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正直な話、お前って夢そのものは嫌いじゃなかったよな。

 ――おい、勘違いするな。「いつか一波起こしてやるよ」「一発当ててやるよ」とかなんとか言って、ヒモ(・・)になりながら仕事もせずにぶらぶらしてる奴が言いそうな「将来の夢」のほうじゃねぇ。

 そうじゃなくて、寝てる時に見る「夢」のほうだ。

 まあ、目覚めた時に思わずニヤけるような、自分に都合のいい夢は誰でも一回は見たことあると思う。

 だけど、いつもいつでも、そんな良い夢だけを見られるとは限らない。気色悪かったり、不愉快だったり、嫌になったり、逃げ出したくなったり、そんな風な夢もある。内容がぼやけてよくわからん時もあれば、現実みたいにはっきりと、肌に直接触れてくる時もある。だろ?

 そんなのを見ちまったら、もう最悪だ。少なくともその日の朝だけは、もうほんとにやな気分になる。

 まあ、夢ってのはそういう風にきまぐれなわけ。どんな夢を見るかなんて、自分では決められねえ。

 で、何が言いたいかっていうと。

 案外、そんな適当な夢の中だからこそ、自分がいま考えてることに気付いたり、隠しごとに気付いたりもできるんだよな。経験者は語る。

 俺が言いたいのはそれだけ。

 そんな風にして、俺は自分自身に語りかけていた。慰めるように。

 それじゃあ――寝心地のいい布団よ、さらば。

また、会おう。

 

 目がねじれるんじゃないかと思うくらい慎重に、俺は辺りを観察していた。

 職員室、の前。

学校の廊下の中でもそこの廊下だけは、よく空気が通る開放的なベランダっぽくなっている。壁がないおかげで、中庭やら駐車場やらがよく見渡せた。だから、昼休みの時間なんかはそこにたむろって飯を食う奴も多い。

けど、まさか授業時間中に教室にいないで、そんなところでボケッとしてる馬鹿はそうそういない。この時間に職員室に近づくなんて、自分を注意してくれって言うようなもんじゃないか。

俺だって、長くとどまるつもりはない。下校する時の通り道として、仕方ないから通っているだけだ。出来る限り早く通り過ぎてしまいたい。

――右、左、右、と。

注意深い注視で、周囲に誰も、特に教師がいないことを確認した。そして、俺は柱の陰から飛び出した。そそくさと、職員室の前を過ぎる。

だけど、通り過ぎる前に、俺はなんだかおかしな奴を見かけた。

職員室の横のでかい掲示板。それにかじりつくように見入っている奴がいる。

ボブカットに揃えた髪のせいで、横顔はよく見えない。かなり痩せぎすな体型で、腕とか腹の部分の制服がへこんでいる。スカートから覗く太ももも、ぜんぜん太くない。あれじゃ痩せもも(・・・・)だ。見ようによっては、大腿骨のかたちがそのまま見えるような気がしなくもない。

そんなことを考えたら、なんだかその女の全身が骸骨のように見えてきた。

「んー……」

思わず唸る。

ピクリ、と女の背中が震えた。掲示板を見るために上を向いていた頭が、スッと下に落ちて、真正面に落ちる。どうも、俺の声が聞こえてしまったらしい。

そしてその女は、ぱっと俺のほうに振り向いた。スクリーンが開くように、髪が靡いて顔が見えた。

一瞬だけ、そいつと目が合う。

けっこう髪のボリュームがあって、真黒い髪の中に白い顔がぽつんと置かれている、といった感じだった。それは、骸骨には見えない。しかし、幽霊には見える。

(知らない奴か?)

同じ学年の人間なら、だいたい誰が誰だかわかる。顔を見なくても、背格好で判断できた。だけどそいつのことは知らない。じゃあ違う学年だろうか……。

顔の丸い輪郭から年下にも見えるが、俺の直感が違うと告げる。

そいつの怜悧に尖った目つきは、別に俺をにらんでいるわけじゃない。と思う。それでもなんだか、そいつがしようと思えばすぐ敵に転じてしまいそうな危うさがあった。

俺の失礼な考えが伝わったからか。そいつはなんだかいぶかしそうに、口をわずかに開きっぱなしで俺を見つめている。

動揺していないところを見ると、授業をサボってここにいるわけではないのだろうか?

(まぁ、下手に関わってもしょうがないか)

 ここでぼっとしていて、こちらが不審者に見られてもしゃくだ。

俺は、我ながら実に気のないやり方で片手を挙げる。

「よう」

その女は、一瞬ポカンとしていた。状況が理解できない、とばかりに。挨拶されることに慣れていないとでもいうみたいに。

あるいは、ただ不良に声をかけられたのだと思ったかもしれない。

とりあえず、そいつは会釈を返した。当たり障りないように、という意図が丸見えだ。じつに無難な挨拶だった。

 そしてそいつは、また掲示板の方に向き直った。掲示板をみることの方が大事だ、と言いたげに。

 よくわからない。

この女の姿かたちも、こんなところに立っているという状況も、なにか普通じゃない気がする。

 現実離れしている、とそんなことを思う。

――まあいいか。

 無気力ぶりを発揮しつつ、俺は鞄を抱えなおした。とにかく、さっさと帰ってしまおう。

 (何か、変な奴を見たな……)

 俺自身も、普通からはちょろっと外れた人種ではあるけども。それを差し引いても、あの女はどこか変だった。


 たまたま、俺の学校では吹奏楽部と合唱部という似たような部活が同時に存在している。前者は演奏して、後者は歌うという違いはあるが、音楽を扱う点では同じだ。活動内容が少し被っていると言ってもいい。

 中には熱心な奴もいて、歌うこともしたいし、演奏することもしたいという奴がいる。そのためか、二つの部の中はなかなか良好で、一方の部員が他方の部に出入りするなんてことも珍しくない。

 俺が目をつけたのは、まさにそこだった。

(はし)()。今日は、向こうか?」

合唱部の部長(といっても俺と同じニ年生だ)が俺に聞いた。

 「あぁ、そうだ」

 もちろん、嘘。 

「そうか。じゃ、吹奏楽部の部長にもよろしくな」

 「ああ」

 (ふぅ……)

 うちの学校は面倒臭いというか、無駄にお堅いルールみたいなものがある。

「生徒は必ずひとつ以上の部活に所属すること」というものだ。青春の希望(さすがに古臭い言い回しだ……)に燃えてる生徒だったら、部活くらい必ず入っているだろうから、別に問題ないかもしれない。

 このルールに悩まされるのは、主に帰宅部だ。面倒くさがりだったり、無気力だったりする奴が一番困る。何しろ、やりたくないことを無理にやらされるわけだから。

 かくいう俺も、そういう人種だ。

 で、やりたくもない部活動を避ける――そのためにいろいろ手はあるだろうけど、その中で俺の採ってる手法はなかなかのものだと思う。

 合唱部に顔を出して、「今日は吹奏楽部に行ってくる」。

 その次の日には吹奏楽部に顔を出して、「今日は合唱部に行ってくる」。

 という風に、交互に顔を出す部を変えながら、もう一方の部に行く旨を報告するわけだ。

それが終わった後にすることは何か? 当然、真面目に部活動をするわけだ。

帰宅部(・・・)という部活動の、れっきとした活動をな。

「じゃあ」

「ああ」

「ほんとに今日も忙しいな、早くあっちに行かないと」的な多忙オーラを演出したい。そのために、せかせかした生返事を俺は返した。

内心では、上手く抜け出せた当然の喜びを感じている。それのみ。

鞄を抱えなおし、俺は入って来たばかりの扉に再び手をかけた。

(ボロが出ていないわけじゃないだろうけどな)

当然、両方の部活に出てる人間が注意していれば、俺がどちらの部にもまともに行っていないということは分かるだろう。ぶっちゃけた話、両部の部長だとかはうすうす感づいているのだと思う。

だが実際は、部長から注意されたり釘をさされたりしたことは一度もない。彼らも俺のことなどいちいち構ってる暇はないはずだ。自分のすることや、部員の世話で忙しいだろうし。当たり前といえば当たり前だ。どう考えても、俺に構って得はない。まるで、外れ者のような俺に構っても。

そういうわけで、俺は状況にひとり納得し、そして満足した。外に出ようと、躊躇なく扉を開け――

「あ、ちょっと待って。橋木くん」

誰かが俺を呼び止める声がした。

だが断る――

話の内容を聞こうとせず、俺はそのまま出て行った。

発話者との間合いから考えて、その声を俺が聞こえなかったとしても、不自然ではない。

俺があまりに忙しかったので、ついそいつの声を聞き落としたのだ。そういうことにしておこう。

それに、なんだか言おうとしていた内容も、たぶん説教臭いものである気がした。ちょっと高音の、批難じみた雰囲気があったから。だったら、逃げたほうが得だろ。

いつもしている通りに廊下を渡り、階段に差し掛かる。

と、そこまで来たところで、いつも通りでないことが起きた。

靴の底を床にたたきつける、間断ない音。鈍い響きでなく、少ない靴底の面積で体重を支える鋭い音だ。

廊下を走ることはできないが、なるべく速く移動したい。そんな感じ。つまりは早歩きだ。

逃げ出す隙もなく、俺は黙ってそのまま歩くしかない。

追跡者は俺に追いつき――肩をバンと叩いた。

予想とは違う。

それは、怒って力任せにというよりは、ただ早歩きの勢いを殺そうと俺によりかかっただけのようだった。

別に、どっちだっていいけど。

「ちょ、ちょっと橋木くん、待ってって言ってるじゃない。人の話聞かないのはよくないわよ」

(今日は厄日か……)

俺は心の中でつぶやいた。そして、そのつぶやきとはまるきり違う返答を、口から外へ吐き出す。

「はぁ。急いでたもんで、聞こえませんでした」

「本当? ……なんだか無視したように見えたけど」

どうも、俺の思う通りには行かなかったらしい。世の中、ままならないものだな。

そんな感想を持つ。

「だいたい、「聞こえなかったみたいです」じゃなくて、「聞こえませんでした」って断定してるところから、嘘ついてることが丸わかりなんだけど。本当に聞こえなかったんじゃなくて、聞こえなかったことにしたわけでしょ?」

「……」

図星だった。なので、俺はさすがに何を言ったらよいか分からなくなる。

口ごもった一瞬を逃さず、彼女はさらに押してきた。

「ま、今回は許してあげる。んで、私あなたに用事があるんだけど、今度はよろしいかしら? 橋木くん」

わざともったいぶった言い方で、その合唱部の先輩が告げた。たしか彼女の名前は――。

(なんだっけ名前……ああ、そうだ?)

黒い空。

何故だか、そんな単語が真っ先に思い浮かんだ。

「なんすか、黒い先輩」

「わたしの名前は、黒岩(くろいわ)(そら)よ。”黒井(くろい)”じゃない。まったくもう……って、そんなことはどうでもいいの!」

いやいや、俺が思ってたのは”黒井”じゃなくて”黒い”。

それはともかくとして、黒い先輩は一気に語気を荒げた。

「あなたいつも吹奏楽部に寄るとか言ってたけど。……実際は寄ってないみたいじゃない! てっきりあっちで活動してるものだと思ってたけど。あっちの子に聞いてみたら、全然来てないとか言ってたわよ!?」

「そうすか……それは変だな」

「変だな、じゃない」

黒岩先輩は、スッと手を伸ばした。

何をするのかと思ったら、俺の頭を軽く叩いただけだった。衝撃が走るようなレベル、ではなかった。

「だめじゃない、ちゃんと活動しなきゃ。別に、休みたい時は普通に休むって言えばいいのにそれもしないで――」

うるさい先輩だな。

「そうすか」

短く単純な感想が俺を支配した。

「そうすか。で、それと黒岩先輩に何の関係があるんです? ほっといてくれればいいじゃないすか。俺のスケジュール管理を頼んだ覚えはありませんけど」

ぶすっとした表情を保ちつつ、俺はぐさぐさと言葉を突き立てた。我ながら物騒な物言いだとは思うが、しかし自重する気もない。

黒い先輩の顔は、身長的な意味で俺の目線よりも一回り高い所にあった。彼女の顔を避けず、俺は直截な答えを眼光と一緒にぶつける。

まるっきり不良だ。

普通、俺にこれだけ言われれば大抵の人間は黙るはず。が、黒い先輩はひるまなかった。いや、それどころか――

「どうせ、用事とかがあるわけでもないんでしょ? だったら四の五の言わず部活くらいしてきなさい、この若年寄(わかどしより)!」

俺の言い分を意に介さず、彼女は今度は、俺の背中をバンと叩いた。服を着ていなかったら紅葉マークが体に刻まれそうな勢いだった。

「おい、あんた……」

俺は拍子抜けした。これじゃ、まるで「のれんに腕押し」だ。こっちがわがままを言っている子供であるかのように思わされる。

でも別に、俺おかしいこと言ってないだろ実際。おかしいのはこの女。

ともかく、わずかな隙を逃さず、黒い先輩は俺の手をひっつかんだ。そして、幼稚園児に対するように、俺を引っ張って廊下を戻り始める。

(そうか)

興味がないので、詳しくは知らなかったが。たったいま実体験から納得できた。

(この人が”合唱部の女王蜘蛛”か……)

ありがちな二つ名を持った、世話好き過ぎる先輩の存在を、俺は知らなかった。

世話好きだから、女王。

そして、世話を焼く対象を決して逃さないから、蜘蛛なんだとか。

いままでこの人に捕まったことはなかったので、よく意識していなかった。しかし、いまは否応なしに知るほかない。彼女の頑固さを。

(ちきしょう)

ぎりり、と歯を噛む。が、抗議の意思は伝わらない。

「さぁ、せっかくだから一緒に合唱の練習でもしましょうか!」

面倒くさいから。

そうして、先輩に引きずられていくことに半ば諦念を抱いた時。

その時、廊下に微かな風がそよいだ。頬と首筋に、無数の鳥肌が走る。季節にふさわしくない――

(――いや)

ちょっと待て……いまの季節はなんだっけ?

