがあるんだろうね。だから、そういう場所にあまり行きたくないんじゃないかな」
セーンにもそれは理解できた。大人、しかも権力を持った偉い人たちがする喧嘩は、自分と村の子供のように、殴り合いをしたり、次の日には謝って仲直りをしたりすれば解決するようなものではないのだ。
「そっかぁ。じゃ、俺だけはしゃいじゃって、二人には嫌な思いをさせたのかな」
セーンは村の雰囲気に飲まれてうきうきした自分を少し恥じた。
「セーンは初めて行くのだから、みんなと同じように楽しんでくるといい」
「そうかな? じゃあ、なんで父さんと母さんは俺を連れて行きたがらないの? 俺がへますると思っているのかなぁ?」
「違うと思うがなぁ。ディー君とリリィさんに直接聞いてご覧?」
「聞いてもいいことなのかな?」
「聞いていけないならば、ちゃんとどうしてだめか教えてくれるだろう。ディー君とリリィさんは」
「そうだね」
セーンはそう言われて頷いた。
「どころで、おじいさんは何を今度は作っているの?」
「お守り石だよ」
セーンの中では新年の挨拶は両親に直接聞くことで解決しそうだったので、頭からすっかり抜けて、今度はおじいさんの手元に興味が移った。
手のひらに握れる大きさの石をおじいさんはその腕と歌で加工する。おじいさんは村人たちの砂岩を直すことができる『砂岩加工師』なのだ。
おじいさんも昔はやんちゃで、この村の生活に嫌気が差した事があるのだという。その時はお姉さんがいて、家業はお姉さんが継ぐと思っていたのだそうだ。ともかく、小さい頃から砂岩に興味が在って若い時に砂岩加工師に弟子入りしたのだという。
そうしてちゃんと腕を磨き、砂岩加工師として数年暮らしていた最中、お姉さんが隣村に嫁入りすることが決まり、砂岩加工師の道を止めて、羊飼いになったのだという。
「へぇ。これは『荒削り』の状態でしょ? 『色付』は俺にさせてよ」
「そうさな。セーンは声がよく伸びるからなぁ。よし、じゃ、あの山並みのような美しい緑を出してご覧」
「うん!」
砂岩はただの石でもできる。加工の腕さえ確かならば、誰にだってあの色相と肌触り、質感を表現できる。
砂岩は石の形を、すなわち、刀や槌を使って完成形に近い形にする作業を『荒削り』といい、第一段階となる。例えば砂岩で丸い守り石を作るとすれば、荒削りでは、石を手ごろな人差し指の半分くらいの大きさにして、角を削り丸くするまでの過程だ。
次の行程を『色付』といい、石に語りかけるように歌いながら作業を行う。これは感覚的な作業なのでうまく説明できないが、色の元となるものを石と重ね合わせ、歌いながら石に混ぜ込み、石に色を付けて行く工程だ。
この工程が砂岩の色相と質感を決めるもので、才能の有無が関わってくる場面である。どんなに荒削りの腕が良くても、どんなに砂岩に対しての理解が在っても、色付の才能がなければ砂岩加工師にはなれない。
歌の良し悪しは関係ないと言われているが、砂岩加工師の唄が耳障りであったことはないらしい。おじいさんの歌も伸びやかで村人が作業を止めて聞き入ってしまう位だ。ちなみに砂岩に制限を設ける場合は、この工程最中に祝詞を乗せることで完成する。砂岩は身分証明に使われるので、この砂岩は学士の免許取得者以外が付けると壊れるというような“願い”や“誓約”を砂岩に刷り込むのである。
最後の行程が『仕上げ』。文字通り彫刻を加えたり、細部にこだわったりという行程だ。
「緑の色付けには何を使う?」
セーンはおじいさんが砂岩を趣味の域で時々作るのを見て、興味を持ち、暇さえあれば教えてもらっている。荒削りはおじいさんも太鼓判を押す位に手慣れてきた。これから芸術性や利便性を追求した形を追求していく所だ。今は色付けを教わっている。様々な歌や音をおじいさんから教わり、石の力を引き出すにはどういった唄がいいのか、使う素材は何が適しているのか、実際に試してみるのが面白くて仕方がない。
「セーンは砂岩加工師になりたいのか?」
「うん。面白いもの。おじいさんみたいに羊を遊ばせている間に作れたら最高」
「そうかそうか」
おじいさんが破顔して、セーンも笑う。セーンの声が、歌が山の斜面を伝い降りて、風の様に村に広がっていく。
――本当にセーンはこの暮らしを愛していたのだ。
両親に話が在ると夕食の後に席に付いているように言われたのは、新年の挨拶まで残り十日という頃だった。
「セーン。大事な話が在る。よく聞きなさい」
両親がテーブルの対面に座っていて、おじいさんは部屋の隅で静かに暖炉にあたりながら本を読んでいた。
「うん」
「前にセーンは左耳に開いている穴に付いて父さんに聞いたことが在るね? 覚えているかい?」
「うん。誰にも言っていないよ」
「よく約束を今まで守ってくれたな。今度は父さんが約束を守ろう。何故、父さんと母さんには今、耳に穴が開いていないか。特別なお家に生まれたことがどういう事が、教えよう」
「セーン。この土の大陸の神国、ドゥバドゥールの王様を代々務めるお家を言ってみて」
母がそう言った。
「ルイーゼ家とエイローズ家、それにヴァン家だよ」
「そう。その三家ね。この村を治めているのはどのお家?」
「エイローズ家だよ」
「そうね」
母はそう言ってセーンを撫でた。今度は父が口を開く。いつもの夕食の後のお話しの様だ。
「セーン。自分の名前を言ってみろ」
「え? セーン=エイルイ。それがどうかした?」
「そうだ。今まで父さんはセーンにお家の名前を聞かれたら、エイルイと教えてきたね。父さんも村ではディー=エイルイ、母さんもリリィ=エイルイと名乗っている。それが当然だし、これからもそうだ。だけどね、これはこの村だけの名前なんだ。戸籍に乗っている名前は違うんだよ」
きょとんとして両親を見る。
「戸籍に乗っている名前では、父さんはディー=エイローズ」
「母さんはリリィ=ルイーゼよ」
セーンは最初、ふーんと頷いた。そして、はたり、と思い至る。両親の名前に王家の名前が入っていることに。
「わかるかい? 父さんは昔、エイローズの街にいて、エイローズという王家の中で、エイローズの人間として今とは全く違う生活、いや、生き方をしていた。まずは、父さんの昔話をしよう」
父はそう言って語りだした。父はエイローズの分家に生また。しかし、分家の中でもそこまで中心的な分家ではなく、傍流といっていい家の生まれだったという。父は生まれてエイローズの分家のそのまた分家の家に生まれた男の人に仕えることが決まっていたという。父の両親はそのように父を育て、父もその人を主として生活をしてきた。
エイローズの分家に生まれた者は皆、生まれた時期と十歳までの才能を本家、並びに位高い分家の人に報告、観察されて、十歳の時に誰を主にするか、どういった職業に就かせるかを決められる。言い方は悪いが、そこでその家の運命が決まる。
優秀ならより良い主を得、エイローズの中で位を高くしていける。逆に才能がなければ地方の有権者など、一般市民からすれば偉いが、エイローズの中では底辺と思われる人間を主に据えられることもある。
