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第21話 災厄の残滓

朝になっても、村の鐘は鳴らなかった。

鐘楼の屋根は半ば崩れ、鐘を吊るしていた梁も折れている。

それでも空は明るくなり、川の向こうの畑には薄い霧が降り、昨日までと同じように鳥が鳴いていた。

世界が何事もなかったように朝を迎えたことが、かえって奇妙に思えた。


担架の上で目を覚ますと、右肩に重い痛みが残っていた。

森で負った傷を庇いながら動いたせいで、縫い直された箇所が熱を持っている。

身体を起こそうとすると、脇腹が鋭く疼き、思わず息を止めた。


「動くなと言ったはずだが」


治療所の老人が、湯気の立つ器を持って近づいてきた。

いつもの治療所ではなく、避難所になった水車の倉庫だった。

壁には濡れた外套が吊るされ、床には毛布を敷いた寝床が並んでいる。


「村の様子は」

「まずは自分の身体を心配しろ」

「……大きな被害が出たんですか」


老人は器を置き、しばらく黙っていた。

その沈黙だけで、何もかも無事だったわけではないと分かる。


「家が何軒か潰れた。怪我人もいる。夜のうちに息を引き取った者が一人」


喉の奥が乾いた。


「誰ですか」

「北門の見張りをしていた若い男だ。昨日、最後まで人を逃がしていたそうだ」


顔は知っていた。

名前を思い出せるほど親しくはなかったが、広場で一度、槍を抱えたまま笑っていた姿を見たことがある。

昨日の戦いで、自分が助けられなかった人間がいた。

その事実を、数に置き換えたくなかった。


「ほかの人は?」

「重傷者は二人だ。命はつないでいるが、まだ安心できん」


老人は薬湯を差し出した。


「助かった者も多い。だからこそ、今日からが大変なんだ」


器を受け取り、苦い液体を少しずつ飲んだ。

魔物が去ったという知らせは、終わりを意味しない。

壊れた家も、傷も、失われた人も、朝になったからといって元には戻らないのだった。


*


昼前、近隣の町から救援の兵が到着した。

橋の向こうに軍馬の列が現れ、食料を積んだ荷車が水車の脇へ運ばれる。

村長は兵たちを迎え、被害の状況を説明していた。


レイは倉庫の入口に腰を下ろし、やり取りを聞いていた。

日記は膝の上に置いてある。

昨夜、白い花を挟んだ頁は少し膨らみ、薄い花弁が紙の端から覗いていた。


「魔物は三頭、いや四頭という証言もあります」

「北門から侵入したのか」

「そう見えた者が多いようです。ただ、東の畑にも現れました」

「村の外へ逃げた方角は?」

「森です。少なくとも二頭は戻ったと聞いています」


兵の一人が地図を広げた。

村長は焼け焦げた指先で道をなぞり、避難した場所と、魔物を最後に見た地点を示していく。


レイは日記の端へ小さな印をつけた。

第十九話で聞いた証言と重なる部分もあるが、違う部分もあった。

誰も戦場のすべてを見ていたわけではない。

その違いを、今のうちに残しておく必要がある。


「避難の指揮を執ったのは誰だ」


兵が尋ねた。

村長は少し考えたあと、ガルドとトルムの名を挙げた。

橋を外す判断、裏道へ人を回したこと、荷車を障害物にしたこと。

どの行動にも、村の誰かの名が添えられていく。


レイの名は出なかった。


以前なら、その瞬間に胸の奥が冷たくなっていたかもしれない。

今も痛みはある。

けれど、昨日の光景を思い返せば、ガルドもトルムも本当に人々を助けたのだ。

自分だけがすべてを成し遂げたわけではない。

ただ、そこにいたという事実まで薄れていくことは、やはり寂しかった。


兵の地図へ目を戻すと、一つ気になることがあった。

魔物が最後に見られた地点は、村の北側だけではない。

南の橋を外したあとも、川沿いを移動する影が目撃されていた。


「すみません」


思わず声をかけた。

兵がこちらを見る。


「川沿いの影は、いつ見られたんですか」

「お前は?」

「村に滞在している旅人です。避難のとき、南の橋にいました」


兵はレイの包帯へ視線を落とし、地図を指さした。


「夜明け前だ。見張りが一頭を見たらしい。ただし、魔物だったかどうかは分からん」

「橋が外れたあとも、川のこちら側にいたんですね」

「ああ。森へ戻ったという証言とは食い違うが、別の個体かもしれない」


兵はそのまま村長との話へ戻った。

レイは日記に時刻と場所を書き留めた。

魔物がリシアを追っていたのか、川の流れに沿って移動していただけなのか。

どちらとも決められない。

しかし、危険が去ったと判断するには、まだ早いことだけは確かだった。


*


午後、リシアは救援の兵とともに薬草の仕分けをしていた。

救護用の布が足りず、古い衣服を裂いて代用している。

彼女の指には細かな傷が増え、目の下には疲労の影があった。


