第五章 RETURN
21
「どういう、ことですか?」
ミナトは言った。
ベッドの上で半身を起こし、一糸まとわぬ姿で男を見つめている。胸元にペンダントが蒼く光っている。
「どうもこうも、言ったままの意味さ」
横になった裸の男は、女に背を向けたまま言った。
「だって、そんな……」
岡崎は向きを変えると、ミナトの手をとって抱き寄せた。
「連中を追いかけたって、僕らには何の得にもならない。それより他の仕事を見つけて、のんびり暮らさないか?」
「……いつから、そんな事を?」
「君が銃で頭を吹っ飛ばそうとした、あの日……かな」
ミナトは男の手をふりほどいて、うつむいた。
長い沈黙があった。
「どうしたのさ、黙っちゃって」
「私には……できません」
「仕事の心配はないさ。適当に見つけて、僕が養ってあげるよ」
「そうじゃなくて……」
「わからないな」
ミナトは顔を上げ、うるんだ目で男を見つめた。
「私の仕事は、常管の捜査官である、あなたの右腕。それ以上でも以下でもありません」
「常管でなくなった僕には、従う価値がないと?」
「私は生まれたときから、常管のあなたに従い、愛することしか知りません」
「じゃあ、仕事のパートナーとしては従わなくていい。ただ……」
岡崎はミナトに口づけした。
「どこにも行かないでくれ」
「そんな……そんなこと……ウッ!?」
ミナトは頭を抱えて痛がりながらも、つづけた。
「私は……常管の……常管の岡崎ユタカしか、知らない……それが、私の常識」
「なんてことだ」岡崎はミナトの小さな胸に顔をうずめた。「そんなに融通の利かないプログラムだったなんて……」
墨田千江、長崎蘭、そして板橋ミナト。いつも惜しいところで何かが上手くいかない、何かが。
岡崎は顔を上げた。
「もし、僕が常管をやめたら、君はどうするつもり?」
「私はたぶん、きっと……」
ミナトは寂しそうに笑っただけだった。
「もし、豊島カツシを殺したら?」
「えっ?」
「君はあの少年を撃てなかった」
「そう……ですね。見たこともない人なのに……」
そのとき、携帯端末の呼び出し音がなった。
常管のSAITO支部からだった。墨田千江とその一味が、閉鎖したシャトル路線に再び舞い戻ってきたとの一報。
岡崎は通話を切ると、ため息をついた。
「仕方ない……彼だけは再生待ちの冷凍施設に入ってもらおう。それで、いいかい?」
「はい」
ミナトは満面の笑みで言った。
男は女を抱き寄せ、ベッドサイドの明かりを落とした。
五十キロポスト。SAITOまでの残りの距離を示す標柱。
そこで常管の監視部隊と鉢合わせした。こちらには気づいたはずだが、蘭の姿を見て警戒したのか、バリケードから先へは出てこない。
目的を果たすため、弾薬は一発でも貴重だった。カツシたちは交戦を避け、最後の詰め所がある所まで少し引き返してきた。
千江はライトで部屋の天井を照らす。一見すると何もないようだが、隠し扉の位置は棒でつついて音の違う場所をたしかめれば、すぐにわかる。
「下からは、開かないんだったわね?」
「普通の方法ではね」
カツシは言った。
「もったいないけど」
千江は例の徹甲弾の入った拳銃を抜き、天井に向けて撃った。
シェルターの特殊な壁とちがって、楽に大穴が開いた。残り二発。
事務机と脚立を引きずってきて、下に据える。
カツシはタラップに手をかけ伝っていってハッチを開き、シェルターの屋上に再び出た。
いきなり風に煽られ、体ごともっていかれた。
「クッ!」
背中に激痛が走った。
振り返って見ると、手すりだった。さすがにここまで高いと、造った人も苦労したのだろう。しがみついて辺りを見回す。
「!」
森林地帯の真ん中に灰色の四角い山(屋上へ行かないと円柱とわからない)が据わっている。左手遠くには山々が連なり、右手も湾をはさんで山があった。背後には海と大きな島らしき陸が広がっていた。カンモンと同じように橋がまっ二つに折れているのが、彼方にかすんで見えた。
