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僕はカバンを抱え夜の道を逃げていた。息が切れる。追いかけてくる気配が、足を止めさせない。しばらく走って、やっと歩くまでに速度を落とせた。
いま居るあたりは、駅を挟んで自宅の反対側なのでほとんど来たことがない。町工場が多い地域で、道の左右はシャッターが降りてたり、入口をベニヤ板で塞いでいる工場跡ばかりで隠れる場所もない。僕が高校生の時分の景気の悪化は地方の小都市にはより深刻でこの辺りの町工場も廃棄され人気が全くなかった。
薄暗い街灯が道を照らしているが、歩くには不自由しないというだけで細部がわからないだけにより一層不安を掻き立てる。
立ち止まりながら様子を伺っていると、いま来た道から足音が聞こえてきた。振り返ると奴が、奴と二人の仲間がこちらに向かって歩いてくる。
僕は、「ひっ!」と小さく悲鳴をあげ、もつれそうになる足を懸命に動かし逃げた。
その少し前のことだった。奴らに駅でつかまったのだ。
奴にあの公園で脅された後、警戒して遠回りをしたり通学時間帯を変えたりしていた。とは言え、何事もなく一週間以上すると気が緩んでくる。諦めたか、単なる脅しだったんだろうといい方に解釈していつもの時間に駅に降りる。油断を後悔した。奴は本気だった。改札を出たところで捕まった。
「いやー。久しぶり、待ってたよ。
千川寿之くん、通学時間を変えた?」
どうやって調べたのか、名前で話しかけてくる。名前を知られた。鼓動が早くなり冷たい汗が滲んでくる。
「どうしたのかな?
具合が悪そうだね」
「あの。どうぞ、お構いなく」
僕は、返事をするだけでいっぱいいっぱいになっていた。そいつは、普通に笑顔を作っているが、その目は笑っていない。新しいおもちゃを品定めしている目つきだ。言葉が丁寧なのが、より恐怖を深くする。
「まあ、そんな遠慮せず。
ゆっくりできるところまで送ってあげよう。
ほら、お前らも一緒にいくぞ」
四、五人に取り囲まれ小突かれながら連れていかれた。周りをゆく人々は関わりたくないのか皆見ないふりをして足早に立ち去っていく。
人気のない方へと連れて行かれ、自宅から駅の反対方向に五分ほど歩いたところで立ち止まった。手のひらは冷や汗でじっとりとぬれていて、逃げ出したかったもののその隙はなかった。その辺りは暗がりも多く人気もない。奴は、真顔になると周りを見回し話しかけてくる。
「さて、まだお礼をしていなかったからな。わざわざ来てもらって申し訳ないねぇ。
まず、付き合ってくれた、お・れ・い」
奴が近づいてきて、言い終わる間も無く腹部に激痛を覚えた。悲鳴も出なかった。みぞおちを思っ切り殴られたのだ。
「う、うう、やめて」
生まれて初めて感じる激痛に息ができない。立っていられずうずくまり苦痛に耐えていたが、こみ上げてくる吐き気に耐えられず四つん這いになり戻した。胃液しか出てこなかった。
それを見て奴の顔に薄笑いが浮かぶ。
「ごめんなさい。許してください。
お願いです。
僕がなにをしたんですか?」
しばらく苦しんでやっと声が出るようになった。奴は、質問には答えようとしなかった。僕が少し落ち着いたと見た奴が目で指示すると仲間たちに無理やり立たされた。
「俺は別に怒ってないよ。それに君も何もしてない。
だから謝っても無駄だよ」
嬉しそうに周りを見回してから僕の目を覗き込んだ。
「さて、これからゲームをします。逃げてください。
千川君が勝ったときの景品は、『自由』です。
俺が勝った時は…
どうしようかな。その時考えるか」
嬉しそうな笑顔に冷たい瞳、僕は心底恐怖した。それまでは、ひどい目にあっても耐えていればなんとかなるかと思っていたが甘かった。殴られただけであの激痛だ。奴の瞳からはその激痛ではすまないものが読み取れた。
まだ、ダメージは残っていたが命の危険を感じ逃げ出す。噴き出すアドレナリンが苦痛を抑え日頃では考えられない速度で逃げ出した。
「勝利条件は逃げ切ることだからね。
頑張って逃げて楽しませてくれよ。期待してるよ」
逃げていく僕の背後から奴の楽しそうな叫び声が聞こえた。
そのあと、入り口が開いていたビルに逃げ込みやり過ごそうとして気がついた。
