3.火神覚醒 【05】
...033
シャイデ上空の空は何処から見ても朱に染まっていた。その真下を空に届くかというほどの炎の固まりが、否、炎の巨人が空に向かって吠えている。
「なんだよ、あれは!!」
セダは腕を止めて上空を見上げてしまった。周囲にいたラトリア兵も同様に紅い炎の巨人を見上げている。周囲の宝人達は我を失くした様子のまま、ただ、炎の固まりをまるで崇拝するように見上げている。
吠え終わった炎の巨人は軽い動作で一歩踏み出す。すると直後に足元がぐらりと大きく揺れ、セダだけではなく周囲のだれもが地面に叩きつけられた。
「地震だ!」
ラトリアの誰かが叫ぶ。巨人が歩いたその動作で地震が起きたという割には、細かな揺れがずっと続いている。ぐらぐらと足元がおぼつかない。
セダはとりあえず身を起こす。ラトリア兵は完全に戦意を喪失したようなので刃を収めた。そして直感が告げる。――あれは、楓だと。
そう考えていた時、地震の次に空気が振動する。それは音だった。何か分からないが、歓声に似た音が響き渡る。何かを喜んでいるような、誰かの歓声がどこからともなく響き渡る。何かが起こっているのは確かだが、こんなに近くにいても何か分からない、そんな不安がある。
「……なんて、ことですの!!?」
我を失っていた様子のリュミィが、地震で叩きつけられた衝撃によって我に返ったようだ。セダは慌ててリュミィに駆け寄り、その身を起こそうと手を差し出すが、リュミィにはその手すら見えていないようだ。
リュミィに続くように周囲で争っていた宝人達も呆然と紅い巨人を見上げる。ただ今度は皆の眼に虚無ではなく、恐怖が映っている。そして、それぞれの顔に自我と、感情がある。
「リュミィ、どうしたんだ?」
「……炎が、」
それは巨人を見れば分かる。どうしたっていうんだ?
「炎が復活しましたわ……」
呆然と呟かれるその意味がセダにはわからない。
「リュミィ、俺にもわかるように言ってくれないか?」
「聞こえますでしょう?! 炎の精霊の歓喜の歌が!!」
リュミィは恐れに顔を青ざめさせてセダに叫んだ。
「炎の魔神が顕現いたしましたのよ!! 水の大陸は終わりですわ!!」
「っ!!?」
セダがその意味を理解するまでの一息、その間に宝人が叫びだし、再びのパニックに陥って絶叫したり、呆然としたり、転移をはじめたりとてんでばらばらの行動を取り始めた。
もう、人間もラトリアもない。我先に炎から逃げようと禁踏区域は先程よりもっとひどい混乱に叩き込まれた。誰も他人のことが見えていない。
「どうしたら……」
リュミィが呆然とするのを、セダは肩を揺すって正気に戻す。
「リュミィ、あれは楓か?」
炎の巨人は、炎の魔神だという。しかし、炎の宝人は楓一人だけ。だから世界に炎は枯渇している。だというのに、炎が溢れているなら、その原因、引き金を引いたのは楓になる。
「わかりませんわ。わたくしも魔神の顕現など、初めて見ますのよ?!」
「じゃ、行ってみるしかねーな。テラも心配だ」
楓が引き起こしたなら、すぐそばにはテラがいたはずだ。いくら炎の加護があるとはいえ、あの炎の量は危ないのではないだろうか。
セダはまだ呆然とするリュミィの手を引いて炎の巨人に向かって走り出した。まずは、皆に合流しなければ。セダは光達の身も心配だった。グッカスとヌグファがいるとは思うが、このパニックようではもしかしたらはぐれているかもしれない。
散り散りに逃げる宝人と人間。恐れて逃げ惑う様は姿もなにもかも同じなのに、どうして襲ったり、襲われたりという関係性になってしまうのか。
セダはそう思いながら禁踏区域の中心に向かって走り続けた。すると紅い空からオレンジの塊が飛翔してくる。見慣れた形だったが周囲があまりにも赤いので、一瞬何か分からなかった。
「グッカス!」
「セダ!」
周囲を気にする様子はなく、グッカスがその場で人間に成代わる。
「無事か?」
「ああ。ただ、どうしたんだ? 光達は?」
「光たちは一応無事だ。俺たちにも何かわからない。だが……光が言うには楓が心配だと言うんでな」
セダは頷いた。無言でグッカスの後ろ姿を追う。禁踏区域の中心に近づくにつれ、炎が目に見える形で燃えている光景に出会った。あの炎の巨人の余波のようなものだろうか。
「テラは?」
「わからん」
中央に近づくと共に人影が少なくなっていく。ヌグファを中心に宝人の子供たちが固まっている姿を見つけ、セダが駆け出した。幼い宝人の子供は泣きだしている。確か紫紺、といったか。
「光」
「セダ!」
互いの無事を確認し、誰もが示し合わせたように炎の巨人を見上げた。
「あれはどうして現れたんだ? その前の宝人達の変な様子はなんだったんだ?」
リュミィがその答えを返す。ようやく落ち着いたようだ。
「前に宝人の生まれ方を説明したことを覚えていらっしゃいますわね? 魔神によって『卵核』に命を宿され、各里の『卵殻』に転移する。そして生まれると。どうやら水の大陸の『卵核』はここ、禁踏区域に隠されていたようですわね。先程ラトリアの兵士たちによって『卵核』が破壊されました。その行為によって、宝人は一斉に鳴いたのですわ。そして、怒りに支配されたようですの」
グッカスが目を見開いた。セダも言われた意味を理解して返す言葉が見つからない。
宝人は祈りから生まれる。その祈りを聞き届けた魔神は『卵核』によって、次代の宝人の命を宿らせ、育ませる。その『卵核』が破壊されたなら、未来の命が失われただけではなく――水の大陸では未来永劫宝人が生まれないということだ。
「卵核って修復できたりしないのか?」
やっと口に出た言葉はそんなものだった。宝人が生まれる卵となる卵殻のもととなるもの、卵核。
「わかりませんわ。どちらにしろ、それは魔神にしか出来ない事。……水の魔神ではなく、炎の魔神が顕現していることを考えれば、水の魔神は水の大陸を見放したということかと」
つまり、『卵核』を破壊され、水の大陸における宝人の未来を奪われた。言い方を変えれば、水の大陸の人間は宝人に刃を向けただけでなく、未来を害した。
そして宝人は未来を護る事が出来なかった。その哀しみに宝人達は呆然とし、鳴いた。
次にその怒りに支配され、その怒りを聞き届けた“怒り”を司る炎のエレメントが魔神を呼んだ、ということだ。
「炎は、世界の半分を過去に焼きつくし、破壊しましたわ。水の大陸だけではなく、今度こそ世界は滅ぶ」
「なぜ、ラトリアはそんなことを」
ヌグファが呟いた。水の大陸が、世界が滅ぶかもしれないその実感がわかない。実際、炎はそこまで迫っていて早く逃げないと危険なこともわかっていた。
どうする、とグッカスが視線で問う。
「楓は? テラは?」
光が言う。リュミィが首を振った。光がセダを見る。
「あれ、止めるぞ」
セダは厳しい視線を炎の巨人に向けて言った。
「正気か?」
グッカスは静かに問う。
「無理ですわ。魔神に人の、いいえわたくしたちの声が届くわけがありませんもの」
リュミィの言葉をセダが怒ったように否定した。
「やってみなきゃ、わかんねーだろ!」
光はセダの視線に頷いた。
「このまま水の大陸が俺たちの世界が滅ぶってときにただ絶望してればいいのかよ? そうして、世界が滅んで初めて魔神が許してくれるのか? わからないだろ。そんなのやってみきゃわかんないだろ! 俺は諦めない。諦めてなんかやるもんか!」
無謀としか思えない行為をしようとしていることはセダだってわかっている。でも、やらずには、動かずにはいられないのだ。あれが、楓の可能性がある以上、テラが巻き込まれているかもしれない以上は!!