「少し休んだほうがいい」


声をかけると、リシアは顔を上げた。


「ありがとうございます。でも、もう少しで終わるので」

「昨日からほとんど寝ていないだろう」

「……どうして分かるんですか」


言いかけて、言葉を飲み込んだ。

昨日の夜、彼女が何度も負傷者の間を歩いていたことを覚えているのは、こちらだけかもしれない。


「ずっと働いているように見えたから」

「そうですか。心配してくださって、ありがとうございます」


彼女は穏やかに笑った。

だが、その笑顔は昨日の別れ際とは違い、初めて親切な言葉をかけられた相手に向けるものだった。


「……花は、覚えている?」

「花?」


問い返され、胸の奥が小さく沈んだ。


「いや、何でもない」

「すみません。何かお渡ししましたか?」

「白い花を、一輪」


リシアはしばらく考え、申し訳なさそうに首を振った。


「覚えていなくて……でも、昨日、花を摘んだ気がするんです。誰かに渡したくなったような」

「そうか」


花を摘んだことは覚えている。

渡した相手だけが、曖昧になっている。

その境界が、今は以前よりはっきり見えた。


「綺麗な花だったよ」

「それなら、よかったです」


彼女は安心したように笑い、包帯の束を抱え直した。

記憶を取り戻させようとする言葉は、それ以上続けなかった。

思い出せないことを責めるつもりはないし、昨日の感謝をもう一度求めるために来たわけでもない。


「リシア、救援の人たちに何か聞かれた?」

「魔物を見た場所のことなら、少し」

「ほかには?」


彼女は手を止めた。


「変な質問がありました。森で、誰かに助けられたことがあるかって」


心臓が一拍、遅れたように感じた。


「誰が聞いたんだ」

「兵士さんです。ほかの人にも聞いていたみたいですけど」

「何て答えた?」

「助けられたことはある、と。でも、相手の顔を思い出せないって」


リシアは困ったように笑った。


「不思議ですよね。大切なことだったはずなのに」


兵が村人へ同じ質問をしているのなら、魔物の出現と森での事件を結びつけて調べているのかもしれない。

ただ、なぜ今、その質問が必要なのかは分からなかった。


「その兵士は、どんな人だった?」

「背の高い方でした。紺色の外套で、左の頬に傷があって……あ、あちらに」


彼女が指した先には、救援の荷車の脇で記録を取る男がいた。

灰色の外套ではない。

王国の紋章をつけた、ごく普通の兵士に見えた。


「ありがとう」

「何か気になることがあるんですか」

「少しだけ。あとで確かめてみるよ」


リシアは頷き、薬草の仕分けへ戻った。

その背中を見送りながら、灰色の男の言葉を思い出す。


『お前が救った命は、まだ救われていない』


彼女が生きていることを、誰かが確かめようとしている。

そう考えることはできる。

だが、救援の兵が調査のために聞き取りをしているだけなら、何も不自然ではない。

恐怖に引きずられて、普通の行動まで疑いの材料にしてはいけなかった。


*


夕方、レイは紺色の外套の兵を訪ねた。

男は地図を畳んでいるところで、声をかけるとすぐに顔を上げた。

左の頬には、古い刃傷のような白い線がある。


「何か用か」

「森で魔物に襲われた人のことを調べていると聞きました」

「ああ。最近、この辺りで似た魔物の目撃が増えている。以前の事件との関連を確かめているんだ」

「村の薬師の女性にも、聞きましたよね」

「彼女か。そうだ。森で襲われたと聞いたが、助けた者の名が分からないらしいな」


男は手帳を開き、眉を寄せた。


「ほかにも妙な話がある。森で魔物を見た者が、誰かに警告されたと証言しているのに、肝心の相手を思い出せない」

「……いつの話ですか」

「少し前だ。村長がまとめた報告にあった」


レイは息を整えた。

自分が森で動いた日のことなのか、別の事件なのかは分からない。


「その記録は、見せてもらえますか」

「関係者ならな。お前は何者だ」

「……旅人です。森で怪我をしました」


男は包帯を見つめ、何かを考えるように目を細めた。


「名前は?」

「レイです」

「レイ。姓は?」


日本にいたころの名が喉まで出かかった。

だが、この世界でその姓を名乗ったことはほとんどない。

名乗ったところで、明日には消えているかもしれない。


「ここでは、レイと呼ばれています」

「そうか。なら、まずは傷を治せ。調査は俺たちの仕事だ」


突き放すような口調ではなかった。

むしろ、負傷者をこれ以上危険へ近づけないための言葉に聞こえた。


「一つだけ、教えてください。魔物は、特定の人を追うことがあるんですか」

「ある。匂い、音、血の跡。理由はいくらでも考えられる」

「何日も前に襲った人を、追い続けることも?」


