短編集 燠火
母は九〇歳を過ぎて、養護老人ホームで暮らしている。あれはもう九年も前のことになるだろうか。私は母の入所したばかりのその施設を初めて訪ねたのだった。
今風のガラス張り二階建てのその施設は、黄金色の田園地帯のただ中にあった。東側には房住山を門番のようにして奥羽山脈が横たわり、西には男鹿半島を架け橋にして日本海が荒波を立てていた。
窓外に視線を向けて、母は細く高い声で短歌を口ずさんだ。房住の山々の麓にあって今は無人となってしまった我が家をいったいどうしたらいいのだろうかと詠ったものだった。哀愁と自責の念に満ちていた。しかし母は、短歌だけでなく、水彩画や手芸、散歩に遠足と様々な「クラブ活動」に熱心で、職員から「女性組」のリーダー役を依頼されていた。当時の母は、まるで寮生活を楽しんでいる女学生のようだった。
その母からの電話が繁くなったのは新型コロナウイルス感染症が首都圏に蔓延し始めた二〇二〇年一月末頃からである。当初は息子の私に喝を入れるほど元気だったが、次第に嘆きの色が濃くなった。電話では埒が開きそうもないから、直接会ってゆっくり話すのがいいと思っていたや先、全国に拡がったコロナ禍で老人ホームは面会謝絶となった。そもそも私自身も七〇歳近くとなり、自分の住む関東から東北への移動はかなり危険なことだと感じてジレンマに陥っていた。
そこで少しは慰めになろうかと思い、ようやく脱稿したばかりの自作『イッとィル物語』(ペンネーム・工藤禿志)を地元にいる弟を介して届けた。母に私の小説もどきを読ませるのは六〇年ぶりくらいであろうか。初めて読んでもらったときのことは同作の「はじめに」でも述べたように、親バカの母は「あんた、小説家になったら」と言った。
母は相変わらず親バカである。『イッとィル物語』が「本当におもしろい。感動して泣いたよ。よく書いたねえ」と言うのだから。しかし、私はいつまでも母の子である。母から褒められると、この年齢になっても六〇年前と同じように嬉しいのだ。そして、ついその気になってしまい、もうひとつ何かまとまったものを送ろうと決めたのである。それが、あれやこれや思いつくままに書いてみた本短編集『燠火』である。
幼い頃、燠のことを私たちは「おぎっこ」と言った。囲炉裏の薪が燃え尽きた後の、それでもまだ赤々と炎を上げている炭のことである。冬は燠を火鉢に移し、その上に木炭を重ねて燃やして温まったものだ。
人はいつか死ぬ。だが私は、遺族や友人知人の心に何かを遺すことで、人は生き続けるものと信じている。この小説もどき短編集がまさに「情の燠」となって、後世を担う子どもたちや家族、友人の心を温めるものとなったなら、どんなに嬉しいことだろうか。
(二〇二一年四月一〇日記)
二〇二一年一月〈一〉
去年もそうだったような気がする。
大晦日の夜、急に頭が痛くなって、二日までずっと寝床に伏したのは。
今年は去年よりも重症だ。尿意も催さないのでトイレにたつこともなく、丸三日、布団をかぶっていたのである。
まさか新型コロナウイルスにやられたのではなかろうか。ある程度経過をみないと何とも言えず、寝床の中で体調の回復と時間の経過をただひたすら待った。
三日過ぎて、もう大丈夫だろうと床から起きて少しは用を足そうとしたが、腰痛と片頭痛に悩まされて何もできない。それに今年は猛寒波の襲来で、日中でも気温が四度に届かず、ストーブも効かない。「これはもはや」と覚悟を決めて布団をかぶるしかなかった。
寝床についても、時々頭に激痛が走りうめき声を上げる。頭の痛みが遠のくと、今度は両手首、次に両脇腹、その次に両脛と交互に襲われ地獄の苦しみである。
そうなると、病院に行こうなどという前向きな気持ちはどんどん損なわれていき、このまま死んでしまった方がいいのではないかとさえ思ってしまう。治療を受けたところで使いものになりそうにない自分の肉体のポンコツぶりを自覚すると、生きようという意欲が一切湧いてこないのであった。
そうこうするうちに、令和三年も十日が過ぎた。政府が二度目の「緊急事態宣言」を発出して三日目になっていた。
二〇二一年一月〈二〉
朝目が覚めたとき、頭痛も腰痛もすっかり消えていた。窓から明るい陽光が注いでいる。運動不足を解消するには、近ごろ得難いチャンスだと思った。
寒さに対する昨日までの恐怖心を追い払うように一気に着替え、洗面所で丁寧にうがいをして顔を洗い、マスクを着けてマフラーを巻き、コートを着て毛糸の帽子を被って外に出た。
予想以上に空気は冷たく、気持ちが怯みかけたが、レビュブリック広場の美しさに目を奪われ、我が脚はポールベール通りを貫き、サンマルタン運河まで進んでいた。
やがて、川岸で洗濯をしているご婦人に出会った。
「ボンジュール、マダム。こんな寒い日に大変ですね」
「ボンジュール、ムッシュー。それでも今日は陽射しがまだある方ですよ。ところでムッシュー、今日初めてお目にかかりますよね」
「ええ、そうですかね。最近体調を崩してほとんど外に出ていませんでしたからね」
「もう大丈夫なのですか?」
「ええ、もうすっかり。でも、いきなり長い距離を歩くのはやめにしておきます。今日は素敵なマダムと出会いましたので、この辺にしておきましょう」
「まあ、嬉しいことをおっしゃる。それなら、私の家でちょっとお茶していきませんか。このすぐ近くですよ」
「ああ、それはありがたい。実は今朝は気が急いて、お茶も飲まずに飛び出してきたものですから」
「まあ、それはいけませんわ。では、トーストもサービスしましょう」
「メルシー、ご親切に感謝します。せめて、洗濯籠を持たせてください」
「ムッシュー、無理しないでください。私はおそらくあなたより三十歳は若そうですから大丈夫ですよ」
「では、すっかり甘えさせていただきます」
「どうぞ私に付いてきてください。このすぐ先ですから」
歩いて間もなくユトリロの「コタンの小路」そっくりの石畳の坂道にさしかかった。
「私の家は、この白壁のアパルトマンの二階です」
ご婦人は洗濯籠を左腰に載せて、右手で緑色の扉の鍵を開け、「さあ、どうぞ」と招き入れてくれた。
「ムッシュー、洗濯物を干してきますから、この部屋で待っていてください。すぐに戻ります」
おそらく食堂兼居間と思われる部屋に案内された私は、導かれるままにマントルピースの前の食卓についた。
小さめの暖炉だが、赤々と燃えている石炭を見つめていると、懐かしさと安らぎを感じてほっとするのだった。マントルピースには銀の燭台が二本立っているだけで他に飾りらしいものはなかった。
「何か花でもあったらいいかもしれないな」
と思っているところに陽気な声が響いた。
「お待たせしましたあ~」
マダムは卓上にティーカップとお茶の入ったポットを置いて、
「トーストを用意しますね」
と軽やかに台所に向かった。
私は紅茶と焼きたてのトーストをいただきながら、
「とてもおいしいです。ところで、マダム、お互い何も自己紹介らしいことをしていませんでしたね」
と振り向けると、赤茶の瞳のマダムは襟あしの金髪をそっと撫でながら言った。
「ムッシュー、私はキャネルといいます。タヒチ生まれです」
「タヒチといえば、ゴーガンの『タヒチの女』のタヒチですよね」
「そうです。私がタヒチ生まれだというと、特に日本人はゴーガンを引き合いに出しますが、ムッシューも日本人ですか?」
「はい、ステレオタイプで恥ずかしいのですが、私は日本人でトシといいます」
「わあ、嬉しいですね。私は大学で日本文学を勉強したんですよ。森鴎外の『舞姫』にはとても惹きつけられました」
「そうですか。ドイツに留学していた日本の青年が現地の女性に恋をして同棲し、結局、その女性を捨てて帰国した話ですよね。日本人として大変申し訳なく思います。本当にすみません」
「あれは小説の中のお話ですから、トシさんが謝ることはありませんわ。トシさんっておもしろい方ですね」
「おもしろいですか?」
「ええ、とても」
そう言いながら二人で笑っていると、灰色の鎧戸を通してやや強めの日差しが入ってきた。
「キャネルさん、ありがとう。ではそろそろ失礼します」
「トシさん、楽しかったわ。また来てくださいね。私は縫製の内職をしていますから、買い物や洗濯以外はほとんど家に居りますのよ」
「そうですか。それではお言葉に甘えてまた来ます。そうだ。今度お伺いするときは花でもお持ちしましょう。何の花がよろしいですか」
「そうですね。スミレかしら」
「わかりました。キャネルさん、ではまた、きっと」
私はアパルトマンの前の石畳の坂道を下って、さっき来た道をゆっくり引き返した。何か温かいものが胸に込み上げた。
「この気持ちは妻には言えないな」とつぶやいた。
我が家のドアを開くと、妻が立っていた。
「どこへ行ってたの?」
「あ、いや、ちょっと散歩に」
そう答えて靴を脱ごうとしてしゃがんだとき、バランスを崩してよろけた。
「ややッ」
と声を上げて、必死に何かを掴もうとした。
すると、千葉県柏市にある自宅の二階の寝室の布団の中で、毛布をギュッと握っている私がいた。
「どうしたの?」
妻が怪訝な顔でこちらを見ている。
「いや、なんでもない。変な夢を見たようだ」
アトリエ
斗志郎の、自分流に解釈した浄土思想では、生命は死ぬことで空に還り、また新しく色世界に生まれ出るらしい。
人間、生き続けているだけでは衰えた我が身を自在に動かすことの苦しさがいや増すばかりで、人生を楽しめなくなる。身体が動かず頭も働かず、生きる目的も喜びも意欲もなくなる。しかし、微かにでも生き生きと生きたいという望みがあるのであれば、享年に逆らわずに潔く死ぬのがいい。なぜなら、死んで空に還らなければ、再び新しく生まれることができないからである。まさに「生死不二」ということだ。
定年退職したら、その「生死不二」の確かな悟りに到達するために、静かな毎日を過ごそうと心に決めていた斗志郎だったが、桜が咲く頃になると無性に故郷に帰りたくなった。
そこで妻に、「一か月ほど田舎に帰っていいか?」と、思い切って伺ってみたところ、「好きにしたら」と、いともあっさり承諾してくれた。
妻の気持ちが変わらぬうちにと、さっそく、新宿で画材、上野で食糧を買って、何年かぶりに新幹線「こまち」号に乗った。そして今、電気や水道は通っているものの、十年近くも人の住んでいない廃家同然となっていた故郷の家で、一日一食の自炊をしながら油彩画を描いている。