「うん。そうだね」
セダの目を見返して光が答える。グッカスはやれやれとため息をついた。
「テラと楓も心配です。いくら炎に耐性があるとはいえ、限度があるでしょうし」
ヌグファが続ける。きっとテラがこの場にいてもセダについてきてくれるだろう。セダは頷いた。たしかにある。ここに恐怖に勝る絆と勇気が。
「どうして……どうしてそんなことができますの?」
リュミィが力無く言う。
「楓に約束しちゃったからな。炎を恐れないって」
セダはそう言って笑うと、炎の巨人に向かって走りだした。光がそれに続く。グッカスが音もなく鳥に変じて先導し、ヌグファが鴉と紫紺をリュミィの方へ預けてセダの背を追った。
「もし、願って許されるなら……」
リュミィは両腕を組み合わせる。
禁踏区域にたどり着いたハーキは指揮官と合流し、ラトリア兵を追い詰めていた。宝人の避難の先導を始めようと言う時、空が赤く染まり、炎の巨人が誕生している場面を見た。
シャイデの兵もラトリアの兵も宝人達も呆然とそれを見上げ、ぐらりと地震に襲われてから皆が正気に返ってパニックに陥った。逃げようとする兵士を一括しても、恐怖はぬぐえない。
間近に炎が燃え盛っている。火の粉がここまで届き身近なものに燃えうつる。なにより見上げるような大きさの炎など、出会ったためしがない。
ハーキは恐怖を感じながらも、己を律した。指揮官がうろたえれば兵も付いてこない。急いで風向きを確認する。
「まずい」
風下に城下町がある。この規模の炎なら、すぐさま飛び火して城下町が火の海に飲まれるだろう。現に自由に風に乗った火の粉は禁踏区域のあらゆるものに着火し、火の勢いを増す一端となっている。
飛び火とはよくいったものだ。火が火を呼んでいる。一刻も早く民を逃がさなければ!
「ラージ!」
「はい、陛下!」
混乱の騒ぎに負けないよう、指揮官が答える。しかし、シャイデの兵も恐怖から逃げ惑っている。民を護る為の軍人がこれでは、いざという時に何の役にも立たない。
ハーキの顔に青い契約紋が浮かんだ。すぐさま、ハーキの周囲から水が湧き出し、逃げ惑う兵士の上に降りかかる。
「うろたえるな!!」
ハーキが大喝を入れる。水を懸けられて我に返ったシャイデの兵はぽかんとしてハーキを見た。
「民を護るべき軍人が民より先に逃げてどうする!!」
怒鳴られた兵士たちは、それを聞いて肩を縮こまらせた。
「命令を変更する。拘束しているラトリア兵を現時点で開放。シャイデ兵は隊ごとに城下町へ行け! 運河を利用して民を炎から遠ざけろ! 国も、宝人も、人間も関係ない。混乱に陥っているだろう! いざという時は無理やりにでも避難させよ! 最悪皆河に投げ込め! このシャイデで、これ以上命を消すな!」
「はっ!!」
ラージが言葉を引き継いで細やかな命令を下し、離れた部隊への命令のために伝令を放った。
「陛下はいかがなさいます?」
散っていったシャイデの兵を見送って己の行動とハーキの行動を把握するために、問うた。
「私はここに残る。現時点で水を扱えるのは私だけ。こんな微力では大した時間にはならないだろうが、あの巨人、城下には入らせない」
宝人の兵士たちは呆然として使い物にならなかった。戦場から遠ざけた場所に置いてきたのだ。
「……陛下……」
ラージは呆然として己よりはるかに若い少女を見た。自分を引き抜いた少年も、この少女もなんという器か! このままここで水を使い続けたとて、あの量の炎に敵う訳はない。だが、焼け石に水でも、せめて兵士が民の元にたどり着くそのわずかな時間だけでも稼ぐと言う。そんなことしたら、死んでしまうとは言えなかった。彼女にはその覚悟があるのだから。
「ご無事で」
ありきたりな言葉しか言えなかった。しかし、目の前の少女はそれを聞いて笑ってくれた。
「後の指揮はお前に任せる。なんとか一人でも多くの命を救え」
「御意」
ハーキはそう言って腰の剣を抜き放った。
「さぁて、このキアからパクってきた『水帝剣』はどれだけの力をくれるかしらね」
それは柄に六色の宝石が埋め込まれた、普段はキアが儀式用に身につけている剣を抜いた。
刃が紅い空を映して淡く赤く染まる。キアが以前抜いた時は白い刃だったが。水の大陸三大宝剣の一つ『水帝剣』。抜き放ち、振るだけで水の加護を得られるという。
ハーキは顔を引き締める。その顔に鮮やかな青い契約紋が浮かんだ。
「させないわよ」
炎の巨人がハーキの声を聞いていなくとも、その存在を知らなくとも構わない。ただ、舞い散るその火の粉を一つでも払う為なら、ハーキは迷わず炎に向かう。
炎の巨人に近づくにつれ、その大きさが実感できた。とにかく大きい。止めようにもどうしたらいいのかという大きさだ。不用意に近づくとその熱波だけで、危険に身をさらすことになる。
巨人の足跡には、炎が燃えた。大地があまりの熱さに燃え、真っ赤な亀裂を起こしている。炎はゆらゆら揺れ、まるで草木が生えるがごとく、立ち上がって揺れている。
「楓は?」
光が炎の巨人を真っすぐ見つめる。グッカスが距離を取って巨人の周囲を一回りした。
「だめだ。あまりに大きすぎてどうすればいいか見当がつかない」
グッカスが言う。無理もない。セダが止まれと叫んだ所で、聴こえているかどうか。
「いた」
光が巨人を睨みあげる。その指差す方角はあまりにも高くてよくわからない。
「この中にいるよ。テラと楓」
魂見によって炎の巨人を見た光が確かに言った。
「どこだ?」
グッカスが問う。
「テラは巨人のお腹の辺りに魂が見える。楓は……わからない。巨人と全体で溶け合っているような感じで、だけど確かに楓の魂が見える」
グッカスはそれを聞いてもう一回飛び上がる。確認の為に巨人の腹囲を周回するように飛び続けた。
「かすかだが、影があるのはわかるな。炎がすごくてそれ以上はわからないんだが」
「テラは大丈夫でしょうか」
「わからん。楓がテラを護ろうとして身に入れたのか、巻き込まれたが契約者ゆえに助かっているだけか」
グッカスは冷静に言った。
「光、あれは楓なんだな?」
炎の巨人、宝人が炎の魔神と恐れているもの。それが楓ならば、話が通じるかもしれない。きっかけさえあれば。こっちに気付き、セダたちの言葉を聞くことが出来たなら。止めることができるだろう。
「なら話そう」
セダは言った。どうやって、とすかさずグッカスが突っ込む。
「ヌグファ、気を引くだけの水の魔法は?」
グッカスが言う。ヌグファは杖を握りしめた。微かにその手が震えている。あの炎の塊に、巨人に立ち向かえと言われたら誰だって恐れるだろう。
だが、ヌグファはきっと顔を上に向ける。
「どれだけ気を引けるかはわかりませんが、少し時間を頂ければ!」
セダもグッカスも頷いた。
「グッカス、飛べる?」
光が言う。グッカスは頷いた。ヌグファが一人で立ち向かうのに、尻ごみなど出来るはずもない。
「セダと私を乗せて飛んで。巨人の頭まで。そしたら、きっと声が届く」
セダが頷いた。
「決まりだな」
光は水晶石を握りしめた。ヌグファが魔神の進行方向で、魔神がすぐそばまで迫る中で杖を掲げる。魔力を練っているのが遠目でもわかった。ヌグファの髪が魔力で時折靡く。
「頼んだぞ」
セダが声を懸け、グッカスに頷いた。グッカスは人に戻った後に、すぐに鳥へすぐに変じた。グッカスにしてはかなり大型の鳥に変じている。
「背に乗れ。足では落とすかもしれない」
グッカスの言葉に頷いてセダがグッカスの首に脚を懸け、しっかり挟む。その上で光を抱きかかえるようにして二人がグッカスにまたがった。グッカスは大きな翼を広げ、羽ばたき始めるとしばらくしてふわりと浮いた。上昇気流を捕えてグッカスの身が舞い上がる。
魔法の構えを取るヌグファがみるみるうちに小さくなった。グッカスはそのまま飛び続け、巨人の頭の周辺まで跳び上がる。ここまでの高さなら相当寒そうだが、炎の熱気で今は上空でさえ暑かった。
ヌグファはこんな極限状態で魔力を練っている自分を信じられない想いでいる。ただでさえ、魔法を練る古代魔法は急場しのぎには向かないとわかっているのに。それでも魔力は練れている。過去最高の質の良さで。
続いて魔法の構成に入る。目を閉じる。目を開けたら目の前の炎に負けてしまいそう。だから己の感覚を信じて。古代魔法は詠唱が無いのが特徴。己の中に魔力も構成も構築する。そして、一気に―放つ!!
