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浮気相手に走る殿下を許しません

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/02/07

「エルヴィナ・フォン・ハーゲンベルク公爵令嬢」


 名を呼ばれた瞬間、胸の奥がひっくり返るような感覚が走った。

 逃げ場のない場所で、逃げ道のない言葉を投げつけられる、その予感だけで吐き気がした。


 王城大広間の中央に立つのは、私――公爵家ハーゲンベルクの長女であり、王太子妃候補として十年以上この場に立ち続けてきた女だ。


 視線が集まる。

 いつも通りだ。

 だからこそ、次に来る言葉も分かっていた。


「本日をもって、君との婚約を解消する」


 そう告げたのは、ルーカス・フォン・ヴァイデン王太子。

 王国ヴァルシュタインの次代を担う男であり、私の婚約者だった人物。


 頭の奥で、何かが弾けた。


「……は?」


 短く済ませる気など、最初から無い。


「ちょっと待ちなさい。今、何と言ったのか、もう一度、最初から最後まで、言葉を一切省かずに言ってもらえますか?」


 私の声は、震えていなかった。

 代わりに、怒りと屈辱と、それから積み上げられてきた年月が、そのまま音になっていた。


「だから言っただろう。君との婚約を解消する。理由は簡単だ。心が、動いたんだ」


「心が動いた?」


 思わず、笑い声が混じった。


「それだけ? それだけで、ここに私を呼び出して、王城の大広間で、貴族も文官も全部集めて、十年以上続いた婚約を終わらせるわけ?」


 私は一歩踏み出した。

 逃げる気はない。下がる気もない。


「あなたの心が動いた、その一言で、私がやってきた社交、外交、調整、根回し、王太子妃として求められた全てが無かったことになると、本気で思ってる?」


 ルーカス王太子は眉をひそめた。


「エルヴィナ、そういう言い方は良くない。これは、誠実な選択だ。偽りの気持ちで婚約を続ける方が、よほど残酷だろう」


「誠実?」


 その単語を、私は噛み砕くように繰り返した。


「あなたが今している事の、どこに誠実さがあるの。私に事前の相談も無く、家との調整も無く、王家としての説明も無く、ただ“心が動いた”から終わり? それを誠実と呼ぶなら、私が今感じているこの怒りは、何になるの?」


 周囲がざわつく。

 だが私は止まらない。


「それに、心が動いた相手って、この場に立っているその浮気相手でしょう?」


 私の視線の先にいるのは、セラフィーネ・クロイツ伯爵令嬢。

 王太子の新しい恋人だと、今日ここで初めて殿下に紹介された少女。

 だが、皆、二人の関係を知っていた。


 彼女は一歩前に出て、目に涙を浮かべた。


「そ、そんな言い方……私だって、怖いんです。こんな場所に立たされて、みんなに見られて、責められているようで……」


 セラフィーネは声を震わせながらも、言葉を止めない。


「でも、ルーカス殿下が選んでくれたんです。私の気持ちも、不安も、全部受け止めてくれるって言ってくれて……それが嬉しくて、幸せで……」


「幸せ?」


 私は彼女を真正面から見据えた。


「あなたが幸せなのは結構。でもね、その幸せの踏み台に誰がなったのか、考えた?」


「エルヴィナ!」


 ルーカス王太子が声を荒げる。


「彼女を責めるな。これは、僕の選択だ。彼女は何も悪くない」


「悪くない?私が黙認してきたのをいいことに! 浮気でしょうがこれは」


 喉の奥から、熱が込み上げる。


「あなたがそう言うなら、全部あなたの責任って事でいいわよね。私に何の相談も無く、彼女を連れ歩き、夜会で空気を壊して、贈り物をねだられるたびに周囲と揉めて、それでも全部“愛だから”で片付けてきたのは、誰?」