カンバスの大きさは一二〇号で横一メートル九四センチ、縦一メートル三〇センチ。枠は作業小屋にあった角材で組み立て、新宿の画材店で入手した画布を張った。これも作業小屋で見つけたブルーシートを十畳の中間に敷き詰め、その上にカンバスを据えた。
一息つくと、斗志郎は、
「こんな大きな絵を描くのは六十八年の人生で初めてだなあ」
とつぶやき、なぜいまさら帰省して油彩画を描こうなどと考えたのか振り返ってみた。
全身が原因不明の激痛に襲われ精神的に死にかけた新年早々のことだった。どうにか痛みが和らぎ、久しぶりに散歩に出た斗志郎は不思議な光景を目にした。なんと、爪先の向こうに伸びている道が、途中から真っ白なのである。空よりも白く輝いている道に圧倒された斗志郎は、その足で駅前の「一〇〇円ショップ」に向かい、四八色セットのクレヨンと数枚の画用紙を入手して帰宅すると、印象に残っているままを一気に描いた。そして題を「白い道」とした。
斗志郎は、自分の絵を改めて鑑賞してみて愕然とした。色らしき色がない。四八色もあるクレヨンのほんの三、四色ほどしか使われていないのである。
「これはいかん。生きているのなら、それこそ生き生きとした絵を描きたい。できるだけ大きなカンバスに伸び伸びと。それには田舎の家をアトリエにするしかないのだが……」
そんなやるせなさに駆られたのだった。
斗志郎の故郷の村は深い緑の中にある。カンバスの大きさにやや戸惑いながらも、斗志郎は、村の北側から望んだ風景を想定して、油を多めに含ませた若葉色の絵の具で下地を作り始めた。
空の部分はとりあえず生地のままにしておくこととし、その領域は、画面を二分したそれぞれの中央の上から三分の一あたりを頂点に、頂角約四五度の逆三角形内とした。逆三角形の二辺は稜線と空との境目となる。
やがて、カンバスに二つの逆三角形の空が並んだ。右側が「あっち村」の空、左側が斗志郎の家のある「こっち村」の空である。それぞれの空の下には六戸と七戸、合わせて十三戸の農家の屋根が点在することになるのだが、それらはすでにほとんどが空き家になっている。
‶三角空〟の日没は早い。下地の上に細い砂利道を三筋程描いたところで日が暮れた。
「今日はここまでにしておこう。あとは少しずつ色を重ねていけばいいだろう」
斗志郎の顔は、焦がれていた計画にようやく着手できた喜びで上気していた。
三日ほどすると、斗志郎がいきなり帰省して絵を描いているらしいという噂を聞きつけた小学校時代の同級生が、二人連れ三人連れで、入れ代わり立ち代わり訪ねてくるようになった。彼らは学校卒業後、地元に残って家業を継いだり所帯を持った男女九人で、皆、斗志郎の村からかなり遠くに住んでいるが、自家用車を飛ばして来てくれるのであった。そして、その都度、米や野菜に山菜、調理済みの魚や肉、それに酒までも差し入れてくれるので、斗志郎は食糧に困らずに済んだ。ただ、絵筆が止まり、遂には宴会になって制作がなかなか捗らないのには少々閉口した。
そもそも彼らは、斗志郎が描いているカンバスを見ても「でかいねえ」と言うだけで、何の関心も示さない。緑の中に逆三角形が二つある戸板ぐらいにしか見えなかったからである。それが、二日三日空けて来てみても一向に進展していないのだ。
とうとう皆がぱったり顔を出さなくなってから二週間が過ぎていた。
「あと十日で一か月になるな」
斗志郎は焦っていた。しかし、制作がまったく進んでいない訳ではない。あれから頻繁に村の北側の丘に立ち、そこから眺めた印象の消えないうちに急いで帰って絵筆を執る。若葉色の下地に、山には常磐色、田畑には萌葱色を主体に重ね、家屋には山吹色や黒茶を塗って、二筋の川の流れには白藍色を走らせた。ただ空だけは、最後に仕上げようと生地のままにしてある。しかし、その他いくら色を重ねても、斗志郎の思いが一向に滲み出てこない。生気もまったくないのである。
「これじゃあ、あの『白い道』と一緒じゃないか。一体、どうしたんだろう」
斗志郎の溜息がひどくなった。自棄を起こして、同級生から差し入れてもらった酒をよけいに飲んで早めに寝る。だが、一時間もしないうちに絵が呼んでいるような気がして目が覚める。そして、暗闇の中で筆を握ったままカンバスをじっと見つめる。そんな日が四、五日続いた。
その日も斗志郎は、未明から正午過ぎまで、カンバスの前で唸り続けていた。
「トシ、トシ!」
「トシってば!」
同級生の糸子と桜子が中間に入ってきて、返事をしない斗志郎の肩を揺すって桜子が言った。
「トシ、どうしたの? ひどく具合悪そうだけど。ちゃんと食べてる?」
「ああ、きてくれたの。ありがとう。いやあ、描けなくってねえ、腹も空かない。ほんとうにどうにもならないんだ。いくら頑張っても……」
寝不足で真っ赤になった斗志郎の目から涙がこぼれた。
「少し休んだ方がいいよ」
桜子が優しく諭すのに重ねて、糸子が厳しい口調で言った。
「死んじゃうよ、トシ! もうやめなさい!」
斗志郎は、がくんと膝をつくと声を上げて泣きだした。
味噌汁と焼き魚の匂いに誘われたのか、斗志郎が目を覚ました。それに糸子が気付いて、笑みを浮かべて言った。
「トシ、お昼だよー。一緒に食べよう」
糸子の肩越しから桜子も、
「起きられる? 大丈夫?」と、心配そうに顔をのぞかせた。
糸子と桜子は、膝をついて大声で泣いたかと思うと前のめりに倒れて眠ってしまった斗志郎の両脇を抱えて居間に運んでソフアに寝かせ、少し遅めの昼食を作ったのだった。
食卓にはシロザと豆腐の味噌汁、焼いたシャケの切り身、フキと油揚げの煮物、イカリソウやセリのおひたし、タラノメの炒めものまで並んでいた。
「ああ、ありがとう。まったく申し訳ない」
「なによ、水臭い。さあ、食べましょう」
「この山菜、買ってきたの?」
「ここに来る途中で、摘んできたの」
と、桜子が大盛のご飯茶碗を差し伸べながら言った。
斗志郎は懐かしい同級生二人を前にして、久しぶりの食事らしい食事に舌鼓を打った。
「私たち考えたの。トシがどうして描けなくなったのかって」
桜子が口火を切ると、糸子が言った。
「私たち思ったんだけど、この村にはもう人の生活臭がないわ。言葉は悪いけど、もうゴースト・ビレッジだわよ」
「だから、トシの心の中にある風景と現実の風景がずれてしまうんじゃないかと思ったの。違っていたらごめん」
と、桜子が続けた。
「う~む、なるほど。そうかもしれないなあ。……うん、本当にそうだ」
斗志郎はシロザの味噌汁を味わいながら自分の幼少時代の、最も村が賑わっていた頃の一家団欒を想い出して大きくうなずいた。
再びカンバスの前に立った斗志郎は、別人になったように目を輝かせ勢いよく絵筆を振るい始めた。すると、やがて絵の中に「こっち村」と「あっち村」の間にある霊山に向かって、畦道を一列に行進する児童ら十人程の一隊が現れた。
その先頭には、白いワイシャツの袖を捲り上げて、小枝をタクト代わりに振っている二十代の長髪の青年がいた。
「みんなあ、もっと元気よく歌わないと、山の神様、連れて帰れないぞ。山の神様が里に下りて来ないと、どうなるんだっけ?」
「稲が育たなくなる」
「うん、アキ子、そうだな。山の神様は里に下りて田の神様となって稲を実らせるんだったね。だから、ほら、みんな、もっと元気よく!」
「あんちゃ(兄さん)先生。この『おおブレネリ』(松田稔作詞スイス民謡)っていう歌、もう飽きたよ。他のを歌おうよ」
「う~ん、じゃあシゲ子、何がいい?」
「山のロザリア!」(丘灯至夫日本語訳ロシア民謡)
「それより、島倉千代子の『からたち日記』(西沢爽作詞・遠藤実作曲)がいい」
と、ヒロ子。するとハル夫が、
「フランク永井の『霧子のタンゴ』(吉田正作詞作曲)の方がいいよ」と叫ぶ。
「何言ってんだ。絶対に三橋美智也の『赤い夕陽の故郷』(横井弘作詞・中野忠治作曲)がいいに決まってるだろ」
最年長のブン太がそう言うと、みんな黙ってしまった。
そこで、‶あんちゃ先生〟と呼ばれた青年が、
「とまれ~、いっち、にぃ」と号令をかけて、行進を止めて言った。
「どれもこれもテンポの遅い歌だから、行進には向かないなあ。しっかし、全部大人の歌謡曲だけど、みんな子どものくせによく知ってるなあ」
「あんちゃ先生。だって毎朝ラジオで聞かされているから、ばかでも覚えちゃうんだよ」
そうブン太が言うと、子どもたちが「そうだ、そうだ」と叫んだ。
「なるほど。でも、もっとテンポのいい歌はないのか?」
「じゃあ、『赤銅鈴之助』(藤島信人作詞・金子三雄作曲)ならどう?」
列の最後尾にいたトシが珍しく大きな声で提案した。
「そうだな。『赤銅鈴之助』がいいや!」
ブン太が納得したように言うと、みんなが「賛成、賛成」と次々に手を挙げた。
「ようし、決まった。『赤銅鈴之助』で行進するぞ。いいかあ。いっち、にいっ、さん、はいっ」
「♪剣をとっては日本一に、夢は大きな少年剣士……」
‶あんちゃ先生〟のリズミカルなタクトに合わせ、一隊は元気よく合唱しながら霊山の頂きを目指して山道を登っていった。
‶あんちゃ先生〟と呼ばれた青年は芳郎という大本家の長男で、この村ではただ一人の学士である。教育学部を卒業した昨年の春から小学校教諭となる予定だったが病気を患い、実家で静養していた。そして、失意の中で鬱々と毎日を過ごしていた。
そんなある日、芳郎が縁側で茫然としていると、村の子どもたちが彼の家の広い庭に集まって「缶けり」を始めた。男の子も女の子も無心に走り回っている。その明るい賑やかな声を聞いているうちに、芳郎は、それまで自分の胸を塞いでいた澱が洗い流されていくのを感じた。そして、思わず叫んだ。
「俺も混ぜてくれや!」
根っからの子ども好きの芳郎はすぐに仲間として迎えられ、さらに、その博識が認められて‶あんちゃ先生〟と呼ばれるようになった。だが、後に、彼は交通事故で短い生涯を閉じる。そんなことになるとは知る由もない子どもたちは、大好きな‶あんちゃ先生〟を先頭に、豊作の神様を迎えるために、常磐色や青柳色、松葉色などの樹林に覆われた山道を、蛇行しながらゆっくり登っていくのだった。
桜子と糸子が「いくらなんでも、そろそろでき上がってるんじゃないの」と、同級生らを誘って総勢九人で斗志郎の様子見に訪れたのは、五月上旬のある日の午後二時頃だった。
