2・早一か月
あの衝撃的な日から一か月、たった一か月、されど一か月。私はすっかりこの立派なお屋敷での生活になれてしまった。
「奥様、本日はいかがされますか」
奥様とか呼ばれるのにももう慣れました。これでも実家ではお嬢様と呼ばれていたのだ。それが奥様に変わっただけのこと、ええ、そうですとも。
「本日は書庫の整理をします」
「本日も、ですか……」
「終わらない、ですね……」
「お手伝い致します」
「いえ、お気になさらず」
「奥様」
「はい」
「お手伝いします」
「……お願いします」
ドロシーは目力も押しも強い。彼女は私についてくれているメイドで、よく手伝いをしてくれる良い子だ。彼女には私の世話の他にも仕事があるだろうから、申し訳なさもあるのだけれど最終的には甘えてしまう。いつも助かっています。
契約結婚を申し込まれたあの日から、私はこのお屋敷に住んでいる。未婚の状態であった私が、家の了承も無しに男性の家に住むことは決して良い行いとは言えない。さすがにそれは断ろうとしたのだけれど、ヴィクター様曰く『最近ではこの屋敷の周りを調べさせている家もある。このまま君を帰した後、君に接触をされては困るんだ』と言われてしまい、なし崩しでお屋敷に住むことになった。
単純な危険もあっただろうが、私がそういう家の人に唆されて結婚を取りやめるかもしれない恐れがあったのだろう。どういう風に交渉したのかは知らないが両家も認めてくれているので、まあ、問題はないだろう。結婚したし、戸籍の上では。
分かっていたことではあったが、この契約結婚は白かった。私の憧れの君はどうにもこうにも紳士で、どこまでも素敵な人だった。私が住んでいる部屋は一応このお屋敷の女主人が使う部屋だったが、不安だろうからと鍵をかけられるようにしてくれたり、調度品も最近王都で流行っているブランドのもので揃えてくれている。必要なものがあれば全て買う、と言ってしまう程の太っ腹さだ。優しさの上限がないようでいらっしゃって、朝晩の挨拶は必ずしてくださるし何かと気にかけてくれて声をかけてくれる。戸籍が移った瞬間から、結婚の素晴らしさをかみしめている。
今まではヴィクター様が王立図書館に資料を取りにきたり、私が持って行った時にたまに会えるくらいであったのが、必ず毎日会えるのだ。しかも、妻として。あの時の私は本当に正しい選択をした。
「奥様、そろそろ一度休憩をなさいませんか?」
「ああ、ええ。どうぞ、そうしてきてください」
「奥様に、休憩をとって頂きたいのです」
「……まだ片付いていないので」
「一年経っても片付かないと仰っていたのは奥様ですよ。きりがございません」
「ごもっともです」
考えながらゆっくりと書庫の整理をしていると、時間なんてすぐに過ぎていく。このお屋敷は敷地の半分程が書類や書籍で埋まっているのだ。終わりなんていつまでも見えない。ドロシーは私がいつまでも休憩をとらないので、よく怒っているが、ちょっとくらい大丈夫なのだけれど、とも思う。しかし私を思ってくれてのことであるし、私の言い分の方が弱いのでいつも中途半端な所で中断をせざるを得ないのだ。いや、この言い方はよくない。休憩は確かに適宜入れるべきで、ドロシーは正しい。
王立図書館での仕事は辞めてはいない。けれど、出勤の頻度は下げた。何せこの紙の山を見てしまっては、どうしようもなかった。一応は女主人であるから、お屋敷の仕事も少しは任せて頂いたのでそれも行わなければならない。今までは図書館で勤めている人用の寮に住んで、出勤日でも休暇でも毎日のように図書館に入り浸っていた私であるが、そっくりそのままの生活は送れなかった。
それは、まあ、それでもいい。図書館という雰囲気が好きで、働くということに興味があってその上で運よく得た職でもあったが、このお屋敷での仕事もとても楽しいのだ。突然のことだったので同僚たちを驚かせてはしまったが、辞めてはいないので許して欲しい。ちなみに働く時は、そのまま旧姓を使っている。今更覚えなおしてもらうのも面倒だったし、まだ“デスティーノ”と呼ばれることに抵抗が、いや抵抗ではなく葛藤が、ある。
「本日は南の地域から届きましたトロピカルティーを」
「ありがとう」
お茶を飲むためだけに作られた格調高いこの部屋には、未だに少し緊張する。このお屋敷は落差が激しいのだ。さっき私たちが片付けていた大きな書庫が終わりが見えないくらいに雑多なのに対して、この部屋のように高級感満載な場所もある。
「奥様、本日の茶葉はいかがでしょう」