「あっちはロッコー、そっちはキシューだったかな?」
後につづいてきた蘭は言った。
風に押され、くるくる回りながら足を進めて、カツシに抱きついた。
「あっ、怒られちゃう?」
蘭はくりっとした瞳を上に向けた。
「そんな目で見るなよ」
「どーして?」
「どーしても」
カツシは蘭の肩をつかんで、くるりと反転させた。
蘭は背が低いので、カツシの顎の下に頭がすっぽり入ってしまう。それがかえっていけなかった。
「兄妹みたいで、仲のよろしいこと」
泉子の視線は冷たかった。
「そんなことよりさ……」
「そんな程度のことなんだ?」
泉子の額に筋が立った。
「いや、そうじゃなくて……」
カツシは出てきたハッチを指さした。
泉子は後ろを見て、吹き出す。
そこには猫のように丸くなって前肢で蓋にしがみついる、元常管の一流捜査官がいた。
泉子はさっさと蓋をしめると、千江にお手をした。
「く……屈辱……」
千江は逆らえず、泉子の言いなりに立ち上がって背中にひっついた。
「だから撃ち合ったほうがマシなのよ!」
百メートルが二千メートルになったところで、死ぬほど高いことに変わりない。怖さは同じはずだが、千江の場合は違っていたようだ。
一行は寄り集まると、討議に入った。
高さの問題に気づいて、結局は一度引き返して持ってきた、古代兵器研のパラシュート。ここで開くか、あと五十キロ天空を歩いてSAITOのそばで開くか。
「どっちも嫌っ!」なのは、千江だった。
無効票はさておき、もう少し内陸に入ってからでないと、予想外の風で海に流されてしまう危険があった。
「よし、二十キロまで近づいたら、飛ぼう」
カツシの提案に、泉子と蘭は賛同する。千江の汚い野次は無視した。
少年少女たちは、わんわん泣き散らすアラサー女を引きずり、風の吹きすさぶシェルターの屋上を行った。
「逃げ切られたって?」
岡崎は照明で明るくなったバリケードの前で、担当官の女に聞き返した。
急に気配が消え、撤退したのかと後を追ったが、すでに足音も届かないところまで逃げられてしまったのだという。彼女の上司は常管一の忠犬にして猛犬、角刈りの伊勢だ。伊勢は遅れてこちらに向かっているとのこと。早くこの場を立ち去りたかった。
「こんなに響く場所で、音を消しながら逃げ切るなんて、不可能です」
黒い戦闘服姿のミナトは言った。
「逃げてないとすれば?」
「えっ?」
岡崎は言った。
「少し行ったところに、詰め所があったはずだ。調べてみよう」
詰め所に入ってすぐ、机と脚立が行く手を邪魔した。
岡崎はライトを上に向け、笑った。
「こんなことに、なってたとはね」
「隠し部屋でもあるんでしょうか?」
「まぁ、そんなところだろう」
岡崎はジャケットの内側からナイフを抜くと、天井に開いた穴に放った。
硬い金属の音がして、ナイフは落ちてきた。
「ナメた真似もたいがいにしてくれないかなぁ」
返ってきたのは沈黙だけだった。
「ガスでおびき出しましょうか?」
ミナトが催涙ガスの小砲を掲げると、岡崎は片手で制した。
「いつから魔法を使うようになったんだ?」
この間は不覚をとったものの、墨田千江の力量はたかが知れている。カツシ少年と金髪少女は論外として、脅威があるとすれば長崎蘭の復活だった。
「気配が……ない?」
ミナトの言葉に、岡崎はうなずく。
「だが、さっきまでこの辺にいたことは確かだ。上に何があるか行ってみよう」
岡崎とミナトは、机の上の脚立を使って、タラップのある縦穴に入った。
途中に部屋はなく、数メートルも行かずに行き止まりとなった。
岡崎はハッチを押し上げた。
「うっ!?」
体験したことのないまばゆい光に、目が開かない。
ミナトもすぐ下でうなっている。
「な、なんですか? これは」
岡崎は何かの屋上らしき場所に、手探りで這い上がった。
風? 何だこの強い風は?
