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練炭と孔雀

作者: 明石明楽

おれが自分の命を一酸化炭素中毒で断つための練炭コンロを買ったのは、4月23日午前8時16分だった。なぜそこまで正確な時間がわかるかといえば、その死神の漬物石みたいなコンロを購入したホームセンターのレシートに、しっかり印字されているからである。3200円プラス消費税。合わせて着火剤入り練炭とチューインガムを買った。

自分が一体何時何分に絶命する事になるのかはわからない。行き当たりばったりでいつ決行するのかは気分任せだったし、おれの心臓が止まる瞬間にはどこのレジからもレシートは吐き出されないだろうから。

おれにはどぎつい怠惰癖があるものの、このイベントを先延ばしにすることはないだろう。今の自分は、大学生が週末のデートの予定を楽しみに日々のアルバイトを耐え忍ぶように、自殺の希望によってどうにかもう少しばかり動くことのできる肉の塊にすぎない。このつまらない体にしょうもない精神が囚われている限り、生きていても何の望みも叶えられないし望むことすら疎まれる。飽くことのない苦しみの循環を断つためには、肉体の自分を殺す他には方法が無いのだ。

ホームセンターを出たおれはリュックサックの中に練炭コンロをしまいこみ、空虚だが気晴らしに溢れた街に向かって歩き出した。自分の部屋にあるものを色々と質に入れることで手に入れた全財産が懐に入っているので、大抵のモノは食えるし大抵の刹那的な快楽を買える。まあ、気ままにやっていこう。

おれは鼠色の高架線の下を歩きながらスマートフォンを取り出して、音楽配信アプリを開いた。ユーザーの再生履歴から分析した人工知能が、おすすめに『ジャンル:ディスコ』『ムード:激しさと憂鬱』などのテーマに沿ったプレイリストを並べている。

もしも『ムード:そろそろ自殺どき』のプレイリストがあればそれを選んだだろうが、当然そんなものは無かったので、ほどよく鎮静剤の役割を果たす楽曲の入っていそうな名前をタッチした。夜の海上に漂う棺桶の中に自分が詰め込まれている気にさせられるアンビエントミュージックが、イヤホンから鼓膜に照射される。

しばらく歩き、プレイリストの4曲目までちょうど再生し終わったあたりで、おれは板戒手(いたいまして)駅の前にある古風な喫茶店に到着した。屋根も外壁も長年日焼けしたような薄い茶色で、平凡な木造りの店だった。入口のドアの横には二本足で立つ雌牛の木彫りが置いてある。それはおれの体格よりずいぶん大きかったので、毎回ここに来る度に自分の矮小さを連想してしまって鬱々たる気分にさせられた。

店内に入って席に案内されると同時に、おれは注文を済ませてしまう。体に吸い付くような革のソファにどっかりと座った。店内のスピーカーからは、最近の流行歌であろうテンプレート的なポップスが流されていた。

おれは静かに目を閉じて指を組む姿勢をとった。そこだけ外から見れば思慮深い哲学徒のように見えなくもなかったが、頭の中ではいかに今日家に帰りたくなるまで時間を潰すか、いかにして飽きて疲れるほどの快楽を手にするかという計算でいっぱいだった。しかして、コーヒーショップに来て思索にふけっているような人間が考えることなど案外そんなものではないのだろうか。哲学とはそんなものなのだ。

しばらくすると店員が金属製のカップを運んできて、おれはそれがテーブルにカチャリと置かれるや否や手に取り、きつめのドリップのアイスコーヒーを一息に飲み干した。濃度の高い豆の陶酔に、眼が見開かれる。自分から見て前の壁にかかっていた雄鹿の剥製と目が合った。

おれはカップを置き、舌や喉に尾を引くカフェインの残滓に浸る。そして深いため息をつくと、立ち上がってレジに伝票を持って行って代金を支払った。

それでもうその場にいる必要はないと、おれは店を出ることにする。居心地の良さが売りの喫茶店をそんな自販機みたいな利用をする客はおれぐらいのものだろうが、手早く上質なカフェインを摂取して眠気さえ殺せればなんでもいいのだ。

