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ア・グラウンドレス・センス  作者: ヒノミサキ
4/6

第四章 KYUTO

 15



 遠くにあった青黒い半円形が、だんだんと大きくなってきた。完全な暗黒ではない。ということは、KYUTOはまだ生きている?

「おまえが驚くなよ」

 カツシは蘭に言った。

「いや、なんとなく」

 蘭は苦笑いする。

「ライフシステムを再起動させたのか?」

「そうみたい」

「みたいって……まるで他人事だな」

「目覚めたときは、もう動いてたから」

 以前の蘭は口が重く、素性など語ろうとしなかった。ミナトに撃たれてから、彼女は本当に変わってしまった。まるで背中の荷が軽くなったかのようだ。聞けばなんでも答えが返ってきそうだった。

 蘭は今から五年前、冷凍睡眠カプセルの中で目覚めた。場所はKYUTOの最上部である第二十三層にある、何かの施設だった。以前の記憶はなかったが、生存には困らなかった。一年後、下に降りてトンネルへ向かった。暗闇は退屈だった。SAITOで初めて自分以外の人間を見た。それから四年間、SAITOのあちこちを転々とした。

 カツシは頭をかいた。

「そうだった……戦いに関わることは、みんな飛んじゃったんだもんな」

 つまりは、生まれた場所以外は何も知らないのと一緒だった。

「生活できる場所がわかっただけでも、大収穫よ」

 千江の言葉に、他の者もうなずいた。

 トンネルを抜けると、薄暗いプラットホームが目の高さに広がった。

 千江は拳銃のグリップに手をかけ、声を張った。

「誰かいる?」

 る? る? る……。

 声に反応するガードロボットの姿もなかった。

 一行は段差の上に這い上がると、構内中央にあるエレベーター塔へ向かった。

 エレベーターは一機だけ生きていた。スワロー一号機。電光表示はデジタル数字で『0』とあった。

 ボタンを押すと、すぐにドアが開いた。住人の帰りを今かと今かと待ち続けていたかのような勢いだった。

 窓のないステンレスの壁に薄暗い照明という組み合わせは、相変わらずだった。

 千江がキー操作するとドアが閉まり、上に向かっている証拠である、むっとするような感覚があった。

 蘭は壁にへばりつくようにして立っている。よく見ると、顔のあたりに手のひらサイズの小窓があった。

 違いに驚いたカツシは、蘭に頼んでどいてもらった。

「真っ暗なだけだよ?」

「ほんとだ」

 カツシはうなだれた。

「たしか……節電しないといけないって、どこかに書いてあったの、覚えてる」

 どうやらこのエレベーターと、零層、第二十三層以外は、閉鎖当時のままのようだ。 他の層はどうなっているんだろう……想像しようとしたが、頭がまわらなかった。連日の逃避行にカツシは疲れていた。

 壁に寄り添い、誰もがうつらうつらしていた。

 カツシは膝に力が入らなくなり、背中が壁をすっているのを感じた。

 やがて目を突くような光が小窓からさした。

 一行はしゃきんと背をのばした。

 ベルが鳴り、ドアが開くと、朝色の天井光が照らす中央広場があった。

 何日ぶりの光だろう。

 カツシたちは一斉にエレベーターを飛びだした。



中央広場はひっそりとしていた。同心円状に広がっていく公園。緑地の木々は枯れることなく茂っている。配水システムが滞っていない証拠だ。

 一行は蘭が目覚めた施設に向かうべく、円い広場を外側に向かって歩いた。タイルが敷き詰めてある歩道に埃はなかった。風がある。空気の循環も問題ないようだ。

 一つだけ奇妙なことがあった。歩道のところどころに土が盛り上がっていて、そこにはびっしり草が生えていた。緑地から土が漏れ出したところもあるが、多くは道の真ん中で、盛り土の草場は一つ一つ独立していた。よく見るとベンチの上にも雑草が茂っている。

「人がばらまいたにしては、意図が感じられないわね」

 千江は言った。

「飛び地ばかりだし、風の仕業とも思えないな」

 カツシは言った。

「……」

 泉子は神妙な顔つきで黙っていた。

「何か白いものが見えるよ?」

 蘭は盛り土の一つを指差す。しゃがんで顔をつきだし、土を少しかく。

 そして……腰を抜かした。

「こ、こ、これ……ひっ、人の骨っ!」

「!」

 千江は蘭をどかすと、草をむしり土を掘っていった。

 カツシもおそるおそる、別の盛り土を調べた。やはり人骨が埋まっていた。

 埋まっていたというより、そこから土が湧いて草が生えているというべきか。

 千江はカツシに意見を求めた。

 根拠は少なかった。しかし、そうとしか思えないという確信があった。

「この第二十三層はたぶん、一日もかからないで、あっというまに滅んだ」

「どうやって?」

「毒ガスじゃないかな。誰かが空気循環システムに手を加えた」 

「私もそう思った」

 KYUTO閉鎖の理由は、公式には、人口減少による統廃合だった。常管にいた千江も研修でそう教わった。事実、二百年前の当時は出生率の低下や伝染病、自殺者や常識破りの増加などで、三つの世界の人口は全盛時の六割にまで減っていた。効率化のために統廃合されたと言われても、誰も疑いはしないだろう。

 ところが目の前に広がっているのは、政治の業ではなく、謀略の跡だった。

 常管上層部は、身内にさえも真実を隠していた。

 蘭はKYUTOを出てSAITOに潜入するまで、人に会っていない。最近の事件でないことは明らかだった。

「KYUTOが閉鎖になった真の歴史を調べる必要があるな」

「内容によっちゃ、常管をぶっ潰すことになるわ」

「たった四人……」カツシはそこまで言って、よろよろ起き上がろうとする蘭を見た。「いや、三人で?」

「いち抜けた」

 泉子は言った。千江とカツシが睨んでも動じる様子はない。

「常管を滅ぼした後、誰が二つの世界を治めるの?」

「……」 

 二人は答えられなかった。

 KANTOとSAITOは、常管が治めてきたからこそ、生存のためのシステムが維持されていたようなものだ。管理がなくなれば、自分勝手な人々による小さな無駄が重なっていき、あっという間に破綻してしまうだろう。あまりにも危ういバランスの上に成り立っている世界だった。

