石の記憶 番外編 海と空 恋は紺碧の色
私を相撲に連れてって
――砂かぶりの興奮、そしてカツ丼との出会い
やがて、場内の空気が変わった。
色鮮やかな化粧まわしを身につけた力士たちが、次々と土俵へ入場してくる。
その姿は華やかでありながら、どこか厳かだった。
「Wow…… look at those robes! They're beautiful!」 「わあ……見てくれ、あの衣装! 実に美しいな!」
ザックは身を乗り出し、色とりどりの化粧まわしに見入っていた。
隣ではマーガレットも、目を輝かせながら力士たちを眺めている。
そして、いよいよ横綱の土俵入りが始まった。
堂々と土俵へ上がった横綱が、ゆっくりと四股を踏む。
その瞬間、場内から響き渡る掛け声。
「よいしょー!」
ザックは思わず肩を揺らした。
「Oh! That's amazing!」 「おお! これはすごい!」
単なるスポーツの入場ではない。
一つ一つの動きに意味があり、長い歴史と伝統が息づいている。
ザックは、いつしか冗談を口にするのも忘れていた。
やがて取り組みが始まる。
何より驚いたのは、座席と土俵の近さだった。
力士の足音。荒い息遣い。身体がぶつかり合う鈍い音。
まるで、自分まで勝負の輪の中にいるようだった。
「Hey, Koji. What's that white powder they're throwing?」 「康二さん、あの白い粉をまいているのは何だい?」
ザックが指さした先では、力士が手にした塩を土俵へまいていた。
康二は、分かりやすい英語で説明する。
「That's salt. It's a traditional ritual to purify the ring before the bout.」 「あれは塩です。取り組みの前に、土俵を清めるための伝統的な所作なんですよ」
「To purify the ring……」 「土俵を清める、か……」
ザックは、もう一度土俵を見つめた。
康二は、ふと思い出したように話を続ける。
「そういえば、相撲には昔からの慣習もあるんです。たとえば、大相撲では女性が土俵に上がることを認めない伝統が続いています。女性の月経による出血を『穢れ』とする古い考え方などが、その背景にあると説明されることもあります」
「Wait. Women can't step into the ring?」 「待ってくれ。女性は土俵に上がれないのか?」
ザックは驚いて目を丸くした。
「そうなんです。ただし、相撲そのものが女性にできないというわけではありません。女子相撲もありますし、世界大会も開かれています。大相撲の土俵に関する慣習と、女性が相撲競技をすることは別の話なんですよ」
「I see. So it's an old tradition, not a rule of the sport itself.」 「なるほど。つまり、相撲という競技そのものの決まりではなく、古くからの伝統ということなんだね」
「そういうことです」
ザックは、なるほどとうなずいた。
日本には、自分がまだ知らない歴史や考え方が、思っていた以上にたくさんあるらしい。
そして、いよいよ取り組みが始まった。
立ち合い。
二人の力士が一瞬の間を置き、激しくぶつかり合う。
押す。耐える。組み合う。
まわしをつかんだ二人が、がっぷり四つに組んだ。
どちらも譲らない。
ほんの少し体勢が崩れたかと思えば、次の瞬間には立て直す。
互いに相手の動きを探り、力をかける方向を変え、投げる機会をうかがっている。
「Come on! Come on!」 「いけ! いけ!」
いつの間にか、ザックは夢中で声を上げていた。
そして、勝負が動いた。
細身の力士が、相手の重心が傾いた一瞬を逃さなかった。
身体を入れ替えるようにして技を仕掛ける。
大きな力士の身体が宙に浮き、土俵へ崩れ落ちた。
「Whoa! He threw him!」 「うわあ! 投げたぞ!」
ザックは思わず立ち上がりかけ、慌てて座り直した。
「Did you see that, Ethan?! That smaller guy just threw the bigger one!」 「見たか、イーサン! 小さいほうが、大きいほうを投げたぞ!」
「I saw it, Dad! That was incredible!」 「見たよ、父さん! すごかったね!」
イーサンまで興奮した声を上げた。
体格だけでは決まらない。
力だけでもない。
技、重心、間合い、そして一瞬の判断。
テレビの画面越しでは気づかなかったものが、目の前で次々と繰り広げられていた。
取り組みが終わる頃には、ザックもマーガレットもすっかり相撲の虜になっていた。
「Koji, that was incredible! I honestly thought sumo was a pretty simple sport. Two big guys collide, grapple, and whoever throws the other down or pushes him out wins. But there's so much more to it than that!」 「康二さん、すごかった! 正直、相撲ってもっと単純なスポーツだと思っていたんだ。大きな男が二人ぶつかり合って、相手を投げるか、土俵の外へ押し出せば勝ち。ところが、実際にはそれだけじゃないんだな!」
