おっぱいの落し物ありませんか?
高校の職員室の前に、鍵のついたガラスケースがある。学校内で見つかった落し物はここに集められ、持ち主を待っていた。種々さまざまな物が集い、さながら博覧会のようだ。一番多いのは文房具で、次いで多いのはキーホルダーの類。カバンや鍵に付けていたものが落ちたものとみられる。文庫本はカバーが外され、表紙が露わになっていた。一目で官能小説だとわかる、肌を露わにした女性のピンナップがでかでかと印刷されている。学校で読むなよと言いたくなる。他にも上履きや制服のネクタイ、カーディガンなどの衣服も陳列されており、持ち物に名前を書くことの重要性を再確認させられた。
「河野くん、これでいいんだよね?」
「あ、はい。それです。ぼくのです」
昨日の移動教室の時にペンケースを失くし、気付かないまま家に帰って、今朝登校してようやくバッグ内にないことを知った。慌ててここに駆け込み確認すると、あっさりと再会することができた。さっそく先生に声をかけ、取り出してもらったのである。届けてくれた見知らぬ誰かに感謝の意を伝えたい。
が、しかし、先生から落し物を受け取るぼくは、ガラスケース内にある別の物に目を奪われて心ここに非ずといった状態だった。
ケースの奥の方に、薄橙色をした拳くらいの大きさの玉が二つ、並んでいる。自重でやや形が崩れ、きれいな球形から潰れた饅頭のようになっている。天辺には明るい桜色の豆粒がちょこんと乗っかっていた。
誰がどう見ても、それは。
おっぱいだった。
「……」
ぼくは見逃さなかった。先生が鍵を開け、ケースを開けた振動でその玉がぷるんと震えたのを。あれは見た目の印象どおり、なかなかの弾力性を持っている。
こういう商品があることは知っていた。パーティグッズやサブカル系雑貨を扱う店に置いてあったと記憶している。人間の肌のような質感、ほどよい弾力で良い握り心地のボールだ。誰がどんな目的で購入するのはあずかり知らぬところだが、ノリのいい男子生徒ならば特に理由もなく買っていたとしても不思議はない。それを持ち込んだとすれば、こんなところにおっぱいがある理由を付けることができる。
こうしたものは得てして、熱が冷めると買ったことを後悔して持て余すようになる。いらなくなったものを放置し、それを発見した誰かが落し物としてここに届けた。真相としてはこの辺が妥当だろう。
答えに思い至ると、急激に興味が失われていった。ようは捨てられたおもちゃなのだ。不思議なことなど何もない、ごく日常の一場面でしかない。謎が消えたこの場所にもう用はない。先生に礼を言い、立ち去ろうとする。
「すみませーん、おっぱい落としちゃったんですけど、ありませんか?」
ぴたりと足が止まった。
聞き間違いか、ぼくの気が触れたのか。飛び込んできた声に振り向く。
「ああ、あるよ。ちょっと待っててね」
先生は特に動じることもなく、再びガラスケースを開く。
「あれ、河野くんも落し物?」
手を入れている間、惚けたままのぼくに気付いた彼女が声をかけて来た。同じクラスの尾上さんだった。
「うん、まあ……」
「見つかったの?」
「うん、まあ……」
まだ混乱が収まらず、同じ言葉を繰り返してしまう。
「そう。よかったね」
にこりと笑う彼女。ぼくはその笑顔よりも、視線が下の方に行ってしまう。
さっき彼女はおっぱいを落としたと言ったはずだ。その言葉が正しいのなら、今の彼女の胸は喪失した状態にあるといえる。
普段女子の胸を注視する機会なんてないので今の状態が果たして正常な状態なのかどうか、その判別はできない。確かに胸部は盛り上がっているとは言い難く、首から腹部まで引っかかりがない。彼女が言ったように「おっぱいを落としてしまった」状態だと言えなくもない。
「これでいいのかな?」