 だが、そこから生まれる感情の歪みは、何かが間違っていることを暗示していた。

「管理のいらない世界って、どういう感じだろうな」

 カツシの疑問に答えられる者はいなかった。KYUTOに同志を導いて立てこもったとしても、やはり管理は必要だ。やがて人口が増えれば、世界を維持するために、同じ問題を抱えてしまうだろう。

「対抗しても悲劇を増やすだけ。ここは成り行きに任せようよ」

 泉子は言った。

「それもスピリチュアルなママの受け売りか?」

 カツシは笑った。

「いいじゃないの! もっとマシなやり方があるなら、言ってみなさいよ」

「あんたの負け」

 千江はカツシの頭をぐいと押し下げた。

 その間、蘭はずっと黙って話を聞いていた。

「何か意見があったら、言っていいんだよ?」

 泉子が言うと、蘭は笑顔を返した。

「いや、みんななんかすごいなぁ、って」

 カツシたちは揃ってため息をついた。

 突然、先のことを考えたり議論したりするのがバカバカしくなってきた。

「とにかく、施設に行ってみよう。話はそれからだ」

 カツシの言葉に、女たちはうなずいた。



 蘭が目覚めた施設は、放射道路を外に向かって十何キロも行った先の、工業区の一角にあった。そこは工場とは別に、学術研究施設群の専用ブロックを設けてあり、実用的なものばかり並ぶ他の世界とは趣が違っていた。

「えっとね、あっち」

 蘭は道路右手にある、五階建ての白いビルとビルの間の小道を指さした。

 古代兵器研究所に、洗脳科学研究所……なんだかものものしい名前の施設ばかりだ。

 兵器に洗脳か……カツシはハッとした。

「えっ? 洗脳?」

 千江は腕組みをする。

「SAITOの再生所が完成したのはほんの十何年前だけど、人間再生の理論は、ずっと前からあったそうよ」

「かつてKYUTOの誰かが独自に進めた研究を、常管のスパイが持ち出した?」

「あり得ない話じゃないわね」

 KYUTOの人々はいったい何のために、人を洗脳しようとしていたのか。内紛を防ぐためか、それとも……。

「考えるのは後なんでしょ? あの子一人で先、行っちゃったよ?」

 泉子はカツシの背中をぐいぐい押した。

 蘭は見た目こそ十七だが、今や小学生の妹のようなものだった。はぐれるわけにはいかない。

「待ったぁ!」

 カツシたちは蘭の後を追った。



 『保存科学研究所』……蘭が目覚めた施設の名前だ。狭い玄関の壁に貼ってある、五階建てのビルの図面には、あらゆる物を長期保存するための実験室が並んでいた。食料や記録物関係が多いようだが、なかには生物、人間に関する部屋もあった。

「あそこ」

 蘭は五階の半分を占める『冷凍保存室』を指さした。

 エレベーターは故障していた。一行は玄関すぐ横の階段で五階まで上がることにした。

 踊り場や各階の廊下に、ところどころ乾いた土の山があった。研究員と思われる白骨が、土の間に見え隠れしていた。草が生えないのは、水の散布がなかったためか。

 蘭はひどくおびえていた。そこは覚えていないのだ。

 五階に着くと、いきなり大きな鉄扉があった。脇に操作パネルがある。千江があれこれいじってみたが、うんともすんともいわない。

「食べ物いるから、ちょっと開けて」

 蘭が言うと、轟音とともに扉が左右に動き、一人通れるくらいの隙間ができた。

 冷たい空気と白いもやが、一行の体を包みこむ。

 千江は二の腕を押さえながら言った。

「ま、まさかここで暮らしてたの?」

「ちがうよ。下の階の冷蔵庫が空になったときだけ、ここに来るの」

 蘭はたしかにこの部屋の奥にある設備で目覚めたのだが、寒いのですぐに外へ出てしまったという。生活の方法は既に知っていた。この巨大冷凍室の中にあるのは、食料だけということも、はじめから知っていた。

 ロマンチックな覚醒秘話を期待していたカツシは、ちょっと損した気分だった。

 千江や泉子も言葉少なげだ。

「と、ともかく当面の食料があることがわかっただけでも、来てよかったわ」

 千江は苦笑いした。

 これ以上用がないとわかると、蘭はシステムに鉄扉を閉じさせた。

「目覚めたときに、だいたいのことは知ってたんだ?」

 カツシの問いかけに、蘭はうなずいた。

「考えなくても、わかっちゃうの。ちょっと思い出すだけ」

 ただ、出生や家族にまつわることは記憶になかった。

「似てるわ」

 千江は虚ろな目で言った。

 カツシはうなった。

「蘭の記憶も、再生の技術と関係あるのかな?」

「あの強さと知恵が、計画されたものだったとしたら……」

「だとしたら?」

「KYUTOの滅亡と、蘭の常管打倒への執着……調べなきゃいけないことはいっぱいあるようね」



 16



 保存科学研究所を足場に、カツシたちが生活をはじめてから数日が経った。

 研究員の部屋を調べていくうち、KYUTOの旧常管支部が、十層下にそのまま残っていることがわかった。どうやら、常管はKYUTOの独立勢力に追い出されたようだ。旧支部の正式名称は、常管対策本部。研究のために、常管の古い資料を保管してあるはずだと、カツシたちは踏んでいた。

 KYUTO第十三層は、機能を停止して久しい場所。蘭はライフシステムを再起動させる方法を知らなかった。探検するにはそれなりの装備が必要だ。古代兵器研究所へ行くと、蘭が使っていたのと同じガスマスクや、酸素ボンベがいくつか保管してあった。武器の類いは『戦士の蘭』がSAITOへ向かう際に持ち出してしまい、残りは少なかった。古代とはいったいつ頃をさすのか謎は多かったが、人知を超えた知識をどこからか手に入れ、その復元に心血を注いだ跡がうかがえた。

