初めての日本の夏、南極で生まれ育った身ですが、桂川で泳ぎます
余り童話ぽくない話になりましたが、ご笑覧くだされば幸いです。
「夏とはいえ、この辺りの川辺は涼しくていいな」
親戚、私から言えば父の従弟になる上里松一さんが、そういって日除けの大きな傘を地面に突き立てて、川で泳げるように準備を始めた。
当然のことながら、私達も協力して、色々な準備をすることになる。
本来ならば、松一さんは摂家の次期当主になるほどの身分である以上は、こんなことは下男等にさせるのが当然なのだろうが。
上里家の本来の家風がそうだったとのことで、余りにも庶民的過ぎる気が私にもするが、松一さんは気にせずに、そういったことをする。
更に言えば、私や妹、更に従弟妹達にとっても、その方が有難かった。
生まれ育ちの関係から、私達はそういった礼儀作法がまだまだ身についていない。
それこそ学習院では、そういったことで周囲からイジメられているといっても過言ではない。
(周囲に言わせれば、礼儀作法を身につけていない私達が悪い、と言われるが。
そうは言っても、と私達は考えざるを得ないのだ)
私や妹、更にこの場に居る従弟妹達は、全員が南極大陸にある日本の基地で生まれ育った身で、飛鳥井家の一族になる。
そして、私の父方祖母の飛鳥井雅子は、今の日本の中宮陛下である美子様の異母姉にもなる。
(つまり、皇太子殿下は父の従弟ということになるのだ)
更に言えば、飛鳥井家はれっきとした羽林家、公家の家柄でもあるのだ。
そんな私が、何故に南極大陸で生まれ育ったのか、というと。
私の実父になる飛鳥井雅宣が宮中女官と密通、乱交の宴を行うという大不祥事を、実兄(私からすれば伯父)になる飛鳥井雅賢や他の男女と共にやらかしたからだ。
このことが、当時の後陽成天皇陛下の逆鱗に触れて、当時は尚侍を務めていた中宮陛下の美子様の指示もあり、時の飛鳥井家当主、飛鳥井雅庸は息子二人を「南極送り」にした次第だ。
尚、雅子おばあ様は、それこそ異母妹の美子に土下座してまで、息子二人の処分の緩和を願ったらしいが、美子大叔母様は、それを冷たく拒否したらしい。
(その為に、未だに雅子おばあ様と美子大叔母様の仲は極めて悪いらしい。
後、雅子おばあ様が正妻の子で、美子大叔母様が愛妾の子なのに、美子大叔母様が摂家の九条兼孝夫妻の養女になったこと等から、美子大叔母様の方が完全に身分が上になっていることも、不仲の原因になっている、と私は色々な人から聞かされた。
もっとも二人が実際に顔を合わせて、やり取りをするのを私は見たことが無いので、何処まで本当なのだろうか、とも考えてしまう)
かくして、私の父と伯父は南極大陸に赴いて、更に身の回りの世話をする侍女とそれなりの関係をもって、私や(異母)妹、従弟妹達が南極大陸で生まれ育ったという次第になる。
そして、ずっと南極大陸にある日本の基地で生まれ育った私達だが。
私の父や伯父が「南極送り」になって10年余りが経ち、流石に頭が冷えて、我が身を律する気になったろう、と今上(後水尾天皇)陛下が考えられ、又、伊達政宗首相が口添えされたことから、大日本帝国憲法改正に伴う赦免という形が取られて、私の父や伯父は日本本国への帰国が許され、南極で生まれ育った私達も日本に向かうことが出来たという次第だ。
だが、細かいことを言えば、南極大陸を出た直後から、更には日本本国にたどり着いて早々に、南極大陸で生まれ育った私達は様々な衝撃を受けることになった。
「夏と冬が逆なの。7月の今頃は、ずっと夜だと想っていた」
「日本は北半球にあるからね。7月は夏になる。更に言えば、極夜、白夜ということは、それこそ夏至や冬至の頃にも日本ではならないよ」
「そうなんだ」
私達は、呆然とするしか無かった。