 セラフィーネが、きっと私を睨んだ。


「だって! 嫌だったんです! あの夜会、みんな私を値踏みする目で見てきて! 怖くて、不安で、殿下に助けてほしかっただけなのに!」


「助けてほしかったから、泣いて、ねだって、場を壊した?」


「私は我慢なんて出来ません! 嫌なものは嫌だって言いたいし、欲しいものは欲しいって言いたいんです!」


 胸を張って、そう言い切るその姿に、私は逆に冷静になりそうになった。

 だが、それも一瞬だ。


「そう。じゃあ、私も言わせてもらう」


 私は一度、大きく息を吸った。


「私は、あなた達の都合で切り捨てられる存在じゃない。王太子妃候補として、この国で必要とされる仕事をしてきた。感情を殺して? ええ、我慢してきたのよ。でも、もう我慢ならないわ!」


 ルーカス王太子を、真正面から見据える。


「あなたが今している事は、恋愛じゃない。責任放棄よ。浮気や散財を、愛なんて言葉で誤魔化さないで」


 場の空気が、完全に二手に割れた。


 私は譲らない。

 逃げない。

 黙ってもいない。


 そして、ここから先も、絶対に譲らない。



 王城を出た瞬間から、噂は走った。

 誰かが言葉を慎んだり、様子を見たりする暇など無かった。あの場にいた全員が、見て、聞いて、感じた事を、そのまま口にしていたからだ。


「王太子殿下、本当に浮気相手に走ったそうよ」

「十年以上の婚約を、“心が動いた”の一言で?」

「公爵令嬢を、あの扱い?」


 私はそれを、王都の通りで、屋敷の応接間で、訪ねてきた貴族たちの口から、全部聞いた。

 同情も、憤りも、呆れも、遠慮なく。


 そしてその一方で、王城では別の嵐が吹いていた。



「どうして、みんなあんな目で見るんですか!」


 声を張り上げたのは、セラフィーネ・クロイツ伯爵令嬢。

 王城内の私室で、椅子を強く引き、勢いよく腰を下ろしていた。


「歩いているだけなのに、ひそひそ話をされて、値踏みされて、私が悪いみたいな顔をされて! 耐えられません!」


 その向かいに立つのは、ルーカス・フォン・ヴァイデン王太子。

 彼は腕を組み、苛立ちを隠そうともせずに答えた。


「気にするな。あれは、旧来の価値観に縛られた連中の嫉妬だ。僕が選んだのは君だ。それが全てだろう」


「でも、私は嫌なんです!」


 セラフィーネは立ち上がり、言葉を重ねる。


「夜会でも、皆が私を見て笑ってる気がして、胸が苦しくなって、殿下の隣に立っているだけで震えるんです! それなのに、誰も私を守ってくれない!」


「守っているじゃないか」


 ルーカス王太子は即座に言い返す。


「僕は君の味方だ。君が嫌だと言うなら、その夜会には出なくていい。贈り物が欲しいなら、用意させる。無理をする必要は無い」


「本当ですか?」


 ぱっと顔を明るくしながらも、セラフィーネは続ける。


「じゃあ、あの公爵夫人の夜会、行かなくていいですよね? 前に睨まれた気がして、どうしても嫌で……それに、新しい宝石も欲しいです。殿下の気持ちを形で感じたいんです」


