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世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない  作者: Sui
第一章「忘れられる転生者」
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第4話 忘却の境界

朝、宿の主人はまた初対面の顔をした。


「おや、旅のお客さんかい」


その声を聞いても、もう驚かなかった。

昨夜は、忘れていたら教えてほしいと言ってくれた。あの言葉に嘘はなかったはずだ。

それでも、今朝の主人にとっては、昨日の約束など最初から存在しない。


「二階の奥の部屋を借りています。代金は払ってあります」


帳簿を見せると、主人は納得したように頷いた。

昨日まで名前のあった場所には、例の判読できない線が残っている。


「妙な字だねえ。誰が書いたんだか」


昨日、その字を見て震えていたことさえ、覚えていないらしい。

食堂の隅で朝食をとりながら、日記を開いた。

自分の書いた文字は今朝も変わらず残っている。

記録が残ることは分かった。だが、肝心なことをまだ確かめていなかった。


人は、いつ俺を忘れるのか。


夜を越えることが条件なのか。

眠ることなのか。

それとも、一定の時間が過ぎれば、昼間でも記憶は失われるのか。

この違いは大きい。


もし一度目を離しただけで忘れられるなら、誰かと協力して何かを成し遂げることすら難しい。

反対に、数時間は覚えていられるのなら、その間にできることがある。


日記の新しいページに、問いを一つ書いた。


『忘却は、いつ始まる?』


答えを知るためには、誰かの協力が必要だった。


*


昼前、ガルドの畑を訪ねた。

農夫は鍬を地面に突き立て、こちらを見るなり目を細めた。


「何だ、兄ちゃん。仕事でも探してるのか?」

「少し頼みがあります。時間をもらえませんか」

「また妙なことを言いに来たな」


笑いながらも、ガルドは話を聞いてくれた。

自分は人に忘れられやすいらしい。

それを確かめたいので、何度か名前を尋ねてほしい。

説明は、それだけに留めた。


「忘れられやすいって、そりゃ誰でもそうだろ。初めて会った相手の名前なんぞ、すぐ抜けるぞ」

「だから、実験してみたいんです」

「実験ねえ。暇な旅人だな」


ガルドは呆れたように笑ったが、仕事の合間ならと引き受けてくれた。


「レイです」

「レイだな。よし、覚えた」


まず、十分ほど一緒に畑の石を拾った。

ガルドは作業をしながら、今年の麦の出来や、雨が少ないことを話した。

十分後、名前を尋ねる。


「レイだろ。まだ忘れちゃいねえよ」


さらに二十分。

日陰で水を飲み、村の北にある街道の話を聞いた。


「レイ。何度聞くんだ」


三十分が過ぎても、ガルドは俺の名前を覚えていた。

そのことに、思いのほか安堵している自分がいた。

ほんの短い時間でも、誰かの記憶に留まっていられる。

当たり前の事実が、今では貴重だった。


「今度は、少し離れてみてもいいですか」

「おう。俺は仕事をしてるぞ」


畑を離れ、村の広場まで歩いた。

鐘楼の下で時刻を確かめ、四半刻ほど待つ。

この土地の鐘は一日を区切るためのもので、正確な分数を測れるわけではない。

それでも、日記に記録を残すには十分だった。


戻ると、ガルドは荷車に麦束を積んでいた。


「おう、レイ。終わったか」


名前を呼ばれた。


思わず立ち止まった。


「……覚えてるんですね」

「何をだ?」

「俺のことです」

「さっきまで石拾いしてたじゃねえか」


当然だという顔だった。

少なくとも、短い別離では忘れない。

胸の中に、小さな灯りがともった。


「もう一度、今度は長めに離れてみます」

「好きにしろ。ただし、夕方までに戻るなら薪を運ぶのを手伝えよ」

「ああ。約束します」


ガルドは笑い、仕事に戻った。


*


村の端を流れる小川で、時間を潰した。

水は澄んでいて、川底の小石が見える。

対岸には白い花が群生し、羽の透明な虫が水面を飛んでいた。


石に腰を下ろし、日記を開く。


『会話中は記憶が続く』

『短時間離れても、名前を覚えていた』


そこまで書いて、筆が止まった。

これは救いなのだろうか。

忘れられるまでの時間が延びたところで、結末は同じかもしれない。

むしろ、覚えていてもらえる時間を知れば、その終わりが近づくたびに怯えることになる。

それでも、知る必要があった。


