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ア・グラウンドレス・センス  作者: ヒノミサキ
3/6

第三章 PASSAGE

 11



 シャトル路線の遺構は、どこまでいっても同じだった。暗闇ばかりだ。

 恐怖感に慣れてしまうと、その後は悪夢のように退屈。それでも、何十キロか進む毎に詰め所があり、付設の物置には閉鎖当時の保存食が半分以上残っていた。上下水道もまだ生きており、生存という意味では最低限の恵みはあった。



 トンネルに潜入して四日目。医務室を備えた大きな詰め所があった。電源は落ちていたが、道具はきれいに保管してあった。

 蘭は意識を回復したものの、立つことすらできないほど衰弱していた。

 泉子は決断した。

「手術するしかないね」

 ミナトが放った銃弾は、蘭の胸元にめりこんだままだ。

 千江はまだ生きている非常灯をかき集めてきて、診察台を照らしていく。

 カツシは蘭を台に寝かせると、泉子に言った。

「やったこと、あるのか?」

「ないよ」

「……だろうな」

 カツシはうなだれた。

 ヒーラーの才能は血筋かもしれないが、それを除けば十七歳の普通の高校生なのだ。免許はおろか、医大にも入っていない。

「カツシが考えてるような手術はね」

「?」

 泉子は蘭の戦闘服を脱がし始めた。千江が助手を務めることになった。

 乾いた血で黒ずんだ下着があらわになる。傷口は膏薬の深緑色に染まっていた。

 カツシはそれを医師のデスクに座ってぼうっと眺めていた。

 女たちは少年に白い視線を送った。

「血まみれのおっぱい見てもしょうがないでしょ?」

 泉子の一言に、カツシは顔が熱くなり、あわてて医務室を出た。



 二時間後、泉子のお許しが出たので、カツシは医務室に入り直した。

 蘭は診察台で寝息を立てている。毛布が首の下までかかっていて傷口は見えない。

 千江はカツシを見るや、興奮した様子で言った。

「すごいの。彼女、すごいのよ!」

「な、なにが?」

「だから……ああもう、言葉じゃ上手く説明できないわ!」

 千江は地団駄をふんだ。

 一方、泉子はイスに腰掛け、疲れきった顔を横に向けて、事務机に突っ伏していた。

「こんなことやるもんかって、思ってた」

 手術は成功したというのに、泉子はあまりうれしそうではない。

 カツシは思い出した。彼女はできることが必ずしもやりたいことではないという、ジレンマを抱えていたのだった。

 千江は言った。

「ヒーラーを生業にするかどうかは、あなたが決めることよ。たとえ途中で学ぶのをやめたとしても、それまでに得たものを仲間のために活かすだけだって、別にいいんじゃない?」

 泉子はばっと身を起こした。

「そっか……そうだよね! あたし、ヒーリングをつづけたら、人生を一つの才能だけに引っ張られちゃう気がしてた。これはこれで、必要なときにやればいいんだ」

 結局、泉子が蘭の体に何をしたのか、聞きそびれてしまった。彼女はメスも鉗子もピンセットも手にしていない。それだけは確かだった。

 その後、これからどうするかという話題になった。

 泉子は蘭をここで数日安静にすべきだと主張した。カツシもそれに賛成したが、千江はいますぐ出発するといって一蹴した。ステーションの壁をカモフラージュした立体映像を、常管が見破るのは時間の問題だった。何しろ敵には、千江をよく知る元同僚、岡崎ユタカがついているのだ。こちらの主力武装は手榴弾が三つと、拳銃が各自一丁、弾薬も限りがある。遭遇しないに越したことはない。

 蘭の意見は聞けなかった。手術の後、再び意識を失ってしまった。

 一行は千江の背嚢とカツシの黒いリュック(元ミナトの品)に、詰め所の物資を積めるだけ積むと、そこを後にした。



 12



 トンネルに潜入してから六日。

 蘭の容態は安定していたが、生きているだけで精一杯のようだった。ときおり意識を取り戻しても、ぼうっとしていて言葉はなく、泉子が半ば強引に食事させようというときだけ、面倒くさそうに口が動くのだった。

