二度目の人生では、私を殺した貴方など絶対に愛さないと決めたのに
「愛しているのは彼女だけだ。だから、邪魔な君には死んでもらう」
氷のように冷たい視線とともに渡された、一杯の赤ワイン。
私はそれを一息に飲み干し、喉を焼くような激痛と共に、血を吐いて倒れた。
薄れゆく意識の中で最後に見たのは、無表情で私を見下ろす夫――公爵であるディートリヒの姿と、彼の背後に隠れるように寄り添う小柄な愛人、セリアの薄笑いだった。
(ああ……こんなにも尽くしてきたのに、結局、私は彼に愛されることはなかったのね)
結婚して三年間、ディートリヒを深く愛し、公爵夫人として完璧に領地を切り回してきた。不愛想で冷たい彼がいつか振り向いてくれると信じて。
しかし、彼が外で見つけてきた美しい愛人を屋敷に連れ込んだ日から、私の居場所はなくなった。
そしてついに、私は彼の手で毒殺されたのだ。
(もし……もしも次の人生があるのなら、絶対に彼など愛さない。近づきもしないわ)
そう誓って目を閉じたはずだった。
だが、次に私が目を開けた時、そこは見慣れた公爵領の自室ではなく、実家である伯爵邸の、私がかつて使っていた少女時代の寝室だった。
「……え?」
飛び起きて鏡を見る。そこに映っていたのは、少し幼さの残る十七歳の私の姿だった。
カレンダーの日付を確認し、私は息を呑む。
「三年前……? 今日は、ディートリヒ様から婚約を申し込まれた日……!」
信じられなかったが、頬をつねっても痛い。これは夢ではない。
理由は分からないが、私は毒殺される三年前、婚約の当日に死に戻りしたのだ。
なら、迷うことは何もない。
(あの惨劇を繰り返すわけにはいかない。絶対に、彼からの求婚を断らなければ)
私は急いで身支度を調え、応接間へと向かった。
扉を開けると、そこには前世と寸分違わぬ、漆黒の髪と紫水晶のような瞳を持つ美しい男――ディートリヒ・ヴァン・オルディス若き公爵が座っていた。
「ソフィア嬢。急な訪問を許してほしい」
冷たく響くその声に、私は殺されたときの痛みを思い出して震えそうになるのを必死でこらえた。
「これはオルディス公爵閣下。本日はどのようなご用件でしょうか」
努めて冷ややかに、ビジネスライクに距離を置いて頭を下げる。
前世の私は、彼を一目見た瞬間から恋に落ち「不束者ですが」と頬を染めて求婚を受けた。だが今回は違う。
「単刀直入に言おう。三ヶ月後、私と結婚してほしい」
「お断りいたします」
「……なに?」
即答した私に、ディートリヒはわずかに目を丸くした。前世では見せたことのない、驚愕の表情。
「私はまだ学ぶべきことも多く、公爵家を切り盛りする器ではございません。ましてや、愛のない政略結婚などお受けできかねます」
「愛のない、だと? ……私が君を愛していないとでも言うつもりか」
「はい。閣下には、いずれもっと相応しい、心から愛せるお人形のような美しい方――例えば、平民上がりの可憐な女性などが現れることでしょう。私は邪魔者になりたくありませんので」
私は前世の愛人、セリアのことを当てこすってやった。
これで彼は気分を害し、求婚を取り下げるはずだ。
しかし。
ディートリヒはゆっくりと立ち上がると、私の目の前まで歩み寄り、前世では一度も見たことがないほど、暗く、ねっとりとした熱を孕んだ瞳で私を見下ろした。
「……誰だ、それは。君以外に、私が相応しいと思う女など、この世に存在しない」
「えっ?」
「君が私を愛していないというのなら、それでも一向に構わない。君を公爵邸という名の鳥籠に閉じ込め、君のすべてを私が支配し、誰にも触れさせなければいいだけのことだ」
「な、なにをおっしゃって……」
予想外の言葉に私が後ずさると、彼は長い腕を伸ばし、私の腰を強く引き寄せた。
逃げ場を失い、彼の硬い胸板にぶつかる。
「ソフィア。君は私のものだ。今までも、これからも……何度人生をやり直そうとも、私は決して君を逃がさない」
――え。
今、彼はなんと言った?
『何度人生をやり直そうとも』?