 そこまでして、KYUTOの過去を調べる必要が果たしてあるのか。岡崎やミナトの再来への対策が先ではないのか。議論は紛糾した。蘭の記憶が戻る兆候はない。泉子は戦闘要員になることを拒否。二対二でも互角とはいえず、人海戦術で来られたら勝ち目はない。

「もし機密資料があるなら、KYUTOの構造もわかるかもしれない。たとえばこの二十三層の上に再生所のような特殊な施設があるのか、とか」

 カツシの発言で方針は決まった。敵に勝つには、まず己を知ることからだ。

 探検要員は千江とカツシ。二人は古代兵器研究所内を漁って、装備をかためていった。



 いよいよ出発というとき、所内の玄関で、泉子が待ったをかけた。

「やっぱり千江さんは残って」

 ボンベを背負った女は言った。

「なぜ?」

「もし調査中に常管が攻めてきたら、あたしじゃ蘭ちゃんを守れない」

「でも、さすがにカツシ一人で行かせるのはねぇ」

「あたしが行きます」

「ガードロボットがいたら?」

「細かいことにこだわるほど、バカじゃないから」

 千江は笑うと、装備をそっくり泉子にあずけた。

 この場で着替えるというので、カツシは強制的にトイレへ行かされた。帰ってくると、泉子は千江の赤い戦闘服を着ていた。

 金髪に幼さの残る顔、華奢な体に似合わぬ胸、ごつい服に真っ赤な色。

 ミスマッチに思わず見入ってしまった。

「目がいやらしい」

 泉子は赤い顔をそむけた。

「襲われたら、ためらわずに撃ちなさい」

 千江は泉子に拳銃を手渡した。

「俺を見ながら言うなっ」

 カツシは鼻息荒く玄関を出ると、誰もいない放射道路を歩いていった。



 KYUTO第十三層は暗黒だった。研究所で写した地図とハンドライトの光、背中のボンベだけを頼りに、カツシと泉子は歩いていった。街の構造はどの層も判で押したように同じで、迷うことはなかった。

 中央広場に生えていたはずの植物はすべて分解されて土に還っていた。歩道のタイルとベンチと消えた街灯と土と骨。光も音もない。死の世界とはこういうものか。カツシは胸が苦しくなった。

 心拍数を上げて酸素を浪費するわけにはいかない。地図を確認して、官庁街を指さした。二度うなずく泉子。

 旧常管支部は官庁街の最も手前にあった。中央広場が一望できる特等席だ。

 長屋ビルの第一番玄関は開け放してあった。周囲に人骨が多く転がっている。苦しさのあまり屋外へ逃げようとしたが、外も同じだった……カツシは当時の情景を想像した。

 常管対策本部はビルの五十一階から六十階(最上階)までを占めていた。エレベーターは無論止まっている。奥の様子には構うことなく、一階ホール入ってすぐの階段に足を向けた。

 カツシと泉子は小さなホワイトボードを持って筆談した。

『51階なんて酸素がもたないよ』とカツシ。

『ゆっくり行けば?』と泉子。

『何が襲ってくるかわからない』とカツシ。

『ユーレーが怖いんでしょ?』と泉子。

『怖くて悪いか?』とカツシ。

『あたしが守ってあげる』

 泉子は手作りのミニ祓串を振ってみせた。

『インチキ聖人め』

 無駄な会話はそのくらいにして、二人は踊り場まで上っては少し休むことを、何度もくり返した。

 五十階を五十分かけて上った。酸素の残量は時間換算であと八十分。上出来だ。

 ここから二手に分かれることにした。泉子は五十一階から五十五階、カツシは五十六階より上を担当する。三十分後に五十一階の階段口に集合と約束して、二人はそれぞれの仕事にかかった。

 一人で各階をまわるにはフロアは広すぎた。カツシは根拠のない直感を働かせ、もう十分かけて最上階まで上り詰めた。ここは一発勝負しかない。

 オフィスのコンピューターは完全に死んでいた。机の間をぬって骨の山をかき分けつつ、奥まで行くと、ガラス張りの個室があった。

『印刷書類保管室』

 ドアには鍵がかかっていた。

 ガラス部分を殴った。拳を痛めるだけだった。

 拳銃で一発。火花が散っただけだった。

 防弾ガラス……つまり、それだけの価値があるということだ。

 カツシは千江から借りてきた特製弾倉入りの拳銃を抜き、取っ手めがけて撃った。

 金属製の取っ手が風穴に変わった。なんという威力。残り八発……スライドをそっと撫でてからホルダーにしまった。

 ドアを開いてライトを照らすと、そこは金庫の団地だった。電子ロックの電池はとうに切れているはず。五十を有にこえる錠前の群れに、虎の子の徹甲弾を使い切るわけにもいかない。酸素の残りは六十五分。集合場所まで五十分の量は残さなければならないから、あと十五分。いやまてよ、六十階から下っていく分を引くと、残りは五分だ。

 クソッ、探索はここまでか……カツシはヤケになって棚下段の金庫の扉を蹴飛ばした。

 一辺五十センチほどの立方体は、滑って棚の奥の方へ少しずれた。

 あれ? 意外と軽い?

 カツシは金庫を棚から引っ張り出した。充分持てる重さだった。丈夫なのはともかく、部外者に持ち出されることは想定になかったのだろうか? 昔の人は大らかだったと聞いてはいるが……。

