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ア・グラウンドレス・センス  作者: ヒノミサキ
2/6

第二章 SAITO

 6



『それで?』

 大きな画面の向こう側、スーツ姿の禿げた男は言った。

長崎蘭(ながさきらん)は……取り逃がしました」

 墨田千江はうなだれた。

『仲間は?』

「彼女は単独犯です。仲間は存在しないと、以前に報告したはずですが」

『バカな。たかだか十七のガキ……いや娘一人に、大それたテロ活動など、甚だ非常識だっ!』

「じゃあ報告書には、忠実な奴隷でも飼っているのでは、と一言加えておきましょうか?」

『君!』

「失礼しました」

『再生者第一号という立場、忘れたわけではあるまいな。君はこれから世界を支えていく、再生者の手本なのだからな』

「もちろんです。一度は死んだ身、ご恩は忘れていません」

『KANTOへは別の者をやらせよう。君は引きつづき、娘とテロ組織を追ってくれたまえ』

「了解」

 上司と大きな画面は虚空に消えた。

 誰もいない会議室。

 千江は円卓の席につき、机に突っ伏した。

「ハァ……」

 ドアが開いた気配があった。

「こってり絞られたようだね」

 顔を上げると、ジャケットを着た背の高い男が笑っていた。

 常識管理委員会SAITO支部、岡崎(おかざき)ユタカ。千江の異動前の同僚だ。

「うざい奴は間に合ってる」

 千江は再び顔を伏せた。

「その口さえなければ、とっくに『ナミヘー』の後がまに座っていたろうに」

「プッ……あんたも言うようになったわね」

 ナミヘーは古い言葉で、わずかに毛を残した禿げオヤジをさす。無論、公に口に出せば違反だ。

 千江は席を立つと、窓の外を見た。

 右手にSAITO第十三層の中央広場と、エレベーター塔が見える。景色はKANTOと何も変わらない。常管のオフィスは広場を囲む官庁街の最も内側という、展望のいい場所にあった。それを不公平だと批判する者が出る度、千江は『再生所』送りにしてきた。

「でも、やっぱ不公平よね」

「なにが?」

 岡崎は訊いた。

「いいの。仕事だからしょうがないわ」

 常管の仕事はやりがいがあった。才能があり、業績も良かった。しかし、この仕事のどこが好きなのかと問われると、いくら考えても答えは出てこなかった。

「蘭ちゃんてさ、かわいいよね」

 岡崎は言った。

 千江は男をキッと睨んだ。

「ロリコンは第一級常識破りよ。『あっち』に送られたいワケ?」

「かわいい、って言っただけじゃないか」

「さんざん痛い目に遭っといて、よくもそんなことが言えるわね」

「それはそれ、これはこれ」

 岡崎は荒事では千江をもしのぐ、優秀な委員なのだが、女に甘いところがあった。長崎蘭と対等に渡り合えるのは彼しかいないと、千江は踏んでいたが、とんだ欠点が邪魔をしていた。

「蘭を捕まえたって、あんたのものにはならないのよ?」

「さぁ、それはどうかな?」

「顔は一緒でもね、別の人に生まれ変わるのよ……誰かみたいに」

 千江と岡崎は見つめ合った。

 長い沈黙。

「あ……えっと、トイレ掃除の任務を忘れていたな」

 岡崎は頭をかくと、さっと部屋を出ていった。



 カツシとミナトは、どこへ逃げていいのかわからず、層を二つ三つさまよった末に、最後は第十八層でエレベーターを降りた。層の中心、エレベーター塔の周りは、KANTOと同じで公園になっていた。呼び方も『中央広場』で統一されている。

 常管には顔が割れている。どこかに身を隠す必要があった。だが、ここにきてミナトの体調が芳しくない。

 いっそう青白くなったミナトを木陰のベンチに座らせると、カツシは言った。

「大丈夫?」

「リュ……リュックの中の黒い袋……」

 カツシは言われるまま、ミナトの背中の袋をまさぐった。手に余る大きさの謎の黒い袋。中身は色とりどりのカプセルだった。

 ミナトは袋を引っつかむと、残さず左手に盛った。

 どう見ても百個はある。薬を菓子のように頬張るのを、TV通話で見たことがあったが、これほどとは……。

「水は?」

 自販機で買った二級水のボトルを手にしていたが、カツシはすぐには渡さなかった。

「そんなに……要るの?」

「飲まないと……怖くていられないから」

「……」

 カツシはおそるおそるボトルを差し出した。黒い袋は三つある。もっても三日だろう。その後どうなるのかと思うと、ひどく不安になった。

 そのとき、薄暗い木陰の一部がさらに暗くなり、ボトルはそこへ吸い込まれていった。

「やめなよ。薬じゃ『怖い』のは治らないよ。かえって悪くするだけ」

 ブレザー姿の少女が立っていた。右手には奪った水のボトル。

「だ、誰?」

 カツシはミナトを腕でかばった。

 短めの髪を金色に染めた少女は険しい顔で言った。

「誰でもいい。いま大事なのは、薬なんていらないって話」

 ミナトはボトルを奪い返そうとしたが、ブレザー少女はひょいとかわした。

「な、なんなのよ。医者でもないくせに」

「ん、まぁ、似たようなものかな。あ? いやいや、あんなのと一緒にしないで」

「どっちだよ」

 カツシは横に目線を落とした。

 少女の左手には、透きとおった腕輪が光っている。

「怖いっていうのは、人の自然な反応なの。それを薬でごまかしたら、自然の法則から離れてしまうよ」

 ミナトは言った。

「この『怖い』がなんなのか、何も知らないくせに。頭でっかちな奴が言いそうなことね」

「そうなの。ママの受け売り」少女はしょんぼりした。かと思うとすぐに顔を上げた。「でもね、それは真実だから」

「どんなに賢いのか知らないけど、名前くらい言ったら!」

 少女はニカッと歯を見せた。

「ね、今どう?」

「どうって、何がよ」

「怖い?」

「……あれ?」

 ミナトの顔は白いどころか、少し赤みがあるくらいだった。

 この、ちょっと偉そうでもったいぶった感じ。カツシはどこかで体験したような気がしていた。

「あの、もしかしてどこかで会ってない?」

「あたしと? 今どきメガネなんていうバカな知り合いは、いないけど?」

 カツシはむっとしたが、どうにかこらえた。

「そっか。仮想世界でさ、前世の記憶について俺にしつこく説いた、自称ヒーラー見習いって人に感じが似てたんだけどな」

「ウッ……」少女はひるんだ。「ど、どうしてそれを……」

「えっ? ってことは、マチルダ・ペッパーちゃん?」

「ま、まさか……ラインホルト・ローゼンベルグ君?」

 カツシとブレザー少女は、ハンドルネームで呼び合った。

「キモ……」

 ミナトは身震いした。

 『マチルダちゃん』こと岸和田泉子(きしわだいずみこ)は、公には認められていないが、偉大なヒーラーの血を引く能力者だった。母親は裏ネット界では名の通った人物だ。ただ、娘はというと、天賦の才能と魂の欲求が必ずしも合致していない、微妙な育ち方をしていた。本来なら十五歳で一人前のはずだが、ヒーラー業など本当の自分じゃないと、泉子は進路を先延ばしにしていた。

