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「良く弾けてたな」

「本当?」

「ああ、本当だ」

「本当に?」

「本当だって」

「そう。良かった……」

星崎は胸をなでおろした。

帰りのバスの中で――星崎はだいぶ垢ぬけた様子でぺらぺらとしゃべっていた。部活での練習のことだとか、家でも練習していることだとか、そして今日演奏しているときのことだとか。

まるで子供みたいだ。俺はそう思った。

「どうしたの? 」

「いや、別に」

お前が子供みたいだと思った、などと言ったら平手打ちを食らいそうだったので止めておくことにする。

上手く流してくれたようで、星崎はふと視線をバスの外に移した。

「このまま」

住宅街から並木道へと、バスの外の景色が移ろっていく。

「このまま、あなたに聞かせてあげられればいいのに。ずっと――」

何気に、いまこいつ凄いことを言ったような気がする。だが、そんなことよりももっと大きなことに気付いた。

(俺は、こいつと一緒にいるのを楽しんでる、のかもしれない)

「いや、俺も(・・)か」

星崎は、不思議そうに俺の顔を覗きこんだ。

「なに、さっきから独りで笑って」

「なんでもねぇよ」

少し、星崎との距離が縮まった気がする。そんな感じで、演奏会は終わった。


私は、その日学校を休んだ。

確かに、三年のあいだ無遅刻無欠席の記録を逃すことになる。けれど、そんなことはちっとも惜しくない。そうでしょ?

「あの、すいません。病室を探しているんですけど」

黒岩(くろいわ)(そら)

と、自分の名を告げた上で、私は看護婦さんに尋ねた。

バスケットいっぱいのお見舞いの品を、私は抱え直す。もちろん、私一人で準備したわじゃなく、彼の友人や部員たちからの品も預かってきている。だからこんなに重いわけ。

教えられた病室に進む途中、階段の踊り場で。

「あら?」

踊り場に誰か立っている。階段に差し掛かった時は、確か誰もいなかったような気がしたけど……。

(うちの学校の制服?)

自分と同じ制服を着ている。そして小柄な体型に、目を引く真っ白な髪――。

「あなたは……」

私が言う一瞬前に、彼女は私に視線を転じていた。ボールのように丸い瞳が、私の目を捉える。

彼女は、ぺこりと頭を下げた。

「こんにちは、先輩♪」

「あなた」

私は苦笑した。

「ふふ。こないだ初対面のとき聞いたけれど、あなたシロミチルとか名乗ってるのね」

こないだ吹奏楽部に入って来たばかりの新入部員、『(しろ)見地流(みちる)』。そういうことになっている。

「あははは。名前は適当ですけど、わたしを産んでくれた人はちゃんといますよー」

「あら。私を産んでくれた人だって、ちゃんといる。親と呼べるかどうかは別にしてもね」

しばし、目線を交歓させる。そして、私から口火を切った。

「ところで、ここは病院の人の迷惑になるかもしれない。二階に上がりましょ。どうせ目的地は同じだろうしね」

「はい。でも……」

地流はあどけない笑顔を見せた。まったく毒気のない――いや、毒気をまったく感じさせない笑顔を。

「できれば私だけ行って、先輩には来て欲しくないんですけど♪ よかったら、そのお見舞いだけ私にくれて、先輩は帰ってもらうっていうのはどうですか~?」

世間話でも交わすように、私は気軽に返答した。

「それはこっちも同じよ。で、実力行使をする気はあるの?」

「嫌だなぁ、そんな気あるわけないですよぉ。というかさすがにできないですー」

「そう、良かった。なら行きましょうか」

「は~い」

教師に注意されていやいやながら従う小学生そのままに、チルはむくれた。

正直な話。

私は、この子のことが憎んでも憎みきれないくらい不愉快だった。もしできれば今すぐに、植物の茎のように細いチルの首を、両手でねじ切ってやりたいくらい。でも、実際はそんなことできない。この子もまた、そうなんでしょう。

なぜなら、もともと私とこの子は――。

「さて」

目的の病室、その目の前にたどり着く。自分で立ち止まると同時に、私は片手でチルを制した。

「ご一緒にがいい? それとも別々?」

「別々が良いに決まってるじゃないですか。先輩と一緒だなんて反吐(へど)が出ますよ~」

「奇遇ね、私もよ。なら別々に入りましょ。ここは公平に、さきに来たあなたがさきに入っていいけど、このお見舞いは託された私が渡す。それでどう?」

「はい! 分かりました。それじゃ待ってて下さいねー」

幼稚園バスに乗り込む園児のように、チルは勢いよく足を踏み出した。そして、目の前の病室の扉に手をかける。病人の名前は――

橋木純也(はしきじゅんや)』。

他校との演奏会が終わって以来――。

星崎はいろいろな意味で成長したというか、良い方向に向かっているような気がしていた。

吹奏楽部の部員との仲も良くなっているとかいう話を部員から聞いている。「わが道を行く」的な性格も、ちょっとは改善されているらしい。しかしこれなら、コンクールがあるという

のも星崎にとっては渡りに船、吹奏楽部に溶け込む良いチャンスになったわけだ。悪運の強い奴。

それに。

出会ったころに比べれば、俺と星崎の距離もずいぶん近づいたもんだと思う。最初は、お

たがいに相手をよくわからない奴と認識していたと思う。だが、いまは違う。いまは――

(いまは、なんなんだろうな)

よくわからなかった。友達、というのはどこか違う。腐れ縁、に近いだろうか。

(腐れ縁ねぇ……)

確かに、いまはそうなのだろう。だからといって、これからもずっとそうでいたいのか――あるいは、そうでいられるのか。

それは、はっきりとは分からない。

考えを巡らせているうちに、俺は教室に到着した。いつもどおりの感触の扉を、いつも通りの力加減で開く。

しかし、教室内はいつも通りというわけではなかった。

俺の席の隣、いつも星崎が座っている席。座っているだけでなく、かなりの時間をそこで楽譜を見たり書きこんだりして過ごしているわけだが。

その席に星崎がいない。いつもこの時間は、特に吹奏楽部に入ってからは必ず星崎は登校していたはず。

(……真面目な星崎も、遅刻することあるんだな)

そう軽く考えて、俺はいつも通りに学校生活を送ることにした。


だが結局、俺が知る限りでは、その日星崎は一切姿を見せなかった。放課後になり、吹奏楽部の練習が始まっているだろう時間になっても、まったく来ない。こんなことになるなら、あいつの携帯の番号を聞いておくべきだったと後悔する。

吹奏楽部に顔を出し、星崎がいないかどうかも聞いてみた。だが、逆にこっちが星崎の所在を聞かれてしまった。部員達も星崎がいないで困っているようだ。

(ちっ、世話かけやがって)

奴も人に迷惑をかけるのはたいがいにしてほしい。だが、それにつき合っている俺もおせっかいだとは思う。

とにかく、その日は星崎を追うのはあきらめて、俺は家路についた。


異常は、その日だけでは終わらなかった。

最初に学校を休んで以来、星崎はもう三日も学校に来ていない。基本的に、あいつは真面目な奴だったはずだ。俺とは違う。それなのに、吹奏楽部の活動を学校ごと休むなんて……考えられなかった。

星崎の状況を知りたいと思うあまり――俺は、あれほど毛嫌いしていた職員室にすら入っていた。教師に、星崎がいったい何をしているのか尋ねる。目的は、それだけだ。

担任の教師の席を見つけ、俺は瞬く間に教師に駆け寄っていた。

「ああ、橋木か……あれだけ不真面目だったお前がねぇ」

俺のことなんてどうでもいい、と食ってかかりたくなるのを必死で我慢する。俺はとにかく星崎のことを聞いた。

「ともかく、星崎はいったい三日も休んで何をしてるんですか?」

「星崎か……先にちょっと聞かせてもらっていいか。彼女、吹奏楽部に入ったと聞いたが、上手くやってたのか」

「はい。あいつピアノ弾くの上手いから――」

「そうか。それは良いことだな」

みなまで言うなという風に、教師は手をかざした。そして、おもむろにため息をつく。

「ふぅ……ま、わざわざ聞きに来られて何も教えないわけにはいかないか」

教師の口ぶりに、俺は不審を覚える。

「どういうことですか」

「彼女な、うまくやっているように周りからは見えたのかもしれんが、やっぱり悩んでいるところがあったみたいなんだよ」

「え……?」

俺はちょっとものを言えなくなった。星崎が、まだ悩んでいた、だって? どういうことだ。

「ああ橋木、別にお前を責めているわけじゃない。それに、お前が悪いわけでもないよ。むしろ、お前はよく彼女に接してくれたと聞いている。前までの無気力なお前からは考えられないくらい、積極的にな」

(そんなことより――)