 考えている暇などない。カツシは金庫を個室の外に持ち出しているうち、ひらめいた。

 そのまま窓際まで行って金庫を下におくと、『普通』の拳銃で窓ガラスを撃ち抜いた。ガラスはあっさりヒビが入った。

 再び金庫を持ち上げ、ガラスのヒビに投げつける。

 ガラスは砕け、金庫は暗黒の下界に落ちていった。

 確認する間はない。カツシは次の金庫にとりかかった。



 泉子は五十一階の階段口でカツシの帰りを待っていた。あちこち欲張ったせいでめぼしい収穫はなかったが、命あっての物種と、時間は厳守した。

 約束の時間はとうに過ぎている。酸素の残りは四十分。

 あと十分来なかったら、探しに行こう……自殺行為だとわかっているのに、なぜそう考えてしまうのか、ぼうっとしていてわからなかった。

 残り三十二分。今にも駆け出そうというとき、上から小さな足音が近づいてきた。

 カツシはそれからたった二分で下りてきた。息が上がっている。酸素ゲージを見ると残り十八分だった。

 上で何やってたなどと、叱っている暇はなかった。

『呼吸より速く走るしかない』

 泉子はホワイトボードに書いた。めちゃくちゃな理屈。でも意図は伝わるはずだ。

『下に落とした金庫を見たい』とカツシ。

『バカ! 今度にして!』 

 カツシは苦笑いして親指を立てた。

 二人は一段飛ばしで階段を駆け下りていった。



 ビルの外に出たとき、カツシの酸素ゲージは『(エンプティー)』だった。

 カツシは苦しさのあまり、歩道に四つん這いになった。

 エレベーター塔まであと一五〇〇メートル。

 泉子は肩ひもを外してカツシのボンベを捨てると、息を止めて自分のマスクをあてがった。

 カツシは立ち上がれるようになると、すぐにマスクを泉子に返した。

 一つ呼吸するたびに、マスクを付け合う。

 ゲージの針はみるみる左へ傾いていき、残りは十分、一人あたり五分となった。

 二人は三十秒ずつ息をとめて、ギリギリまで普通の速度で歩くことにした。

 はじめは三十秒守った。それが進むたびに二十秒、十秒と狭まっていき、『エレベーター改札口まで300メートル』の標識を横切ったとき、泉子の酸素も底をついた。

 最後に吸ったのはカツシ。泉子はボンベを捨てる。

 二人はうなずき合うと、エレベーターの扉めがけて走った。

 カツシは足が速いほうではなかったが、それでも泉子を引き離し、一足先に無人の改札を抜け、ドアのボタンを叩いた。

 重い鉄扉が開いていく二秒間が、永遠に思えた。

 空気に満ちた室内へ転がりこんで、思い切り息を吸う。四つん這いのまま操作パネルに手をのばし、ドアを開けっぱなしにして相棒を待った。

 泉子はやってこない。まさか、転んだのでは?

 カツシは立ち上がって、改札口にライトを当てた。

 人の姿はなかった。

 カツシは肺が破れそうなほど息を吸った。命惜しくて泉子を置きざりにしたわけではない。

 改札を抜けて来た道を少し戻ると、泉子が口を押さえてへたりこんでいた。

 カツシはなりふり構わず、泉子に口づけした。鼻を指で押さえることも忘れなかった。

 息を吐ききると、自分から口を放し、苦しさにもがきながらエレベーター口まで走った。

 半自動ドアは閉まっていた。

 意識はもうろうとしていた。帰りの分を計算してなかった。ドアのボタンに手をかけることなく、カツシは膝をつく。前後がわからず、気づくとドアに背を向けていた。

「カツシ!」

 追ってきた泉子がボタンを押す。

 ドアが開くと、泉子はカツシに低くタックル。

 二人はステンレスの部屋になだれこんだ。

 ドアが閉まる。

 泉子は肩をはずませながら、『23』のボタンを押した。

 カツシは背中を打ったせいで息が吸えなかった。

 地獄の中の地獄。

「あ……う……」

 仰向けのカツシは、かすれた声で両手を天に突き上げる。

 泉子はハッとした顔で振りかえると、カツシの上になって唇を押しあてた。

 カツシは呼吸をとりもどした。

 柔らかい唇が離れてゆく。

 カツシは言った。

「鼻が痛いよ」

「バカ」

 泉子は泣いていた。



 その日の夜、千江は二人の前で大笑いした。

「大昔に毒ガス攻撃があったとしてもとっくに分解してるし、空気循環がないったって、真空になるわけじゃないのよ? 古い防毒マスクじゃ目が詰まっちゃうかもしれないし、変な菌やウィルスを吸わないように、ボンベ持たせただけなのに。先に言わなかったっけ?」

 カツシと泉子は、話を聞いていなかった。

 お互い目を合わすことなく、自分の唇ばかり気にしていた。



 17



 カツシと泉子は二度目の十三層探検で、カツシが上から落とした金庫を見つけ、壊れた扉の外に散らばっていた機密資料を回収した。保管室から持ち出した金庫は全体の半分、落として壊れたものがその半分で、情報は断片的なものしか得られなかった。それでも、世界の歴史やKYUTOの構造について、重要な記述がいくつか見つかった。

 今から二百年ほど前、常管のやり方に不満を持っていたKYUTOの一勢力『非常識派』は、武力をもって常管を倒そうという計画を立てていた。非常識派のリーダーの名は、長崎(いさむ)といった。

 保存科学研究所に設けた作戦室(旧会議室)に集まった四人は、この事実を前に、しばらくの間言葉を失った。

「この長崎って……」

 カツシは蘭を見た。

 千江は言った。

「これはあくまでも推測よ。常管KYUTO支部の打倒は成功し、KYUTOは独立を果たした。それもつかの間、スパイによる毒ガス工作によって、KYUTOはあえなく滅亡、閉鎖となった。長崎諫は執念深い男で、勝ち目がなくなったと悟ると、当時十二歳だった実の娘を洗脳、常管打倒の思想と戦い方のすべてを叩きこみ、試作機として唯一存在した冷凍睡眠カプセルに放りこんだ」

 すべて合っているとは限らないが、核心はついていると、カツシは思った。

「私、よくわかんない」

 蘭は口をとがらせた。

 戦いの天才が父親の方だったとすれば……カツシはそこでふと、洗脳科学研究所という言葉が浮かんだ。蘭は千江よりずっと前に、再生された人間だったのか?

