序章:歪な静寂の中で
——世界は、「善」と「悪」という二極の力に引き裂かれていた。
天に在すは、天使たち。
地を統べるは、魔王軍。
信仰と破壊。
救済と脅威。
この世界にとって、あまりに明確すぎる構図。
——にもかかわらず、戦局は常に曖昧だった。
互いに攻めるでもなく、守るでもなく。
衝突の火種はあれど、大きな戦争にはならない。
不思議な“静寂”が、長く続いていた。
──魔王城・黒鉄の玉座の間。
真夜中のように重い天井。黒曜石で組まれた壁。
その奥深くにある、円卓の間にて、魔王軍四天王が集っていた。月に一度の軍事会議である。
静寂の中、玉座の主が瞼を開いた。
白磁のような肌に、淡く光る金の瞳。
小柄な身体に豪奢な黒のローブを纏い、足を組むその姿は、まるで幻想の中の姫君のようだった。
だが、誰もが知っている。
この少女こそが——《魔王》であると。
「……冥界軍は、線を越えた。今、手を打たねば、やがて此方が呑まれる」
その声音は静かで澄んでいて、風鈴のように美しい。
けれど、なぜか背筋を凍らせる重さがあった。
誰一人として、その言葉に逆らえない。
たとえ力で勝てる者がいたとしても、“否”と言えぬ威光がそこにはある。
「魔王様のお言葉は、すなわち勅命です」
魔王軍第一将・セレンがひざまずき、薄く笑う。
白銀の髪がさらりと揺れ、龍の紋様が入った漆黒の鎧が煌めいた。
その妖しくも美しい容貌は、人ではなく——龍と人の血を引く、彼女だけが持つ威容だった。
「直ちに軍を展開し、冥界境界線へ布陣させます」
「勝手に決めるな、セレン」
ぐわり、と重い声が飛ぶ。
第二将・オウガの肩が鳴るたびに、会議の床がきしむ。
「魔王様がそう言ったのは分かる。だが俺は納得してねぇ。
冥界軍が精霊軍の領域へ侵攻? 知ったこっちゃねぇよ。それよりも、人間軍のクソ勇者共を蹴散らすために俺の“覇王衆”の進軍許可を許せ」
セレンが立ち上がる。
「あなたの部隊は最前線でこそ真価を発揮する。今回も同じ——」
「黙れ、半人の薄汚れた血が」
「……」
ピリつく空気。
そのとき——
「でもさ、オウガさん」
空気を読まない声が、入った。
「冥界軍って、大地の善なるマナを喰らい“力を吸収する”って噂、ありません?あれ、もし本当だったら……“力を求める”オウガさんにとって、願ってもない相手っすよね?」
ぽんと手を叩きながら話すのは、第四将・ゲイル。
茶菓子の入った盆を抱えながら、にこにこと笑っている。
「冥界軍、倒したら倒しただけ、強くなれるかもしれませんよ?」
オウガの目が細くなった。
「……ほう」
隣で、ヨールが怪しく笑う。
「ふふ、それは確かに一理あるね。冥界軍が独自に扱う“腐敗の力”……うまく取り込めば、新たな力を得られる可能性はある」
「実際、やたらと勢力の成長速度が早い。我々魔王軍と肩を並べるほどまできている。今のうちに潰さないと、魔王軍の脅威となり手遅れになる」
セレンが、ゲイルを一瞥しながらうなずいた。
「“暴れる理由”が欲しいなら、いくらでも用意するわ。貴方が前に出るなら、私の部隊も支援する」
数秒の沈黙ののち——オウガが立ち上がる。
「……チッ、魔王様の命とあらば、逆らえねぇのは分かってる。だがテメェのしょうもないアヒル部隊は不要だ。俺の“覇王衆”だけが出る」
巨大な拳を鳴らし、鼻息荒く言い放つ。
「だがやるなら徹底的にやる。冥界の連中、根こそぎ潰す」
オウガは鼻を鳴らすと、豪快に立ち上がった。
その巨体が振り返りもせず、無言で扉の向こうへと消えていく。
足音だけが、会議場に重く響き続けていた。
「フフ……頼もしいですね。オウガさんの軍で事足りるでしょうが、オウガさんに怒られない程度に後方支援しておきますよ。よろしいですね?セレン嬢」
「……ええ」
ヨールは席を立ち、マントを揺らしながら会議場を後にする。
その笑みは、まるで“何かを仕込んだ者”のように意味深だった。
セレンは一瞬だけゲイルに視線を向けた。
その瞳には熱も冷たさもなく、ただ、何を考えているのか測りかねる無機質な色が宿っていた。
そして次の瞬間には魔王へと向き直り、恭しく一礼して、無言のまま部屋を後にする。
——そして、部屋に残ったのは、ゲイルと魔王、そして床に転がった茶菓子だけ。
「……魔王様。俺、適当なこと言っちゃいましたけど、よかったんすかね」
ゲイルが頭をかく。
魔王は、彼にだけわずかに微笑んだ。
それは、誰も見たことのない、少女らしい表情だった。
「……きっかけが必要だっただけ。貴方の言葉は、十分に力を持っていたわ」
「……それ、なんか意味深っすね〜。んじゃあ魔王城の掃除部隊の指揮とってきますわ」
とぼけた笑顔の裏に、誰も知らない力が潜んでいる。
それに気づいているのは、この魔王だけだった。