第2話 死んだはずの男
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死んだ瞬間のことを、俺は覚えていない。
正確に言えば、死んだと思われる瞬間の前後だけが、奇妙なほど曖昧だった。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
信号機の赤い光。
そして、視界を埋め尽くした白。
そこまでは覚えている。
だが、肝心なものが欠けていた。
俺を轢いたはずの車だ。
タイヤの音も、エンジンの唸りも、思い出せない。
それなのに俺は、自分が交通事故で死んだものだと、疑いもしなかった。
なぜだろう。
その疑問が浮かんだのは、異世界に来て四度目の朝だった。
薄い毛布を払いのけ、寝台から身体を起こす。
宿の窓から差し込む朝日が、床板に細長い光を落としていた。
机の上には、昨日までに書き溜めた日記がある。
俺はそれを手に取り、最初のページを開いた。
『久瀬玲司。二十四歳。日本から来た』
見慣れた名前だった。
だが、その文字を見つめていると、どうにも落ち着かない気分になる。
俺は久瀬玲司だ。
そのはずだ。
日本で生まれ、育ち、大学を卒業して会社に勤めていた。
朝は満員電車に揺られ、昼には職場の近くで安い定食を食べ、夜は疲れた身体を引きずって帰宅する。
そんな日常を送っていた。
それなのに、今ではその記憶が、ひどく遠いものに感じられる。
まるで、自分ではない誰かの人生を思い出しているようだった。
「……本当に、死んだのか」
声に出してみる。
答える者はいない。
窓の外では、村人たちがいつもと変わらない朝を迎えていた。
この世界に来てから、俺は何度も自分の状況を考えた。
異世界転生。
日本にいた頃なら、物語の中でしか使わなかった言葉だ。
死んだ人間が、別の世界で新しい人生を始める。
その設定自体は理解できる。
だが、実際に自分の身に起きてみると、理解できないことばかりだった。
俺はなぜ、この世界へ来たのか。
誰が、何のために。
そして何より、なぜこの世界の人間は俺を覚えていられないのか。
いくら考えても正解に辿りつけるはずもなく、ため息をつきながら日記を閉じた。
昨日の夜、村を出ようと決めた。
しかし、その前に確かめたいことがあった。
俺がこの世界へ来た、あの場所。
森の中にあった、文字のない石碑。
あそこに、もう一度行ってみようと思った。
*
宿の一階へ降りると、主人が朝食の準備をしていた。
「おや、お客さん。泊まりかい?」
昨日も聞いた言葉だった。
「……昨日から泊まってる」
「そうだったかね?」
主人は首を傾げた。
もう、驚きはしなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「部屋は二階の奥だ。荷物も置いてある」
「ああ、そうかい。悪いねえ。最近、どうも物忘れがひどくて」
主人は困ったように笑った。
俺も曖昧に笑い返す。
彼は昨日の宿泊代を受け取ったことを覚えている。
部屋を貸したことも、帳簿を見れば分かる。
だが、俺の顔は覚えていない。
昨日、何を話したかも覚えていない。
まるで、出来事の中から俺だけが切り取られているようだった。
「……ひとつ、聞いてもいいか」
「何だい?」
「この村の北にある森について、何か知ってるか?」
主人は鍋をかき混ぜる手を止めた。
「北の森?」
「ああ。古い石碑がある場所なんだけど」
その瞬間、主人の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
だが、確かに笑顔が消えた。
「……石碑?」
「人の背丈くらいの高さで、何も書かれていない石碑だ」
主人はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと首を振る。
「知らないねえ」
「本当に?」
「少なくとも、そんなものがあるとは聞いたことがないよ」
そう言って、再び鍋に向き直った。
だが、その手つきは先ほどよりもぎこちなかった。
主人の横顔を見つめた。
何かを隠しているのだろうか。
それとも、ただの思い過ごしなのか。
今の俺には判断できなかった。
「森には近づかない方がいいよ」
主人が言った。
「最近、魔物が増えているらしいからね」
「……分かった」