星崎のやつはどうなってるんだ、と問いただしたくなる。が、ここはぐっと我慢すべきだろう。待っているうちに、教師の話も核心に迫っていく。

「彼女から何か聞いていないか、橋木?」

「何かって……別に何も聞いてないですよ。あいつ、何も言わずにとつぜん休み始めたから」

「そうか。お前が聞いていないんじゃ、他の誰も聞いてないな。生徒は誰も知らないってことか」

俺は、ついに待ちきれなくなって教師に詰め寄った。

「星崎はどうなってるんですか!? もったいぶらずに教えて下さいよ!」

行ってしまった後で、俺ははっとなった。まるで、スポーツの応援をしているかのような大声を出してしまっていた。職員室にいた教師達が、いっせいに俺の方を向くのが分かる。

「落ち着け橋木。彼女が、生徒には言わないでくれと頼んで来たんだ。わたしも好きで秘密にしてるわけじゃない。だが、どうしてもとお前が言うなら、話してやれないこともない。ただ、一つ条件がある」

「条件? ……なんすかそれ」

教師は、真剣に俺の目を見据えた。

「橋木。お前、彼女のことを最後まで投げださないでいられるか? 彼女と最後まで、アー、接してやれるか?」

何を言ってるんだ、この教師は――そんなこと、そんなこと当たり前じゃないか。俺は、星崎を助けると言ったんだ。いちど言ったことは守る。

「当たり前ですよ! 絶対に投げたりしませんから」

「分かった、信じるよ。では話すが、彼女な――」

一秒一秒がものすごく長く感じられる。頼むから、どんな内容でもいいから、早く話してくれ――。

「彼女な」

教師は言った。

「彼女な、日本を出てウィーンに移住するそうなんだ」

「え……」

“日本を出てウィーンに移住する”。

それは、いったいどういう意味なんだ。

俺は、ショックで思考を整理することができなくなった。ただオウムのように、教師の言葉を反芻する。

「星崎が……日本を出て……ウィーンに移住……?」

「彼女のお父さん裁判官をおやりになってるんだが、外国の法律にも詳しくて、そっちで良い仕事を見つけなさったみたいなんだ。それに、彼女は音楽の才能があるし、そっちに住んでる外国人の親戚の方もいらっしゃるようで、いっそウィーンで暮らそうということになったらしい。私も、これ以上のことは知らないよ。彼女と、彼女のご父母が話してくれたことをお前にばらしているだけだ。ふぅ、頼むから他の生徒に話してくれるなよ。私の責任問題になってしまう」

教師の言葉は無視して。

――私のことを、あなたに言っても大丈夫なの? あなたは、私のことを一緒に考えてくれるつもりなの?

いつだか、星崎が俺に言った奇妙な言葉。

俺は、いまになってそれを思い出していた。あの時は、転校しがちで人付き合いの苦手な自分と関係を持ってくれるのか、というだけの意味だと思っていた。

しかし、そうではなかったのだ。星崎は……。

――あなたは、私の友達でいる勇気があるの?

星崎は、自分が外国に行くつもりであること、そのことをとっくに知っていたのだ。

俺は、星崎のことをなんでも分かっているように錯覚していた。そして、錯覚して良い気になっていたのだと思う。

でも俺が錯覚していたのとは違った。星崎は、俺も含めて他人に相談できないことを、いまだに抱えていたのだ。

「ちくしょぅ……」

腹を思い切り殴られたかのように、一気に気力が萎えていくのを感じる。いままで星崎に入れ込んでいただけに、それが裏切られたのは、相当な衝撃だった。星崎に出会うまで、何事にも関心を持たないでいただけに、こうして裏切られるのは、途方もなく辛かった。

「ありがとう……ございました」

何とかありきたりに礼を述べて、俺は職員室を後にする。教師が俺を引きとめるような気配がしたが、無視した。というか、頭に入ってこなかった。

(俺は、馬鹿だ)

自分を、ののしる。

(裏切られるのが辛い……それだけじゃないだろ。俺は――)

今まで考えることすらためらわれたことが、今ははっきりと考えられる。

(俺は、星崎がいなくなると辛いんだ)

どこを歩いているのか、あるいは立ち止っているのかも分からないまま。俺はただ心の中で孤独に呟いていた。

もっと早く、自分の気持ちに気づいていれば、あるいは――。

「俺は、星崎のことが好きなんだ……」

その日、俺は学校を早退した。


星崎の家の場所や、電話番号など、星崎の情報は教師に教えてもらったのだが――。

俺は、何も行動を起こしていなかった。

星崎と同じように、学校に何日も行っていない。いや、それどころか、家から一歩も外に出ていなかった。

俺の携帯には、普段より多くの着信があった。主に吹奏楽部の部員からで、星崎と、それに俺とが学校に来ていないが、どうかしたのかという用件のメールだ。彼らにしてみれば、せっかく仲間になった凄腕のピアニストがいなくなって困っているのだろう。

彼らには悪いが、俺はもうそれどころではなくなっていた。

 

 星崎は、向こうに移住することをもう完全に決めてしまったのだろうか? 教師から詳しく聞いたわけでもないので、俺はそんなことすら知らなかった。何か行動をとろうにも、とりようがない。本当に、星崎のことをわかったつもりになっていただけで、実際には彼女のことを何も知らなかったのだと痛感する。

 彼女に聞こうと思っても、携帯の番号すら知らない。だからといって、星崎の家に電話して親と話をするのも気が引けた。

 それに……水臭いじゃないか。

 俺に相談もせず何もかも決めてしまうなんて、星崎らしくない。何か理由があるんじゃないか……。

 そういうわけで、俺は星崎の自宅の前まで来ていた。自宅の場所は、教師から聞いていた。

 三階建ての大きな家だ。確か、星崎の父親は裁判官をやっているとか言っていたっけ。それだけあって、どこか訪れる者を威圧するような感じだ。

 このまま帰ってしまおうか。

 そう思いたくなる。

 いつもなら、何も考えずに突っ込んでいくようなところだったが。今回はそうもいかないらしい。

 (……クソっ)

 星崎は俺に隠していた。隠したいから隠していたんであって、俺が今さら聞いても教えてはくれないんじゃないか。あれでも、星崎は物を言う時は言うほうだ。”あなたに教えたくない”、だとかきっぱり言われる、かもしれない。

 そんなことになったら、俺はどうなるのだろう。考えたくもなかった。あまりにも、自分が格好悪く思えてしまう。

 (ちっ……けど、このままここに立ってても埒が明かねえし。かといって、帰るわけにもいかない)

 それでも、ここで何もせず帰ったら絶対に後悔するだろう。それもまた、確かだった。

 「ここはやるしかねぇ」

 そう呟き、覚悟を決める。

 俺は、扉の横に備え付けられたインターフォンをぐいと押した。

 『……どちら様ですか?』

機械ごしのくぐもった声が聞いてくる。星崎本人なのかどうか、判断はつかない。

「星崎――邑、さん、の友達の橋木といいます。星崎さんはいますか……?」

『純也……くん……?』

その声は、俺を下の名前で呼んだ。星崎は、俺のことはいつも名字で呼んでいなかったか。しかし、星崎の家族が俺をいきなり下の名前で呼ぶというのも考えにくい。

「星崎か?」

 『うん。わたし……』

 「そうか」

 こんなにすんなり話が出来るとは思っておらず、俺は少々めんくらった。何を話すつもりだったのだろう、俺は――。

 そう、星崎が突然吹奏楽部を休み始めたこと。そして、その原因はたぶん、自分が外国に移住するつもりなことを誰にも――そう、誰にもだ――話せなかったことによるのだろう、ということ。

 その上で、俺は何を言えばいいんだろう。なぜ、俺に相談してくれなかったのか、とでも言えばいいのか。本当にそんなことを言う権利が俺にあるのだろうか……。

 「ああ、ちょっと話したいことがあってな」

 『うん……』

 しかし、ここまで来て引きさがるのも馬鹿らしい。きっぱりと決別されたとしたら、それはその時だ。

 とりあえず、最初は移住うんぬんの話は控えておいて、とりあえず学校を休んだ理由を聞くことにする。

 「お前、ずっと学校休んでるだろ。いったいどうしたんだよ、吹奏楽部の奴らと一緒にコンクールに出るんじゃなかったのか? 練習しなくていいのか? まあ、じっさい練習しなくてもいいのかもしれねえけど」

 『……』

 逡巡する気配がインターフォンの向こうから伝わってくる。

 (なんでもいいから、早く答えてくれ……)

 早く答えを聞きたくて、俺は焦りに押しつぶされそうになった。インターフォンのスピーカーを見つめる瞳が、歪んでくるような気がする。

 「話しにくいことなのか? 俺にも相談できないことなのか?」

 『うん……』

 「そうか。でもな、悪いけど――」

 続かなくなった息を吸い込み、俺は言った。

 「悪いけど、もう俺知ってるんだよ。お前が外国で暮らしたいと思ってること。担任に聞いたんだ」

 『ッ!?』

 よほど驚いたんだろう。星崎が息をのむのが分かる。

 「お前が隠してたってのも聞いた。それなのに、無理やり担任から聞きだしちまったのは悪かったと思う。でもな」

 「言っただろ、お前にできないことでも、俺がなんとかするって」

 沈黙。

 しかし無視する。

 「俺に相談する気が少しでもあるなら――遠慮しなくていい。絶対に、絶対に俺が何とかするから。だけど、俺に話すことは何もないっていうなら、もうしょうがねえけど」

 『あ……』

 星崎が、何か声を上げた。

 「は?」

 『あ、ありが……ありがとう……』

 泣いている……あの星崎が?

