前編
「おい、ユリア。今日もその頭のリボン、少々くたびれて見えるぞ。貧乏伯爵家の娘らしい、慎ましさってやつか?」
放課後の廊下。
公爵令息アシュトン・グレイは、いつものように私の頭上へ『毒』を落とした。
「ご心配なく。くたびれているのはリボンではなく、アシュトン様のお口の方ですわ」
周囲が小さく笑う。
アシュトンは目を細めた。面白がっている顔。——私が一番嫌いな顔。
その日の放課後、裏庭に呼び出された時、私は『次の嫌がらせ』を覚悟していた。
薔薇のアーチの下。人影が薄い。
「ユリア。君が好きだ」
息が止まった。
あまりに真面目な声で、あまりに真っ直ぐな目で。
……でも、すぐに理性が私を引き戻す。
はいはい。罰ゲーム。
友人と賭けでもして、私が赤くなるのを笑う。そういう遊び。
受けても地獄、断っても地獄。
なら、私が先に笑ってやる。
「まあ。光栄ですわ」
「……信じてくれるのか?」
「ええ。もちろん」
社交界用の完璧な微笑みを作って、私は言った。
「ただし条件がございますの。惚れさせてから捨てて差し上げますわ」
アシュトンが一瞬だけ固まった。
普段の余裕が、ほんの少しひび割れる。——効いた。
「……いいだろう」
「決まりですわね。では、覚悟なさいませ」
そうして始まった『恋人ごっこ』は、私の想定よりずっと厄介だった。
彼は、私が無理難題を言っても嫌がらない。
高級店に連れて行けば、意地悪な値踏みではなく、真剣な目で似合うものを選ぶ。
学園で視線が刺されば、わざと隣を歩いて『怖くない』とでも言うように肩を寄せる。
……罰ゲームにしては丁寧すぎる。
そして、三日目。
空が割れたような雨が降った。
帰り道。傘を開く前に、馬車が水たまりへ突っ込み、泥水を跳ね上げた。
「危ない!」
強い腕が私を引き寄せ、視界が黒く塞がれる。
アシュトンの背中。礼装が泥で汚れる音がした。
雨の匂いと、濡れた布の温度と、近すぎる体温。
私の心臓が、怒りではない理由で騒ぎ始める。
「……離してくださいませ」
「無理だ。もう一台来るかもしれない」
声が低い。いつもの揶揄がない。
雨音の中で、その言葉だけがやけに真剣に響いた。
少し雨脚が落ち着き、アシュトンがゆっくりと私から身を離す。
私は彼の胸元を見た。泥。濡れ。最悪。
「……服が」
「どうでもいい」
即答だった。
「君が汚れなくてよかった」
言われた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
嫌がらせの台詞なら慣れている。
でもこれは、違う。
私はごまかすように、いつもの武器を振りかざした。
「罰ゲームの割に、徹底していますのね」
「罰ゲーム?」
「ええ。どうせ、私をからかうための——」
言い切れなかった。
アシュトンの目が、笑っていなかったから。
彼は黙って、私の頭のリボンに触れた。
指先が、濡れた結び目をほどいて、結び直す。
……なぜ、そんなことまで知っているの。
私の結び癖。ほどけやすい角度。いつも直されると腹が立つ、あの場所。
「……手慣れていますわね」
「君のリボンは、よく崩れる」
雨粒が頬を伝う。
私が震えたのは寒さのせいじゃない。
「……どうして、いつも私をからかっていたのですか」
自分でも驚くほど、素直な声が出た。
アシュトンは、ほんの一瞬だけ目を泳がせた。
それから、濡れた前髪を指で払って、小さく息を吐く。
「君が笑うから」
「理由になっていませんわ」
「……違う」
彼の声が、少しだけ掠れる。
「君が、僕の前で笑うのが、ずるいんだ」
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