「いいのよ。わかんなくて」

 千江は蘭を抱きしめた。

 蘭は千江の胸に顔をうずめた。

「蘭ちゃんは今の蘭ちゃんでいいじゃない」

 泉子の言葉に、カツシと千江はうなずいた。

 歴史はさておき、肝心なのはKYUTOの構造についての資料だった。

「これは、なんなの?」

 ある図面を見て、千江は首をひねった。

「世界を外側から見た図ってことじゃないの?」

 カツシは言った。

 KYUTOの断面図を作ったらこうなるだろうと思った。零層にシャトルのステーションがあり、その上に高さ二一三メートル五〇、幅の直径数十キロの層が二十三個積み重なっている。真ん中にエレベーター塔があり、最外部に環水道とKY区域もある。

「何もないはずの世界の外側から、誰が見るのよ」

 泉子は言った。

 KY区域の果てに壁があり、その外は無あるいはただの余白、というのがこれまでの常識だ。

「想像で書いた、とか」

 カツシは軽い気持ちで言った。

「見たことないものを、想像できるの?」

「さぁ?」

 余計なことを言ったと悔やんだ。

「この、第二十三層の上に乗っかってる板の群れみたいなのは、なに?」

 千江は『ソーラーパネル』と書いてある部分を指さした。

「ソーラーってなんだ?」

 カツシは泉子を見た。

「あ、あたしに聞かないで」

 カツシは千江を見た。

「私が聞いてんの」

「ごめん、俺もギブアップ」

 古い言葉の知識には自信あったが、今度ばかりはさっぱりだった。

「ねぇ、これなぁに?」

 蘭がふと、第二十三層の最外部、KY区域を指さした。

 よく見ると、ハシゴのようなマークが一本入っていて、天井まで通じている。

 カツシは言った。

「もしかして、本物の世界の果てが見られるとか?」

 図面では、ソーラーパネルは、世界の果ての余白と接しているように見えた。

「や、やめなさいよ。窒息するよ?」

 泉子はカツシの二の腕を引っ張った。

 何もなければ、まさに真空。彼女の言う通りどころか、一秒と体がもたない。

「確かめた奴はいない。いや、この図面を書いた奴が行ったかもしれない」

「一理あるわね」

 千江は言った。

「ちょっと!」

 泉子は千江を睨んだ。

「ま、ダーリンを失いたくない気持ちはわかるけど? このまま文献調査ばっかりしてても、どのみち常管に追いつめられるだけよ」

「ダ……」泉子は真っ赤になって言葉を飲みこんだ。「あたしたち、そんなんじゃないし!」

「二度もディープにインパクトしといて、それはないわよねぇ」

 千江はカツシに微笑みかけた。

 十三層廃墟の冒険譚語りは、残してきた者への義務だった。人工呼吸も例外ではない。

「……」

 カツシは肯定も否定もしなかった。ミナトのことを忘れたわけじゃない。だが、思春期という怪物は、一人でいることを許してはくれない。

 そんな浮いた話も、生き残ってこそできるというものだ。

「ソーラーパネルってのを建てた奴がいるんだ、少なくともそこまでは行けるってことさ」

 泉子が条件を出した。

「どうせ死ぬなら、みんな一緒がいい」

 千江はうなずいた。

「ま、残ってても同じことだしね。あーでも、探検先じゃ二人きりにしてあげられないけど、いいのかしら?」

「あーもう、わかったから、そういうのは全部終わってからにしてくれ!」

 カツシはテーブルの上の資料をかき回した。

「ようし、さっさと終わらせにいくわよ」

 千江が言うと、蘭は飛び跳ねてうなずいた。

「動機がおかしなことになってる……」

 泉子はため息をついた。



 18



 三日分の食料と水、武器弾薬、工具類、記録用具、最低限の着替え。

 準備を整えた一行は、図面に従い、第二十三層のKY区域を目指した。

 研究施設群のある工業区内のブロックは、最も外側を走る環状道路の近くにあり、環水道まで歩いて五分とかからなかった。

 水道のそばまできて、ここで裸になるのかと騒ぎになった。

 図面を見ると、大昔に常管が通したと思われる、隠された抜け道があった。

 第一のフェンスを越えて、草地のマンホール(電子ロックはなかった)をあけ、暗渠に入るところまでは、KANTOでミナトとやったことと同じだった。一行は幅五十メートルの環水道には入らず、地下水路の縁の足場をたどって暗渠の奥へ進んだ。

 図面通りの場所で、何の形跡もないコンクリートの壁を押すと、隠れていた扉がくるりと回って真っ暗な通路に出た。ライトをつけて階段を下り、四十分ほど歩いて、また階段を上ると、そこはもうKY区域の最奥部だった。

「へぇ、知らなかった」

 千江の声は暗黒空間に響き渡った。

 冷たそうな壁にライトを向けると、タラップが一本上にのびていた。

 常管の捜査官でさえ知らない、第二十三層だけの最高機密だった。

 あとはタラップを上っていくだけだ。意外とあっさり世界の果てに出てしまうのかと思いきや、問題が一つ持ち上がった。

「高さのこと、忘れてたよ」

 泉子の言う通りだった。

 各層は床から天井まで二一三メートル五〇。KY区域も例外ではなかった。

「こんなことなら、もっとジムで鍛えておくんだったわ」

 千江の言葉に、カツシは笑った。

「言うと思った」

「荷物持ってなんて、上れないよぅ」

 蘭が泣き言を言いだした。

 古代兵器研究所から持ちだした命綱のおかげで、休みながら上ることは可能だった。昔の蘭ならともかく、今の蘭は精神が小学生並みだ。根性論を持ち出しても無駄なことはわかりきっていた。

 千江は言った。

「仕方ない、蘭のリュックは置いていきましょ。パンツが臭っても文句は言わせないからね」

 蘭の荷物は主に全員分の着替えだった。

 カツシはなんとも思わなかった。一方、蘭と泉子は額に斜線が入っていた。

 蘭の分の食料と水を、別の者のリュックに無理やり詰めこみ、一行は出発した。

 先頭はカツシ、次に蘭、泉子とつづいて、しんがりは千江が務めた。

 タラップを上って数分もたたないうちに、カツシと蘭の間があいた。泉子が片手で蘭の足をさわってやると、蘭は息を吹き返した。

 そんなことをくり返しながら、半分ほど上ったとき、泉子が足を滑らせた。間一髪、千江が支えて落下は逃れたものの、泉子の疲労は深刻なものだった。

「私のせいだ……」

 蘭は泣いていた。

 泉子は蘭の体力を回復させる一方で、自分の精神力を削っていたのだった。

「ここで休もう。各自、命綱の金具をタラップに引っかけて」

 カツシは言った。

 千江は何か言おうとしていたが、口を閉じて、微笑みだけを返した。

 上も下も右も左もない、暗黒の絶壁。

 そこでの一時間は、悪夢より長く感じられた。言葉を発するだけでも消耗しそうな気がして、カツシは黙って壁にしがみついているしかなかった。蘭や千江も同じようにしていた。泉子は命綱を頼みにぶらさがったまま、眠ってしまった。

