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世界の余白に転生した俺は、物語に存在してはいけない  作者: Sui
第一章「忘れられる転生者」
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12/23

第12話 世界がこちらを見ている

朝の村には、昨日までと変わらない音が満ちていた。

水桶の縁に当たる柄杓、パンを焼く窯の扉、荷車を引く馬の蹄。

治療所の窓を開けると、湿った土と焼きたての麦の匂いが混ざり、ラウネの焼け跡で鼻に染みついた煤の気配を、ようやく少しだけ遠ざけてくれた。


右肩の傷はまだ引きつれ、腕を高く上げることもできない。

それでも熱は下がり、老人からは村の中を短く歩く許可が出ていた。

代わりに、包帯を濡らさないこと、荷物を持たないこと、夕刻までに戻ることを、子どもに言い聞かせるように繰り返された。


「それから、走るなよ」

「分かっています」

「分かっておる者は、そんな顔をせん」


老人は苦い薬を小瓶に詰めて渡してきた。

その表情を見ていると、ここへ運ばれた日のことを覚えていてくれる人がいるという、当たり前ではない安心が胸に生まれる。

けれど、治療所の門を出て数時間もすれば、同じ顔で迎えてもらえる保証はなかった。

通りへ出ると、ガルドが干し草を積んだ荷車の横で縄を結んでいた。


「おう、怪我人。もう歩いていいのか」

「少しだけなら」

「そうか。今日は風が強くなりそうだな」


見上げた空には薄い雲が流れ、屋根の上の旗がゆっくり揺れている。

風が強まるという予想に、不思議なところはなかった。


「畑は大丈夫ですか」

「ああ。昨日のうちに片づけた。お前も無理するなよ」


礼を言って歩き出す。

ガルドは荷車の縄へ向き直り、ほどなく鼻歌を口ずさみ始めた。

その何でもない姿に、昨夜の日記へ書いた疑問が少し大げさだったように思えてくる。


*


広場へ向かう途中、雑貨屋の前で足を止めた。

扉の脇には薪と麻紐が積まれ、窓辺に吊るされた小さな魔石灯は、昼の光を受けて鈍く光っている。

店主の老人が戸口から顔を出した。


「薬でも探しているのかね」

「いえ、少し歩いているだけです」

「そうか。今日は風が強くなりそうだな」


足元の石畳を見た。

ガルドが口にしたのと、まったく同じ言葉だった。


「……そうですね」


この季節なら、珍しい挨拶ではない。

二人が空模様を見て同じことを考えたとしても、何の不思議もなかった。

店を離れ、広場の井戸へ向かう。

水を汲んでいた女性が桶を持ち上げようとしていたので、反射的に手を貸しかけ、肩の痛みに動きを止めた。


「大丈夫ですか」

「ええ、ありがとう。怪我をしているなら無理しちゃ駄目よ」


女性は自分で桶を引き上げ、こちらの包帯を見て心配そうに眉を寄せた。

その親切が嬉しく、短く礼を言う。


「それにしても、今日は風が強くなりそうだな」


声は穏やかだった。

ただ、女性が言い終える直前、なぜか井戸ではなく、広場の北側へ目を向けたことが気にかかった。


「……今、何か見えましたか」

「え?」

「北の方を見たので」

「そうだったかしら」


女性は首を傾げ、桶の取っ手を握り直した。


「別に何も。洗濯物を取り込まないといけないなって思っただけよ」


その説明には筋が通っている。

しかし、ガルドと雑貨屋の店主も、同じ言葉を口にしたとき、どちらへ顔を向けていただろう。

思い返そうとして、答えが出ないことに気づく。

見ていなかったのだ。

自分にとって何でもない一瞬を、あとから都合よく意味のある出来事へ変えてしまう危うさを、ラウネで何度も思い知ったばかりだった。


*


広場の端にある石段へ腰を下ろし、持ってきた日記を開いた。

右手で筆を握るだけなら肩への負担は少ないが、長く書くと脇腹が鈍く痛む。

それでも、今のうちに事実だけを並べておきたかった。


『ガルド、雑貨屋の店主、井戸の女性が、同じ言葉を使った』

『「今日は風が強くなりそうだな」』

『女性は発言の直前、北を見たように思える。ほかの二人については未確認』


そこまで書いて、筆先を止める。

三人とも風の話をしただけで、怪しいことは何もない。

それなのに、最後の一行を書いた途端、背中を誰かに覗かれているような気配が生まれた。

振り返ると、子どもが二人、木の輪を転がして遊んでいた。

その向こうではパン屋の女主人が客と笑い合い、荷車が広場をゆっくり横切っている。

何も変わらない。

変わらないはずだった。


「レイさん?」