空には、疫病にかかったゾウの群れのように重苦しい雲が一面に広がっていて、それを通した太陽の光は押し付けがましい力を失い、街に降り注ぐ弱い照明となっていた。おれは雨が降らないよう祈りながら、今日行きたい所に行くための道筋を思案する。場所についてはさっき座っている間に思いついていた。

動物園に行こう。物言わぬ生き物達が目の前でのそのそ動いているのを見るのは、音楽に勝るとも劣らない愉しみだ。きっと有意義な時間が過ごせることだろうと思った。


・・・


板戒手駅から地上に敷かれた線路沿いにダラダラ歩いてき、点在する歩行者用の観光案内の看板に従って進むと、レンガの壁に囲まれた動物園が見えた。

安い入場券を買って改札ゲートをくぐると、生あたたかい獣臭に出迎えられる。おれはそれに動物の不潔さよりは、生命のありありとした確かさを感じた。人間は衛生の力で世界を覆い、汚物を見えない場所に隔離して自分が動物であることを忘れたがるが、この獣臭を嗅ぐと自分の動物性に思いを馳せずにはいられない。動物園は確かに人工的な施設ではあるが、これ以上人間を動物から遠ざけないためにもこういう場所が必要だろうと思った。

少し進んだところに広場があり、その中央にはパンフレットスタンドが置いてある。おれは園内マップを一つ手に取った。

キィン、カン、という金属音がして条件反射的に振り向くと、電車のおもちゃを持った小学生くらいの男の子が、道端の金属製の手すりに車輪を擦り付けて遊んでいた。親がいたら止められそうなものなのに、一体どうしたんだ? と思ったが、その男の子の近くには女子トイレがあった。なるほど親でも待っているんだろうな、と一人合点して、おれは先に進むことにする。

道のタイルや看板によってそれとなく順路が示されていた。とりあえずサバンナゾーンをご覧になってはいかがでしょうか、その次はユーラシアゾーンなどどうでしょうか、といった感じだ。おれはそれに適度に従ったり外れたりしながら、狭い居住区での生活にうんざりした動物達の顔を眺めて行った。

そうして進んだ先、世界の様々な地域のサルが四角い鉄格子に入れられて並んだゾーンで、果物を食いながら自分の性器をいじくっている猿に目が止まった。その猿は黒い体毛で、すらりと細長い腕ながら掌は大きく、がっしりした胴体をしていて貧相な印象は見受けられなかった。檻の中には普段あまり見かけないまがりくねった幹をした木が植えられている。天井からは電車の吊革のようなロープがいくつか垂れ下がっていた。

猿はおれの存在を気にしているのかしていないのか、気だるげに立ち上がってロープの輪っかを手で握ったかと思うと、器用に足の指でも掴んだりしながら上の方に登っていき、細い丸太で作られた平らな場所に寝そべった。どうやらこれから昼寝をするようだ。

猿は、檻の中でメランコリックになったらいつでもあのロープで首を吊れていいなと思った。長い手足をだらりと下げて宙に浮く、毛むくじゃらの霊長類の姿が目に浮かぶ。

それからはまた園内の動物達を、子供のスピードよりは急かさず丹念に、しかし大人よりは堪え性がなく目移りしながら見て回った。特に気に入ったのは両生類コーナーだ。あのてらてらした体表や小さな体躯はいくら眺めても飽きないほど素晴らしく、人類が元を辿ればあのあたりの生物種に行き着くのが信じられない。湿った場所で、いつまでも地に全部足をつけて生きていればよかったのに。手を解放して脳ミソが大きくなっても欲求の追求ばかりやっているから足を掬われるのだ。

