ロスト
「眼鏡知らない?」
「知らないよ」
呆れ顔で俺は言う。
彼女はだぼついたシャツ一枚を着たまま、ふわりふわりと歩き回る。
幽霊みたいな女だ、と思う。
大学に入って数ヶ月。一人暮らしの俺の家に転がり込んだこいつは、未だに名前以外の情報は謎に包まれている。
俺とは違う学部に籍を置いてはいるものの、ちっとも通ってはいないらしい。
「お風呂場にないんだけど」
花びらの色をした唇を尖らせて、まるで俺のせいだと言わんばかりだ。
「ベッドの下にでも落ちてるんじゃねえの?」
「ない」
「洗面所は?」
「ない」
「トイレは?」
「そんなとこに置くわけないでしょ」
不服げな彼女の顔を見ていたら頭痛がした。昨日、飲みすぎたせいだ。
「知らねえって。お前酔ってると所構わずいろんなもの放り出すだろ。玄関の前に下着落ちてたこともあったし」
「もういい」
と言って彼女は背中を向け、風呂場のドアを乱暴に開け放った。
しばらくして、シャワーの水音が聞こえてくる。
家主の俺の許可も取らずに、大した態度だ。
人間を二十年もやっていれば、語りたくないことは誰にでもある。
詮索しないし立ち入らない、融通の利いた関係は心地よい。
なし崩し的に続いてしまう、ぬるま湯の世界。
でも俺は知っている。
寝つきの悪い彼女が、夜中に飛び起きて泣くことを。
浅い眠りの奥で何かに苦しみ、逃れようともがいていることを。
俺が知っていることを、彼女は知らない。知らないままでいいと思う。
だけど。
濡れた髪をタオルで拭きながら出てきた彼女を、俺は抱きしめる。
「何」
彼女は腕の中で赤ん坊のようにむずがった。羽のような体温。
落ちついた風貌の彼女が、ほんの少し幼く見える。
「何でもないよ」
と言って俺は、彼女の額に額をくっつけた。
頬に彼女の息がかかる。覗きこんだ瞳は空の果てのように澄んでいた。
――いつかは、本当の彼女を見つけることができるだろうか。
口づけると、彼女の唇はほんのり甘かった。
「天気もいいし、出かけようか」
「何、急に」
彼女はたじろぐ。
「待ってな。俺もシャワー浴びてくるから」
急ぎ足で風呂場に向かう俺の服の裾を引き、彼女は言った。
「ねえ」
「何だよ」
「眼鏡知らない?」
【終】