どの季節にしても、確か廊下の窓は全部閉まっていた気がする。でも、きっとどこかで開いていたのだろう。そうでないとおかしい。

俺は、自分をそう納得させた。


昨日変なことがあったにもかかわらず、俺は今日も普通に登校することにした。なんだか不気味な気もしたが。

我ながら、自分の健気さが怖くなる。

冗談だ。

登校時も、昨日の下校時と同じような状態になるのが常だった。すなわち、職員室の前の幅広の廊下は、なるべく速く、そして気配を悟られずに通り過ぎるのが望ましいということだ。

何故かというと、俺は遅刻の常習犯でもあったから。職員室にいる教師に見つかれば、サボって授業を抜け出すのと変わらない咎を背負うことになる。

そんなヘマは、俺に限ってするはずがない。

はずがない……のだが。そのことを一時忘れて、俺は立ち止った。そして、職員室の扉付近を凝視した。

昨日見かけた、痩せぎすの女を再び目にする。

間違いない、昨日の女だ。あんな細い奴見たことないし、他の特徴も昨日とまったく同じ。なんなんだこの女。

と思っていたら、そいつは大変迷惑な行動に出る。

「って、オイ!」

職員室の扉を思いっきり開けやがった。そして、そこでちょっと待つ。何を待っているのか、想像はつく。

そして想像通りに、教師がひとり職員室から出てきた。

想像と違った点は――悪い方に違っていた点だが――その教師が俺のクラスの担任だったってこと。

ちょっと待て、俺が担任の教師にみつかるだろうが馬鹿野郎。野郎じゃねぇけど。

どうしてくれよう。

(というか、位置がやばい!)

職員室の扉と、俺の立つ壁沿い。それらの間には、俺が隠れられるような遮蔽物は全くと言っていいほどない。まさに、ここは荒野のウエスタンだ。

「おい、橋木! 橋木純也!」

あっさり教師に気付かれた。

「そこで何してるんだ? 授業はとっくに始まってるぞ。また遅刻か?!」

叱声が空気を震わせた。

(この……! クソ女)

思わぬ不幸を被った怒りを、その女にぶつける。具体的には、睨みつけた。

しかし女は素知らぬ体で、ぷいと顔を反らすばかりだった。


 「星崎邑(ほしざきゆう)といいます。趣味は……音楽です。よろしくお願いします」

 俺にとって疫病神となった痩せぎすの女は、教室の前に立って自己紹介した。

 (転校生か)

 昨日今日と、なぜあの女が授業に出ずに堂々としていたのかがやっと分かる。きっと学校の見学か何かをしていたのだ。

なんでもいいけど、他人を巻き込むの止めろよな。

 「うーん、で……橋木、おまえ星崎と知り合いみたいだな」

 教師がかったるそうに言った。

何か、とてつもなく嫌な予感がする。そして、星崎とかいう女も同じ気配を感じ取ったのか、露骨に顔をしかめた。顔をしかめたいのはこっちの方だよ。

 「ならちょうどいい。いろいろと分からんこともあるだろうから、相談に乗ってやってくれ。頼んだぞ」

 「ちょっと待って下さい、なんで俺が」

 「まあいいじゃないか橋木。別に、テストで高得点を取れとか難題を押し付けてるわけじゃない。簡単なことだろ」

 「そんなん言われても――」

 俺は抗議したが、教師はもうそれを聞き入れなかった。

 俺は頭に血が上りかけた。が、考え直す。

別に、教師に押しつけられた役目をさほど真面目にやらなければ済む話だ。あの女も別に俺のようなやつと知り合いになりたくはないだろうし。

 どうしても相談したいことがあるなら、向こうから言ってくるだろう。こちらから世話を焼くだなんて……考えられない。

 そして結局、星崎とかいう女とは言葉を交わすこともなかった。

今日も、一日が過ぎる。


 放課後になり、俺は昨日と同じくまた合唱部の部室にいた。

 昨日、黒い先輩に部活動をすることを強制されたわけだが。

 (女王蜘蛛ね……)

 実を言うと、俺が合唱部や吹奏楽部にいついた理由は、必ずしもサボりに便利だからではない。いや、なかったというべきか。

 まだ若かりし一年生の頃――つまりは、たった一年ほど前までならば、俺はまだ健全だった。具体的に言えば、そうだな……。

 「でも橋木くん、あなたなんでこんなになっちゃったのかしらねー。本当にもったいない」

 「大きなお世話です」

 「一年生のころは真面目にやってたのに。あーあ、残念だなぁー」

 黒い先輩は、その高身長に似合わぬ猫なで声を出す。耳にミミズが入ったように、俺は何かゾッとした。

 「あなたと同じ学年の部員は……だいたい7,8人くらいだったっけ? 今だから言うけど、私、最初からあなたには目をつけてたのよぉ~」

 今度は、皮膚の裏側を無数の虫が這いまわる感覚に襲われる。なんでもいいから早くここから離れたい。

 「……は?」

 「言った通りの意味」

 告げて、黒い先輩は手を伸ばした。中指の先が、俺のみぞおちに制服ごしに触れる。

 「去年の4月……新入部員のキミたちに、手始めにいろいろ歌わせてみたでしょ? で、肺活量とかそのへんで。あなた中々目立ってたわー?」

 俺がやっていた帰宅部的サボり法がバレてしまったために、いままでのようにおおっぴらにサボるのは困難になっていた。

用事がある、と言えば普通に返してもらえるが、そう毎日うまい用事を考え付けるほど俺は根気良くない。馬鹿で悪かったな。

 で、この黒い先輩とやらは、今回のことをきっかけに完全に俺に目を付けたらしかった。だからこうして、いろいろと絡んでくるのだろう。確かに、女王蜘蛛とか呼ばれるのも分かる。

 「どの辺が」

 「とりあえず、肺活量は最大の武器よー。でも、それだけでは意味がない。きちんと腹式呼吸と組み合わせれば自然と音圧が上がって、声を奇麗に伸ばすこともビブラートも自由自在に――」

 黒い先輩は悦に入った。

 「そういうわけで、まずはちゃんとした呼吸を身につけることね。普段から意識して、習慣にしてしまえば簡単。はい、練習」

 そして、今度は俺の腹の部分に手をあてた。腹式呼吸とやらの練習をさせるつもりのようだ。

 仕方なく、教えられた通りにやる。

 腹筋の膨張と収縮を繰り返す。黒い先輩の手を押し返し、できれば跳ね返せるようになるべく力強くやった。

 「ったく……」

「力が入り過ぎ。緊張でもしてるの?」

黒い先輩は目尻に微かなしわを寄せた。そして、俺の肩を軽くはたく

「力が入ると、肩が上にあがってどうしても胸式呼吸に近くなる。もっと力を抜いて。リラックス」 

何をどう教えられても、面倒くささが先に立つ。そのせいで、俺はなんだかボーッとしてきた。黒い先輩の声が遠くなり、自分の漠然とした意識だけが眼前に流れる。

「まだ体が硬い。ちゃんと力を抜く」

「いいわね。じゃ、次は呼吸のテンポを速く。できれば一瞬で。歌う時は呼吸の時間が少ないからね。腹筋を結構使うわよ」

「そうそう」

「うん、良い感じ――」

黒い先輩の声は、ほんの時折にだけ響いた。その指示には従うものの、それを履行すれば声はすぐに頭から抜けて行った。

やがて、日は傾いていく。

(しかし、よく考えたら)

やがて夕闇の訪れることを予感させるように、ほの紅い光と細長い影が音楽室に交錯した。

夕闇が終われば、その後に訪れるのは夜闇。

その微かな夜の気配に()てられたせいか、俺は半分眠りかけていた。多分、そのような感じだ。本当に眠っているわけではないはず。

しかし、どうしてこの黒い先輩は、こうも俺に絡んでくるのか。よく考えれば不思議だった。今とは正反対で、それなりのやる気があった一年前の俺でも、別に歌をうたうのがそう上手かったとは思わない。

肺活量が大きいと、黒い先輩は言っていた。

しかし、運動部に入っていたこともなく、さほど肺だとかが鍛えられている気もしない。本当に俺なんかの肺活量は大きいんだろうか?

不思議と―― 

完全に目が覚めている、その時にはなんとも思わないようなことが、こういう時にはやたら気になったり、神経質になったりする。半分眠って、夢を見ているような時には。

噛みあわない歯車が、機械の運動を許さないように。どこかひっかかるものがあって、俺はそれ以外のことを考えられなかった。

「はいっ」

風が吹いた。

いや、風というか誰かの息吹と言った方がいいような空気の流れが、目の前に起こった気がした。

「うん、よく頑張った。今日はこれくらいで終わりにしましょ」

黒い先輩の声が響き、俺は我に返った。ふと窓の外を見ると、もう空が真紅に染まっている。

「あ、あと一つだけあったんだ」

さすがの女王蜘蛛も、今回ばかりは苦笑いした。

 「これ、新しく出来た部員募集のポスターなんだけど。帰るついでに、職員室前の掲示板に貼っておいてくれない?」


 そして、俺は合唱部のポスターを持って職員室前まで来ていた。部の先輩に頼まれたのでは仕方ないが、とにかくとっととこいつを壁に貼りつけて帰ろう。

 「……あいつ?」

 そうしたいのはやまやまだったのだが……。少しばかり面倒なことになりそうだった。

 職員室の掲示板前に、ひとりポツリと立っている人物を見つける。俺は強烈な既視感に襲われた。

 (あの転校生、またあそこにいるのか。何やってるんだ、一体)

 昨日、今日と同じ場所で見かけた同じ人間を、見間違うはずもない。今日転校してきたばかりの、あの女生徒だ。名前は、確か星崎優とかいったか。

 別に嫌うまではいってない。でも、こいつに良い感情を抱いていると言えば、嘘になる。そりゃそうだ。

 星崎とかいう女は、昨日と同じく掲示板のポスターに見入っていた。突っ立って、顔をかすかに上げたまま、微動だにしない。

本当に、何がしたいんだよお前。

 ともかく、早く帰りたいという感情があったので、俺はそいつのことを気にしないと決めた。しかし掲示板、もとい星崎に近づくと、奴が一体なんのポスターを読んでいるのか見えてきた。

 なんと、俺の所属する音楽部のポスターだった。といっても載っている情報は古くて、俺がいままさに手に持っているポスターが最新版ということになる。どうしても、悪い冗談にしか思えない。たまたま俺が入ってる部活に興味があるだなんて、なにか悪い星の巡りあわせでもあるのか、と疑いたくなる。

 「マジかよ……入部希望者湧いてきた」

 つい、大きめの声を出してしまったらしい。

星崎は振り向いた。

昨日と同じく細身の体を、俺の視界に晒す。昨日と同じくとは言っても、一部には違うところもあった。

(笑っていた――のか?)