真夏はずっと昼間、真冬はずっと夜間、それが当たり前だと私達は想っていたのだ。
他にも色々と驚くことばかりだった。
「建物の外に太陽が出ている昼間に出るのに、色眼鏡(サングラス)を掛けなくてもよいの。昼間に外に出るのに色眼鏡を掛けないと目が痛くなるし、他にも酷いことになるよ」
「雪が積もっていないから、そんなことはない。大丈夫だよ」
細かいことを言うと、後になって自分達には分かったことだが。
南極大陸のような雪や氷の世界では、太陽が照り付ける昼間に裸眼で出歩いては、紫外線によって雪盲症が引き起こされてしまうのだ。
だが、雪が積もっていない日本では、そんな心配は皆無だったのだ。
「真夏どころか、真冬でも雪がそう積もらないなんて。ずっと雪と氷の世界で生まれ育った自分達にしてみれば、一年中、外がずっと暑くて死にそうだ」
「大袈裟だなあ」
周囲の人には呆れられ、私達の親達にさえも、そんなことを私達は言われたが。
私達にしてみれば、真夏でも建物の外は最高気温が氷点下というのが当たり前な中で育ったのだ。
そして、摂氏0度ならば十二分に暖かいとさえ言えたのだ。
だから、それこそ他の人に言わせれば、底冷えがすると言われる京都の冬でさえ、何処が寒いのだろう、と考える程で、真冬の昼間、半袖半ズボンという真夏のような衣装で外で遊び回る程だったが。
こんな真夏、それこそ他の人に言わせれば、寒くて冷房病になると言われる23度に設定しても、私達にすれば、気分的にはだが、部屋の中でも暑くてたまらない、という話になる。
又、こんな時期に外に出るのは、私達の本音では死ねと言われるのに等しい拷問のようなものだが。
それでは良くない、と考えた周囲の面々、特に親戚の上里松一さんから、
「外に出て、泳ぐことに挑戦して、全員が泳げるようになれ」
と指導を受けて、この桂川の畔に私達は連れてこられた次第である。
それにしても、本当に日本の夏は嫌、というのが私達の本音である。
それこそ家の外に食べ物を出せば、ほぼ常に天然の冷凍庫が保管してくれていたのだ。
外に食べ物を出していれば、腐ってしまうのが、正直に言って最初の頃、自分達は信じられなかった。
そして、様々な虫、その中には蚊や蜂、毛虫といったモノまでいる。
私は未だに無事だが、思わず触れて、刺された面々がそれなりどころでなくいる。
陰では、南極の方が住みよかった気さえする、と私達は言い交わしている程だ。
そして、桂川の畔にある上里家の別宅で着替えて、上里松一さんの指導の下、私有地になる岸辺の近くで私達は泳ぐことになったのだが。
まず、こんな川を見ることが、私達は南極時代には無かった。
そして、南極の海で泳ぐ等、絶対に死ぬことだった。
(更に南極に温水プール等、ある訳が無かった)
だから、泳ぐどころか、こんな広い水の中に入るのさえ、恐る恐るやることに私達はなった。
川の水に体を漬けると、外気温との差で、川の水が冷たくて、気持ちいい気が自分はする。
上里松一さん達に言わせれば、川の水が冷たいな、とのことだが。
自分達にしてみれば、充分に温かい川の水だ。
何しろ、普通に川で魚が泳いでいるのが目に入るのだ。
そう、自分達は正直に言って海や川で魚が泳いでいるのを、南極大陸を出るまで見た覚えが無かった。
勿論、南極海にも魚はいるのだが、浜辺から自分達の目に入る、視界内で魚が泳ぐ等は、私の記憶には無いし、共に南極で生まれ育った面々も同じことを言う程だ。
親達に言わせれば、南極海の表面に近い水域が冷たいからとのことで、温かい水ならば魚が泳ぐのが見られるとのことだったが、自分達は本当なのだろうか、本当は魚は深い水の中にしかいないのでは、とずっと疑っていたほどだ。
そして、水に体を漬けて、慣らした上で、実際に泳ごうとすることになったが。