康二は、満足そうに笑った。
「でしょう? 実際に見ると、また違いますからね」
興奮冷めやらぬザックは、ふと思いついたように口を開いた。
「Maybe I should get Andrew into sumo!」 「アンドリューを相撲に入門させてみるかな!」
「ははは! アンドリュー君を力士にですか?」
康二は声を立てて笑った。
「ただ、今は日本出身の力士ばかりというわけではないんですよ。モンゴル出身の力士もいますし、外国出身の力士もたくさん活躍しています。青い目の力士だっているんです」
「Blue-eyed sumo wrestlers? Really?」 「青い目の力士? 本当に?」
ザックは、またしても目を丸くした。
「そうですよ。国籍も出身地もさまざまです。土俵の上では、それぞれが自分の力と技で勝負するんです」
「That's wonderful!」 「それは素晴らしいな!」
ザックは、もう一度土俵を振り返った。
「I came here thinking I knew what sumo was. Turns out, I barely knew anything at all!」 「相撲がどんなものか分かっているつもりで来たのに、実際はほとんど何も知らなかったんだな!」
イーサンは父の横顔を見て、くすりと笑った。
日本に来てから、父は驚いてばかりだ。
けれど、その驚きは決して嫌悪や拒絶ではない。
知らなかったことを知り、目の前のものを自分の目で確かめ、その面白さを素直に受け入れている。
そんな父の姿が、イーサンには少しうれしかった。
「さて、取り組みも終わりましたし……丼でも食べに行きますか?」
康二がそう切り出すと、ザックが不思議そうに首をかしげた。
「Donburi?」 「ドンブリ?」
「はい。ご飯の上にいろいろな具をのせた料理ですよ」
「Sounds good to me!」 「いいね! ぜひ食べよう!」
一行は国技館を後にし、康二が案内する店へと向かった。
店に入ってメニューを見たザックは、ある料理の写真に目を留めた。
「あっ! これは……!」
そこには、昼に食べたものとよく似た、黄金色の衣をまとった豚肉が写っていた。
「Koji! That's the pork cutlet I had at lunch!」 「康二さん! これ、昼に食べた豚肉のカツじゃないか!」
「そうです。カツ丼ですよ。ご飯の上にカツをのせて、卵とじにした料理です」
「Pork cutlet on rice, with egg? I'll have that!」 「ご飯の上に豚カツをのせて、卵でとじるのか? それにするよ!」
ザックは迷わずカツ丼を注文した。
イーサンは親子丼、マーガレットは牛丼。
やがて、それぞれの丼が運ばれてきた。
ザックは箸を手に取り、まずはカツをひと口。
そして、ご飯と卵を一緒に頬張った。
「Mmm! Oh, wow!」 「んんっ! おお、これは!」
昼に食べた豚カツとは、また違う味わいだった。
衣には甘辛いタレがしみ込み、卵が豚肉を包み込んでいる。下のご飯にも旨味がたっぷりと染みていた。
「The pork cutlet was delicious at lunch, but this is a whole different experience! The sauce and egg make it so good!」 「昼の豚カツもおいしかったが、これはまた別のおいしさだな! タレと卵が加わると、こんなにうまくなるのか!」
ザックは、ものすごい勢いで丼を食べ進めた。
そして、きれいに空になった丼を見下ろすと、店員に向かって笑顔で言った。
「Excuse me! Could I have another bowl, please?」 「すみません! もう一杯いただけますか?」
イーサンが目を見開いた。
「Dad! You just had lunch!」 「父さん! 昼ご飯を食べたばかりじゃないか!」
「That was lunch. This is research!」 「あれは昼食だ。これは研究だ!」
ザックは、真顔で言い切った。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、康二が吹き出し、イーサンも笑い出した。
「相撲の次は、日本料理の研究ですか!」
「Exactly! I'm learning so much in Japan!」 「そのとおり! 日本では学ぶことが多いからね!」
マーガレットは呆れたように首を振りながらも、牛丼をひと口食べて、幸せそうに微笑んでいた。
その日、ザックは相撲の奥深さを知った。
そして同時に、日本にはまだまだ食べてみたいものが山ほどあることも知ったのだった。
ザックとマーガレットの日本の旅路は、まだ始まったばかりだった。