先日と同様に、いくら呼んでも返事がないので、「ええ~っ、またなの?」と心配した桜子と糸子を先頭に全員がぞろぞろと中間に上がった。
「おお、すごい、すごい!」
タツ雄が声を上げた。
「できてるじゃない。まるで生きてるみたいな絵だわ」
レイ子が目を見張って言った。
春霞の空の下で落葉広葉樹がきらめき、山裾には杉木立と山桜が並び、かつてあった十六戸の農家がすべて描かれている。
農家の周囲の畑で野菜の種を蒔いている婦人。牛に犂を引かせて田の土を興す親父。神社の鳥居の横に造られた土俵では男の子らが相撲をとっている。そして、村の広場では女の子たちが手毬をつき、その手毬を怖がって逃げるニワトリ数羽とスズメの群れがある。餌を横取りに来たカラスを追う犬の上を、気持ちよさそうに滑空するツバメ。その上空ではトンビがくるりと輪を描いている。
「うわあ、思い出すなあ、あの頃のこと。懐かしい風景だなあ」
タダシが言った。
「ところで、トシはどこへ行ったのかしら?」
ユキ子が家の中を見回しながら言った。
「散歩でもしてるんじゃないか。捜してみようや」
ヒデ男の提案で皆が外に出て、四方に分かれて斗志郎の名を呼んだ。日没まで捜し回ったが見つからず、一行はあきらめてそれぞれ帰途についた。
その後も同級生たちは、日を空けて何度か訪ねてみたが無駄足に終わった。とうとう、家族が警察に捜索願を出した。しかし、斗志郎の行方は杳として知れなかった。
この蒸発事件から十年が過ぎた。すでに故郷の村はすっかり廃墟となり、いつの間にか絵もどこかに持ち去られていた。同級生の一人が、県庁の廊下に飾られていたのを見たような気がすると言ったが、彼らは皆八十歳近くになっていたから、それが本当かどうか確かめる気力も執着心もなく、やがて月日と共に忘れ去られ、もはや斗志郎や大きな絵のことを語る者は誰もいなくなった。
(二〇二一年七月八日脱稿)
タエ子先生
長彦の村から小学校までは、子どもの足で二時間と少しかかった。
冬は辛い。まだ暗いうちに戸口を出て、上級生が新雪につけた靴跡から自分の足を踏み外さないように気を張り詰め、かつ遅れないようにしなければ、深い雪の中に置き去りにされかねないからである。だから、泣きながらでも必死に追いかける。
ひどく雪の降り積もった日は〝長靴スキー〟で通った。校舎のある町は山の下にある。往きは良いが復りはコワい。帰途は度々、霰の散弾に容赦なく撃たれることがあった。そんな日は、顔も手も真っ赤に腫らして囲炉裏に突っ込むようにして炎にあたる。だが、しばらくは火の気を感じない。顔中からじわ~っと露がしみ出で湯気が上ってくるころ、ようやく暖かみが伝わってくるのだった。
冬以外の通学は快適だ。上級生に従う必要もなく、マイペースで通えるからだ。
小学二年生になると、小遣いを一日五円もらえた。校舎のある町には小さな駄菓子屋があって、飴玉一個五十銭で売っていた。それを五円で十個買い、最後の一個の破片が舌の先にかろうじて貼り付いているときに、ちょうど勝手口の敷居を跨ぐように工夫した。
小学三年生からは自転車で通った。まだ背が低くて、大人のようにサドルに座るとペダルに足が届かない。そこで、サドルに触れないで、自転車の左側から右足を三角形のフレームの中に突っ込んで右側のペダルを踏み、左側のペダルには自然に左足が掛かる「三角乗り」という技を使った。この方法だと立ちっぱなしになるので、大人だったらひどく疲れるだろうが、長彦は案外に平気だった。体重が軽すぎなのと、それまでの往復四時間の徒歩通学で、相当に足腰が鍛えられていたからであった。ただ、玉砂利にハンドルをとられて転倒し、肘や膝から血を流しながら教室に入ることは日常茶飯のことだった。
長彦が小学五年生になったその日、彼はなにやら浮き浮きした顔をしてペダルを漕いでいた。小学二年生以上の第一学期始業式兼新一年生の入学式の後、クラス分けが発表され、新しい担任の先生と対面する日だったからである。
長彦はペダルに力を込めてスピードを増した。背が伸びて、すでに「三角乗り」を卒業していた。
町央に入っても砂利道であることに変わりないが、よく均されていてハンドルをとられる心配をせずに済んだ。新入生の長い行列を軽快に追い抜くと、校門につながる急坂が控えていた。この坂を自転車に乗ったままなんなく駆け上る強者がいないこともない。長彦も、坂の途中に桜子や糸子が歩いているのに気付くと一気に上り切るのだった。だが、その日は彼女らの姿はなかった。そこで無理はよしにして自転車から降りて押して上った。
校舎の裏にある駐輪小屋に自転車を置いて学童入口から校舎に入ると、広い靴置き場がある。四段の棚型の下駄箱がずらりと据えられている。
長彦は「五年生」と墨汁で書かれた貼り紙のある下駄箱に隙間を見つけて短靴を置き、持参したズックに履き替えた。そのズックは三つ年長の兄のお古で、踵に小さな文字で「長昭」と、母の手で書いてある。だいぶくたびれていたが、長彦は誇らしかった。
村の番長に殴られても絶対に泣かない、野球が上手い、運動会ではいつも先頭を走る、それに三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」をこぶしきかせて情熱的に歌う。そんな兄を心から尊敬していたのである。
体操場で行われた始業式兼入学式を終え、学年毎に「松組」と「竹組」に分かれてそれぞれの教室に入った。長彦は「竹組」だった。クラスのメンバーは四年生のときとほとんど同じだったが、桜子がいない。長彦にはかなりのショックだった。
教室が急に静かになった。担任の先生がガラガラッと板戸を開けて入ってきたのだ。この瞬間、長彦たちの〝革命期〟の膜は切って落とされた。
初めて見る、眼鏡をかけた知的な女先生は颯爽と教壇に立つと、やや太めだが歯切れのいい「標準語」で話し出した。
「みなさん、おはようございます。今日からみなさんの担任となる池谷タエ子です。タエ子先生と呼んでください。こう書きます」
先生はバレリーナのようにくるりとスピンして白墨を手にすると、黒板に「池谷タエ子」と大きく勢いのある達筆で書いた。
「私は関東の出身で、東京の大学卒業後、縁あって本校に勤務することになりました。校長先生から私への特別な指示は、全校生を標準語で話せるようにすることです。みなさんが卒業する頃には、全員が標準語をすらすら話せるようになりますから楽しみにしてくださいね。一緒に頑張りましょう」
長彦だけでなくほとんどの子どもたちが、タエ子先生の話のスピードについていけずに、ドロンとした目で、これを例えて先生たちは「鰯の腐った目」と言っていたが、まさにその目をして口を開けていた。
「ええ、では出席をとります。名前を呼ばれたら『はい』と返事して起立してください。そして、自分が一番得意にしていることを先生に教えてください。それから座ってください。よろしいですか?」
「…………」
「返事がありませんねえ。よろしいですか?」
「はあ~い」
「では始めます。赤木良子さん」
「はい。私が一番得意にしていることは綾取りです」
「赤木さんはりっぱな標準語を話していますが、こちらの土地の出身ですか?」
「いいえ、私は神奈川県の生まれです。父の仕事の関係で二年前に転校してきました」
「なるほど。ええ、綾取りが得意。素敵ですね。そのうち先生に教えてね」
「はいっ」
「次は天野栄一くん」
「は、はあ、オ、オイのトグギッコダバシャ、う~んと、ナモネェナンス」
「……。赤木さん、天野くんは何と言ったんですか?」
「自分の得意なことは何もない、と言いました」
「あ、そうですか?」
「では、安藤久美さん。……安藤さん」
すると、みんなから「たっこ」と呼ばれている鎌田龍夫が座ったままで言った。
「シェンシェ~、久美はハダゲシゴドで、今日はガッコさコネ。オド死んでマッテイネガラ、オガのテヅダイシネバナネタド」
「……。赤木さん、いま鎌田くんは何と言ったんですか?」
「先生、久美は畑仕事で、今日は学校へ来ない。父親が死んでしまっていないので、母親の手伝いをしなければいけないのだそうです、と言いました」
「あ、そうですか」
やや青ざめていた先生は少し間を置いてから気を取り直し、こしらえたような笑顔で言った。
「次の人からは得意にしていることは言わなくてけっこうです。名前を呼ばれたら『はい』と返事して起立し、先生にしっかりと顔を見せてから座ってください」
子どもたちから安堵の吐息が漏れた。
翌日、登校すると、廊下や教室の板壁に「きみ(、、)とぼく(、、)、あなた(、、、)とわたし(、、、)、男子はく(、)ん(、)、女子はさん(、、)で、みんな仲良し」などと書かれた貼り紙がやたらに目についた。そして、常になく校内全体が静かであった。気のせいかもしれないが、男子の声がほとんど聞こえてこないのだった。
教室に入っても男子はみんな黙々と授業の準備をしている。一方女子は「ねえねえ、聞いて、私ね…‥」などと、長彦にとっては、シャツを脱がされ背中を鳥の羽でなでられるような気色の悪い言葉が飛び交っていた。中には女子から話しかけられる男子もいたが、標準語で返事ができないので、黙って下を向いてしまうのだった。
男子の委縮ぶりのひどさに気が付いて、タエ子先生が優しい声で語りかけた。
「なぜ標準語が大切かというとね、あなたたちのほとんどが、将来、東京や大阪や名古屋とか、県の外の大きな町で働くようになるでしょ。そのとき、標準語が話せない人は『何言ってるかわからない』と、都会の人から無視されてしまいます。例えば、工場などに勤めても、工場長から『この工員は標準語が分からないから仕事もできないのではないか』と疑われてしまい、クビにされるかもしれないのですよ」
教室の空気が重くなった。特に長彦たち次男三男はうつむいて泣きそうな顔をしている。それでもタエ子先生は、今しか本当のことを話すチャンスはないのだとばかりに熱く語り続けた。
「みんな知ってますか? 秋田県の標準語の普及率、え~、秋田県民の何人が標準語を話せるかを調べたら、秋田県は東北六県で最下位だったんです。全国でもビリから、沖縄、鹿児島に次いで三番目です。ビリからですよ。このままだと、みんなの将来は真っ暗です。みんな、就職できなかったらどうしますか? お父さんやお母さんはどう思うでしょう。だから、頑張りましょう。先生はみんなを一生懸命応援します」