 出発時間が来ても、泉子は動けなかった。

「ここはいいから、先に行きなさい」

 千江はカツシに言った。

 危ない場所に留まっているだけでも、人は消耗する。カツシもいつ泉子のようになるかわからなかった。女たちの絶壁踏破は泉子の回復にかかっている。

 カツシは三人を残して、残りのタラップを上っていった。



 カツシはライトを上に向けた。天井があった。何の装飾も器物もついていない、ただの平らな面。期待はしていなかったが、世界の出口というにはあまりに寂しい場所だった。

 タラップは天井まで隙間なくつづいていた。

 ぎりぎりまで上りつめて、何かないか調べた。四角い金属の面があった。縁を押すと、少し開いた。扉になっているようだ。

 カツシは鉄扉を押し上げ、天板に手をかけ、ついに外へはい出た。かと思いきや、そこはまたしても真っ暗な空間だった。

 辺りをライトで照らす。六畳ほどの狭い部屋。物はなく、独房よりもがらんとしている。

 金属のドアが一つあった。ドアというよりハッチというべきか。中心に円いハンドルがある。ロックがかかっているようで、びくともしない。

 普通の拳銃では破壊できそうになかった。例の金色の弾倉が入った千江の拳銃を抜いた。後で持ち主に絞られないよう、慎重に狙いをつける。

 ドアの左端めがけて縦に三発撃った。

 カツシは思わず目を細めた。

 風穴から強烈な光が差しこむ。

 ドアはまだ開かない。穴と穴の間めがけてもう二発。

 銃弾のエネルギーが大きく、ドアはひとりでに開いた。

 カツシはまぶしさで、何も見えなくなった。



 目が痛くて開けられない。

 手探りで歩いたものの、何にも触れられず、不安になって足を止めた。

 千江たちが追いつくまで待とう。カツシは目をつぶったままその場に座りこんだ。

 床は絨毯のようにふかふかしていた。水でもかかったのか、少し湿っぽい。

 冷たい風が頬を打つ。肉が押される? 二十二℃の微風に慣れきっていたカツシには、驚きだった。

 空気が薄いのだろうか、深呼吸せずにいられない。世界の果ての空気には独特の香りがあった。熟れすぎた野菜のような臭みをうっすら感じつつも、どこか懐かしいような、不思議な匂いだった。

 一時間くらい待ったか。女たちの荒い息づかいが近づいてきた。

 光の強さに驚いている。女三人が一カ所に集まると騒がしくてしかたない。

「なんも見えないよ。それに寒いし」

 泉子の声が近づいてきて、座っているカツシの背中に膝がぶつかった。

「でも、光と空気はあったな」

 カツシは立ち上がると、目をうっすら開け、ふらつく泉子を受け止めた。

 目が慣れてきた。カツシは泉子と寄り添ったまま辺りを見回した。

「え……」

 それ以上言葉が出てこなかった。

 ソーラーパネルらしき巨大な板が斜めにそびえ立ち、無数に連なっている。

 それよりも、天井の高さだ! なんだ? あの綿のような白い塊は? 少しずつ形を変えながら、流れて行く。どこへ?

 白いものを追って、泉子の背後に目をやる。

 闇の小部屋はパネル群から離れてぽつんと一つ出っ張っていた。ドアの辺りで千江と蘭が目をつぶったままうろうろしている。

 カツシは泉子の手を引くと、小部屋の脇へ足を向けた。

 錆びて崩れかけたフェンスの向こう、遥か下界に、見たこともない青緑色の平面が広がっていた。

「なんか見える?」

 泉子は訊いた。

「見えるけど、うまく説明できないな」

 例えるものがないのだ。謎の綿が流れていく青い天井と、世界のすべてよりも広そうな青緑の鏡面。鏡面の一部は緑色のもさもさした……。

「あれは……苔かな?」

 そういえば、足下の床にも同じようなものが生えている。が、スケールの違いを考えると、下界のものは中央広場の樹木くらいはありそうな感じだ。

「えっ? 苔が生えてるの?」

「いや、木だな。木の団地、いや木の大群がこう盛り上がって……」

「全然わかんない」

「あれはね、陸っていうんだよ。木の集まりは森ね」

 いつの間にか、目を開けた蘭がそばに立っていた。

「リク? モリ?」

「で、陸のまわりに広がってるのが海。海より上にあるのは空ね」

「ち、ちょっと待ってくれ。なんで蘭が世界の果てのことを知ってるんだ?」

「わからない。ここに来たら、わかっちゃったの」

 千江が片目を手で押さえながらやってきた。

「洗脳のときに、何か別のプログラムというか、知識が紛れこんだんじゃない?」

「こんな人知を超えた知識を、どこの世界の誰が持ちこんだのよ」

 泉子の意見に、千江はうなるだけだった。

 カツシは言った。

「蘭が長崎諫の『実の娘』でなかったとしたら、どうかな?」

 女たちは少年に注目した。

「もしかしたら彼はおろか、このKYUTOより先輩って可能性もある。謎が解けないまま、有史以前から代々受け継がれてきた冷凍睡眠装置が、動乱の時期に急に動きだして……」