やがておれは、バカでかいけど窮屈そうな鳥籠の中で、こちらの目をじっと見つめてくる雌の孔雀(くじゃく)に出会う。煌びやかな姿をした雄に比べると地味な色の羽で、こぢんまりとした大きさであるが、黒の目はどこか寂しげで何かを訴えかけるような深さがあった。不思議とおれは彼女から目を逸らす気にはならず、立ったまま身動きもせずその一対の目と相対していた。

どのくらい時間が経ったのか、しばらく対峙しているとおれは若干の空腹を感じた。視線を外して、動物園を出ていくことにする。

結局、ルート通りに行けば余すことなく出会えたであろう動物たちのいくらかを見過ごしてしまった。だが別に、悔いも名残惜しさも心には抱かなかった。


・・・


焼肉チェーン店に入ると、おれはコンロ埋め込み型のテーブルがある半個室に通された。

内装は安っぽい木で均一に作られており、別にここがすき焼き屋でも牛丼屋でもステーキレストランでも見分けがつかないような印象を受けた。大衆的な店を意図して、あまりお金をかけずに小綺麗な雰囲気に仕立てたのだろう。

店を選ぶ時、どうせなら最後の思い出らしく所持金で手が出せる最高ランクの肉を食うべきかと考えたが、やめにしてそこそこの食べ放題系チェーン店で腹を満たすことに決め、目に付いた焼肉屋に入ったのである。おれは、人並みの快楽が欲しいだけだ。

来店と同時に頼んでおいた焼酎がテーブルに届けられ、これまた家具量販店で売られていそうなグラスにストレートで入っている。おれは透明の液体を一口飲んだ。クセが強過ぎず主張も少ない、さっさと酔えるという点においていい酒だ。

そういうばこれは芋焼酎を頼んだんだっけ、麦焼酎だったっけ? と一瞬疑問に思うが、どうでもいいことだとすぐに切り捨てた。どうせ味の違いなどわからないし、アルコールさえ体に入れられれば何の問題もない。

やがて、様々な牛の部位の肉が並んだ大きな皿が運ばれてきた。それは紅の絵の具を他の色と沢山混ぜ合わせて塗り付けたパレットに似ていた。おれはトングでまずはタンをつまみ上げると、テーブルに埋め込まれた網の上に並べていく。他の部位も同様にした。

この肉が、眼をぎょろつかせるカメレオンの肉。この肉が、逞しい雌のバッファローの肉。などと妄想をしながら口に入れてみたが、別段味が変わるようなことはなかった。噛めば噛むほど果汁ガムみたいに脂味が出てくる肉を、ほとんど主役みたいな顔をした濃いタレが覆っている。

自殺後は糞尿が垂れ流しになるらしいから、この食事も汚れを増やすばかりで何の意味もないのかもなと少しばかり虚無感を抱いたが、それこそ自分が死んだ後のことなど、酒の原料が芋か麦かとか、氷が入っているか否かぐらいどうでもいいことだった。今食べたいから口に入れるだけ。腹が減っては自殺は出来ぬ。無駄な心配はやめて食事に集中することにした。

店のすぐ下に地下鉄が走っているのか、軋むような振動が地中から伝わってきた。巧いギタリストのビブラートみたいに細かくカタカタと店内が揺れる。焼酎のグラスはその場から動かず液体だけちゃぷちゃぷ振動した。近くの席の、黒い学生ズボンに白いカッターシャツで揃えた男子中学生のグループ客が、それを地震だとか言ってふざけあって奇声を発している。

揺れがおさまっても賑やかに食事を楽しむ彼らにしばらく意識を向けていると、どこかで見た映画の引用だろう、オカマに関するジョークを言い合ったりしていた。

飲み物のグラスが空になり胃袋は満タンになった所で食事をやめ、おれは足早に店を出ていった。

空の雲はやや薄くなりながらも、駆け足で上空を滑っていくようだった。朝から通りを歩いていて思っていたことだが、今日はやたら風が強い。地球が少しでも人間を地面に押し倒そうと嫌がらせしているかのようだった。錆びついた街に立ち並ぶビルの屋上で、おれがもし今日「下見」をしていたらさぞ寒かったことだろうな、とひとりごちる。