そこまで諭され脅されると努力しない訳にはいかない。生きるためには、恥ずかしいとか気色悪いとかは関係ない。とにかく「標準語」という言語を話せるようにならないといけない。そう覚悟するのだが、校門から一歩出るや、そこには何世紀も続いてきた堅固な方言社会が厳然と存在していた。校長先生から強く依頼されている親自身が標準語を話せない。村でも家の中でも、これでもかこれでもかと方言シャワーを浴びせ合うのだから、長彦たちの標準語化は途方もない暴挙のように思えた。
タエ子先生は悩んだ。そしてある日、意を決して発表した。
「これから竹組では、全校に先がけて授業以外に寸劇の時間を持つことにします」
「タエコしぇんしぇえ、スンゲキって何のこったスか?」
「短い演劇のこと、そうですね。短いお芝居のこと、そう、十分くらいの短い時間で終わるお芝居のことです」
「ソンタ短けえ時間で、ちゃんとした芝居でぎるもんだスベガ?」
「台本をしっかり作って練習すれば、りっぱなものができますよ。それに台詞は全部標準語ですから、みんなにはとてもいい訓練になるはずです。そして、竹組がまず全校の模範になりましょう。いいですか。では、竹組を五つのグループに分けて三週間に一回、寸劇発表会を開くことにします」
巡査と先生と親には刃向かうなと、身に沁み込む程教えられている長彦たちは、よく分からないまま「はい」と返事するしかなかった。
竹組は三十人。六人ずつの五グループに分けられ、毎週土曜日の午後から、空いている他の教室も借りて寸劇の練習に取り組み出した。学校の近くの家庭では、土曜日も弁当を持っていくというのを訝ったが、子どもから訳を聞いて自分の責任も感じてか、快く持たしてくれた。
一回目は「桃太郎」や「一寸法師」、「浦島太郎」や「さるかに合戦」など、タエ子先生から割り当てられた台本のまま演ずればよかった。しかし、二回目からは自分たちで台本を創作しなければならなくなった。
長彦たちは自分のグループを「まっさん座」と呼ぶことにしていた。グループのリーダー木村正夫のあだ名が「まっさん」だったからである。
そのまっさん座長が、いつになく厳しい表情で言った。
「どうしよう。台本、だれか書いてくれないかな。トヒコ、ドダベガア?」
トヒコとは長彦のことだが、長彦は「ウンダバ、いや、それでは『シャボン玉ホリデー』を少し真似して作ってみようかな」と、応えてしまった。同じグループに川村糸子がいたからだ。彼女の前では長彦はいつでもかっこいい英雄でありたかったのである。
まっさん座長から台本作りを頼まれた日の翌日は日曜日で、テレビで「シャボン玉ホリデー」が放映された。長彦は柱時計の長針と、番組で次々に展開されるコントとを交互に見ながら、十分間でどの位演じられるものかを感覚で掴もうとした。そして驚いた。十分という時間はコントが三つか四つもできるほど長いのだった。
姉や兄、弟が「シャボン玉」の余韻に浸りながら夕飯を食べているのをよそに、長彦は急いで飯をかっこむと、部屋の隅でミカン箱をひっくり返して、包装紙の裏に台本を書き始めた。
「なにスてる?」と弟が覗いてきたが、「宿題だ。じゃまスな」と、追い払った。そして、仮題「無責任男の恩返し」という「鶴の恩返し」のパロディを書き上げた。
だが翌朝、登校の自転車を漕ぐ長彦の顔は清々していない。昨夜見た夢が気になって仕方ないのだった。その夢というのはこうである。
――とある寒村が、この三年ほど、晩秋を迎える頃になると何者かによって米倉を荒らされて困っていた。おそらく、世にも恐ろしい鬼の仕業だろうともちきりだった。たまりかねた村長は意を決し、自分の美しい娘を嫁にやるという褒美付きで鬼退治をしてくれる勇者を募った。この村長は正直者として村の内外から尊敬されていたので、弥三郎という若者が、村長の娘欲しさに一番に名乗を上げた。
弥三郎は酒造りが得意で、秘伝の「火酒」を隠し持っていた。この酒は芳醇でキレがあって口当たりが良く、何杯でも飲めそうな気にさせる。しかし、アルコール度がとても高く、火花を放つと燃え上がる。そして、どんな酒豪でもたった三杯でたちまち恍惚となって眠ってしまうのだった。
ある日の草木も眠る丑三つ時、米を目当てに、村長の屋敷に赤と青と緑の三鬼が侵入した。三鬼が広い庭を横切ろうとすると、庭の中央から芳しい香りが漂ってきた。近寄って暗がりの中でよく見ると、大きな酒樽と、その横に茶碗がいくつも重ねてあるのが分かった。青鬼がさっそく酒樽の蓋を拳骨で割って除けると、赤鬼が茶碗で酒をすくって、ぐびぐびい~っと飲んだ。
「う、うめえ~、最高だ。お前らも飲んでみろ」
青鬼も緑鬼も茶碗になみなみと酒をすくって飲み始めた。もう止まらない。まもなく三鬼とも酔いつぶれてぐっすり眠ってしまった。
それを見ていた弥三郎が近寄った。そのときちょうど雲の切れ間から満月が射して辺りを煌々と照らした。弥三郎は腰巾着から火打石を取り出すと、赤鬼のイビキめがけて、カチッ、カチッっと火の粉を飛ばした。すると、赤鬼がめらめらめらっと燃え上がった。続いて、青鬼に火の粉を飛ばした。青鬼もめらめらめらっと燃えた。次に緑鬼に向かって……。そのとき、「待ってくれ。このとおりだ」と、緑鬼が地面に額を叩きつけながら言った。
「わしは今まで米倉を襲ったことはない。今夜が初めてだ。赤鬼と青鬼に、付き合わないと角を引っこ抜くと脅されたんだ。鬼にとって角は命。仕方なかったんだ。恥ずかしいことだが、わしは鬼のくせに体が弱い。甘い物ばかり食べてきた不摂生がたたって糖尿病になってしまった。だから、健康にはかなり気を付けている。この酒も、赤鬼と青鬼の手前、最初の一杯は飲んだが、あとは気付かれないように地面にそうっと捨てた。だから目が覚めたんだな、きっと。このとおりだ。見逃してくれ。二度と悪さはしないから」
弥三郎は、額を地面に打ち付け泥だらけにして命乞いをする緑鬼を哀れに思って言った。
「あんたは確かに不健康な顔をしている。それに、火酒を飲んでも目を覚ました。あんたの言ったことは嘘ではないようだし、鬼にしては珍しく善良そうだ。許してやろう」
「旦那、この恩は一生忘れません」
「その代わり、一つ約束してくれ」
「なんなりと」
「あんたのような正直者の鬼こそ、ぜひ長生きして、この村を災いから守ってくれ」
「承知しました。旦那も村思いのいい人だ」
緑鬼は目から涙を吹き飛ばしながら、村の西側にある霊山に向かって、猛スピードで駆けて行った。
実は、この一部始終を庭の植え込みの陰からじっと見ていた小次郎という嫉妬深い若者がいた。彼は何をやってもかなわない弥三郎を日頃から妬み恨んでいた。
小次郎は村長に、「弥三郎は緑鬼に恐れをなして取り逃がした」と嘘を告げた。
人というのは不思議なものである。村長は、弥三郎のおかげで米一粒も奪われず、極悪の赤鬼と青鬼を退治できたのだが、小次郎の証言を信じて、また、内心急に娘が惜しくなって、緑鬼を取り逃がしたことを重大な過失だと弥三郎を責め、こともあろうに村から追い出したのである。
傷心の痛手を負いながら、村境の峠をとぼとぼ歩いている弥三郎の行く手を阻むように、緑鬼が両腕を左右に大きく広げて立ちはだかった。
「旦那、旦那はちっとも悪くないのに、どうして村を出るんだ」
「村長の命令に従わないわけにはいかない」
「それじゃあ、あまりにも理不尽というもんじゃありませんか。わしが旦那の仇をとってやりましょう」
「何を言うか、緑鬼よ。俺のことはどうでもいい。それより、あのとき交わした村を守るという約束をちゃんと果たしてくれ」
「しかし、それじゃあ旦那は死んでも浮かばれない」
「俺も本当は口惜しい。仕返ししたい。と、実はさっきまでず~っと思っていた。しかし、今あんたに会って、あんたの真心を知って気が晴れた。俺は手柄を立てて村長の娘をもらおうという我欲にかられていた。そして、村長の娘を妻に迎えて、村の中でこじんまりと一生を終えようと思っていた。だが今は違う。村の守りをしてくれるあんたを得たおかげで、俺はもっと広い世の中を見ようという気になったのだ。禍い転じて福となすってやつかな。はっはっは」
「旦那、あんたは偉い人だ。よくわかった。村はわしが必ず守るから、旦那は旦那の思う道をまっすぐ進んでくれ」
「ありがとうよ、緑鬼。またいつか会えるかな」
「なに、毎年、節分で会えるさ。そのときは、豆をたっぷりぶつけてくれ。そうしたら、旦那もわしも病気にかからなくなる、ということになってるから」
「おお、そうだったのか。わかった。では、またな」
緑鬼は目に涙を湛え、弥三郎の後ろ姿が峠の山端から消えるまで手を振っていた。
―― 終り。
自転車のペダルを踏みながら、長彦はつぶやいた。
「鬼の夢を見たのは、ハナ肇の顔のせいかもしれないな。でも、けっこういい話だな。『無責任男の恩返し』を『鬼の恩返し』に書き換えようっと」
昼休みに長彦は、まっさん座の仲間を集めて、まだ文章になっていない「鬼の恩返し」の台本案を口頭で発表した。いち早くまっさんが反応した。
「トヒコ、それでいぐべ。それでいこう。細かいところは練習しながら変えればいい。みんな、どうですか?」
糸子が少し遠慮しながらも、はっきり言った。
「女性が登場しないし、なんだかとても残酷。いくら鬼だからって燃やすのは酷すぎると思う」
長彦はハッとした。「さすが糸子だ」と思った。
「じゃあ、どうする。時間もあまりないけど」
と、まっさんが不満げにほっぺたを膨らますと、糸子が応えた。
「私、この前、宮澤賢治の本を読んでとても感動したの。いろいろなお話が書いてあったけど、その中から一つ選んで台本を作ってみるわ」
「み、み、みや……って、なんなんダベナ?」
エイツと呼ばれている天野栄一が聞いた。
「ほら、雨ニモマケズ 風ニモマケズ、の宮澤賢治よ」
と、糸子が言うと、よっ子と呼ばれている田中洋子と、くみと呼ばれている安藤久美とが声をそろえて「雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」と暗唱した。
それを聞いて、まっさん座の男三人は自分たちのことを、当時流行っていた「三馬鹿大将」だと感じた。
まっさんが‶三馬鹿〟を代表して言った。
「まあ、とにかく糸子、頼むよ。明日、粗筋でもいいから聞かせてくれ」
「うん、何とかしてみる」
糸子の輝く瞳に、長彦は見惚れていた。
翌日、糸子が書いてきた台本は次のようだった。
