エピローグ
カツシたちが命がけで空けたSAITOの壁の穴は、伊勢の手はずによって建設業者が秘密裏に動き、自由に行き来できる大きさとなった。噂を聞きつけた人々は、常管の目を巧みにかわして外の世界へ飛びだし、次々と覚醒ていった。
SAITOを捨てる人々と常管の間には一悶着あったが、岡崎やミナト、伊勢とその部下らの活躍によって、三百年以上つづいた常識管理委員会SAITO支部はあっけなく解体となった。
常管上層部が隠していた機密文書はすべて一般に公開された。隠滅工作によって、一部の貴重な印刷文書は失われてしまったが、太古の人類がまねいた環境汚染が、SAITOなどの人工世界を作らねばならない要因だったことが明らかとなった。人々はこれらの文書を複写して配布し、SAITO周辺の土地を開墾する際の、戒めとした。
KANTOには未だ常管の残党が健在であり、問題は山積みだったが、その解体についてはまた別の機会に語られるであろう。
一連の事件は、ひとまず丸く収まったかに思われた。
だが、ショックから数週間が過ぎた今となっても、泉子はカツシのことを思い出せないでいた。
カツシらは、穴だらけになったSAITOの麓の壁際に居をかまえていた。
川の方から帰ってきた蘭は、澄んだ水の入ったバケツを両手に、言った。
「そういえば、原始時代の人って、こういう洞窟に住んでたらしいよ?」
「今だって原始時代のようなもんよ。人はちーっとも進化してないんだから」
千江は中央広場からこっそり奪ってきたベンチにすわり、握り飯を口いっぱいに頬張っていた。
「それを言うなら、ちーっとしか、だろ?」
カツシは穴ぐらの掃除を終えると、外に顔を出した。
少し離れたところで草刈りしていた泉子は、カツシの姿をみかけると、どこかへ行ってしまった。
千江と蘭の顔が曇る。
千江は口の中のものを飲みこむと、カツシに言った。
「記憶が戻らないにしたって、あんなに嫌うことないじゃない。ねぇ?」
「あのとき抱き寄せたのが、トラウマになったとか?」
「イタズラじゃないんだし、そんなことくらいで、嫌いになったりする?」
千江は蘭を見た。
蘭はぶんぶん顔を横にふった。
「これはひと含みあるわね」
千江は握り飯の欠片をくわえて腕組みした。
「泉子ちゃん、まだ近くにいるよ? あれ? 誰かと話してる」
蘭は目を細め、遠くを見つめていた。
鬱蒼と茂る木々がSAITOの手前で果てる森の端で、泉子は奇抜な色模様のローブをまとった中年の女と話をしていた。
カツシは気づかれぬよう、通り(草を踏んでいるうちにできた)を歩く人々にまぎれて近づいていき、仮設トイレの陰に身を寄せた。
「私の目はごまかせないわよ?」
ローブの女は柔らかい口調で言った。
「な、なんのことよ」
泉子は横を向く。
「何が不満なの? いい子じゃない」
「だ、だからなんのことよ」
「あら、そんなことも忘れてしまったの? これは一から修行をやり直さないといけないようね」
カツシは以前、泉子が語ったことを思い出していた。優秀なヒーラーは離れていても、特定の人の状態をある程度『読む』ことができるそうだ。
「それだけは勘弁して」
泉子は事情を話した。
たしかに、吹っ飛んできたカツシを受け止め、頭を打ったときは記憶が混乱していた。だが、それも徐々に回復して、先々週にはすっかり元通りになっていた。
「彼の誠意がうれしくて、言えなくなってしまった?」
「うん」
泉子はうなだれた。
「だ、そうですよ? カツシさん」
ローブの女は物陰からひょいと顔をのぞかせた。
「えっ!?」
「はじめまして。泉子の母です」
「あっ、あー、やっぱり。あ、いえ、すいません」
カツシは思わず指をさしてしまった。あわてて引っこめる。
「私は仕事があるので、これで。なにかと難しい子ですけど、よろしくお願いしますね」
泉子母は森の奥へ行ってしまった。
泉子は半身でうつむいたまま、立ち尽くしていた。
カツシは近づいていって、泉子と向き合った。
長い沈黙。
泉子は顔を上げる。
「な、なによ、黙っちゃって。殴るなら今しかないよ?」
「じゃ、お言葉に甘えて」
カツシは右手を挙げた。
泉子は早くも痛そうに目をつぶる。
カツシは挙げた手をそっと前にして泉子の頬にそえ、口づけした。
「!」
泉子はぐっと目を開いて固くなった。
唇が離れ、泉子は涙をためた目でカツシを見上げる。
「ごめんね」
「いいんだ。それよりさ……」
カツシは耳打ちした。
「ヒーラーの修行は手抜きしてくれないかな?」
「え? どうして?」
「だって、記憶がどうのってところまで知れちゃったらさぁ」
泉子は涙をふいて笑った。
「ハハーン。エロ本読んだこともバレちゃうし?」
「バッ、バカ! なら、俺にも考えがあるぞ。隠したBL本とか……」
「あっ! ママの力借りるのはダメっ! 反則っ!」
「っていうか、もうバレてんだろ?」
「たぶん……」
二人はしばらく笑いが止まらなかった。
おわり