『ありがとう、純也くん……』

門のところにいる俺から、そう離れていないところに――距離にしたらすぐに近づいていけそうなところに、星崎はいる。現実に、近くにいるのは分かっていても、あの星崎が毅然さを崩しているというのはどこか現実味がなかった。


現実味がない――そう、まるで単なる夢でしかないような。

(俺は……)

手が震える。その持っていきどころが分からず、俺は髪の毛を思い切り掻きむしった。

(俺は……最低だ……)

 布団の上で、うつ伏せになる。

(俺は……最低のやつだ……)

星崎は、泣いてなどいない。

いや、それどころか――この場に星崎などいやしない。

俺は、星崎の家になど行っていない。

自室の布団の上で、俺はうつぶせにはいつくばっていた。ずっと自室にこもり、一歩も外に出ていなかった。一歩も……。

星崎の家になど、訪れているはずがないじゃないか。

(知らなかった……)

俺は、背をさらに丸めた。嗚咽とともに、ガスのような思考が脳裏に渦巻く。

(俺がこんなに情けない妄想をする奴だとは……知らなかった)

自分で自分に向けた(ほこ)が、俺を苛んでいた。それを掻き消そうと――叫びが飛び出した

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

止まらない。息を吸い込みたくて、止めようとしても――止められない。窒息しそうになっても、止まらない。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」

まるで夢の中にいるように、現実味がない。

星崎が転校し外国に行ったのだという正式な知らせを受けるまで、その現実感が戻ることはなかった。


「うふふふふ」

ちょっと、わたしは笑った。だって、抑えられないんだもの。

目の前にいるのが、わたしのひとつの目的、ひとつの目標だった人――半身を包帯で覆い、力なく横たわっている――橋木純也くん。

はやる後ろ手で、病室の扉をパタムと閉める。そしてゆっくりと、彼を眠りから覚まさないようにゆっくりと、純也くんのほうへ近づいた。

「うふふ」

心臓の鼓動のように、点滴のぽとぽとという音が響く。ほとんどそれだけが、唯一の音なのではないかと――そう思えるような静寂が室内に訪れる時を、ひたすら待った。

やがて、時が満ちる。

わたしは橋木くんのそばに、ほんのすぐそばのところに立った。包帯に半身を覆われ、力なく横たわる彼には、意識なんてない。

だけど、橋木くんはどこかで聞いている。聞いている。わたしの言葉を……。

「まず、謝るね。こんな目にあわせてしまって、ごめんなさい」

空気の波紋が広がり――それが橋木くんの耳にも到達する。

「橋木くん――ううん、やっぱり今は、橋木先輩って呼びますね。()がよくわかるように」

橋木くんは、ぴくりともしなかった。心臓が穏やかに上下するだけで、他の動きはない。それでも聞いてくれている自信はあった。耳が働いていなくても、わたしの声は届く。

わたしの声とは、そういうものだ。

「橋木先輩を事故にあわせてしまったのは、わたし。いえ、わたしたちでした」

語りかける。

「わたし――城見地流。そして、吹奏楽部の黒岩空……先輩。この二人が橋木先輩を。ごめんなさい。でも……」

そこまでわたしが言ったところで。


俺に意識が戻った。

いや、これは……意識が戻ったと言えるのだろうか。

俺の体は、一瞬前と何も変わっていない。泥のように眠り続けているだけだ。

どうやら俺は、自分の体を、空中から眺めているようだ。

まるで、俺の目だけが天井に貼りついたかのように。あるいは、幽体離脱とかいうやつだろうか。こんな状態は、一度だけ経験したことがある。            

城見が転校してくる前の晩に見た夢――あのときも、俺は高いところに浮いて城見を見ていた。

もちろん、俺の体だけでなく、部屋の様子だって見える。城見地流が、俺の体のそばに立っている様も。

それだけじゃない。

城見と黒い先輩が病院で出くわしたこと、その二人が何かよくわからないことで対立しているらしいこと、城見がさきに病室に入って、俺に何かを語っていたこと――それら全てを、自分で見た記憶がある。

(なんなんだ、一体……これは、夢か……?)

そして、何か漠然としたものが、心のどこかに引っかかっている。

この場のよくわからない状況よりも、もっと優先すべき何か。もっと根本的な何かが、記憶に根を張る何かが、ある。

(なんだよ……何なんだよ)

思い出さなければならないような、忘れてはいけないようなことが。

しかし、まだ思い出せない。

そうこうしている内に、城見の言葉が俺を遮った。

「まだ、状況がよくわかっていないみたいですね。橋木先輩」

幼い子供に対するように、城見は微笑んだ。俺の方を向いて、無知を許すように――。

いや。「俺の方」とは、ベッドに寝ている俺の体の方ではなかった。

天井に貼りついて下界を見ている、俺の意識がある場所――そこに向けて、城見は頭を上げていた。

城見の微笑む顔は、確かに整っている。城見が「妖精」だとか呼ばれているというのも、頷ける話だ。

けれども、不気味さを払拭(ふっしょく)し切るには至らない。

(これも、あの時の夢と……同じ?)

下界を眺めるかのように、俺が宙に浮いていて――そして、そのことを知っているとばかりに俺を見上げる城見地流。全く同じ奇妙な状況を経験するとは、言葉をつくしても俺が感じる不気味さは説明できないほどだった。


一つの夢を追って、わたしは日本を出てウィーンまで来た。

わたしには作曲家になるという、子供のころからの夢がある。いままでは、ただその夢だけに一途でいればよかった。だからこそ――

だからこそ、ウィーン留学が決まって、息が詰まるほどうれしかった。

だけど、それと同じくらい悲しかった。もうひとつの夢を捨ててしまわなければならなかったから。

そんな犠牲を払って、私はウィーンまで来た。

……いいえ、来ようとした。

ウィーンに到着する前に飛行機が嵐に遭遇して、わたしは家族と一緒にフランクフルトという町で降りた。

訪れる予定のない町だったので、ちゃんとした宿もとれなかったらしい。わたしたちは、郊外の宿に少し留まることになった。


「彼女は――星崎邑(ゆう)はどうなるのか。知っていますか? 橋木先輩」

城見が俺に囁いた。

(星崎邑……星崎、だって?)

「はい、その星崎(・・・・)です」

俺は、黙って城見を見下ろした。

(なぜ、こいつが星崎のことを知っている?)

城見と星崎に接点はほとんどないはずだ。せいぜい、星崎が演奏の上手さで有名だから知っている、とかそのくらいではないか。

「星崎邑は……なんていうか、わたしの身内です。その星崎邑がどうなるのか、先輩は知っていますか?」

城見は俺のいる天井から目をそらし、今度は俺の体の方に目を移した。

しかし、城見の目には何も映っていないように思える。

「先輩はまだ、覚えていますか。星崎邑がどうなってしまったのかを……」


それでも、俺は徐々に日常に戻らざるを得なかった。

星崎が学校から居なくなり、いやそれどころか外国に行ってしまい――当然ながら、星崎が居ない生活が始まった。

そして、いつの間にか半年が過ぎていた。

もともと授業を真面目に受けるタイプではなかったが、最近は授業に出席することにすら消極的になった。

学校をフケて、帰り道を行く。

まだ陽が昇っているうちにその道を歩くことすら、俺にはどこか違和感があった。

(星崎がいたときは……)

星崎が吹奏楽部の練習を終えるまで、俺はやつにつき合っていた。別に、自分が楽器を手に取るわけでもない。俺のすることと言ったら、ただその場にいて星崎を見ていたり、時々アドバイスする程度だ。

でもそんな生活は、あっという間に過ぎてしまった。その中にいることを明確に意識する前に、過ぎ去ってしまったような感じだった。

星崎がいなくなってからの時間の流れは、ものすごい速さだった。それも当然だ。特にやることがないのだから――時間は待ってくれない。

夏が過ぎ去り、秋も半ばまで来たある日。

いつも通り目的のない歩みで、俺は帰宅した。

門を開き、階段を昇り、郵便受けを覗きこむ――そうしたところで、俺は異常に気がついた。郵便受けに何か入っている。紙のふちのところに、床屋の前で回転している看板のような赤青白の模様がついていた。普通の手紙とかチラシとかではない気がする。

(エアメール……?)