「分かった」


 即答だった。


「必要な物は全部用意させる。君が不安になるくらいなら、社交なんて後回しでいい」


 その言葉が、さらに火に油を注ぐ。



 数日後、王都最大級の夜会。

 招待状は届いていた。だが、王太子とその新婚約者の姿は無かった。


「欠席?」

「まさか、また?」


 ざわめきが広がる中、主催者であるグレゴール・フォン・シュタインベルク侯爵が顔をしかめた。


「理由は何だと聞いている?」


 側近が、言いにくそうに口を開く。


「……伯爵令嬢が、場の空気が悪いと」


 侯爵は思わず声を荒げた。


「それで欠席?王太子もか?」


「はい。殿下は“愛する人を不安にさせる場には行かない”と」


 その言葉は、瞬く間に広がった。


「愛?」

「それで国家行事を軽んじるの?」

「感情と責務の区別もつかないのか」


 誰もが、憤っていた。



 一方、王城の私室。


「どうして、皆、分かってくれないんですか!」


 セラフィーネは、今度は涙を流しながら叫んでいた。


「私は殿下を愛しているだけなのに! 不安になったら泣いて何が悪いんですか。王太子の婚約者が、欲しいものも買ってもらっては駄目なのですか」


「悪くない」


 ルーカス王太子も声を荒げる。


「君は正しい。正直で素直だ。それこそが、僕が惹かれた理由だ」


「だったら!」


 セラフィーネは勢いよく詰め寄る。


「だったら、私をもっと前に出して下さい! 皆の前で、私を選んだって、堂々と言って下さい!」


「分かった。次の場では、もっと紹介しよう。誰にも軽んじさせない」


 そう約束した声は、やや弱かった。



 その頃、私は屋敷の応接間で、訪ねてきた貴族たちと、同じように怒りをぶつけ合っていた。


「悔しかった。腹が立った。軽んじられたと、はっきり感じました」


 私は、エルヴィナ・フォン・ハーゲンベルク公爵令嬢として、包み隠さず語る。


「でも、それだけじゃない。私が積み上げてきたものが、どれだけ国の支えになっていたかを、今になって皆が口にしてくれる。それを聞いて、救われてもいます」


 向かいに座るのは、カスパル・フォン・ノイベルク辺境伯。

 今回、初めて正式に顔を合わせた人物だ。


「あなたは、自分の価値を過小評価しすぎだ」


 彼は、遠慮なく言った。


「王太子が失ったのは、恋人ではない。王太子妃にふさわしい能力を持った人間だ。それを、劣情で切り捨てた代償は、必ず返ってくる」


 私は、はっきり頷いた。


「ええ。だから私は、もう黙らない。向こうが愛を振りかざすなら、こちらも言いたい事は言う。それだけです」


 王城では、愛を理由に王太子の孤立が進んでいる。

 そして私は、次の道へ進もうとしていた。



 最初に気づいたのは、朝だった。

 王城の執務室で、いつものように書類に目を通していたルーカス・フォン・ヴァイデン王太子は、机の上に置かれた封書の束が、目に見えて少ないことに苛立ちを覚えた。


「……少ないな」


 ぽつりと漏らしたつもりだった言葉は、即座に不満へと膨れ上がる。


「おかしいだろう。例年なら、今の時期は夜会や晩餐会の招待で溢れているはずだ。どうして、これだけしかない?」


 傍らに控えていた ハインリヒ・クラウゼ文官長 が、顔を強張らせた。


「殿下……実は、その……」


「歯切れが悪い。全部言え。私は遠回しな説明が一番嫌いだ」


 ルーカスは机を叩いた。


「はい。招待状が減っています。正確には……殿下宛だけでして、王家の他の方への招待状は変わっておりません」


「変わっていない?」


 その単語に、苛立ちが露骨に混じる。


「つまり、私個人を招いていないと?」


「……そうなります」


 ルーカスは立ち上がった。


「ふざけるな。誰がそんな判断をした。私は王太子だぞ。次期国王だ。個人感情で排除していい立場じゃないだろう!」


 文官長も、感情を抑えなかった。


「個人感情だと、誰が決めたのですか。殿下が劣情を優先した結果だと、皆が口にしています。あの婚約解消の件が、社交界では未だに話題の中心です」


「だから何だ!」


 ルーカスは声を荒げる。


「愛を選んだ。それの何が悪い。偽りの婚約を続ける方が、よほど無責任だ!」


「その言葉が、最も反発を招いています」


 文官長は、真正面から言い切った。


「殿下が切り捨てたのは、婚約者ではなく、婚約者として殿下を支えていた人間だと。そう皆が言っています」


 その瞬間、扉が勢いよく開いた。



「また、招待が来てないんですか!」


 飛び込んできたのは、セラフィーネ・クロイツ伯爵令嬢。

 頬を紅潮させ、息を荒げ、感情を隠す気など一切無い。


「朝から嫌な予感がしてたんです! 廊下の侍女たちが、私を見る目が冷たくて、ひそひそ話も止めなくて!」


「落ち着け」


 そう言いながらも、ルーカス自身が落ち着いていなかった。


「気にするなと言っただろう。彼らは旧来の価値観に縛られているだけだ」


「でも!」


 セラフィーネは言葉を重ねる。


「夜会に行かないと私、いつまでも“こそこそ連れ歩かれる女”みたいじゃないですか!殿下は前に、皆の前で堂々と選ぶって言いましたよね!まだ、浮気相手の扱いなんですか」