 ともかく、頼るべき人を見つけた。カツシは泉子に事の経緯を伝えた。

 話を聞いているうち、泉子の瞳は輝きを増し、鼻息は荒くなっていった。

「すごい……KY区域へ行って帰ってきたなんて、英雄だよ」

 カツシはうなだれた。

「話、聞いてた?」

「運が良かっただけ、って思ってる?」

 泉子は身をよじって笑みを浮かべた。

「そりゃあ、あんな展開の後に、同い年くらいの女の子に助けられるなんて……」

「ライ……じゃなくて、カツシがその子を呼び寄せたんだよ。でなければ、そこのメンヘラっぽい……」

「ミナト!」

 色白の少女はすっかりご立腹だった。その代わり血色はますます良くなっていた。

「そうそう、ミナトちゃんね。絶対、生きて帰ってやるって、思ってたでしょ?」

「それは……ないよ」

 ミナトはしぼんだ。

 カツシはぼそっと言った。

「後ろ向きだったもんな。いつも通り」

「ひとこと多い!」

 ミナトはカツシの肩を突いた。

 泉子は笑った。

「きっとまだ、自分とちゃんと向き合ってないんだよ。あたしが思うに、ミナトちゃんは心の底では……」

 ミナトは大きな声で遮った。

「あ、あなたはどうなのよ」

「あたし? あたしもダメね。美少女活動家でもなければ、ヒーラーでもない」

「ひとこと多くない?」

「いちいち細かいと、胃を悪くして痩せちゃうよ?」

「大きなお世話!」

 ミナトはそっぽを向いた。

 やれやれ……カツシはため息をついた。二人の相性はよほど悪いに違いない。それでも泉子は、ミナトの回復には欠かせない人物と思われた。

「胃をやられないように、しないとな」

 カツシは自分の腹をさすった。

 泉子は胸を張って言った。

「ま、こんなんでも縁は縁だし、しょうがないから、かくまってあげる」

「冗談じゃな……もぐっ!?」

 カツシはミナトの口を片手でおさえると、苦笑いを送った。

「お世話になります、なります」



 泉子の自宅は居住区の、上下からみても左右からみてもちょうど中ほどの、三十一階にあった。構造はカツシの家と同じ3LDKだ。母親は今、医者に見捨てられた重病人を癒すため、別の層へ出かけていた。隠れヒーラーのため診察室などはなく、仕事は往診のみだった。

 居間やキッチンを見た限りでは、特別な感じはしなかった。それは泉子の部屋も同じだ。

 白装束に着替えた泉子は、ミナトをベッドに寝かせ、なんとも言えぬ手つきでヒーリングの儀式を行っていた。

 変わっているのは泉子の格好くらいのものだが、やはり女の子の部屋というのは、彩りというか匂いというか……ある意味特別だった。

 泉子は儀式を終えると、キッと振り返った。

「こら! ふんふんしながら、女の子の部屋を見ないの」

 ミナトの症状が落ち着いたところで、三人は今後のことについて話し合った。

 さっきまでケンカしていた女二人が、ベッドの上で真剣に顔を突き合わせている。女はよくわからない生き物だと、客なのに床に座らされたカツシは思った。

「ずっとお世話になってるわけにもいかないし……やっぱりKY区域の謎を解くしかないようね」

 ミナトは言った。

「そんなに死に急がなくてもいいじゃない。何年でもいたらいいよ」

 泉子は言った。

「だって私は……」

「諸行無常」

「は?」

「どんなことでも、同じ状態のまんまはないってことよ。今はどうしていいかわからなくても、来月にはひらめくかもしれない」

「どうせまた、偉大なママの受け売りでしょ?」

「バレたか」

 泉子は頭をかいた。

 父親については、泉子は多くは語ろうとしなかった。会った記憶もないのだという。

 白ずくめの少女はつづけた。

「KY区域はひとまず置いとこうよ。あそこって常管の管轄だし、多勢に無勢だよ」

「それなら、どこにいたって同じことでしょ?」

 ミナトは言った。

 カツシとミナトは罪を償わない限り、どこまでいっても第一級の常識破りなのだ。逃げるにしても、探検するにしても、常管の目の届かない場所を探す必要があった。

 カツシは言った。

「世界はKANTOとSAITOの二つしかないのに、KY区域を越える手がダメなら、どこに行けっていうんだよ」

「これは噂で聞いたんだけど……」泉子は声をひそめた。「例のSAITOを騒がせてるテロ少女って、忘れられた世界『KYUTO(キュートー)』からやってきたらしいのよ。その子なら何か知ってるんじゃないかな」

 カツシは驚きを隠せなかった。

「KYUTOなんて、もうずっと前に閉鎖された廃墟だろ? 空気も水も止まって、とっくに人が住めなくなってるっていうし……」

「公の記録ではそうかもね。でもあそこって、ここと同じ規模の世界だったんだよ? きっと何か生き残るための秘密があったのよ」

「秘密って?」

「それは」泉子は口ごもった。「たとえばテロ少女が、その、実は、ロボットだったとか……」

 ミナトはこらえるように笑った。

「まるで男子の発想ね」

 カツシはミナトに一瞥をくれてから言った。

「仮にそうだとして、どうやってSAITOへ侵入したんだよ」 

 KYUTO閉鎖とともに、シャトル路線も廃止となった。二つの世界を結ぶものはもはや存在しないというのが常識だ。

「常識に縛られてるぞ、少年」

「ほほう。じゃ、非常識情報を持ってるんだな?」

「ごめん」泉子は手を合わせた。「ない」

 ともかく、カツシたちを救った少女と、コンタクトを取ってみるしかないようだ。

 その後、泉子の母親から電話があった。施術が長引くから家事よろしく、とのこと。これには一週間以上帰らない、というもう一つのメッセージが含まれていた。

 カツシは一つ屋根の下、年頃の女二人と暮らすことになった。

 第一級常識破りの逃亡者、ということ忘れてしまうくらい、うかれた気分だった。なんだかんだいっても、カツシは男子だった。

 だが、幸せな時間は長くはつづかなかった。



 7



 カツシが脱衣所で初めて泉子にぶたれた翌日、事件は起こった。

 SAITO第一層で爆破事件があったと、昼のTVニュースが伝えていた。犯人は公表されていないが、カツシたちはピンときた。

 きっとアイツだ。

 岸和田宅は一気に慌ただしくなった。

 泉子は目立たぬよう地味めのワンピースに着替える。

 カツシは面が割れているため、伊達メガネを外し、泉子母の服を借りて女装した。Lサイズの者がMを着ても、それほど違和感はなかった。ひげを剃ってメイクしてウィッグをつけると、意外にイケた。

 泉子は鏡台のミラーを見ながら言った。

「へぇ、女装のコンテストとか出れるかも?」

 カツシはまんざらでもない顔で言った。

「ああいうのは、心も女に近づけないとな」

「じゃあ、シルクのパンツはいてみる? ママのだけど」

「はくか!」



 ミナトは体調がまだ万全ではなく、部屋に残って情報係を務めることになった。

 カツシは出かける前、墨田千江から奪った拳銃を、ベッドに腰かけたミナトに手渡した。

「常管が探しにきたら、それで応戦しろよ」

 ミナトは黒光りする自動拳銃(オートマチック)を見つめ、やがて顔を上げた。

「私を撃っちゃ、ダメ?」

「俺を困らせるな」

「はぁい」

「じゃあ行ってくる」

 カツシが背中を向けたときだった。

 銃声。

「!」

 カツシは一瞬、息ができなかった。

 おそるおそる振り返る。

「ご、ごめん。変なとこ押しちゃったみたい」

 ミナトはあわてて銃をベッドの下に隠した。常管の銃には、威嚇のため爆音だけ出る機能も備わっている。幸い、居住区は高度な防音構造のため、騒ぎにはならないはずだが……。