昨日も今朝も、こいつは周囲に厳しい表情をしていたので、もうこいつに良いイメージはまったく持っていない。だから、こいつが笑うことがあるなんて想像もしなかったのだ。

しかし、俺の偏見は裏切られた。骸骨であったはずの顔に浮かぶ紅潮した陽気が、すでに骸骨を骸骨ではなくしている。

 昨日今日の神経質そうな星崎優からはとても考えられない積極性を持って、彼女は言葉を発した。

 「あの、ちょっと聞きたいんだけど、いまの入部希望者って……?」

「いや、お前がポスター見てるもんだから、入部希望なのかと思っただけだけど」

「あ、あの」

星崎は目を伏せた。が、瞳はなんだか輝いている。そんなに合唱部に入りたいのだろうか。

「あなたは吹奏楽部なの?」

 「吹奏楽部? いや違う、俺は合唱部だ」

 掲示板を良く見ると、合唱部のポスターの隣に吹奏楽部のそれが貼られていた。転校生は、そちらのほうを読んでいたようだ。

 「あ、そうなんだ……実は私、吹奏楽部に入りたくて、どうやって入ったらいいのか、調べていたんだけど――」

 星崎は吹奏楽部のポスターの方を指した。

 「このポスター、去年のみたいで。載ってることが古くて、よくわからなかったの」

 「あー」

 見てみると、確かにポスターは去年のものだ。確か、部室の位置が去年と変わっていたはずなので、このポスターだけを見て吹奏楽部にたどり着くのは少し難しいだろう。

 (吹奏楽部仕事しろ)

 せっかくの新入部員を逃したらどうするつもりなんだ。俺に関係ないけど。

 「あいにくだけど、俺は合唱部のポスターを新しいのに張替に来ただけだ」

 「吹奏楽部の場所、あなた――」

 星崎はややためらったが、入部したいので仕方ないといった感じで、俺の名前を呼んだ。

 「――橋木、くん? 知らない?」

 「ああ、知ってる」

 知っていることを聞かれてわざと教えない、というのはいくらなんでも性格悪すぎる。なので、俺は彼女が差し出した生徒手帳に、吹奏楽部の場所の地図を書いた。いちおう、これで行けるはず。

 「これでどうだ?」

 「あ、ありがとう」

 「しかし……いちいちポスター確認するより、誰かに聞いた方が早かったんじゃないか?」

 「それは……」

 星崎は、またもや目を伏せた。転校生で、周囲の人間に話しかけにくいというのは分かるが、この古いポスターをあてにするよりははるかに良さそうなものだ。

 と、そこまで考えたところで。

(……というか、こいつの相談とかには乗ってやれ、と俺が言われていたんだっけかな)

ようするに、俺がこいつに邪険にしていなければ、こいつの手間は省けていたわけだ。

となると、ややばつが悪い。

「あーともかく、吹奏楽部と合唱部は結構仲良くて、俺吹奏楽部のことも多少は分かるから、ま、聞きたいことでもあればとりあえず俺に聞いとけ。うん」

俺は一息に言い終えた。形だけでも罪滅ぼししておけばいい。どうせ吹奏楽部にいけば友達の一人もできるだろうし、俺に関わることもないだろう。

俺の言うことを素直に受け取ったのか、星崎優はちょっと顔の筋肉を緩めた。そして、改めて自己紹介する。

「そうする。……私、星崎邑(ゆう)。これからよろしく」

どうでもいいけど、お前「(ゆう)」じゃなくて「(ゆう)」だったのかよ。


ここ最近の放課後は、先に合唱部に行って(そしてすぐ帰って)いた。そういうわけで、今日の放課後は先に吹奏楽部によることにした。あまり露骨にやらなければ、サボってもほとんど目立たない。

吹奏楽部の部員に声をかけたらすぐ帰ろう――いつも通りそう考えて、吹奏楽部の部室の扉を開いた。

そのはずだったが。

扉を開く前から奏でられていたピアノの音が、耳に直接伝わってくる。

(これは……)

一年の時までは、そこそこ音楽に興味のあった俺だ。ピアノの演奏を聴いて、それが良いのか悪いのか、どれくらいの良し悪しなのかということくらいは理解できる。

(これは、すごいな)

これほどの次元の演奏を、聞いたことがないというわけではない。

しかし、それは売り物になっているレコードだとかCDだとかで聞くようなものだ。子供で、しかも素人しかいない吹奏楽部の教室で聞けるなどとは、とても思えないレベルだ。

階段を転げ落ちるように慌ただしい旋律が、頭の中に無理やり侵入してくる。と思ったら、今度は控えめな音量と高低変化の、単調な響き。それらが巧みに、複雑な構成で組み合わさっていた。

(クラシックか? でも聞いたことない曲だ)

聞くのに夢中になっていて、俺が言葉を出すのを忘れてしまうほど。文字通りの絶唱だった。

扉をあけて挨拶もせずにいるというのに、何か言ってくる部員もいなかった。たぶん、この場の誰もが俺と同じで聞き入っているのだろう。もちろん、演奏者以外は。

ジャンッ、という締めの音が叩かれる。俺を含め、聞き入っていた部員達は、はっと意識を取り戻した。

オツムの調子を整える一瞬の間を置いて――

鼓膜の割れそうなほどに、部員達の拍手が大きく渦巻いた。教室中に満ちるそれに、俺は耳を塞いだ。間髪いれず、賞賛の言葉が横殴りの雨のように降り注ぐ。

「星崎さん、すごーいっ」

「す、すげー……」

「圧倒的だわ!」

「ねぇ、どこで演奏習ったの、星崎さん!?」

楽譜を折りたたんで、演奏者は立ちあがった。

「ううん……特に習ってない」

 褒められているというのに、あまり表情も変えない無愛想さ。可愛くない、ややハスキーな声。そして極めつけの、細すぎる体躯。

 (星崎邑……お前、何者だよ)

 「え、じゃあ独学でそこまで上手くなったんですか? すごいです!」

 一年坊が感極まったような声を出した。

 「あー」

 この唸り声は――もちろん、俺だ。

 「よう」

 片手を上げて挨拶した。それに答える暇もないように、部員の一人が興奮して話しかけてくる。

 「おお橋木、おまえ今のピアノ演奏聞いたか? 彼女転校生で今日見学にきたみたいなんだけど、すごいだろ!?」

 「ああ、聞いた。まあ、その、なんだ――」

 星崎は、俺の存在を悟ったのだろう。俺の視界の端に、顔をこちらに向ける彼女の姿が映る。

彼女は、何かちょっと怖い顔をしていた。

 「――かなりのものだったな」

 確かに、心からそう思う。あの演奏は凄すぎる。いちおう、褒めたつもりだったのだが。

それでもなぜか、星崎は相変わらず仏頂面のままだ。どういう性格してんだこいつ……。ともかく、俺は当初の目的を果たそうとした。

 「ああ、ところで今日は俺合唱部に」

 「あの、ちょっといい」

 俺の言葉を、星崎が遮った。いちいち邪魔スンナ……。

 「?どうしたの、星崎さん」

 「ごめんなさい、わたし今日用事があるのを思い出したの。帰る」

 何か、やたらと突き放したような言い方だ。突然のことに、部員達は泡を食う。そのようだったが、彼女は全く意に介さなかった。楽譜をしまい、ピアノに布をかけ、そして荷物をまとめってとっとと出て行ってしまった。

 (とことん、わけわからん奴だな……ったく)

 「たぶんあいつ合唱部も行ってみるんじゃねえかな。俺も今日は合唱部いくから。じゃあな」

 取り繕ってやるだけありがたいと思え、この人格崩壊者。

 部員達におざなりに手を振ってから、俺も教室を出る。そして、星崎邑を追いかけた。


「おい、待てよお前」

()しくも、また職員室前の廊下で。

俺は星崎と数十秒ぶりの再会を果たした。星崎は、細い体躯で昆虫のように素早く歩いていた。小走りといっても良いかもしれない。

俺が声をあげると、彼女は振り向いた。やましいことをしたつもりはないとでも言うように、口をツンととがらせている。中途半端な奴だ。

「……何?」

「せっかく俺が吹奏楽部の場所を教えてやったのに、なに即行で帰ってんだよ? なんか気に入らねえのか」

「ありがとう、教えてくれて」

星崎は素直に言った――と思ったら、そんなことはなかった。

「でも、それとこれとは関係ないでしょ」

「おい、お前なぁ……」

俺のつぶやきを無視して――無視されなかったとしても、後に続けて言うことを思いついていなかったので無意味なのだが――星崎はふつう女がしないような鋭い視線を床に向けた。

「教えてもらっておいて悪いけど。私があの吹奏楽部に入っても、多分意味がないんだと分かったの」

「なんで」

「だって」

きまり悪そうに、星崎は片手で髪を整えた。というか、そのふりをして腕で自分の顔を隠した。

「部員の人たちの演奏とか聞かせてもらったけど、私とは、レベル、が違いすぎる。あそこで一緒に練習したとしても、私には得るものがなさそうだったし。それに」

「それに?」

「……私が本当にやりたいのは、演奏というよりは作曲に近いから。楽器を実際に使えた方が、作曲に都合がいいの」

「作曲って……」

とにかく、こいつが俺とはレベルの違う人間だということは分かった。

俺は音楽をもう早々に中断してしまった。それにもっともらしい理由をつけることはできるが、実際は単に俺に力がなかったというだけのことだろう。

それに比べて、星崎はかなり主体的というか、行動的だ。

「……そうだったのか。なんか、かえってすまなかったな」

自分には出来ないことが、この女にはできている。嫉妬とかそんな感情もないではないが、むしろ別の感情が先に立った。

「いいえ、別に謝ってくれなくてもいい。私も」

くるり、と体を半分向こうに向けて、星崎は言葉を俺に残した。

「私も、同じことをされたら腹が立ったかもしれないから。それじゃあ」

正門へと続く道に、彼女は乗っかって歩いていく。彼女の歩みを妨げることは承知で、

「なぁ、ちょっと待てよ」

思わず、俺は彼女を呼び止めていた。

どうしてここまでするのだろう、俺は。

「まだ、何かあるの?」

「いや、その……もしよければ、でいいんだけどよ。俺、さっきお前の曲聞いたとき、やっぱすげえと思ったんだよ。部員の連中だって驚いてただろ?」

「? 何が言いたいの」

 「つまりさ、お前が演奏するのをもっと聞かせてほしいわけ。俺も多少音楽やってたし、アドバイスしようと思えばできるからさ」

 「あなたも、レベルの高い曲が弾けるの?」

 「いや、お前ほどでは……?」

 そういう次元の話ではなかったが、とりあえず無視する。

「でも聞かせてほしいと思ったんだよ。言っとくけど、俺いま頼んでるんだからな。な、頼むよ。毎日じゃなくてもいいし」

星崎の胡散臭そうな表情は、少しばかり別の物に転じた。

笑っていた――微かに。本当に笑っていいのか疑わしいとでもいうように、顔の緩みを殺そうとしているのもまた事実ではあったが。

たぶん、俺がよほど必死になっているように見えたのだろう。

「私の曲を? でも、なんで私なんかの」

「そりゃお前、さっきあれだけの超絶技巧を見せつけられたんだぜ。俺もそこそこ音楽やっているから――」

こいつは嘘だが、まあどうでもいいだろう。

「だから、ふつう興味を持って当然だろ? な、頼むよ。転校してきたばっかりでわからんこととかもあれば、俺が聞いてやるからさ」

「まあ、そこまで言うなら……」

星崎は、やむを得ないといった感じで承諾した。

さんざん骸骨とか幽霊だとか思っておいて、今更アレだが。彼女の笑みは、弾けるとまではいかないものの、それなりにサマになっていた

(ああ……悪くない、な?)