岡崎は目をつぶって座ったまま、ミナトを引っ張り上げた。
次第に目の痛みがとれてきた。二人は息を合わせて一緒に目を開けた。
「!」
二人とも言葉がなかった。
見たこともない景色。見たこともない広さ高さ。目の前にそびえる、あの巨大な建物はいったい何だ?
岡崎は声が上ずるのを禁じ得なかった。
「な、なんなんだよ、ここは! 何の魔法だ! 蘭! 出てこいよ!」
「ユタカさん」
ミナトは興奮する男の手をとった。
「なぁ、教えてくれよ! 新手の仮想世界に送られちまったのか? 僕らはあの化け娘に手を出すべきじゃなかったのか?」
「ユタカさん!」
ミナトは男の腕を何度もゆすった。
岡崎は我に返ると、手すりに寄りかかった。
「すまない……これは現実、だよね?」
「はい」
ミナトは男の胸に顔を寄せた。
「それにしても何かこう……心が洗われるような景色だな」
「……」
ミナトは顔を上げ、果てのない青の広がりを見つめた。
見たこともない神妙な顔つきに、岡崎は不安を覚えた。
やがて少女は男のもとを離れると、風をものともせず手すりをまたいだ。
「な、なにをするつもりだい?」
「傷ついてしまった器を捨てて、また一つになろうと、アレが言っています」
ミナトは青の広がりを指さした。
「バカな! 一つになるのは……」岡崎は痩せた女を腕から抱えるように引き戻した。「僕らのほうだ!」
尻もちをつく男の上になったミナトは、泣いていた。
「私もう、どうしていいかわからない! 私はいったい何なの? ここへ何しに来たの?」
「君は僕の女だ。そして、墨田一味を殺しにきた」
少女の瞳の色がくすんだ。
「……そう、私はあなたの女。そして、墨田一味を殺しにきた」
「そうだ。それでいい」
男は力ずくで女にキスした。
女は涙をためた目で、遠くを見つめていた。
「いい加減、覚悟を決めてくれないかな?」
カツシはしゃがみこむ女を見下ろした。
「あと五分、あと五分したら飛ぶからぁ」
千江は涙をためた目で手を合わせる。
「それはもう五回聞いたし」
泉子はため息をついた。
パラシュートの準備は整っている。使い方のマニュアルは皆熟読した。適当な場所でひもを引く、着地に気をつける、大雑把に言えばそれだけだ。インストラクターなど存在しないから、細かい操作などは始めから考えていない。
「ねぇ、あっちから誰か来るよ?」
蘭は来た道を指さす。
銀色の下り坂の途中に、男と女が一人ずつ。
カツシはカップルを一瞥すると、低く言った。
「先に行くから」
泉子は腕を取って引き止める。
「苦手な人を残す気なの?」
「だって……」
「見捨てるなら、あたし行かない」
「こんなときに何言ってんだ!」
「気持ちはわかるけどさ、今は……」
「泉子には関係ないだろ!」
「……」
泉子は斜めにうつむいた。
千江はすくっと立ち上がって、カツシにゲンコツを食らわせた。
「あんたの女なんだから、あんたのことは全部関係あるのよ!」
「いや、そんなんじゃ……」
「じゃ何? 愛人? 体目当て?」
「そ、そんなこと言ってる場合じゃ……」
「はわわ……」
蘭は両手を口にあて、膝を震わせている。
「はっきりしなさい! ミナトがいいの? 泉子がいいの?」
千江はカツシの胸ぐらをつかみ上げた。
「どっちもないなぁ! ミナトは先約があるし、その子は今日でこの世からいなくなっちゃうしね」
岡崎が拳銃をかまえて立っていた。すぐ後ろにミナトもいる。
女たちが両手を挙げたとき、カツシはひとり前に出た。
「ミナト!」
「来るな!」
岡崎は一発放った。銃弾はカツシの頬をかすめた。
「君は最後に用がある」
「ミナト! 俺だよ! 豊島カツシ! わかるか?」
「……」