ふつう、外国から届く物のはずだ。俺のの家族に、外国に住む知り合いがいるとは聞いたことがない――

と、そこまで考えたところで、俺はピンと来た。外国の知り合いが、一人いるじゃないか。俺に……。

「星崎か!?」

星崎の一家はウィーンに移住したのだ。外国から手紙と言えば、星崎から来たという以外に考えられない。

「いったい、どうして今になって……?」

開封していない手紙の内容が、分かるはずもない。

送り主を見る。

良くわからないアルファベットの羅列(たぶん住所だろう)の後ろに良く見なれた名――Hosizakiという名を見つけた。

 星崎以外にありえないことを分かってはいても、やはりショックだった。目から出血したかのように、見ているものが頭に入って行かない。

 (あいつのほうから連絡してくるなんて……畜生)

 なにかの仇を取るかのように、手紙の(はし)を引き裂く。

 (俺はいったい何をしていたんだ……声をかけることができなかったなら、せめて、こうやって手紙でも送ってやればよかったじゃないか)

 俺はなんて発想が貧困な奴なんだろう。星崎に、さよならと言うことも――

 ――あるいは、「日本に残って俺と一緒にいてくれ」と言うこともできず。

自分勝手に星崎との関係を終わらせてしまっていた。

その点、星崎は違った。なんでこの時期なのかは知らないが、こうして手紙を送ってきてくれている。星崎などより、俺の方がよほど他人との関わり方を知らないんじゃないのか……。

頭蓋骨のなかに汚水を注がれたかのように、くさった気持ちになる。

のろのろと中身を取り出して――そのくせ、俺は手紙に目をくぎ付けにした。

 封筒の住所と違い、手紙の本文は普通の日本語で書かれていた。

 『――星崎邑の母でございます。日本にいた折には、娘がたいへんお世話に――』

 重要なところをかいつまんで読み進める。どうも星崎自身ではなく、その母親が書いているらしい。星崎に何かあったのだろうか? そうだとしても、それももうすぐわかる。

 『――あまりに失礼で無理なことは承知で、申し上げます。純也さんに、娘のお見舞いに来ていただきたいのです――』

 お見舞い、だと……? もしかして、星崎が大怪我を?

ホームレスが食べ物をむさぼるような勢いで、俺は文字を脳裏に送り込んでいく。

 そして、俺の世界はとまった。

 肌に触れる制服の感触も、自分の吐く息の音も、汗の臭いも、変な唾液の味も。全てが止まって、認識しなくなる。

 ただ一つ、手紙に書かれた文章だけを、見ている。

 それ以外、何もない……。

 『フランクフルトに滞在中、散歩に出た娘が――』

 一つ一つの文章が、バラバラになる。そして、俺に鋭く傷をつけていく。

 『――郊外を散歩していて、野生のキツネに咬まれてしまったようなのです。そのことを、娘は特に誰にも報告も相談もしませんでした――』

 ぐじゅ、ぐじゅと。

 ナイフで深く、体をえぐられる音が聞こえてきそうだった。

 『――この町のキツネには、狂犬病のウイルスを持ったものがかなり残っていたようです。娘は、運悪くそれにあたってしまい』

 さらに深く、自分の芯に達しようかというほど深く、傷が広がってゆく。

 『先日、発病しました。娘は、もうまもなく逝くでしょう』

 その字を、星崎の母だってやすやすと書けたわけではないだろう。その証拠に、文字が蛇がのたくったように、いびつになっていく。

 『――そして、娘が言ってきたのです。そうなる前に、「純也君にどうしても会いたい」と』

 ぼたり、と手紙に涙が落ちる。

 

宙に浮いた俺の意識は、いつしか怪我だらけの体のほうへと戻っていた。幽霊のような視点ではなく、普通の人間の視点になっている。

いま見ていた夢。

それとまったくおなじ記憶を、自分自身の中から取りだすことができた。

(そうだ……思い出した。全部思い出した。俺は、星崎の――)

聞こえる声が、自分の発する叫びだということに気付くまで――手紙を読んだ時以上の時間がかかった。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!――」

そんな長い時間が過ぎ去るまで、ずっと。

ぎりぎりと、声が部屋を震わせていた。日常的に聞くことはあり得ないような叫びが、だ。それだけで、どんどん非現実の世界に引きずりこまれていくような感じだった。体に火を放たれたように、汗が体中から噴き出す。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」

包帯が視界の大半を埋め尽くしていても、記憶は鮮明に浮かぶ。

思いだそうとすれば、こんなにも鮮明に浮かぶ。星崎の状態を知った時のことが。

(俺は、どうして……今まで、忘れて、たんだ……?)

「きっと」

巨岩に潜り込む草のように、貫き通す声。

横合いから、それが俺の堕落――文字通り、まっさかさまに落ちていくことだ――を遮った。

「橋木先輩は傷ついてしまったのだと思います」

 城見だ。

 俺を落ち着かせようとしてか、彼女は俺の腕を取った。

 掴まれた俺の右腕は、特に酷い損傷を受けている。

 トラックに跳ね飛ばされたどの過程で、そういう傷がついたのかは知らないが。二の腕はおそらく骨折しているようだ。包帯によって、天井から吊られている。

 その右腕の手首のところを、城見がつかんでいた。

 「傷つくのは仕方ないことだと思います」

 「ッ――」

 息が続かなくなり、俺は叫ぶのを止めた。余韻を残すように、歯の根が小刻みに震えて衝突する。心にもまだ、波濤が荒れ狂っている。

 「――お前に何が分かるってんだよォッ!! 余計な口出すんじゃねぇ、この野郎ッ!!」

 たんなる八つ当たりだと、俺は自分で分かっていた。それでも、止めることができない。無関係なはずの城見に、鼓膜が破れそうな強さで怒鳴った。

喉が枯れ、最後は自分でも何を言っているのかほとんど分からない。

「こっから出てけ! お前なんてお呼びじゃねぇんだよ! 出ていけ! 出ていけ! 出ていけぇぇぇぇっっ!!」

「……」

俺は腕を動かせなかったので、城見の手を振り払うことはできなかった。しかし、そうしたい気配は伝わっただろう。城見は、俺に触れていた手を離した。

俺を見つめるわけでもなく、かといって目をそらすわけでもなく、城見は微妙な位置に視線を固定している。

「本当に――」

城見が囁いた。

「本当に良いんですか? 」

「なに……?」

「星崎邑のことを、忘れたままでいいんですか、橋木先輩……」

「っ……だから、言ってんだろ! 余計な口出すなって!! お前に関係ねえだろっ」

「関係あります! 星崎邑は、私の――」

城見は、視線を反らした。

「――ともかく、わたしは星崎邑のことを良く知っています。そして、先輩にそれを思い出させてあげることができます」

「あ?」

思い出させることが出来るって、いったいどういうことだ?

星崎から手紙が来た時のことを、俺に思い出させたのはこの城見とかいうやつだっていうのか?

「お前、いったい何言ってんだよ! 星崎とのことを俺以外が知ってるわけねえだろ」

「いいえ。それでも、知っています」

城見は、唇を一文字に結んだ。

「星崎邑のことを先輩の夢の中で思いださせたのは、わたしです。正確に言えば、わたしひとりではないんですけど……」

「お前が?」

なぜこいつが、こんなに俺と星崎のことに詳しいのだ?

城見など、俺にとっては知り合い以下の存在でしかないのに。

「いや……」

いや、それ以前に。俺と星崎のことを知っていたとしても、そのことを俺に思い出させる(・・・・・・)などということがどうやってできるのか。

こいつは今、夢の中で(・・・・)と言った。

そもそも、人に決まった夢を見させるなんてできるわけがない。

でも、夢で見た内容――星崎の母から手紙が来る、というのは実際にあったことだ。その夢を見たおかげで、確かにそれが真実だということは思い出している。

「……わたしも、本当は思い出して欲しくないんです。先輩が苦しむのは、悲しいから。それで済むのなら、思い出して欲しくはないんです」

「え?」

いったいこいつは、どこまで深いことを知っているというのだろう。俺自身より深い星崎の知識を、どこで仕入れたのだろう。

 「でも、忘れたままでいるのはもっと悲しいから。先輩には思い出してもらいたいんです」

 城見はそうして、俺を納得させようとしていたが。

 俺は結局、はいともいいえとも答えることはしなかった。


これから、大きな別れを告げることになるのはほぼ分かっていたので――日本を出るときには、周りの誰にも俺が外国に出かけることは知らせなかった。

誰かと別れを交わすだけで、もう星崎のことを思いだしてしまう。だから、俺はひとりで行った。それに、そもそも呼ばれたのは俺だけだ。

フランクフルトという町は、ドイツにある。

星崎は、その町の病院で入院しているとのこと。俺は、飛行機の席の上で、しきりにそのフランクフルトの病院への行程を確かめていた。

俺は、いいようのない焦りを感じていた。一時間に一本しか来ない電車に乗り遅れてしまったかのような、自分の力ではどうしようもないことに対する焦り。

はっきり言って、俺に残された時間は全くない。つまりは、星崎に残された時間も、それと同じだけ少ないということだ。

もって五日間。

その五日と言う時間が、星崎に残された時間らしい。

狂犬病――星崎の母からの手紙にも書いてあったが、俺は自分でも少し調べた。感染した動物に咬まれたりすると、その唾液からウイルスが体に侵入する。いくらかの潜伏期間を経て、狂犬病が発病したら最後――もう治療する方法が一切なくなり、数日で呼吸できなくなって息を引き取るという。