カッとヌグファの灰色がかった黒い目が開かれた。眼前に迫る炎を前に水が立ち上る。竜巻のように沸き上がった水は意志を持って上空まで伸び、竜のような姿を取って炎の巨人の頭部めがけて襲いかかった!
「やった!」
ヌグファは魔法が成功したことを見、そしてへたりこんだ。
上空では巨人の頭の周りを飛ぶグッカスのすぐそばで水の竜が炎の巨人の眉間に向かって襲いかかった。しかし圧倒的な炎の前に激しい水蒸気を散らして一瞬で消えてしまう。
その一瞬を逃さず、グッカスが滑空した。近づけるぎりぎりまで。まさに炎の巨人の顔がかすめる位に。
「楓!!」
光が叫んだ。手に握りしめた水晶石から水が振りまかれる。巨人は水をうっとおしそうに払う動作を見せ、グッカスが緊急で回避する。
「楓!!」
セダが叫んだ。
「止まれ! 楓!!」
「楓!!」
セダと光が交互に叫ぶ。
「お願い!!」
光が叫ぶ。ヌグファが残した、魔法に従った水の精霊の名残が光の願いに答えて再度炎の巨人に襲いかかった。今度は宝人の願いだ。ヌグファのものより強烈な水が見舞われる。
すると周囲の炎の精霊が怒りの矛先を光達に向け、水の精霊たちが散らされていった。
『許さない……人間めぇええ』
炎が燃える音と共に聴こえたのは、そんな声だった。楓の声ではない。複数の声が一つになったような声だった。それは宝人の総意であるかもしれないし、壊された卵核に宿っていた命だったかもしれない。
「楓!」
叫んだ時、突如、魔神の顔のような場所の口から炎が火柱となって噴き出された。グッカスが瞬時に方向転換をするが、直接当たらずとも、その熱気だけで空気は乱れ、グッカスが別の方向に叩きつけられるように飛ばされる。
「わぁああ!!」
思わずグッカスの首にしがみついた。あまりの熱流にさらされたグッカスは自身でその身を制御できず、墜落するように流される。ぶつかる、と思った瞬間、グッカスが首を腕に上げ、力強く羽ばたいた。グッカス間一髪で己の身を再び舞い上がらせる。
炎の巨人が一歩足を踏み出す。それを見たグッカスはヌグファの元へと飛んだ。迫りくる炎の脚の間をすり抜けて、グッカスの脚でヌグファをかっさらうようにひっかけ、安全な距離まで飛ぶ。そしてヌグファを下ろすと、その場でグッカスは人間の身に変わり、セダと光が投げ出された。
「強烈だな」
「グッカス!」
グッカスの右腕は火傷を負った様子だ。おそらく翼の先が熱気をかすめたのだ。
「大丈夫だ、俺は炎に耐性がある。これくらいすぐ治る。だが、どうする?」
炎の巨人を見上げてグッカスが言った。楓らしい意志が感じられない。怒りに取りつかれ、支配された炎の魔神はいつ止まるかわからない。
「炎の精霊も、みんな怒ってる。炎を止められるのは水じゃないよ」
実際精霊を見れた光が言った。逆に阻止しようとする水にさえ怒りを向けられた。水を使っていたら言葉が届かない。だが、水を使わずどうやって止めればいいのだろうか。
「あれだけ巨大だと、空気を遮断するのも無理だしな」
水を使って己を止めようと、消そうとすると怒りはより激しくなる。ならば、炎に対抗することができるエレメントは……炎に意志を伝えることができるエレメントは……。土は炎を囲えば止められる。しかし、それだけの土を扱うことは出来ない。水はだめ。風は炎を助ける。光と闇は炎を助けないが、止めもしない。ならば……。
「炎だよ。炎を使って止めるしかないんだ」
光の言葉にセダは不思議そうな顔をする。そして一呼吸置いて、グッカスが頷いた。
「そうだな。炎に意志を伝えるなら炎が一番いいのかもしれない」
たって、同じものなのだから。炎と炎。意志をぶつけ合うにはそれがいい。光はセダを見る。
「セダ、力を貸して」
ポケットには楓の残した火晶石がある。強く握りこんで、水と同じように炎をイメージする。炎の精霊に意志を伝えようとする。楓にねだって火を使う所を見せてもらったことがある。それは神秘的で美しかった。
しかし、決して楓は炎の使い方を光には教えてくれなかった。炎の精霊についても何も教えてくれなかった。それは楓の意志だと思うし、楓の境遇を思えば気軽に教えてくれとは言えないものだった。
「お願い」
光の言葉に応えてくれる炎の精霊がいない。皆、怒りに支配されて炎の巨人に従っている。
――もっと、もっともっと、自分の意志を強く強く伝えなければ!! だけど、どうやって? そうして思い出した。自分が何のためにここにいるのか。なぜ、力を求めたのか。
楓を救いたいから。楓と一緒にいたいから。そのために、自分が今度は楓の力になれるように。
だから、人間と契約しようと思った――!