顔を上げると、リシアが籠を抱えて立っていた。

銀色の髪が日差しに透け、紫の瞳が包帯のあたりを心配そうに見つめている。


「歩いていて大丈夫なんですか」

「先生から許可はもらったよ」

「それならいいんですけど……顔色が少し悪い気がします」


彼女は籠を石段へ置き、ためらいがちに隣へ腰掛けた。

昨日、治療所で話したことを覚えているのかは分からない。

けれど今は、こちらの名を自然に呼んでくれる。

その小さな事実だけで、胸の奥が緩んだ。


「リシア。今日は風が強くなりそうだと思う?」

「え?」


彼女は空を見上げ、しばらく雲の流れを追った。


「そうですね。夕方には少し強くなるかもしれません」

「……そうか」

「どうしてですか?」

「村で、同じことを言う人が何人かいたんだ」


リシアは首を傾げた。


「同じことって、風のことですか?」

「言い方まで同じだった」

「偶然じゃないでしょうか。この時期は、みんな空を気にしますし」


まったくそのとおりだった。

自分でも頷きかけたところで、リシアがふいに口を閉ざした。


「……どうした?」

「いえ。あそこにいた人が」


彼女の視線を追うと、広場の北側で野菜を並べていた男が、作業の手を止めていた。

男は誰かを探すように首を動かし、それから何事もなかったように籠へ手を伸ばす。


「何か見つけたのかなと思って」


リシアの声には、特別な意味を見出そうとする響きはなかった。

少なくとも、彼女もその男の動きには気づいたのだ。


「見ていたのは、北の方?」

「たぶん。でも、そんなに気になりますか?」


答える前に、石段の足元で乾いた葉が一枚転がった。

風に押されて石の継ぎ目を越え、もう一枚の葉とぶつかる。

空気は少し冷たくなっていた。


「……気にしすぎかもしれない」


そう答えると、リシアは無理に追及せず、籠の中の薬草を整え始めた。

その横顔を見ながら、今朝から胸に溜まっていた緊張が、少しずつ薄れていくのを感じた。


*


異常が起きたのは、それから間もなくのことだった。

広場の中央を、赤い布を巻いた少年が走っていた。

その後ろを白い犬が追い、パン屋の女主人が店先から何か声をかけている。

井戸のそばでは桶が石に当たり、乾いた音を立てた。

そのすべてが、一瞬だけ遠のいた。

耳が塞がれたわけではない。

人々の話し声も、荷車の車輪が軋む音も聞こえている。


ただ、その音の間にあるはずの風の気配が、不意に抜け落ちた。

足元の落ち葉が、石段から指二本ほどの高さで止まっていた。

風に舞い上がった、その途中の姿のまま。

縁の欠けた茶色い葉が、地面にも空にも属さない場所へ置かれたように浮いている。

目を凝らした。

広場の向こうでは、飛び立とうとした鳥が翼を広げていた。


羽根の先はわずかに反り、尾は空へ向いているのに、身体は屋根の上から少しも離れない。

鳥の下を、籠を抱えた女性が普段どおりに歩いていった。

人だけが動いている。

いや、そう決めつけるのは早い。

荷車は進み、犬は少年を追い、井戸からこぼれた水は石を濡らしている。

止まっているものと、動いているものが、同じ広場に混ざっていた。


「……リシア」


自分でも驚くほど小さな声が出た。


「はい?」


彼女は薬草から顔を上げた。

その瞳は、まっすぐこちらを見ている。


「鳥を……」


言い終える前に、何かが耳の奥で鳴った。

さらり。

乾いた紙を一枚、指でめくるような音。

森で聞いたものと同じだった。

白い亀裂が空を走った、あの瞬間と。

視界の端で、止まっていた葉が落ちた。

鳥は何事もなかったように翼を打ち、屋根から飛び立つ。

広場には再び風が通り抜け、少年の首に巻かれた赤い布がはためいた。

時間にすれば、ほんのわずかだったのだろう。


けれど、呼吸を忘れていたことに気づくまで、ずいぶん長く感じられた。


「レイさん?」


リシアが顔を覗き込んでいた。


「大丈夫ですか。急に真っ青になって」

「……今、何か変なものを見なかった?」

「変なもの?」

「鳥とか、葉っぱとか。動きが止まっていたように見えたんだ」


リシアは広場を見渡した。

飛んでいく鳥の影を追い、足元の落ち葉へ視線を落とす。


「私は、気づきませんでした」


その返答には、嘘をつくときのためらいも、相手を安心させようとする軽さもなかった。

ただ、見ていなかったことをそのまま伝えている。


「……そうか」

「でも、何かあったんですよね」


彼女はそう言って、こちらの手元にある日記を見た。


「さっきから、ずっと何かを確かめているみたいだったから」


胸の奥がかすかに痛んだ。