エイローズはそうやって一族内の力を伸ばしてきた。家同士で次の世代を担う子供をどれだけ優秀に育て、上に上り詰めて行くか。エイローズに生まれた者は生まれた時から争いを強いられている。
父はそういう風習が好きではなかったという。両親の期待を裏切らない程度に様々な事を努力した。そして十歳になって、それ相応の主を定められた。父は文君になる事が決められ、それ以降は剣の稽古等は一切しなくてよくなったのだという。それから父は文君として主と共に将来のエイローズの領地の一部を治める事が出来るよう、日々学習を積んでいた。
在る日、父はエイローズの偉い人にその才能を見いだされ、急に主の変更を言い渡された。才能や適性を見ていても十歳の子供だ。これから伸びる子供も多い。そういう場合、その傾向がみられた瞬間に適する主を宛がわれる。父はそうやって十五の時にはエイローズの中心の街で血統の高いエイローズの分家の嫡男を主と変えた。その主はエイローズの直系の人を主とする。
知らず知らずのうちに、父はエイローズの中心へと近づいて行った。
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「それって、みんなが憧れる職業だったんでしょう?」
「そうだね。エイローズの分家誰もがそういう位の主を得たいと日々努力しているんだ」
しかし父の表情は暗いままだ。
「でも、父さんはその生活が嫌だったんだ。同じ家に生まれているのに、他人をだましたり、時にはわざと蹴落としたりして自分が優位に働くようにする。そう言う風にしてまで偉くなりたくはなかった」
「それってみんな嫌がることだよ。やっちゃだめだって言っているよね?」
「そうだ。父さんも母さんも、おじいさんや村の人たち誰もが「人の嫌がることをしてはいけない」と知っている。でもね、王家の中ではそんなことを考えている人は一人もいないんだ。自分の利益の為に平気でそういう事をする。それをして主に褒められる。そういう世界なんだ。父さんはそれがとてもいやだったよ」
「……誰も怒らないの?」
「怒らないね。それどころか、エイローズだけではなくてね、エイローズが他の王家に対してもそういうことを平然とするんだ。他の王家もエイローズに同じようにする。どうしてそうなってしまうと思う?」
セーンは考えた。村では起きないのに、国を動かすような偉い人たちは平然と行う理由。
「一つは偉い人は権力を持っているからだよね。誰も怒る事ができない。そういう現実があると思う」
セーンは村と偉い人の違いを比較して答える。父は頷いた。
「二つ目は、集団の違いかな? あまりにも大きい集団で動くと意志の統一が難しくなる。そういう風に習った」
「そうだな。他に思いつくかい?」
セーンはしばらく悩んでいたが、首を横に振った。
「セーン、これは二つ目にも関わるが、人が大勢いれば、それだけ多くの「考え」が存在するからだ。考えが違う人たちが集えば、それは衝突するね。村では話し合いをしたり、会議を開いて投票を行ったりする。それで解決するね。だが、集団が大きければそういうわけにはいかないね。話し合っても結論が出ない場合もある。だから自分の意志を通そうとして、諍いが生じる。目的の為に手段を選ばなくなる。そうすると他人を思いやる事が出来なくなってしまうんだ。そこには同じ人が存在せず、『敵』という別の生き物のような、悪しき存在を勝手に作りあげてしまうんだね。そうして、敵には何をしても許されると勘違いしてしまう」
父がそう語る。セーンはそんな生活嫌だなと思っていた。
「エイローズの中でも、同じ国の中でも絶えずそれが起きる。父さんはね、そんな生活が嫌だったんだよ」
「今度は母さんの話を聞いてくれる?」
父の話の区切りが良い所で、今度は母が語りかけた。セーンは頷く。
「母さんは三大王家のうちのルイーゼ家で育ったの。父さんのエイローズ家と似ているけれど、母さんも生まれた時から主を決められていたわ。でも強制ではなくてね、嫌だったら嫌と言ってもよかったの」
ルイーゼ家では生まれた時から仕える主君が決まっている。そしてその主君と同じ家で育つ。だからか、主君と定める事に抵抗なく育つのだという。
母さんもルイーゼの中では傍流の出であったが、父と同じように才能を見いだされて、エイローズの直系に仕える分家の娘に仕えることとなったのだという。どちらかと云えば、その主君は政治的なやりとりよりは、後宮に入る事を目的としていたので、母のサポートは女社会であったという。ゆえに父の様なぎすぎすした政治的やり取りを直接見たわけではないが、それなりに苦労はしたようだ。
「さっきの話、母さんはもう一つの理由を知っているわ」
「嫌な事をしてしまう、争う理由?」
「そう。自分の優秀さを誇り、それなりの報酬を要求するためには、自分の結果や才能を誇るよりは他人を陥れ、蹴落とす方が簡単だからよ」
己が上に上がる為に、己の成果を示すのではなく、相手の失敗を誇張する。人は良い事よりは悪い事の方が印象に残りやすい。それゆえに、他人を蹴落とす方が楽に上に登れる。そういう例を両親はたくさん見てきた。
「それで、お互い疲れ果てていた所に、出会ったの」
主君が直系をサポートする役割故に、王宮で良く出会ったのだという。暇を見つけては会話を楽しむようになり、お互いの家をこっそり抜け出して街中で一緒に過ごすことも多くなった。
「だけど、私たちは育った家が違ったの。だから結婚は出来なかった」
三大王家同士の婚約を禁じている決まりはない。だからこそ、禁忌であると王家に育った誰もが身にしみて分かっていた事だった。
「まるで、戯曲みたいだね」
禁じられた家同士の者が恋に落ちて、駆け落ちする。よくある物語の設定の様だ。
「そうね。でも私たちはもう離れられなかったの」
「二人が結ばれるには、互いの家を捨てなければいけなかった」
今度は父が言う。
「だから二人して『王位継承権』を返上したんだ。つまり、放棄したんだね」
「王位継承権?」
「そう。王家に生まれると、王位を、つまり、大君になる事ができる権利を誰しもが持っている。何故だかわかるかい?」
セーンははっと思いついて言った。
「王家の人間から魔神さまが大君を選ぶからだね!」
「そうだ。魔神さまが王家の中の誰を選ぶかはその時まではわからない。だから王様になる可能性がある資格があるとでも言おうかな。それが、王位継承権。父さんにはエイローズ家の王位継承権が、母さんにはルイーゼ家の王位継承権が生まれた時からあった。それが、セーンの左耳に付いている穴だよ」
「これ?」
耳を引っ張りながらセーンが驚く。
「そう。正確に言うと生まれだから穴そのものが権利というわけではないよ。王家の人間は直系、分家、血統の濃さ関係なく生まれたら神殿に行って、神官に祝詞を唱えて祝福を戴きながら穴を開ける決まりなんだ」