分からないまま失うよりは、失われる仕組みを少しでも理解していたかった。

日が傾き始めた頃、畑へ戻った。

ガルドは納屋の前で薪を束ねていた。


「……あの」


声をかけると、振り返った。


「ああ、兄ちゃん。何か用か?」


嫌な予感がした。


「さっき、ここで石を拾っていたレイです」

「石拾い?」


ガルドは手を止めた。


「確かに今日は誰かに手伝ってもらったな」

「その相手が俺です」

「……そうだったか?」


しばらく顔を見つめられた。


「悪いな。どうも思い出せねえ」


喉の奥が詰まった。


昼には、確かに名前を呼んでくれた。

一度離れて戻ったときも、覚えていてくれた。

だが、今は違う。


昼と夕方の間の、どこかで。

俺という人間は、彼の記憶から抜け落ちた。


「薪を運ぶ約束も、覚えていませんか」

「薪? ああ、人手が欲しいとは思ってたが……」


ガルドは不思議そうに首を傾げた。


「お前、手伝ってくれるのか?」


約束は消えた。

けれど、運ぶべき薪はそこにある。


「……ええ。手伝います」


返事をすると、ガルドは屈託なく笑った。


「助かるよ、兄ちゃん」


*


夕暮れ、薪を運び終えると、ガルドは礼に小さなパンを二つ持たせてくれた。

受け取ったパンは温かかった。

家の中では誰かが夕食の支度をしているらしく、香草を煮る匂いが漂っていた。


「明日も来るか?」


ガルドが尋ねた。


「……分かりません」


「そうか。まあ、旅人なら仕方ねえな」


男はそれ以上引き留めなかった。


村へ戻る道すがら、実験の結果を整理した。

眠る必要はない。

日付が変わる必要もない。

別れた直後に必ず消えるわけでもない。


少なくとも、今日のガルドは、離れてからしばらく俺を覚えていた。

そして、数時間のうちに忘れた。


時間だけが原因なのか、それとも別の条件があるのか。

一人の例では決められない。


ただ、ひとつ確かなことがあった。

忘却には境界がある。

その向こうへ渡った瞬間、俺たちの間にあった時間は、相手にとって別の形へ変わってしまう。

その境界がどこにあるのか、見えないことが恐ろしかった。


*


広場の井戸端で、リシアを見かけた。

大きな籠を足元に置き、汲んだ水を小瓶へ移している。

銀色の髪を後ろで束ね、袖を肘までまくっていた。


声をかけるか迷った。

数日前、彼女は俺を見て懐かしいと言った。

昨日もまた、同じようなことを口にした。

だが、それは記憶ではない。

名前を思い出したわけでも、以前の会話を覚えていたわけでもない。

その違いを、忘れてはいけないと思った。


「……あれ?」


先に気づいたのはリシアだった。


「こんにちは。あの、もしかして……」


期待が胸をよぎる。


「前に、どこかでお会いしましたか?」


予想していた言葉だった。

それでも、少しだけ痛んだ。


「何度か、話したことがある」


リシアは申し訳なさそうに眉を寄せた。


「ごめんなさい。どうしても思い出せなくて」

「謝らなくていい」

「でも、何だか失礼な気がして……」


彼女は籠から布を取り出し、小瓶の口を拭いた。


「最近、変なんです。知らないはずの人が、知らない人に思えなくて」


その言葉を聞いて、胸の奥が静かに揺れた。


「怖くないのか?」

「少しは」


リシアは正直に答えた。


「でも、その人が悪い人だとは思わないんです。理由は分かりませんけど」


それは、記憶の代わりにはならない。

明日になれば、今の会話も消えるのだろう。

けれど、何も残らないわけではないのかもしれない。


「レイだ」


名前を告げると、彼女は小さく頷いた。


「レイさん。私はリシアです」

「知ってる」


思わず答えてしまった。

リシアは目を丸くしたが、やがて苦笑した。


「そうでしたね。前にも話したんでした」


そう言って、籠を持ち上げる。

中には青緑色の葉をつけた草と、細い根を束ねたものが詰まっていた。


「それ、薬草か?」

「はい。熱を下げるためのものです。村の東に、具合の悪い方がいるので」

「毎日採ってるのか?」

「必要なときだけです。今日は森の手前で採れましたけど、明日はもう少し奥へ行かないと足りないかもしれません」


その言葉に、背中が冷たくなった。


森。

消えた石碑。

不自然な静けさ。

村人たちが口を揃えて警戒する魔物。


「奥は危ないと聞いた」

「ええ。だから、明るいうちに戻るつもりです」


リシアは軽く笑った。


「慣れた道ですし、大丈夫ですよ」


その自信が、かえって不安を募らせた。


慣れた道でも、危険は起こる。