「言った。だから、次の機会で」


「その“次”が、無いって話じゃないですか!」


 叫ぶように言い放ち、彼女は机を叩いた。


「私、こんなの耐えられません! 愛しているなら、私を社交界に帯同して下さい! そうじゃないなら、どうして選んだんですか!」


 ルーカスは、感情を爆発させた。


「選んだと言っているだろう! だから、君を守るために、無理な場に出さない判断をしているんだ!」


「それ、守ってるって言いません!」


 セラフィーネも引かない。


「私は、隠されたいわけじゃない! 称賛されたいんです! 婚約者として、見られたいんです!」


 執務室の空気は、完全に荒れた。



 一方、王都の別の場所では、まったく逆の光景が広がっていた。


 ハーゲンベルク公爵邸の応接間。

 私は、訪ねてきた貴族たちを前に、椅子に腰を下ろしていた。


「正直に言うわ。まだ怒りもあります。でもね、それ以上に、今まで見えていなかった良い評価が、一気に押し寄せてきて、戸惑ってもいます」


 私――エルヴィナ・フォン・ハーゲンベルク公爵令嬢は、包み隠さず語る。


「あなたがいなくなって、不都合が増えている」


 そう言ったのは、マティアス・フォン・ベルンシュタイン伯爵。


「夜会の調整、衝突の仲裁、気難しい相手への対応、全てあなたが引き受けていた。正直、誰もそこまでやっているとは気づいていなかった」


「気づかなかったでしょうね」


 私は苦笑混じりに言った。


「でも、私はそれを承知でやっていたのです。王太子妃候補として、殿下を立てるのが役目と思っていましたから」


 その場にいた カスパル・フォン・ノイベルク辺境伯 が、深く頷く。


「だからこそ、今、皆が騒いでいる。大切な存在がいなくなった事を、理解したからだ」


「理解、ね」


 私は肩をすくめた。


「向こうが劣情で切ったのなら、こちらも黙ってはいない。それだけです。私は、黙って消える気なんて無いですから」


 来客の一人が、声を張り上げた。


「次の晩餐会、あなたに立ってほしい!」


「私も、あなたが来るなら出席する!」


 言葉が、重なる。


 招待が、私の元に集まり始めていた。



 その頃、王城では、さらに悪循環が続いていた。


「欠席の返事が、また増えています」


 文官長の報告に、ルーカスは怒鳴り返す。


「だから何だ! 来ないなら来ないでいい! 無理に頭を下げる必要は無い!」


「殿下」


 文官長も声を荒げた。


「それが、孤立だという事を、理解して下さい! 社交は皆の気持ちを考えなければ! 殿下は婚約者を裏切り、浮気相手を選んだ。その反動が、今、返ってきている!」


「返ってきているのは、偏見だ!」


 ルーカスは叫ぶ。


「私は間違っていない! 愛を選んだだけだ!」


 その言葉を、セラフィーネが聞き逃すはずがなかった。


「じゃあ、どうして私は、こんなに不安なんですか!」


 涙声で、しかし止まらずに言い続ける。


「選ばれたはずなのに、どこにも居場所がない! それって、愛じゃないって事じゃないですか!」


 答えは、出ない。


 その一方で、私の評価は上がっていく。

 必要とされていた人間として。



 最初に言っておく。

 私はもう、曖昧な話をする気は無かった。

 同情も、慰めも、空気を読む配慮も、全部いらない。必要なのは、正面からの感情だった。


「本日は、はっきり話すつもりで参りました」


 そう切り出したのは、カスパル・フォン・ノイベルク辺境伯。

 辺境を治め、軍務と開拓の責任を一身に背負う男であり、王都では“無骨で面倒な正論を吐く人物”として知られている。


 場所は、ハーゲンベルク公爵邸の応接間。

 私は逃げ道を作らず、正面の席に座っていた。


「回りくどい話は嫌いだと聞いています」


 彼は背筋を伸ばし、感情を隠す気もなく続けた。


「あなたが王太子との婚約を解消された件、社交界の混乱、そして今、あなたの元に招待が集中している状況。その全てを、私は興味本位ではなく、あなたへの評価として見ています」