 カツシは慣れのためか筋力がついたのか、蘭を背負っていてもあまり疲れなくなった。泉子が代わろうかと言ってきても、すぐには譲らなかった。

「なによ。もう蘭の方がよくなっちゃったわけ?」

「そんなんじゃないって」

「じゃあ貸して」

「物みたいに言うなよ。あ、もしかして、そっちの()もあるとか?」

「あたしのエロ本見たくせに」

 ライトの光を向けると、泉子の顔は真っ赤だった。そういえば、泉子はBL本のコレクターだった。

「ヒーリングの力じゃ、言葉遣いは治らないみたいだな」

 泉子がすごい顔をしたので、カツシは仕方なく眠れる蘭を譲った。

 おしゃべり見習いヒーラーはそれきり大人しくなった。

 先行する千江は、肩を揺らして笑いをこらえていた。

 カツシはため息をつく。なんなんだよ、いったい。

『275』と書かれた白い柱(キロポスト)を過ぎた。

 それから少し行くと、くすんだ金色の柱があった。細かく字を掘ってあるようだが、暗くて読めない。

 千江は言った。

「中間点ね。SAITOとKYUTOの境界ってわけ」

 ここから先は、生活の保証がなかった。空気はSAITO側から流れてくるようだが、水道は止まっている可能性が高い。止まっていたら、直近の詰め所まで引き返して容器に水を詰めこむしかない。

 カツシは偵察要員を買ってでた。徒労は一人で充分だ。

 千江は自分の拳銃をカツシに手渡した。

「気をつけなさい。無人とは限らないわ」

「いいのか? これ」

 黄金色の弾倉を確かめる。例の強化ガラスを撃ち抜いた、特製の弾丸が十発残っていた。

 カツシは代わりに自分の銃を千江に渡す。

「ユーレーがいるかもね」

 泉子は笑った。

「それが神秘家のはしくれの言葉かっ!」

 カツシは拳銃を腰にさすと、暗闇へ向かってのしのし歩いていった。



 強気を見せたのは、中間点キャンプの明かりが見えなくなるまでだった。カツシは目に見えない脅威が苦手だった。

「余計なこと言いやがって」

 ピトッ!

 額に何か落ちてきた。

「わあぁぁぁっ!」

 拳銃をかまえる。

 ただの水滴だった。上を見ても水道管はなかった。空気中の水分が溜まったのだろう。

「どうしたの? なんかあった?」

 エコーのかかった泉子の声が迫ってきた。

 カツシは思わず怒鳴った。

「な、なんでもねーよ!」

 きょろきょろ辺りを見回す。泉子の姿はない。

「無駄に弾撃たないでね」

 また泉子の声だけ。くそ、幽体離脱もできるなんて聞いてないぞ。

 カツシは試しにベエッと舌を出した。反応はなかった。

 それからしばらく歩いて、伝声管と同じ原理だったと気づき、恥ずかしくなった。

『300』のキロポストを通り過ぎた。もうかれこれ二十五キロ、五時間も歩いたのか。荷物がない分疲れていなかったが、引き返すことを考えると、うんざりした。 

 左手の指輪が光った。千江にもらった無線機だ。

『どう? あった?』

 音質の悪い千江の声が響いた。

「今、三〇〇キロ地点だけど、なにもないね」

『何か気づいたことは?』

 それはないわけではなかった。ここ数キロ、なんとなくだが違和感があった。

「下ってるような気がする」

『勾配があるってこと?』

「そう。あと、さっきから耳鳴りがするんだ。ゴロゴロって低い感じの。体調は別に悪くないんだけど」

『あと五キロ何もなかったら、戻ってきなさい』

「了解」

 通信を切ろうとしたその時だった。

 カツシは影のようなものが迫ってくる気配を察した。

 泉子の言葉がよみがえる。ま、まさか……。

「く、くるなっ!」

 カツシは拳銃のトリガーを引いた。

 爆音とともに、影の感じは消えてしまった。

『な、なに? 誰かいたの?』

「い、いや幻覚かも……」

『もう! 今はそれ、ダイヤより貴重なんだからね!』

「ごめん。よく確かめてからに……え? なんだ?」

 一瞬、光の筋のようなものが目に入った。

『撃っちゃだめよ。どうせ幻覚なんだから』

「いや、そうじゃなくて……なんだろ?」

 光の筋は目の高さよりやや低い、トンネルの壁からのびていた。さっきでたらめに撃った場所かもしれない。

 光の点が向かいの壁に当たっている。その様子をたしかめた後、光る穴を正面からのぞいた。

「ぶわっ!?」

 目に冷たい水がかかった。

 しみる。痛い。なんだこれ?