致死率100パーセント――そんな、目の前が真っ暗になりそうな悪夢の病気。しかし悪夢とはいっても、それは夢ではない。

そう。

「星崎は、死ぬ……」

体は全体的に薄く細くても、星崎はそれなりに存在感のある奴だった。

作曲と演奏が得意で、その腕を磨くことに一途で、そのくせ他人と接するのは不得手で……少し変わった形をした宝石のようだった。

俺が持っている、そんな印象とは全く関係なく、星崎の病気は進行してゆく。刻一刻と、今この瞬間も。

お前に出来ないことでも、俺が何とかしてやる――

かつて、俺が星崎に言った言葉だ。

なんと弱弱しい言葉だろう。

俺に出来ることなど、これっぽっちもない。何も出来ないが、それでも星崎のために行くというだけ。本当にそれだけで。俺が行こうが行くまいが、星崎は――。

「ちくしょう……畜生……」

無性に、何かを蹴飛ばしたい衝動に見舞われる。足が小刻みに震えた。だが、前の座席を蹴るわけにもいかず、俺はとにかくじっと耐えた。


日本よりも、ドイツの気候は肌身に染みいる寒さだった。こんなことなら、もっと厚着をしてくるべきだった――そんな悔恨が、よりいっそう俺のみじめさを煽る。

その地の言葉は俺にはまったくちんぷんかんぷんだったので、星崎の母からの手紙にあった地図だけが頼りだった。電車やバスを乗り継ぎ、星崎のいるはずの病院にたどり着いたころには、もう空港を出てから半日以上経過していた。

大きい病院だ。言葉はわからないが、なんとか身振り手振りで尋ねて星崎の病室まで案内してもらおう。

そう思った矢先。

病院の入り口に、どこかで見たような人が独りぽつんと立っているのを見つけた。

ドイツに来てから白人ばかり目にしていたので、久しぶりに日本人を見た、というのもある。しかし、既視感はそれだけではない。

顔がよく似ていた。いや、よくみると顔に限らず、細い薄幸そうな体型もそっくりだ。

「星崎……?」

そうだ。

その人は星崎に瓜二つ。しかし星崎本人はベッドで寝ているはず。ということは……。

俺が発した声に気付いたのだろう。

その人は俺のほうに寄ると、深く一礼した。

「私は、星崎邑の母でございます」

声も似ている。きっと、星崎が成長したらこういう姿になるのだろう。しかし、星崎が大人になることはないのだと気づいて、さらに気分が沈んだ。

ともかく、俺も一礼する。

「橋木純也です。星崎、さんの……」

俺は、星崎のなんだというのだろう。「友達」と答えることすら、今の俺にはためらわれた。転校する時になっても声一つかけず、電話一つかけず、手紙一つ書けず――こんな人間、友達とすら言えない。

しかし、俺が続ける前に星崎の母がその場を引き継いだ。

「その節は、娘がたいへんお世話になりました。学校でのお勉強もあってお忙しい中、こんなに遠くまで娘のために来ていただき、たいへんありがたく思っております。親として感謝の極みです」

星崎の母は、平静を装った口上を述べた。

「いえ、そんなことは――」

大したことじゃありません、と言おうとして。

ドイツなどという遠くの地まで見送りに来ることは出来ても、自発的に星崎に関わることは出来なかったじゃないか。ここまで来るのが大したことじゃないならば、星崎が転校する時になぜほんの少しの気遣いも見せてやれなかったのだ。

ということになる。

そう思いなおし、俺は口をつぐんだ。いや、口をつぐまざるを得なかった。

星崎の母は、たぶん俺の考えていることを分かってはいないだろう。きっと、単に星崎の深刻な状態に俺が暗い気分でいる、ぐらいにしか考えていないに違いない。

俺は、この人をも騙そうとしているのだ――。

やはり、俺が考えていることには気づかなかったらしい。沈黙を、星崎の母が良いタイミングで破る。

「早速ですが、娘の病室までご案内します」

俺は、こくりと頷いた。

振り返り際に、星崎の母はふっと呟く。

「もう時間がありませんので……」


病室は、星崎一人で大部屋を貸し切っているらしかった。スペースがないと、看病がやりにくいらしい。

「こちらです……」

そう言う星崎の母は、既に涙ぐんでいた。目元は見えないが、声が鼻声になっている。

大丈夫ですか、と言うこともできず、俺はただ彼女の案内を待つばかりだった。

「何もせずに、そのまま病室に入るとたいへん危険です――」

彼女はそう言うと、病室の前に立っていた看護師に会釈した。看護師も分かったというように頷き返し、すぐ隣の部屋に俺達二人を案内する。

やたらと、消毒液の匂いが漂う部屋だった。その部屋に入った矢先、看護師が何事かを囁く。。星崎の母が、それを翻訳した

「こちらの防疫用の服を来てください。娘の唾液などから私たちが感染してしまう可能性があるそうですので」

唾液から感染してしまうとは……。

俺は得心がついた。星崎が部屋を一人で貸し切っているのは、他の患者に感染させないようにするためだったのだ。

分厚い防疫用の服を着て、天井の装置から噴霧される消毒液を浴びる。こんなに厳重な準備をしないと、星崎に近づくことすらできないなんて、そうとう酷な話だった。正直言って、ここまで酷い病気に星崎が侵されているのだということを、いま再確認したくらいだ。

やがてその部屋を出て、星崎の病室まで戻る。

あと数日でいなくなってしまう星崎が、今はなんとかこの病室の中にいる。作曲家になるという夢を叶えに外国まで来たのに、そこで命を落とすことになるなんて――なんという皮肉なんだ。

「橋木さん?」

扉をつかむ手が震えるのを、俺は必死の思いで抑えた。

その刹那に、俺は様々なことを考えていた。

俺は、星崎になんと言えばいいのだろう? どんな顔をして星崎と話をすればいいのだろう?

星崎の母から手紙を受け取り、その時から何度も何度も同じことを考えた。そして、答えもまた同じものが出ている。

俺は、星崎に合わせる顔など持っていない。

持っていないのだ。

俺が笑っても、怒っても、悲しんでも――

全て、星崎という人間に対して失礼に当たる。それ以上でも以下でもない。

原点に戻って考えないといけない。そう感じた。

星崎に合わせる顔もないのに、なんで俺はこんな遠くまで何故のこのこやってきたのだろう?

(それは、もちろん――)

扉の取っ手を握る手に、俺は力を込めた。

(星崎が来てくれと言ったから。それだけだろ……)

「大丈夫です」

星崎の母に返事をする。そして俺は、病室の扉を開けた。

部屋の中は換気されているのかいないのか、それもわからないほどエタノールの香りが漂っていた。消毒のためだろう。

ためらわず、進む。ベッドに横たわる体を、じっと見つめながら。

後ろから、声が聞こえる。

「ああ……(ゆう)……」

俺が口に出しそうになったのとほとんど同じようなことを、星崎の母が先走って言っていた。

(これは……)

いままで生きてきて、こんなに目を背けたくなる光景を見たことがない。

本だとか新聞だとか、そういうものでしか見たことがないような惨状。日本の日常では体験することがなく、どこか遠いところへ行かなければ見ることのないような惨劇。それを今、肉眼で目にしているのだ。

その星崎の姿は、もう一生忘れられない。

直感が、そう告げている。

星崎は患者着を着て寝ていたが、しかし身につけているのはそれだけではなかった。しっかりした布製のマスクが口のところに巻かれている。どう見ても、外から中へ菌が侵入するのを防ぐためのものではない。

むしろ、その逆だ。ウイルスが含まれている星崎の唾液が、外に飛び散らないようにしているに違いなかった。

星崎に取り付けられているのは、マスクだけではない。両方の腕、両方の脚、そして胴体が、太い布製品の拘束具でベッドに縛り付けられている。もちろん、寝返りを打とうとしても、これでは出来ないだろう。

「なんでこんな風に」

やっと呟いた言葉は、微かに震えていた。

それは、怒りから来る震えだった。

「なんで、こんな風に縛り付けているんです!? いったい星崎が何したって言うんだ!」

もうすぐ死ぬかもしれないというのに、こんな扱いはあまりにも酷過ぎる。そう思った。

そして気がついたら、俺はドイツ人らしき看護師に向かってつかみかかっていた。肩をつかみ、激しく揺さぶる。看護師は、突然のことに面喰ったらしい。抵抗する暇もなかったようだ。

「止めなさい!」

叱りつけられる。するとたちまち、今度は俺の肩がつかまれた。すごい力で、俺は看護師から引き剥がされる。

 その力の主は、星崎の母だった。

 「その方は何も――いいえ、病院の方はなにも悪くありません。娘の病気は、こうしないと看護する方も危険なのです。娘が暴れまわったら手がつけられなくなります。だから、娘が縛り付けられるのは仕方ないことなのです……」