「セダ」
光は目をあけてセダを見上げる。
「どうした?」
水のようにうまくいかないらしいことは感じていたが、水の時同様にセダは何もしていないし、どうやって力を貸せばいいのかすらわからない。
「私と、契約して!」
セダが軽く目を見張る。契約するとは言った。しかし、その様子を見せないからその必要はなくなったのだと思っていた。楓は確かに無事に救出できたわけだし。
「今以上の力がいるの。そのためには私に力を貸してほしい」
光の目線をセダは正面から受け止めた。――もう、言葉は必要なかった。
...034
キアは途中で光の宝人が我を失くしてしまったので、そのまま一人の部下を残し、シャイデに急いでいた。河を越え、もうシャイデに入っている。しかし紅い空は、それは近づいて炎とわかったが、それはまだ遠い。
「陛下!」
シャイデ側から数頭の馬が駆けてくる。
「ご無事で!!」
ラトリアとの国境を護るシャイデ兵だった。
「どうなっている?」
キアの様子は紅い空を見上げたままだ。
「原因はよくわかっておりません。しかし、先程伝令がありまして、ハーキ陛下のご指示の元、続々と民がこの運河のふもとへと避難を開始しております」
キアは頷き、重ねて問うた。
「ハーキは?」
「炎から民が逃げる間、盾になると仰ったそうで、今も……あの場に……」
キアが愕然とした。ジルだけでなく、ハーキまで! しかし、王としてハーキの行動は正しい。おそらく宝人が我を失くしているのだろう。水によって少しでも炎を、熱気を防ぐために一人残ったという妹。
「指揮官はどこにいる?」
「総指揮はラージ大佐が城下町の城前広場にて執っておられます」
「避難は? どの程度済んだかわかるか?」
「詳細はわかりません。ただ、城下は大混乱に陥っており、早急な避難はほぼ無理かと」
キアは頷いた。そして目を強く閉じ、己が取るべき行動を考える。ハーキの助けに回るべきか。己も水のエレメントを使える。だが、それで民が助かる確率はどれだけ上がる?
「馬を貸してくれ」
キアはそう言うと、すばやくまたがった。
「キア陛下?」
「君たちは指示に従ってくれ。私は城下へ、広場へ向かう!」
馬を叱咤し、急いで城下町向かう。ここからは少し距離があるが馬を手に入れた事で、馬には無理をさせるが間に合わない距離ではない。
キアが駆け出したのを見て、ついてきた部下も馬を借り、キアに着き従う。キアはわざと人が住む街を横断し、その度にパニックに陥る住民に、冷静に避難経路を指示し、これからも続々と来る城下町の人間と共に避難するよう伝える。
そして水の宝人は兵の手を助けて、避難に協力してほしいと伝え、先へ進む。最初はパニックに陥り、話を聞かなかった民たちも馬で眼前に迫られ、高く嘶かせられると、一瞬キアに注目する。キアはそれを逃さずに、早口でもはっきりと告げる。思わず聞き入って、頷かされるのはキアが持つ気迫か、オーラか、はたまた王としての何かか。
とにかくキアの呼びかけに民は応えるかのように従う。その様子を追う兵は感心を通り越し、崇拝するような面持ちでつき従った。
――この王がいれば万事解決するとさえ、思うほどに。
ヌグファは少し離れた位置でグッカスの火傷の手当てを魔法でしていた。おそらく誰も言わないがグッカスは再びセダと光を背に乗せて飛ばなければいけない。それも背の上で炎を発するであろう光を。
グッカスは何も云わなかった。グッカスは怪我をしても炎を恐れない。ヌグファは何もかもわからないまま、それでも出来ることを精いっぱいやろうと治療に集中した。
光は契約をする、といってもどうすればいいのかさっぱりわからなかった。光のだめな一面である。楓はテラと契約する時にどうしたのだろう? 魔神に話しかけたりしたのだろうか。しかし、己が守護するエレメントが分かっていない光にとって、どの魔神に話し掛ければいいかもわからなければ、どうやって魔神とコンタクトを取るかも分からない。
「……どうしよう」
力強く宣言しても、やり方がわからないとは。こう言う時は宝人の本能が助けてくれたりしないのだろうか。
「どうした?」
セダが動かない光を見かねて声をかける。
「契約の仕方を……しらないの」
「あちゃー、それは困ったな」
わざと軽く言った。光は契約できないことをとても恥じて、そして苦しんでいるとがわかる。この状況でもセダが光を責めることはなかった。逆にどうやって励ませばいいかと悩む。周囲に宝人の姿はない。訊こうにも訊けないし、自分にはまったくわからないものだ。
「契約って、魂を近づけるんだっけ?」
「うん。人間の魂を私たちが感知して、そして契約によって繋ぎ止めるの。それによって宝人の生き物としての魂がより安定して、エレメントを安定して使うことができるようになる。その恩恵の形として、契約された人間はそのエレメントの加護を受けることができるし、宝人はその契約者を護る義務がる」
セダはふむふむと聞いていたがいまいち実感がわかない。
「ちなみにこの前水を使ったときはどうした?」
「あの時は……セダの魂を確かに近くに強く感じた。それに励まされるような感じで、水の精霊に意志を伝えることが出来た」
「今回はどう違う?」
「炎の精霊が私の言うことに耳を傾けてくれない。みんな怒りに支配されてて、周囲を見ていないから、私の言葉が、意志が届かない」
叫んでいる人間に話しかけても気付かれないようなものか、とセダは内心納得する。では叫んでいる状態をやめさせるか、それ以上の声で叫び、話を聞かせるしかない。
「今のままじゃ、伝わらないんだ?」
「そう。今度はたぶん……」
楓が言っていたこととは真逆になる。たぶん、従わせなければいけないのだ。宝人として、精霊とエレメントを。そのためには己の意志を、力強く伝える必要が……。炎を使えば、少しは伝わり易くなるかと考えたのだが。実際炎は使えなかった。使い方を知らないのもあるし、炎の精霊と会話したことがないのもあった。
「宝人ってさ、エレメントを司るのに、精霊を通さないとだめなのか?」
「ううん。自分が守護するエレメントにはそんなことないよ。でも、私は違うから」
己が守護するエレメントが決まっている宝人は、エレメントを精霊そのものを生む。だから晶石を副産物として作れる。だが、己が守護していないエレメントは晶石の力を借り、精霊に語ることで疑似的に使えるだけだ。
「じゃ、お前は今日から炎の宝人。お前は宝人。そうだろ?」
セダが軽く言った。笑みさえ浮かべて。
「楓みたく炎を生む事が出来る宝人。だからお前には炎のエレメントはきっと従う」
セダがそう言って光の手の中の火晶石を一緒に握った。その瞬間、光に、何かが降りたかのように、閃いた。光の髪が靡く。ふわりと風も受けていないのに翻った。その白い目にセダが映り込む。
「セダ、いくよ」
軽く声を懸けた光の顔から表情が抜けて行く。火晶石を挟んで手を取り合ったまま、光がセダを見据えた。セダは声を返すことも出来ずに、突然始まった何かに当惑し、光を見つめた。
「『今から始めるは、我とそなたの契約』」
光の声で、光ではないような重い雰囲気を持つ何かが、セダに語りかける。セダが目を見開いた。これが、契約なのか! 自分が言ったことが、何がきっかけだったのかセダには皆目見当がつかないが、とりあえず光は契約方法を理解した様子だ。
そう、光に足りなかったものは――自信。己が宝人であるという当たり前の自信が常に欠けていた。己が守護するエレメントがわからず、晶石を頼ってでさえまともにエレメントを扱えない落ちこぼれ、できそこないと影口を叩かれてきた。魂見ができることが証拠のようなものだった。自分は宝人じゃないのだと落ち込む日がないことは、ないくらいだった。
だけど、セダが、光にその自覚を思い起こさせた。セダと一緒なら、水を使えた。宝人だったと、そう感じた。
――私は、宝人だ! だから、契約できるのは当たり前!