その時の星崎の顔だけは、とても昨日の彼女と同じとは思えない魅力があった。

不思議だ。

(俺、なにやっているんだろうな)

どうもお互いの自宅の場所は正反対らしかったので、校門を出てからは俺たちは別れて帰った。


何か、とてつもなく大きな、大きな吐息が自分の耳の近くを通って行くような気がした。

それでも俺は、意識を取り戻そうとはしなかった。

午前の授業が終わり、飯を食った後のとある昼休み。それはどの生徒にとっても、ちょうど眠たくなる時間だ。俺もそのご多分にもれず、机に突っ伏して目を閉じていた。

完全に眠ってはいないものの、ほとんど意識は夢の中にある。そんな状態だった。

思えば、あまりにリラックスしすぎていたのがいけなかったのかもしれない。

遠くのほうで何か聞こえているような気がしたが、俺は完全に無視していた。しかし、いつの間にか音源が接近してきており――。

「ほらほら少年、いつまでも寝てないで起きなさいよっ!!」

威勢のいい掛け声とともに、平手たぶんが無防備な俺の背中を思いっきり叩いた。

ばちいいいいいいいいいいいいいいいん。

(いって)ぇえええええええっ!!」

それなりに筋肉はついているつもりだし、そもそも制服を着ていたのだが。それも貫きとおすほどの衝撃が体に走る。アンタはいったい何拳の使い手だ。

「あら痛かった? ごめんなさい。でも何回も呼んでるのに起きないのが悪いのよー」

昼休みに寝ていて何が悪い。むちゃくちゃな理由を述べるのは、聞いた声だった。

振り向く。

やはり、知った顔。

「ちゃおー」

呑気に挨拶したのは、あの黒い先輩だった。

「……」

こんな風に扱われるのは、それなりの文脈があってのことだった。

やはり、合唱部から抜けだそうとして捕まった時に、サボり計画を全て吐かされたことが一番痛い。ようするに、弱みを握られたに近いのだから。最近は、そのせいで黒い先輩にいい舎弟のように使われることがままあった。

「いいかな、橋木くん? 古くて使えなくなった楽器運び出すんだけど、男手がたりなくてねー」

「はぁ」

部活関係以外のことでパシらされたことはないので、まあ、筋が通ってないとは言わない。


大きなトランペットやサクソン等、もう完全に使えなくった楽器たち。音楽室に積まれてある楽器を、業者が引き取れるよう校門まで運ぶだけの簡単なお仕事よ――彼女はそう言って、のらりくらりと指示を出した。

重いものなので、いちおう黒い先輩と二人で運んではいる。しかし、どうも俺の方に多く重さがかかるように持っているらしかった。

「いやー、悪かったわね橋木くん」

「だったら、たまには他の人に頼めばいいじゃないすか……」

楽器が満載された箱を二人で抱えつつ、階段を下る。運んでいる物の重量は相当なもので、持つ手が痺れるほどだ。実のところ、毒舌だとかを考えている余裕はない。

「うーん」

黒い先輩は首をかしげた。

「まあ、誰でもよかったと言えばよかったんだけどね。でも、橋木くんに頼みたかったんだし?」

「……俺に?」

「そーゆーこと」

黒い先輩は、好青年のようにあっけらかんと笑った。そこに、悪気は感じ取れない。最も、自分より年上の女の腹の内など、俺に推測しきれるとは思わないが。

「何でですか……今までサボってたからすか?」

「それもあるけどね。ま、無駄口叩く暇があるなら、キリキリ運んだ運んだ」

そういって彼女は俺をせきたてた。

「ああ、でも――」

言ったそばから、黒い先輩自信が自らの言葉を破った。

「少しばかり、頼み過ぎかな。迷惑かしら?」

こちらが断りにくいように、か。彼女はわざと横を向き、そして目線だけはこちらに固定していた。いわゆる流し眼というやつだ。

「あーあ、橋木くんは男らしくて頼りがいがあるから、ついつい頼っちゃうのよね。私ったらだめねー。ほんとにごめんなさい」

そしておまけのつもりか、ねっとりと笑ってみせる。

まだ学生のくせに、こんなイタい――というか、色仕掛けみたいなことをする女がいるとは。確かに、黒い先輩には蜘蛛の二つ名が似つかわしいのかもしれない。

「……」

思わず、息にならないため息が出た。黒い先輩は、それすらも敏感にキャッチしている。

「んー、どうしたの橋木くん? もう疲れちゃったの?」

「いや、別に……」

その時だった。

二人して話していたので、気付かなかったのだが。運悪く階段の天井部分が低くなっていた。「天井低し、注意」とか注意書きがあるのに、いつも当たり前にそこを通っているので、返って油断してしまっていたらしい。

 その貼りだした天井に、箱に乗った楽器群が思いっきり衝突した。早歩き程度のスピードで衝突したとはいえ、俺と黒い先輩の手から楽器を引き剥がしてしまうほどには強烈な衝撃だった。楽器は当然、先頭に立っていた俺ではなく、殿(しんがり)を務めていた黒い先輩の方に傾いていく。

 「え?」     

「危ねっ……」

 俺はとっさに、箱を横合いから思い切り叩いた。手にじんと痛みが走るが、四の五の言ってられない。手と箱が接触してからも、容赦せずそれを横の方にぐいと押しのける。楽器群は、箱に押されて進路を変えた。黒い先輩の頭上ではなく、脇の壁の方に雪崩を打つ。

 昼休みだからよかったものの。授業中であれば確実に近くの教室から苦情が出そうな大音響がほとばしった。

 楽器は床に散らばり、やがて静止した。今ので完全にとどめを刺されたに違いない。楽器たちの冥福を祈りたい。

 そして俺は、思わぬことに気付いた。

 「あ……橋木くん、ありがとう。いまの、本当危なかったわね」

 黒い先輩の声は、前からでなく、真下から聞こえた。真下を見ると、俺の顔のすぐ目の前に、黒い先輩の顔があった。そして、さらにすぐ下には床がある。

 どうやら、俺はバランスを崩して転び、黒い先輩を下敷きにしてしまったらしかった。顔に限らず、先輩の全身が俺の真下にある。要するに、俺が先輩を押し倒した形に近い。

 普通はなかなかないシチュエーションで、ちょっと勿体ない気もしたが。

「あはは。橋木くんはあたしより背小さいのね」

黒い先輩は、子供に対するように俺の頭に触れた。蜘蛛に狩られる虫を想像してしまい、俺はあわてて黒い先輩から身を放した。

「……すんません」

 「別にいいわよ。助けてくれようとしたんでしょ? 不可抗力、不可抗力。それにしても、今の見られなくてよかったわ」

 「そうっすね。学校でこんなことしてるのを見られたら、停学とかに……」

 黒い先輩は、策略家の顔をして笑った。

「え? 私が言ってるのは、楽器を床に落としちゃったことのほうだけど。フフ、顔赤いわよー、橋木くん」

「は、はぁ……」

俺は、照れ隠しに生返事をした。

とりあえず――

この先輩は着痩せするタイプらしかった。


あの後、何回か聞かせてもらったのだが。やはり、星崎邑の実力はかなりのものだった。

自分で書いたのだろう楽譜をいくつか持ちこんでいて、その中の一枚をピアノで弾いていた。

始めて聞いた時と同じ、渦のような旋律。それが、教室中を満たした。そして、余韻を残さない締めの音で、演奏は終わる。

力の入った演奏であったせいか、星崎はほぅと息を吐いた。

「いや、やっぱあんたすげぇよ」

俺はそれ以外、言う言葉を知らなかった。演奏も上手過ぎたし、曲そのものも荘厳で、俺はどこかのオーケストラの発表会でも見ていたような気持ちになった。

星崎も星崎で、ピアノを弾いたことで満ち足りたらしい。やや脱力して、足を投げ出している。加えて、食事を摂り終わったように、目をつぶって満足した表情。音楽が食事だとでもいうのか……ならば、星崎が痩せているのもうなずける。

「……本当に?」

「ああ、本当だ」

「……ちょうだい」

星崎がぼそぼそと呟いた。

「あ?」

「何かアドバイス、ちょうだいよ」

「俺がか!?」

はたして俺から星崎に教えることなどあるのだろうか。

「だって……そうじゃなきゃ、聞いてもらった意味がない」

「それはそうだろうが」 

俺は、少し考え込んだ。星崎の作曲や演奏はかなり完璧に見えたが、しかし何か瑕疵があるとすれば、それはどこだろう。

「そうだな」

相手よりはるかに技術が低くても、アドバイスくらいはできる。時には、素人からのアドバイスが役立つということも、音楽に限らずいろいろな分野でありうることだ。俺は、ぱっと思いついたことを星崎に伝えた。

同じようなメロディが繰り返されて、やや退屈なパートがあるだとか。音の高低差が激しすぎるパートがあるけど、鍵盤叩きにくくないか、とか。星崎は、それなりに納得して聞いていた。

「ちょっと聞いていいか? お前、独学でここまで上手くなったんだよな? そこまで熱意あるなら、なんでちゃんと習わなかったんだ?」

「それは――」

星崎はちょっとためらったが、観念したように告げる。

「――親が厳しくて、余計なことをしてる暇があるなら、勉強しろって」

「そうなのか。それだけ上手いんだから、認めてもらえそうなもんだけどな……。でもよ、ちゃんと習うのが無理でも、俺より音楽やってる奴だってこの学校にも、転校前の学校にもいただろうし、そいつらに頼んでアドバイスとかもらえばいいんじゃねえか? わざわざ俺じゃなくても。いや、まあ俺は聞きたいんだけど」

 「それは――」

 星崎はまた黙りこんだ。

 (それは、なんだよ)

 俺は星崎がしゃべり始めるのを根気強く待った。もちろん、話し始めるのをいちおう期待していたわけだが、しかし彼女の反応は俺の予想を超えた。

 「――ごめんなさい。私、今日はもう帰らないと」

 早口で言うと、星崎は素早く荷物をまとめあげた。

 「お、おい待てよ」

 「さようなら」

 鞄とコートを小脇に抱え、星崎はそそくさと音楽室から出て行った。扉をしめる激しい音と、廊下を去ってゆく控えめな音は、数瞬でフェードアウトした。俺は、なんともいえない気分のままに、しばらく音楽室に立ち尽くしていた。

 「なんだあいつ?」

 

 (最近は……なんだかな。偶然か?)

 真夜中。

 寝れば今にも夢を見そうなほど、深い闇が地上を覆う。俺はそれでも、眠れないままに、自室の布団の上に横になっていた。面倒なので、学生服を着たままだ。

 どうも、最近は調子の狂うことが多い気がする。

 一年の時に音楽をやめてから、事もなく、しかし怠惰な日々を俺は送っていた。

 しかし、星崎や黒い先輩と関わり始めてから、妙に他人に気を回すことが多い。まるで、まともな学生みたいに。

 逆に考えると、根気のなさから音楽を止めてしまった後の生活は、いったい何をして過ごしてきたのだろう。することなどなかった、というのが真実かもしれない。

 今の生活は面倒だが、しかし充実しているとも言える。

 俺が充実……ねえ。

 どうも現実離れしていて、例えるならば、うたた寝して短いが濃い夢を見ているような感覚だった。本当は夢でないわけだが、しかし星崎や黒い先輩という何か特殊な性格な人間に立て続けに出会うことは、そう多くない。珍しい体験だ。

 その反動か、なんだかいろいろと面倒くさくなってきた。

 「ま、寝るかな」

 ついに、電気も落とす。

闇に委ねられた自室の中で。

俺の吐息は、何か巨大な生き物の息吹のように、部屋中に渦巻いた。規模にもかかわらず、その風には攻撃的なところはない。

東以外のところから吹く風は、それぞれの土地のことを旅人に知らせる――とかなんとか、そんなことを聞いたことがある。伝説とか大層なものではなく、説話に民話、そういうたぐいの話の中に出てきた覚えがあった。そういうものを連想させる、大きく穏やかな風。

すきま風か何かだろう、きっと……。


 星崎が俺の質問から逃げ出したあの日から、数日の間。

 俺は、同じような問いを星崎にかけるのを極力避けていた。俺以外に、星崎にアドバイスできる人間ぐらいいくらでもいるだろう、という問いだ。実のところ、聞かなくても、答えの想像はつく。星崎の突き放したような性格では……確かに友達も出来にくいだろう。

それでも、あれだけ作曲と演奏の技術があるのだ。同じ趣味の人間なんかとは、かなり友達になりやすいと思うが。事実はどうなのか。

「うーん」

ったく。

俺は星崎の保父さんじゃあない。

なのに、なんでこんなに星崎の心配(なのか?)をしなきゃならないんだか。学食で売っている「クレイジーマスタードサンド」の殺人的な(から)さも相まって、俺は神妙な表情にならざるを得なかった。

微かに涙を浮かべながらその辛さに耐えていると。俺が見つめていた床の一点に、中身の入った靴が一足、カツと音を立てて置かれた。

「あの」

すでに耳に馴染んだ声。噂をすれば、というが……。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

見上げるとやはり、星崎邑がそこにいた。なんの姿勢をとるわけでもなく、単に直立して、顔だけこちらに傾けている。

ちょっと変だなと思ったのは、 なんだかいつものクールさがないな、ということだった。妙にそわそわしている気がする。俺以外の生徒が見ても気づかないような、微かな異変だと思う。

俺も直感的に、星崎が何を言いたいのか悟った。

きっと、今俺が考えていたこと――俺自信がそうかは別として、彼女には友達の一人もいないらしい、ということ。かなりデリケートな話題だ。何も、こんなに生徒がいっぱいいる昼休みの教室でなくてもいいだろ。

 そう悟ると、俺はすぐに立ちあがっていた。さっきまでしていた沈思黙考のせいか、俺は哲学的というか、世俗から超越したというか、要するに説教臭くなっていた。さして、そのことを自分でも問題と思わなくなっていたのが問題だ。