星崎の母は、画鋲を踏んだように顔をしかめ、痛みに耐えているようだった。言いたくはないが、言わざるを得ない、といった感じだ。

俺は取り乱していた。けれど、自分が取り乱している、と分かるだけまだマシだったのかもしれない。

俺が謝るためにお辞儀すると、看護師はやれやれといった風に肩をすくめた。

そして、振り返る。

未だに眠り続ける、星崎の顔を見つめた。ものすごく痩せている。たしかに以前から痩せてはいたが……そのひと言で済む話ではないはずだ。

俺の疑念を察したか、星崎の母が言う。

「喉の筋肉がけいれんして、食べ物が喉を通りません。それ以前に食欲がなくて、食べ物を欲しがらないのです」

聞いていて愉快な状況ではない。

(星崎……)

俺は、防護服に覆われた手を伸ばした。星崎の頬に触れようとする。

「星崎……」

星崎がもうすぐ死ぬということが分かって、そしてその姿を目の前で見て、俺は気付いた。俺はずっと前から、星崎のことを好きになっていたのだと。多分、今まで考えていたよりずっと早い段階から。

――そうでなければ、どうしてこんなに心が痛むのか。痛むはずないじゃないか。

「星崎……ぃ」

もう数センチで、俺の指が星崎に触れる――その時に。

星崎の目が、ぱっと開いた。

「星崎!」「邑っ」

俺と、星崎の母の声が同時に響く。

俺達の声が聞こえたのかどうか定かでない。星崎は、生気のない虚ろな瞳で天井を眺めていた。

(いや……)

眺めていると言えるかどうかも、分からない。物を見ることが出来ているのかどうかも――。

視線のかみ合わない星崎に向けて、俺は必死に声をかけた。

「星崎、俺だ! 橋木純也だ! なぁ、俺わざわざ日本からここまで来てやったんだぞ、星崎っ」

星崎に言葉を伝えたい――その一心で、俺はまくしたてた。かなりの大声で、だ。

「俺な、お前に謝らなきゃならないことがあるんだよ……頼む、聞いてくれよ。星崎?」

星崎は、目と首を動かして、顔を俺の方に向けた。それでもやはり、星崎の顔はひどいものだった。マスクの端から唾液が垂れて、ベッドに染みを作っている。

それでも、言葉が届けばいい。星崎に言葉が届きさえすれば――そうすれば、星崎の苦しみも、俺の苦しみも、いまできる最小限にまで抑えることが出来る。

そう確信して、俺は残りの口上を一気に口にした。

「俺さぁ、お前のことが好きだったんだよ」

耳の先から、頬の隅まで、熱が一気にこもってゆくのが分かる。防疫服を着ていることもあり、熱は肌の表面に留まり続けた。それでも言わなければならないことだ。

一番の核心を、最初に――そして、次々と付け加えてゆく。

「だから一々、お前のことを気にしたり、世話を焼いたり、馴れ馴れしくしたりしてたんだ。お前気付いてたか?」

届いているのか、いないのか。届いていなかったとしても、もう一度伝えればいい。そのためだったら、どんな大声だって、何回でも出せる。

「でも謝らなきゃならないんだ。お前が外国に行っちまうこと聞いたのに、お前との関係をはっきりさせるのが怖くて、俺逃げたんだよ。お前の家まで行ってお前と話せばよかったのに、勇気がなかったんだ。だから会うこともできなかったし、電話もしなければ手紙も送らなかったんだ」

星崎は、焦点の合わない視線を俺に向けていた。目は合わなくても、顔だけは互いに向き合っている。

「本当にすまなかった。ごめん。悪かったよ……俺は謝るために、お前のところに来たんだ。それに、お前にできないことは、俺がなんとかするって言ったからな。なぁ星崎、お前こんな俺をどう思う? 許せないか? 馬鹿な奴だと思うか? それとも――」

そこまで言って、俺は言葉を止めた。星崎をじっと見つめる。

星崎のしているマスクがもごもごと動いた。何か言うつもりなのかもしれない。

「星崎っ」

星崎のマスクを外してやらないと。そのようにしてもいいか、と言う風にジェスチャーで看護師に尋ねる。彼はしぶしぶ頷いた。

ただし、俺には外させない。彼自身で星崎のところまで来て、マスクを取ってくれた。

星崎は大量の唾液を垂らしながらも、口を開いた。

はっきりいって、かなりショッキングな光景だ。クールだった星崎が、赤ん坊のように唾液をたらし、泡さえ浮かべている。

こんな悲惨な状況にあったことない俺の心は、激しく揺れた。それでも、星崎の答えを待つ。

べにゃり。

「えっ……?」

液体が――

放たれたのか。

そして、その液体が勢いよく何かにぶつかり、しぶきを散らす――そんな音がした。

「きぃやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

理性ある言葉ではない。

その代わりに、苦悶の金切り声が星崎の喉から飛び出していた。星崎の口には、それこそ湧水のように大量の唾液が溜まっている。それが飛び出して、俺の防護服の目のところにべっとりとこびりついていた。

体のどこかが痛むらしく、星崎は暴れ出した。拘束具を引きちぎりそうな勢いで、四肢に力を込めている。ベッドが大きく揺れ、わずかに場所がずれていく。

そこで苦痛にうごめいている人間は、まぎれもなく、星崎邑なのだ――

「あ……ぁ」

星崎とは逆に、俺は言葉を発することができなかった。動くことも。身じろぎ一つさえ、しようという気にならない。

看護師が、仰天して走りだした。と思うとすぐ部屋に戻ってくる。何か液体の入った注射器を持っていた。星崎の母と二人がかりで暴れる星崎を抑え、注射を行う。

数十秒の格闘の末、星崎は暴れるのを止めた。そして、目がとろんと閉じる。星崎は、すぐに眠りに落ちてしまった。

「娘は、もう――」

魂を抜かれた俺に向けて、星崎の母が何事かを口にした。しかし、その言葉はほとんど耳に入ってこなかった。


両目のはしに、ふと熱いものが盛り上がる。

涙。

それが、頬骨の上部を伝い、耳のところまで来る。

涙は雫になって耳たぶのところに溜まり、むずがゆい感触を残しては、墜落して消えていく。

人並みの羞恥心を持っているのなら――どうしてそれを星崎のために使ってやれなかったのだろう。そんなことを、俺は考えた。

涙を流すところを地流に見られたくないが、しかし隠す方法もない。俺はせめて、毅然と視線を真上に固定する。

「それが、星崎邑(ほしざきゆう)と橋木先輩が導いた結果でした」

自分がこの場にいることを思い出させるように、城見は呟いた。

俺の視界の中にいた。真上に向けているはずの、俺の視界の中に。

 宙に浮いている?

 いや、そうではない。城見は、ちゃんと固いところに座っている。

ただし、壁にかかった柱時計の上に腰かけているのだ。

いくら城見が小柄と言っても、どうしてあんな小さなスペースに体重を預けていられるのだろう。そんなこと、普通はできそうもない。そうまるで、まるで……。

「妖精みたいだ……」

城見は俺を見下ろしながら、笑顔を見せた。花を咲き散らすような、どこか凄絶な笑みを。それは、祝福に似ていた。

「橋木先輩」

自分の手中に落ちて、奴隷と化した者へ施す、悪魔の祝福――そう形容したほうが良いのかもしれない。

「先輩には思い出して欲しかった。星崎邑とのことを。思い出さないままでいるのは、何も経験しなかったことと同じだから」

カッ、という音。城見が、靴のかかとで壁を蹴った音だ。

「でも、そうやって一度(いちど)思い出した上で――」

ふわりと浮かび、綿毛のようにゆるやかに、落ちる。城見の背中から本当に羽が生えているのではないかと、疑いたくなるような

「それを忘れてほしいんです」

俺は、ふと自分の間違いに気がつく。

「前向きに」

(動けない……?)

俺は、自分から真上を向いて不動の姿勢をとっていたのではなかった。どうやってか、強制的に上を向かされているのだ。

上、すなわち城見が浮いている方向へと。

城見を見つめさせられている。目を反らしたくても、首を回したくても、まったく動かない。金縛りにあったようだった。

「先輩には、星崎邑のことを忘れてほしいんです。何か他のことを、別のことを頼りにして――」

(どういうことだ。これ……全然、うごけねぇ……)

頬や目の筋肉が、ぷるぷる震える。それ以外に、動きらしい動きをすることができなかった。

城見は、どんどん俺のほうに迫ってくる。城見の成熟しきらない顔が、ついに視界いっぱいに広がった。

「――そうやって生きていってほしいんです」

視覚だけでなく、城見の肌の匂いまで漂ってくる。それほどに、城見は俺に密着していた。

 城見の手や足の先がベッドに触れる。それでもなお、降下は止まらない。

 (止めろ……止めろ)

 城見のしんじられないくらい整った目鼻立ちに、体ごと吸い込まれそうになる。しかし俺は、まだ自分の言いたいことを思うことができた。

 (星崎のことを忘れるなんて、俺には出来ない……)