「『そなたの名を述べよ、偽る事無く』」
セダの方が今度は当惑する番だった。名前を偽るなと言われても、これは捨て子だったセダを学園長が拾い、名付けてくれたものだ。本当の名前なんかセダには知る由もない。
今までずっとセダで生きて来た。これからもセダで生きて行くつもりだ。でも、本当の名前と言えるだろうか。
光は何も云わずにセダを見つめている。セダを待っている。
「俺の、名前?」
「『左様』」
そして光が左手で、セダの胸を指した。そして優しく触れる。まるで鼓動を確かめるように。
「『その魂が持つ、唯一のもの、そなたを示す、そなたを表す、そなたの起源だ』」
「俺の、起源……」
両親を知らない。どこでいつ生まれたかもしらない。光が指す胸を見つめる。自然と両腕が目に入った。そう言えば、この赤い刺青はなんであるのか。どうして成長と共に増えるのか。セダは何も知らない。自分の事など、何も知らないのだ。
「わからないんだ。俺、何も知らない」
「『否。知っている。そなたの魂がそなたを知っている。問いかけよ、そなたの答えを』」
セダは光ではない別人のような光に促されて、左腕を光の左腕に重ねた。胸の上で鼓動を感じる。生きていると実感できる。けれど、魂をどうやって感じるのだろう。
目を開いて光を見ると、光は微笑んでさえいるような眼差しで、続けろと示す。目を閉じて、光と一緒にずっと己の鼓動を聞いていた。いつしか、温かい気分になる。まるで眠るようにセダは己を感じる。どこか別の場所でセダ自身を見ている。これが、俺。
金の髪、青い目。鍛えた身体。身体の様々な部位にある赤い刺青。これがセダ。この身体の持ち主がセダ=ヴァールハイト。俺は、セダだろう?そ れ以外になにがある? これからもセダとして生きていていいだろう?
身体と魂と思考が、全てがセダの問いかけに答えた気がした。
「『セダ。セファルダルク=ヴァールハイト』」
セダがすっと目を開いて、そう言った。光が満足したように頷き、左手を離す。
「『セファルダルク。今繋がる。そなたと我の魂が』」
光がそう言った瞬間に、透明で見えづらいが極光色のわずかな色が光の周囲を走り抜けた。
「『これより、我はそなたの危機には我の力を持って立ち向かう。契約は今成立した。そなたの魂が今後離れることなく我を共にあらんことを』」
光がそう言って微笑む。その顔には何かの模様が光を反射した硝子のように一瞬だけ様々な色で光る。セダの右腕にも同様の事が起こった。セダの身を何かが通り抜けたような気がした。
そうして、光の様子が元に戻っていく。別人だったような光の様子が、目を一回閉じた事で完全に戻った。
「成功した?」
「さぁ?」
光に恐る恐る訊かれても、セダはよくわからなかったので、そうとしか答えようがなかった。
「でも、なんか、通り抜けた感じはしたぞ」
だが、楓のように光の顔に契約紋は浮かんでいないし、セダの右腕にもそれはない。
「そうだね、繋がっている感じがするよ。セダを近くに感じる」
もう、セダの胸に手を置かなくても、セダの命の拍動はいつでも聞こえる。これが、契約し、人間の魂と繋がるということなのだろう。わからなくても実感できる。だから、きっと出来る!!
「私の言うことを聞いて!!」
光が火晶石を握りしめ、叫ぶ。叫んだ光の髪が楓同様に根元から瞬時に真っ赤に染まった。毛先から赤い火の粉がはらはらと散る。開いた眼さえ、炎のように赤かった。
「……お前!」
顔を上げた光の顔には、真っ赤な契約紋が浮かんでいる!! 光の右目を挟んで頬から額にかけて伸びる線で構成された光の契約紋。セダははっとして自分の腕を見ると、己の右手にも光の契約紋と同様の赤い契約紋が浮かんでいた。
「行けるな?」
遠目で見守っていたグッカスが声を懸けた。光の手からは炎が勢いよく燃え盛る。
「うん」
光が力強く頷いた。セダも頷く。
「グッカス、もう一度飛べるか?」
「誰に訊いている」
再び大きな鳥となったグッカスの背にセダと光が軽い動作で飛び乗った。
「頼んだぞ!」
「任せておけ」
グッカスの力強い言葉を裏付けるように先ほどよりももっと力づよい羽ばたきで、グッカスは再び上昇した。今度は目の前に迫りくる炎に、誰しも恐怖はなかった。
...035
混乱に陥る城下町で軍人を通りに立たせ、避難経路を指示させる。母親とはぐれた子供、逃げることが困難な老人、家族を探す人たち。ただ逃げようと急ぐ者。それらを各道に、各交差点に軍人を一人置いて、通れる通路を確保させる。
言葉が通じないほど混乱に陥っている場合は、わざと建物を破壊して道を封鎖した。
とりあえず、炎が一番近く、熱気を感じるこの城下町の避難だけは済ませなければ。只一人、炎の前に残った王に申し訳が立たない。
「ラージ!」
馬の早駆けの音が騒音に交じって聴こえた頃、金髪の頭が向かってくるのが見えた。
「キア陛下!」
「状況は?」
「はい! 避難はルートを五本決め、それ以外の道を封鎖しました。絞る事によって護衛も多少の騒ぎも沈められると判断いたしました。確認はできておりませんが、おそらく三割は城下町から抜けたかと思われます」
キアは頷いた。
「よく頑張ってくれた」
「あと、避難が困難なものは城に避難させました。力にものを言わせて強行いたしました」
「構わない。ヘリーがいないが……神殿も解放させろ。とにかく安全な場所に全ての民を!」
避難を手伝っていたローウがそれを訊いて頷いた。神殿は避難途中にあるし、水も豊富だ。一時避難場所には最適だろう。
「神殿には移送可能なけが人や病人を運ぶようにしてくれ」
「御意」
ローウは今度こそ、この王の為に神殿の成すべきことをしようと決意した。今度はラダと闘うことになるが、これ以上ハーキに、そしてこの王らに神殿のふがいない場面を見せて失望させてはならない。
「道すがら、避難経路を指示してきた。各場所に待機していた軍がうまくやってくれることを祈るが」
キアはそう言って炎を見上げる。自分が翔と闘っている間にシャイデの空は紅蓮に燃えていた。こればかりはハーキの指揮に感謝するしかない。避難はハーキの指示か、それともこのラージの指示か予想外にうまくいっていた。この混乱下に置いてよくここまで民を誘導できたものだ。
「宝人は立ち直ったか?」
キアがそう問いかける。
「はい。先程の地震で。数人宝人の兵士がおりますが」
「そうか。では、民が安心できるよう、エレメントを用いて炎の脅威を遠ざけるよう、避難の誘導を助けるように言ってくれ。宝人が助ければ魔神の加護を人が疑わずに済むだろう。それは、救いとなる」
「……避難に、ですか」
てっきり、ハーキの救援に行かせるのだと思っていた。あの少女が一人で戦っていることを、彼は知らないのだろうか。確かに避難は済んでいない。混乱も続いている。時間との戦いではあるが、可能だとラージは思っていた。それなら宝人の助けはハーキにこそ、必要ではないだろうか。
「恐れながら申し上げます。ハーキ陛下の救援に向かわせるべきではないでしょうか」
「いいや。宝人との絆を強めるのにいい機会だ。シャイデの未来の為に、宝人との関係が昔と変わらないと民が、人間がそう感じれば、これからの世でこの二つの種族は明るい。その為に、宝人には人を助けてもらいたし、人間にはエレメントや魔神、宝人をもっと身近に感じてほしいんだ」
その答えに、ラージは絶句する。――こんな時なのに、この王は、そこまで先を考えているとは!