「ディートリヒ、様……? あなた、まさか……」
私が震える声で問いかけると、彼は私の首筋に顔を埋め、深く、狂おしいほど甘い息を吐き出した。
「ああ。君と同じだ、私の愛しいソフィア。私も今日、この日に戻ってきたのだ」
全身の血の気が引くのを感じた。
前世で私を殺した夫は、私と一緒にタイムリープしていたのだ。しかも、彼から発せられるのは憎悪ではなく、信じられないほどの重い執着と、ヤンデレめいた狂気の愛情だった。
「どうして……っ、私を殺したくせに! 愛人を選んで、私に毒を飲ませたくせに!」
私は錯乱し、彼の胸を叩いた。
「離して! 人殺し!」
「……殺した? 愛人? 一体何の話をしている……! そうか、君は誤解したまま死の淵に……」
彼はギリッと奥歯を噛み締め、苦痛に顔を歪めた。
「ソフィア、聞いてくれ。私は君を殺していない……!」
「嘘よ! あなたがワインを渡して……っ」
「すべては君を逃がすための偽装だった。あの時、私と公爵家は、王家の裏切りによって反逆の濡れ衣を着せられ、屋敷は完全に包囲されていた。明朝には全員が処刑される運命だったのだ」
私は目を丸くした。処刑? 王家の裏切り?
「君に飲ませたのは毒ではない。丸二日、死んだように眠る仮死薬だ。あのセリアという小間使いは、君を安全な他国へ逃がすための運び屋だった……!」
「え……?」
「愛人などではない。私は君だけを、狂おしいほど愛していた。だが、君を巻き込まないために冷たく突き放し、不仲を装い、君を安全圏へ逃がそうとした。しかし君の体質が仮死薬の成分に耐えられず、結果的に君は……私の腕の中で、息を引き取ってしまったのだ!」
彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
前世では一度たりとも感情を乱さなかった、氷の公爵。
彼が今、私を抱きしめたまま、子供のように声を上げて泣き崩れている。
「君を失い、私はその場で王家の兵に特攻し、斬り殺された。絶対に、もう二度と君を失わないと誓って……だから、私は神に祈り、この時間に戻ってきたのだ」
「ディートリヒ、様……」
「ソフィア。私はもう間違えない。君を突き放して遠ざけるような真似は二度としない。君を私の腕の中で、甘やかし、守り抜く」
彼は顔を上げ、私の唇を塞ぐように、深く、熱烈な口付けを落とした。
甘く、痺れるような感覚の裏側に、逃げ場のなさを感じさせるような、重すぎる鎖の気配があった。
私が混乱と衝撃に打たれている中、ディートリヒの言葉は止まらなかった。
「君が私に抱いていた深い絶望も、冷たさも、すべて知っている。私が君に毒だと思い込ませた杯を差し出したとき、君の瞳に走った憎しみの色を……私は地獄の底まで落ちる覚悟で受け入れた。あのまま君がセリアと共に他国へ逃れ、私の名前を二度と思い出さずに幸せに生きてくれることだけが、あの時の私が残せる唯一の愛だった」
「そんな……だって、私、ずっとあなたのことが……っ」
「だが、結果は違った。君を乗せた馬車は王家の伏兵に察知され、仮死状態の君を守るためにセリアは命を落とし、そして……強行突破する中で君の荷は谷底へと落ちた。私がどれほどの絶望で叫んだか、君には想像もつかないだろう」
彼はギリッと、血が滲むほどに自分の腕を握りしめた。
紫水晶の瞳に浮かぶのは、過去の自分への激しい憤怒と、私を喪ったあの日の狂気だった。
「その日のうちに、私は公爵家の私兵と暗殺部隊を率いて城を強襲した。王家の者どもを一人残らず八つ裂きにして復讐を果たし、その場にいた貴族たちをすべて粛に血祭りにあげた。……だが、どれだけ血を浴びても君は戻ってこない」
「ディートリヒ様」
「だから私は手を染めたのだ。国で最も禁忌とされる『時逆の秘術』に。我が血筋と、残された私自身の命の半分を代償にしてな」
――命の半分。
私はその言葉に絶句した。彼は私の命を救うためだけに、国を滅ぼし、自らの命を削って三年という時間を巻き戻したというのか。
「ソフィア、私は狂ってしまったのだ。君を守るためならば、君を傷つけるすべてのものを私が先に食い殺せばいい。君の涙を誘う者がいるなら、その一族を根絶やしにすればいい」
彼の声はひどく甘く、けれど身の毛もよだつほどの執着に満ちていた。
「君が私を愛していないならそれでもいい。憎まれてもいい。どうせ私は人殺しで、君の自由を奪う最悪の獣だ。だが、私の隣から君を離すことだけは、神が許しても私が許さない」
「あ……っ」
彼の強烈な愛を叩きつけられ、私は自分の内側に燻っていた復讐心など、安い紙くずのように燃え尽きてしまうのを感じていた。
彼は私を愛していたのだ。誰よりも。世界を一つ滅ぼしてでも。