「それで、俺にもあるの?」
「そうよ」
「じゃ、俺にも王位継承権が、あるの?」
「そうだ。セーン、お前にはエイローズ家の王位家継承権が与えられている。これは父さんと母さんの王位継承権が高かった方の家の継承権を引き継いだからだよ。つまり父さんの方が、母さんより直系に近かったからだ」
「ちょっと勘違いしているわね? 別に耳の穴が特別ではないの。どうして耳に穴を開けるかわかる?」
しきりに耳を引っ張っていたから、母が微笑みながら言った。
「耳ってことは、王家の身分証明に使うんだね?」
耳飾りで証立てをする風習があるのがドゥバドゥールだ。
「そうよ。普通は耳に穴を開けてまでつけないでしょう? だから王家の証をつける時は特別なの。普通は耳に怪我をしてもすぐに治るわよね? 神官が祝詞を唱えながら開ける穴は特別なの。だからセーンの耳の穴は放っておいてもふさがらないのよ」
痛くもなんともないが、不思議に感じてはいた。そういう仕組みだったのか。
「じゃあ、父さんも母さんも王位継承権を返上したから、もう耳に穴が開いていないんだね」
「そうだ。理解が早いな」
つまり、父も母も己の生まれた“王家”の在り方に賛同できなかった。だから王位継承権を返上し、一般の市民となって一家庭を築いた。そうして生まれたのがセーンだ。
「じゃあ、俺もその王位を返上する。俺もこの暮らしが好きだもの。他の場所へ行って他の暮らしをしたいとは思わない」
両親はセーンがそう告げると、安心したような笑みを見せた。誰もが一度はあこがれる華やかな絢爛豪華な暮らしを己の息子は一言で切り捨てた。二人が選んだ日々の在り方に共感してくれたのだ。
「そうか」
ぐりぐりと父がセーンの頭を撫でる。
「うん! 俺、おじいさんみたいに羊を遊ばせている間に砂岩を加工したり、村の人と季節毎に一緒に仕事をしたり、そういう今の暮らしがしたいんだ」
「ありがとう、セーン。でもね、セーンはまだ王位継承権を放棄できないの」
母がそう言う。
「どうして?」
「王家のしきたりというか風習があってね、生まれたら神官に祝詞を唱えてもらい、魔神の守護を受け、子供の生誕を報告する。これはセーンが生まれた時に父さんがエイローズ家に報告した。だから、セーンには耳に穴が開いているし、王継承権も得ている。その次はその子供が五歳になったら、王家に謁見する。顔見せと成長を確認する儀式だ。これはセーンの具合が悪かったから、父さんだけで済ませたよ。お前が覚えていないのはそういう理由だ」
セーンはそれを聞いて、得心が行き、そして両親が夜中話し合っていた事に思い至る。
「俺が十歳になるから、また何かあるんだね?」
「そうだ。十歳になると、子供は次期当主候補と謁見する。今の時期当主は直系ただ一人の跡継ぎ、アーリアという女の子だ。お前より四歳年上だね。彼女と会う事が目的だ」
「会ってどうするの?」
「どうもしない。次期当主の興味がお前に向けば一言二言会話をするだけだ。適性は大人社会で勝手に行われる。そうだな、気楽に考えて構わないよ。美味しい料理を食べて、行儀よくしていればいいだけだ」
「ふーん。聞くだけだと楽しそうだね」
「そうだね。セーンは何も考えなくていい。そうしている間に“御印”が完成して、できたら帰っていい」
セーンは首を傾げた。
「王家の身分証明である耳飾りのことよ。個人個人で砂岩に刻まれる模様が違うの。もう壊れてしまったから見せてあげられないけれど、母さんの御印はハプロパプスという黄色い花だった。普通は男の子が動物、女の子は植物の御印を貰うのよ」
「一人一人違うの?」
「そうだ。父さんはカワウソだったよ」
「王家の人っていっぱいいるんでしょう?同じ印を貰う人はいないの?」
「王家の御印は神殿で管理されている。同じものを貰う事はまずないよ」
「神殿は大変だね」
セーンの率直な感想に両親は微笑んだ。この子は何の御印を貰うのだろうか。
「話を戻すぞ。次は十五の半成人の儀式だ。この儀式で自分が誰を主君に持つか、逆に誰に仕えられ、将来どんな職業に就くかが決められる。普通はこの儀式前に決まっていて、それを子供自身が当主に宣誓する儀式だ。この半成人の儀式を終えれば、武君は軍に入隊できるし、文君は役所仕事を体験できる」
この半成人の儀式は三大王家全てが行う。武君は軍の入隊が認められ、軍隊が組織する学校に通うし、文君は大学に通いながら実際の仕事を手伝う。神官は神殿に本格的に修行を行うし、皆それぞれ将来の仕事の準備期間を迎えるわけだ。
「そして十八で成人の儀を迎える。これは国民全員がそうだね」
「どうして十五で半成人なのに、十八で成人なの?」
セーンが尋ねる。父はそうだな、と頷いて答えてくれた。
「王家で成人と認められるのが三十歳だからだ。王家としては成人を迎えるのは三十歳。三十歳でようやく一人前と認められ、要職に就く権利が与えられるからだよ。もちろん、当主や血統の高い王家の人は別だけれどね。形式上ということだ。しかし国民には関係ない話。ゆえに十五の半成人の儀式は王家しか行わない」
「子供が生まれてから五年おきに何かしらあるのに、二十歳や二十五歳には何もしないの?」
「決まった儀式はないね。ただ、二十歳は大学の卒業の年だから、社会人になるお祝いをするね。王家は皆、武君や神官等と言った職種以外、つまりは文君や術君だね。これらは大学に進むからね」
「二十五歳は社会人になって五年目だからという節目でお祝いしたりするわ。でもね、王家のしきたりで儀式が存在するのは成人するまでよ。成人して自分の進む道を歩むようになれば王家は監視せずに済むからよ」
母が言う答えにセーンが疑問を投げかける。
「監視?」
「そうだ。これは言い伝えだが、王家の直系が膨大な数の分家に生まれた人間を一人一人把握し、御印を与え、将来の道を示す。これは何故だと思う?」
「自分の領地を効率よく自治し続けるためでしょう?」
「そうだ。それもある。だが、セーン、考えて御覧。そうすると自治には王家の人以外は入り込めなくなってしまうよ。では何故貴族が存在する? 何故一般市民からの政務官を募るんだろう?」
ドゥバドゥールの国政は三大王家による自治によって行われるが、貴族や他に一般市民の優秀者を採用している。国政を担う者の半数以上が王家出身者、残りの半分を貴族が占めるが、四分の一は一般市民から難関の試験をくぐりぬけてきた優秀者だ。
「そうか……必ずしも王家である必要はないよね」
貴族や王家で占められるのは、単純に経済力でよりより教育を長く受けられるからだ。一般市民はどうしても基礎的な事を五歳から六年に渡って凝縮して習う小学にしか通わない。
「先程、セーンが自分で気付いていたよ。直系が分家を管理するのは、『王位継承者』を把握するためだ」
「王位継承者って王家に生まれれば誰しも持てるのでしょう? なら、管理は戸籍だけで十分じゃないかな?」
「セーン。王位とは何だと思う?」