ミナトは首を横にふって男の背中に隠れた。拳銃は手にしたままだ。
「そういうことさ」
岡崎は笑った。
その時だった。
泉子が駆け出し、カツシの腰にあった拳銃に手をのばした。
凶弾が泉子を襲った。
カツシはハッとして振り返る。
「泉子!」
肩と胸に一発ずつ。うめいて床に崩れる泉子。
「どのみち選択肢はないんだ。悲しみを受け入れるなら、早い方がいいだろう?」
「てめぇ!」
カツシは腰の拳銃を抜いて、狙いもつけずに乱射した。
岡崎の反応が一瞬遅れ、カツシの銃をはじく間に、四発放たれた。
そのうちの一発が、ミナトを貫いていた。ミナトは岡崎をかばおうと脇に出たとき、胸に流れ弾を受けたのだった。
「そ、そんな……」
カツシと岡崎は同時に言った。
「これで、よかったの……」
ミナトは胸を押さえながら、よろよろと柵につかまった。
「アレが呼んでるから……行くね」
ミナトは柵を乗りこえ、丸みのあるシェルターの屋根を下りていく。
カツシは駆け寄った。しかし間に合わない。
足場はなくなり、黒髪の少女は下界の森に向かって落ちていった。
カツシは泉子を見た。
「い、行きなさいよ。あたしはほら……」
そう言って苦しそうに笑う泉子は、上着の下に防弾ベストを着ていた。普段はあれほど戦いの装備を嫌っていたのに。肩の傷は気になるが、致命傷ではない。
考えている暇はなかった。カツシは柵を飛び越え、丸い屋根を力の限り走ってジャンプした。
岡崎は脱力して、手すりを背にすわりこんでいた。
千江が拳銃を突きつけると、男は持っていた銃を手放した。
千江は言った。
「どうして追わなかったのよ。愛してたんでしょ?」
岡崎は力なく笑った。
「どうしてかな?」
「あんたはいっつもそう」
「そうだったかな?」
「長崎蘭の側に寝返るチャンスはあったはず」
「ああ……」
「私と二人きりでKYUTOを調査するチャンスもあったわね?」
「ああ……」
「あんたはそんな自分にさえ満足してない。本当は何がしたかったのよ」
「何だろうなぁ。あんな何もかも決まっちゃってる世界じゃあ、選びようがないなぁ」
「そうね。それを今から、ぶち壊しに行きます」
「常管と戦うのかい?」
「常識っていう水袋にちょっと穴をあけるだけよ。あんたのはもう充分あいたでしょ?」
「ハハ……穴だらけさ」
「で、何か悟った?」
「急かさないでくれよ。全部出ちゃって空っぽさ」
「さてと」
千江は銃を懐に収めると、蘭と応急手当を終えた泉子に合図を送った。
「見逃すつもりなのかい? 僕は君らを……」
「さっきはそうだった。今は今。見た目は同じバカでも、まったく別の存在」
「かなわないな」
「今じゃ再生されたこと、感謝してるわ。ここまで来るのに十年かかっちゃったけど」
「僕も再生してくれないかなぁ」
「あんたの方が難しい課題なんだから、乗り越えたら喜びも大きいでしょ?」
「僕みたいなのに、わざわざ高いハードルを設けなくたっていいのに、神様」
「アハハ……じゃあね」
千江たちは柵を越えると、下界に向かってダイブした。
カツシは空中でミナトに追いついた。抱きとめてパラシュートを広げる。一人用のためか体重を支えきれず、なかなか勢いがとまらない。
広大な森の林冠が近づいてくる。もがいてはみたものの、どうにもならなかった。
二人の体は大木の枝葉や幹のあいだを突き抜け、もう少しで地面に叩きつけられようかというとき、止まった。パラシュートが上の枝に引っかかっていた。
カツシはナイフを抜いて装備を切り裂き、ミナトを抱いて草の茂った地面に飛び降りた。
「ミナト! ミナト!」
カツシはすぐさまミナトを草の上に寝かせ、戦闘服の胸元を開いた。
防弾仕様になっていない。まさか始めからそのつもりで?
