最後の言葉
秋が深まる頃、父の容態は急変した
ある日学校から帰ると
母が沈んだ顔で僕を迎えた
何かを言おうと口を開きかけて
でも言葉にならないようで
ただ僕の頭を優しく撫でた
その夜、病院へ向かった僕を待っていたのは
これまでで一番静かな父の姿だった
「……父さん」
呼びかけると
うっすらと目を開けて微笑んだ
「来たか……」
声はとてもかすれていたけれど
それでもいつもの優しい響きを持っていた
僕は震える手でカバンの中から
一枚の絵を取り出した
「今日、これ……描いてきたんだ」
父に見せたのは
青空の下を走る自転車の絵だった
ペダルを漕ぐのは僕ではなく、父だった
病気なんてどこにもなくて
ただ風を切って進む姿
父はしばらくじっと絵を見つめていた
やがて、ゆっくりと目を閉じ小さく呟いた
「いいな……また、乗りたいな」
それが父の最後の言葉になった
季節は冬へと移り変わり
僕は父のいない日々に少しずつ慣れていった
けれど、自転車に乗るたび
あの日の夏のことを思い出す
錆びついたチェーンを
直してくれた父の手、優しい笑顔
そして最後に交わした言葉
春が来る頃、僕は新しい絵を描いた
広い青空の下
父が自転車を漕いでいる
どこまでも続く道を 風を受けながら
笑顔で走り抜けていく
それは僕の心の中で
ずっと続く景色だった
父が旅立ってから季節は巡り
僕は中学生になった
それでも父の面影は
日常のあちこちに残っていた
ガレージの片隅に置かれた工具箱
母が大切にしている古いスケッチブック
そして…
あの日、父が整備してくれた自転車
僕は時々その自転車に乗った
ペダルを踏み込むたび風が頬を撫で
父の言葉が胸の奥で蘇る
「また乗りたいな」
── 叶わなかった父の願いを
代わりに僕が叶えているような気がした
つづく