リシアが異常を目撃したかどうかは分からない。

けれど、目の前の人間が怯えていることには気づいてくれた。


「少し、休めば平気だと思う」

「一緒に治療所まで戻りましょう」


差し出された手に触れる。

その温かさは確かで、石段も、足元の砂も、いつもどおりの重さを持っていた。

広場を行き交う人々は、誰も立ち止まっていない。

あの鳥を見上げた者がいたのか、空中の葉に気づいた者がいたのか、それさえ分からなかった。

少なくとも、異常を訴える声は聞こえなかった。

だからといって、ほかの誰にも見えなかったと決めることはできない。


分かるのは、目の前で確かに何かが起きたこと。

そして、あの紙をめくる音が、再び聞こえたことだけだった。


*


治療所へ戻ると、老人に叱られた。

顔色の悪さを見咎められ、脈を測られ、熱を確かめられ、最後には寝台へ戻される。


「歩けると言っただけで、走り回れとは言っとらん」

「走ってはいません」

「なら、何を見てそんな顔になった」


答えに迷った。

空中で葉が止まったと話せば、熱による幻覚を疑われるだろう。

実際、それを否定できる証拠は持っていない。


「……少し、目眩がしたんです」


老人はしばらく顔を見つめ、それ以上は問い詰めなかった。


「今日はもう寝ていろ。何かあれば呼べ」


リシアは水を替え、薬を手の届くところへ置いてくれた。


「夕方、また様子を見に来ます」

「ありがとう」

「無理しないでくださいね」


彼女が去ったあと、部屋は静かになった。

窓から見える木の枝は風に揺れ、その向こうを小鳥が飛んでいく。

どれだけ見つめても、もう何も止まらなかった。


*


夕刻まで眠れず、日記を開いた。

今朝の三人の言葉を読み返し、広場で起きたことを書き足す。


『落ち葉が空中で静止した』

『屋根の上の鳥が、羽ばたく途中の姿勢で止まった』

『人々、荷車、犬、水は動いていた』

『紙をめくるような音が聞こえた』

『リシアは異常に気づかなかったと話した。ほかの人々については不明』


一行ずつ確かめるように書き終え、筆を置いた。

自分の記憶が正しい保証はない。

それでも、森での出来事と同じ音を聞いたという事実だけは、曖昧にしたくなかった。

紙面の端には、昨日の記述が残っている。


『失われたものを、調査の材料としてだけ扱わないこと』


ラウネの火災で失われた家々。

リシアが森で流した血。

助けを呼ぶために走った彼女の足と、治療所で何度も取り替えられた包帯。

それらは謎を解くための仕掛けではなく、誰かが生きた結果としてそこにあるものだった。

たとえ世界に説明できない仕組みがあったとしても、そのことだけは見失いたくない。


「……世界が、こちらを見ている?」


声に出すと、馬鹿げた考えのように聞こえた。

広場で起きたことが誰かの意思によるものなのか、壊れた魔法の影響なのか、そもそも外の世界で起きた現象なのかも分からない。

ただ、調べれば調べるほど、異常が遠ざかるのではなく近づいてくる。

そんな感覚が、拭いきれなかった。

日記を閉じかけ、ふと手を止めた。

最後のページが、わずかに厚くなっている気がした。

そこはまだ使っていない紙だった。


昨日まで何も書かれていなかったはずの場所に、細い文字が一行だけ残っている。


『これ以上、物語に触れるな』


息を呑んだ。

筆跡は、自分のものではない。

墨の色は日記に使っているものとよく似ていたが、文字の端が妙に整いすぎている。

紙に滲みもなく、誰かが書き込んだ時間を示す手がかりもなかった。

慌てて前後のページをめくる。

ほかの記述は残っており、森のことも、セナの白紙になった予言も、ラウネで聞いた証言も消えていない。

警告だけが、そこにあった。

誰が書いた。

いつ書いた。


どうやって、手元から離していない日記に。

答えは一つも浮かばなかった。

窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。

一つ、二つ、三つ。

数えながら耳を澄ませても、鐘の響きはいつもどおりで、途中で止まることも、別の音に変わることもない。

日記を閉じ、両手で押さえた。

包帯の下で傷が痛み、現実の身体がそこにあることを思い出させる。


もし、これが誰かからの警告なら、少なくとも一つだけ分かることがある。

こちらが何を調べているのか、知っている者がいる。

その事実を認めた途端、静かな部屋の空気が、朝とはまったく違うものに感じられた。


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