 「分かった。しかしここじゃあれだから、少し場所を移すぞ。ついてこい」

 「……へ?」

 星崎はすっとぼけた声を出した。が、それに構わず、俺は星崎を引きずって廊下に出た。やがて、ゴミ箱を置くためだけに設けてある、廊下の袋小路まで星崎を連れてきた。

 星崎は相変わらずもじもじそわそわしているが、とりあえず仕方ない。

 「ねぇ、一体なんなの。私――」

 「分かってる。俺以外に、お前にアドバイスとかするような奴がいないって話だろ?」

 「!?」

 星崎は絶句した。しかし、辛くてもそれが事実だ。事実には真摯に向き合わなくてはならない。逃げることはなんの解決にもならない――とか、夢見がちな哲学者が言いそうなことを俺は演説していた。

 「――というわけでだ。何か困っているなら、やっぱそれを解決しようとしなきゃならんと思うわけで」

 「……」

星崎の絶句は、いつのまにか完全な沈黙へと変わる。何故だか、嵐の前のなんとやら、という言葉が思い浮かんだ……。

「分かってもらえるか?」

「分かったわよ……そんなこと、とっくに分かってるわよ!」

星崎は、突如激昂した。苦痛に歪むと同時に――馬鹿を相手にして疲れたとでも言うような苦悶の表情が浮かんでいる。少し崇高な気分になっていた俺は、突然その雰囲気から引きずりおろされた。

「あなた以外に、しゃべる人も、何か聞いたり出来る人も、この学校にいない! 認めればいいんでしょ!? 認めるから――」

大きい吸気とともに、彼女が肺が膨らむのが胸ごしに分かる。刹那、星崎は言い放った。

 「さっさと、保健室の場所を教えてッ!」

 「え……?」

 どうやら、俺はとんでもない思い違いをしていたようだ――。

 そう気付いたのは、校内図を受け取り、俺の頬を平手で思い切りはたいてから、彼女がすごい速さで廊下を駆けていった後だった。


 「いや……さっきはいろいろすまんかった」

 今回は、俺も何の言い訳もしようがなくて。いつも通りの放課後の音楽室で、俺は彼女に頭を下げていた。

 「まさかそういうことだとは……」

 「分かったから、もうその話は止めて」

 星崎も星崎で、やはりクールな奴だった。放課後になってから一発で謝って後、もう星崎は感情を昂らせたりはしなかった。怒ってはいたかもしれないが。

 星崎のそういうサッパリしたところを利用して、俺は話を別のところに持っていった。

 「で、こっちの話はしてもいいのか」

「……」

 しぶしぶという体で、星崎は首肯した。

「じゃあ聞くが。お前、俺以外に話すやつもロクにいないのか?」

何かをこらえるように、星崎は唾を飲み込んだようだった。そして、気丈に俺を見返す。

「……まあね」

「なんでだよ。何も俺みたいなやつが唯一の――あー、友達、でなくてもいいだろ。話すのが苦手だとしても、お前音楽の才能あんだから、ちょっと良い子にしてりゃすぐ人に慕われるだろーが。違うか?」

「普通の生徒に演奏聞かせても、私が得るものは何もない、って言ったでしょ」

「友達になってもらえるってことが、”得るもの”じゃないのか?」

「音楽の技術を磨く上で、得るものがないってことよ」

「それは俺も同じじゃねーか。俺は去年から楽器に触れてすらいないんだぜ? 大したアドバイスはできないし、実際できてないぞ――」

(しまった!)

俺はその時、自分を叱責した。勢いに任せて、つい自分でついていた嘘をばらしてしまったのだ。自分が、まるで音楽が得意であるかのように偽っていた、そういう嘘を。

「えっ、楽器に触ってないって……あなたそんな程度だったの!?」

「え、ああいや、あれは言葉の綾というか――」

「何なのよ一体……呆れた」

「ま、まあそりゃいいじゃないか、とりあえず置いとこうぜ」

俺は、強引に話しの流れを元に戻した。

「でだな。お前の音楽はかなりすごいから、聞かせてもらうことは俺にとっては刺激になるし、俺には都合が良いんだけどよ。だけど、それとは別に、もっとお前にとって都合の良い奴なんていくらでもいるだろ」

「うん……」

星崎は顔をそむけた。と思うと、彼女は俺から離れ、ピアノの方に近づく。

「……」

彼女の出した、弱弱しい返事がすごく意外で。俺は、声をかけづらくなった。別に、悪いことをしたつもりはない。ないが、しかし俺はとりあえず黙っていた。

カバーの布を取り払い、椅子を引き。

星崎はピアノを弾く姿勢をとった。姿勢はとったが――実際に弾くことまではせず、楽譜をみつめたまま黙り込む。まるで、自分の味方に頼ろうとして、しかし自分一人でやらなければいけないと悟って戻ってきた感じだった。

二人で黙り込んでいる間に、四季が一巡したような気がした。

やがて星崎は、ポツリと口を開く。

「だって、担任の先生が」

「は?」

「担任の先生が、相談したいことがあったら、橋木くんに言えって、言っていたじゃない」

瞬間、おれはちょっとしたショックを受けた。

「星崎、お前……」

本当に星崎は、人と接点を持つ勇気がないのだ――俺は、そう気付いた。

だから、社交辞令に近いような教師の言葉、後ろ盾としてはあまりに弱すぎる言葉に、すがらざるを得なかったのだと。

俺が言葉を失っていると、今度は星崎が先に口を開いた。

「あなたに、言っていいの?」

「何を?」

「私が考えていること、あなたに言って意味があるの?」

「お前、人がせっかく――」

俺は少しかちんときて、星崎に起こりかけた。が、星崎はいそいで首を振り、否定する。そして、俺を静止させた。ひたすらに、舌を動かし続ける。

「私のことを、あなたに言っても大丈夫なの? あなたは、私のことを一緒に考えてくれるつもりなの?」

強い照明に照らされたように、そしてその光源が俺であるかのように、星崎は手をかざした。

それは、拒絶と取れなくもない。

「あなたは、私の友達でいる勇気があるの?」

何なんだ、この言い回しは。まるで、星崎と関わると俺が不幸になるみたいな言い方じゃないか。そこまで卑屈にならなくてもいいだろうに……。

 とはいえ遠慮する気もなく――俺は星崎の手をとり、そして払いのける。俺と星崎の間の、遮蔽物が失われた。

 「ああ、別にそのくらいいくらでもなってやる。だから少し落ち着け……誰もお前を馬鹿にしないから」

 「あ……」

 星崎はようやく顔を上げる。そして微かに、ほんの微かにだが、相好を崩した。

 「そうよね……ごめんなさい、私」

 多分、愛想笑いをしようとしたのだろう。

が、普段笑うことに慣れていないためか、星崎の表情は体のどこかが痒いのを耐えているような表情だった。

 「お前、上手く笑えないのか……?」

 と言った瞬間、俺はまずいと思った。思いついたことをそのまま口にしてしまったのだが、あまり今の星崎に聞かせるべきではないだろう。

 が、予想に反して星崎は特に怒りはしなかった。

 「そう見える?」

 「あ、ああ……正直言うと」

 「そう」

 短く答える。そのまま、また黙りこんでしまいそうに思えた。が、彼女は小さな声で続ける。

 「私の父親、裁判官なの。だからすごく転勤が多くて……同じ学校にずっといることがほとんどなくて、それで」

 「それで、ゆっくり友達を作る機会もなかったってことか」

 星崎は無言でうなずいた。

 「なるほどな、まぁよくありそうなことじゃないか。そのくらい、なんとでもなるだろ?」

 「そうかな……?」

 「ああ、そうだ。お前が無理でも――」

 自分が何を言おうとしているのか、自分でもはっきり分からなかった。それでも、俺は夢中になって答えていた。

ただ、星崎のためだけを考えている。自分のことはどうでもよかった。

 「お前が無理でも、俺がなんとかするから……」

 

 その夜――

 そう、確かに時間は夜だった。とっくに陽は落ちて、月だけが空にある。そのはずなのに、俺は昼間の世界を見ていた。

 (……夢、か?)

 そうとしか思えない浮遊感が、体を覆う。

 しかし、俺が見ている世界は、やけにリアルだ。

どういうことかと言えば、視界を占めているのは、俺の通う学校の校舎。あの職員室の前の廊下がある。その廊下の天井に貼りついて、下を眺めているような視点だった。

 (うん、夢だな)

 これは夢だ、と認識できる夢というのはたまにあるらしい。きっと、俺が見ているのはそういう夢なのだろう。

 ふと、職員室の扉まで歩いてくる学生が目に入った。女生徒だ。

 (本当に高校生か……?)

 高いところから見下ろす形なので、顔の造形はよくわからない。しかし、遠目でも一発でそれとわかる特徴がある。

 (髪が白い?)

 なんかの事情で脱色でもしたのだろうか。その生徒の髪は、雪のように真っ白い。生物の教科書に載っていた、皮膚が真っ白に変化してしまった生き物のようだ。

 やがて、職員室から教師が出てくる。

 女生徒はそれに一礼し、何か言った。そいつは俺と隔たっていたので、声も聞こえそうになかったのだが。それでも、なぜか声は聞こえてくる。

 「シロミチルです。よろしくお願いします」

 そして、そいつは教師に一礼した。シロミチル、という名前。

 教師と一緒に職員室に入って行き、そいつは俺の視界から消え失せた――

 と思った刹那。

 「なっ!?」

そのシロミチルの顔、それが突然俺の目の前に現れた。お化け屋敷で、突然生首が天井から降ってくるような、予想さえしない襲撃。

 やはり小学生にしか見えない顔だ。しかし、彼女の表情は、幼い小学生が持つことのないような、狂おしいまでの悲しみに覆われていた。ずっと涙をこらえようとし続けたために、もう泣く力を失ってしまったような――。

 「橋木くん……」

 「はっ、はぁ?」

 我ながら情けない、素っ頓狂な唸りがのどから飛び出した。

 その俺の声を塞ぐように、シロミチルは顔をぐいと俺に近付けた。そして、幼いなりに柔らかそうな唇を、俺の唇に押しつけた。

 「ぐ!?」

 俺はまだ、他人とキスをしたことなどない。そのはずなのに、やけに彼女の感触は人間的で温かだった。

 懐深く接近してくるような、数秒の密着の後。顔を離してから、彼女はまた俺に告げた。

 「お別れを言いに来ました。私のことは、もう忘れてください」

 こちらが身を切られそうなほど悲しげな彼女の言葉は、彼女の顔と共に――砂嵐のような強風によって、一瞬で掻き消された。腕や足がもぎ取られそうな強風は、彼女だけでなく、俺にも襲いかかる。

 「うあああああああああああああっ!!」

 ……………………。

 暗転。

その後に、光が俺の目を刺激する。蛍光灯の光だ――。

 自分の叫びで、俺は目を覚ましていた。

 「夢、だぁな。そらそうだよな……」

さすがに、安堵のため息を止められない。確かに、そうとう迫真に迫った夢だった。俺の顔には汗がびっしょりと浮かんでいる。加えて、布団もはねのけてぐしゃぐしゃにしていた。

しかし、朝から景気の悪い夢だ。さっさと寝床から離れよう。でないと、またあの夢が襲ってくるような気がした。


教室に入ると――。

いつも通りの生徒の群れ、その中で俺の目にだけは目立つやつがいた。

転校してきた時に空いていたのが教室の後ろの席だったため、その一番目立たない席に座っている。

(星崎……あいつ)

星崎は、自分の机に何か紙を並べて、それと睨めっこしていた。おおかた、楽譜だろう。それも既存の曲ではなく、自分で書いている曲のはずだ。ともかく、それに夢中になっていて、周囲に注意を払う様子がない。

「チッ。そんなんだから友達できねえんだろーが」

思わず舌打ちした後、俺は星崎のところまで近づいた。

「よう、星崎」

何気ない風に、俺は声をかける。だが、彼女は身じろぎもせず、楽譜を見つめていた。というより、楽譜を書いていた。作曲しているのだろう。

「よう星崎」

再度、声をかける。だが、まだ星崎に反応はなかった。

「おい、いい加減にしろよ星崎!」

声量を高めつつ、俺は星崎の頭を軽くはたく。さすがに気がついたようで、星崎は細めていた目をぱっと見開いた。

「あっ……」

「あ、じゃねーよ」

「ごめんなさい、私気がつかなくて……あの、橋木くん」

「何だ?」

星崎は、耳まで真っ赤になっていた。よほどあがり症なのだろうか。

「その……おはよう」

「ああ」

どうも、それで精一杯ということらしい。星崎は、人見知りの幼女のように机に向き直った。そして、楽譜にペンを走らせる。全くこいつは……。

しかし、とりあえずはこれでいい。”友達”なら、最低限の挨拶は基本だろう。俺は満足して席に戻った。ちなみに俺の席というのは、星崎の世話係として星崎の隣に設定されている。

(さて……問題は今後だな)

俺は、チラリと星崎のほうを見た。細い体のどこにこんな集中力が宿っているのか、不思議に思うほど、星崎は一心不乱に作業をしている。照れくささを隠すためにわざとそんな態度をとっているのか、あるいはそんな可愛い奴でもないのか。ちょっと区別をつけかねる。どちらにしろ、そういう態度がクラスの奴と友達になることを妨げているのは確かだった。

 (どうやってこいつに友達を作らせるか、だよな)

 はっきりいって、前途多難だろう。昨日の星崎の深刻さからも、それが分かる。

 最初に思いつくのは、やはり星崎の得意な音楽をきっかけに星崎に興味を持ってもらい、そこから友達になる、という筋書きだ。しかし、それができるなら星崎はとっくにやっているだろう。誰かの手助けがいる、のかもしれない。

 (やるしかねえか)

 「俺が何とかしてやる」と、言ったこと――それ自体は後悔していない。けれど、実際にやるとなると、なかなか一筋縄ではいかなそうだ。

 と、そこまで考えた時。

 「ちょっとちょっと、橋木くん」

 「あ?」

クラスの女子数人が、俺を手招きしている。普段、特に話すわけでもない連中だ。

(なんだ……?)