――寸劇「気のいいベゴ石」(原作・宮澤賢治著「気のいい火山弾」)
【配役】
ベゴ石(大きな火山弾)=エイツ
カド石(小さな火山弾)=トヒコ
おみなえし=よっ子
赤頭巾苔=くみ
博士=まっさん
ナレーション=糸子
【台本】
〈ナレ〉そんなに昔でもないころ、ある死火山のすそ野のかしわの木かげに「ベゴ」というあだ名の大きな黒い石・火山弾がありました。ベゴ石は非常にたちがよくて、どんなにからかわれても一ぺんも怒ったことがありませんでした。この日も小さな火山弾のカド石にからかわれています。
カド石「ベゴさん、こんにちは。昨日の夕方、霧の中で、野馬がお前さんに小便をかけたろう。気の毒だったね」
ベゴ石「ありがとう。おかげで、そんな目には、あわなかったよ」
カド石「アァハハハハ。ベゴさん、今度新しい法律が出てね、まるいものや、まるいようなものは、みんな卵のように、パチンと割ってしまうそうだよ。お前さんも早く逃げたらどうだい」
ベゴ石「ありがとう。僕は、まんまる大将のお日さんと一緒にパチンと割られるよ」
カド石「アァハハハハ、(どうも馬鹿で手がつけられない)。ベゴさん、おれたちは、みんなカドがしっかりしているのに、お前さんばかり、なぜそんなにくるくるしてるんだろうね。一緒に噴火のとき、落ちてきたのにね」
ベゴ石「僕は、生まれてまだまっかにに燃えて空をのぼるとき、くるくるくるくる、体がまわったからね。僕は一向まわろうとも思わなかったが、ひとりでまわって仕方なかったよ」
カド石「ははあ、何かこわいことがあると、ひとりで体がふるえるからね。お前さんも、ことによったら、臆病のためかも知れないよ」
ベゴ石「そうだ。臆病のためだったかも知れないね。実際、あの時の、音や光は大変だったからね」
カド石「そうだろう。やっぱり、臆病のためだろう。ハッハハハ」
〈ナレ〉実は噴火の時、カド石は気を失ってしまい、何一つ覚えていなかったのですから、ベゴ石のことを「臆病だ」という資格はありません。さて、はじめはカド石だけでしたが、あんまりベゴ石が気がいいので、だんだんみんな馬鹿にし出しました。
おみなえし(花弁を優雅に揺らしながら)「ベゴさん、私はとうとう黄金のかんむりをかぶりましたよ。あなたはいつかぶるんですか」
ベゴ石「おめでとう、おみなえしさん。僕はかぶりません」
おみなえし「そうですか。お気の毒ですね。いや、はてな。あなたもかんむりをかぶっているではありませんか」
ベゴ石(頭上に目を向けて)「ああ、これは苔ですよ」
おみなえし「アァハハハハ。たしかに、あんまり見栄えがしませんね」
〈ナレ〉ベゴ石の上に居候している苔は、前からいろいろの悪口を聞いていましたが、自分が赤い小さな頭巾をかぶるようになると、自分の立場も忘れて、いよいよベゴ石を馬鹿にして、自作の歌を唄いながら踊りはじめました。
赤頭巾苔「ベゴ黒助、ベゴ黒助、黒助どんどん、雨が降っても黒助、どんどん、日が照っても、黒助どんどん。ベゴ黒助、ベゴ黒助、黒助どんどん、千年たっても、黒助、どんどん、万年たっても、黒助どんどん」
ベゴ石「うまいよ。うまいよ。なかなかうまいよ」
カド石とおみなえし「なんだ。あんな、居候のちっぽけな赤頭巾苔にも、ベゴ石め、馬鹿にされてるんだ。もう、あいつとは絶交だ。みっともない。黒助め。黒助、どんどん、ベゴどんどん」
〈ナレ〉その時、向こうから、眼鏡をかけた背の高い立派な博士が、いろいろなピカピカする機械をもって、野原を横切って来ました。博士はベゴ石を見つけると、ていねいに赤頭巾苔をむしり取り、そして、ベゴ石をなでながら言いました。
博士「すてきだ。実にいい標本だ。火山弾の典型だ。こんなりっぱな火山弾は、大英博物館にだってない。ぜひ、世界の人々の目に触れるところに運んで展示しよう」
〈ナレ〉カド石もおみなえしも、むしり取られて宿をなくした赤頭巾苔も、大切に包装されて荷馬車で東京に運ばれていくベゴ石を見送りながら、自分たちこそ、ものの価値の分からない馬鹿だったと気付かされ、深く、ふか~く反省したのでした。おしまい。――
「な、なんとマンズ、こんなイッペエ、ひょうズん語でしゃべれねえよ」と、ベゴ石役になっているエイツが、いまにも泣き出しそうな顔で言った。
「なにも無理して全部標準語で話さなくてもいいよ。意味がちゃんと伝わるように、エイツなりに精一杯表現したらいいよ。たとえばだよ。最初の、ベゴ石『ありがとう。おかげで、そんな目には、あわなかったよ』のところは、『アリガデナンス。オガゲサンデ、ナモ、ソンタナメサ、アワネガッタヨ』でいいの。とにかく、この役はエイツにしかできないの。練習したらできる。エイツなら絶対にできるって!」
そう糸子に励まされ、エイツは「ンダバ、頑張る」と引き受けたのだった。
寸劇「気のいいベゴ石」が、その月の第四週目の土曜日に発表されたとき、タエ子先生が感動のあまり「素晴らしい、最高、最高!」と大声で叫んだ。宮澤賢治の深い思いが、川村糸子のきれいな標準語のナレーションによって際立った天野栄一の素朴な方言なまりの台詞に乗って、胸にじ~んと伝わってきたのだ。そして、「方言も大事にしなければいけない」と、タエ子先生は反省したのである。
長彦が月曜日に登校すると、あの貼り紙がすべて剥がされ、一時鳴りを潜めていた男子の声が久しぶりに活気を取り戻していた。
「あれから、タエ子先生が校長先生に意見したらしいんだ」
まっさんが、PTAの会長をしている父親から聞いたことを話しだした。
「タエ子先生は、『大事なのは標準語を話すことではなく、愛と優しさと自信を持って堂々と生きることだ。だから、もう無理やり標準語を話させるやり方は一切やめる』と言って、校内の貼り紙を全部剥がして回ったそうだ」
「へえ~。スンゲエ~。タエ子先生、スンゲエ~」
まっさんの話を聞いて、教室中が拍手で沸いた。
不思議なことに、その後、五年竹組の標準語力は全校一となり、他のクラスも竹組に負けるなと競うようになった。校長先生は「あのとき、タエ子先生を処罰しなくてよかった」と、胸を撫で下ろしたということである。
さらにその後、タエ子先生は「みんなには、都会人と堂々と渡り合えるように、決して引け目を感じないように度胸をつけます」と宣言し、全校にフォークダンスを奨励した。毎日昼食後に体操場に集められて、「マイムマイム」や「タタロチカ」から始まり「オクラホマ・ミクサー」や「バージニア・リール」、さらに、複雑なステップで舞うスクエア・ダンスと次々に踊らされた。
どういう訳か、まっさん座の六人は、放課後に特訓を受け、タエ子先生に連れられて、他の小学校で行われるフォークダンス教室のアシスタントを務めること度々となった。おかげで、彼らの標準語も度胸もたいしたものになったという。事実は小説より奇なりとはこのことであろうか。
(二〇二一年八月二九日脱稿)
わが路傍の「青春の門」にて
八郎潟干拓を目の当たりにして育った私は、農業技術者に憧れ、一九七二年四月、宇都宮大学農学部農業開発工学科に入学した。
あの日、構内のフランス式庭園にツツジは咲いていたかどうか、その記憶は定かでないが、過激派学生のなだれ込みで入学式が潰されたことは鮮明に覚えている。以後、過激派学生が校舎を占拠し、最終的に前期授業のほとんどが休講となったが、当初何週間かはほぼ通常どおりだった。
宇都宮に来て一週間が過ぎた四月一八日のことである。
九時に大学に行ったが、カリキュラムの間違いで、予定されていた各学部自治会・各学科オリエンテーションが開かれなかった。
暇を弄んでいるところで受験のときに知り合った同郷の佐藤と出会い、彼の部屋でコーヒーをおごってもらった。
〈なかなかいい部屋だが、あまりにも新しすぎやしないか〉。そう思ったのは自分の下宿「大南荘」の四畳半がみすぼらし過ぎた故の嫉妬からだったのだろう。
その後、小間物屋でコーヒーカップ二個と茶こしを買い、四日前に入会した「探鳥会」の部室に顔を出した。新入生が五〇人近く入会したということを聞いて驚いた。さっそく部室にあった双眼鏡を持ち出していろいろ遠方をのぞいてみた。
二時頃下宿に帰ると、沖縄から来たという浜崎さんに会った。彼は私が専攻した農業開発工学科の四年生だ。美男子である。
その夜、彼が私を招待してくれた。部屋には彼のクラスメイトが二人いて酒を飲んでいた。「はっ」と思ったが、すでに遅く、私はジョニーウオーカーという一万円もする高価なウイスキーをごちそうになり、たちまち酔いつぶれてしまったのだった。
以下、当時のことをできるだけ思い出して日記風に記すことにする。
四月十九日(水)晴
今日から授業が開始された。哲学と化学と農業実習オリエンテーションがあった。哲学は興味深かったが、化学にはどうもいまだに馴染めない。従って、化学に代えて生物を履修することにした。昨夜、浜崎さんの部屋で一緒に酒を飲んでいた川中さんという先輩から「俺の代理で化学の単位を取ってくれないか」とお願いされていたのだが……。仕方ない、酒に酔って忘れてしまったことにしよう。
放課後、生協で実習着と地下足袋とノートを買い、その足で探鳥会へ。部室にはキャッチボールの好きな中田さんと、初対面である松谷さん(女性)の二人がいた。中田さんは親切にも僕のために、工学部校舎の近くの森林へ探鳥に連れていってくれた。地上望遠鏡で野生の小鳥を観察する楽しさを満喫した。
キジバト、ムクドリ、ホオジロなどを見た。林の中でキジバトの尾羽を拾ってブレザーの胸ボケットに挿した。何と気持ちのいいことか。
工学部の一つの建物の軒先にデンショバトが二羽とまっているのを、望遠鏡でじっくり観察した。二羽は夫婦らしい。時々熱烈濃厚なシーンを演ずる。そこへ一羽のハトが現れた。そうすると、その夫婦のハトはますます仲良くし、侵入した流れ者に見せつけていた。やがて流れ者は、ふてくされてどこかへ飛んで行った。
工学部の寮で中田さんと別れたのは四時過ぎだった。僕は一人望遠鏡をかついで農学部と教育学部の敷地にある部室に戻った。部室はかなりにぎやかで、中に崎山という新入生がいた。これで新入生は七四人となった。(崎山君とは後に辛い関係となってしまうのだが、この時点では)「こいつとはいい関係を築けそうだ」と直感した。
歩き疲れて下宿に帰る。夕食後、自室でいつの間にか眠ってしまった。
九時頃に目覚めた。二部屋隣の池上先輩がさかんに部屋の掃除をしているようだった。哲学講義のノートをまとめていると、池上さんが外に出てギターをかき鳴らしだした。