王。国の頂点。国の指導者、最高責任者として国を導く存在。王の選ばれ方は両親から聞いていくつか知っている。代々王を受け継ぐ家系が決まっており、その血族で運営される君主制度。投票によって代表を決定する民主制。
しかし、ドゥバドゥールは神国だ。王の決定権は魔神に在る。魔神が選ぶ。選ばれた者には王紋が現れ、国民すべてがその王紋を見て、それを持つ者を王と認める。その王紋が出る家系を王家と云う――。
「王紋の出る可能性……ということなの?」
魔神に選ばれる資格があること。先程は物語の様に、自分には関係のない事として捉えていた。だが、今は王家による儀式を経て、御印などという大層なものを身につける義務があり、一線を引かれた気分になっている。
「そうだ。国の運営なら王家の当主が行える。だが神国の王は自国の民にだけ責任を取れればいいという存在ではない。魔神に古の約束を守り続けると誓約できる国の代表者――。決して目先の利益だけにとらわれず、領地、国、時には“人”という垣根を越えてまで広い視野でこの大陸を、世界の在り方を魔神に約束できる者だ。だから、その大役を一人ではなく分散できるよう、土の大陸では興国の歴史に倣い、三人に托された。それゆえに、大君は王家の当主より当然、責任も強く、位高い――」
「その権利を、俺も持っているの?」
三大王家の当主より重い責任、偉い権力、全てを見守る約束を負う、大役。その資格が自分にもある。その大役になってしまう可能性を自分も持っている――。信じられない気がしたが、両親は重々しく頷いた。
「だから、王家は分家で生まれた子供全てを監視しているの。王紋が現れ、大君になる可能性のある子供全員を。それゆえに十八まで五年おきに招き、現状を確認し直すのよ」
母も言葉を重ねる。
「十八?」
「そうよ。十八は成人になる歳――。王紋は十八までしか現れないと言われているから。つまり子供である間しかその可能性はないの。大人、この場合は十九歳になったとたんにその資格が失せると言われているわ」
「そして、十八になると成人と認められて、王位の返上を許される。先程、セーンは今、王位の返上はできないのはそういう理由だよ。王位を返上すれば、当然、王紋は現れない。成人になり、王紋がでる可能性が消えない以上、王紋の返上は不可能ということだ」
大君の年齢がだいたい同じで、王の交替時期が同じなのはこういう理由があるのだ。誰も確証は取れないが、長年の歴史上、王紋が現れるのは十八歳まで。十九歳以降に王紋が現れた大君はいない。だから王家は王家に生まれた子供を十八まで監視し、王紋が現れないと確認できればあとは自由にしていい。そういうことなのだろう。
「そっか。つまり、僕の身は成人するまで僕のものであって、そうではない。王家のものでもあるんだね?」
「そうなるな」
だから、両親は嫌な顔をしていたのだ。自分の息子を王家に近づけたくないゆえに、その五年おきの儀式に参加させたくないということだったのだろう。
複雑な気分だった。魔神はここまで複雑にしたくて王紋を王家の者に授けると決めたわけじゃなかっただろうに、なぜここまでなってしまったのだろう?
仮に王に選ばれたとして、はるか昔の誰も覚えていない誓約を守る意志のある王はいるのだろうか。それともそういう覚悟を持った人でないと王紋は選ばれないのだろうか。魔神は王家の子供を一人一人天から観察して、採点して選んでいるのだろうか。
「そんな面倒なもの、俺はいらないな」
「そうだよな。ごめんな、父さんも母さんも王家などに生まれついてしまって……」
「セーンが余計な事を考えて不安にさせてしまったわね」
「そんなこと言っても仕方がないだろ? 別にいいよ。とりあえず、今度の新年の挨拶はエイローズの本家に顔を見せに行かなきゃってのは、理解できたし」
「そうか」
父が心配そうな目をしている。母も何か言いたそうだ。そこに、ぱたん、と本を閉じる軽い音が聞こえた。
「セーン。本を集中して読んでいたら目が疲れてしまった。わしゃもう休むよ。だが、その前にミルクを温めてきてはくれんか?」
「うん、いいよ」
セーンが席を立とうとすると、おじいさんが暖炉に新しい薪をくべる。
「こんな時間か。もう遅いなぁ。セーン、みんなの分をつくってくれるか? みんな今日は長く話しこんでいたみたいだし、疲れただろう?」
「そうね。セーンミルクを温めたら、それぞれに蜂蜜をひと匙垂らしていいわよ」
「わかった」
おじいさんの気配りに両親もほっとしたようだ。明るく母が笑う。
その日を境にセーンは少しずつ両親から礼儀作法を学び、よりいっそう左耳の穴を隠すようになった。
...059
グッカスは急いで宝石店まで取って返し、その場に残っていた一行に事情を説明しながら、ヴァン家まで移動していた。
「では、セダも?」
リュミィが言う。街中なので転移が使えないのがいたい。走って移動を続ける。
「そうだ。至急だ。可能な限り。今作戦を立てて、決定、準備完了次第実行に移す。それくらいのスピード勝負だ。ミィとセダがあの女を引きつけている間しかルビーさんを取り戻す時間はない」
「ルビーさんを助け出すって言っても、そのエイローズの人にばれては当然だめよね」
テラが言う。助け出したとして、ヴァン家で保護されていることがばれてしまえば、セークエ・ジルサーデの名を出されて、連れ戻されてしまうのがオチだ。特にこの国はキョセルというやっかいな職種がある。助け出す行程を見られても困ることになる。
「そうだな。そのためには、ヴァン家、特にミィしかしらないような隠れ家のような場所が必要だ」
その為にミィ付の執事の青年・ティーニに助言を求めにヴァン家まで走っているわけだ。
「姿を見られない救出ならやっぱりここは転移に頼るのが一番ですね」
ヌグファが意見を総合させて言う。
「しかし、俺が獣人であること、リュミィが宝人であることは伏せておきたい所だ」
「そうですわね。それにわたくしが転移を行うと秘匿という面で心残りな点が一つ、いえ、二つありますわ。一つはそのは部屋の窓にはガラスが張られていたと仰いましたでしょう? 光は直接転移ですから、空間が繋がっていないといけませんの。できないことはありません、もちろん。しかし、わたくしが光のエレメントを直接感知できないといけませんわ」
「具体的には、何がいけない?」
グッカスが問う。リュミィが答える。
「わたくしが部屋の中をきちんと見ることができないといけないということですわ。その部屋、かなり高い場所にあるように思われましたけれど、わたくしが地上から部屋の内部を見ることはできまして?」
「無理だな」
グッカスが一言で言う。光のエレメントと言っても、リュミィは人間だ。一瞬光の流れに乗る為に、光と化すことは出来ても、光そのものになれるわけではない。つまり、光の間接転移を行うには、行う宝人がちゃんと光のエレメントを感知できなければならない。