 「そんなこと、ありません」

 もはや、城見の呼吸すら肌に直接感じられた。それほど近くに城見がいるのだ。

 「橋木先輩は強い人です。どんなことでも自分から忘れていけるはずです――」

真っ白い城見の髪が、俺の顔のまわりにふわりと垂れた。見た目はよいが、それは獲物に絡みつく蜘蛛の糸にも似ている……。

「――わたしが、ほんの少しのお手伝いをすれば」

囁きが、命令に変わって聞こえるほどの至近距離で。城見はかすかな唇を俺の方に寄せてきた。

(! これは、あの時の夢と同じ……)

城見が転校する前に見た、城見が登場する夢。その時と全く同じ展開だ。あの時は別になんともなかったが、もし今城見に身を委ねてしまったら、何かもう取り返しのつかないところまで引きずり込まれてしまいそうな恐怖があった。夢とは違う、現実の匂いと感触を感じてしまったら、そこから逃れられなくなるのではないか……。

(だが、動けねぇ……)

もう駄目だ。俺と城見の唇が触れる――

その一瞬前に。

「それは、ルール違反じゃなあい?」

宣告が、歪んだ時を元に正した。

「感心しないわね」

重さのかかる位置が変化したせいか、ベッドがかすかに揺れる。

「っ!」

声に鳴らない声とともに、城見の体が俺の横に遠ざかる。見ると、城見の肩にかかった手が城見をその方向へ引き寄せていた。

城見よりも、そして俺よりも高い背たけ。感に触るしゃべり方の女が、そこにはいた。

「黒い先輩……」

吹奏楽部の、あの先輩が、地流の後ろ側に立っている。

黒岩(くろいわ)(そら)、よ。橋木少年」

口調だけはいつも通り快活だった。しかし、その目はちっとも笑っていない。

「交通事故だけど、ほんとに災難だったわねぇ」

しかし、黒い先輩はいつ部屋に入って来たのだろう。扉を開ける音も、靴と床が擦れる音もなかった。城見が俺に覆いかぶさった瞬間、その瞬間に突然そこに現れた――そんな気がする。

その黒い先輩は、手の握力をがっしりと保ち続けている。城見は黒い先輩に肩を引っ張られ、もがく小鳥のように手足をじたばたさせていた。

「黒岩先輩、離して下さいよ~……」

「その前にあなたのしたことを(はな)したいわね」

頬の肉を機械的に上げて、黒い先輩は笑って見せた。

「お見舞いって言ったでしょ。何処の世界に、病人にのしかかることをお見舞いと呼ぶ国があるの?」

容赦なく言い放つ。

「他人の上で飛び跳ねるくらい元気なら、お外で遊んできたら? 妖精さん。それで、私に順番を変わってほしいわぁ」

城見の肩をずっとつかみ続けて。黒い先輩は一言一言、体のあちこちに満遍なく毒を塗りたくるように言葉を放った。

「――橋木くんは、私の物なんだから」

(何を言ってるんだ、この人……)

黒い先輩の突拍子もない言葉を、俺は不思議に思った。

しかし、黒い先輩以前にそもそもこの状況が何かおかしくはないか。

黒い先輩と城見がお見舞いにくる、というだけならまだ分からなくもない。しかし、まず地流は何かあきらかにおかしい。地流が俺から離れたおかげで、正常な判断力が戻ったのか、俺はそのことに気付き始めた。

なぜ地流は、俺と星崎のことをあんなに詳しく知っているのか。そして、どういうわけで俺に思い出させたのか。さらに、どうやってあんな風にリアルに思い出させることができるのか。地流と初対面のはずだが、初対面で本当にそんなことができるのだろうか? もしかして、会ったことがあるのでは……。

(いや、待てよ。それに……?)

俺は、さらに奇妙なことに気付いた。あまりにおかしなことなので、体が震えて一跳ねする。

(星崎と一緒にいたのは、高校二年の時。それに、今こうしてここにいる俺も高校二年生、じゃないか……?)

良く考えれば、今までなんでこんなことに気付かなかったのだろう。

おかしい。

絶対に、何かが乱れている。時計の針の狂いが、時を追うごとに大きくなっていくような。

(星崎とのことはつい最近のことのはずなのに、忘れるはずない。それとも、俺は……過去にも高校二年生だったことがあったのか?)

そんなはずはない。成績はよくないが、いちおう留年という事態は免れているじゃないか。

では、今までに思い出した、あの星崎という少女――そして、彼女との関わり。病気の星崎を看取るために、外国にまで行ったはずだ。

あれはいったい何だったのだ。幻だったのだろうか?

(星崎に出会ったのが夏ごろ、外国に行ったのが冬ごろ、だよな……ええっと、今の季節は……?)

――え?

ちょっと待て。

体中に、悪寒が走る。そして、寒いはずなのに、脇から嫌な汗がどっと吹き出した。

いま俺が過ごしているこの時が――それが、いったいいつごろなのかが分からない。

季節どころか、いったい高校二年生の何学期の何月なのか、分からない。思い出せない、というより、最初からそういう情報を一切持っていないような気がする。

(何がどうなってるんだ……俺はどうしちまったんだ? 俺は、精神病かなんかなのか……?)

俺がそう混乱している傍らで――。

「ふざけたこと言わないでッ!!」

怒声。

視界の隅で何かが激しく動ている。それを察知して、俺は顔を真横に向けた。

黒い先輩の拘束から逃れ、城見が後ろ向きに、肩を怒張させつつ立っている。そして、両手を伸ばしていた。その両手の先に、地面に座り込む黒い先輩。

どうやら、城見のほうが黒い先輩を突き飛ばしたらしかった。あの黒い先輩が誰かにやられているというのは、たぶん始めて見た気がする。

「橋木くんには自分の生き方がある。星崎邑のことも――黒岩先輩のことも、忘れてもらわなきゃならないのっ! 余計な口出ししないで! 」

突っつかれた子犬のように、城見はすごい剣幕でそう怒鳴り始めた。とても、先ほどまでと同じ人物だとは思えない。

地面に座り込む黒い先輩を尻目に、城見は今度は俺に話しかける。

「橋木先輩、聞いてください! この黒岩先輩という人は――」

すう、と息を吸い込む。そして、城見は告げた。

「この人は、ずっと橋木先輩を自分の物にしようと狙っていたんです。わたしが来るまで、ずっと!」

「な、何を言って……?」

俺は馬鹿みたいに尋ねた。

「この人は、この人は――自分のためだったら、橋木先輩がどうなってもいいと思っているんです。だから、橋木先輩に接近して、橋木先輩をこの世界につなぎ止めていた(・・・・・・・・・・・・・)……」

そう暴露する城見の顔は、なぜだかとても苦痛そうに見えた。まるで、身内を裏切るかのような。

「ちょっと待ってくれ……」

俺は、地流に聞いた。傷だらけの体をのそのそと動かし、アピールする。

地流も黒い先輩も、俺の方を振り向く。

「お前の言うこの世界(・・・・)ってなんだ?」

ふつう自分が住んでいる世界のことを、この世界(・・・・)などと他人のもののように言ったりするだろうか。いったい、地流と黒い先輩は――俺をどうしようとしているんだ。

「お前ら、いったい何なんだ? 俺と星崎のことをやたら詳しく知ってたり、俺をどうにかしようとしたり――何が目的なんだよ? ぜんぜん話が見えねえよ」

俺の質問に、場が静まりかえった。

「そうねぇ」

そして、その静寂を破ったのは、地流でなく黒い先輩だった。尻もちをついた状態から、すっと立ち上がっている。この期に及んで、黒い先輩は不敵な笑みをしていた。地流に遅れを取ることなど、考え付かないというように。

「少しは頭を使ったらいいんじゃないかな、橋木くん」

「先輩が教えてくれれば、手間が省けるんだけど」

「それはまあ、そうね……じゃあ、ヒントをあげる」

黒い先輩は、告げた。

「そっちの」

黒い先輩は指差す事はしなかったが、しかし地流を手で指し示した。

「地流ちゃんがさっき言っていたわね」

「ええと……」

いろいろとよくわからないことが重なったため、俺は混乱していた。さっき地流がなんと言ったのかすら、頭から吹っ飛びかけている。

 「私が自分勝手に、橋木君をこの世界(.....)につなぎ止めている――そういう話だったはずよ」

 今の俺には全く意味不明なひとつの単語が話に上ったので、俺はともかくそれに飛びついた。

 「それだ……」

 ベッドの上から、必死に訴えかける。

「 何なんだ、”この世界”って……全然分かんねえんだけど」

 「いきなり言っちゃったら頭を使わないでしょ?」

 意味の分からない理由で、俺の質問を退ける。そして黒い先輩は、ため息を一つついた。しかし、だるそうな態度とは裏腹に、黒い先輩の目つきはそうとう鋭い。真剣だった。

 しっかりと俺を見据え、先輩は口を開いた。

 「私が私自身のために、橋木くんをここから出さないようにしている――それは本当の事」

 黒い先輩は、地流を半目でちらりと眺めた。

 「あなたが怪我してここに閉じ込められている。この事実も、その象徴。その一環。ただし、あなたの意識を乗っ取って、あなたを車道に押し出した事に関しては、この子も一枚噛んでる。そうでしょ?」