「興味本位で来られていたら、今ここで帰るところでしたわ」


 私も遠慮なく返す。


「正直に言います。殿下のなさりように、未だ怒っていますし、今になって評価される事にも、複雑な気持ちを抱えています」


 カスパル辺境伯は、即座に頷いた。


「それでいい。感情が整理されていない状態で、落ち着いた顔をされる方が、よほど信用ならない」


 その言葉に、胸の奥が僅かに熱くなった。


「では、本題に入ります」


 彼は身を乗り出した。


「私は、あなたに縁談を申し込みたい。ただし、条件付きです」


 条件、という言葉に、私は眉を上げた。


「聞きますわ。ただし、今の私は殿方に不信感を持っておりますよ」


「もちろん、承知の上」


 彼は一度も視線を逸らさなかった。


「私は、あなたを“癒しの存在”として求めているわけではない。可哀想な元婚約者としてでもない。あなたは、殿下を支えた立派な方だ。その力を、私の領地でも必要としている」


「随分と正直ですね」


「正直でないと、後で必ず拗れる」


 言い切る声に、迷いは無かった。


「同時に、私はあなたが怒っている事も、悔しがっている事も、婚約破棄を引きずっている事も、全部込みで受け止めたい。綺麗に整えられた姿だけを見せられても、私は信用しない」