「ミナトさ、たぶん、俺より長生きするよ」

 カツシは詰め物でふくらんだ胸をおさえながら、よろよろと部屋を出ていった。



 女装カツシと泉子を乗せた、エレベーター『ベンテン二号機』は、第一層めざして各層停車で降下していた。慣れない衣装のためか、これに乗るまでカツシは、三度も転びそうになった。長いスカートとパンプスのせいだ。ヒールじゃないだけマシと言われても、知ったことではない。

 薄暗いステンレスの密室。乗客は定員一〇〇に対して十人前後で、いつも通りガラガラだ。若い男が一人、二度ほどこちらを見たが、他の者は携帯端末に夢中で見向きもしない。

「プッ……人って思ったほど他人に関心ないんだね」

 泉子は笑いをこらえるのに必死だ。

「世紀の大発見だよ」

 人目が気になる年頃のカツシはささやいた。

「シッ」

 泉子は人差し指を立てる。

 近くにいた二人の女が顔を上げた。

 やばいやばい……カツシは心でつぶやきながら、つば広帽子の先を下げた。見ないことは簡単だが、聞かないとなると、そうでもないようだ。

 第十三層でドアが開いたときだった。赤いスーツの女とジャケット姿の男が話しながら入ってきた。

 げっ! 墨田千江。

 カツシは身振り手振りでそれを泉子に伝える。二人はあわてて隅の方へ寄った。

 常管の二人は、今度の爆破事件のことで何やら話しこんでいたが、詳しいところまでは聞こえなかった。

 少しして、ふと会話が途切れた。

 千江は背の高い帽子女に近づいていった。

「ちょっと、あなた」

「……」

 カツシは顔を見られぬよう、うつむいた。

「その服、サイズが小さいんじゃない?」

「あぅ……」

 泉子が何か言おうと口を開けたときだった。

 ジャケット男が千江の腕をとって言った。

「その癖はマズいって」

「だって」

「すいませんね。ちょっとした職業病でして」

 男は笑顔のまま千江を引っ張っていった。

「ちょっ、岡崎っ」

 千江と岡崎は、本意ではないという顔つきで、次の層で降りていった。

 カツシはため息をつくと、壁に背をもたれた。

「あ……」

 泉子はまるで友人のキス現場でも目撃したかのように、目を剥き、口を手でおおっている。

「な、なに?」

 カツシはかすれた声でささやく。

「おっぱい、ずれてる」

 カツシは泉子を盾に、もぞもぞと装いを正した。

 現場につくまで生きていられるだろうか……冷や汗まみれのカツシは、今日だけは本物の女でいたいと思った。

 ベンテン二号機は定刻通り、表情もなく下へ降りていった。



 終着の第一層でエレベーターを降りたカツシと泉子は、中央広場を抜け、爆破事件の現場である官庁街へ向かった。人だかりをかき分けて進むと、フェンス型のバリケードが並び、放射道路の一つを塞いでいた。

 ビル長屋のなかでも、厚生委員会が入ったエリアの一階だった。玄関が半壊している。

 バリケードを背に、女性リポーターがカメラに向かって言った。

「犯人はこれまで常管の拠点や通信網、移動網を狙ってきたわけですが、今回はちょっと不可解ですね。厚生委員会ということは、医療福祉体制に不満でもあったのでしょうか」

 見物にきた人々は、背後に迫る何かに気づき、にわかに女から離れていった。カツシと泉子は人波の勢いに抗えず、前線から遠ざかってしまった。

 角刈りのごつい男が、リポーターに詰め寄っていく。

「誰が取材を許可した? 責任者を連れてこい」

「私が責任者ですが、何か?」

「ふざけた真似をすると罰が重くなるだけだぞ? プロデューサーを呼べと言っている」

「今回の事件は、あなた方常管とは関係ないでしょう?」

 男は舌打ちすると、左手のリングに話しかけた。

「第三級常識破りでリポーターを確保。テレビ局の強制捜査と野次馬の掃除を頼む」

「常管本部に通報しますよ? 確保されるべきなのは、あなたでしょう?」

「ご自由に」

 女は携帯端末を取り出し、声が枯れるまで叫び散らした。

 やがて女はうなだれ、角刈り男に連行されていった。

 泉子はカツシの袖を引っ張り、言った。

「なんかヤバい感じ。撤退しよ?」

 二人は急ぎ足で官庁街を後にした。



 第二十三層行き『ベンテン一号機』の乗客は、乗ってからしばらく二人だけだった。

 カツシはステンレスの壁を見つめながら言った。

「連中の言ってたこと、気になるな」

 泉子はうなずいた。

「常管は何か隠してるよね」

「そもそもそれが非常識だろうが」

 カツシは壁を蹴った。

「はいはい落ち着いて。うちに帰るまでは女の子なんだから」

「ハッ、待てよ? テロ少女はそれに気づいたから、何でもなさそうな所でも襲ったってことか?」

「はぅ! ますますその子に会いたくなってきちゃったよ」

 泉子は鼻息を荒くした。

 カツシはつば広帽子をとって、少女の顔に押しつけた。

「どうどう。うちに帰ったらニンジンアイス食べような」



 第十八層でエレベーターを降りると、辺りはオレンジ色の柔らかい光に包まれていた。天井の消灯時間が近い。

 カツシと泉子はどこにも寄らずに家路を急いだ。夕食は配給の穀類と冷蔵庫にある分で間に合わせればいい。収穫は大してなかったものの、泉子は久々の刺激に浮かれており、カツシもつられてその気分に染まっていた。

 居住区の長屋ビルに沿ってしばらく歩き、エントランスからエレベーターに乗る。二人きりなのをいいことに、くだらない談笑をつづけた。

 ドアが開いて、共同廊下を進み、二人は上機嫌で岸和田宅の玄関を開けた。

 明かりはなかった。天井の消灯時間はもう過ぎており、辺りはずいぶん暗くなってきている。

 泉子は足下をたしかめると、廊下の電灯をつけ、自分の部屋へ歩いていった。

「なーに? また意味もなく寂しくなっちゃった? あたしでよければ『ぎゅっ』てしてあげようか?」

 泉子の部屋に明かりが灯った。

「ミナト……ちゃん?」

 嫌な予感がして、カツシは駆け出した。

 ミナトは部屋にいなかった。窓は元々開かないから飛び降りの可能性はない。血の跡もなかった。

 バスルームもトイレもきれいなままだった。収納もたしかめた。

 玄関の開閉記録はなかった。つまりミナトは岸和田宅を出ていない?

 混乱する二人は、部屋でベッドに座り、あれこれと可能性を探った。

「少なくとも自殺の線はないよ。見習いヒーラーが毎日観察した限りではね。ってことは……プロによる誘拐?」

「あっ!」

 引っかかることが一つあった。

 カツシはばっと立ち上がって、すぐ四つん這いになり、泉子の足と足の間に顔を突っこんだ。

「ち、ちょっと変態! いくら女に飢えてるからって、こんな時に発情しなくたっていいでしょ!」

「いいからどいて」

「な、なによ。年頃の女よりエロ本がいいっていうの?」

 たしかに、発禁レベルのBL(ボーイズラブ)本が何冊かあった。

 そんなものには一瞥だけくれて、カツシは拳銃を探した。

「ない……クソッ!」

「そ、その……本気で趣味なら机の中にもっといいの、あ、あるけど?」

 カツシは身を引いて床に座りこんだ。

「常管の女から奪った拳銃、護身用にってミナトに残していったんだ。それが、なくなってる」

「あ……そ、そういうこと」

 泉子は真っ赤になってうつむいた。

 そのときだった。

 玄関のロックが開く音がした。

 カツシと泉子は無言で見合った。家の電子ロックを開けられるのは、免許のあるカギ屋くらいのものだ。そうでないとすると……。

 カツシは壁にかかっていたミナトのリュックからナイフを取り出した。

「はやまっちゃダメだよ? まだ何もわかってないんだから」

 泉子の声に、カツシはうなずいた。

 素早い足音が近づいてくる。

 姿を見せたのは、二つ結びの少女だった。

「ハァハァ……間に合わなかったか」

 普段着でガスマスクもつけていないが、例のテロ少女だと、カツシにはなぜかわかった。

「あ、あの……君はあの時の」

「人んちに勝手に上がりこんで、なんなのよ!」

 常管でないとわかるや、泉子は肩をいからせた。

 カツシは泉子の手を引いて、耳打ちした。

「やめとけよ。ほら、会いたいって言ってただろ?」

「えーっ!? それを先に言ってよ!」

 泉子は「えへへ」と手もみして、少女を部屋に招き入れた。

 少女の名は長崎蘭といった。噂のテロリストであることは、あっさり認めた。

「通信を傍受した。発信電波をたどって拳銃を探し当てたついでに、シャトルを脱走した板橋ミナトを確保したと。私は偶然にもこの十八層に潜伏していた。縁だと思った。でも、間に合わなかった。残念だ」