「外は気持ちがいいぞ」
という声に誘われて部屋を出て夜空を仰いだ。星々が燦然と瞬いていた。ギターに合わせて大声で歌った。
ここで、池上さんと「交通遺児を励ます会」のことを少し補足しておく。
あの過激派学生のなだれ込みで入学式が潰された日の翌日、同じ下宿に住む教育学部四年の池上先輩から渡されたのが『天国にいるおとうさま』という交通遺児の作文集だった。読み進めるのが辛かったが、遂に明け方までに解説なども含めてすべて読み終えていた。涙がボロボロこぼれた。
自分がこうしているときも、最愛の親を亡くし悲しみにくれているだけでなく、遺された方の親も死んでしまうのではないかと怯えている子どもがいる。しかも、お金がなくて人並みに教育を受けることもできない。
そうした現実に少しも気付かずに、大学進学は当たり前と、ノホホンと傲慢に生きてきた自分が実に情けない存在に思えた。そして同時に、それまで一度も感じなかった種類の激しい感情がこみ上げた。それは、遺児を大量に生み出しても知らん顔している社会と政治の冷酷さに対する、抑えようのない憤りだった。
過激派学生の校舎占拠で前期授業のほとんどが休講となり、出鼻をくじかれた悔しさも手伝って、私は池上先輩代表の宇都宮VYS「交通遺児を励ます会」活動に飛び込んだ。
週二回の家庭訪問、会報発行、ハイキング、クリスマス会、奨学金街頭募金、文集発行……。夏休みも冬休みも返上するほど多忙だったが、「おれたちがやらなければ誰がやるんだ」という情熱の方が勝っていた。さらに、子どもたちから「お兄ちゃん」と慕われる嬉しさにも後押しされたのだった。
四月二〇日(木)曇のち雨
池上さんと一緒に登校するときはあまりにも良い天気で、今日は暑くなるに違いないと思っていたが、間もなく曇り空となり雨までパラパラ降り出した。一張羅のブレザーに雨粒の滲みが点々と……。
法学、英語、心理学の三講義を聴いた。どれもまだ教科書を買っていなかったが故に、かなり心細い思いをした。そこで放課後、さっそく教科書と辞書を買った。ずいぶん金が減ってしまった。
その後、探鳥会に顔を出した。二二日のコンパの会費千円を奪われた。
部室にはいつになく女子が多い。そのうち名前を知っているのは須川さんと畑中さんの二人だけだが、みんな親切な明るい人たちだった。特に須川さんはとても親切で、履修科目時間表の作成についても、畑中さんと一緒に親身になって教えてくれた。
下宿に帰って踵が痛いのに気が付いた。大きなマメができていた。
六時半、夕食を済まして食器を台所に運んでの戻り際に、下宿の若奥さんが僕の姉のことを話し出した。姉は東京の大学生だが、僕に先行して宇都宮を訪れ、僕の下宿先を探してくれていたのである。
若奥さんは、そばにいた池上さんに(僕の姉を)ぜひ見せてやりたかったと言う。内心照れくさく思った。
四月二一日(金)晴
昨日まで、ブレザーに新品のズボンという風にバリッとした恰好で登校していたが、今日は清原農場で農作業実習がある。そこで、Gパンを履いてラフな格好で出かけた。
農業気象学と農業土木学の講義を聴いてから、さっそく作業着に着替え地下足袋を履いて、正門前で待機した。
午後一時、スクールバスに乗って清原農場へ。戦中、そこは空軍の飛行場であったという。いろいろな、いわば戦争の遺骨がのこっていた。僕らの入った教室も元は兵舎であったとか。急に父の顔が脳裏に浮かんだ。
ガイダンスが終わると、みんなスコップを担いで畔作りに励んだ。実は家ではやったことのない農作業に、僕はここで真剣に取り組んでいる。なんだか奇妙な感じだ。
広々とした農場をぐるりと取り囲む杉並木、休耕地に植えられたレンゲ草、トラクターのエンジン音、鶏の声……。土を盛っては足で踏み均す。伊藤佐千夫の『隣の嫁』の一場面を思い出し、思わず溜息をついた。
作業を終えて帰路につくころは、さすがに疲れていた。大学に戻り探鳥会の部室で着替えるときも、先輩にさえ話しかける気になれず、ただ黙々と身支度をするのだった。
夕食後、ぐっすり眠ってしまった。池上さんの呼ぶ声に目覚め眠い目をこすりながら、彼の部屋のドアを開けた。お菓子と、なぜだか味噌汁をごちそうになった。
池上さんはフォークギターが上手で、いろいろ作詞作曲もする。ギターをつま弾きながら彼のオリジナルを歌ってくれた。彼の過去の熱き恋を語ってくれた。激しく悲しい失恋の歌も聞かせてくれた。彼女によって、自分が大きく変わったことも教えてくれた。池上さんは、過去においてフーテンだった。しかし、そこから抜け出せたのは、AYAという彼女のおかげなのだという。そう言って、彼女からの手紙を見せてくれた。それは、ここ一、ニ年の池上さんの社会福祉活動の成果を喜んだものだった。
この日僕は、激しい恋もしなければ大きな障害にも突き当らぬ己れの過去の平凡さに、今さらのように気づかされたのだった。
四月二二日(土)晴
午後五時から、ある居酒屋で探鳥会のコンパが開かれた。
空きっ腹に日本酒を飲んだので、もろに酔ってしまった。しかし、理性はしっかりと保って、あんまり乱れずにやり過ごすことができた。自慢の喉で「秋田おばこ」や「生保内節」を唄ったら、みんな驚いて聞いてくれた。満足であった。
自分が惚れっぽいことは前々から知っていることだ。ただ、臆病な僕は、今までいずれも片想いで済ましてきた。今度もまた結局は片想いで終わるのだろう。
実はどうも先輩の須川さんを好きになったらしい。これは軽々しくは言えないことだ。しかし今は兎にも角にも須川さんが好きだ。いつまでもこの想いは続きそうだ。須川さんは本当にいい人だ。「いい人はいいね」なのだ。
コンパを九時に抜け出し、青森出身の同輩二人と、ふらつきながらパチンコ屋に入って一個一個玉をはじきだした。青森の二人は長い経歴にもかかわらず、五分と経たないうちに持ち玉を消費してしまったが、これがたった二度目の吾輩は、酔っていながらもタバコ二箱とチョコレート三箱を獲得したのである。タバコは吸わないので二人にやった。
「生保内節」
吹けや生保内東風 七日も八日も
吹けば宝風 ノオ 稲みのる
わしとお前は 田沢の潟よ
深さ知れない ノオ 御座の石
前の田沢湖 鏡において
雪で化粧する ノオ 駒ヶ岳
風の模様で 別れていても
末にまとまる ノオ 糸柳
四月二三日(日)晴のち雨
眠い目をこすりながら宇都宮駅に向かった。
七時二〇分、駅前の国鉄バス停から探鳥会の仲間十数名は、古賀志山探鳥に出発した。新緑萌える若々しい自然のエネルギーを感じて、思わずはしゃぎたくなる。先輩はみんないい人たちだ。親切にいろいろ教えてくれる。同輩にも気さくな仲間が数人できた。実に楽しい。
ただ当初、肝心の小鳥があまり見られないのでやや興ざめだった。が、全行程のおしまいごろになると、急に集中的に小鳥が現れ出しての大コーラスである。抜群だった。
四時ごろ下宿に帰り洗濯をやる。
さて、これまでは僕は幸福な気持ちでいっぱいだったが、今日の天気のように今はなんとなく憂鬱である。どうしたのだろう。
四月二四日(月)曇のち雨
朝、農学部の池の縁石に腰かけて速記の本を開いていた。講義のメモに速記は必須と思い『早稲田速記』なるテキストを入手したばかりだった。
そんな僕の位置から約八メートル先で、友人数名と立ち話をしている須川さんの後ろ姿を見た。須川さんの明るい声、スラッとしたプロポーション。急に胸が熱くなり、ついつい速記の練習のペンを止めてしまった。ややあって我に返って再びペンを執る。しかし、もはや心そこにあらず。須川さんが僕の居るのに気付いて話しかけてくれるのを、ひたすら期待しているのだから。ただ、そう思えば思うほど、僕はますますテキストに顔を近づけるのだった。
四月二五日(火)晴
風邪で朝から頭が痛いのと寝不足とで、どうも冴えない。
一時限目の物理ではほとんど眠ってしまい、無意味なことをしてしまった。独逸語が済んでからフランス式庭園の石に座って速記の勉強を始めたが、左翼学生の訳の分からない大音量アジに邪魔されてほとんど進まなかった。そこで、たまたま会った高校の同級生の山本と図書館に行く。二時間ほどで飽きがきて下宿へ帰り、さっさと寝た。
寝ていると、若奥さんが一枚の葉書を届けてくれた。僕の高校時代の英語の都築先生からだった。励ましの言葉が心に沁みた。嬉しかった。急に帰省したくなった。
夕食後、池上さんの部屋に、同輩同宿の増山、村木と僕の三人が招かれ、「自我の分裂」について話し合った。最初はまじめだったが次第に「恋愛論」に変化し、最後は個々人の経験やら身の上話となった。おおいに笑い笑わせ、愉快な四時間となった。
五月一五日(月)曇
今日は沖縄返還の日である。全面とは言えないまでも。
沖縄住民、全国民の願いが叶えられたのだ。これで第二次世界大戦も遠くへ去った。しかし、再び戦争なるものを起こしてはならない。今現実に、ベトナム戦争はニクソンの政策急転換によってますます激しくなっている。日本がベトナム戦争の肩代わりをしなければならないはめになったのは第二次大戦の罰である。
沖縄が復帰しても、日本そのものが米国に依存している限り、日本は日本ではない。日本自体が日本に復帰する日が来てほしいものだ。完全なる我が祖国日本に。
さて、昨日のことだが、昨日一四日(日)はあいにくの雨で、待ち望んでいたピクニックが中止になった。が、池上さんは、このまま解散するのは残念だと、集まった者たちでボーリングをやることにした。僕はもちろんボーリングは初めてのことで、ガーターを三度もやって大恥をかいた。
さんざんなボーリングを終え、今度は児童会館に足を運んだ。
二十畳以上はありそうな部屋に三八人が集まって、歌を歌ったりゲームをしたり、フォークダンスもやった。この宇都宮VYS活動は女性あってのものなので、この日集まった者のうちで、男はたったの七人だけだった。僕はまったく上気してしまい、地(畳)に足が着かず、どうしようもなかった。
五月二一日(日)午前四時。天気は晴れらしい。まだわからん。
このところ、どうも憂鬱でいけない。五月病というやつらしい。速記も英会話も全然やっていない。本もあまり読まない。
よくない、よくない。鬱勃たるパトスがほしい。瓦礫の毎日は嫌だ。早く己を取り戻そう。今日から軌道に乗って Going my way!!