私が前世で彼に求めた愛情は、こんなにも巨大で、残酷で、狂おしい形をして彼の中に存在していた。
「……バカみたい。あなたって、本当に言葉足らずの愚か者ですわ」
私は彼を恐れるどころか、ふっと笑って彼の胸元を掴んだ。
「私があなたを愛していないだなんて、誰が言いました?」
「……え?」
「私はただ、もう傷つきたくなかっただけ。でも、あなたがそれほどの狂気で私を愛してくれているのなら――もう、諦めるしかありませんわね」
私が彼の手を取り、自身の頬にすり寄せると、彼は子供のように目を見開き、そして大きな嗚咽を漏らした。
それからの日々は、前世とは全く違う、狂気じみたまでの溺愛の日々となった。
私が求婚を拒否したにも関わらず、ディートリヒはその日のうちに私の父である伯爵に莫大な結納金を支払い、強引に婚約を成立させた。しかも、準備期間を極端に短縮し、なんと二週間後には結婚式が挙げられるという異例の速さだった。
「私の可愛いソフィア。今日も美しい」
「ディートリヒ様……少し、距離が近すぎませんか?」
「君の体温を感じていないと、また君が冷たくなって目の前から消えてしまう悪夢を見るのだ。許してくれ」
彼は政務の間も、食事の間も、寝屋でも私を決して一人にはしなかった。公爵邸という彼のテリトリーに完全に迎え入れられた翌日から、彼は公爵家のすべての権限を私に譲り渡し、「君が君らしくあるための世界を作ると誓おう」と囁き続けている。
前世の彼が、私を危険から遠ざけるために冷たく当たっていたという事実は、彼から明かされた通りだった。
彼が雇っていた裏の調査機関の報告書を見せられ、あの時、王家が公爵家を陥れるために恐るべき罠を張り巡らせていたこと、そして、私が前世で彼に無意識に手作りの料理や励ましの言葉をかけ続けるたびに、彼が「これ以上愛したら君を突き放せなくなる。逃がせなくなる」と奥歯を噛み締めながら耐え忍んでいたことを知った。
「私が冷たくするたびに、君が静かに傷つく姿を見るのは地獄だった。夜中に何度も君の寝室へ忍び込み、眠る君の髪に触れ、謝罪し続けたのだ」
「……そんなこと、一言も言ってくれなければ分かりません」
「ああ、私が馬鹿だった。君が死んで、私の中で何かが壊れた。君を守るためならば、世界がどうなろうと構わないと悟ったのだ」
彼の目には、前世のような理性的な冷たさは微塵もなく、ただ私に対する異様なまでの執着だけが、暗い熱となって宿っていた。
彼は前世の記憶を持ったまま、三年前の世界に戻ってきた瞬間から計画を実行に移し始めていた。
まず、公爵家を陥れようとしていた王家の側近連中を、毒や暗殺で秘密裏に粛清。さらには、自身の派閥を確固たるものにするため、他の貴族たちを武力と財力で徹底的に締め上げた。
「君の眠りを脅かすかもしれない不安要素は、すべて土に還す」と本気で公言し、私に近づく他の男性はもちろんのこと、女友達ですらディートリヒの厳しい審査を通らなければ会うことが許されなくなった。
「ディートリヒ様、さすがにそれはやり過ぎです。私をずっと屋敷に閉じ込めておくおつもりですか?」
「できれば一生、私の腕の中に閉じ込めておきたい。だが、君が悲しむ顔は見たくないからな。君が出かけたいというのなら共に行こう。君が太陽の光を浴びたいなら、この世界のすべての庭を君のものにしよう」
彼は本気だった。
王家が公爵家への警戒を深めているというのに、彼はお茶会の帰りの馬車の中で私を抱きしめ、うっとりとした表情で私の髪の匂いを嗅いでいる。
「私は君を、前世で心から愛していた。そして今世でも、君だけが私のすべてだ。もう二度と君に見切りをつけることはないし、君から二度と離れない」
「……」
「ソフィア、私は君のために生きている。君も、私のために生きてはくれないか?」
彼の愛情は、確かに重い。
前世のような冷酷な夫ではなく、私のすることなすことすべてを肯定し、少しでも危険があれば他者を排除するヤンデレ一歩手前の過保護な怪物。
しかし、その根底にあるのは、一度私を失い、自責の念で狂ってしまいそうなほどの「愛」だった。
私が前世で心から望んだ愛情が、とんでもなく巨大化し、歪な形となって返ってきたのだ。
「仕方ありませんね……私がいないと、あなたは本当に息をするのも忘れてしまいそうですから」
私がそっと手を伸ばし、彼の頬に触れると、ディートリヒの紫水晶の瞳からポロポロと大粒の涙が流れ落ちた。
「ああ……ソフィア、ソフィア……!」
氷の公爵と呼ばれた男は、今も昔も、私だけのものだ。
二度目の人生では誰も愛さないと決めたはずなのに。
結局私は、私を愛しすぎて一度狂ってしまったこの男の、重すぎる愛に絡め取られ、逃げられそうになかった。
――いや、本当は逃げる気なんて、最初からなかったのかもしれないけれど。