簡単に言うと見える事となる。見える範囲なら間接転移も可能ということだ。すると、高い塔の部屋の内部を見る為には、一瞬内部が見える場所で、リュミィ自身が“見る”必要がある。
つまり空中で一瞬視る為に浮かぶ、もしくはどこかで停止する必要があるということだ。ゆえに、空中で転移までの一瞬をとらえることは難しいだろう。通常の直接転移ならその必要もないのだろうが。
「もう一つは?」
「跡を付けられる可能性がありますわ」
「どういうこと?」
リュミィの転移は光の転移だ。人間からするとそれは瞬間移動に近い認識となる。突如姿が消えるのだ。誰にもばれずに密かに救出するには最高な手段に思えるが。
「水の大陸とは違って、土の大陸、特にこの王家には宝人の部下も多くいるようですわ。そうしますと、光の宝人も当然いますわよね? 転移は宝人誰しもできるものですわ。転移とは光のエレメントの流れに沿って行うもので、精霊もそれの手助けをしていることになりますわ。つまり、光の宝人ならば光の転移は簡単に後を追うことができますのよ」
「ええ?!」
つまり精霊やエレメントの流れを感知し、転移を行う。すると後からそのものがどういう経緯を辿って転移をしたか、同じエレメントを守護する宝人ならば精霊に聞いたり、エレメントの流れをたどったりする事で簡単に知れるということらしい。特に光は直接転移ゆえに、それが簡単にできるという。
「いずれ逃げた先が暴かれるのか……」
グッカスが呟く。
「そうすると魔法か? ヌグファ、どうだ?」
「転移のような真似は無理です。ただ隠ぺいのような事は出来ないこともないのですけれど……そう簡単に行える術式ではないので、すぐには無理です」
こういう魔法は準備を入念に行うタイプの魔法に属する。呪文を唱えてはい、ポン! というわけにはいかない。
「そうすると、何人かで侵入して直接攫うしかないかな?」
テラの発言にグッカスが唸る。
「しかし、拘束されている場所が場所だ……大勢で行っても……」
ルビーはエイローズ家の屋敷の尖塔の一室に居るのだった。グッカスも空からやっと姿を確認できたほどなのだ。
大きな屋敷は尖塔の上にとんがり屋根で、その上に旗を掲げる、そういう為に作られた場所がある。エイローズの御屋敷はそのとんがり屋根を持つ場所が尖塔のように、狭い円筒形の室内で、窓は嵌め殺しの、塔の中の檻の様な場所が存在していた。檻と云うには内装もしっかりしており、素敵な屋根裏部屋と言った方がいいのだが。
ルビーはセダやミィと別れてそこに軟禁された。
屋敷の奥深くまで入り込み、通路が一つで登るような場所に数名で行き、なおかつばれないようにするのは苦労しそうだ。
「グッカスはなんとかできないの?」
「無理だろう。人を運ぶにはそれなりの大きさが必要だ。セダ達も足止めできるのはせいぜい二時間程度が限界だろう。そんな日の高いうちに大きな目立つ鳥が飛んでいてみろ。撃ち落とされて終わりだ」
逃走経路もばればれだとグッカスが言う。
「じゃ、僕が転移で運ぼうか?」
楓が呟く。
「え?」
一瞬誰もが提案を理解できずに呆然とし、理解できた者から驚く。
「できるの? 楓」
光がまず尋ねた。楓は炎の宝人。楓以外炎の宝人がおらず、炎を仕える宝人もいないならば炎の転移は跡をたどられることはまずない。
「ですが、楓。転移先の炎はどうしますの?」
「そうだね。僕の場合は完全に間接転移だからね、部屋の中で一瞬炎が出る状況があればできるよ」
「しかし、炎を燃やせるようなものは……」
グッカスが言うと楓は思いついたように言う。
「紋と一緒で、僕が感知できればいいんだから、僕が生んだ火石なら同じ事ができると思うよ」
「すごいね、楓!」
テラが感心して言う。
「火晶石を使うのか。どうやって?」
「転移する場所に火石があればいい。それでたぶん、飛べるから。逃げる場所は炎を燃やしてくれてもいいし、テラが居れば転移できる。テラは僕の契約者だから、テラの元にはすぐにどこからでも飛べる」
テラが驚いた顔をする。契約者とはそういうこともできるのか。さすが魂の契約なだけある。
「では、どうやって室内に火晶石を放り込むか、か……」
嵌め殺しの窓しか外界と繋がれそうなものはない。
「グッカスが投げ入れるとか」
光が言うが、すぐに嵌め殺しの窓であることを思い出し、首を振った。グッカスが窓に激突するという珍妙な鳥になってしまうし、グッカスが怪我をする恐れもある。
「ヌグファは?」
「転送の魔法は儀式と同じですから、すぐにはできないです」
先程と同じ答え。おそらくリュミィも同じだろう。
「俺が侵入してみるか? リスクが高すぎるな」
グッカスならばれずに侵入はできそうだが、その後を考えると、あまりエイローズの屋敷の中には入りたくない。
「そうだ、テラ。あなたならできないですか?」
ヌグファが思い出したように言う。突然話を振られたテラは驚いてヌグファを見返す。
「あたし?」
「ええ。期末の実技考査で、すっごい遠い場所の的を見事打ち抜いてたことあるじゃないですか。別に窓は壊してもいいんだったら、できるんじゃないかと」
「え、壊してもいいって、あんた……」
テラがヌグファの思考回路に時々ついていけないが、グッカスは賛同する。
「そうだな。できるか、テラ?」
「え? ちょっと待ってよ! 壊す方向なの? 人様のお家を?」
「何言ってる? 相手は金持ちなんだぞ。別に一枚や二枚平気だろう」
「そういう問題じゃないと思うんだけれど」
テラの突っ込みにリュミィが苦笑しつつ言う。
「人様の物を壊すのはいただけませんけれど、場合が場合ですし……で、できそうですの?」
テラが悩む。
「それってさ、その窓の近くまで行って上向きに矢を放つの? それって現実的じゃないかも」
「そうかぁ……」
光が残念そうな顔をする。ヌグファもいい案だと思っていたようでがっくししている。
「いや、待てよ……」
グッカスが少し考えて行った。
「地上からは確かに無理だろうが……。敷地外が広い雑木林になっていた。そこから樹の上に登って射ることはできないか? 足場は不安定になるが」
「期末考査の中に馬上で射る試験もありましたよね? テラ、どうですか?」
武闘科の試験は定期試験に座学だけではなく実技が入る。どちらかというと座学よりは実技の方が多い位だ。セダのような勉強嫌いが主席になれるのは、そういう面だ。セダは実技における実力が一番なのである。そういう意味で実技の試験も多岐に渡り、セヴンスクールの試験習慣は人によっては半月もかかる。
「樹の中? 足場より障害物の方が問題かも。にしてもグッカス、それ距離どれくらいなの?」
「そうだな。目算だが……ここからあの青い旗のかかっている家くらいまでか」
「ええ? そんなに遠いの?!」
光が驚いて距離を確認する。それは光の転移でもぎりぎりできるというレベルの、視界でいうと最大限に遠い距離といえた。テラは少し考えている風だ。テラが今も背負っている弓で射れる距離とは思いにくい。