確かに、現在のシャイデでは宝人だと名乗りを上げる者は少ない。今軍部に残っている宝人とて、昔のシャイデに友好的だったものばかりだ。若い宝人はシャイデではほとんど見かけない。それほど宝人は人間を恐れている。人間を警戒している。契約どころではなく、里から出てこない。
そう、宝人と盟友の国と謳う、シャイデでさえこのありさま。宝人がそれでは魔神の加護を人間が疑うのも仕方のない話なのかもしれない。そうして互いの関係がどんどん浅くなっていくのだろう。人と宝人との懸け橋となれるよう、魔神に使わされた国のリーダー、それが半人の王。友好を誓い、二つの種族の懸け橋となれるよう、それが半人の役目。
「では、ハーキ陛下はいかがなさいますか」
その王としか言いようのないキアの考えに感服するが、同時にハーキのことも気にかかる。彼女も彼女ですばらしい器の持ち主だった。
「私が行く」
キアは強硬路に付き合ってくれた馬を撫でて、そう言った。
「陛下!!?」
ぎょっとして思わず声を荒げる。
「この場は君に任せれば問題なさそうだ。シャイデの高官は己の懐を温めるのに必死だが、城や神殿に避難した無力な民を追いだすほど、懐が狭くはないだろう。それに次官やその次などの若手にはシャイデの未来を任せてもいいと考えている。ラトリアも今は王が倒れた。混乱はするだろうが、次の王が起つまでシャイデは持つだろう」
「なぜ、そのような事を! 退位を思わせるようなことを仰いますか?! シャイデはこれからです。まだまだ貴方がた兄弟王のお力を我ら、いえ、全国民が必要としております」
偉い高官や将校が何を感じているかは知らない。だが、実際この王らを見て、共に過ごした者なら誰だって感じる。この王にシャイデを引っ張ってもらいたい。この王にならついて行きたい。この王ならと!!
キアは力なく笑った。ジルが見つけ、ジルが表舞台に立たせる用意をし、ハーキが引っ張り出したこの男に、ジルとハーキが命の危機にさらされているとは言わない方がいいだろう。
「私たち兄弟は国をひっかきまわし過ぎた。その結果が民を混乱に陥れた。その責任は取る必要があるだろう?」
「そんなことは!」
必死にキアを思いとどまらせようとするが、キアはもう炎を見つめていた。
「それに妹を最後くらいは護らせてほしいな。ハーキには戦力外通告されそうだけれど」
キアは笑うと馬を炎に向かって走らせた。誰もキアに着いて行けない。かける言葉が見つからない。ラージは今にも叫びだしそうだった。だれか、あの王を護ってくれ! どうか、魔神よ!! 貴方が選んだ王を、最後まで王であらせてくれ。その命を護りたまえ!
「ラージ大佐……」
立ち直った宝人の部下が、一部始終を耳にしていたのだろう。キアの走り去った方向を見つめて、己の指示を待っている。
「人間なんて、嫌いです。やつらはやってはならないことをしました。だけど……キア陛下の、あの王の為なら己を捧げることが惜しくはないんです」
「どうか、キア陛下とハーキ陛下のご助力をお許しください」
ラージも今すぐに王を護れと命令したかった。だが、キアの望みは何だった? 己の保身か? 己の護衛か? 違う。最後まで民の為に、シャイデの未来の為に宝人と人間の融和を願っていた。
「ならぬ」
「しかし!!」
「キア陛下のご命令だ。そなたら宝人の兵は、最後まで逃げる民を助けよ」
「ラージ大佐!」
必死に叫ぶ兵士たちに、ラージは声を張り上げて命令した。
「人間の心の支えとなるよう、そなたらは人間を護るのだ!!」
ラージの目には涙が滲んでいた。キアが走り去った方向を向いて、敬礼するラージ。宝人の兵士たちはラージの想いをようやく理解し、上官に倣って敬礼した後、民を護る為に散っていた。
キアは恐れる馬をぎりぎりまで走らせる。なぜかキアにはハーキがどこで戦っているか分かる気がした。馬が熱気に触れるたびに暴れるので、これ以上はかわいそうかと思い、馬を下りて自由にしてやる。真っ赤な視界の中央でハーキの青い髪が翻った。
国を護る役目を負った王。自分は国を興した王に見合っただろうか。
「ハーキ」
ハーキの周囲から絶えず水が溢れ出している。ハーキのおかげで城下町に一直線に舞う火の粉は消されている。城下町が熱気に包まれながらも火の手が上がっていないのは、彼女の地道な努力のおかげだろう。
飛ぶ綿毛を見つめ続け残らず掴むような繊細かつ根気のいる作業だ。でもその作業の裏に何万という命が控えている。
「キアぁ?! なんで来たのよ」
第一声がそれ。
「手伝おうと思ってさ」
「キアがきたとこで、何の役にも立たないわよ」
熱気にあおられ乙女にはありえないほどに顔を赤く腫らせたハーキが言う。
「そう言われると思った」
苦笑するキアの顔に青いハーキ同様の契約紋が浮かぶ。二人の半人の王から水が溢れ出す。
「避難は?」
「済んでいない。だが、ラージはいい指揮官だね。おそらく最小限の被害で済むだろう。それまで二人で火を遠ざけよう」
「来たのを追い返すのも時間の無駄だしね」
ハーキはあっさり言うと、キアに『水帝剣』を投げてよこす。
「あれ? 俺には荷が重いってハーキに渡したのに」
「あたしが抜いても、うんともすんとも言わないのよ。重いからキアの剣だし、持ってたら?」
「次の王の為に、王宮に置いておけばよかったかなぁ」
「は? どういう意味よ。あたし自殺したくてこんなことやってんじゃないわよ」
「うん。知ってる」
剣の鞘を撫でてキアが言った。会話する合間にも水によって炎を遠ざけている二人。
「……ジルが今夜死ぬ」
ラージには言えなかった。だけど、一人で抱え込むにはあまりにも大きい問題で。キアは気付けばハーキにも内緒にしようと頭では考えていたはずなのに、口からその言葉が出ていた。
「え?」
「ラトリアで、宝人の手にかかって呪われた。今夜までの命だそうだ。それだけじゃなくて、ヘリーをかばって背中が穴だらけの重体だ」
「嘘」
一瞬、水を操る手が止まる。おそらくハーキまでヘリーの鳴き声は届かなかったのだろう。
「ジルの元に、行きたかった」
キアの言葉をハーキは待っている。
「だけど、行かなかった。泣いているヘリーを抱きしめて、ジルをしかってやらなくっちゃって……そう思ったはずだったのに……」
「そうね。ジルは己を大事にしない。そこが直らない。だから怒ってやらなくては」
ハーキは微笑んだ。
「でも、今から行ってもラトリアには間に合わないわね。最後まで思い通りにならない弟だわ」
否、今すぐ馬を駆けて休まずに進めばぎりぎり夜更けには間に合う。――でも、しない。
「そうだな」
「だけど、ヘリーを護ったんでしょ? 最高にかっこいいじゃない? 自慢の弟だわ」
「……そうだな」
キアもハーキも最後まで王であろうと。弟に恥じない行為をしようと、そう決めた。だからキアはここにいるし、ハーキはうろたえずに水を操る。
「弟だけにいい格好はさせないわよ。だからもっと水を! 鎮火してしまうくらいに、水を!!」
「ああ! 俺にも水を! この国を護るだけの水を!!」
水の勢いが増した。だが、足りない。もっともっと水を! 民を救えるほどの炎を、脅威を取り除けるだけの水の加護をこの手に!! だれか! どうか、この声を聞き届けたなら! どうか!!