「ミナトは、どこへ連れていかれたんだ?」

「おそらく、この間おまえたちが荷物として送られようしたところ……つまり『再生所』だ」

 重い常識破りは、以前は常管の捜査官によって暗殺されることが多かった。ただ、常識破りが出るたびに殺していくと労働人口が減って、世界を支える力が弱まる懸念が出てきた。そこで常管は厚生委員会と協力して『再生所』を設立したのだった。

「再生って?」

 泉子は青ざめた顔で訊いた。

「簡単に言えば洗脳。記憶を消して別のものを刷りこみ、模範的な『常識人』として再出発させること」

 カツシは生唾を飲みこんだ。

「ま、まさかミナトは……」

「次に会ったとき、おまえたちのことは、もう覚えていない」

 カツシは怒りのあまり、蘭のきゃしゃな肩に両手をのばした。

 蘭はその手をとって、カツシをひっくり返し、床に叩きつけた。

「すまない。防御本能というか、ね」

 不思議と痛みは感じなかった。すぐに起き上がって再び両肩に手をやった。蘭は抵抗しなかった。

「再生所ってのは、どこにある!」

「それを私も探している。SAITOのチカにあることまでは突き止めた。夜明け前に風穴を開けようとしたが、予測より装甲が硬かった」

「チカ……ってなに?」

 泉子の素朴な問いに、蘭は五分もかけて説明しなければならなかった。第一層の下にまだ何かあるなど、常識に縛られてきた人々は夢にも思わなかった。そもそも地下という概念がないのだ。蘭でさえ、探索中に出した数値に戸惑い、理解するまでかなりの月日を費やしたという。

 カツシは言った。

「俺も仲間に入れてくれ。ミナトを助けたい。いや、これはあいつだけの問題じゃない」

「……」

 蘭は答えなかった。

「素人じゃ足手まといか?」

「私は仲間は作らない」

「たった一人で戦争やって、勝てるわけないだろ?」

「勝てるかどうかは問題ではない。私は常管と戦うことしか知らない」

「……」

 あまりの衝撃に、カツシは言葉が出なかった。

 ある意味、泉子の男子じみた発想は当たっていた。蘭は決まった目的のために生まれたロボットとそう変わりないように思えた。

「その……KYUTOからやってきたというのは、本当か?」

「だとしたら、何だ」

「いや、訊いてみただけだ」

 ロボットではないにしろ、何か人知を超えた秘密を抱えていることは間違いないようだ。

 カツシはつづけた。

「再生所を見つけて、どうするつもりだ?」

「壊す」

「それから?」

「それだけだ」

「その後は?」

「常管の妨害をつづける」

「生きてて、楽しいか?」

「楽しいとは、何だ?」

「……」

 カツシは目の前にいる蘭と、記憶の中のミナトがだぶって見え、胸が痛くなった。何としても、この少女を無謀な戦いから身を引かせたい思いにかられた。

「常管に対抗しているだけじゃ、ただの消耗戦だよ。君はどんどん歳を取るけど、常管は存続するかもしれない」

「……」

 蘭はうつむいた。

 心の底ではわかっているのだろう。だが、理性が逃げることを許さない。彼女はそのへんの常識人以上に、何かに縛られている感じがしてならなかった。

「あのさ、再生所を叩いてミナトを助け出したら、いったんKYUTOへ帰るっていうのは、どう?」

「なぜ?」

「なぜって……戦士にも休息は必要だろ?」

 カツシは苦笑いした。ベタすぎる説得に我ながら虫酸がはしった。

「別に疲れてはいない」

「今のはナシナシ」

 カツシは両手をクロスした。

「?」

「俺たちを、かくまってくれ」

「それは……難しい相談だ」

 蘭は苦い顔をした。

 できないとは、言わなかった。

「常管の被害者なんだぞ?」

「う……」

 あと一押しか。

「ミナトは心の病を患っている。安全なところで、このヒーラー様に癒してもらう必要があるんだ」

 カツシは泉子の肩に手をやった。

 泉子はひきつった愛想笑いを浮かべる。

「仕方ない。脱出したら、一度KYUTOへ帰ろう」

 蘭は右手を差しだした。

 カツシはその手を握り、上に泉子の手が乗った。

「今回、だけだからな」

 蘭は口もとを緩めた。



 8



「作業はすぐに終わりますよ。そうですね……彼女は若いので、四分半というところでしょうか」

 白衣を着た壮年の男は言った。 

「は、はぁ……」

 千江はガラス壁の向こうの別室を見つめながら、生返事をした。

 透明な液体で満たされた水槽。底に裸の少女が眠っている。

「あ、あの……私もここで、こんな風に?」

「たぶんそうだとは思いますが、当時の私はまだ未再生でしたので、詳しいことはちょっと……」

 再生所の職員は皆、かつては一癖あった人物であろう『再生者』だった。処置を受けた今となっては、常識を信じて疑わない、市民の模範となる人間だ。

 そして、墨田千江は記念すべき第一号再生者。

 では、この吐き気をもよおす感じはいったいなんだというのか。

 これまで何百人と再生所送りにしてきたが、実際に現場を訪ねたのは初めてだった。銃を取り戻し、別室に眠る少女を運んでいるとき、なぜだか急に覗いてみる気になった。

 白衣の男は虚空に浮かんだ画面を指した。

「慢性的に不足している捜査官に再生したもらいたい、と常管から要望が来ていますが、よろしいでしょうか?」

「要望じゃなくて命令、でしょ?」

「いけませんね。ここでは遠回しに言うのが常識じゃないですか。ま、常管もいろいろと大変そうですし、今回は聞かなかったことにしましょう」

「そりゃどうも」

 千江は思った。私と同じような捜査官が、また一人、生まれようとしている。まだあんなに若いのに。いや、私も再生したのはあの歳くらいだったな。

「……はれ?」

 いつの間にか頬が濡れていた。

 なんだろうと訝りながら、ハンカチでぬぐう。

「では作業を開始します」

 白衣の男はコンソール前の席につくと、キーボードのエンターキーに手を触れた。

「ま、待って!」

 千江は叫んだ。

「なにか問題でも?」

「いいことを思いついたわ。作業は延期よ」

「しかしそれは……」

「今度こそ、長崎蘭を捕まえるためよ」

「なるほど。エサというわけですか」

 白衣の男は別室につながるマイクに向かって、指示を伝えた。

 いそいそと行き来する職員たち。

 廊下に出た千江は、肩から壁にもたれた。

「私、なんであんなことを……」



 9



「これは罠だ」

 カツシは言った。

 謎の組織から長崎蘭宛に、無差別にメールがばら撒かれた。ネット界は一時騒然となったが、メールは本人の認証が必要であるため、内容を読み取れる者はいなかった。携帯端末の画面の指定部分に、蘭が人差し指を触れると、封が開いた。過去の犯行現場から指紋を取っていたのだろう。