ケース内のおっぱい(暫定)を掴んだ先生が尾上さんに手渡した。さらに乗せたぷりんのようにぷるぷると揺れ、存在感をアピールしている。
「あ、そうですそうです。私のおっぱい!」
受け取った彼女はそれをいそいそとブラウス内に収納していく。すると、胸部に二つの丘ができあがった。
「どう?」
「どうと聞かれても……」
男子と変わらないフォルムだった胴体におっぱい(落し物)を入れたことで、女らしい妖艶な雰囲気を醸し出すおっぱい(本物)へと昇華した。
位置が気に入らないのか、尾上さんはあれこれ自分の胸をまさぐる。なんとなく見てはいけない気になり、僕は目をそらした。
「その……おっぱいって落とすものなの?」
つい疑問が口を出てしまった。思っている以上に動揺が広がっているようだった。
「なくす人はなくしちゃうね。普通の落し物と同じ感覚だよ。かくいう私もこれで二回目だね。……ああ、男子にはわかりにくい感覚なのかな?」
女子的にはあるあるな話のようだった。彼女は笑ったが、異性の神秘をぼくまで笑っていいものかわからず、曖昧に濁すに留めた。
「……触ってみる?」
「……なんだって?」
「おっぱい、触ってみる?」
制服越しにもわかる存在感。尾上さんが胸を突き出すと、手のひらに収まりきらなそうなさらなる威圧感となった。
意地の悪い笑みはぼくを試しているのだろう。球体に手を触れる覚悟があるのかを。
「……」
生唾を飲みこむ。ぼくだって健全な男子高校生である以上、女性の体に興味がないわけではない。ぼくには姉がいるので、裸を目にする機会がなかったと否定はしない。だけどもそれは肉親であり、たとえ見ていたとしても何も感じるところはない。
しかし目の前の尾上さんは他人だ。よその女の子の胸を直接触る機会なんてそうあるものではない。下手をすればこれが最初で最後のチャンスになりかねない。今を逃しては一生後悔することになるかもしれない。
それになにより、ぼくはすでに彼女のおっぱいを見てしまっている。ケースに陳列されていたおっぱいは尾上さんのおっぱいだったのだ。そのことを彼女は特に気にしている様子はない。ならば、本当に彼女はぼくに胸を触らせるつもりなのではないか?
意識すると、さっきの血色のいいおっぱいを思い出してしまう。あれが今、ぼくの目の前の布の向こうにあるのだ。
ぼくの手が意識を離れ、吸い寄せられように引きつけられ、ぼくの脈がボクボクと脈打ち、ぼくの視界が釘付けになり、ぼくは。ぼくは。ぼくは。
「こらこら。そういうことは先生の前でやらないように」
泡が弾けるように、葛藤で沸騰していたぼくの意識は現実に引き戻された。見ると、尾上さんはくすくすと笑っている。。
「あはは。河野くん、耳まで真っ赤だよ。じゃあね」
ひらひらと手を振り、彼女は去って行った。やはりからかわれていただけだったのだ。次に教室で顔を合わせた時、気まずい思いをするのはぼく一人だけ。完全に手のひらで踊らされた。
「河野くんも行った方がいいんじゃない? 授業始まっちゃうよ」
「あ、はい……」
先生に促されるが、ちらりと目に入ったものが気になり訊ねる。
「あの、先生、それは……」
ケースの中のそれを指さすと、先生は困ったように眉をひそめた。
「これねえ、何年か前からずっとあるんだよ。君たちの先輩の誰かが落としてそのままここに置きっぱなし。捨てるのも忍びないからそのままなんだ」
そう言うと、先生は職員室へ戻っていく。ぼくは見送らず、その落し物に目が釘付けになっていた。
尾上さんのものとは比べようもないほど大きなおっぱいがそこにあった。
翌日、ぼくは再び職員室の前にやってきた。
「これでいいんだね?」
「はい、そうです」
手のひらからこぼれそうなおっぱいを受け取り、先生に礼を言ってその場を後にすると、すぐに男子トイレへ身を隠した。
ぼくは嘘をついてこのおっぱいを手に入れた。