傷口をたしかめる。どういうわけか出血はなかった。
よく調べると銃弾はペンダントを貫き、ほんの少し先が出たところで止まっていた。左胸にひどい青痣があるが、息はしていた。
揺すっているうち、ミナトは目を開けた。
「あれ……私……」
「そのペンダントに救われた」
ミナトは胸元の蒼い光に目をやる。
「ユタカさんにもらったやつ。お守りにって」
「そっか……」
長い沈黙があった。
草木を揺らす風が、ミナトの額にかかった黒い髪をなでた。
「あーあ、また死ねなかった」
「えっ?」
「前にもこんなことがあったような、なかったような」
「本当はあいつが嫌いだったとか?」
「ううん」ミナトは首を横にふる。「でも、私の闇の部分に光がさすことはなかった」
ミナトはカツシをじっと見つめた。
「な、なに?」
「夢の中でよく会ってた人に似てるなと思って」
「そうなんだ?」
「ユタカさ……うちの岡崎はどうなったの?」
「動けないくらい、ショックを受けてたようだけど……」
ミナトは寂しそうに笑った。
「あの人ね、愛してるって言うくせに、最後までは、してくれないの」
「は?」
いきなりの展開に、カツシは一瞬、意味を取り損なった。
「なのに、あなたは……なぜ?」
「い、いやあの……」
抱いた覚えはないし、どう捉えていいのか、すぐにはわからなかった。
「す……好きだから、じゃないかな?」
「敵なのに? 決まった男がいるのに?」
「あーその……」
本当のことが言いたくてたまらなかった。しかし、常識人以上に思考をコントロールされている人に、今は負荷をかけられない。
「あの金髪の子のことは?」
「ど……どうしてそれを?」
今のカツシと泉子との関係など、ミナトは知る由もない。みっともないやりとりを一度見ただけで、わかるとも思えないが。
「あなたのために、死ぬ覚悟ができていた」
そうだった。泉子は岡崎の実力を知っていながら、突っこんできたのだ。
「そ、そりゃあ……好きだよ」
「よかった」
ミナトは微笑んだ。
その笑顔一つで、カツシは二人の埋めがたい距離を感じ取った。どんな可能性をたどろうと、彼女はいずれ他の人を選ぶ運命だったのかもしれない。
騒がしい女たちが草をかき分けやってきて、木陰にすわっているカツシを見つけ出した。
「カツシ!」
泉子は駆けていってカツシに抱きついた。
カツシは泉子の頭をなで、ふっと笑った。
「なに泣いてんだよ」
「だって……」
その後は口がまわらず、何を言っているかわからなかった。
言いたい事は山ほどあるだろう。どんな責めを受けても正直に話すつもりでいた。
「ミナトの姿がないわね」
千江は視界のきかない森を見渡した。
「逃げられちゃった」
カツシは苦笑いした。
「あれで、生きてたの?」
カツシはペンダントが命を救った話をした。
その後ミナトはカツシに感謝はしたものの、やはり常管としての立場があり、行動は共に出来ないと、一人でどこかへ去っていった。
「それはそれは、ご愁傷さま」
千江は肩の荷が下りたように微笑んだ。
「他人事だと思いやがって」
「両手に花なんて、贅沢よ」
「そんなんじゃないって」
「もうやめて。そういうの」
泉子は二人を黙らせると、つづけた。
「ミナトちゃんは、結局……」
カツシは力なく笑った。
「うん」
「そう……」
泉子はほっとしたような憐れむような、何ともいえぬ顔つきだった。
カツシは泉子をそっと抱き寄せた。
「え?」
泉子は丸い瞳でカツシを見上げる。
「なんて顔するんだよ」
「あ、ごめん」
泉子はカツシの胸に頬をあずけた。
千江と蘭は、もう見てられない、という顔でどこかへ行ってしまった。
22
「さて、やるか」
カツシは手榴弾を手にした。
目の前には高さ約五キロ幅数十キロの塔とも陵ともいえぬ、巨城SAITOがあった。麓にいると、どこまでもつづく灰色の壁でしかない。
女たちは大木の陰に隠れ、少年の勇姿を見守っていた。