それ以上は尋ねなかった。
朝食を済ませ、部屋に戻る。
日記を懐にしまい、少しばかりの食料と水を持った。
村を出る準備は、それだけだった。
この世界に来たとき、俺は何も持っていなかった。
今も、大して変わらない。
ただ一冊の日記だけが、俺の存在を証明してくれていた。
*
村を出ると、空気の匂いが変わった。
畑の土と家畜の匂いが薄れ、代わりに湿った草木の香りが強くなる。
遠くに広がる森は、朝日を受けてもなお薄暗かった。
木々が密集し、奥へ進むほど光が届かなくなっている。
歩きながら、転生した日のことを思い返していた。
あの日、目を覚ました時、俺は仰向けに倒れていた。
背中には湿った土の感触があり、頭上には見知らぬ木々が広がっていた。
身体に痛みはなかった。
骨折も、出血もない。
交通事故に遭った人間とは思えないほど、健康な状態だった。
それどころか、身体が妙に軽かった。
長年の肩こりも、仕事で疲れた腰の重さも消えていた。
まるで、誰かが身体を新しく作り直したようだった。
「……作り直した、か」
自分で口にして、嫌な気分になった。
そんなことが、本当に可能なのだろうか。
魔法が存在する世界なら、あり得るのかもしれない。
だが、仮にそうだとして。
誰が、俺を作り直したのだろう。
そして、何のために。
考えているうちに、森の入り口へ辿り着いた。
木々の間には、細い獣道が続いている。
三日前、俺が村へ向かうために歩いた道だった。
少なくとも、そのはずだった。
だが、今になって見てみると、奇妙なことに気づいた。
道の両脇にある木々の形が、まるで記憶と違っていたのだ。
最初に通ったときには、大きく曲がった木があった。
根元に青い花が咲いていたので、その木を目印にして歩いたことをはっきり覚えている。
しかし、今はどこにも見当たらない。
代わりに、まっすぐ伸びた細い木々が並んでいる。
「……道を間違えたか?」
周囲を見渡した。
森の入り口は一つではない。
三日前とは違う場所から入ろうとしている可能性もある。
そう考え、少し離れた場所まで歩いてみた。
だが、どこにも見覚えのある景色はなかった。
やがて、諦めて森へ足を踏み入れた。
あの石碑を見つけるまでは、帰るつもりはなかった。
*
森の中は、ひどく静かだった。
風が吹くたび、葉が擦れ合う音がする。
時折、遠くで鳥が鳴く。
それ以外には、ほとんど音がなかった。
慎重に歩いた。
魔物が出るという話を聞いていたからだ。
武器らしい武器は持っていない。
腰に下げているのは、村で買った小さな作業用の短刀だけだった。
もし本当に魔物と遭遇すれば、逃げるしかない。
そんなことを考えながら進んでいると、ふと足元に違和感を覚えた。
地面が、妙に平らだった。
森の中なのに、そこだけ石畳のように滑らかになっている。
苔に覆われてはいるが、明らかに自然の地面とは違う。
しゃがみ込み、表面を指でなぞった。
冷たい石の感触。
その下に、細い線が刻まれていた。
文字のようにも見える。
だが、読み取ることはできなかった。
「……遺跡か?」
顔を上げる。
周囲には、同じような石がいくつも埋まっていた。
三日前には気づかなかったものだ。
いや、気づかなかったのではない。
あの日は、ここを通っていないのかもしれない。
そう思った瞬間。
耳の奥で、微かな音がした。
紙をめくるような音だった。
音のする方へ振り返った。
誰もいない。
風も吹いていなかった。
それなのに、確かに聞こえた。
ぱらり。
もう一度聞こえた。
今度は、すぐ耳元で。
「……誰かいるのか?」
声をかける。
返事はなかった。
しばらく待ってみたが、何も起こらない。
短刀の柄に手を添えた。
心臓が早鐘を打っていた。
やがて、音は聞こえなくなった。
深く息を吐いた。
疲れているのかもしれない。
この世界へ来てから、まともに眠れた夜は少なかった。
幻聴の一つくらい、聞こえても不思議ではない。
そう自分に言い聞かせ、再び歩き始めた。
だが、どうしてもあの音が気になった。
どこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
*
石碑を見つけたのは、それから一時間ほど歩いた頃だった。
いや、正確には石碑があったはずの場所を見つけた。
そこは、小さな円形の空き地だった。