 常管のメッセージは『自首するなら、所内で再生を控えている常識破りを全員解放すると約束する』とのことだった。再生所への道筋が書かれた地図が添付してあった。

「再生所の位置は、私の予測の一つと完全に一致している。罠なんかじゃない、これは挑戦状だ」

 蘭は携帯端末の電源を切った。辺りは闇に包まれた。

 蘭のアジトは各層に点在していた。第一層の場合は、工業区の一角にある、鉄扉の鍵が開かなくなって久しい小さな倉庫だった。そこにはありとあらゆる武器や兵器が保管してあった。いつ誰が何のためにこれらを持ちこみ保管したのか、一切は謎に包まれていた。ただ、蘭は何年か前にKYUTOからSAITOへ渡ってきたとき、急にこの場所を()()()()()のだという。

 解放する常識破りリストの中に、板橋ミナトの名前があった。

 ミナトを救いたい。しかし、最強の戦士をむざむざ引き渡すわけにもいかない。

 カツシは言った。

「やっぱり罠だよ。蘭の自信を逆手にとって挑戦させようとしてる」

「場所さえわかれば、あとはこっちのものだ」

 蘭はジャキッ、とガス砲のサイドレバーを引いた。

 罠も交換条件もなかった。蘭は静かになった所内で、忌まわしき装置を滅することしか考えていないのだ。

「でもよかったじゃない。向こうが計略に走ってくれたおかげで、ミナトちゃんはまだ無事みたいだし」

 泉子は手榴弾を、そうとは知らず手玉しながら言った。

「ま、まぁな」

 その点では蘭に感謝せねばなるまい。

「フォローはできない。自分の身は自分で護るしかないよ」

 蘭の言葉に、二人はうなずいた。



 10



 岡崎は笑った。

「しかしまぁ、大胆な作戦を思いついたもんだねぇ。バレたら主犯の君はまたここに送られちゃうかもね」

「ひとこと多いわ」

 千江は虚空の画面に映った、再生所とその周辺の図面を見ていた。

 相手を騙すことは常識に抵触する。万が一を考え、千江は気心の知れた岡崎ユタカ一人だけを応援に呼んだのだった。というより、戦力は彼一人で充分だった。先日、民間のテレビ局を一つ潰した、角刈りの伊勢という男を除けば、あとは何人いても烏合の衆なのだ。常管は組織としては強力だが、個人技の優れた者が少なく、局地戦に致命的弱点のある球技チームのようなものだった。

 とどめだけは色ボケに任せず、自分でやればいい。それで仕事は終わる。

「で、愛しの蘭ちゃんは、ベンテン七号機のリバースモードでやってくるわけだ」

「連絡通路は素通りさせる。罠に逆上してドンパチやられても困るわ」

「ふむふむ。で、僕が職員に扮して、人質のミナトちゃんを水槽から出す、フリをして、バーン!」

 男は指先で撃つフリをした。

「あんたには撃てないわ。物陰から私がやる」

「君じゃ当たらないよ。あの子を誰だと思ってる」

 岡崎はいつにない真顔で言った。

「フン! ちょっとでも躊躇したら、あんたを撃つからね」

「オーケイ、レディ」

 岡崎は上機嫌で持ち場へ向かった。

 管制室で一人になった千江は、ため息をついてうなだれた。

「こんなことして、あの子の再生引き延ばして、どうしようっての? 私」

 長崎蘭を処刑した後、再生作業は再開されるだろう。そうなのだ。引き延ばしたことに、それほど意味はないのだ。ただ単に、テロリストとの戦いを終わらせたかっただけ。

 なら、あの涙はいったい……。

 千江は両手で何度も顔を張った。

「とにかく蘭は倒す。その後は部屋に帰って、でっかいボトル開けて、わけもわからず泣くわ」



 深夜十一時五十八分。ひと気がなく静まった、第一層の中央広場。

 営業時間はとうに過ぎ、エレベーター乗り場の周りに人影はなかった。改札には鉄格子が降りていた。

 だが、七番ゲートだけはロックがかかっていなかった。敵の指示通りだ。

 カツシと蘭で鉄格子をそっと押し上げると、泉子を先に行かせ、蘭がつづき、二人が押さえている間に、カツシも通り抜けた。

 すぐそこに、照明の落ちたベンテン七号機のドアがあった。

 蘭はささやいた。

「零時から五分間だけ、七号機は自動的に稼働する。職員の交代のためだ」

 言った通りにドアが開いた。照明は落ちたままだ。

 中は無人だった。無論、計略のためだろう。

 三人が七号機に乗りこむと、ドアは閉まり、エレベーターが動きだした。

 カツシの三半規管が反応する。何も見えないが、下に向かっているとわかる。

 第一層は世界の下の果てだ。それなのにさらに下が存在する。

 妙な気分だった。世界が膨らんでいくような感覚。

 電子音と共にドアは開いた。

 三人は中に留まったまま、さっと壁に身を寄せた。奇襲はなかった。

 縦横二メートルくらいのコンクリート造りの通路が、少しずつカーブしながらつづいている。天井の明かりはまるで道路の白線のようだ。

「フン、本陣で隠密に仕留めようというわけか」

 蘭はガスマスクを被った。カツシと泉子もそれにならう。

 再生所は官庁街の真下にある。十分ほど歩くと、通路が少し広がって大きな鉄扉が見えてきた。戦闘員の配置はない。

 蘭は使い捨てのロケットランチャーを構えた。小さくておもちゃのようだが、用途の欄に『AT』とあった。意味はわからないが、対戦車(アンチタンク)ということなら貫通力はありそうだ。

 トリガーに指がかかったときだった。

 轟音とともに、鉄扉が左右に開いていった。

「チッ! なめられたものだ」

 蘭は手にしたランチャーを、カツシに持たせていたガス砲と取り替えると、一人突入していった。

「援護するぞ!」

 カツシと泉子はサブマシンガンを構えて、後につづいた。



 再生所内は薄い白煙に包まれていた。

 開かれた二重の鉄扉を通り抜けると、小さなロビーがあった。中央に受付カウンターがあり、壁に沿って来客用のソファが並んでいた。

 人の気配はなかった。蘭の姿もない。

「あいつ、どこ行ったんだ」

 カツシが言うと、泉子は案内図があるといって壁を指さす。

 エントランスロビー(現在地)の左右と正面に廊下があった。所内の構造は、大雑把にみれば田んぼの田の形をしていた。どこを通っても再生所の心臓部に行くことができるようだ。四つある大きな四角の左上が再生室と管制室、右上が囚人保管所とあった。残りは枝葉の研究室や会議室などだ。

 蘭の性格からすると、まっすぐ最短距離を行ったに違いない。

 カツシと泉子は正面のドアを押し開けると、教室のように並ぶ研究室群の間を突っ走った。



 蘭は田の字の中心、セントラルホールにいた。名前は物々しいが、要するに食事したり休憩したりする場所だ。フリーラウンジのようなものがどんと一つあり、ホールの大部分を占めていた。

 職員の姿はどこにもない。ここまでトラップはおろか、狙撃してくる者さえいなかった。

「その自信がかえって仇にならないといいがな」

 そうつぶやいたとき、催眠ガスが消えかかっていることにふと気づいた。

 おんおんと、上の方で排気の音がする。

「なるほど」

 蘭はガスマスクを外した。手のうちを知っている相手、か。

 墨田千江か、でなければ岡崎ユタカ。墨田は冷徹だが、戦闘力は今ひとつ。岡崎は最も警戒すべき相手だが、下着をくれてやっただけで手なづけられる重度の色ボケだ。互いの欠点を補うように、二対一で挑んでくるだろう。足手まといを排除したのなら、彼ららしい苦い経験を積んだ末の作戦といえた。