よくわからないが、とりあえず俺は席を立った。

廊下まで行くと、そいつらはまず教室のドアを念入りにぴったりと閉めた。そして、俺に話しかける。その女子達は全員、何か好物でも発見したかのように愉快そうにしていた。

「ねぇねぇ橋木くん、転校生の――星崎さん、だっけ? あの子と仲直りしたの?」

「はぁ?」

わけが分からなかった。

「ほら、昨日よ。橋木くん、廊下で星崎さんと喧嘩してたでしょ?」

「そうそう。星崎さんが途中で怒って、橋木くんを平手打ちしちゃったとかなんとか聞いたよ~?」

おい、それを思い出させるんじゃねぇ。せっかく一生忘れていようと誓ったところを……。

とにかく、それはそれとして。なんでこいつらはこんなに嬉しそうなんだろう。こいつらには関係ないはずなんだが。

普段なら、こういうおせっかいというか、首を突っ込みたがりの奴はあまり相手したくない。しかし、どうもこいつらは星崎に興味があるようだ。それなら、相手をしない手はない。あわよくば、星崎と知り合いくらいにはなってくれるだろう。

「仲直り、ねえ……まぁしたぞ。うん」

「それで? それで? 今朝のやりとり見てたけどさーん、やっぱ橋木くんと星崎さんって……彼女転校してきたばっかりなのに、もう両想いだったりするの?」

一人の女子がほくそ笑むと、そいつらは申し合わせたように黄色い声を出した。

『きゃあぁぁぁぁぁ!!』

「な?! ちょ、待て……俺たちはそういうんじゃ」

あわてて女子達を遮る。そして俺は、昨日からの顛末を根掘り葉掘り聞かれる前に、あえて自分から話すことにした。

一部は話さないが、他はなるたけ正直に話す。星崎は転校続きであまり友達を作ることに慣れていないこと、ひょんなことから俺が星崎の面倒を見ることになったこと、そして星崎のことを少し気にしてやってほしい、ということなど。

「へぇー、そうなんだ……」

女子達の反応は微妙だった。誰も明言することは避け、そして視線を俺からそらす。

確かに、にわかに承諾しがたいことを頼んだ自覚はあった。こればかりはしかたない。とりあえず、同級生たちに地道に声をかけていくしかないだろう。

というわけで、互いの用は済んだので、俺は教室に戻った。

その日俺が見た限りでは、星崎が同級生と親しく会話することは、けっきょく一度もなかった。


あの女子達の意味のわからない勘違いのように、俺と星崎とは恋人でもなんでもない。

……だから、別に四六時中いっしょにいる必要もないし、俺もそこまでしたくはない。

今日は、普通に合唱部のほうに顔を出したのだが。

何故か、今日は部室がざわざわしている。俺はいつもだらだら部室に向かうので、俺がつくころには部員はとっくに練習を始めているのが常だ。しかし、今日はそうでもない。

俺は、手頃な部員に声をかけた。

「なぁ、今日なんかあったのか?」

「いや実は今日、一年に転校生が来て、吹奏楽部のほうに入ったらしいんだけどさ。なんかその子がめちゃくちゃ可愛いんだって」

「めちゃくちゃ、ねぇ……」

「橋木も興味あるだろ!?」

「ああ、まぁな」

適当に返事して、俺はさらに部室を見まわした。

黒い先輩は――どうやらいないらしい。

(よっしゃ! どうやら今日は無事に帰れそうだな)

「じゃ、俺は今日吹奏楽部のほうに寄るから、よろしくな」

「おい橋木、おまえ転校生の娘見に行くつもりなんだろ~?」

「ん、まあそれもあるけどな ……じゃあな」

お茶を濁して、俺は入って来たばかりの部室の扉を開いた。そのまま順調に真の部活動――すなわち、帰宅部の活動を始める。

そのつもりだったのだが。

突然の来客が、それを妨げた。

「失礼しまーす。あの、わたし吹奏楽部ですけど」

 合唱部に入ってこようとしたそいつと、俺は不運にも正面衝突した。

 「ひぁっ」

 悲鳴を上げて後ろに倒れ、そいつは床に尻もちをついた。相手の体が軽かったためか俺はそこまで衝撃を受けなかった。中腰になっただけで転ばずに済む。

 「あぁすまん、前を良く見てなかった」

 そいつを助け起こそうと、俺を手を伸ばし――そして、見た。

 (こいつ……)

 視界の中に、やたら目立つ発光物が映じている。それは髪だった。何かの病気を疑いたくなるほど、真っ白い髪。それがポニーテールの形にまとめられて、彼女の体の上に落ちていた。

 (まさか、昨日の夢の!?)

 真偽を確かめようと急く心を抑えつつ、俺はそいつの手をつかんだ。相手が立ち上がろうとする自力をサポートする形で、そいつを助け起こす。

 彼女は顔を上げると、俺に満面の笑みを向けて礼を行った。

 「あの、ありがとうございますーっ!」

 「う、嘘だろおい……」

 俺は、物理的な衝撃ではなく、精神的な衝撃で腰をぬかすかと思った。

 いま俺が助け起こした女――そいつがなんと、昨日の夢にでてきた女にそっくりなのだ。真っ白い髪に、小学生並みに幼い顔と体つき。夢の中であれほど間近に見た顔を忘れようもない。この女は絶対に、俺の夢に出てきた女だ。オカルト的なことが起こっているとしか考えられない。

 「え、どうかしましたか?」

 「い、いや、なんでもねぇ」

 「そうですかー?」

 そして、小学生だか高校生だか分からないその女は、部室の中に入って来た。そして、ぴっと背筋を伸ばす。これまた子供のように甲高い声で、そいつは何か告げた。

 「わたし、吹奏楽部の部員です! うちの部長が、合唱部の部長さんに用があるとかで、それで――」

 そいつの言葉は、言い終わる前に歓声にかき消された。

 「おい見ろよあの子、一年の転校生ってあの子だよ!」

 「うお、まじスッゲ……髪真っ白もなんかスゲー」

 「ほんとアイドルみたいだ……」

 などという男子達の声。このロリコンどもめ。それに加えて、

 「キャー、可愛いーっ!」

 「すごい、小学生みたーい!」

 と女子達の声も、狭い部室に鳴り響いた。

そして女子部員らは、一人が行動しだすと全員が堰を切ったように移動し始める。転校生らしき女子に、みなで殺到していった。

 転校生の女子は、容赦なく女子部員たちに囲まれる。まるでパンダの子供が動物園にやってきたかのような騒乱だ。 

「ねぇねぇ君、一年の転校生の子よね?」

 「ぅ、ふぁい……そう、れす」

 頬をぷにぷにと触られているため、彼女の言葉は幼児語のようになる。

 「それで、名前は名前は?」

 「は、はい。わたしは――」

 俺は、思わず息をのんだ。夢の中の少女とそっくりなこいつの名前が、既に俺の知っているものだとしたら。もはや偶然とは言えなくなる。緊張しながら耳をそばだてていると、彼女の答えが聞こえた。

 「わたしは、シロミチルと言います」

 「へー、ミチルちゃんね?」

 「い、いいえ。姓は城を見ると書いて城見、名のほうは大地が流れると書いて地流、です」

 彼女の自己紹介を聞いて――俺は、顔から血の気が引くのを感じた。この転校生は、昨日俺の夢に出てきたシロミチルと、おそらく同じ人物なのだ。話し方とか雰囲気だけは、ずいぶん違うようだが。

 「城見(しろみ)地流(ちる)、だと……」

 でも、一体なぜ。どうして俺の夢の中の妄想にすぎない女が、次の日に現実に表れるのか。まったく訳が分からない。せいぜい考えられるのは、俺が城見を事前に知っていて、昨日夢に見たという線くらいだ。

 (いや、そんな訳ねぇ。俺がこいつを見たのは、多分初めてだ。覚えがねえし。第一、知っていたとしても、夢を見たその次の日に転校してくるなんてできすぎてる)

 今まで考えていた星崎のことも、一時頭の中から吹っ飛んでしまった。

 ではひょっとして、あの城見とかいう女に、俺が見る夢を操作されたのか?

 (いや、そんなこと出来るはずねぇ。いったい、何がどうなってやがるんだ……)

 その疑念も冷めやらぬままに、俺は部室に立ち尽くした。他の生徒たちは、みな城見にかかりきりになっているため。幸い疑念にに浸る時間はある。

 と思ったのだが。

 おしくらまんじゅう押されて泣くな状態の部室に、部員たちの喧騒を掻き消す大きな一声が上がった。

 「こらっ! みんな何やってるの!? ちゃんと練習しなさいってば。まったくもー」

 聞く人を否応なく従いたくさせるような、自信に満ちた声。俺は、音源の方に目を向けた。

 その人は、やはりと言うべきか、黒い先輩だった。

 俺に対してはかなり理不尽な黒い先輩だが、結構部員の信頼は厚い。三年生のOGということもあるが、それ以上に性格面が大きかった。面倒見が良いし、言わなければならないことはズバズバ言う性格だから、かえって信頼されるのだろう。そういうわけで、部員たちはみなおとなしく黒い先輩に従った。

 「ねぇ、今日はどうしたのよ、みんなー?」

 黒い先輩は、近くの男子に聞いた。

「あの、合唱部に入った転校生の子が用事で来て、それで――」

そして説明を聞き、黒い先輩はうんと頷いた。

「はっはーん……なるほどね」

黒い先輩は、女子部員達の群れを見た。そして、その中心にいる城見を発見したようだった。

 「ほら、その子も困ってるでしょう? 離してあげなさいって」

 ニッコリと笑いながら、黒い先輩は言う。と、女子部員たちは申し訳なさそうに、そして名残惜しそうに城見から離れた。

 それを見届け、黒い先輩は城見に近寄る。

 「こんにちは。あなたが転校生の――名前は確か、城見さんよね?」

 「はい、そうですっ!」

 城見は元気に返事した。

 「部長に用なら、私が聞けるわ。一緒に行きましょう」

 「分かりました」

 「ふーん」

 黒い先輩は、細い顎に白い指を添えた。そして、品定めするように城見を眺める。

 「やっぱ、流石なものねー」

 「は、はぁ」

 転校生の前評判をあらかじめ知っていたのか、黒い先輩は城見を褒めた。

 城見は、おとなしく黒い先輩に従った。二人して部室を出ていく。

 「みんなはちゃんと練習しとくのよー!」

黒い先輩は振り返り、部室中を見回しながら言った。そして、先輩は目ざとく俺を見つけたらしい。俺と目を合わせながら、ニヤリ、と笑う。

多分、今日もちゃんと活動していけ、という意味なのだろう。俺は、気付かないふりをして目線をあらぬところに飛ばした。

 黒い先輩は、ほくそ笑んで教室から出ていった。か、どうかは知らないが、ともかく教室から出ていく足音がする。

 やがて、部室の喧騒は次第に消えていき、演奏を練習する静かな音だけが響くようになっていった。が、俺の心のざわめきだけは、しばらくの間消えずにのこった。

 (城見地流……お前、何者だ?)