そう聞いて来たのは執事だ。彼らは本当に気を使ってくれていて、食べ物や飲み物の好みは必ず聞いてくれる。ありがたい限りなのだけど、私は所詮契約上の妻であるから多少の申し訳なさを感じないでもない。
「ええ、とても美味しいです。好みが分かれる可能性があるので大人数でのお茶会には適さないかもしれませんが、香りが華やかでいいですね。わたくしは好きな味です」
「よろしゅうございました」
このお屋敷の使用人は仕事ができる人が多いが、全体的に若い。実家では家族ぐるみで先祖代々仕えてくれている人が多かったので、初めは違和感があったが、これはこれでいい。
「では、どうぞもう一杯。ただいま、菓子をお持ち致します」
「ええっと」
そろそろ書庫に戻りたいのだけれど、と視線を泳がせるが、既にドロシーがチーズケーキを持ってきてくれているのが見えている。
「奥様」
「はい」
「我々は素晴らしい女主人を得ましたが、旦那様には『あまり無理をさせないように』とも言いつかっております」
「まあ」
「ご理解頂けますね」
「そうですね……」
その女主人に圧をかける執事ってどうなのだろう。しかし昔から私は事なかれ主義なのだ。言うことを聞く以外の選択肢がない。……どちらにしろ、ここは私の家ではない。郷に入っては郷に従え、だ。蔑ろにされている訳でもなく、むしろこれでもかと大切にされているのでむずがゆいことこの上ないが、気分が悪いということはない。やはりあの時の私は、本当に良い選択をした。
―――
「奥様、旦那様がお帰りです」
「あ゛」
やってしまった!
「まだ馬を厩舎に戻している最中でいらっしゃいます、慌てずに降りてきてください」
「そ、そうですか」
昔から夢中になると時間が分からなくなることも多かったが、結婚してからは注意していたのに窓の外は確かにもう暗い。ついにやってしまった。高い場所にある本の種類を確認しようとして、梯子の上で読みふけってしまっていたようだ。
言われた通りに注意して梯子を下りる。家を守る家人が働きに出ていた人を迎えないことは、この国では基本的にはありえない。病気やその他のどうしようもない理由であれば大目に見られるが、中断して危険が伴わないものであれば必ず一度それを止めて出迎えるのが当たり前のことなのだ。つい一か月前まで一人暮らしだったので忘れかけていた文化であるけれど、一応の妻である私がそれをしない訳にはいかない。
ぱたぱたとスカートをはたき、髪を整えて鏡を覗く。うん、大丈夫。きちんと口角を上げて、落ち着いて。
「お帰りなさいませ」
慌てず騒がず静かに玄関ホールで頭を下げる私は、それなりに見えるのではないだろうか。嫁いでいった姉たちや兄と結婚した義姉たちに、たくさん話を聞いていてよかった。花嫁修業などの期間がなかったので不安ではあったけれど、見様見真似で何とかなるものだ。
「……ああ、ただいま」
「どうか、なさいましたか?」
「いや、今更だが、結婚をしたのだな、と……」
「そう、ですね。ひと月ほど前に」
戸籍の上でだけなのだれども。もしかして、このように出迎えることが負担になっていらっしゃるのだろうか。あまり甲斐甲斐しく世話を焼かれるのが嫌いな方もいると聞いたことがある。しかし、ううん。これは一般的に慣習化されていることであるし、ご尊顔を拝見できる貴重な機会なので、できれば許して頂きたい。……何よりも、お出迎えをできる幸せを奪われたら少し、いえ、大分寂しい。
「そうか」
「はい」
「そうか……」
「……はい」
ヴィクター様は何故かその場から動かず、じっと私を見ている。私も感情が読みにくいと褒められる方であるが、ヴィクター様の瞳ほどではない。何を考えていらっしゃるのか分からない視線は少しばかり居心地が悪かったけれど、だからといってどうすることもできず、それを返す他なかった。
「お二人とも」
いくらかそうしていた私たちに声をかけてくれたのは執事だ。彼は良い仕事をする。
「何だ」
「お食事のご用意ができております。どうぞ食堂へ」
「分かった。クレア」
「はい」
エスコートを受け、食堂に行く。この一か月で慣れはしたが、最初は表情筋を保つのに苦労したものだ。
このようにヴィクター様は契約上の妻であるだけの私にも、まるで本妻であるかのような扱いをしてくださる。内心小躍りをし続けているが、その心の内を明かす訳にはいかない。完璧な仮面夫婦を演じること、それが私に課せられた最も重要な責務であるのだから。
読んで頂きありがとうございました。