・・・


まだ酒が飲みたい、何も考えないというこの世で最も幸福な状態に導かれたい、と願っておれは焼肉屋にほど近いカジュアルなバーに入っていく。店内には、かなり調子の悪い日のジャズミュージシャンが気まずそうに演奏したようなBGMがかかっていた。

客はまばら。壁に取り付けられた木棚の上で開栓を待っている酒のボトルが鈍く輝いていた。壁にはまた、油絵らしき猫の絵画が飾ってあった。モノトーン色でスマートな雰囲気の、懐きにくそうな猫だった。

おれは丸い小さなテーブルに案内されると、席に着いてからウイスキーのストレートを注文する。フードは何も頼まなかった。

満腹になって、少しばかり眠い。おれは度数が強めの酒を飲むと頭が悪くなるかわりに目が冴えてくるタチだったから、コーヒーのかわりにウイスキーを舌で転がしていくことで眠気をごまかそうという算段だった。

やってきたウエイターが音も立てずにショットグラスを置く。おれは、一息ついて、ウイスキーを飲み下した。

脳から背骨にかけてじんわり染み出してくる酩酊感に、腕時計の秒針がチクチク廻るように全身で埋もれていく……。

小休止を入れながら飲んだつもりであったが、やはりペースが早すぎたのか酔いの満足に達する前にすっかり空になってしまった。仕方なく、手持ち無沙汰でショットグラスを手で弄ぶ。アルコールを全身に運ぶ血流のビートが体内から頭に響いてきた。

だんだん視界がぼやけ始めるのを自覚したとき、紙をめくるようなパラリという音がして、おれはそちらに視線を向ける。そして手前斜め右に見える、自分のと同じ小さなテーブル席で客が独り座っていることに初めて気がついた。

それは灰色のニットに革ジャンを羽織り、濃い色のジーパンを履いた女の子だった。生まれてきてから決して染料を近づけなかったとすら思える純黒の髪を、肩の辺りまでで切ったミディアムにしている。媚びない美しさをたたえた顔の造形や様になった居住まいで印象が惑わされるが、おれはその娘は高校生ぐらいの年齢であろうと推定した。

音源は、彼女の手にあるカミュの『異邦人』だった。頬杖をつきながらページを捲っていて、表情からして小説世界に没入するというよりはやや距離を保って文章と接しているような気がした。

革ジャン少女はふとした拍子にこちらの視線に気づいた。互いの視線が交錯して固まる。おれは彼女の手の中の小説をそれとなく手で指しながら、口を開いた。

「『太陽が眩しかったから』って理由で本当に人を殺したんだと思う?」

「……この小説の話? だったらまだそこまで読めてない」

「そっか、じゃあ別の話にしようか。例えばその小説の主人公は母親の通夜で泣かなかったとか、埋葬の翌日には海水浴に行ったとかいう行動を取り上げられておかしいとか意味不明とか言われる訳だけど、それは彼が気ままに彼の中の価値観で、偽りなく生きた結果じゃないか。それなのに外から理にかなってないとか言われる筋合いはないような気がするんだけど、どう思う?」

「うーんそれは、本人がいくら本人のために当たり前に生きていても、社会通念の中に受け入れられなければそれはもう駄目ってことになるんじゃないの」

なるほど、オーソドックスな意見だと思った。

少女が座っている椅子からテーブルを挟んで向かい側にある椅子を指で示すと、彼女は相席を許可するように顔を傾けた。おれは空のグラスを持って移動する。

話によると、その少女は本当に高校生であった。趣味は特になく、集団にも馴染めないから、こうして独りで酒を体に入れるようになったという。

彼女はカクテルを傾けて中の液体を全て口に滑り込ませるが、その飲みっぷりは美味しさを感じようとするよりも欲求の解消、あるいは忘却を目的としているように思われた。

おれがウエイターを呼んで自分にビールを頼むと、彼女は白ワインを注文した。丁寧な所作のウエイターは空になったグラスをトレーにのせて持っていく。

やがて酒と共に殻付きのピスタチオがサービスで運ばれて来たが、彼女は手をつける様子がなかった。話題は娯楽や嗜好のことに移って、おれは彼女に質問する。

「音楽は何か聞くの?」

「全然聞かない……いつも思うんだけど、街に出ればどこもかしこもガラクタみたいに音楽をかけてるのに、自分から耳に電極を突っ込んでまで聞く意味ある?」革ジャン少女は白ワインをあおると、吐き捨てるように言った。「音楽なんてつまらない、無音の方がマシ」