 蘭は虚空に向かって声を張った。

「どうせ管制室でモニターしているんだろう? さっさと取引しようじゃないか」

 どこかで鼻を鳴らす音がしたかと思うと、スピーカーから大音量の声があった。

『どうせ取引するつもりなんか、ないんでしょ?』

 蘭は笑った。いい加減わかってきたか、墨田千江。

『再生前の女の子を一人、人質に取ってあるわ』

「ちょうどいいハンデだな」

 蘭は言いつつ思った。薄々感づいてはいたが、常管にしては妙に不真面目な奴だ。

『フフ、今までの私と思ったら大間違いよ』

「わざわざネタをばらすところは、変わってないな」

『なっ! さっさとかかってきなさい!』

 蘭はガス砲とマスクを捨てて拳銃のスライドを引くと、ホールのドアを押し開け、廊下を走った。



「来たわ」

 赤い戦闘服に着替えた千江は、別室に通じるマイクに言った。

 ガラス越しの再生室で、白衣の老人に扮した岡崎が親指を立てた。

 白いタンクとパイプでつながった水槽がいくつも並んでいる。各水槽に設置した端末以外、機械的なものはなく、見所の少ない設備だった。プログラムを水槽の液体にロードしてエンターキーを押せば、あとは小さな小さな機械が、すべてやってくれるのだ。

 水槽は中央の一つを除いてすべて空だった。再生が延期となった者たちは、別ブロックの囚人保管所で眠っている。

 白衣の老人は、水槽の底に眠る裸の少女に目をやった。

 板橋ミナト、十七歳。

『痩せてはいるが、若いせいだろう、あるべきところは意外と……』

「岡崎、声に出てる」

 千江は低く言った。

『うおっほん』

 老人はわざとらしく咳払いした。

「忘れてないわよね?」

 千江は拳銃の弾倉を黒から金色の棒へ入れ替え、銃口をガラス越しの老人に向けた。強化ガラスも簡単にぶち抜く特注品だ。あまりに高価なため、使用するたびに分厚い報告書を作らねばならないが、今そんな泣き言はいってられない。

『どうしても殺さないと、ダメ?』

 老人は身をよじった。

 千江はスライドを引く。

『わかったよ。わかりました。その代わり、この子の身柄は僕に……』

 なぜだか胸がチクっと痛んだ。板橋ミナトの再生は、この男を殺さない限り、避けようがない。そして私はまた捕まり……ここで再生されるのか。

 失敗すればいい……白でも黒でもない天使がつぶやいたような気がした。

「本当に倒せたら、考えてあげるわ」

 本当に倒せたら、私はあなたに何をするか、わからない。

『倒せるさ。なにしろ……』

 岡崎はこらえきれずにクッと笑った。

 千江はため息をついた。またいやらしい手でも思いついたのだろう。あの笑いをするときはいつもロクなことを考えていない。

「管制室のロックを開けるわ。作戦開始」

 千江は大きな部屋の隅、壁際にある非常電源室の鉄扉を開いて狭苦しい所へ潜むと、赤い電灯の下、リモコン操作でロックを解除した。



 カツシと泉子は管制室の前で蘭を見つけた。ドアの脇に身を寄せ、拳銃を構えている。地図上では廊下をまっすぐ行くだけなのだが、素人の二人は、規則的に並ぶ研究室のドアから誰か出てくるのではと、びくびく警戒して、遅れをとってしまった。

 カツシが呼びかけると、蘭はドアの方を睨んだまま言った。

「ロックが解除になった。相手はおそらく二人。私が合図したら、弾が尽きるまで、でたらめに撃て」

「で、でたらめに?」

 カツシは携えているサブマシンガンを見た。

「口答えは許さない。命令だ」

「りょ、了解」

 指揮官は蘭だ。バカなことを言って困らせたせいで、もし失敗でもしたら、一生後悔しかねない。

 蘭はドア上のセンサーに半身を引っかけ、さっと元の位置へ戻った。

 ドアは自動で開いた。銃声はなかった。

 閉まりかけたとき、蘭は中へ駆けこんでいった。

 ドアは再び開いた。

「今だ!」

 蘭の声に、カツシが動いた。

 管制室らしく、部屋はコンソールや仮想ディスプレイなどが占めている。ぱっと見では人の影はなかった。

 銃なんか撃ったことない。怖い。でも蘭を助けなければ。

「うあああぁ!」

 カツシは声を上げ、トリガーを引いた。

 自動連射の弾丸また弾丸。コンピューターは火花を散らし煙を上げ、次々と光を失っていった。蘭はコンソール盤の下、頑丈そうなイスを盾に身を潜めている。

 一方、泉子はカツシが撃ち漏らした、別室との境のガラス壁を狙った。

 ガラスは無傷だった。無数の鋼鉄の弾が床に転がっている。

 全弾、撃ち尽くした。

 静寂と耳鳴りと、焦げくさい臭いだけがそこにあった。

 蘭は手ぶりで『退け』のサインを送る。

 カツシはぼんやりしていた。あまりの衝撃に思考がついてこない。

 泉子はカツシの腕を取り、部屋の外へ連れだした。

 ドアが自動で閉まる。

「あ、ありがと」

 カツシは言った。

「ううん」

 泉子は小さく首を振った。

 それから二人は肩で息をしながら、目を合わすことなく、ずっと黙っていた。



「派手にやってくれたわね」

 赤い電灯の下、千江はつぶやいた。

 これで常識破りの再生計画は、十年は遅れるだろう。データのバックアップがあるとしても、ここの機材は貴重品ばかりで簡単には調達できない。これで長崎蘭を始末できなければ、クビは確実だ。

 横歩きで入るのがやっとの狭い部屋。胸の先が非常電源装置の計器にふれて、むずむずする。そういえばここ何年か、誰にも触ってもらって……。

 千江は顔を振る代わりに、ぎゅっと目をつぶった。こんな時に何考えてんのよ。

 小さなのぞき窓から、管制室の様子をうかがった。

 二つ結びの少女がコンソール盤の下からはい出し、ガラス壁の左脇にあるドアを開けて、再生室に入ろうとしている。蘭は死んで当然の重罪人、何の感情も湧いてこなかった。

 ガラスの向こうで、老職員に扮した岡崎が手ぶらで待ち構えている。何を企んでいるか知らないが、手加減しなければ互角に渡り合えるはず。もしも相打ちだったら『還骨(かんこつ)』(納骨スペース節約のため、骨を粉にして農地に還したり、カルシウム剤としてリサイクルする制度)の儀式くらいは見届けてやろう。

 白衣老人の横、水槽の底に裸の板橋ミナトが眠っている。蘭一味の奇襲のおかげで、再生はしばらく先になるだろう。いけないと知りつつ、ほっとしてしまった。再生前の自分を見ているようで、何とも言えない気分だ。

 蘭が再生室へ入るのを見計らい、千江はそっと狭い部屋を出た。

 退路を確保するためだろう。ドアは開け放してある。

 千江は身を伏せ、硬い床の上を音もなく進んでいった。

『残った職員はおまえだけか?』

 天井のスピーカーから蘭の声があった。

『常管の墨田という女に、障害物になれと命令されただけです。い、命だけは……』

 老人のかすれた声。

 岡崎め、たいした役者だ。千江は敵に見られぬよう低い姿勢のままコンソール卓に寄り添い、さっと反転して背後の天井の隅にある円いミラーを眺めた。このような状況も想定して、急造で付けさせたやつだ。