「「やっぱり、怖いよ」」
「海軍軍人の上里家の血をお前らは承けているのだ。お前らの曽祖父(松一)は海軍大尉だし、祖父の弟(丈二)は連合艦隊司令長官を務めた海軍大将だった。そのお前らが泳げない等、泣き言を言うな」
実際に泳ぎを教えだすと、松一さんは鬼になって、そんなことを私達に言った。
更に周りの大人まで、松一さんの味方になった。
私達は泣きながら、懸命に泳ぎを覚える羽目になった。
そんなこんなの泊まり込みの特訓(私達に言わせれば地獄)の日々は、3日程も続いた。
その結果として、
「そうだ、バタ足はそうやるんだ」
「平泳ぎもキチンと覚えろ」
「「はい」」
どうのこうの言っても、松一さんを始めとする周囲の指導は上手くて。
私達は形はともかく、としか言いようがないが、3日目には何とか泳げるようになっていた。
「どうだ。何とか泳げるようになったようだが」
「はい。ありがとうございます」
この桂川の畔の別宅に連れ出されてから、3日目の夕方、桂川で獲られた様々な川魚を主にした夕食を食べながら、私は松一さんと話を交わした。
勿論、妹や従弟妹達も傍に居るし、松一さん以外の大人もいる。
「新鮮な魚料理の味が、ようやく分かるようになったようだな」
「ええ、やっと分かるようになった気がします」
「そうか、それは良かった」
松一さんと私はやり取りをし、妹や従弟妹達はその言葉を聞いて苦笑いのような表情を浮かべた。
南極では、本当に食事というか、食材も特別なモノばかりになってしまう。
それなりの貯蔵庫が設けられていて、穀類や缶詰等が保管され、食事に提供されてはいるが。
そうは言っても、新鮮な食材を食べたい、というのはある意味では当然の欲求である一方、どうにも入手困難な食材がある。
新鮮な生魚や生野菜は、そういった食材の一つだった。
何しろ野菜を育てようにも、南極大陸に土は無い、と言っても過言ではない。
だから、小さなプランターで育てることで、ミニトマトやラディッシュを育てるのが精一杯だった。
魚に至っては、もっと絶望的だ。
勿論、日本等の連絡船が干物を始めとする様々な加工品として南極に持ち込んでくれないことは無いのだが、南極で生の魚を釣る等して、更に速やかに加工して食材にする等、不可能に近かった。
だから、私達は日本に来てから初めて、生の魚の刺身や生野菜をふんだんにつかったサラダ等の料理を食べることが出来たのだが、最初の頃はどうにも口に合わず、閉口することになったのだ。
「そうだ、新鮮な食材と言えば、何時か生のアザラシ肉を御馳走したいです」
「生のアザラシ肉だと」
「ええ、本当に美味しいんですよ。内臓や血まで美味しいです」
私の言葉に、松一さんは驚いたようで、私は思わず、更に言葉を発した。
実際に南極で新鮮な食材で一番の美味と言えば、生のアザラシ肉だった。
他の南極基地の隊員と協力して、父達はアザラシを仕留めて、私達に振舞ってくれた。
極めて癖の強い味だが、それこそ私達は内臓を中身をすすりながら食べて、血を喜んで呑んでいた。
私の言葉を聞き、妹や従弟妹達も、
「そう言えば、美味しかったよね」
「又、南極に行くことがあれば、内臓や血まで味わいたいな」
と口々に言いだした。
その言葉を聞いた松一さんが、顔を引きつらせだした。
私は、それを面白く感じて言った。
「松一小父さんも、生のアザラシ肉を食べることに挑戦すべきです」
「何時かは挑戦したいかな」
松一さんは目をそらしながら言った。
私は改めて想った。
何時か、松一さんに生のアザラシ肉を食べさせたい。
どんな顔をして食べるだろうか。
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