周囲を木々に囲まれ、中央だけがぽっかりと開けている。
地面には草が生えていない。
土は黒く、まるで長い間何かに覆われていたようだった。
立ち止まった。
間違いないくこの場所だ。
三日前、俺が目を覚まし石碑を見つけた場所。
だが石碑はどこにも見当たらない。
「……嘘だろ」
思わず呟いた。
人の背丈ほどもある、大きな石碑だった。
簡単に動かせるようなものではない。
それなのに、影も形もなかった。
空き地の中央へ歩き確認をした。
石碑があったはずの場所には、何も残っていない。
掘り返された跡もない。
砕けた石の破片すら見当たらない。
ただ、黒い土が広がっているだけだった。
「……どういうことだ」
地面に手を触れた。
冷たかった。
だが、その奥に妙な温かさがあるような気がした。
地面の下で、何かが静かに動いている。
そんな錯覚を覚えた。
俺は手を引っ込めた。
その瞬、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
視界が揺れた。
膝をつき、額を押さえる。
痛みは一瞬だった。
だが、そのわずかな時間に、奇妙な光景が見えた。
白い部屋。
壁も、床も、天井もない。
ただ、果てしなく広がる白。
その中央に、一人の人間が立っていた。
後ろ姿だった。
顔は見えない。
だが、その人物は、確かにこちらを向こうとしていた。
そして、
「――まだ、駄目だ」
声が聞こえた。
夢の中で聞いた、あの声だった。
俺は息を呑んだ。
「……誰だ」
返事はなかった。
白い景色が揺らぐ。
人影が、ゆっくりと振り返る。
その顔を見ようとしたその瞬間に、視界が暗転した。
*
気づけば、地面に倒れていた。
頬に湿った土が触れている。
木々の隙間から、午後の光が差し込んでいた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
ゆっくりと身体を起こした。
頭痛は消えていた。
だが、胸の奥に嫌な感覚が残っている。
あの白い場所。
あの人影。
そして、声。
『まだ、駄目だ』
俺はその言葉を知っている。
夢の中でも聞いた。
だが、それだけではない気がした。
もっと前に、ずっと昔に、同じ言葉を聞いたことがある。
そんな確信めいた感覚が、胸の奥に広がっていた。
「……何なんだよ」
声が震えた。
何を忘れているのだろう。
いや、本当に忘れているのだろうか。
もしかすると、最初から知らされていないのではないか。
俺がこの世界へ来た理由。
死んだはずの瞬間。
そして、あの石碑の正体。
そのすべてが、誰かによって隠されているのだとしたら。
俺は、何を信じればいいのだろう。
懐から日記を取り出した。
震える手でページを開く。
そして、今日見たものを書き記した。
石碑が消えていたこと。
地面に触れた瞬間、頭痛が起きたこと。
白い空間と、人影。
そして、あの声。
『まだ、駄目だ』
書き終えたところで、筆が止まった。
しばらく、その文字を見つめていた。
そして、ふと気づいた。
三日前、俺が初めて石碑を見つけた時も、同じような感覚があった。
触れようとした瞬間、忘れていた何かを思い出しそうになった。
だが、思い出せなかった。
今回も同じだ。
違うのは、石碑が消えていたことだけ。
いや、本当にそうだろうか。
日記の最初のページを開いた。
転生した日の記録。
そこには、こう書かれていた。
『森の中に古い石碑を発見。中央に細長い窪み。文字はない』
その文章を見つめた。
そして、あることに気づいた。
俺は、石碑の中央にあった窪みを覚えている。
だが、その形を、正確に思い出せない。
縦に細長かったのは確かだ。
しかし、ただの線だったのか。
何かの記号だったのか。
それとも、文字の一部だったのか。
どうしても、思い出せなかった。
まるで、記憶の一部分だけが削り取られているようだった。
「……俺まで、忘れてるのか」
思わず呟いた。
この世界の人間は、俺を忘れる。
だが、もしもだ、俺自身も、何かを忘れさせられているのだとしたら。
その可能性に思い至った瞬間、全身に寒気が走った。
*
村へ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。
森を抜けると、遠くに家々の屋根が見えた。
煙突からは夕食の煙が立ち上り、畑仕事を終えた人々が家路についている。