 光の筋はそれっきり、なくなってしまった。穴を見ても真っ暗だった。耳鳴りだけは相変わらずゴロゴロいっていた。

『なんなのよ、もう』

「わからない。あとで話すよ。通信終わり」

 一キロ先に、詰め所があった。SAITO側と違った様子はなく、中はきれいなままで、ひと気もガイコツもなかった。不思議なことに、水道は上下とも生きていた。保存食も物置に残っていた。

 カツシはさっそく千江に報告した。本隊が来るのをここで待つよう指示があったが、断固拒否して、途中で落ち合うことにした。千江は笑っていた。



「本当だってば!」

 カツシは例の壁の穴の前で力説した。

 光の筋があって、のぞいたら目にしみる水がかかった、と言っても、誰も信じてはくれなかった。証拠の水はもう乾いてしまっている。

「しょうがないなぁ。後でアタマだけ施術してあげる」

 泉子は楽しそうな顔を残して先に行ってしまった。

 千江は眠る蘭をカツシにあずけると、肩をまわしながら言った。

「でも、このゴロゴロは気になるわね」

「壁の向こうで水が流れてるんだよ、きっと」

「仮に水をかぶったのが本当だとして、なんで水道管でもないところからやってくるのよ」

「それは……」

 それは知識の外側にあることだった。

「ま、なんにしても、安全を確保してから調査することよ」

 そこに異論はなかった。カツシは蘭を背負うと、千江の後につづいた。

 しばらく二人は黙って歩いた。

 ふと、カツシは感じていた疑問を切り出した。

「あのさ、トンネルの外側って、どうなってると思う?」

「無よ。空白」

「無って、暗いの? 明るいの?」

「光もないんだから、暗いんじゃないの?」

「このトンネルって誰がつくったのさ」

「記録が残ってないわ。有史以前からあったものだもの」

 この世で一番古い記録は、常識管理委員会が発足したというものだった。

「じゃあ、KY区域ってどうなの?」

「ああ、あれ? 今だから言えるけど、実は何もないの。ただの空き地よ。それとも無と有の緩衝地帯と言うべきかしら」

「ええっ!?」

 夢を奪われたような気がして、カツシはがっかりした。

「空き地があって、あとはここと同じ。壁があるだけよ」

 壁の向こうは余白、か。余白って何でできてるんだろう?

「ッツ!」

 カツシは目をぎゅっとつぶった。両手がふさがっていて、痛む頭に触れられない。

「あわてないの。私だってずっと頭を痛めてきたことなんだから」

 何日か前、千江は再生人の第一号であることを告白した。記憶を消され、洗脳されたはずなのに、それでも常識の外側に何かあると感じている。泉子はそれを直感を呼ぶが、その泉子でさえ、いや優秀なヒーラーである彼女の母でさえ、世界の外側のことは何も知らなかった。

「もしかしたら、再生人だけじゃなくて、俺たち人間はみんな……」

「その答えが出たときが、私たちの旅が終わるときよ」

 カツシと千江は見つめ合った。

「絶対、逃げ切る」



「やっぱり、ここかな……」

 プラットホームの行き止まりから遠く離れた、だだっ広い空き地の隅。岡崎ユタカは色の違う壁を見つめていた。

 SAITOステーションの営業時間はすでに終わっていたが、常管の名の下に明かりは少し残させた。

 構内にいるのは男と女の二人きり。

「ただの壁じゃないですか」

 白いスーツ姿の少女は言った。

「そう思うかい?」

 岡崎は歩いていって、壁に手をめりこませた。

「こ、これはKY区域の……」

「そう。墨田千江は常管に無断で立体映像機を使った。第二級常識破りだ」

 実際には岡崎自身との共犯だった。しかし、こうなってしまった以上、千江一人に罪を背負わせることにした。捜査のためには多少の違反でも目をつぶる間柄。長崎蘭やKYUTOの謎を解きたいのは、千江だけではなかった。