六月一六日(金)
長いブランクの後、再び筆を執る。
白紙の部分の日々、僕はいろいろ悩んだ。自分の本質が何かを探ろうとした。しかし、考える暇なく、宇都宮ⅤYSの「交通遺児を励ます会」活動にすべては費やされたような気がする。ただ、悟ったことは「地で行こう」ということだ。他人がどう思おうと勝手であり、他人の心を傷つけることをしないでは生きてはいけないということで。しかし、それを最小に止めるために常に努力しておればよい。
今までずいぶんいろいろな(と言っても、わずか数名だけど)女の子を知った。「知った」と言うよりも単に外見を見ただけにすぎない。好きとか嫌いとか、そんな感情はあまり湧かないし、それほど重要なものではないような気がする。ただ女の子と話をすることでもって心が晴れるから、そうしたいと思う。ただそれだけだ。浮気っぽいとか、そんな高度なものではない。第一、僕は女の子というものを知らなすぎるからだ。だから、今の僕は、ただただ女の子というものを理解しようとしているにすぎないのだ。
第二に、僕を見ろ。女の子は、ただ単に僕が滑稽な人物だから話しかけてくれるのであって、実は軽蔑しているかもしれないのだ。その実、僕もそのつもりで一生懸命おもしろいことを考えて話している。
さて、今日は、気晴らしに映画館に行った。宇都宮に来て初めてだ。
「死刑台のメロディ」――法とは、権力とは、アナキストとは……。
人間が人間を裁くことなど果たしてできることなのか。僕は法学を受講しているが、この映画を観るまでは法学はつまらんものだと思っていた。しかし、今は違う。もっと真剣に法学を勉強しようという気になった。法の恐ろしさを知ったのだ。
七月一一日(火)
協和電設でアルバイトをする。アルバイトは初めての経験である。
内容は室内の清掃であるが、二階から五階をやったので、階段の上り降りで非常に疲れた。日給でないのが残念無念である。今手元には二五円しかないのだ。明日から、アルバイト先までは自転車で通い、昼飯は当分の間抜きにしよう。仕方のないことだ。
七月一七日(月)
アルバイトの帰りに鳥居さんの後ろ姿を見る。僕は少々慌てた。なぜならば、五日ほど前に、彼女にラブレターを送ったからだ。その日以来、探鳥会の部室にまったく顔を出せないでいる僕だ。情けない。
一度、ラブレターを出したなら、男として責任を持つべきだ。当たって砕けろ。絶対映画に誘ってやるぞ! デイトというものをするのだ。結果は野となれ山となれ。とにかくアタックだ。
探鳥会に顔を出せない理由はもう一つあった。実は同僚の崎山も鳥居さんを好いているのを知っていて、僕はおそらく抜け駆けしたからだった。この後、彼と僕とは口をきかなくなった。おそらく崎山は、僕が彼女にラブレターを書いたことをどこかで知ったのだと思う。そのうち、崎山は退部してしまった。夏目漱石の『こゝろ』じゃないけれど、僕は少し罪悪感に見舞われた。
七月一九日(水)
初対面のとき、池上さんはとても親しみやすい人だと思った。しかし、池上さんに接近しすぎたのであろうか。この頃は池上さんの顔を見ると緊張する。冷や汗をかく。自分自身のいやな面をあまりにも池上さんにさらけ出してしまったことに起因するようだ。
この頃、池上さんとは何となくウマが合わない。隣室の僕より一学年上の池上弟とはとてもくつろげるが、兄の前では空拳ではいられないような心境だ。池上さんは確かに情け深い人のように思う。しかし、その情け深さも度を超すと毒になる。
正直に言うと、この頃の池上さんの態度には、僕は非常なる抵抗を感じる。何かあまりにも我々一年生の人格を無視しているような感じだ。自己中心的すぎる。僕の自由を束縛しすぎる。いちいち僕のやることにケチをつける。徒に僕の心を惑わせ喜んでいるような気がする。いちいち押し付けがましく説教する。まるで自分が絶対者であるというような言い方をする。何でも自分の思い通りにやらせようとする。僕の立場になってくれない。勝手にテキトウな判断を下し、それと思い込んで、さも何でも分かっているように僕を痛めつける。典型的な教育者タイプだ。
これからは、池上さんの前では常に冷静でいようと思う。早く己れの人格を高めることに努めよう。
池上さんの周りには、女性があまりにも多すぎる。毎日毎日、女の話ばかりである。彼は行動力をモットーとするだけあって、手も早いようである。あちこちに女性との裏話がある。
手紙を書いてネチネチしている僕を男らしくないなどと言うのであるが、まだ手紙を書いてから日も浅いし、彼女とは会う機会の少ない僕に何ができるというのか。今度、彼女と会う計画はちゃんと立てているのに、独断的な彼はせっかちすぎる意見を悪意込めてメタメタに言ってくる。
彼は確かに宇都宮VYS(以下「宇V」と略す。)を開発した。しかし、それも結局は自分のためと思ったからに相違ない。人をあまり縛り付けたくないと言っておきながら、巧妙な手でズルズル引っ張り込む。単純な僕は、その犠牲者のようだ。
もっと強くなりたい。もっと強くなりたい。ただそれだけ……。今度の文集の編集を済ませたら、宇Vの活動の一切をやめよう。自分を偽ってまで活動することはないのだ。宇Vの殻に閉じ籠るのはやめよう。息苦しいからやめよう。しかし、一度引き受けた文集だけはベストを尽くすぞ。そして、きれいさっぱり縁を切る。ヒトラーは偉大だが、狂人だ。怖い、怖い。
木村敏の「医者と患者」より。
人間にとって精神の苦痛とは、単に狂気を生み出すだけでなく、人間を偉大な存在たらしめるすべての行為、すべての内的生産性、すべての人間的な深さを生み出す。
九月一四日(火)
俺の行動は狂気じみている。心も困惑し落ち着かない。ばかに震えている。このままどこかに消えてしまいたい。誰もいないところへ。
俺は気が狂っている。
九月三〇日(土)
宇Ⅴ活動はまだ辞めずにいる。今日はM精神病院を訪問した。
フォークダンス、安来節を踊り、みんなで歌う。多くの看護婦さんと知り合いになれた。帰り際に、患者の一人からキャラメルをもらった。嬉しかった。
二八日の失恋の痛手はだいぶ癒えた。おもしろいことに気が付いた。鳥居さんとデイトした日が七月二八日なら、ふられた日が九月二八日だ。たった二か月の恋だったとは。
十月一三日(金)
今日から思う存分勉強しよう。速記も必ずやろう。
僕は自分が非常に無力な人間だということを 知り尽くしている。それにもかかわらず所々で過剰な自尊心が顔を出す。これではいけない。弱い自分がいくら肩を怒らせたところで、それは見せかけにすぎない。すぐに崩れる。内面から現れるものを早く身に付けたい。鋭くなりたい。侮られたくない。こう思うのも、自分は虚栄心の強い人間だからなのだろう。
大野力の「強いられる老い」から。
この世の中の人間関係には、強い立場と弱い立場がある。だがそれは、しょせんは仮の姿にすぎない。強い立場も、いつかは弱い立場に落ち、また、弱い立場もやがては強い立場に至る。それは赤ん坊から青年、壮年を経て、やがて老年に至るプロセスでも明らかである。こんな中で、人はかつて自分が持った強い立場を固定化しようとするとき、もっとも‶喪失の打撃〟を深くする。強い立場、弱い立場というも、それは仮の役割分担だと割り切って、さらにその根底に、人間としての対等性のあることを認め、そこに日常の行動の基準を置くならば、〝喪失〟もまた、恐れることではない。〝喪失〟は〝喪失〟なりに、人間としての自分は、かわらないのである。人はその状態なりに、新しい役割を求めればいいのだ。……〝若さ〟だけを素晴らしいと主張する人生を、私は素晴らしいとは思わない。生の充実とは、生の喪失からの視点にも耐えうべきものと思うからだ。
一一月三日(金)
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』より、小林が言ったことの抜き書き。
「要するにおれなんてのは資格がないらしいんだ。いまや一つには中島みたいなやつの時代らしいんだよ。つまり田舎から出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の疲弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。……つまりなんらかの大いなる弱味とか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるべくドギツく汚く大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうだ。とにかく売り込むためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚くてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そして、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりは、ズバリセックスとか汚いものをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。おれはね、そういう絶対値競争には全く自信がないんだよ。そんなあさましい弱点や欠点暴露競争にも参加する気にはどうしてもなれないんだ。つまり資格がない……」
一一月九日(木)
ホイットマン詩集より。
「アメリカ合衆国に」
アメリカ合衆国に、
またそのどの州にも、また合衆国のどの都市にも向かって言う、
「抵抗は十分に、服従は少なく。」
一度無条件に服従したなら、ただちに奴隷となってしまう。
一度完全に奴隷となったら、この地上のどんな国も、州も、都市も、
もはや永久に、その自由をふたたび取り戻すことはできないのだ。
一一月一五日(水)
哲学の目的は、存在の覚知、愛の照明、完全な安静の獲得。
僕が求めてやまなかったものだ。
一一月二六日(日)
『カーマ・スートラ』より。
機才に富み、頭がよく、友を持ち、他人の意図を見抜き、なにをするにも、時と場所柄をわきまえた男こそ、難攻不落の女性といえども、これをたやすく手に入れることができる。
一一月二八日(火)
僕は高校時代の自分をふと振り返ってみた。
七か月前までは僕は高校生だった。「今を懸命に生きよう」と意欲に燃えていた自分だった。
大学生になって、僕はあまりにも自分を否定しすぎたのではないかと思う。高校時代の自分の気質をあまりにも否定しすぎた。今の自分は、気力を喪失した老人のような心を持っているような気がする。
若さを、情熱を取り戻そう。高校生まであれほど自分の信念としていた「今を懸命に生きる」ことを忘れてはいけない。大学生になって環境が急激に変化したが、自分の本質は変わらぬはずだ。もっと真剣に、正直に、懸命に生きよう。ごまかさずに生きよう。
ここにおいて、僕は改めて宣言する。
将来の夢に忠実であるために、今日一日を懸命に生きる。