それはそうかもなと思った。音楽なんてものはわざわざ静寂を食い破って始まって、パターンを覚えたと思ったら展開して、緊張があって焦らした末、解放と余韻がある。それはもう、付き合って数年目のセックスみたいなものだ。だんだんと最初の頃のような快感が得られなくなって、また新しい刺激を探しに行くのが煩わしいといえば煩わしい。

「じゃあ読書はどう」

「小説は、好きかな……音楽と違って音がしないから」

「どう違う?」

「小説はただ人物の動向を目で追ってるだけで時間が過ぎるし、目につく表現とかシンボルの意味を考えていくのが楽しいから……この感想って月並み?」

「ううん、率直な感想でいいと思うよ」

おれは率直に共感して小さく首肯した。

その後も幾許かの時間が会話とアルコールと共に過ぎた。再び注文したお互いのビールと白ワインが空になったあたりで、我々は店を出ることにした。盛り上がる会話をした訳ではないが、どちらかが途中で切り上げて帰ってしまうほどつまらない時間ではなかった。チェックはほとんどおれが支払ったものの、「その額だと小銭がちょうど余ってるから小さいのは払う」と彼女が硬貨だけ出した。

あたりは陽が傾いて薄暗くなっていた。今が夜なのか夕方なのかはよくわからない。

彼女も中々の量を飲んだはずだったが、少し動作が緩慢になっているだけでテンションは実質的にカミュを読んでいた時とさほど変わらないようだった。

「今日はもう電車で帰るのが億劫だからおれはホテルに泊まろうと思うんだけど、一緒にどう」

「……誘ってるの?」

「まあそうだね」

「構わないけど、別にあなたのこと好きなわけじゃないし」

「それは何か問題? セックスはコンドームを付けるためにするものだよ」

我々はバーから歩いて江町(えまち)駅の裏手にあるラブホテルに向かい、エロティックな装飾の少ない部屋に入った。

おれがリュックサックを置いて部屋の内装や備え付けのグッズなどを眺めている間に、革ジャン少女はシャワーを浴びる素振りも見せずダブルベッドに横になって、全身に酔いを分散させるように体を弛緩させ、天井を見つめていた。

自分に少しも恋慕を抱いていない女と体を重ねるのは残念だが、深く情愛が通じあっている人間とセックスできないことよりはマシだった。おれはベッドに膝立ちになると彼女を抱き起こし、ゆで卵の殻を剥くように服を脱がせていった。

全身を露にさせて初めて分かったが、彼女はブラジャーを付けていないようだった。普段からそうしているのかはわからないけれども、その乳房は洗いたてのリンゴのように瑞々しくて、形も良かった。きっとそれが彼女の望み、またあるべき形なのだ。

そして、これも脱がせてみて分かったことだが、彼女の下腹部には豪奢な羽を畳んだ孔雀のタトゥーが彫られていた。ブラック&グレースタイルで、その煌びやかな姿を黒インクの濃淡と密度のみで表現した色鮮やかなモノトーンは見蕩れる程に綺麗だった。美麗な姿を見せつけることなく物憂げに体をくねらせる色の無い孔雀は、類まれなる意匠で肌に息づいている。

「すごくいい」おれは羽をなぞりながら言った。「素敵なタトゥーだ」

「うん、からだを褒められるより嬉しい」

彼女は心から嬉しそうに、少しだけ笑った。おれは欲望を感じた。互いの唇と唇を接触させた。彼女の唇は、おれのそれと同じ型から作られたかのようにピッタリと合わさり、溶け合った。