 蘭は水槽の横に立つ白衣の男と正対し、ガラス壁を背にしていた。一味どもの乱射は再生計画に壊滅的なダメージを与えたが、その代償として蘭の命運を奪った。強化ガラスは常管の装備では撃ち抜けないと、蘭は判断したのだ。

『板橋ミナトは連れて帰る。墨田、岡崎、どこから狙っても無駄だぞ』

 千江は金色の弾倉を入れた銃をそっと抜いた。

 今度こそ勝った。

 千江は立ち上がると、両手で銃をかまえ、蘭の後頭部に狙いをつけた。

 岡崎、何をぐずぐずしている。目配せで「十秒だけ待ってやる」のサインを送った。

 老人は目をそらすと、頭を抱えた。

『だ、だめだ! やっぱり蘭ちゃんを殺すなんて、僕には無理。負けた負けた!』

 特殊メイクをめくって、岡崎は素顔をさらした。

「あんのボケ……」

 叫びたいのをこらえ、千江はトリガーに力をこめようとした。

 そのときだった。

 蘭はふと顔を横にして、流した瞳を千江に向けた。

『無駄だと言ったはずだ』

「!」

 完敗だった。蘭ははじめからすべてを見破っていたのだ。今から撃ち合っても、とうてい勝ち目はない。初弾をかわされ、隠し武器を出す間もなく岡崎は絶命、私は弾幕を張りながら管制室から脱出をはかるが、自動ドアが開く前に銃をはじかれ、それで終わり。まるで磁石なのだ。嫌というほど経験してきた。味方の弾は外れ、蘭の弾は当たる。そのくり返しだった。

 千江は銃を床に捨てた。

 それを見ていた岡崎は、白衣を脱ぎ捨てると、何事もなかったかのように再生室から出てきた。

「?」

 千江は不思議でならなかった。普通は武器を捨てろとか、動くなとか、指示が出るはずでは……。

 岡崎はお手上げのポーズをとった。

「さすがは蘭ちゃん。僕が丸腰なの、バレてたみたい」 

「なっ! どういうつもりなのよ!」

 千江はひそひそ声で怒りをぶつけた。

 管制室のドアが開き、拳銃をかまえたメガネ少年と金髪少女が入ってきた。

 少年は硬い口ぶりで指示を出す。

 千江と岡崎は両手を挙げ、非常電源室の前まで歩いていって、そのまま壁に張りついた。無線か何かでこっそり連絡をとりあったのだろう。少年は指揮官が授けたセリフを棒読みしたにすぎない。

「勝負はこれからさ」

 岡崎は笑顔で言った。

 千江は黙ったまま仏顔の男を睨んだ。

 この期に及んでどんな策があるというのか。仕掛けなどもう残っていない。

『さぁ、起きろ』

 蘭は水槽の底から、ずぶぬれの裸女を抱き起こし、肩をゆすった。

『起きろ。私はカツシと泉子の知り合いだ』

「……ん、ああ」

 ミナトはぼんやりした目で蘭を見つめると、微笑んだ。

『立てるか?』

 蘭は拳銃のスライド部分を口でくわえ、両手を自由にすると、ミナトの左腕を抱え同時に背中に手をまわした、その時……。

 銃声。

 ミナトは空いていた右手で拳銃を奪い、蘭の胸を撃ち抜いていた。

 何が起きたのか、千江には一瞬わからなかった。

「悪いね。ちょっと前に順位が入れ替わっちゃってね」

 男の面は喜びとも哀しみともとれぬ微笑で歪んでいる。

 脳裏に嫌な予感がよぎった。

「まさか、あんた……」

「そう。ミナトちゃんを、常管の捜査官に『再生』した。君が大きな用を足しに行った隙にね。プログラムにちょっと手を加えといたんだ。まさかこんなに上手くいくとは、正直……」

 パン!

 千江は男の面を張った。

 岡崎は顔を横にしたまま、ふっと笑った。

「大きな用は余計だったね」

 千江はうつむいた。

 寒気で歯の軋りが収まらない。

 寒気だって? 違う!