 

 そして、真夜中。

 俺の名前は、橋木純也だ。高校二年生の、外れ者の男子。それは分かっている。分かっているのだが……。

俺は、今は別の人間になっていた。いや、別の人間の視点になっていた、というべきか。そう、当然これは夢だ。夢に違いない。

俺は、あの(・・・・・)城見地流に(・・・・・)なって(・・・)いた(・・)。

「げぇ……」

視点の高さは、俺が小学生の時と似ている。身長が低くなっているからだろう。そして視点だけなく、意識もまたいつもとは異なる。

橋木純也としての意識は押しのけられ、代わりに城見地流としての意識が優越していく。なんなんだこれは。以前、城見地流が出てきた夢もそうだが……夢なんざくそくらえ。自分が女子に変わっていくのは、たまらなく気持ち悪い。だが、変化を止めることができなかった。

一瞬の意識の途絶。そして。

俺――


――ううん、わたし。

この学校に転校してきて、わたしはとりあえず、何か部活に入ろうと思った。

最初、わたしは本当は吹奏楽部にはいった。だけど、すぐに合唱部にも出入りするようになったの。二つの部活は、とても仲がいいみたい。だから、部員のみなさんの交流もさかんなんだって。

その部活の時も、そして一年生としてクラスにいる時も。私は転校生だから、なるべくおとなしくしていた。だって、あたらしく来たわたしがいきなり目立つのって、ちょっとむつかしいでしょ? わたしは、そういうつもりだったの。

でも、目立たないわけにはいかなかった。

自分で言うのも恥ずかしいんだけど――わたしはよく、周りの人から「かわいいね」とか、「妖精みたいだね」とか、言われる。うー、言った! 恥ずかしいな……。

でも、それはわたしの髪のせいもあると思う。というのも、わたしの髪は、雪みたいに真っ白なのだ。なんでそうなったんだろう。最初に髪の毛が生えた時から、ずっと真っ白だったと聞いたことがある。私にも、誰にも原因は分からない。

周りの人とは違う、そして世界のどこにもあまりない、真っ白い髪。みんなと違う体の特徴を、わたしは嫌うことも多かった。

でも、最近はこれもなかなかいいと思ってるの。この髪のおかげで、みんなに興味を持ってもらえて。それをきっかけにして、知り合いや友達になれるのなら、うれしいから。

ありがとう、わたしの髪。

おかげで、クラスの皆とも、部活の人たちとも、すぐに仲良くなることができた。本当にうれしい。部活では、とくに黒岩先輩という人にとてもよくしてもらっている。黒岩先輩は三年生で、本当はもう部活を止めている。けれど、時々部活に顔を出しているんだって。

先輩は、とても良い人だ。そして、とっても奇麗な人。わたしなんかが全然敵わないくらい、素敵な人。わたしが心から尊敬できる人――。


「がああああああああああああああっ!!」

魂を震わす怒張のこもった寝言が、俺の眠りと部屋の静寂を粉々に砕き散らした。下手すると、両親の寝部屋にまで声が届いただろう。

俺は俺の意識を取り戻し、ついでに夢からも覚める。真っ暗な部屋の布団の上で、俺は興奮したせいか腰から上を持ちあげていた。布団の上に座る形だ。

「なんなんだ、今のは……城見地流とかいう奴が、また夢に出てきやがった」

昨日見た城見地流が印象に残ったから、彼女の夢を見た。それだけなら、理解できる。

しかし、俺はこの夢以前にもあの女の夢を見ているのだ。今日の彼女は、あの時の彼女とはどこか雰囲気が違うようだったが。いずれにせよ、こうして連続で、現実に存在している人間の夢を見るというのは、明らかに何かおかしい。

(おかしいぞこれ。……でも、まあ待て。何がどうなってんのか、落ち着いて考えるぞ)

俺の不得手な分野ではあったが、しかしなるべく平静になり頭を回転させる。

やはり――。

少なくとも、俺と城見地流は以前から知り合いだった、というのが事実だと思わざるを得ない。

そして、何か虫の知らせみたいなもので、彼女と再び合うことを予見した。そうとしか考えられないのだ。

(また、明日も同じような夢を見る。かもしれねぇな……)

毎晩毎晩、夢の中で女に生まれ変われというのか。それは、あまりに酷過ぎる。我ながら不気味だ。

そんな懸念が俺の脳裏をいっぱいに占めていたが。眠気には勝てず、俺は再び眠りに就いた。


訳の分からない夢は置いておいても、俺にはもう一つ悩みのタネがある。

自分で友達の一人も作れない、星崎邑のことだ。俺もあまりおせっかいなほうではないが、あの女だけはなぜだか放っておけなかった。

そんなわけで、どうにか奴を人の輪の中に入れてやらないといけない。いや、入れてやりたかった。それに、「俺が何とかする」と大言壮語をした以上、もはや退けない。

そのために、引っ込み思案(そんな可愛いものじゃない気がする)なあの女には、一体何をやらせればいいのだろう。

ここ数日、そうして考えてきた。俺はお世辞にも頭が良いと言われたことはない。それでも、一日中考えることを続けたことが、ある程度効果があったらしい。ある時になって、突然アイディアが閃光のように訪れた。

そのアイディアとは。

(原点回帰、か)

俺は、自分の思いつきの堅固さを確かめるように、手に握っていたジュースのパックを握りつぶした。

(星崎は……たぶん教室にいるな。よし)

そして俺は、今まで寝ころんでいた中庭の芝生から起き上がった。教室まで早歩きし、道を急ぐ。これでいけるんじゃないか。俺は胸を熱くした。


俺の考え付いた計画は、早速実行に移された。

(どうだ、星崎。いけるか?)

ピアノを弾き譜面を読みこんでいる星崎に、俺はこっそりと話しかけた。

(うん。このくらいの曲なら……弾くだけなら、たぶんすぐ弾けると思う)

星崎の答えに、俺はほくそ笑んだ。


吹奏楽部は毎年、県の音楽コンクールに参加する――正確に言えば、参加しようとする。本大会以前に予選があるのだが、ここの吹奏楽部はそれに落ちまくっているらしい。本大会に出場したのは、もう十年以上前だとか。

そこに、星崎が付け入る隙があるというわけだ。

星崎は音楽が得意なのだから、それをきっかけに友人を作ればよい、という基本方針は変わらない。星崎はただ単に他人に聞かせるだけでは自分にメリットがない、ということで、それは拒絶していた。この点をどうにかしたい。

そこで、音楽コンクールに参加するチームに星崎を加える、ということを考えたわけだ。コンクールに参加しようとするなら、そのメンバーは真剣に練習するだろうし、お互いにアドバイスくらいもするだろう。星崎の技術を向上させることもできるはずだ。加えて、多分練習するうちに話し相手くらいいくらも出来るはず。今は、このことを吹奏楽部に交渉している最中だ。

「完璧すぎる計画だな……」

自分の頭の良さに、自分で戦慄を覚える。いつもは頭を使わないのに、いきなり使ったのだ。慣れないことをしたせいか、俺はかなりの疲労感と虚脱感を感じていた。まるで、体の一部が欠けてしまったようだ。……馬鹿で悪かったな。

(ま、それはともかく、星崎が――)

「星崎さん、弾けそう?」

吹奏楽部の部長が、星崎に尋ねた。星崎は、ぼそっとした呟きで返す。

「はい。一応は」

すると、ざわめきが燎原の火のように、瞬く間に広がった。初見の曲を、ちょっと数分見ただけで弾けるとのたまったのだ。それなりに驚かれて当然だった。

「それじゃ。弾きます」

「あ、ああ、弾いてみて」

星崎は背筋をピシッと伸ばし、手を鍵盤に添えた。そして、音楽を奏で出す。

「……」

以前まで聞いていたクラシックとは違う、高校生らしく健康的な曲だ。しかし、部活動の枠内で学生が弾きこなそうと思ったら、数か月はたっぷりかかるだろう。しばらく音楽に触れていない俺にも、その程度は分かる。

そのくらいには難しい曲を、星崎はミスするそぶりも見せず弾き続けた。俺も、吹奏楽部員たちも、何か女神に魅入られでもしたかのように、ただ聞き、受領し続ける。口を半開きにして聞き入る奴すらいた。

そしてほどなく、演奏が終わる。

誰が指揮を執るでもなく――

割れるような拍手が、部員たちの間に沸き起こった。一つの瑕疵も見当たらない、完全な演奏に対しては、当然の反応だった。

「すごい、すごいよ星崎さん! これだったら十分コンクールの出場を……いや、それどころかコンクール優勝だって狙えるレベルだ!」

部長は興奮したように叫んだ。

「ありがとう、ございます」

星崎は淡々と礼を言った。

しかし、もう少し女子らしくできないもんかね。ちょっと愛想笑いするとか、言葉尻を上げるだとか。星崎がそんなことをしてるのを、とても想像できないのが恐ろしいところだった。俺の灰色の脳細胞を使っても、奴のそんな姿、「想定」すらできない。

いや、俺がしたくないだけかもしれないが。

それはともかく。無愛想な星崎をコンクールに参加させるには、ここからが肝心なところだ。俺は、機を見て部長に言った

「それで、部長」

「ん?」

何か重要な会話が始まりそうな雰囲気が、部室を静まりかえらせる。

「頼みなんだけどな。星崎の奴コンクールに参加させてもらいたがってるんだよ。これだけ上手かったらこの部にもメリットだと思うんだが……どうだ部長?」

「ああ橋木、もちろん彼女が参加してくれるなら大歓迎だよ! みんなそうだろ?」

よそ者を受け入れることに不満を持っている奴も、ひょっとしたらいたかもしれない。しかし、これだけの技量の差を見せつけられれば、出す言葉もなかっただろう。

「じゃあ星崎さん、そういうことでいいのかい?」

「……」

星崎は、何か難しい顔をして押し黙っている。ったく、どこまでも世話の焼ける奴だ。

(おい星崎、黙ってるなよ! 「はい」って言え!)

(でも、私はどうせ――)

(いいから言え! これを逃したらチャンスはないぞ!)

優れたアイディアを出すために再び頭をひねるのは、控えめに行ってもごめんだった。ぶっちゃけて言えば――死んでも嫌だ。

(後のことは俺が何とかする。だからとりあえず答えとけ! 俺を信じろ)

俺は必死に星崎を突っつきまわした。星崎は何か、言いたいことがあるようだったが。それでも、ついに答えた。

「……はい。参加、したいです」

刹那。部員達は、もう一度手を叩き始めた。歓迎の拍手だ。

これだけ大勢に認められる、ということに慣れていなかったのだろう。星崎は、キツネにつままれたような、間抜けな顔をした。

「じゃあ、決まりだ。よろしく、星崎さん」

部長が手を差し出し、星崎と握手する。星崎は、少し困った顔をしていたが、しかし笑ってもいた。こいつが笑うのは、あまり見たことがない。どうやら、俺の試みは成功に終わったらしかった。

肩の力が、スッと抜ける。

(ふぅ……ったく、世話の焼ける奴だぜ)


空が真紅に染まる頃。

俺たちは吹奏楽部の部室を後にした。星崎と二人で、校舎から出る。

「――言っただろ。俺が何とかするってよ」

「うん」

星崎は鞄を両手で前に抱え直した。

「これで知り合いもできるし、音楽の練習にもなる。何も文句ないだろ?」

「うん。文句はないわ……その、橋木くん」

星崎はなんだかあらたまって姿勢を正した。

「ありがとう。わたしに、いろいろしてくれて」

「え?――」

意外なことに。星崎は、ニッコリと笑っていた。いつもの仏頂面からは想像できないほど、暖かい表情。

(いつもこういう風なら可愛いんだけどな……)

どうせ、明日からはまた元に戻ってしまいそうな気がした。というのも、星崎にはまだどこか固さが残っていたからだ。きっと、無理して笑っているのだろう。あまり笑うのに慣れていないとか言ってたしな。

「橋木くん?」

「ん? ああいや、なんでもねぇ……」

微笑みながら、星崎は顔を縦に振った。

「そう」

校門を出て、俺たちの帰り道が分かれるまであとわずか。ほんの数メートル。今日も、何事もなく別れを交わして、帰る。はず。

そう思っていたが。

「……できれば」

日記帳にでも(つづ)るかのように、彼女は呟く。

「あ?」

「できれば、橋木くんのしてくれたことを……無駄にしたくないと、思ってる、から」

今度は顔を上げずに、星崎は言う。

無駄にしたくない、ね。確かに、星崎はこれまで人付き合いに慣れていなかったのだ。せっかくいろいろととりなしてやったのだから、なるべくこのままいってほしいところだ。

「ああ、そうだな。そうしてくれよ」

星崎は黙って頷いた。

「じゃあ明日な」

「うん。また」

言って星崎は、小走りで俺から離れていった。

 

風が心地よく首筋をくすぐって――。 

「あーはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」

 わたしは思わず高笑いをあげた!