千江がひょいと顔を出し、親指を突きたてる。
カツシはうなずいて、ピンを抜いた。
投げた手榴弾は、壁の底と茂った草のあいだに収まった。
カツシは背丈のある草を大股で飛び越えながら、女たちのもとへ走った。
伏せると同時に爆発。辺りに煙がたちこめる。
横風が煙を払った頃を見計らい、四人は期待をこめた顔をのぞかせた。
「そ、そんな……」
カツシは呆然と立ちつくした。
壁は無傷だった。少し黒ずんだだけだ。
千江は落ち着いた顔で言った。
「想像もつかないほど前から建ってるとしたら、耐久力があって不思議じゃないわ」
手榴弾は残り二発。破壊力が倍になったところで、効果があるとは思えなかった。
あとは千江の拳銃に入った徹甲弾に賭けるしかなさそうだ。弾はこちらもあと二発。
「俺にやらせてくれ」
カツシは千江から拳銃を奪うと、爆発のせいでひらけて黒ずんだ草場へ直行した。
「待って!」
泉子が追いかけてきて、カツシの真後ろに立った。
カツシは顔を横にする。
「そんなところで、何するんだ?」
「いいから」
カツシは両手で拳銃をかまえると、黒くなった壁に狙いをつけた。
泉子はカツシの両腕に手をそえる。
腕の毛穴や血管を通して、何かが入ってくるような感覚。腕全体がエネルギーの膜に包まれていくような気がした。
カツシはトリガーを引いた。
壁に五センチほどの穴があいた。
「やったか?」
走っていって穴をたしかめる。
穴の先は、暗闇だった。SAITOの一番外側は明かりのないKY区域。貫いたのかどうか、これではよくわからない。
「どきなさい」
千江がやってきて、長い枯れ枝を突っこんでいった。
手応えがあったらしく、ぶすっとした顔で枝を引き抜く。
「同じ穴にもう一発ぶちこむのよ。できる?」
「やるしかないさ」
カツシは泉子を従え、再び構えに入った。
穴のギリギリまで銃口を近づける。
「さっきのは集中足りなかった。今度は任せて」
泉子の呼びかけに、カツシはうなずいた。
最後の一発を発射した。
「うわっ!?」
カツシと泉子は反動で後ろに吹っ飛んだ。
蘭がとことこやってきて穴に顔をかざした。ほのかな風が額の髪をかきわける。
「気圧の差が生まれたってことは、確実につながってるってことね」
千江の一言で、一行は飛び上がって喜び合った。
「ところで、この後どうするの?」
泉子の一言で、一行は笑顔のまま凍りついた。
カツシたちは黒ずんだ壁に背をもたれ、並んですわった。
名も知らぬ鳥が、晴れ上がった空を渡ってゆく。
残ったのは手榴弾二発だけ。開いたのは五センチの穴。詰めこむことができれば、少しは効果があるだろうが、それでも焼け石に水だろう。壁の厚さは半端なものではない。
名も知らぬ蝶が、カツシの汗ばんだ鼻にとまった。
「あとは、次の世代に任せるしかないのかなぁ」
「なーにジジくさいこと言ってんの」
千江は気の抜けた声で言うと、水筒に口をつけた。
「あたしは、それでもいいけどぉ?」
泉子は遠い目でうっとりしていた。森の暮らしに焦がれたのか、それとも暑さに頭がやられたか。
「弓とか釣り竿なら、私作れるよ?」
蘭は言った。
「やだやだぁ! 結婚もできないうちに野生に帰るなんて、やだぁ!」
千江はじたばたした。
「やっと本音を言ったな」
カツシは笑った。
あれだけ派手な音を出したのだ。いずれ常管がかけつけてくる。穴を埋めさせない方法を考えなければならなかった。だが、四人はもうほとんど燃え尽きていた。
「この壁を壊せば、生まれ変わったいい男を選び放題だよ」
どこからか男の声がした。
四人はびくんと起き上がると、銃を構えるなり草場に隠れるなり、攻防の体勢をとった。
「不思議なものさ。必ずここへ来るって予感があった。それにしても、一足先に覚醒めた人はやらかすことのスケールが違うね」
笑い声は岡崎のものだった。出所はKY区域の最果て、穴の向こう側だ。