「そんなの……壮大すぎて想像がつかないわ」

 千江はようやく目を開けた。

 結局、長崎蘭の超古代文明人説は棚上げとなった。

 それはともかく、蘭は幼気なだけの少女から、新世界のガイドへ一躍格上げとなった。



 図面によれば、KYUTOの屋上はすべてソーラーパネルが占めていた。覚醒した蘭は機械には疎く、それが何の装置かはわからないままだった。何十キロもある無機質な屋上を横断しても、収穫は少なそうだ。

 一行は蘭のガイドで、KYUTOのまわりに広がる下界に目を向けた。

 足下の陸地を九州といい、カンモン海峡をはさんで、もう一つの陸を本州といった。

 カンモン海峡の本州側に、銀色の線がまっすぐのびていた。

「あれは何だろう?」

 カツシの問いに、蘭は首を横にふった。

「見たことない」

 千江は腕組みして、広大な森の間を縫うラインを睨んでいた。

「……」

「何だよ、怖い顔しちゃって」

 カツシがからかっても微動だにしない。

 やがて、千江は手を打った。

「フフン、なるほどね。ふっふっふ……ふっふっふ」

 不気味な笑いがあまりにつづくので、他の三人は後ずさった。

「あれは、シャトル路線よ」

「えっ?」

 カツシは耳を疑った。世界の内部にあったもの。外から引いて見た図。双方を照らし合わせて一致させることに、まだ大きな抵抗があった。

「SAITOは、あの銀色のラインをたどった先にあるはずよ」

 脳の古い部分で凍りついていたものが、少しずつ溶け始めていた。

「あれをぶっ潰せば、常管の連中は二度とこっちへ来られないな」

「その前に、まず地上へ降りてみることよ」

「地上へ……」

 得体の知れない高揚感が、カツシの足下から頭上へ突き抜けた。

 カツシはよろよろとフェンスに近づいた。

「あっ、バカ!」

 泉子は背中からカツシにしがみつき、勢い余ってバックドロップ。

 錆びたフェンスは、散り散りになって下界へ落ちていった。

 頭を打ったカツシと、ひねって脇腹を打った泉子は、しばらく絡まり合っていた。

「バカップルもほどほどにしなさいよ」

 千江は蘭と二人で腹をかかえている。

「だからぁ……そんなんじゃ……」

 泉子は四つん這いで訴えようとした。

 そのとき、かくんと肘が折れて、カツシの上に崩れた。

 柔らかい唇を受け止めたのは、気を失ったカツシの唇だった。

「もう……神様の好きにして……」



 19



 カツシたちはエレベーターで最下層まで降り、シャトルのステーションに出ると、無人のプラットホームを歩いた。平らなレールの上に飛び降り、トンネルに入りしばらく行って、一行は立ち止まった。

 千江は例の徹甲弾が入った銃を抜く。残りは三発。

 そこでカツシはあることを思い出し、ストップをかけた。トンネルの中間点から先を調査するとき、幽霊か何かに怯えて一発使ってしまった。あのとき見えた光は、外界の陽光だったのだ。穴は小さく、どこかが崩れたのか、すぐに塞がってしまった。

「徹甲弾じゃダメだ。手榴弾を使おう」

 古代兵器研究所に残っていた五個と、蘭から受け継いだ手持ちの分を合わせて、計七個あった。

 カツシは一発目で崩れた部分に、二発目、三発目と、どんどん奥へ放りこんでいき、四発目でようやく外壁に穴があいた。

 まばゆい光が注ぐ。

 一行は大きく空いた穴から外へ出た。右を見ても左を見ても、草木ばかりだった。道や建物などはどこにも見当たらない。それよりも何よりも、この蒸し暑さときたらどうだろう。天空と地上では、まるで別の世界だ。

「波の音がする」

 蘭は言うと、一人で森の中へ分け入り、先へ行ってしまった。

 三人はあわてて後を追った。

 道なき道をしばらく行くと、カツシの足に何かが当たった。草をかき分け調べてみると、プレートらしきものの錆びきったかけらであることがわかった。

 漢字で何か書いてあり、かろうじて読める。

(もん)(つかさ)(みなと)(えき)(あと)、記念館だってさ」

 意味が通じるのは『跡』と『記念館』だけ。『港』と『駅』は、読みはわかるが、古い言葉なので意味はわからない。『門』と『司』は一つ一つの意味がわかるが、つなげて解釈していいものか判断できない。