 私は、思わず笑った。


「変わった方ですね。普通は、そこまで露骨に言いません」


「普通である必要がない立場なので」


 即答だった。


「私は辺境伯だ。王都の好感度より、現場の実感を重視する」


 その言葉を聞きながら、私は自分の感情を押し出した。


「私は、また“使われる”形の縁談は受けません。王太子妃候補として、何年もそうしてきた。自分の感情を、後回しにする役目は、もう終わりにしたい」


「それも、承知している」


 彼は声を強めた。


「だから、あなたには遠慮なく意見をぶつけてほしい。怒りも、不満も、不安も、全部だ。我慢される方が、私は困る」


 困る、という言葉が、やけに真っ直ぐだった。


「……あなた、本当に貴族社会で生きてきました?」


「生き残ってきただけだ」


 短く、しかし感情のこもった答えだった。



 その日の夜。

 自室で一人、考えていた。


「利用価値として求められる事に、腹が立つ。でも、それを正直に言われた事には、安心もしている」


 声に出して、自分に言う。


「優しい言葉だけを並べられるより、よほど信用できる」


 そこへ、再び王城からの噂が届いた。


「王太子殿下が、また夜会を欠席されたそうです」

「理由は、伯爵令嬢が不安定だからと」


 思わず、舌打ちが出た。


「相変わらずね」


 その直後、訪ねてきたのは マティアス・フォン・ベルンシュタイン伯爵。


「噂は聞いているだろう?」


「ええ。相変わらずみたいですね」


 私は即答した。


「王太子は、愛を盾にすれば全て許されると、本気で思っている。その結果、何を失っているのかを、まだ理解していない」


「君は、戻るつもりは?」


 伯爵の問いに、私は即座に首を振った。


「無い。完全に無いですわ。感情的にも、立場的にも、価値観的にも」


 その言葉は、揺れていなかった。



 数日後。

 再び、カスパル・フォン・ノイベルク辺境伯が訪れた。


「考える時間は必要ないと思ったが、感情が出揃う時間は必要だと思った」


「正解です」


 私は率直に答えた。


「正直、あなたの話を聞いてから、ずっと怒りと安心が同時にあります」


「それでいい」


 彼は一歩も引かない。


「では、改めて聞く。あなたは、私と来るか」


 私は、胸の奥の熱を、そのまま言葉にした。


「行きます。ただし、私の意見も常に聞く事を条件に」


 彼は、即座に頷いた。


「それが、最も価値のある条件だ。黙っている女性は信用ならない」


 その瞬間、私は理解した。

 この相手で良い。



 予告も無く訪ねてきた時点で、嫌な予感はしていた。

 けれど私は、その予感を呑み込む気は無かった。


「通せと言われました」


 そう告げた執事の声に、私は即座に答えた。


「通しなさい。ここまで来たなら、全部言わせる」



 扉を開けて現れたのは、ルーカス・フォン・ヴァイデン王太子。

 顔色は悪く、だが感情だけは相変わらず溢れていた。


「久しぶりだな、エルヴィナ」


「久しぶり、で済むと思っているなら、その時点で話にならないわ」


 私は椅子から立ち上がり、逃げ場を与えない距離まで歩み寄った。


「で、今日は何を言いに来たの。謝罪? 言い訳? それとも、また“心が動いた”の続き?」


 ルーカスは、私の言葉を遮る勢いで口を開いた。


「違う。今日は、正直な気持ちを話しに来た。愛の話だ」


「それは結構。私も隠す気は無いから」


 互いに、譲らない。


「正直に言う」


 ルーカスは拳を握りしめ、感情を吐き出した。


「間違っていた。君を手放した事を、今になって後悔している。君がいなくなって、社交もうまくいかず、王城の空気も全てが悪くなった」


「それで?」


 私は即座に返す。


「悪くなったから戻りたい?愛の話をすると言いながら、出てくるのは立場と都合の話だけね」


「違う!」


 声を荒げ、彼は続けた。


「君が必要だと、やっと分かったんだ!」


「必要?」


 喉の奥で、笑いが混じる。


「あなた、私を“愛している”と言ったのに切り捨てたのよ。今さら“必要”って言葉にすり替えないで」


 彼は、感情を止めなかった。


「セラフィーネとは、上手くいっていない。彼女の不安も、要求も、全て受け止めてきた。でも、限界なんだ!」


「受け止めた?」


 私は、語気を強める。


「受周りの忠告を全部“愛”で切り捨てて、その結果、孤立した。それだけよ」


 ルーカスは、私に詰め寄った。


「だから、戻りたい! 君となら、また立て直せる!」


 その瞬間、扉が開いた。



「随分と、都合のいい話をしているな」


 入ってきたのは、カスパル・フォン・ノイベルク辺境伯。

 感情を隠さない鋭い声だった。


「ここは、ハーゲンベルク公爵邸だ。許可なく踏み込んで、元婚約者に縋るのが、殿下のやり方ですか」


「君は、関係ない!」


 ルーカスが叫ぶ。


「彼女と僕の問題だ!」


「関係ある」


 即答だった。


「私は、彼女と縁談を結ぶ予定の人間だ」


 ルーカスは、私を見る。


「本当なのか、エルヴィナ。彼と……?」


「ええ、本当よ」


 私は、一切ぼかさずに答えた。


「私は、彼と進む。あなたと違って、私の意見を聞いて下さる方ですから」


「そんな理由で!」


「そんな理由?」


 私は怒鳴り返した。


「あなたは、私を切り捨てて、浮気相手を選んだ。その結果を、覆そうとしている。それを“そんな理由”と呼ぶなら、あなたとは最初から価値観が違う」