兵は手帳を閉じた。


「それを調べている。分からないから、聞いて回っているんだ」


答えとしては、それで十分だった。

知らないことを知らないと言える人間の言葉は、かえって信じられる気がした。


「ありがとうございました」

「待て」


背を向けたところで呼び止められた。


「もし、森で襲われたときのことを覚えているなら、明日、もう一度話を聞かせてくれ」

「……分かりました」


兵は頷き、手帳の端へ何かを書き込んだ。

レイはその手元を見つめた。

書かれた名前が、明日も残っているかどうか。

それを確かめることも、今の自分には必要だった。


*


日が落ちるころ、村の北側から戻った人々が、広場に新しい知らせを運んできた。

森の入口で、獣の死骸が見つかったという。

魔物に襲われたらしいが、食い荒らされた形跡はほとんどなかった。


「腹は裂けてた。なのに、肉には口をつけていない」


見回りをしていた青年は、青い顔で話した。


「獲物を追っていたんじゃないのかもしれん」


誰かがそう呟いた。

レイはその言葉に耳を澄ませたが、続きを口にする者はいなかった。


魔物が何を求めていたのか。

食料ではなく、縄張りでもなく、別の何かだった可能性はある。

けれど、食べずに獲物を殺す獣がいないわけではない。

異常を探そうとするほど、普通の残酷さまで特別な意味を持って見えてしまう。


治療所の老人が戻るように手招きしたので、レイは素直に従った。

今日は、もう十分だった。


*


夜、倉庫の片隅で日記を開いた。

白い花は、頁の間で少しだけ平たくなっていた。

花弁を傷めないように別の紙へ移し、今日聞いた話を書き始める。


『村の被害――死者一名、重傷者二名。家屋の損壊多数』

『救援の兵は、過去の魔物の目撃と今回の襲撃の関連を調査している』

『リシアは花を摘んだことを覚えているが、渡した相手を覚えていない』

『森で魔物に襲われた人の証言に、救助者を思い出せない例があるらしい』

『森の入口で、食べられていない獣の死骸が見つかった』


筆を置き、最初の一行を読み返した。

死者一名。

その四文字で済ませてはいけないと思った。


見張りの若者の名前を尋ねようとしたとき、すでに老人は別の怪我人の手当てに戻っていた。

明日、ガルドに聞こう。

名前を覚えておくことくらいは、できるはずだった。


外では、救援の兵が見張りを交代していた。

遠くにあるはずの村の鐘は、今夜も鳴らない。

静かな夜だったが、その静けさを平穏と呼ぶには、まだ早かった。


ふと、日記の余白に視線が落ちた。

第十三話で書き写した警告は、今も消えずに残っている。


『これ以上、物語に触れるな』


何者かが警告した理由も、灰色の男が告げた言葉の意味も、分からないままだった。

けれど、今日一日で新たに分かったことがある。


救ったあとの世界にも、人は生き続ける。

助けられた命には、その先の日々があり、昨日の傷を抱えたまま迎える朝がある。

自分の選択が何かを変えたのだとしても、その変化の先にいる人々を、ただの結果として数えたくはなかった。


頁を閉じようとしたとき、倉庫の入口で小さな声がした。


「……レイさん?」


顔を上げると、リシアが立っていた。

手には、水を入れた小さな器を持っている。


「眠れないんですか」

「少し、考え事をしていた」

「そうですか。私も、なかなか眠れなくて」


彼女は隣へ腰を下ろした。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

倉庫の奥では、怪我人の寝息が小さく聞こえている。


「今日、兵士さんに聞かれたんです。森で助けてくれた人のこと」

「うん」

「顔も名前も思い出せないのに、怖かったことだけは、まだ覚えていて」


リシアは器の水面を見つめた。


「でも、不思議なんです。思い出そうとすると、怖さより先に、安心した気持ちが残るんです」


レイは何も言えなかった。


「その人に、もう一度お礼を言えたらいいんですけど」


彼女は小さく笑った。


「……きっと、伝わっていると思うよ」

「そうでしょうか」

「うん」


リシアは少しだけ肩の力を抜いた。

そのまま器を差し出し、冷たい水を飲むよう勧めてくれた。


彼女はまだ、こちらを恩人だとは知らない。

けれど、今夜ここで交わした言葉まで、なかったことにしたくはなかった。


水を一口飲むと、喉の奥に残っていた苦さが少し和らいだ。

夜の向こうでは、壊れた村が明日を待っている。


そして明日、レイは救援の兵に、森で起きたことを話すことになる。

それが何を変えるのか、まだ分からなかった。


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