 SAITO内は捜査員総出で調べ尽くした。KANTO行きシャトルの乗員もすべてチェックしている。となると、考えられるのはここしかなかった。

「二級も一級もないでしょ? 再生所の心臓部を壊した長崎蘭を連れて逃げたんですから」

「違うな」

「えっ?」

 岡崎は戻ってきて少女の肩を抱き寄せた。

「僕のミナトを殺そうとした、哀れなアラサー女さ」

 男と女は見つめ合い、口づけを交わす。

 ミナトは赤くなってうつむいた。

「し、仕事中ですよ」

「蘭一味の件が片づいたら、僕の部屋でつづきをしよう」

「……はい」

 二人は拳銃を構えると、立体映像の壁の向こう側へ入っていった。



 岡崎は携帯端末でシャトル管理局に呼びかけた。

 すると、左右の壁の照明が次々と点っていき、トンネル内に光のラインができあがった。故障がなければSAITO圏内、つまり中間点までは闇に悩まされることはない。

 男は口笛をふくと、局員に礼を言って通話を切った。

「まだ生きていたとはね。いい仕事してるじゃない」

 再生プログラムによって、労せずして常管の機密を頭に叩きこまれたミナトは、閉鎖された路線の遺構を見ても驚くことはなかった。

 ミナトはかがみこむと、平らなレールを覆う埃についた、微かな足跡を指でなぞった。

 それを見ていた岡崎は言った。

「徒歩で逃げるとはね。いい根性してるよ、あの人」

「水も空気も通ってないKYUTOなんて、わざわざ死にに行くようなものじゃないですか」

「少なくとも蘭ちゃ……長崎蘭はKYUTOからやってきた。あそこにはまだ何かあると考えるべきだよ」

「追いかけるつもりですか?」

「お偉方から特命を受けちゃったんだ。やるしかないでしょ?」

 岡崎は肩をすくめた。しかし緩んだ表情ほど、状況はたやすくはなかった。

 千江は常管の機密を知っている。凡庸な参謀とはいえ、天才戦士の蘭と組まれると厄介だ。

「ま、まさか私たちも歩くんですか?」

「それもいいね。うす暗くてムードあるし、一緒に、どう?」

「も、もう……」

 ミナトはまんざらでもない顔で下を向く。

「冗談だよ。埋めた部分を壊して、保線用のシャトルを投入する。自走式だからスピードは出ないけど、二日三日で追いつけるでしょ。銃撃戦のとき盾にもなるしね」

 岡崎は携帯端末を取り出すと、常管の上層部にかけあった。

 ほどなく、ゴーサインが出た。援護に十名の猛者を送ると言ってきたが、岡崎はきっぱりと断り、代わりにありったけの武器弾薬を持ってくるよう要請した。常管SAITO支部に真の猛者は三人しかいない。自分と角刈りの伊勢と、墨田千江……いや、今は板橋ミナトだ。