昨日まで安全だった場所が、今日も安全だとは限らない。

それは、この世界に来てから嫌というほど思い知らされたことだった。


「……気をつけてくれ」

「ありがとうございます」


リシアは会釈し、家路についた。

しばらく、その背中を見送った。

呼び止める理由はなかった。

危ないから森へ行くなと言っても、彼女には薬草を必要とする人がいる。

その事情を知らないまま、行動を決めつけることはできない。

それでも、胸のざわめきは消えなかった。


*


宿へ戻ると、主人が台所で火種石を使っていた。

指先に挟まれた小さな石が青く光り、炉の薪に火が移る。

昨日見たときと同じ、生活の中の魔法だった。


「何だい、そんなに見つめて」

「……少し、気になって」

「魔法が珍しい土地から来たんだねえ」


主人は笑い、石を棚に戻した。


「魔法で、人の記憶を消すことはできるんですか」


その問いに、主人の手が止まった。


「何だって?」

「人の顔や名前を、忘れさせるような魔法です」


主人はしばらく考えた。


「さあねえ。王都の術師なら、そういうこともできるのかもしれないけど」

「この村では?」

「聞いたこともないよ」


主人は肩をすくめた。


「そんなことができたら、商売人は困るだろうね。借金した客の顔を忘れちまう」


冗談めかした言葉だった。

だが、笑えなかった。

この宿では、まさにそれが起きている。


代金を払った客の顔が分からない。

帳簿に残した名前が読めない。


主人は自分の言葉が持つ意味に気づいていないらしい。

鍋の蓋を開け、夕食の味を確かめ始めた。


魔法が原因なのかは分からない。

だが、少なくとも主人にとって、記憶を消す魔法は日常のものではない。

もし誰かが俺に魔法をかけているのなら、その誰かは今も、どこかで働きかけ続けていることになる。

考えたくない想像だった。


*


夜、日記を開いた。

ガルドとの実験を、時間の順に書き記す。


『会話中は記憶を保持』

『短い別離のあとも、名前を覚えていた』

『数時間後には、顔と名前を忘れていた』

『作業を手伝われた事実は残った』


次に、リシアの言葉を記す。


『以前に会った気がする。ただし、具体的な記憶はない』


その下に、もう一行。


『明日、森の奥へ薬草を採りに行く可能性がある』


筆先が止まった。

本来なら、明日の朝には村を出るつもりだった。

忘れられ続ける場所に留まるのは辛い。

ここを離れれば、少なくとも同じ人間に何度も忘れられる苦しみからは逃れられる。


だが、村を出たところで、俺を忘れる世界そのものからは逃げられない。

それに、リシアの言葉がどうしても気にかかった。


『慣れた道ですし、大丈夫ですよ』


あの森には、何かがある。

魔物だけではない。

石碑が消えたことも、記憶の底から聞こえてきた声も、まだ何ひとつ説明できていない。


もちろん、それらとリシアの身に迫る危険が結びついている証拠はなかった。

それでも、明日彼女が森へ入ると知りながら、何もせず立ち去ることはできそうになかった。

日記の余白に、新しい予定を書いた。


『明朝、森へ向かう道を確かめる』


書き終え、窓を開ける。

夜風が部屋に入り込み、灯りの炎が揺れた。

村の向こうには、月明かりに沈む森が広がっている。

昼間、ガルドに名前を呼ばれたときのことを思い出した。


「レイ」


たった二文字。

それが、あんなにも嬉しかった。

けれど、嬉しかった時間の長さだけ、忘れられた瞬間の痛みも深くなる。

誰かの記憶に残ることを望まなければ、傷つかずに済むのだろうか。

答えは出なかった。


窓を閉めようとしたとき、森の方角から低い鳴き声が聞こえた。

獣の声に似ていた。

だが、途中で音が途切れ、別の生き物の声を継ぎ足したような、奇妙な響きだった。


耳を澄ます。

もう一度、声がした。

今度は、少し近い。


昼間の森で見たものを思い出す。

足元に続いていた、不自然に平らな石。

音もなく消えた石碑。

あの場所を覆っていた、理由の分からない静けさ。


明日、リシアはあの森へ入る。


日記を閉じ、枕元に置いた短刀を確かめた。

刃は短く、頼りない。

魔物を相手に何ができるのかも分からない。

それでも、何もしない理由にはならなかった。


この世界は、俺の名前を残してくれない。

だが、目の前で誰かが危険に向かうのを見て、知らなかったことにはできない。

たとえ、その誰かが明日も俺を忘れるとしても。


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