「できなくもないけれど……この弓矢じゃだめね。強弓じゃないとそこまで飛距離が出ないもん」
弓は弓幹と呼ばれる弓のボディとその端から端を糸などのつるで結び、弦を張った状態で構成される。射手自身が弦の調子を調整することはよくある。強弓とはその弦の張りが強い弓のことだ。
テラは女性なので、男性に比べるとそこまで強弓を扱えるわけではない。しかし、テラも弓専攻では三次席、上から三番目の成績を保持していることから弓の扱いは巧い。でなければ任務に選ばれることはない。
「そこは、ヴァン家に用意してもらうしかないだろう」
グッカスはそう結論付ける。街を駆け抜けるうちにヴァン家の支配力が強い区画に入った。もう少しで一行が世話になっている屋敷へとたどり着く。
「では、テラの弓が使えるという仮定で作戦を立てるぞ。まず、俺がテラをエイローズ家の隣の雑木林まで連れて行く。テラは楓の火晶石を矢に付けて、ルビーさんが捕まっている部屋の窓へ向けて射る。楓はそのタイミングで転移を行い、ルビーさんを連れて転移をする。ここまではいいな?」
視線を交わし返事がないので、了承したということでグッカスが続けようとする。
「楓は火晶石がいつ部屋の中に入ったとわかるのですか? そのタイミングは合わせなくても?」
ヌグファが問う。グッカスも頷いて、楓を見た。
「確かに、テラがいつ矢を射るか傍で見ていないと転移のタイミングはわからないよね。でも、大丈夫。今回使うのは僕が生む火石だから、ある程度火の精霊を使ってお願ができるよ。タイミングは任せて」
そういうものなのか、とテラはまじまじと楓を見つめ返した。
「そのルビーさんを連れて転移するのは構わないんだけれど、どこに帰ってくればいいの?」
「そうだな。ヴァン家に戻っても、キョセルが嗅ぎつければ意味がない。逃げる先は……ミィしか知らないような場所が最適だが……ミィはいないしな」
「その辺りは、あのティーニさんになんとかしてもらうしかないのでは?」
ヌグファが現実的な案を提案した。
「そうだな」
「テラはどうしますの? そのままの場所にいれば危険ではありませんの?」
リュミィの発言にテラが自分で逃げるよ? と言う。
「僕が一緒に転移すればいいんだよ。テラの場所はわかるし、二人なら同時に転移できるよ」
「よし、決まりだな」
そう話しているうちにヴァン家の門が見えてくる。顔見知りの門番が走ってくる一行に驚きながらも門を開けてくれた。屋敷内に駆け込み、ティーニというミィ付の執事の青年を呼んでもらう。すぐに顔を出したティーニだったが、ミィがいない事をいぶかしんだ。グッカスが事情を簡単に説明する。
「承知しました。ティレン!」
ティーニはすぐに事情を理解すると、近くの警備の兵を呼んだ。呼ばれた若者に指示をする。
「テラ様は、彼について行って下さい。彼が武器庫にご案内します。合う弓があるといいのですが」
「時間がないのはわかっているけれど、二三回射る練習がしたいの。そういう場所はある?」
ティーニはしばらく考え、一つの決断をした。
「ヴァン家の周囲も広い雑木林が広がっております。ティレン、屋敷裏の林を使っていただいてくれ。今の時間なら庭師は休憩中のはずだ、東の方角にのみ射っていただければ、事故にはならないだろう」
「わかりました。では、こちらへ」
「テラ、頼んだぞ」
グッカスの言葉に頷いて、テラが兵士と共に消えて行く。
「匿う場所ですね。ミィ様とキィ様が幼少の頃に一時、遊びに使われていた場所がございます。但し、この屋敷から近いのです。ヴァン家でもそういう遊び場として知っている者がほとんどいないので、情報が漏れる事はないとは思うのですが、キョセルの手から隠せるか……」
ティーニの言葉にどうするか考え込む一行。
「ヌグファ、なんとかできるか?」
「今考えていたところです。……一、二時間いただければ簡易的な人避けの魔法を使う事はできます。その場所の広さはどの程度でしょうか?」
以前の任務で一緒に過ごす事が多かったヌグファとグッカスは互いの得意分野をよく知っている。ヌグファが獣避けの術式を組み込む事ができると知っていたから、応用ができないかと思ったのである。
「皆様にお過ごし頂いている部屋より一回り大きいものが二部屋、二階建ての構造です」
ティーニの答えに、ヌグファが頷いた。
「できます。ただ、準備があるので、間に合うかが問題です」
「では、それまではわたくしがなんとか目隠しをしますわ」
リュミィが言う。グッカスとヌグファが理解して目線で依頼する。水の大陸、ジルタリアでフィスを匿った宝人達が創っていた目くらましだろう。それをリュミィは光のエレメントで行うと言ってくれたのだ。
「そこに暖炉はありますか?」
楓が聞いた。
「いえ、ただの小屋ですから、そういうものはありません」
比較的温暖な地域ゆえに、暖房器具もないだろう。
「じゃ、紋を作らないといけない」
「そうだな。それとあまりここで騒いでいて情報が漏れても困る。今いるメンバーでできるだけ食料などを運んでしまおう。ルビーさんを連れてきてから人の出入りがない方がいい」
グッカスの提案にティーニが賛同する。
「では、皆さまこちらへ」
人を匿う場合、匿っていることがばれてしまう一番の原因は食料などを運ぶ際のものの移動である。人は食べなければ生きていけない。定期的に食料をどこかに運ぶとなるとその行動が目立ち、結果的に位置を知らせる事になるのだ。
「食糧庫で、乾物と水を持ちこめるだけ持って行きましょう。整備もなにもしていないのですが、掃除している暇もないですし……さわがなければ大丈夫だと思うのですが」
ティーニは一行に食料を持たせると、人通りが少ない通路を選んで、屋敷の外に出る。そのまま雑木林を抜けて行き、森の中に入っていった。すると森の中に木製の小屋がずらりと並ぶ場所があった。
「いざというときの倉庫です。そのうちの一つです。こちらへ」
倉庫は広いものが多かったが、その隅に教えられたような大きさの小屋が目に入る。
「作業者の休憩所、兼倉庫内の管理に使用する道具を保管していた場所です。いつの間にかそこをミィ様とキィ様がお遊びに使われるようになったのです。あのままにしてあるはずですから、お二人が使っていた寝具もそのままあるはずです」
「ちなみにそれっていつの話?」
光が聞いた。
「わたくし共がお仕えし始めた頃ですから、十年前ですか。でも、お二人は仲がよろしいので、最近も秘密裏にお話し合いになる際は使っておられる様でしたよ?」
「へぇ……」
扉についた鍵を開け、一行を中に促す。簡素なランプに光晶石が入ったままになっていた。
「では、私は魔法陣の作成に入ります」
ヌグファがそう言ってすぐに外に出て行った。
「じゃ、僕は紋を作ってしまうよ」
楓がそう言って部屋の隅に立つ。一応目線で促され、離れた一行は楓の紋を作る様子を見守った。