二つ年上の姉は奇遇にもこの学校の卒業生だった。なので、姉が在学中に落としたおっぱいをぼくが引き取る、という筋書きが使えるのではないかと思ったのだ。案の定、先生は何の疑問を挟むことなくぼくの話を信じてくれて、こうしておっぱいを手渡してくれた。
少し良心が痛んだが、このまま朽ちるまでケースの肥やしになっているよりは誰かしらの手に渡った方がおっぱいのためだと自分に言い聞かせ、実行に及んだ。
改めて巨大な球体を観察する。何年も前からあったというから埃を被っている。うっすらとした汚れをふき取ると、美しく血色のいい肌色が現れた。張りと弾力があり、指でつつくとすぐに元に戻る。桜色の乳首は思った以上に柔らかく、つまむとぷにっとした感触がした。
初めて触る柔らかい感触に不思議な気分が沸きあがる。みだらな気持ちではなく、もっと崇高で高尚な気持ちだ。
これはそう、恍惚感。神様のお告げを聞いた信者のように、ぼくはこのふよふよしたものに神聖な意味を付与している。
ぼくはおっぱいを信仰しているのだ。
この出会いは言わば、奇跡の邂逅であり、神話の創造なのだ。
神がおっぱいに宿るのではなく、おっぱいこそが神そのもの。女性特有の膨らんだ乳房は、その身を依り代にして神を降ろしているに違いない。
ぼくもまたおっぱいの信徒。神と一つになりたいと思うのは当然の感情だ。
「あれ、河野、なんか太った?」
教室に戻ったぼくをクラスメイトが出迎える。
「気のせいだよ」
きっぱりと言い切ることでそれ以上の追及を許さない。
教室には男子しかおらず、体操着に着替えている。次の授業は体育だということを思い出した。
ぼくは少しだけ躊躇して、シャツのボタンに手を掛ける。膨らんだ二つの山がはちきれんばかり胸を圧迫し、苦しかったのだ。
束縛から解き放たれた胸がぷるんと弾けた。
周囲からの注目が刺さるのを感じる。
「河野、その胸……」
「何か?」
問題なんてないけど、という態度を崩さない。すでにひと山越えてお山を手に入れたぼくにはこの程度のポーカーフェイスはお手の物。
「いや、なんでもない……」
あまりにも自信たっぷりなぼくに怖気づいたのか、話しかけてきた彼はすごすごと引き下がった。
じろじろと視線が刺さるが、ぼくに怖いものはなかった。
我、神とともにあり。
今日の体育はマラソンだった。準備運動の後に軽く走り込み、トラックを周回する。
ぷるんぷるん。
ぼくが一歩足を踏み出すたびに胸が弾む。心情的な意味ではなく、物理的に。
憧れの大きな胸というのは思ってた以上に制約が多かった。
靴を履こうと目線を足元に向けても、隆起した丘が邪魔をして真下を見ることができない。
運動すると激しい慣性で塊が左右に揺れ動き、痛い。おっぱいが肉のかたまりであることを認識させられた。
これまで知りえなかった不思議な感覚に、ぼくは感動をすら覚える。
トラックの円を回りながらぶるんぶるんする丸いおっぱい。回転、円運動、球体。世界は丸でできている。マニ車を回すようにおっぱいが回ると徳が溜まっていく。ぼくの意識はぐるぐると廻り、球の惑星と一体化した。
「……あれ?」
気付くとぼくの胸は萎んでいた。いつの間にかおっぱいが消えてなくなり、見慣れた元の体に戻っていた。
走ってきたコースを振り返ってもおっぱいは見当たらない。誰かが騒いでいる様子もなく、完全に消え失せてしまった。
ぼくはおっぱいを落としてしまったのだ。
激しい落胆に肩を落とす。
と同時に、尾上さんが言っていたことを理解する。おっぱいは普通になくすものなのだ。前の持ち主もきっと、ごく普通におっぱいをなくしたのだろう。
あのおっぱいはまた誰かが見つけ出し、再びガラスケースに戻ってくるに違いない。そして持ち主を名乗る人が現れ、旅立っていく。こうしておっぱいは円環を辿っているのだ。
さて、次は誰のおっぱいがなくなったことにしようか?
(了)