“できるわ”
ハーキとキアの心の声に応えるように声が聞こえた。
“貴女の心が本当なら、貴女の名を懸けて。貴女の物をくれたなら水のエレメントは半人の王、貴女に応える”
ささやかに聴こえたその声にハーキは嘘とは考えなかった。だから腰の剣を瞬時に抜き、真っ青な美しい髪を切り落とした。その声の主が何か、そんなことは今のハーキにとっては関係なかった。
「これでいいでしょ? 我が名は、『ハーキマー=イイオーシェ=オリビン』!! 神国シャイデの二の王にして守護王! どうか水のエレメントよ! 我が想いに応え、炎を遠ざけるだけの水をこの手に!!」
ハーキが髪を投げ、宣言したその瞬間に青が視界を青に染め上げるだけのエレメントがハーキに応える!
それと同時に同じ声がキアに伝える。
“貴方は魔神が認めた我らの王! その剣の主は一の王である貴方。貴方が抜き、宣誓を行えば、シャイデの精霊は皆、貴方に従う。貴方がそれ相応の覚悟と誠意を持って願えば、必ず!”
キアが水帝剣を抜き放つ。ハーキの時や以前の時とは全く違う、青く光る済んだ色の刃が現れた。キアは剣を掲げて叫ぶ。
「我、シャイデの一の王、『キアナイト=ワン=オリビン』が宣言する! 自国の災厄を、混乱をこれ以上許さない! 速やかに炎は退去し、水の加護によるシャイデの安息を、今ここに! 取り戻せ!」
“我らが力と心は陛下の御為に”
応える声が響き渡る。炎の精霊の歓喜の声をかき消すほどの、それは水の王に対する水のエレメントの総意だった。
...036
燃え盛る巨人に立ち向かうように小さな炎を抱えた鳥が跳び上がる。赤い風景に同化するような鮮やかなオレンジ色が高速で巨人の周囲を飛びまわる。その背に乗る、小さな炎。赤い髪をなびかせた少女。
「止まって!!」
その瞬間に光の炎が激しく燃え上がる。
「止まれ! 楓!!」
セダも叫んだ。水ではなく、炎による制止の声。炎の巨人は初めて気付いたようにやっと視線を向けた。
赤い中でわずかに濃い色だと分かる程度の差しかない炎の塊だが、確実に頭であり、顔である部分の目がセダ達を視界に入れた。
「これ以上、ここで暴れないで!!」
「楓、もうやめろ!!」
『否、我は楓ではない』
重苦しい声だった。男のようにも聞こえるし、老婆の様な重みのあるようにも聞こえるし、不思議な声だった。複数の人間が同時に話しているようにも聞こえる。
「楓じゃないってどういうことだ? じゃ、楓はどこにいる?!!」
セダが声を張り上げると、炎は答えた。
『ここに。楓は器にすぎぬ。我の器にその場で一番ふさわしいと感じた。ゆえに我が宿った』
「楓を……利用したのか!」
光も驚いている。テラは巻き込まれただろうと感じていたが、まさか楓そのものが巻き込まれていたとは。
『否。喜んで我を迎えた。いわば協力関係といってもいい。我の思いに魔神が応え、その力の依り代に楓が選ばれた。宝人であれば魔神を宿すなど光栄なことだ。拒むはずもない』
「違う!!」
光が叫んだ。確かに卵核を壊されて楓だって怒っただろう。だけど、楓は怒ったからといって人間をすべて滅ぼそうなんて考えない。人間を嫌っていても、誰を嫌っていてもそういうことが出来ないから楓なんだ!
「楓はそんなこと、望んでない! 今すぐ楓を返して!!」
「そうだ! お前全然分かって無いぞ! でかいからわかんないかもしれねーが、この場所を、この状況を見てみろ」
『なんだ?』
視線を一巡りさせて、冷静に巨人が言う。
「なにもない! 全てお前が、炎が燃やしたんだぞ! 宝人達も、人間も逃げ回っている。恐れて怖がって世界の終わりを見たような顔して!! そしてこの場には何も残らない!」
『当たり前だ。我は炎。破壊を司る者。そして全てを無に帰し、初めて再生が始まるのだ』
当たり前のように言われた言葉に愕然とすると同時に激しい怒りがセダを突き動かす。
「それを、楓が哀しまないと思うのか! 楓が苦痛に思わないと思うのか!! 楓は自分が、自分一人が炎だということを知っている。そして炎が安易に生き物を傷つけることも知ってるんだ! そして、傷つけばそれがなんだろうと哀しむ優しい奴なんだぞ! それを! それなのに、この状況でお前が暴れて! 平然と『破壊と再生』だとかほざいてんじゃねーよ!!」
セダの叫びにグッカスも光も頷く。楓はそういうやつだと短い付き合いでもわかる。炎を愛してほしくて、炎を求めてほしい。だけど、誰もそれを望まない。だから自分は炎を封じて、傷つけないように、決して火種にならないように。怒りに支配されないように、常に笑っていようと努力して。
いっそ笑ってしまうくらい己のエレメントが過去に犯した罪を知り、たった一人でそれを背負えないのに、背負おうとして傷ついて、泣くことも出来ない……可哀想で、哀れでそれでも健気で愛しい炎の宝人。
「じゃ、あなたは何なの? 何がしたいの? 人間を今度こそ、すべて滅ぼすとでもいうつもりなの?!」
『人間が止まらないならば』
「止まれば、あなたも止まってくれるの!?」
『……人間が止まるとは思わない』
「それを決めるのは、貴方じゃなくて、私たちではないの? いま、ここに生きている私たち宝人ではないの?」
「そうだぜ、俺が一人で叫ぶならお前も納得できないだろう。人間が命乞いしてるだけに聞こえるかもしれない! だけど、光は宝人だ。グッカスは獣人だぞ! 人間だけじゃない。生き物全てがお前のこれ以上の暴走を止めようと必死に頑張ってる。お前が止まらない事で、人間だけじゃない! 全てが無に帰してしまうんだぞ」
目の前の巨人が炎の魔神だと言うのなら、人間ではなく他の命を救って見せろ。人間に脅かされたと怒るなら、それ以外の命も顧みろ!