「あんた、ぼうっとしてるけど、それ、とんでもない発見よ!」

 千江に言われて、ようやく気がついた。

 世界の外側にも、人は暮らしていたのだ! 蘭が外側の人間だったという、カツシの超古代文明人説も、まんざらでたらめでもなさそうだ。

「港……か。あの子の名前と関係あるのかな?」

 泉子はぼそっと言った。

「その話はよそう」

 カツシは言った。

「ご、ごめん! バカだ……あたし」

 泉子は涙目でうつむいた。

「あいつはもう、岡崎の人形さ」

「そんな言い方……」

「本当のことを言っただけだよ」

「でも、時間かショックか、何かのきっかけで前の彼女に戻るかもしれないわ」

 千江は言った。

 千江は再生して十年が過ぎ、蘭はミナトに撃たれたことで、本当の自分を取り戻した。

「記憶は戻らない」

 カツシは言った。

「本当に縁があるなら、そんなもの関係ないよ」

「あんたが言うことじゃないでしょ?」

 千江は肩で泉子の肩を小突く。

「たとえどんな道をたどっても、結ばれる人は結ばれることになってるの。ズルしたって無駄なんだから」

「なるほど、神秘家の娘だわ」

 千江は笑った。



 蘭は森の外れの少し開けた岸壁に立っていた。

 対岸を見つめる視線の右には、角のとれたコンクリートの道が海に向かってのびていた。

「あれは道じゃないよ。大きな波を防ぐものだと思う」

 蘭は言った。

 本来はもっと壁のように突き出ているらしいのだが、海面が上がったのか、水の力ですり減ってしまったのか、蘭が知っている頃のものとはだいぶ違っていた。

 元防波堤のさらに右には、本州と九州、双方から海に向かって下りていく坂道があった。

「あれはね、一つにつながってたの。橋っていうんだよ」

 蘭は言った。

 カンモン大橋は二つの陸地をつなぐものだったが、手入れがないまま時が過ぎたのだろう、鉄骨は真っ赤に錆び、橋は中央でまっ二つに折れていた。

 あれほど巨大な構造物を使っていたとすれば、この新世界……いや旧世界というべきか、ともかく相当な数の人間が暮らしていたことがうかがえた。

「構造物っていえば、私たちのいたKYUTOって……」

 千江の言葉に、皆はハッと息をもらして振り返った。

 海岸沿いの森林地帯のただ中に、灰色の四角い山(屋上にいないと円柱とわからない)が天高くそびえていた。

 つい昨日、拾った資料の山から見つけた機密文書の切れ端にこうあった。『TO』は設計当初、塔のように尖ったものを造る予定でつけた名だが、途中で計画が変わったと。

 幅の直径数十キロ、高さ五キロ近い巨大構造物。大昔の人間はなぜ、このような建物を造る必要があったのか。誰もが疑問を投げかけたが、答えは出てこなかった。なぜなら、工夫さえすれば、ここ外界でも充分生きていけそうな環境だからだ。

「KYUTOみたいに、誰かが毒ガスでもまいたのかな?」

 カツシの問いに、千江は笑った。

「こんな広い場所で? どうやって?」

「笑い事じゃないと思う」泉子は口を開いた。「有史以前、いや、三つの世界が造られる前の太古の頃は、もっと人が多くて、高度で複雑な社会だったとしたら、あり得ない話じゃないよ」

 千江は言った。

「それそれ! 有史以前っていったい何なのよ。有史より前はどうなっちゃったの?」

 有史以前は一切記録が残っていないというのが長年常識とされてきたが、原因を知る者はなかった。

「ああ、それなら、資料の中におもしろい文書があったよ」

 カツシは天を指した。

「太陽?」

 千江は首をかしげる。

 蘭のおかげで、皆の語彙は飛躍的に増えていた。

「この度の太陽活動の異常は、すべての記録装置だけでなく、人々の記憶にまで壊滅的なダメージを与えると、私は断言する。データは揃っているのだ。明日にも国会で議論すべきことである。経済問題? そんなものは平和だからこそ論じられるのだ……だったかな?」

「で、金の勘定をしているうちに、メモリと脳味噌が溶けちゃったってわけ?」

 千江は不満そうに下唇を突きだした。

「そのくらいのことがないと、記録も伝承も何も残らないなんてことはないよ」

「ま、そういうことにしといてあげるわ」

 釈然としなかったが、カツシは話を先へ進めることにした。

「で、俺たちはこれから、どうするかだ」

 千江は言った。

「シャトルのトンネル……あ、今はシェルターっていうんだったわね。とにかくそれを潰して、常管の侵攻を封じたい、って言ってたわね?」

「四人だけで生きてくつもり?」

 泉子は言った。

「ま、あんた方はいいでしょうけど」

 千江はニヤける。

「茶化さないで!」

「常管がある限り、俺たちの人生は脅かされる。帰って戦おうにも、戦力差がありすぎる」

「敵は常管だけじゃない。常識に凝り固まった人々の意識を変えないと勝ち目はないよ」

 泉子は言った。

 カツシはピンときた。考えるより先にアイデアが浮かんだ。

「それだ!」

「えっ?」

「手榴弾はあと三個、徹甲弾もあと三発だったな。足りるかな?」

「何をする気?」

 千江は泉子と共に注目した。蘭は来客を観察する猫のように三人を見比べている。

「SAITOの壁をぶっ壊す」

 長い沈黙があった。

 さざ波が何度か岸壁を駆け上がった。

 千江は腕組みしてうろつきながら言った。

「ま、仮に武器が足りていたとしましょう。SAITOへはどうやって侵入するのよ。

シェルターの終点はたぶん岡崎の手はずで、ネズミ一匹通さない体制よ?」

「外からじゃ、ダメかな?」

「なんですって!?」



 20



 外の世界を知ってから二週間ほどたった。

 カツシたち四人は、シャトル路線のシェルターの屋上を歩いていた。トンネル部はカンモン海峡の下をいく部分だけのようだ。

 銀色で丸みのあるシェルターの上は、草一本生えていなかった。特殊なコーティングでもしてあるのか、舗装道路のように生き物の気配がなかった。

 高さ五メートルくらいの屋上道は、はじめのうちは快適だったが、やがて高架となり、地面の木々がどんどん小さくなり、いつしか輪を描く鳶を下に見るようになってしまった。今は風がないので立つには立っていられるが、目がくらんで結局は座りこんでしまう。高い上に柵も何もないのだから、たまったものではなかった。

「た、立ちなさい。行くって言ったのはあんただからね」

 千江はへっぴり腰でカツシに言った。

「重要なことを忘れてたよ」

「今さらなによ」

「SAITOのステーションは、十二層の上にあるんだった」

「!」

 千江は尻餅をついた。

 十二層といえば、高さにして二五〇〇メートル以上だ。気象管理された世界とちがって、外界は風が強いことが多く、パターンも読めない。

「高さだけじゃないよ。引き返そうよ」

 汗だくの泉子は、水筒に口をつけた。

 地上の暑苦しさに、一行は出発して一日でもうバテ気味だ。

「ねぇ、これなんだろ?」

 少し先にいた蘭は、足もとを指さした。

 真ん中にハンドルのついた円いハッチのようなものがある。

 カツシは這っていって、ハンドルをまわし、蓋を開けた。

 縦穴があり、タラップが闇の中へのびていた。

 下りていってハンドライトをつけると、そこは行きで利用した保線用の詰め所だった。部屋側にも蓋があるのだが、隠し扉になっていて下からはわかりづらく、さらに上からでないと簡単には開かない構造になっていた。

 カツシは再び屋上に上がって、千江たちに状況を説明すると、作戦を一つ提案した。

「しばらくはシェルターの中を行こう。常管の気配がしたら上に逃げる。どうかな?」

「逃げるくらいなら、撃ち合ったほうがマシだわ」

 千江は言った。

 泉子と蘭はカツシに賛同。

 千江の舌打ちをもって決議は終わった。

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