 再生して以来、経験したことのない、赤黒い感情。

「なんてこと、してくれたのよ」

「えっ?」

 岡崎は意外そうな顔をした。

 そうなのだ。この男は常識に乗っ取って、正しい事をしたのだ。常管史上、最大の敵を倒した英雄だ。

 自分はそれを受け入れることができないと、千江はたった今、悟った。常識でも人の言っていることでもなく、自分の信念に乗っ取って、正しい事をしよう。今、そう決めた。

 メガネ少年と金髪少女が叫びながら、再生室へ飛びこんでいく。

 二人を迎撃せんと水槽を盾に、中腰になろうとするミナト。

 千江は床に転がっていた銃を拾うと、再生した少女の横顔に的を絞った。

「な、何をする気だ!」

 岡崎は叫ぶ。

 千江はトリガーを引いた。



 床に崩れた蘭。まわりに血の海が広がっていく。

 水槽の陰に隠れる、裸のミナト。

「時間がない。援護して!」

 泉子は突っこんでいって、蘭を手当する気だ。

「……」 

 カツシは銃口を前に向けることができなかった。

「あれはもう、ミナトちゃんじゃないよ」

「う、嘘だ……」

 そのとき、ミナトは銃をかまえて中腰の体勢を作ろうとしていた。

『な、何をする気だ!』

 天井のスピーカーから男の叫び声。

 何かが裂けるような音がして、ミナトが手にする銃が宙に舞った。

 無数の銃弾を跳ね返してきたガラスの装甲に、小さな穴があいている。

「今だっ!」

 泉子は銃を突き出したまま、駆けだす。

 カツシは床に落ちた銃めがけて乱射。

『管制室の外へ! 撤退する!』

 ひびの入ったガラスの向こうで、男はミナトに命じた。

 ミナトは泉子の脇をすり抜け、カツシに一瞥もくれず、隣の部屋へ逃げてゆく。

 男は手刀で千江の拳銃をたたき落とすと、ミナトを連れて管制室を出ていった。

 カツシはミナトを見て、蘭を見て、ミナトの残像を見て、蘭の血ヘドを見た。

「クソォォォ!」

 銃を床に叩きつけ、カツシはその場にうずくまった。

 何も、できなかった……。



 腕まくりした泉子は、蘭の上半身を起こすと、背後から胸元へ手をつっこみ、深緑色のどろっとした膏薬を傷口に塗った。

 ヒーラーの血を受け継ぐ娘は、奇妙な手つきでまじないをかける。

 蘭の表情は和らぎ、まもなく眠りについた。

「あと十秒遅れてたら、ヤバかったかも」

 泉子は千江に礼を言った。

 蘭の戦闘服は防弾効果の高いものだったが、至近距離で撃たれたためか、弾の性能が良すぎたのか、突き抜けてしまっていた。幸い、弾は急所をそれていた。

 千江は戦闘用ブーツのヒモをしめ直しながら言った。

「ぼやぼやしてると、常管の追っ手が来るわ」

「でも……」

「シャトルのステーションの隅っこに、秘密の場所がある。そこへ行きましょう」

「で、でも……」

「まだ夜明けまで時間がある。エレベーターは手動でも動かせる。セキュリティレベルの高いロックも外せるわ。あたしをクビにするか、老いぼれ共の討議で決まるまではね」

 千江は立ち上がった。

「……」

 泉子はおびえた猫のように赤い戦闘服の女を見上げた。

「いいのよ。自分で決めたの。常識なんてもう知らないわ」

「は、はぁ」

「話は後。ほら、そんなとこで黄昏れてないで。男手が要るんだから」

 千江は部屋の隅で丸くなっているメガネ少年に言った。

「俺は、俺は……」

「カツシ君がいなければ、私は喜びを一つも知らずに、人生を終えてしまうところだった」

「えっ?」

 カツシは顔を上げた。

「って言ってたわ。水槽に入って眠る前にね」

「あいつはもう、俺のこと、覚えてないのかな?」

「でしょうね」

「そうか……」

「でも、十年後はどうかしら?」

「どういうこと?」

「消された記憶は戻らない。けど、再生プログラムは、性格の奥深くまでは変えられないと思うの。再生して十年の私が変わった、いや、本当の自分を取り戻したようにね」

「十年か……。とりあえず今は、蘭を安全な所に運ばないと」

「いい子ね」

 千江は笑顔でカツシの頭をなでた。



 SAITOシャトルステーションはKANTOと同様、十二層と十三層の間にあった。

『ベンテン五号機』のドアが開くと、すっかり明かりが落ちたステーション構内が広がった。柱の時計のデジタル表示は『0259』とある。千江は常管の特権を利用して、エレベーターを、営業時間外に勝手に動かしたのだった。

 照明は非常口を示す緑色の明かりだけだが、だいたいの位置はつかめる。

 プラットホームは、通り抜けできずシャトルが折り返すだけの、ヨの字型をしていた。シャトルの姿はない。走行部分を目で追っていくと、半円形をした暗黒につながっていた。

「この時間、構内は無人だけど、ガードロボットがいるわ。レーザーで焼かれたくなかったら、私の後にぴったりついて歩くのよ」

 千江の言葉に、蘭を背負ったカツシ、泉子はうなずいた。

 一行は、線路の行き止まりを背にして、何もないコンクリートの広場を歩いた。

 カツシは思った。ここはいったい何のためにあるのだろう。店があるわけでも、別の出口があるわけでもない。無駄な空き地がひたすらつづいている感じだ。

 ふと床を見ると、何かの境目のような線が横につづいていた。ほんのわずかだが、手前と奥とで色が違う。

 しばらく歩いて、空き地は終わった。壁にぶちあたったのだ。何もない壁……いや、なんとなく何かある。

「あれ? ここも色が違う?」

 暗くてはっきりしないが、一行の正面に、直径三、四メートルはある半円の図形があった。

「いい目してるのね」

 千江は微笑むと、図形のある壁に向かって歩いていった。

「あ、ぶつか……?」

 泉子が言い終わる前に、千江は壁の中へすっと消えていった。

 カツシは思い出した。似たようなものが、事実上の世界の果てにもあった。

「もしかして……立体映像?」

 シッと千江の声。

「静かに。ガードロボが音を拾うわ。さっさとこっち来なさい」

 カツシは蘭を背負ったまま、ためらいなく壁に突っこんだ。

「ちょ、ちょっと、なにそれ、信じらんない」

 泉子は小声でだだをこね、なかなか入ってこようとしない。

 カツシはけが人を千江にあずけると、ぬっと壁をすり抜け、泉子の手を引いた。

「ちょ、いや、もごっ!?」

 見つかるとマズいので、口も手で封じる。

 泉子は壁をすり抜けると、床にへたりこんだ。

「もう、なんなのよ……」

「こっちよ」

 蘭を背負った千江はペンライトを点けると、大人が一人通れるくらいの、手掘りの通路へ入っていった。

 カツシは辺りを見回した。なんだろう、この空間。トンネルにしては背が低いし、総延長が一メートルくらいしかない。表面もひどく粗い。そして千江が行ってしまった、さらに小さなトンネル。

「あ、あの……立てるから」

 泉子は言った。

「えっ? あ……」

 そういえば手をつないだままだった。

 二人はそれから狭い通路を抜けるまで、一言も口をきかなかった。



 通路を抜けるとまたトンネルだった。今度は大きい。シャトルから逃げたときと同じくらいある。

 小さな明かりで照らせるのは、ほんの数メートル先までだった。あとは闇、闇、闇。

 棺桶のような台に敷いてある毛布の上に蘭を寝かせると、千江は言った。

「さて、ここはどこでしょう?」

 よく見ると、加工食品の空容器が壁に沿って積んであった。他には錆びて欠けたナイフや、穴のあいた鍋、何かの燃えかすなどがあった。要するに生活ゴミばかりだ。

「アジトか何か?」

「三十五点」

 カツシはネットで渦巻く都市伝説のことが頭に浮かんだ。

「もしかして、閉鎖されたKYUTOの……」

「正解。SAITO、KYUTO間シャトル路線の遺構よ。一度は常管が出口を埋めてしまったんだけど、この子がコツコツ削ってったってわけ」

 千江は簡易ベッドの上で眠る蘭を見た。顔じゅうに汗がにじみ、何やらうなされている。

 泉子が駆け寄って額に手をやる。眉間の険は引いた。

 それを見ていた千江は、訝し気に言った。

「あなた、ずっと前に一度会ったことない?」

 泉子は首を横にふった。

「そう……」

 千江は肩を落とし、話を戻した。

 この場所は、KYUTOからやってきた蘭のアジトの抜け殻だった。蘭がSAITOに潜入した後、千江はここを発見したが、再び埋めることはせず、独断で穴だけを巧みに隠した。

 テロリストは他にもいる、ここで張っていれば仲間を一網打尽にできるはず、と読んでいた。ところが、待っていても穴から出てくる者はなく、蘭が逃げることもなかったため、千江は今日までこの秘密の場所のことを棚上げにしておくしかなかった。

「一人で生きていけるわけ、ないのよ。KYUTOには、この子を無双の戦士に育てた人物が暮らしてるはず」

 カツシは言った。

「でも、あそこはもう、水も空気の供給も、機能してないんだろ?」

「公式にはそう。常管はシステムを二百年前に終了させた。住民の移動も登録も完了している。でもね……実はその後、誰も確かめに行ってないのよ」

「なぜ?」

「なぜって、五〇〇キロ以上離れてるのよ? シャトルもないのに、どうやって行くのよ」

「は? ごひゃ……」

 世界の横幅が何十キロしかないことを考えると、想像もつかない数字だった。

「あ、そうか。これ一般市民には内緒だったわ」

 千江は笑った。

 シャトルは高速というだけで、実際、時速何キロ出ているのか知る者はいなかった。つまり距離も、各層をつなぐエレベーターよりはちょっと遠く、くらいの感覚でしかなかった。

 カツシは湧きたつ興奮を抑えられなかった。世界は思っていたより、広いのだ。

 泉子は言った。

「それはいいけど、これからどうするの? ここには何の設備もないよ。食べ物だって水だっって……」

「水とトイレなら、あるわ」

「えっ?」

「保線員のために備えてあったのよ。ここはまだSAITOの管轄だから、システムが連動したまま残ってるのかもしれない。蘭が生きてこられたのが、何よりの証拠でしょ?」

 トンネル内は、指定の場所に非常食を保管する義務もあった。事故は滅多になかったというから、使われずに眠っている食料があるかもしれない。何しろ閉鎖から時間が経っているので、賞味については保証できないだろうが……。

 夜が明ければ、SAITOに厳戒態勢が敷かれることだろう。もう後戻りはできない。

 カツシは蘭を背負うと、手掘りの通路に目をやった。

「ミナト……」

 千江は再生所から持ち出してきた背嚢を背負うと、平らなレールの上を、ペンライトで照らして歩いていく。

「取り返したかったら、生き延びなさい」

「クッ……」

 カツシは奥歯をかみしめ、泉子に付き添われながら後につづいた。

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