「は、はい……それは、そうです」

「な、何で?」

様子を見る限り、地流と先輩は対立しているのではなかったのか。

「そうでもしないと、あなたと――そして、私とゆっくり話して決着をつける機会がなかったから、なんじゃない?」

地流はうつむいて、黙り込んだ。

「この子がそんな風に考えている事を承知で、私がこの子と協力したのはなんでだと思う?」

俺にも、そして地流にも問いかけているのか、先輩は顔を上げ視線を広げた。

黒い先輩ではない人がそこにいる――そう思えるくらいに、黒い先輩は引き締めた面持ちでいた。

「なんでって……んなこと分かるかよ」

「はぁ。相変わらず鈍いのねぇ。決まってるでしょ?」

俺と地流に言い聞かせる。

「それはね……私が負けるはずないからよ」

「……えっ?」

病室が凍りついた。

誰も動かない。黒い先輩の口だけが、目に見える動きをしている。

それは、黒い先輩が地流に明確な敵意を示した瞬間だった――。

その瞬間に、黒い先輩の体が跳ねた。少しばかり茫然としていた地流の首を、すごい勢いでわしづかみにする。

先輩の体に押されて、地流の小さな体は壁に叩きつけられた。嫌な鈍い音と、地流の呻き声が同時に鳴る。

「ぁ……ぐ……」

首を絞められ、地流はもがき苦しんだ。これはやばい、と俺の本能が告げる。

「おい、何やってッ――」

黒い先輩を止めるため、立ち上がる――そうしたかったのだが、あいにく全身に怪我をしており、どうすることもできない。

黒い先輩は地の底から響くようなどす黒い声を出した。

「甘ったれたこと言わないでくれる?」

「は……?」

俺の言葉を無視して、先輩は続けた。

「私の幸せよ。橋木君と一緒に居ることは。それを追求して、何が悪いって言うの」

激情が先輩から溢れだす。

「幸せなことをして、何が悪いのよ! だからあんたは甘いって言ってるのよッ!!」

板を曲げようと力を込めるみたいに、先輩は体ごと地流に詰め寄る。

地流の顔は酸素不足か何かで真っ赤になり、胴体は壁と先輩に挟まれて上へ上へと追いやられていた。

「――っ」

地流は何か言おうとしてはいるようだったが、しかし何も言葉は出てこない。それを利用してか、黒い先輩はさらにまくしたてた。

「あんたがそうやって、他人の――自分以外の人のことばかりを気にするのはっ」

ぎりぎり、と音が聞こえてきそうなくらいの力。それが、地流を追い詰めていく。

これほど理解不能な、奇怪な修羅場が、俺の目の前で展開されていくのだ。

(これは)

それでも、何故なのだろう。

不思議なことに、だんだんと。俺の体の、力が抜けていく。

「自分の幸せを――真剣に考える勇気がないから――なかったからでしょうっ」

黒い先輩の鬼気迫った良い様にもかかわらず、俺は徐々に平静になっていった。いったい何と言えばいいのだろう、この状態を――。

「すべての元凶は――あんたでしょっ!? 何とか――何とか、言ってみなさいよっ! どうして何も――」

そう。

 体も精神も、両方ともすごく安らかで――もうそれが犯される危険もなくて、あとはもう、傷跡を少しずつ癒していけばいいだけで。そんな状態は、きっと……。

 きっと、とても救われている。

 黒い先輩の言葉を聞くたび、俺は救われていた。

 あと俺がすべきこと。それは、傷を癒すことだ。傷はただ、放置して治るにまかせるだけでは足りない。

傷跡に触れて、確かめて。それを受け入れなくては――。

「何も言わないから――こうやって、何も言えなくなっちゃうんでしょっ! そんな簡単なことも――分からないのっ!」

 

「もういいよ」

気付いたら、俺は彼女の脇に立っていた。

ほんの数秒前、いや、瞬きにも足りない程度の時間が経過する前――その時までは、俺は全身に大けがをしてベッドに横たわっていた。しかしそんなことなど、俺の体はもうすっかり忘れてしまっていた。

包帯も、寝巻きも、どこかに消え失せている。代わりに、俺はあの時の制服を身に着けていた。星崎と、そして黒い先輩や地流と共にいた時の、高校の制服だ。

「もういいよ」

黒い先輩と、地流とを。

その二人を、俺はそれぞれ右腕と左腕で抱いた。

単に触れるだけ、という抱き方ではない。

今にも二人を床から持ちあげてしまいそうなほど強く、力を込めて抱く。服ごしに伝わってくる二人の温もりは、二つとも温かすぎて、重なり合って一つになってしまいそうだった。

ああ、本当に温かい。

湯船にでもつかるように、俺は瞼を閉じた。

いつの間にか、黒い先輩もまた黙り込んでいる。

いや、それでもダメだ。まだ足りない。これだけでは、傷は癒えない。もっと、もっと温まらなければ。

そんな根っから前向きな気持ちのおかげで、俺は恥ずることもなく二人を抱き続けられた。

根気よく、根気よく、根気よく、根気よく――どこまでも、しつこいほどに抱き続ける。

やがて、黒い先輩が動く気配がした。かと思うと、先輩の腕が、俺の腹に触れる。地流の首を絞めるのを取りやめた、ということだろう。

俺は、二人に触れている顔を崩して微笑んだ。表情の変化を、肌に直接伝えるかのよう。

「サンキューな」

「橋木君……」

「橋木くん……」

黒い先輩と地流が、それぞれ答えた。

「二人の考えてたことを教えてくれて、サンキューな。いや、もう照れ隠しはやめにするわ」

俺は、勇気を出して顔を上げた。

黒い先輩と地流の顔も、それぞれ俺のすぐ隣にある。一方が他方を害しようとしていたにも関わらず、二人の表情は怒っても萎えてもいなかった。

ただ、不思議そうにしている。俺は、そんな二人に告げた。

「二人の気持ち、伝わった。教えてくれて、本当にありがとう」

こんなに素直にものを言うことは、ものすごく久しぶりだった。

(……案外、悪くないな。言いたいことを言うってのは)

いや、そこまで久しぶりでもないかもしれない。ほんの最近、それを思い出させてもらった。そうじゃないか?

「もういいんだよ。俺、もう忘れねえからさ」

俺は告げて、二人を見やった。

黒い先輩と地流は、悲しくなるほどまっすぐに笑っていた。俺の目を見つめて、そらさない。

答えるように、俺はゆっくりと頷いた。でも本当は、そうする必要すらもないほどだった――なぜなら、もう言葉で伝えたのだから。

「じゃあな――」

俺は、彼女に別れを告げた。

ところで、気付いたことがある。

(そういや俺、こいつの名前を呼んだことなかったな)

いつもいつも、俺は彼女を名字で呼び捨てていた。親しげに呼べるのは、もう今が最後だ。呼びたいように呼べばいい。

「じゃあな、(ゆう)

思い出させられた名前、そして、覚えていたとしても、呼ばなかったであろう名前。

 星崎(ほしざき)(ゆう)

 それが、彼女たちの名前だった。

 急速に、光も音も匂いも味も感触も、全てが暗く薄くなっていく。全てが世界から消えうせる。

この夢から目覚めたら、俺はいったい何をして過ごそうか。そして、誰と一緒にいようか――そんなことを、にやにやと笑って思いながら。

今まで、ずっとずっと閉じ続けていたまぶたを、俺はそっと開いた。


その言葉は、なんと読んだらいいのだろう。

一枚の楽譜と、その上に踊る音符や記号。ものすごく複雑、とまではいかないが、そう簡単には読むことも難しい。そんな音楽が、紙の上にある。

「相変わらず、すげえなあいつは」

俺は、思わず声の混じった息を吐きだしてしまった。

彼女には、本当に優れた力があったのだと思う。

「――すごかったんだな」

俺は、椅子から立ち上がった。

そろそろ、陽気が大気に満ちあふれてくる季節だ。部屋の中で、ずっと考え事をしているというのは、俺には出来ない相談だった。

扉を開け、家の外に出る。きっと散歩しながら考えれば、良い考えも浮かぶだろう。そう思った。

彼女が書いたという楽譜を、俺はもういちど懐から取り出した。

道の真ん中を歩き、湯気のような空気を吸いながら。その楽譜を見直す。

が、楽譜は楽譜でも、演奏そのものには関係ない部分というものがある。

そう、曲の題名だ。そこが、もう一つのよく読めない部分でもあった。

(なんなんだろうな、これ……)

アルファベットで書かれた題名――

『Duo somnia』。

良くわからない言葉、だ。じっと見つめて、目を細めていると、もう眠りに落ちてしまいそうなほど。そんな、クッションのように柔らかな言葉。

(ゆう)の遺した曲だ。。

邑は、何を思ってこういう曲を作ったのか。この曲には、邑のどんな気持ちがこもっているのだろう。そんなことに、俺は思いを巡らす。

(まぁ、ゆっくり考えればいいか)

桜並木の道、微風の流れる道――

そんな道を、俺はのんびりと散歩し続けることにした。

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