そして彼女の髪や首に鼻を近づけていくが、彼女からはおよそ匂いというものがしなかった。シャンプーの香りや柔軟剤の香りはおろか、体臭さえも感じ得ない。

一旦体を離してから準備を整え、こちらも全ての服とパンツを脱ぎ捨てて性器を露にした時、彼女はおれの下着を見ていささかびっくりしたように言った。

「何で下着が女物なの……そういう趣味?」

「趣味っていうか、人格だね」

「そういう風に見えなかった、なんていうか見た感じも喋り方も普通だし……いや、普通っていうのは、傷つけるつもりはないんだけど」

「いいよ、こっちも驚かせてしまったならごめん。でも、女言葉が嫌いで、女の子のからだが好きな女がいたらおかしい?」

それは彼女の価値観からしておかしくなかったようなので、我々はそのまま緩やかに抱き合って、清潔なシーツに横になった。砂時計の砂がくびれを通って下に落ちるように、ゆっくりとしたペースで肌を重ね合っていった。

おれが2回射精する間に、彼女は浅く3回オーガズムに達した。求めるような、明け渡し難いような、それは物寂しいオーガズムだった。

その後おれがベッドを離れ、部屋にある洗面台のいやに綺麗な鏡の前で手を洗ったりしている間に、彼女は酒と行為の疲弊によって眠り込んでしまっていた。寝ても顔立ちの端正さが崩れることはなかったが、起きてる時よりいくぶん子どもっぽく見える気がした。

おれは彼女を揺すり起こして、自分がそろそろ自殺しようと思っていることやこれまでの人生の経緯などを捲し立ててやろうかと思ったが、やめた。同情されることに意味はないし、無関心に聞き流されるのも癪だ。ましてや止めてほしい訳がなかった、せっかく今朝新品の練炭コンロを買ったというのに。

秘密の打ち明け話もピロートークも無いとすればこんな所にいる必要もないように感じたので、おれは裸の少女の頬を撫で、浜辺の漂流物みたいに散らかっていた服を身につけていく。それだけはきちんと揃えてあった自分の靴のぽっかり空いた口の中に、無感動に足を入れた。

リュックサックをしっかり背負い、部屋のドアに手をかけたところでおれはふと思い立ち、踵を返すと彼女のレザーバックをまさぐってブランド物の――しかしレディースではないらしい――革財布を取り出した。そこに小銭は無く、カード類と万札が数枚だけ入っていた。そこでおれは、自分の懐から紙幣を取り出して8万円にしてやった。対価のつもりではない、セックスは音楽だからだ。


・・・


江町駅から電車に揺られて自宅最寄りの井伊晴(いいばれ)駅で降車すると、おれは薄汚れた構内のコンビニでミネラルウォーターと週間漫画雑誌を買った。

帰途にて、ホルモンを咀嚼するようにチューインガムを噛みながら漫画を読み歩いたが、あんまり面白くなかった。少なくとも死ぬのを連載終了まで待ちたいと思えるクオリティの作品はどこにも載っていなかった。漫画のくせにどれも正論ばかり言っているのが気に障る。

興味を失った紙の束をリュックの中にしまい込んで歩いていると、けたたましく警報機を鳴らして電車の到来を告げる踏切に差し掛かった。死神の物干し竿のように垂直に構えられていた遮断機がやおら振り下ろされ、水平にピタリと止まって線路への侵入を防ぐ。

遠くから近づいてくる車両の呻き声を聞きながら、おれは暇を持て余してリュックサックの中をまさぐる。色々と必要なものが入っている中で、以前通っていた精神病院で嘘の不眠症を訴えて手に入れた睡眠薬を取り出した。それは試しに使用して半分ほどが無くなっていたが、一眠りするには十分な数の錠剤が入っていた。