楓は手を広げ、そのまま腕を水平にゆっくり回す。するといつの間にか指先に点った炎が軌跡を描き、楓の周囲を炎の円が創られる。脚がすっとステップを踏むように自然に動いていた。一回転すると、そのまま左手には炎が点っており、その炎を楓は手のひらを下に向けて落とすようにした。すると炎が落ち、足元、すなわち床に就くまでに収まって、一つの赤い石となる。火石はそのまま床の中に吸い込まれるように消えて行く。火石が無くなった瞬間に、楓の契約紋と同じ模様が床に広がった。
「おっけー、と」
「よし、あとはテラか」
「あ。ちょっと待って、グッカス」
グッカスが出て行こうとした時を楓が引きとめる。
「何だ?」
「テラが矢を放つ場所までは移動しなければならないんでしょう? ならこれを」
グッカスが広げた手のひらの上で楓は拳を握り、腕を回転させて手のひらを下向きにするようにして開いた。その拳を開く瞬間に、オレンジ色の炎が点って消え、音もなくグッカスの手の上に赤い石が乗っている。まるで手品の様だった。
「時間がないなら先に移動していて。その火石を目印にテラと転移するから」
「あ、ああ」
グッカスもさすがに驚いたようだが、理解してすぐに火晶石を握りこんだ。
「あ、あたしは何をしたらいいのかな?」
光が言う。正直、小さな光を巻き込みたくない一行だ。大人しく待っていてもらいたい。本来ならば楓の手だって借りたくはない。
「お前は連絡係だ。ここで情報の混乱がないように、皆がばらばらに戻って来た時に、誰が何をしているかを伝える役目だ。できるな?それと……この場所を軽く掃除していてくれるか?」
グッカスがそう言う。大人しく待っていろと言えば光は無力さを自覚して落ち込んでしまうだろう。
「うん! わかった!」
光はそう言って意気込む。グッカスはティーニに視線を送って足早に去っていく。
「では、テラ様の元へご案内しましょう」
楓が頷く。楓は光を見て、視線で一緒に行くかを問うたので、光は頷く。
「こちらへ」
森を突っ切っていく。小走りで決して足場がいいとは言えない森の中を進む。しばらくして息が軽く切れる頃、ティーニが声を上げた。
「ティレン!!」
「はい!」
微かに声が響く。
「こちらですね」
ティーニは帰って来た声だけでどの辺りがわかるようだ。迷わずに案内を続ける。
すると、ひときわ大きな樹の根元に兵士が立っているのが見えた。テラの姿は見えない。
「テラは?」
「上です」
兵士が指差す方を見ると、樹のはるか上の枝にテラがいた。不安定な足場にもかかわらず、揺らぐ事無く弓を構えている。いつもより大きい弓を構えてもその姿勢が変わることはない。弓弦を引く腕があまりの強さにわずかに痙攣するが、視線は外れない――外さない。
無音の飛翔、そして、破裂したような音と一緒の着弾の確認。
「……すごい」
光が呟いた。矢が飛んで行った方向さえ見えないのに、確実に音が仕留めたと宣言している。テラの視線のはるか先、そこには目的のものが貫かれている。
「あれ? そんな待たせた?」
テラが弓を下ろして一行に気付いた。
「テラ、すっごい!!」
「えへへ~」
テラが照れながら樹から降りてくる。
「……あの足場で、あそこまでぶれない射撃を……すごい」
ティレンと言う兵士が感心してテラを見つめる。
「だいたいつかめた。あとはなるようになる、かな?」
同じころ、魔法陣をあらかた描き終えたヌグファが魔力を練る為の集中に入り、
グッカスが密かにエイローズ家の敷地の隣にある雑木林の中に入っていた。
――作戦開始は目前に迫る。
...060
セーンが十二歳になってしばらくした頃、セーンは彼と出会った。
彼はいつも羊を散歩する崖の岩に囲まれた場所に――落ちていた。
言葉通り、落ちていたのだ。気付かなかったセーンが、いつものように羊を遊ばせながら砂岩の制作に精を出していたその歌で目覚めたと後に聞いた。
――セーンは、その夏の日、テルルと出会った。
淡い金色の髪に菫色の瞳。肌はうっすら白く、整った顔立ちをした少女、に見えた。
「どこだ? セーン」
岩谷の隙間に落ちていた人を発見したセーンはすぐに羊たちを羊牧犬に任せて父親を呼びに行った。人が倒れている、と。慌てて山を駆け上ってきてくれた父が救いだした人は、美しい少女だった。
何故こんな岩谷にいたのか、そもそも村では見かけない顔で、どこのだれかと思った。しかし、少女の脚が紫色に変色し、血を未だ流しているのを見て、すぐさま手当てが必要と知れるとわかると、父の決断は早かった。少女を自宅まで運び、医術の心得のある母親がすぐに手当てをした。
「あ、母さん、目を覚ましたよ」
拾ってきた動物は拾った人物が世話をすること。それは様々な動物を飼い、生計を立てていた一家の決まりごとだった。ゆえに、拾った少女の手当てが終了したら世話はセーンの役目だった。少女は脚にひどいけがをしていて、動けなかったのだろう。他にも身体のあちこちに怪我をしていた。
「ここは……?」
「ここ? ここはサルン村」
「サルン? 知らないところだ」
「はは! 田舎だからね。それより、痛いところは? 水飲む?」
そこにノック音が響いて母親と父親が顔をのぞかせる。母親の手には簡単な軽食も乗せられていた。
「どう? 調子は……ええっと、どなたなの、結局」
母親がにっこり笑いながらトレイをベッドサイドに置いた。
「あ、えっと……」
セーンが困って少女を見る。
「はい。えっと、先にお聞きしたいのですが、ここはどの辺りなんでしょう? サルン村というと……?」
「ドゥバドゥール西北の山間の村よ。窓の外を見て。あそこから見えるのが、ウィーン山脈の南部の一端。一番近い広めの街はフェル市。だいたいその辺りで分かるかしら?」
「あ、はい。ありがとうございます。で、あの……手当までして頂いてありがとうございました。あの、手当てをして下さった方は……?」
少女が目を彷徨わせる。母親が笑って言う。
「小さな村だからお医者さまもいなくてね、私が。これでも医術の心得はあるの。脚は全治五カ月。その他も含めて半年は安静にしてもらいたいとこだけど……」
母親がそう言う。少女はてへへと笑った。
「そうですか。五カ月も……困ったなぁ。どうしよう……」
「? なにが?」
セーンが尋ねる。父親と母親が笑う。
「いいのよ。たぶんその状況なら、まともに動けないでしょうし。動けるまでここにいてもいいわ。もしご家族にご連絡がつくならしてもいいし。で、そろそろお名前を伺っても?」
「え?! ここに置いて下さるんですか?」
少女はお礼を言う。
「有難いなぁ。俺はテルル。手当して下さったってことは、俺の性別ばれちゃったっすよね?」
「え? ああ、うん」
母親の視線が逸れる。しばし沈黙。……沈黙。
「ええ!? 男なの?」
セーンが驚いた声を上げる。父親も軽く驚いていた。それほど目の前にいる人物は少女にしか見えなかったのだ。
「え? じょ、女装??!」
セーンが驚いていると、テルルはにこーっと笑って言う。