将来の夢とは、存在の覚知、愛の照明、完全な安静の獲得、に徹した人間になること。
一一月三〇日(木)
石坂洋次郎の小説から。
ある日、川べりの草むらに休んでいた時、野上太郎は重い口調で、
「……僕はね、ときどき自分が優等生であることが、つまらなくなることがあるんですよ。誰のために勉強しているのか分からなくなるんです。……僕はほかの学生のように怠けたり遊んだりしたいんですよ……」
「僕は船乗りにでもなって、世界中の変わった国々をまわって歩きたいな。……僕の家の者も、学校の人達も、世間も、僕が遮二無二勉強しなければならない人間に決めてしまってるんですよ。そして、僕は意志が弱くて見栄坊なものだから、そういう外部の強制に抵抗して、自分を解放することが出来ないんです。……どこか人の知らない所に行ってしまいたいなあ……」
一二月六日(水)
ひと頃僕は、人間なんてすぐに変わるから信用できないもの、空しいものと思っていたが、この頃は逆に、人間はそう簡単に変わるもんじゃないと思うようになった。
ただ、その環境の変化によって、人間は自分の本質とは相反する態度なりをすることがある。表面的には変化するが、本質的なものは、つまり、性格は融通のきかないものと思うのだ。あたりまえのことかもしれないが。
一二月一一日(月)
昨日一〇日は、「交通遺児を励ます会」の会員相互の親睦のために、栃木会館で映画「パリのめぐり逢い」と「さらば荒野」の二本立てを観た。
その後、喫茶店でいろいろ話したのだが、何か虚しいものがかすめた。会員に島崎さんという女性がいる。話の流れで彼女の誕生日を聞いた時、一瞬ドキッとした。なぜなら、あの鳥居さんの誕生日と月は違うが日が同じだったからだ。あの鳥居はまだ僕の心の片隅で疼いている。
一二月一二日(火)
久しぶりに鬼怒川へ探鳥に出かけた。
ツグミ、コサギ、イカルチドリを観る。途中雨に降られる。
帰りのバスの窓から、工学部付近を散歩している二人、熊谷先輩と鳥居さんを見る。妬けたが、もうさほどではない。彼女のことはきっぱりあきらめよう。
ただこの日、僕は未練がましくも鳥居さんに手紙を書いた。文面は象徴詩のようなものになった。
僕は彼女と熊谷さんとの関係を知って以来、ジェラシーに燃え何度手紙を書いては出さずに捨てたことだろうか。そのどれもが長々とした文章だった。だが、どんなに長く書こうと、自分の気持ちを率直に伝えることは無理だった。だから、いっそのこと暗示的な象徴詩的なものにしようとして書いたのだった。
それを今度こそ思い切ってポストに投げ込んだ。気持ちが実にすっきりした。
一二月二〇日(水)
熊谷さんは探鳥会の先輩で三年生、実に思慮深い人だ。少なくとも僕のような生半可な男ではない。人として愛すべく存在だ。彼には太刀打ちできないから、率直に負けを認めよう。僕には経験もないうえに思慮深さもない。一体僕は何なのだろう。何もない薄っぺらな人間、悲しい人間だ。
それなのに背伸びしたがる。いけない、いけない。これではいけない。まず、内面からコツコツ鍛えよう。焦らないで、認識したら実践、その後でまた判断し、認識、再び実践だ。きっとそれが僕にとって実のある経験になるだろう。
一二月二六日(火)
また突然、憂鬱が襲ってきた。
僕はすこぶる悲しい。涙がとめどなく流れる。
僕は一人、たった一人だ。みじめで小さな人間だ。
寂しい、悲しい。鼻が詰まるくらいに涙が流れる。
仕方なしに酒を飲む。後のことは考えない。
悲しいけれど、寂しいけれど、僕は僕だ。
たった一人の僕なんだ。
一九七三年一月六日(土)
昨年の二八日から今年五日まで、郷里秋田の実家でのんびりと過ごしてきた。寝ることと食うことの繰り返しであったが、僕はあることに目覚めた。
ただ漠然と生きてはならない。僕の進む道はただひとつ、それは、明日の日本の農業を築くために生きる道だ。若者らしく情熱を燃やそう。大きく伸び伸びと生きよう。
下宿に帰ると、松山さんから年賀状が届いていた。松山さんは教育学部三年生。お父様を交通事故で亡くした経験から「交通遺児を励ます会」活動をしている。
彼女はとても温かく寛大だ。僕とは比較にならない人格者だ。ぜひ近づきたいものだ。その彼女からの年賀状の文面をそのままここに書くことで、僕の歓喜の全てを表現でき得るだろう。
「おかえりなさい♡ 実家へ帰っておかあ様のみそ汁を味わったら、元気になりましたか? 昨年の終りのニ・三ケ月何となく沈んでいらっしゃる様にみえたので、どうなさったのかしらと思っておりました。いちばん最初にお会いしたころの朗らかな元気な工藤さんが、やっぱり本物ですよね! クリスマスには楽しませていただいてありがとうございました。疲れませんでしたか? 今年も宜しくお願いします。」
感動のあまり、僕は次の詩をノートに書きつけた。
小生の生きがい 大地にあり
我 土より生まれ出でて土に還る
祖先はこの大地に眠り
子孫のために若草を繁茂さす
生命の母胎 大地よ
小生も例外なくその土となろう
そして春には
我が血肉よりなる美しい花々を
太陽に向けて咲かしてみせよう
一月八日(月)
挫折は青春の代名詞であるが、挫折から立ち直るド根性を育てる要素がそれそのものの中にある。青春はかくて苦しく耐え難い、精神の試練の時である。
小・中・高となされるがまま無意識のうちに育った素朴な僕は、今になって己れの本質をあわてて追い捜し求めているありさまだ。
ともすれば、自分を見失いがちな毎日だが、いかに酒に酔いしれていようと、いかにゲームやマージャンに熱中していようと、どこかで冷たく自分自身を見つめている眼差しが欲しい。
さて、松山さんなる背が高くスタイルすこぶるスマートで、おまけに知的で温かく思いやりのある、非の打ち所のない女性がいる。だから僕は彼女を女神と崇め敬う。女神に愛を捧げるとき、美が輝き返ってくる。愛を感じるものは美しい。
一月九日(火)
探鳥会の友二人と連れ立って鬼怒川へ行く。夕陽を浴びて川の瀬を歩くコサギの長い嘴が黄金色に輝いていた。
陽はすでに山の端にあって真紅に辺りを照り染めていた。黄昏の鬼怒川の美しさは、その真紅の太陽が命だ。陽を反射した川面との二つの太陽が一度に僕たちを照らした。
ここで僕はダジャレを言う。
「今年は一大飛躍の年であるが、日焼けの年にもなりそうだ」
一同、土手を歩きながら、どっと(土手)笑う。
鬼怒川の黄昏は偉大な大自然の芸術だ。
一月一七日
一三日から一四日は長野市、一四日から一五日は軽井沢と、充実した二泊三日を過ごした。中でも一三日は特別な日となった。日本で第一号の交通評論家である玉井義臣先生のお話を伺って、僕の今までの悩みが一掃したからである。
つまり、農業も「交通遺児を励ます会」も、その目的とするところは同じであることを知ったのだ。車社会→公害→自然破壊。農業は自然に依存するものであるから、その自然が破壊されることは致命的である。自然なくして農業も清い人間社会も生まれはしない。「励ます会」活動は生命重視の人間的な社会を築くための活動なのだ。
交通遺児家庭は、自然破壊の元凶の一つである車について強く訴えられる存在である。当然、大きな終局的な目的は公害のない生命尊重の社会を築くことである。
従来通りのボランティアとしての「励ます会」であれば、行政の不備の単なる穴埋め的活動にすぎなくなるから、今後、我々「励ます会」がもっと積極的に対社会的に活動するためには、ボランティアという既成概念に束縛されてはならない。その域を脱することだ。行政の不備の穴埋めではなく、行政の不備を指摘し訴えていかなければならない。それはもはや一種の社会変革運動となる。
車は資源を食い尽くすとともに、その排気ガスは公害の元となり、殺人凶器となる。それが交通遺児を生み、彼らを社会的差別にさらす。彼らこそ、車に対して怒りの拳を振り上げるべきである。
車が人間的なものであったのならば、今日の社会には悲惨な事故などありえないし、光化学スモッグもないはずだし、急激な石油資源減少を心配する必要もないはずだ。車そのものに矛盾があるからこそ、現代社会にとっては不都合な存在となっている。だが、車以上に便利なものがないものだから、人は車を利用せずにはいられないし、車が現代社会にとっていかに矛盾したものかを理解しない人間は、娯楽をそれに求めさえする。企業は車をおおいに宣伝するし、車の悪を主張する人間は稀有だ。現に車以上のものがないのだから結局無念ながらも車に頼るしかないのだ。
だが、このまま車を許していたら地球そのものが破滅するであろう。なんであくせく急ぐ必要があろう。自転車で十分、歩いて充分である。人間の身体も剛健になるし自然も守られ、子孫に豊かな地球を遺せるようになるのではないか。
※
私の「青春の門」と言える大学入学後の約一年間。そのときの記憶混じりの日記はここで終わりとするが、その後のことを簡単に次に記しておく。
私はおそらく初めて世の中に登場したに違いない「遺児」の作文集『天国にいるおとうさま』を読んだときは大学に入学したばかりの一八歳のときだった。
結果的にこの一冊が、私をして、大学卒業後も遺児救済の「あしなが運動」を続けさせ、様々な遺児の作文集発刊、通算一二年に及ぶ遺児学生寮「心塾」寮監などに携らせ、七〇歳の峠が見え出した今でも事務局の相談役をさせていただいていることにつながっている。
文集に悲しい感動を覚え、宇都宮ⅤYS「交通遺児を励ます会」活動に飛び込んだことは先に述べた。
その後、私が大学三年生になった一九七四年、私は「励ます会」の代表に選ばれ、真っ先に遺児家庭の名簿を更新した。当初四一世帯だったのが、三年間で一〇四世帯にも増えていた。私は「新しく加わった家庭を中心に訪問しよう」と強く呼びかけた。会員は看護学校や保育専門学校の女子学生がほとんど。午後二時に集合し家庭訪問開始。帰宅が一〇時を過ぎる日も度々あった。それにもかかわらず、みんな文句ひとつ言わずによく頑張ってくれた。
同年一二月二二日、クリスマス会が同時に二会場で開催された日のことだった。
私の指示で、もう一つの会場を担当した保育専門学校生の会員四人が帰宅途中に交通事故に遭った。酔っ払い運転のダンプがバス停にいた四人を襲い、二人に重傷を負わせ二人の命を奪った。亡くなった二人は一九歳と二〇歳。あまりの衝撃にすべてを投げ出したくなった。しかし、亡くなった会員の兄が告別式で述べた言葉が私を捉えて支えた。
「加害者を憎んでも、妹はかえってこない。せめて、妹の死を無駄にしないように、交通事故ゼロの日が来ることを願って運動していこうではありませんか」
当時の全国の交通事故死者は年間約二万人。それが今では、関係者の努力により三千人に激減した。亡くなった方のほとんどが、児童や就学中の子供のいない年齢層のため、交通遺児も大幅に減少し、補償制度も充実した。まだ「事故ゼロ・遺児ゼロ」は達成されていないが、仲間の無念が少しは晴れたのではないかと思うこの頃である。
(二〇二一年五月一五日脱稿)