 頼みの相棒は敵にまわってしまった。即戦力が必要だった。蘭の爆破事件の件でテレビ局を潰したカタブツの伊勢とは、昔からウマが合わない。

 岡崎はミナトを短期間で戦いのプロに育てることにした。手を加えた再生プログラムのおかげで、ミナトは従順で素質もあった。あとは、才能を引き出してやればよかった。

「あっちのほうも、これから、たっぷりとね」

「なにがですか?」

 ミナトは首をかしげる。

「なんでもないよ」

 説明などしていたら、ムードは台無しだ。

 岡崎は生まれつきの口の緩さを笑顔で呪った。



 13



 トンネルに潜入してから九日。

 カツシたちは『450』のキロポストを確認した。このまま何もなければ、終点まであと二日という距離だ。

 泉子の熱心な施術のおかげで、蘭は日に日に回復していった。もう助けを借りなくても一人で歩ける。意識もはっきりして、口もきけるようになった。

 ただ、気になることが一つあった。

 カツシと泉子と千江は、蘭を囲むようにして歩き、揃ってじろじろ観察している。

「え? なに?」

 蘭はきょろきょろ首をふった。二つ結びが可愛げに揺れる。 

「おかしい」

 三人は首をひねった。

 蘭も首をひねる。

「なにが、おかしいの?」

 泉子は瞳に星を浮かべるような勢いで、蘭の真似をした。

「『なにが、おかしいの?』だって。絶対おかしいよね」

「え、えーと、私、何かしたのかな?」

「ヘドがでるわ。いったい何を企んでるの、長崎蘭」

 千江はじろっと目を細めた。

「そんなこと、言われても」

 蘭は身をよじった。

 すぐ後ろにいたカツシは、試しに二つ結びの分け目へ空手チョップを入れた。

「いったぁい!」

 蘭は脳天を押さえてしゃがみこんでしまった。

 避けなかった。たった一人で常管を苦しめてきた、あの戦いのプロがだ。

 拳銃を見せると、目を剥いて後ずさった。決定的だった。

 三人は集まってぶつぶつ討議をはじめた。

 結論が出た。

 何かのきっかけで、蘭は『戦い』の部分だけすっぽり抜けてしまったのではないか。蘭と戦いはイコールで結んでも過言ではなく、部分というよりほぼ全部だった。ということはつまり……。

 無垢な女の子になってしまった!

 ミナトに撃たれたことが発端なのだろう。だが、たしかな証拠はない。

 女としては、かえって良かったのかもしれない。というのは泉子の談。

 戦士としては、致命的な忘却。白旗上げようかしら。というのは千江の談。

 カツシは何も言わなかった。複雑な気分だった。これが元々の蘭だったとしたら、どうだろう? 戦いの術を何者かに刷り込まれていたとしたら?

 千江はため息をつくと、カツシを呼び寄せた。

「わかってるわね?」

 これから連日、本格的な戦闘についてスパルタ講義を受けることになりそうだ。

 人殺しの知識なんて……しかし、他に選択肢はなかった。泉子は後方支援が精一杯であり、蘭は普通以下の女の子、千江一人に荒事を頼むわけにもいかない。

 二人の話が終わると、蘭がたたたと寄ってきて、カツシに言った。

「あ、あの、なんだかわからないけど、ごめんなさい」

 なんだかわからないけど、胸が熱くなった。

 君のおかげで、俺は今、俺として生きている。そう伝えたい。でも、きっと覚えていないだろう。

「君のせいじゃないさ」

 カツシは蘭の頭に手をやった。

 すると、泉子がたたたとやってきて、カツシに言った。

「まさか、乗り換えるつもりじゃないでしょうね?」

「なんだよ、いきなり」

「今は会えなくて寂しいかもしれないけど……」

「なに? 妬いてんの?」

「なっ! バッカじゃないの?」

 泉子はきびすを返して先へ行ってしまった。



 14



 トンネルに潜入してから十一日目の朝。

 光を浴びることのない生活は、時計だけが頼りだった。携帯端末のバッテリーはとっくに切れている。あてになるのはもはや千江の腕時計しかなかった。再生前のただ一つの形見は、今どき珍しい自動巻きの機械式時計だった。一日平均五十キロ移動をつづけたおかげで、竜頭をまわす手間もなかった。