「やばい気がする」
思わず声が出た。このビルに思わず飛び込んでドアの陰に隠れたものの嫌な予感がする。すぐビルから出ようとしたが遅かった。開いたドアの向こう遠くに影が見えた。近づいてくる。やっぱりこのビルは罠だった。見つからずには逃げられない。入り口のドアと周りの飾りガラスから差し込んでくる明かりで通路の手前の方は様子がわかる。通路の奥の方はほとんど真っ暗で様子がわからない。でもそっちに向かって逃げるしかなかった。
ビルは古い病院だったのか、かろうじて見える通路には両側にドアがあるがどれも釘が打ち付けてあり開かない。壁にぶつかりながら狭いホールを右に曲がり突き当たる。行き止まりだ。すぐに戻り、来た方向から見て左に曲がる。
この通路は左側がはめ殺しのガラス窓になっていて外の明かりで結構明るい。ドアの開いた部屋があった。その部屋に飛び込み置いてある机の下に潜り込み身を潜めた。
外から声が聞こえてくる。
「さあて、どこに隠れたかな。
他の奴らは帰ったか。ああ、それでいい。
お前らは先に行ってろ、いつもの手はずでな」
その声が絶望を誘う。こいつらは僕が初めてじゃない。もう何度もこんなことやってるんだ。さっきの激痛の記憶で喉の奥に酸っぱいものがこみ上げてくる。
「この部屋かな。ふーん。
あっちから先に探すか」
いまいる部屋を覗き込んだのか声がはっきりと聞き取れた。他を先に探すことに決めたのかゴミを踏む足音が遠ざかる。床にはゴミが散らかっているので足音はよくわかる。
そっと音を立てないように机の下から出て通路の様子を探る。誰もいない。ゆっくりと通路に出て来た道を戻ろうとした視線の先、暗闇の中に浮かぶ奴の姿があった。
「うわー」
僕の口から悲鳴ともつかない声が無意識のうちに絞り出される。
奴は残念そうな顔をしている。
「見つけた。なんだ、能がない。やっぱりその部屋か」
ゆっくりとポケットから棒状のものを取り出し開いた。恐れた通りそれはナイフだった。無機質な輝きが、早すぎる展開についていけていない僕の心に本能的恐怖を引き起こす。
「もうおしまいか?
逃げてもいいぞ?」
フルフルを首を振り、さらに全速で逃げた。わかってる。奥は罠だ。でも逃げた。
分岐では、奴の仲間がわかるように身を潜めそちらに逃げられないようにしていた。わかっていた、罠だと。でも他に選択肢はなかった。完全にパニックに陥っていた。
最後にたどり着いた部屋は大きめで倉庫のようだった。崩れた壁の穴から差し込む街灯の明かりで部屋の中の様子がわかる。荷物などは何もなくガランとした部屋の真ん中、コンクリートの床に大きな穴が空いていた。底まで3m以上ありそうだ。手抜き工事だろうか。穴のヘリは細かいヒビが入っており近づくとボロボロと崩れる。
「ゴール!」
振り向くと奴がいた。
「お前らは、いつもの通り入り口で見張ってろ」
後ろの二人に命令すると、心なしかホッとした表情を浮かべて二人は足早に戻っていく。
「さて、千川君は逃げきれませんでした。
俺の勝ちです。どうしようかな」
「お願いです。許してください。
ごめんなさい。僕が悪かったんです。
勘弁してください。あの公園には二度と行きません」
とにかく謝った。なぜこんな目にあっているかもわからないのに、少しでも相手の怒りを鎮めるために思いつく限りの言葉で謝った。
「さっきも言ったけど、俺は別に怒っていないよ。
ゲームに負けた千川君がいけないだけだよぉ。
だから。謝ってもむ・だ」
ナイフを軽く振りながら冷たい目のニコニコ笑顔で近づいてくる。50cmくらいに近づいた時歯をむき出して笑った。冷たい瞳が心底嬉しそうな色に染まっている。
怖い、心の底から湧き上がる恐怖で僕は逃げようとした。背中に衝撃をうけ息が止まり地面に転がる。あいつはゆっくりと蹴った足を下ろすところだった。運が良かった逃げてなければ穴に落ちていただろう。仰け反り苦痛をこらえ地面を這いずって奴から逃げようとした。
横目に見えた奴は地面に転がり苦しむ僕を見下ろしていた。手に持つナイフが光る。恐怖でもう何も考えられなくなっていた。わけがわからなくなった僕は叫び声をあげ奴に飛びかかった。
「うおお!」
うなり声が部屋に響く、その時足が滑った。体制を崩し奴の膝のあたりにぶつかって倒れこむ。