一酸化炭素中毒の初期症状では吐き気や頭痛があらわれ、さらに進行すると痙攣発作や呼吸困難を経験し最後には死に至るという。そんなものは味わいたくない。苦痛を伴わず結果だけ手に入れるため、この薬を飲んでから練炭に火をつけることに決めていた。

皮肉なものだ。生きてる間はいつでも寝たくてしょうがなかったのに、永遠の眠りにつくには睡眠薬を服用しなければならないとは。

曰く、おれはいかなる名前の鬱でも精神的病気でもないらしい。それが病院に通って突きつけられた事実だった。

ADHDやらASDやらの傾向も、チェックシートを埋めきるほどには当てはまらない。適度に食欲があり、適度以上に性欲があり、毎日たっぷり眠れる。検査してしっかりと「どこも異常はなく、気分の落ち込みは普通の範囲」というお墨付きを貰っていた。

だからこそ、おれは自殺をするのだ。

車両は16秒かけてゆっくりと通過した。遮断機が上がり、おれは歩きだす。

踏切からそう離れていないところで一人暮らしの我が家に到着し、感慨もなくドアノブに鍵を挿入した。捻って玄関のドアを開ける。

その自殺予定者の部屋は金目のものを大方売り払ってしまっているとはいえ、少しばかり散らかっていた。使い込んだベッド、二束三文だろうから売ることも捨てることもしなかった本の山、無くなりかけの乳液のボトル、カピカピに乾いたビールのグラス、などが規則性もなく床やテーブルに転がっている。見た目はよくないが、部屋の中に臭いは特にしなかった。

家などというものは基本的に、おれにとっては寝て起きることが出来ればいい。安心のシンボルとしては機能しない。そして電動コーヒーミルと湯沸かし器とコンセントがあればそれ以上の贅沢は必要なかった。

そういう価値観であるため、今まで生活してきたこの部屋の清潔さなど気にも留めたことがなかったが、帰宅したその時のおれは、無性にその小汚い巣穴をさっぱり片付けてしまいたかった。

片付けるといっても、整理整頓する訳では無い。手に取れる物を片っ端から特大サイズのゴミ袋に詰め込むだけだ。部屋の中にある日用品と、口の中のチューインガムと漫画雑誌を分別もなしにごちゃ混ぜに放り込んでいく。やがて家具家電と埃を別にすれば何も無い居住空間が出来上がった。そこには本当に、何も無かった。

映画でよく見る殺し屋の部屋は、みんなミニマリストなのか揃ったように病的に何も無い部屋で描かれるのがお決まりだが、それは殺人で心が乾いているからではなく、いつ死んでもいいように部屋を空にしているのではないのだろうか? なんとなくそう思った。

おれは今日、今すぐ死ぬのがいい。

これも、なんとなくそう思った。

そして、思い立ったことは何でもすぐ行動してやり通すべきであると考えているので、おれはすぐに睡眠薬の錠剤を取り出してミネラルウォーターでごくごくと飲み下し、残りの水は台所に垂れ流してしまう。それから窓の戸締りをし、部屋の家電製品の電源コードを抜いていく。水道の蛇口を指が痛くなるまできっちり締める。ガスの元栓は? 閉めた。

誰に対しても何も言いたいことなど無いので遺言の用意はなかったが、ドローン音楽に似たがらんどうな部屋を見ていると、そこに何かひとつアクセントとして異音を奏でてやりたくなった。そこで、部屋の鍵をナイフに見立てて足元の床に擦り付けることでこの一文を綴ることにした。

「カフェインがやめられないから死にます。」

その彫りの出来栄えをよく確認すると、おれは立ち上がる。

あとは何の準備が必要だろうかと頭を巡らせて、睡眠薬が効き始めるまでに多少の時間がかかることに思い当たった。それなら、手早く読んでしまえる短編小説でも読んで過ごすのがいい。