「よく地上を見ろ! 宝人が今なお嘆く原因は何か! 人間がすべて宝人を害そうとしたか! そして今もまだ、宝人と人間は争っているか!」
セダはそう言って下を指差した。セダ達は知らない。キアによって人と宝人が現時点で手を取り合って協力し合っていることを。古の世のように人と宝人が等しく、エレメントを分け合っているその光景が現時点でよみがえっていることを! しかし、当然魔神ならそれに気付くはずだ。
「楓を泣かすんじゃねーよ! お前の分身みたいなものなんだろうが!! 責任も、後始末も全部楓が負うことになるんだぞ」
セダは尚も言いつのる。魔神の心に訴えようと、叫び続ける。決して泣けない炎の宝人が、泣かない事で苦しむことのないように。泣かないからこそ、だれよりひどく心の奥底で泣くことのないように。
「炎の魔神だと言うのなら、お前が生んだ炎の宝人一人位救って見せろよ! その炎で!!」
その言葉に炎の巨人が返す言葉は、ない。そしてセダは、更に問いかける。
「楓が本当に世界を滅ぼそうとしてるように、まだ思うか? だって楓は契約しているんだぞ。テラと!」
世界を絶望しきれなかった楓が、テラ個人を認め、そして炎を人間に還した。その契約の行為そのものが、人間を許していることにならないか。
『テラ?』
「楓の契約者だ」
『それなら我の腹の中だ。人間とは言え、契約者の者。命までは奪えまい』
グッカスもテラに命があり、無事だと知って一安心する。しかし、奪わないだけでその場にテラが契約していない状態でいたのなら、テラの命はなかったことになる。平然と、そう言ったのだ。セダはあまりの理不尽さ、その傲慢さに怒りでしばし口が利けなかった。
「もう、いいでしょ? 人間は十分反省したよ。だから楓とテラを返して」
光が言う。
『我は『怒り』を司る者。『怒り』はそう簡単には収まらない。だからこそ、全ての争いの火種となるのだ』
矛先を収めることは出来ない。怒りを抑え、手を取り合うことを目の前の炎は知らない。それを体現した言葉。それを聞いてセダがカッと怒りに目を見開く。
「結局お前は殴りかけた手を寸前で止めることが出来ない、己の感情と力を制御できない子供と一緒だ! そして収めることを知らないから、後に起こる惨劇にも責任を持てない! それが一魔神のすることか! 仮にも神を名乗る者ができることかよ!!」
グッカスの背の上でセダが立ちあがる。背中に手をかけ、己の武器を取った。
「『怒り』しかお前が発せないなら、受けてみろ! これが『怒り』だ!!」
セダの抜き放った両刃刀が、瞬時に紅蓮の炎を燃やす。それは、宝人と契約したからこそできる芸当。宝人の加護。エレメントが人間に還るその行為。
「私は今、炎の宝人。セダは私を通して炎の加護がある! だから行って、セダ!!」
光が叫んだ。セダは頷く。燃え上がる刃を構えてセダが言った。
「テラを返せ!!」
グッカスの背から飛びだしたセダは空中で姿勢を整え、そして炎の巨人の眉間めがけて炎を吹き上げる刃を叩きつけた。セダはそれだけでは止まらない。飛び降りたその力を利用して一気に炎の巨人を切り裂くように、切っ先を炎にめり込ませて炎の巨人の中に飛び込んでいく。
『な、何!!?』
己の身を切り裂かれる驚きに彩られる声。静かに光が言葉を続ける。
「炎を生むのは貴方かもしれない。でも、私の炎を従えるのはこの世でそれを許された私だけ。私の意志に従う炎は、貴方の炎とは相いれない!」
だからこそ、セダが炎の巨人の身体を切り裂くことが出来る!! 炎を炎で持って制す。
「『怒り』を自分で止めることが出来ないなら、何度でも私たちが止めて見せる。それができるのも人間の美点だよ。人間は確かに利己的で、怖くて、どうしようもないかもしれないよ。でも、全ての人がそうじゃない。あったかい人もいるし、すばらしい人だっている。だから貴方達魔神は、神は、人を滅ぼすことを過去にためらったんでしょう?」
今の炎の巨人は引っ込みがつかなくなった子供のようだから。心底人間を許せないわけではないような気がするから。だから、光とセダの話を聞いてくれたのだと、そう思うから!
「お願い、怒りを収めて。楓を返して」
『……それが、宝人の総意だと?』
炎は戻ろうとすれば瞬時に一つの巨人になれるだろう。だが、セダが飛び降り、切り裂いた軌跡をそのまま残して、二分割された炎の巨人が、静かな調子で言った。
「わかんない。けれど誰だって全てを滅ぼすことを望んでいないのは確かだよ」
セダは炎の中で影の部分を見つける。胎児のようにテラが膝を抱えて眠っている。腕を取り、抱き寄せてちゃんと息をしていることを確かめる。その身を抱き上げると、セダはそのまま炎から飛びだした。
――その時。
セダの額を、テラの頭を、そして燃え盛る炎に一粒の水滴が落ちる。
“怒りの矛先を収めることができないのは炎の特質の一つかもしれないわ。でも、だからこそ私たちがあるのです”
それは女性のような声にも聴こえた。はっとして周囲に目をやると赤い炎のエレメントの周囲にうっすらと青い色が漂っている。
“全てを『流す』ことこそが我ら『水』”
水滴は数を増し、そして量を徐々に増やす。最初は炎に当たった瞬間に水蒸気を生むだけだった行為でも、時と共に確実に炎を小さくする――それは、雨!!
文字通り、炎の『沈静』と怒りの『鎮静』の雨!! 今や滝のように降り注ぐ雨は炎の巨人さえをも消していく。グッカスは急降下し、テラを抱きかかえたセダの元に降り立った。
「水の魔神か?」
「わからない。でもここまで水のエレメントが……」
遠くから喝采の声がここまで響く。炎の脅威に怯えていた誰もが水の加護を喜んでいる。燃える炎は完全に息をひそめ、巨人の姿はもうなく、赤く染まった空は今や雨を降らせる暗い空に変わった。
そして炎の巨人が立っていた場所に、小さな人影は霧の向こうに見える。光はその影に駆け寄った。炎の残滓を残したような真紅の髪が、雨に当たることで火の粉を失い、黄金に燃える色が赤い色に戻っていく。雨に打たれた楓の身体がその場に呆然と、夢から醒めたように突っ立っていた。
「楓!!」
あれだけの巨人の器にされていたのだから楓の疲労も相当だろう。完全に炎を消し去った雨は、始まった時と同じように徐徐に勢いを失って急速に晴れた。霧の向こう、遠くに人影が二人見える。
「……やったのか?」
「水の魔神を呼んだりした?」
キアとハーキである。彼らの行動が、水の魔神の加護を得たのだろうか。お互いまだよくわかっていないまま、とりあえず刃の色が普通の色に戻った水帝剣を腰に収めるキア。
「……僕は、なんてことを!!」
安堵する一行に悲痛な声が響く。
「楓」
顔に両手をあてて、楓が事態を引き起こしたのが炎であり、自分であると知って愕然とする。セダが、光が心配していたことが現実になる。
「違うんだ、楓!」
セダが言おうとするが、あまりのショックに楓は真っ青だった。
「近づかないで!」
手を伸ばす楓の腕かからは水蒸気が立ち上っている。赤い色の髪や目も元の色に戻っていない。
「上手くエレメントを扱いきれないんだ。みんなを怪我させる。しばらく、離れていて」
良く見れば、楓だけが濡れていない。正確には濡れたが、もう熱気で乾いてしまっているのだ。
「テラ……!!」
セダの腕の中でぐったりした様子のテラが余計に楓の心を苦しませる。護ると約束したはずの自分の力が、逆に彼女を苦しめてまきこんだ。
「僕のせいだ……テラはちゃんと止めてくれたのに……」
苦悩する楓。その抱える頭を支える手からも炎が燃えたり消えたりする。炎の魔神を宿して、扱いきれないエレメントに楓が支配されている。
「ごめんね、テラ。みんな、ごめんね」
楓はそう言ってその瞬間炎と共に消えた。その場にいることが耐えきれないように。
「楓!?」
転移したのだった。