 だってねー。いやいや、まいっちゃう参っちゃう。ほんとわたしの魅力にかかれば、この学校の生徒もほんとちょろいもんだった。女の子はちやほやしてくるし、男の子のほうはもう言うまでもなくアッシー君になってくれるしね。

 なんと言っても、わたしは可愛いですから♪

 いーい、もう一回言うよ? 事実だから仕方なく(・・・・・・・・・)言うけど、わたしはものすごく(・・・・・)可愛いの。ボールのようにくりんくりんでまん丸な(ひとみ)。母性本能を駆り立てる小柄でキュートな体。そして、雪原のように真っ白い髪。

 よく「妖精みたいだね」って言われる。ホントのことだからしょーがないよねー♪

 大笑いしたくなるのも当然なのだ。そのくらい気分いいんだもの。そういうことで、わたし――城見地流は、下校途中にある高台の公園で悦に入っていた。

 丘の下に広がる町の景色も、気分良く眺められる。

 「ふふん。ま、わたしの可愛らしさにかかれば、このくらい当然よねー」

 他人を自分に依存させるって、とても気分いい。もう地流ちゃんなしでは生きられない! ってなっちゃえば、何でも言うこと聞いてくれるしすごい便利だもん。

 クラスの同級生とか同じ部活の人とか、それに先生もね♪

 「ふひひひひ」

 笑いの余韻が口をついて出る。どんな笑い方をしようとも、気分が良いものは良い。

わたしは、ベンチにどっか(・・・)と腰を下ろした。そうして、ニコニコ(ニヤニヤ)しながらわたしの戦果を思い起こして堪能しようと思った。

でも、一つ笑えないことがある。わたしは、それを思い出したのだ。今日入ったばかりの部活で。

部室に入ったまではよかった。いつも通り、周りの人からはちやほやされたしね。問題はそのあと。

「ああぁぁぁぁぁぁっ―― 」

毒のように染み出る怒りに、わたしは体を任せた。そしたら、なんか出ちゃったよ。てへ♪

「――もう、なんなのあの女! ムカつく~!!」

名前なんて覚えていなかった。

「あいつ、わたしを邪魔してー!!」

わたしは、歯をぎしぎし言わせながら拳をかためる。

あの女というのは、部活の先輩のことだ。もちろん今日が初対面。私と知り合う人はみんなわたしの虜になってもらわなきゃ困るのに……あの女だけは違った。


あいつの名前――そう、思い出した。「黒岩(くろいわ)(そら)」。そんな名前だったはず。その女は、表面上は私に優しかった。表面だけ見れば普通の、親切な先輩。

でも、私にはわかる。

他のどの先輩とも違って、あの女だけは私を良く思っていない。わたしとそばにいるときの姿勢、わたしを見る目線、わたしの言葉を聞く態度――そのどれもが、わたしにとって毒だ。

あの女だけは私の本性を見抜いている。

それは分かっていた。他の人には、嫌われる要素などない。わたしが上手くやっている限りは。あの女だけが別なのだ。

ともかく、わたしのことを嫌う人間は要らない。必要ない。どこにもいれなくしてやる。

「うふふふふ」

笑いは、声の伴わないものへと転じていく。その笑いはわたしの気道の中で、深海魚のように(ひそ)かなうごめきを見せた。

「ふふ……」

心配は要らないね。でも、わたしは用心深い。やっぱり、何かはしておかないと。

(何をすればいいかな)

あの女の力をそぐには?

わたしはあの女のことを良く知っていた。

もちろん、転校して初対面だったのは事実だけど……それでも、あの女のことを知っている。

ずぅっと前から。

あの女を再起不能にするために、できること。一番手っ取り早いことは――

本能にすりこまれた答えを、わたしは導き出した。

――あの女の好きな人を、奪い取ってしまうこと。

それが、あの女の存在理由を消し去ることにつながる。

「う~ん。未来は明るいぞっ!」

幸先がいいな。なのでわたしは嬉しくなって、ベンチから立ち上がった。

両手を頭上で交差する。そしてう~んと伸びをした。

ふぅ、と息をついて腕を下ろしたとき。

突然のことだ。周りのどこからでもないところから(前とか後とか右とか左とか上とか下とか、どこから来たとか分からなくて、そうとしかいいようがなかった)、鼓膜を突き破るようなクラクションの音が投げられた。

「あ?」

わたし。


いや違う。

わたし、じゃない。

俺、だ。

クラクションの音、クラクションの音。

どうしてそんなものが、いきなり? 俺は目を開けた。

それは、大きな車だったに違いない。いったい、俺の何十倍の重さをそれは持っているのだろう。眼力のなさと、恐怖とで、測ることもできない。

そんな巨大な質量を持った化け物だ。

いつのまにこんなことになったのか知れないが。

その車が、俺に向けて突っ込んできていた――


何か、とても大きなことを忘れてしまったような。足を失って、大地にくずおれていくような――

そんな虚脱感が、体にある。眠気だろうか? 幸い、今日は学校が休みだ。いっそ寝なおしてしまおうか。

なんでそんな感覚になっていたのか。思えば、虫の知らせだったのかもしれない。

ぷるるる、という乾いた電子音が眠い頭を覚ました。

「携帯……?」

俺は首をかしげた。

「誰だいったい」

体を引きずって、携帯のところまで近づく。

「? 知らない番号だな」

アドレス帳に入っていない番号ということは、まったく通話したことない相手からの電話ということになる。誰からの電話なのか、思いつく相手はいなかった。

「しかし俺は起きてたからいいものの、休みのこんな朝早くに電話してくるなんて非常識な奴だな」

俺がこの場にいることを確信しているかのように、電話は鳴り続ける。無視を決め込みたかったが、そうもいかないだろう。

通話ボタンを押し、俺は言った。

「しょうがねぇ――はいもしもし」

『あの、橋木くんですか?』

「その声は」

機械ごしに、ややくぐもった感じはあったが。

「星崎か!?」

『ええ、うん。おはよう』

「はやすぎだろ」

――沈黙。

(会話が続かねぇな)

星崎は黙ってしまった。何の用かと問いただすこともできるが、俺はあえて適当な話しを振った。

「なんで俺の番号知ってんだ、お前?」

『え? ええと、部長さんに聞いたの。いけなかった?』

「いや、別に」

変なところで積極的な奴だった。携帯で話すくらいなら、普段もっと話せばいいだろうに。

俺はいらいらして、バリバリと頭を掻いた。

「で、こんな朝っぱらから何の用だ」

『それが……』

星崎は、例のごとく口ごもった。こいつは、言いたいことをビシバシ言うこともあるのだが、さて……。

「なんだよ早く言え」

『ええ、うん。あの、今日吹奏楽部の練習があるんだけど――』

こいつはコンクールに参加するので、その練習があるのだろう。いちおう大会だとかに出ることを目指しているそうだから、休みの日に練習があるというのも分かる。

「そうか。せっかく俺が一肌脱いでやったんだから、頑張れよ。じゃあな」

「い、いや、ちょっと待って」

「なんだよ」

だんだん面倒になってきたが、聞かないわけにはいかなかった。

「その練習だけど、よかったら、橋木くんも来て欲しい」

「は!?」

俺は絶句した。

何か困ったことでもあったのかと思ったのだが、そういうわけではなさそうだ。そして面倒くさそうでもある。

「どうして俺が行かなきゃならねえんだ。意味がないだろ、俺が行ったって」

俺はいつも、吹奏楽部の活動をフけてばかりいるのだ。なぜ今さら行く必要がある? 来られても部員の方が迷惑なのではないか。

「でも、私を助けてくれるって言ったじゃない」

「だから、俺が行ってなんの助けになるんだよ?」

星崎は、一瞬考え込むように黙ったが、またすぐに言葉を続けた。

「別に、何をしてっていうことじゃないけど……」

「じゃあ、何なんだ」

「とにかく、いてくれるだけでいいから」

おい。

「俺はお前の召使じゃないんだぞ。その辺分かってるか?」

「……それは分かってる。だから、お願い」

「あのなぁ……」

理不尽な要求ならいくらでも無視してやるつもりだったが、こうきちんと頼まれると、俺は弱かった。特に、こいつに頼まれるときは特にそうだ。

(なんでこんな奴と知り合いになっちまったかねぇ)

ふぅ、とため息をついた後、俺は星崎に返事をする。

「分かったよ。じゃあどこ行きゃいいんだ――」

 

 というわけで、星崎や吹奏楽部の面々と一緒に、俺は学校の前に来ていた。 

 学校と言っても、俺たちが通っているいつもの学校ではない。他校だ。わざわざ十数分の間、バスに揺られた上での到達。

 どうやら、その学校の吹奏楽部と交流も兼ねて演奏会だとかをやるらしい。”交流”という言葉なんか、もう聞くからに面倒くさそうな雰囲気を醸し出している。もう聞いただけで湿疹があできそうだ。まったく暇な奴らが多い。

 その面倒くさそうなことにわざわざついていく俺も、結局は暇をこいているというわけなのだが。

 その学校の体育館に入り、俺は星崎の隣に座っていた。というか、向こうから俺に近づいてきた。

そりゃ、星崎が来いと言ったのだ。ここでも無愛想だったらさすがに怒る。

 「つきあわせてしまってごめんなさい」

 「謝るくらいなら最初から誘うなって」

 俺は毒づいた。

 「……じゃあ、謝ったのは撤回する」

 「いちいち言わなくていいから、そんなこと」

 「そう」

 肯定して、しかし星崎は目をそらした。クールさも、ここまで来ると何か信念を感じる。

 そうしている間に、他校の生徒たちが演奏を始めた。体育館のステージに、部員達が所せましと並んでいる。

 レベルは低くない。しかし、星崎の演奏に比べたうえでなら、格段に低かった。もちろん、星崎ひとりの力でこっちの演奏力がそこまで上がるというわけではないが。

 「ちょっと聞いていいか」

 「何?」

 「お前、なんで俺を呼んだんだ」

 星崎は答えない。

「もう、部員の連中とは話くらいできるんだろ?」

「それは……まあ、そうかな」

「じゃあなんでだよ。他の理由があるんだろうな」

理由もなしにお()りをさせられるというのは、有り体に言って嫌だった。

だが、星崎は沈黙を守る。体育座りをしたまま、唇を結んで、自分が演奏するのだろう楽譜を小脇に抱えて。

「聞いてほしかったから」

「あ?」

「……私の演奏を聞いてほしかったから」

石のように表情を固めたまま。しかし、星崎の態度は悪くなかった。いやむしろ……。

「ったく、最初からそう素直でいれば好かれるのにな」

「そうなの?」

「ああ、多分な」

星崎は、コクリと頷いた。

「じゃあ、そろそろ行ってくるから」

「ん? ああ。あっちの演奏は終わったのか」

ちょうど、ステージから部員たちがぞろぞろと降りているところだった。

「よし行って来い。お前の力を見せてやれ」

「そうする」

星崎は再び、さっきよりはいくぶん力強く首を縦に振った。部員達とともに立ち上がり、颯爽とステージに向けて歩いていく。

「ううむ……やっぱりもっと愛想よくするか、いっそ完璧に黙っていればな……」

星崎のスマートな姿を見るにつけ、やはり俺はそう思った。

結局、星崎の演奏はやはり群を抜いていて、それで士気があがったようだ。あちらの演奏をはるかに凌駕するレベルの演奏を、こちらは行うことができた。結果は上々と言えるだろう。あちらの吹奏楽部は、やはり度肝を抜かれている様子だ。無理もない。

まあ実際、そんなことはどうでもよくて、俺が観察していたのは主に星崎のほうだ。

いままでは、たとえ演奏している時でもどこか固かったような気がする。

でも、今日の星崎は違った。

確かに真剣さは伺える。だがしかし、そうして真剣に弾く一方で、いまにも声を出して笑い出しそうに、口の端を上げてニコニコとしている彼女がいた。こちらまで、思わずニヤついてしまいそうになる。

よっぽど弾くのが好きなのだろう。それは俺も知っている。でも、きっとそれだけではないはずだ。星崎があんな風に笑っていることは。

「いい顔だな」

演奏は演奏で良かったけれど。星崎の顔にもまた、俺は見入っていた。

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