 ルーカスは、感情を爆発させる。


「君だって、僕を愛していたはずだ! 簡単に切り替えられるはずがない!」


「簡単じゃない」


 私は、はっきり言った。


「悔しかった。腹が立った。眠れない夜もあった。でも、その全部を受け止めてくれる相手が、ここにいる」


 私は、カスパルの方を向いた。


「彼は、私が怒っている事も、傷ついている事も、全部込みで必要だと言った。あなたは、浮気相手に走った」


 カスパルが、一歩前に出る。


「王太子殿下。あなたは、劣情を理由に責任を放棄した。今、本当に必要だった女性を取り戻そうとしている。だがもう、彼女の未来に殿下は含まれていない」


「黙れ!」


 ルーカスが怒鳴る。


「君は、彼女を利用しているだけだ!」


「利用?」


 カスパルは、感情を露わにして返す。


「そうだ。私は、彼女の力も、感情も、全部必要だと言っている。それが、あなたとの決定的な違いだ」


 私は、はっきりと宣言した。


「帰って。これ以上、私の時間を奪わないで」


 その言葉に、ルーカスは立ち尽くした。


「……分かった」


 だが、その声には、納得も、理解も、無かった。


「後悔するなよ」


「後悔するのは、あなたよ」


 私は、言い切った。


「私を失った事そのものが、あなたの断罪になる」


 扉が閉まる音が、はっきりと響いた。


 私は、振り返らなかった。



 その日は、最初から隠す気のない日だった。

 祝福も、評価も、比較も、全部ひっくるめて晒される日だと分かっていたからだ。



 王都中央、式典用に整えられた大広間。

 貴族も、文官も、地方領主も集まり、視線と感情が一斉に一点へ向けられていた。


 壇上に立つのは、私――

 エルヴィナ・フォン・ハーゲンベルク公爵令嬢。


 その隣に立つのは、

 カスパル・フォン・ノイベルク辺境伯。


 司会役のフリードリヒ・ローレンツ宮廷式典官が告げる。


「本日ここに、ハーゲンベルク公爵家とノイベルク辺境伯家の正式な婚約を発表いたします」


 ざわめきが、響く。


「早すぎない?」


「でも、納得は出来ているのだろう?」


「そうね」


 私は、もう怒ってはいなかった。



 カスパルは、一歩前に出た。

 隠す気のない声で、はっきりと語る。


「私は、この縁談を、政治的な計算だけで結んだわけではない」


 視線が集まる。

 彼は、止まらない。


「エルヴィナは、怒る。泣く。腹を立てる。言い返す。意見する。それを、私は価値だと思っている」


 私は、胸の奥が熱くなるのを止めなかった。


「私は、彼女に我慢を求めない。静かである事も、慎ましさも、美徳として強要しない。彼女が言葉を失わない事こそが、私の領地と人生に必要だ」


 ざわめきが、肯定へと変わっていく。


「辺境伯らしい」

「分かりやすい」

「正直だ」


 次に、視線が私へ向けられる。


 私は、一歩前に出た。


「私も、正直に話します」


 声は、よく通った。


「私は、かつて王太子の婚約者でした。必死で支え続けました。それを、心が動いたという一言で切られました」


 隠さない。

 曖昧にしない。


「悔しかった。怒った。自分の価値を疑った。でも今は違う」


 私は、カスパルの方を向く。


「私は、選ばれました。全部含めて」


 その瞬間、空気がはっきり変わった。



 広間の後方。

 誰も紹介しない位置に、ルーカス・フォン・ヴァイデン王太子が立っていた。


 隣には、セラフィーネ・クロイツ伯爵令嬢。


 二人とも、隠しきれない感情を顔に浮かべている。


「……あんな言い方、ずるい」


 セラフィーネが、声を震わせて吐き出す。


「全部、堂々と肯定されてる。私が、あそこに立つはずだったのに」


「違う」


 ルーカスは、苦しげに言い返す。


「君は、選ばれた。僕は、君を選んだんだ」


「でも!」


 セラフィーネは止まらない。


「私は、あんなふうに褒められた事がないわ! 称賛を受けたい!」


 ルーカスは、言葉を探し、見つけられなかった。



 その音を聞きながら、ルーカスは唇を噛みしめた。


「……あれが、答えか」


 思わず、言葉が漏れる。


「僕が切り捨てたのは、婚約者じゃない。未来そのものだった」


 セラフィーネは、震える声で叫んだ。


「じゃあ、私は何だったの!」


「浮気だ」


 ルーカスは、逃げずに答えた。


「責任を伴わない、軽い浮気だった」


 その時、殿下は、二人目の愛を失った。


 後に、殿下は、再度婚約を破棄したが、王家の信用を大きく落とした事を理由に廃太子となった。

 セラフィーネは、国外に追放となったそうだ。



 対して、私は、幸せだった。

 胸を張って、そう言える。


 評価され、受け入れられ、未来がある。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
王太子やん?殿下やん?王様は何しとんねん!
面白かったです! >「私を失った事そのものが、あなたの断罪になる」 なんてかっこいいセリフ…! 親世代が空気みたいでしたが、実の娘が、他人の婚約者略奪したと思ったらアウェイ感ただよわせ→引きこもり…
不貞を働き 場を乱し 礼を失し 仕事をしない なぜ賞賛されると思ったんだろう、このお嬢ちゃん。 幼児の方がまだ頭良さそう。
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