 その日は、四十五パーミル(一〇〇〇分の四十五)の下り勾配が一日じゅうつづいた。高さにして二二五〇メートル、つまりSAITOの十層分以上下ったことになる。

 緩い下り坂が楽なのはいいとして、カツシには気になることがあった。

「上ったり下ったりしてきたけど、トータルすると計算上は、もうすぐ第一層、いや再生所よりさらに低い所を行くことになるね」

「これ以上何か訊いても無駄よ。私が担当だったのはSAITO」

 千江は顔色を変えずに言った。

 元常管の捜査官といえども、封印された世界について詳しく知ることは許されていなかった。KYUTOなどはじめからなかったかのごとく振る舞うのが常識だった。

 泉子は不愉快そうな顔で言った。

「なんだかこう、上から押さえつけられるような感じがしない?」 

「頭とか耳とか、変な感じぃ」

 蘭は言った。その態度の方がよほど変な感じなのだが、疲労のせいか誰も口をはさむ者はなかった。

 やがて下り坂は平坦になり、すぐに上り坂へと変わった。特別な場所にありがちな標柱や碑のようなものは見当たらなかった。

 二キロほど行くと勾配は緩やかになった。ほとんど平らといっていい。

 SAITO発KYUTO行きシャトルの確認用だったのだろう、残り一〇〇〇メートルの標識。

 誰もが安堵と緊張が入り交じった、複雑な顔をした。暗闇はもうすぐ終わる。だが、その先は時間が止まったままの未知の世界。それでも、もうすぐ何らかの動きがあるとわかった分、皆の意識を前向きにさせた。同じ景色の連続はもう飽き飽きだった。

 はやる気持ち。知らず知らず早足になっていった。

 ところがある地点で、一行の足がぴたりと止まった。

「何か近づいてくる」

 カツシが言うと、一行は来た道を振り返った。



「熱源を確認。一味のものと思われます」

 ミナトは運転室後ろの小部屋でモニターの群れを見つめていた。

「ふぅ、どうなることかと思ったけど、ギリでセーフか」

 岡崎はどかっと作業イスに腰掛けた。

 保線用シャトルはその実力を半分も発揮できなかった。KYUTOが閉鎖されたずっと後で、平坦な路線用に開発された車両だ。勾配が計算に入っていなかった。安全装置が働いてしまい、場所によっては速度が全然出なかった。