「ああ。俺の趣味。ごめんね? ちょっと幻滅させちゃったー?」
「いや、幻滅って」
「そうねぇ。こんな美人の女の子村にはいないものねぇ」
「ち、違うよ! 母さん!!」
「あははは!!」
「ははは!」
室内に笑い声が響き渡る。セーンだけが笑い声の中でむくれていた。
それからテルルはセーンの家に居ついた。セーンと母の手厚い看護の甲斐あってテルルは順調に回復した。最初の三カ月が過ぎ、脚が動くようになってちょこちょこセーンと行動を共にし、家事の手伝いをしてくれた。
「え? テルルそんなに年上なの?」
「そうそー。俺は童顔かつ美形なのー。今までちょっと歳上くらいに思ってたでしょ?」
「……うん。まさか十歳も年上とは……」
愕然としてセーンが呟く。テルルはある意味二重でセーンの常識を破壊してくれた。どこからどう見ても女顔のくせに実は男(女装趣味)+童顔。御歳、二十三。……詐欺だ。
「実は俺様、意外と年上なのさー。この前リリィさんも聞いて驚いてた」
わはは、と悪戯が成功した子供の様にテルルが笑う。
「二十三ってことは、ここで怪我する前は何の仕事をしてたの? っていうか、なんであんなとこに?」
今まで聞いたことはなかったが、岩谷に落ちたにしては、脚の傷は不自然に思えた。
「なんで?」
「だって、あの落ち方では脚のあそこの部分にはそんな出血の怪我はおかしいし、全身の切り傷も不自然だし」
テルルが目を丸くしてセーンを凝視している。
「お前、武術か医術の心得もあるのか?」
「ちょっとの医術だよ。ほら、この村こんな山奥だろう? 医師はすぐには来てくれないから、母さんに教わったんだ。いざというときに役に立つからって」
「ちょっとで、そんなことまでわかるもんかよ!」
テルルの驚きはセーンにしては予想外だった。そこまで特別とは思わない。確かに村の子は医術を扱える子供はいないが、両親ができるものだからセーンも当然のように習ったし、村で役立てばいいと考えたくらいだ。
「お前、ちょっと異常じゃない?」
「どこが?」
テルルが言う事がセーンには理解できない。
「英才教育にもほどがあるだろう。例えばだ。お前が夕食の後に両親とやっている会話。あれも最初目にした時に目ん玉転げ出るかって位驚いたんだぞ? お前、今いくつだっけ?」
「十三」
「だろう? いいか、お前が気軽に両親とやりあっている夕食のクイズもどきの話はな、普通は討論っていって、王宮とかで花開くものだぞ。医術にしたって、王家がやっているようなものじゃないか! しかも、お前、いや……いい」
テルルは興奮した様子で言葉を重ねていたのに、急に止める。
「そんなに変?」
「だって、お前友達とかに聞いた事無いのか? 普通の家は子供がそこまでの知識をたった十三で持っているわけないんだぞ」
「そうかぁ?」
テルルの様子にセーンは首をかしげるばかりだ。
「そうなの。そういや、お前、もう一個特技があったな。『砂岩』を加工できるんだろう? それも普通はできない」
セーンはようやく思い至った様子で言う。
「ああ、それは違う。おじいさんが砂岩加工師だったんだ。それで興味を持って、羊の世話をしている傍ら習ったんだ」
テルルはまじまじとセーンを見る。
「お前、きっと将来食うのに困らないな」
「何言ってんだよ。俺はずっとこの村で同じ暮らしをするんだ。食べるのには元から困らないだろう」
「……宝の持ち腐れだな」
テルルは最後呟くように言うにとどめた。
実はテルルの驚きは最もで、セーンは十三歳にしてはあり得ない知識と技術を両親によって叩き込まれていた。それは万が一、セーンが王宮で三大王家の一員として過ごすことを望んだ場合を想定しての両親の英才教育だった。
セーンの両親は二人とも王家出身。それに加えて二人とも教師に近い仕事をしていたのだから、教え方は巧い。セーンは知らないうちに、礼儀作法に始まり、帝王学、経済学、医術、神学、戦術など多岐に渡る事を叩きこまれていた。
一般教養は学校に任せ、それ以外の高等かつ専門的な学習を両親との会話や一問一答などの毎日行われる夕食後の討論によって知らずの内に培っていたのだった。
「で、話を戻すけど、テルルはなんであそこに落ちてたんだ?」
「ああ。追われたんだよ」
「追われた? 野犬か何かか?」
冬が差し迫った時や、雪解け間もない頃は食料を求めて、野獣が暴れることがあるが、テルルと出会った時はそういう時期ではなかったが。
「いや、人だ。暗君に追われてた」
「……キョセル? なんでそんなのに?」
英才教育を知らずに受けていたセーンは事態をすぐに察知した。
「俺の仕事は、そうだなぁ……何でも屋みたいなもんでさ。とある貴族から依頼を受けたんだよ。依頼内容はとある人の死因を調べてくれてってことだったんだけどな。それをつついていくうちに巨大な権力を持つ組織を敵に回してな、で、追われる羽目になったのさ」
「危険な仕事だったのか?」
テルルは微笑んだ。
「いつもそれなりの仕事さ。ただ相手が悪かったな。で、へましちまった」
キョセルから逃げるのはそうそうできることではない。逃げ切れただけ、命があって一応五体満足なだけ、テルルは運がよかったのだ。
「そっか。で、その人の死因はわかったの?」
「それがよ、イマイチわからないんだ。一番大切な部分が欠けてる」
セーンはしばらく言うのをためらっていたが、言う事を決めた様で、テルルに尋ねる。
「怪我が治ったら、またその危ない仕事をするのか?」
その表情はテルルを案じているものだ。
「そうだな。依頼人は本当に苦しくて辛いと思うんだ。だから、死因を晴らすことで、少しでも心が軽くなるなら、俺はやるよ」
「……そうだな。つらいよな。でも、でもさ! テルルも無理するなよ」
テルルはふっと笑ってセーンの頭をぐりぐりと撫でる。セーンがくすぐったそうに声を上げて笑った。
「なぁ、セーン。唄ってくれよ」
「え?」
「砂岩を創る時、いつも歌っているじゃないか。あれ、歌ってくれよ」
「ああ、加工の唄な」
砂岩の加工は彫刻のように道具と手を使うが、色素を変えたり、祝詞や誓約を混ぜる時は唄を使う。砂岩加工師は唄が巧くないと慣れない職業でもある。セーンに加工法を教えたおじいさんも唄が巧い。
「いいよ。丁度あるからな」
鞄から石を取り出し、太陽に翳す。何を創るかまだ決めていない。
「そうだ! テルル、何を創って欲しい?」
テルルは広がる草原に寝転んで、空を眺める。
――平和だ。
「守り石がいい」
「いいよ。色は?」
雲が流れゆく。草が囁くように、歌うようにさわさわと音を立てる。
ここはいい村だ。争いごとからも遠く、皆が平和で、自然と共に力強く生きている。
「お前の目のような緑がいい」
「緑な」
セーンが笑う。指が繊細に石を撫で、そしてセーンが祈るように囁くように、歌い出す。
少年独特の高い声が、谷間にすーっと流れ、響く。
――美しい唄だ。安らぐ声だ。
テルルは安心しきってセーンの声に耳を傾けながら目を閉じた。