カツシは穴に向けて銃をかまえる。
千江はそれを片手で制した。
カツシは不満顔を向ける。
「あいつは……」
「いいのよ」
千江は少年を遠ざけるとつづけた。
「話してる暇はないわ。ありったけの武器と弾薬を持ってきて!」
「人使いが荒いところだけは、変わってないね」
「うれしいくせに、よく言うわ」
「それは昔の話だよ。恐妻家はごめんさ。二時間で戻る」
岡崎の足音が遠ざかっていった。
カツシはわけがわからなかった。
「どうなってるんだ?」
「何言ってるの。あんたが睨んだ通りになったんでしょうが」
「えっ? そうなの?」
千江はため息をつくと、泉子の肩に手を置いた。
「あんたの未来に同情するわ」
「あたしは別に……」
泉子はまんざらでもない顔を赤らめる。
「あーっ、どいつもこいつも!」
うなだれる千江の頭を、蘭がなでた。
「姉ちゃんがお嫁に行くまで、そばにいたげるから」
かつての天敵だったアラサー女と二つ結びの少女は、ひしと抱き合った。
予告通り、岡崎は穴の前に戻ってきた。
銃の弾倉やナイフ、火薬が入った小缶などを、長い棒でつついて外へ送る。その中に、切らしていた黄金色の弾倉が二本入っていた。
千江は一本を素早く銃に収めると、眉間にしわを寄せた。
「岡崎、あんたまさか……」
ずぶぬれの男はにっと笑った。
「無許可だからね。セキュリティは甘くなかった。見つかっちゃったよ」
常識破り第二級……再生所再建待ちの冷凍室送りだ。現役常管委員の場合は、死刑に格上げされる場合もある。
岡崎はつづけた。
「時間がない。上の層に逃げて連中をおびき寄せるから、ほとぼりが冷めた頃に、やってくれ」
「バカ言ってないで、下がってなさいよ!」
千江は叫ぶ。その目には透きとおった粒が光っていた。
「何言ってる! 格下っていっても、数が違いすぎる!」
「森へ逃げれば簡単には当たらないわ。下がりなさい!」
千江はすっと身を引き、二発撃って、別の穴をあけた。
「なぜだ。僕のことなんか……」
「似合わないことするバカは、放っとけない性分なのよ!」
千江はすかさず弾倉を一つ空にし、もう一本を装填して、そちらもあっという間に撃ち尽くした。
楕円を半分にした形の点線ができあがった。
「これなら……」
カツシはすべての銃弾と火薬の粉を、まんべんなく穴に詰め、手榴弾の最後の二発を両手に持った。今度は威力が違う。命の保証はない。
「ちゃんと帰ってきてよ」
泉子はカツシの胸に抱きついた。
「無事に帰ったら、何かくれる?」
「バカ……」
泉子は木陰に隠れた千江たちのもとへ走った。
カツシは深呼吸すると、壁のそばへ近づき、穴に口を近づけてささやいた。
「おい、バカヤロウ」
「……悪かったね。僕は君からミナトを奪ってしまった」
「それはいい」
「えっ?」
「あいつは、あんたにもらったペンダントを大事そうに握っていたよ」
「み、ミナトは生きてるのか!?」
「後で教えてやる。離れていろ」
カツシは左右のピンを抜くと、大きめの穴に同時に突っこんだ。
反転して森の方へ駆ける。
「早く!」
泉子が叫ぶ。
足に草がからんでバランスを崩した。
女たちのところまで間に合いそうにない。
カツシは地面に向かってダイブした。
大爆発。
カツシはロケット弾のように飛んでいった。
「!」
泉子はカツシの正面に躍り出る。
重い砲弾を受け止めた少女は、後ろへ吹っ飛び、大木の幹に後頭と背中を打って気を失った。
カツシは朦朧とする頭をふって意識を保った。
千江と蘭が泣きながら、頭を垂れる泉子を揺さぶっていた。
「い、泉子?」
泉子は息をしていなかった。
「どいて!」
カツシは女どもをひっぺがすと、少し開いた泉子の口に唇を押し当てた。
十回、反応なし。
二十回、反応なし。
三十回、反応なし。
「カツシ……」
千江は少年の肩に手をやり、首を横にふった。
「うるさい!」
カツシはつづけた。