 岡崎は少女の細い背中をぼんやりと見つめながら言った。

「帰ったら、もう一つの訓練のつづきをしないとね」

「はい」

 ミナトは拳銃のグリップを握った。

「あ、そっちじゃなくてね……」

「ご、ごめんなさい……」

 ミナトは銃をホルダーにおさめ、早足で開閉扉に向かった。

 岡崎は立ち上がって、少女を背中から抱きしめた。

「完璧だ」

「えっ?」

「再……いや、きれいだってことさ」

「それ以上言われると、集中できなくなってしまいます」

「すまない」岡崎はミナトの頬に口づけした。「作戦開始だ」

 保線用シャトルはのろすぎる代物。それでも人の足よりはずっとマシだった。

 みるみるうちに人影が迫ってきた。トンネルは両脇に隙間がある。速度を上げても逃げられるだけだ。

 墨田千江を擁する敵もわかっているはずなのだが……なぜか少年が一人、立ちはだかっていた。

 ミナトは眉間にしわを寄せた。

「なんだろう……どこかで会ったような」

「誰にも会っていない! 君は生まれ変わったんだ」

 岡崎は声を荒げた。

「は、はい」

 ミナトは驚いた顔で男を見上げた。

 岡崎は運転室に通じるマイクに言った。

「ひき殺せ。責任は僕がとる」

 その時だった。

 爆音と共に、シャトルは大きく傾いた。

 岡崎は倒れかかったミナトを抱いてかばったが、自身もシャトルと共に横倒しになった。

 小型シャトルは脱線して、壁をすりながら止まった。

 運転室は半壊していた。運転手は運よく生きていたが、半狂乱になって逃げていった。

 二人に大きな怪我はなかった。

 岡崎はミナトの無事をたしかめると、横転で上になった開閉扉を足で蹴り開けた。

「伝説の兵器、手榴弾……か。さすがは蘭ちゃん。死んでも簡単には勝たせてくれそうにないな」

「私が()ります」

 ミナトは開いた所から飛び出そうとして、腕をつかまれた。

「僕がやる」

「敵は見るからに素人。三秒もあれば方がつきます」

 ミナトは男の手を振り切って、シャトルの外に躍りでた。

 くすぶる煙越しに、少年は拳銃をかまえて待っている。

「障害物もなしに棒立ちとは、基本がまるでなってない」

 ミナトは上を向いたシャトルの側面に体を伏せ、狙撃体勢に入った。

「まずは一人」

 トリガーにかけた指は、動かなかった。

「な、どうして……」

 何度息んでも指先は曲がらなかった。

 ミナトは銃を左手に持ち替えた。同じだった。

「ミナト、俺だ。豊島カツシ。わかるか?」

「カツ……シ?」

 ミナトはゆらりと立ち上がった。

「ネットで一緒に話したり、KY区域まで探検したろ?」

「……わからない」

「二人で泉子ん()に泊まった」

 ミナトは首を横にふる。

「……ダメ。私、やっぱり、こうするしか……」

 そう言うと、自分のこめかみに銃口を向けた。

「や、やめろおおおぉ!」

 銃声。

 ミナトは膝を折ってその場に崩れた。



 宙を舞った銃が、少女のすぐ後ろに現れた男の手におさまった。

 ミナトの美しい顔はそのままだった。気を失っているだけだ。

 代わりに岡崎ユタカは鬼の形相。

「僕のミナトを、これ以上、惑わすな」

「洗脳なんか、しやがって」

 カツシは二つめの手榴弾のピンに手をかけた。

「どうせロクでもない記憶さ」

「そんなことない!」

「君はミナトを抱いたのか?」

「なっ……」

 カツシは男から目をそらした。嘘はどうしても言えなかった。

「僕はもう抱いたよ。今じゃミナトの方から……」

「ウソをつくな!」

「本当さ。蘭を撃ったのも、僕に従ったのも、すべてはプログラム通り。おまけに苦悩まで取り除いてあげたんだよ。記憶をリサーチしてね」

「それは妙だな。ミナトはさっき、自害しようとした。良くなってたのに、あれじゃ元通りだ!」

「君のせいさ。君が鬱の元凶だと、これではっきりした。君と出会ってなければ、ミナトは自力で解決していたんだ。ミナトは君に依存して弱くなっていった。君がミナトを闇へ追いこんだ!」

「そ、そんな……」

 カツシは罪の意識に取り囲まれた。

「相変わらずの大した口車ね。洗脳なんかしなくたって、板橋ミナトを口説けたんじゃない?」

 待避用の壁の凹みに隠れていた千江が、ひょいと姿を見せた。

「おっと! それ以上動くと少年の額に穴があくよ」

 岡崎はさっと銃をかまえる。

 この言葉に限ってはウソはない。射撃のセンスは無敵少女と互角、というのが千江の評価だった。

「好きにすれば?」

 千江は笑って手榴弾を手玉して見せた。

「君にそんなこと、できるかな?」

 岡崎は笑うと、気を失ったミナトを抱き起こして盾にした。

「試してみる?」

 千江はピンに手をかける。と見せかけて、左手でさっと拳銃をかまえた。

 岡崎は狙いを千江に変えたが外した。

 千江は銃を連射する。

 不利とみたか、男はミナトを抱えて走り去っていった。

 気配がなくなると、千江はその場にへたりこんだ。

「は、はじめて勝った……」

 千江は右利きだ。岡崎の方に余裕がなかったようだ。

 先の方へ逃げていた泉子と蘭が戻ってきた。

「あの人、ミナトちゃんのこと、本気みたいだね」

 泉子はぼそっと言った。

「やめてくれ」

 カツシは振り向きもせず、起き上がろうとする千江に手を貸した。

 あの男はミナトを盾にした。二人はそれを見ていない。

「ごめん」

 泉子は涙が出るまで自分のほっぺをつねった。

「ただの意気地なしよ」

 千江は服の埃を払うと、カツシに微笑んだ。

「あんたのほうが、よっぽどいい男」

「奴らはいつかまた襲ってくる。シャトルの積み荷をいただいて、先を急ごう」

「えっ? ええ。そうね」

 千江は惚けた顔で少年を見送ると、赤ら顔の泉子と顔を見合わせた。

 カツシはぼうっと突っ立っている蘭の背中を押して、手伝うよう促した。

『僕はもう抱いたよ』

 岡崎の姿をした幻が笑った。

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