おれは先程ゴミを入れた半透明の胃袋の中をまさぐって、適当な短編集が入っていないか探した。

既読で面白かった記憶のある物語を読み返すことにするか、まだ見ぬ作品に出会うため積読していた新作を開くことにするか。これは大いに迷いどころだったが、結局後者にすることにした。『死ぬことは別に、新しいことではない。しかし生きることもまた、新しいことではない。』だからこそ、生きても死んでもいないこの時間には、新しいものが必要だった。

結果的にその32頁の小説は大変面白かった。曖昧な余韻を残す終盤を読み終えて、文学も音楽なのだと唐突に理解した。また最初から読み返す時間がないのが悔やまれるほどで、生きていれば良いことがあるものだなと思った。

さあ、もうそろそろ眠くなってくる頃だ。この世で眠気に抵抗することくらい無駄なことは無いから、この睡魔をコーヒーで先延ばしたりするつもりはないが、何か最後に人生で思い返すべきことはないのだろうか。

……なにもない。おれの中には全くと言っていいほど、浸りたい思い出は存在しなかった。つらい記憶なら何かあったような気もするが、それを後悔や苦悩と名付けるのは気が進まなかった。だって、自分なんかより苦しい思いをしている人が、この世には沢山いるんでしょう?

さもしい感慨を振り払って、おれはリュックサックから包装に入った真新しいガムテープを手に取る。そして浴室のドアを開けてそっと中に入った。

バスルームは自分ひとりが体を洗って浴槽に入るのが精一杯の大きさで、四角い小窓がついていて、天井には換気扇があり、生活感のあるシャワーヘッドや風呂桶が沈黙している。そこは、やけに湿っぽい棺桶だった。

これから、自分の墓場となるバスルームをガムテープできっちりと目張りをし、空気の通れる隙間をなくさなければならない。何者も、酸素さえも入り込めない空間を作り上げるのは骨が折れそうだが、閉じた心の殻を破って生身の心を外に晒すよりかは難しくないはずだ。

おれはガムテープをビリビリと手で破って貼っていきながら、要領よくこの空間を密閉していく。

そうして半分くらいまで作業が進んだあたりで、おれは、最後の時間に浸るべき空想にふと思い至った。何故すぐに思いつかなかったのか不思議になるぐらい、それは頭の中で繰り返した映像だった。

具体的な希死念慮を抱き始めた頃から、理想の死に場所はバスルームであるとずっと考えていたのだ。電気を消した部屋の窓からクリーム色のぼんやりした光が差し込む、誰にも裸を咎められない静謐な空間が好きだった。

自分の空想の中ではそのバスルームには水が一滴もなく、浴槽も、その中に収まった裸の肉体も、完璧に乾いたままでそこにある。音は消え、言葉もない。そこでは金にも詩にもならない孤独を愛撫し続けることが許されていた。

そこに突如、Nirvanaの『Rape Me』を大音量で流しながら、脱線した列車が壁を突き破って鋼鉄の巨漢を猛スピードで引きずってくる。全てがスローモーションになる中、一糸まとわぬ裸で無論為す術もないわたし(、、、)は、ぐしゃりと轢き潰されて四肢が散りじりになる。瓦礫が吹き飛び砂塵が舞う中で、ミンチにされた肉体が撒き散らすのは個体か、液体か、ハツか、レバーか、何も判別がつかない。

そして激痛にショートした脳ミソの中では完膚無きまでに解消されるのである、生命の欲求が。

高い安全性を誇る現代の列車がそこまで壊滅的な脱線事故を起こすとは思えないから、それはいつまでも妄想止まり。しかしバスルームで死ぬというそのロケーションだけは、どうにか叶えられそうだ。

もはやどこにも外の世界がこの空間を侵害する隙間が無いことを確認すると、浴槽の中に自分の体と新品の練炭コンロとを入れる。着火剤入りの練炭をセットして、封を切ったマッチを手に取る。全ての準備が整った。

大きく、胸の中の全てを吐き出すようなため息をついた。

なんてことはない、自分を殺そうとすることなど、長年愛した病気のペットを火にくべるようなものさ。

おれは練炭に火をつけた。

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