奴は、足元をすくわれ体制を崩し穴の中に落ちて行った。
最初は何が起こったかわからなかった。周りを見回し奴の姿が見えないので、一息ついたが、やはりそうはうまくいかない。落ちても大してダメージはうけなかったらしい。穴の底から怒鳴り声が聞こえてきた。本気で怒っていた。
「このやろう。よくもやったな。
イテテ。待ってろ。いますぐ殺してやる」
「待ってられるか」
「逃げられないからな。仲間が見張っているからな」
仲間の二人がいたことを思い出した。といって待っているはずもない。
その部屋から出ようとした時、足元に突き上げられるような衝撃が走る。
揺れる。揺れる。立っていることもできない。
「これは。地震?」
脆くなった床が崩れ落ちる。足元が悪い中かろうじてドアから通路に出た。天井も崩れ落ちてくる中どう走ったのか気がついたらビルの外を走っていた。
そうだあの時、俺の故郷一帯を大きな地震が襲ったんだ。震源地でこそなかったが、幾つもの民家が潰れ、停電と火事が同時に起きて被害者は数百人の単位で出たんだった。こんなことも忘れていたとは。
すっかり思い出した。あの後、自宅に逃げ帰り、散らりまくった自室で余震に耐えながら閉じこもっていたんだった。親たちは俺のことどころじゃなく避難所に逃げ込んでいた。傷ついていた俺はそれから親のことも信用できなくなった。
俺は、平常に戻っても学校に出席できなかった。
結城ちえみも学校に戻れず、転校していって二度とあっていない。
その後、学校には出られるようになったが、授業が終わるとすぐ帰り勉強した。あいつらを見かけることはなかったが、外にいるのが怖かった。とにかくこの町から逃げたかった。すぐに逃げなかったのは、臆病な俺は保証もなく逃げ出すことなんかできなかっただけだ。
なぜ、こんなことを忘れていたんだ。名前も知らなかった奴がどうなったかは知らない。崩れる床から逃げきれたのだろうか。あの時の仲間らしい奴らは見かけることはあったが、すぐに俺は逃げ出していたのでわからない。噂や新聞などに乗ることもなかった。
ふっと意識が戻る。
なんだが雰囲気に違和感を感じ、顔を上げ周りを見回す。
「えっ、ここは?」
最初に入ったバーと店内の雰囲気が違う。作りそのものは変わっていない。だが、調度品やかかっているBGMの曲想が違う。ポップな歌謡曲がかかっており、店内もさっきより明るい。
目の前上方になかったはずのテレビが設置されスポーツチャンネルなのか、NBAの試合が流れている。
隣の席に座ったはずの若者の姿も見えない。それよりもカウンターに座る俺の前にいたはずのマスターの姿が見えない。代わりに、三十代くらいのにやけた感じのする軽そうなバーテンダーが立っている。
「あれ、マスターは?」
「えっ?俺ですけど。
お客さん飲み過ぎじゃないの?
目は覚めました。大丈夫ですかい。水でも出しましょうか」
気が利かないバーテンダーだ。そんな時は聞かずに水を出すものだろ。
俺は、そんなことは考えていたものの事態が理解できないでいた。
「あ。ああ、なんでもない」
バーテンダーは興味をなくしたのか俺から視線をはずし、リモコンを操作してニュースに切り替えた。BGMも止める。
ちょうどCMが終わって、次のニュースのコーナーが始まったところだった。
キャスターの声が流れ出した。
「本日午後二時ごろ、駅の北側の再開発工事の現場で遺体が見つかりました。警察の発表では、遺体は20年ほど経っており。身元も判明しています」
画面に、奴の顔が映る。写真は古ぼけているが間違いない。ハッとする、そうださっき隣に座った若者だ。どういうわけだ。俺は混乱してニュースの続きに見入った。
「当時20歳の男性、吉田泰一さん。
警察は、20年前の地震の時に脆くなったビルの床の崩壊に巻き込まれたものと見ています。しかし、そばにナイフが落ちていたため事件の面でも捜査を進めているとのことです。
では、次のニュースです…」
俺は、気を失う前の怖気を思い出していた。さっきまでのバーが何だったかなんてどうでもいい。
慌てて金を払い店を出て二度と故郷の土を踏むことはなかった。
カクヨムの自主企画向けに書いた短編ですが、1万字の規定を超えてしまったのでオリジナルをこちらに投稿しました。