平和な光景だった。
俺が森で見たものなど、誰も知らない。
この世界は、何事もなかったように続いている。
そのことが、ひどく不気味だった。
村の入り口まで来たとき、見覚えのある少女が歩いてくるのが見えた。
リシアだった。
背中には薬草の籠を背負っている。
彼女は俺に気づくと、軽く会釈した。
「こんばんは」
「……こんばんは」
また忘れられている、と力なく返事をした。
リシアは少し首を傾げた。
「どこかへ行かれていたんですか?」
「ああ。森へ」
その瞬間、彼女の表情が変わった。
「森へ?」
「ちょっと調べたいことがあって」
「……危ないですよ」
リシアは真剣な顔をした。
「最近、森の奥で魔物が増えているんです。村の人たちも、なるべく近づかないようにしていて」
「そうらしいな」
「本当に、気をつけてくださいね」
その言葉に、少し驚いた。
彼女は俺を覚えていない。
少なくとも、今の反応からはそう見える。
それでも、見知らぬ旅人の身を案じてくれる。
嬉しくなり小さく笑った。
「ありがとう」
リシアも微笑んだ。
そして、ふと何かを思い出したように口を開いた。
「あの……」
「ん?」
「変なことを聞いてもいいですか?」
その問いに頷いた。
彼女は少し迷ってから、言った。
「私たち、前にどこかで会ったことがありますか?」
胸の奥が、静かに震えた。
昨日も、似たようなことを聞かれた。
だが、彼女はその会話を覚えていない。
それでも、また同じ疑問を抱いている。
「……どうしてそう思う?」
俺が尋ねると、リシアは困ったように笑った。
「分からないんです。ただ、何となく……」
そこで言葉を止める。
「あなたを見ていると、懐かしい気がして」
何も言えなかった。
記憶は消える。
だが、何かが残っている。
その事実が、今の俺には救いだった。
「……レイだ」
「俺の名前は、レイ」
リシアはその名前を、ゆっくりと繰り返した。
「レイさん……」
そして、柔らかく微笑んだ。
「素敵な名前ですね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。
だが同時に、ひどく切なくもなった。
明日になれば、彼女はまた俺を忘れる。
それでも、今日、この瞬間だけは。
――俺の名前を呼んでくれた。
それだけで、十分だと思いたかった。
*
宿へ戻った俺は、日記を開いた。
今日の出来事を整理する。
事故の記憶。
森の石碑。
白い空間。
謎の声。
そして、リシアの言葉。
書き終えたところで、俺はしばらく考え込んだ。
この世界に来てから、俺はずっと、自分が忘れられることばかり考えていた。
誰も俺を覚えていない。
誰も俺の名前を呼んでくれない。
俺が何をしても、翌日にはなかったことになる。
だが今日、森で見た光景が、別の可能性を示していた。
もしかすると、俺はこの世界に来る前から、何かを忘れているのかもしれない。
そして、その忘れた何かこそが。
俺がここにいる理由なのかもしれない。
日記の最後に、一文を書き加えた。
『俺は、本当に死んだのか?』
筆を置く。
その文字を見つめる。
答えはない。
だが少なくとも、俺は今生きている。
心臓は動いている。
息をしている。
腹も減るし、眠くもなる。
痛みも感じる。
誰かの言葉に、嬉しくなることもある。
それが、今の俺にとって唯一の現実だった。
窓の外を見た。
夜の闇が、村を包み込んでいる。
遠くの森は、黒い塊のように沈んでいた。
あの森のどこかに、答えがあるのだろうか。
それとも、答えそのものが、すでに消されているのだろうか。
俺には分からなかった。
ただ、一つだけ。
どうしても頭から離れない言葉があった。
『今度こそ』
夢の中で聞いた、あの言葉。
今度こそ。
それは、以前にも何かがあったことを意味している。
ならば俺は、初めてこの世界へ来たのではないのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間。
背筋に、冷たいものが走った。
俺は、死んだはずだった。
だがもし、死んだはずの人間が、もう一度現れたのだとしたら。
この世界は、それをどう扱うのだろう。
答える者はいなかった。
ただ、窓の外で風が吹いた。
まるで、見えない誰かが、静かにページをめくるような音を立てながら。