三十一、三十二、三十三……。
ちくしょう……ちくしょう……。
「ちくしょおおおお!」
カツシは泉子の胸を拳で殴った。
眉がピクっと動いた。
「ん、うう……」
泉子は息を吹き返した。
「泉子?」
カツシは揺さぶる。
「あ……」泉子は目覚めた。「久しぶ、り? えっと……誰、だっけ?」
「こんなときに冗談なんか、やめてくれ」
カツシは泉子を抱き寄せた。
「ち、ちょっと、ホントに、誰?」
泉子はカツシを突き放す。
「なんだって?」
千江や蘭のこと、ミナトのことさえも泉子は覚えていた。カツシの記憶だけがすっかり抜けていた。
「い、一時的な記憶喪失ってやつよ」
千江はひきつった顔でカツシをなぐさめた。
「そうそう」
蘭は額に汗をにじませている。
「なんで、俺の周りでばかりこんなことが……」
カツシは頭を抱えてうずくまった。
ミナトといい、蘭といい、あげくの果てに泉子だなんて……。
銃声。
SAITOの壁の方からだ。
たちこめる煙。岡崎の姿はまだない。
カツシは気を取り直し、大きく空いた穴めがけて走った。
泉子の手当てを蘭に任せ、千江も少年につづいた。
くすぶる煙をかき分けていく。
穴は不完全だった。子供かよほど痩せた女でなければ通れそうにない。
岡崎は穴のそばで壁を背に、すわりこんでいた。腕が血に染まっている。先の爆発でできた瓦礫が上手い具合に石塁を築いていたが、突破されるのは時間の問題だった。
「僕のことはいい。早く遠くへ」
「あんたのためじゃない」
カツシは断続的に弾幕を張って、常管らしき包囲陣を遠ざけた。予備の弾倉は先の爆発にすべて使ってしまった。残るは手持ちの三本。
「どういうこと?」
千江も銃撃に加わる。
「それより、穴が小さい。どうする?」
カツシは空になった弾倉を捨て、次の一本を装填した。
「どうもこうも、ここで全員狙い撃ちするしかないわ!」
とうとう俺も人殺しか。カツシは唇をかみしめた。
それでも弾の数のほうが足りていない。万事休すだった。
そのとき、背後で女の声がした。
「どいてください!」
細いシルエットは、ミナトだった。
千江と岡崎は驚きのあまり言葉がない。
カツシは千江を連れて外に出ると、小型の予備銃を持った黒髪の少女に言った。
「待ってろって、言ったのに」
「こうなるような、気がしてたの」
カツシは千江たちに嘘をついていた。壁に穴をあけると約束して、ミナトを待たせていたのだった。
「ミナト……」
「今までありがと。さよなら」
ミナトは壁の大穴へ入ると、奥の隙間に体をねじこんだ。
痩せすぎの少女はそこを通り抜けてしまった。
ミナトは岡崎と見つめ合い、しばし抱き合った。
話す間もなく、敵の銃撃が再び襲ってきた。
応戦の末、ついにカツシたちは弾を撃ちつくした。敵に死者はいないようだったが、負傷して撤退した者数知れず。それでも八人の男女が無傷で立っていた。
千江はフェイスガードを外した角刈りの男を見て、舌打ちした。
「チッ、伊勢までいたか……」
常管の忠犬にして猛犬、伊勢は言った。
「岡崎ユタカ、第二級常識破りで逮捕する。男を幇助した板橋ミナトも同罪とみなす」
岡崎とミナトは聞いていなかった。互いにきつく抱きしめ唇を寄せ合っていた。
「お、おい! やめないか……」
伊勢は二人を引き離そうと壁に近づいて、ふと、光がさす方へ目をやった。
「な、なんだこれは! そこの二人、どけ!」
カツシと千江は素直に従った。
視界がクリアとなり、伊勢の瞳に青い空と緑の森が映った。
ウグイスが短い歌を口ずさむ。
大男は口をぱくぱくさせたまま、立ち尽くしていた。
他の七人もぞろぞろやってきて、同じように固まった。
副官らしき女は言った。
「しゅ、主任……これは?」
「話しかけるな。気が散る」
常管の八人は吐息を何度ももらし、光の世界に見入っていた。
やがて、千江が穴に入ってきて言った。
「真実の世界へようこそ」