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ア・グラウンドレス・センス  作者: ヒノミサキ
1/6

第一章 KANTO 

2010年に別のペンネームで書いた作品です。

 1


 

 豊島(とよじま)カツシは、薄暗い部屋の隅で机に向かっていた。

 ヴァーチャルスクリーンのほのかな明かり。

 少年は黒縁のメガネを外し、小さな布でレンズをふくと言った。

「だからさ、そういうことはもうちょっと先でもいいだろ?」

 画面の中の女は、まっすぐな黒髪をいじりながらつぶやいた。

『前から言おうと思ってたけど、似合わないよ、それ』

「うるさいなぁ」

 カツシはメガネをかけ直した。度は入っていない。

『ごめんね。もう耐えられないの』

 少女は画面の端に人差し指をやった。ログアウトするつもりだ。

「きっと見つかるって!」

 指が止まった。瞳がこちらを向く。

『いつ? 今日? 明日? それとも百年後?』

「それは……」

 カツシは視線を落とす。別の半透明ウィンドウに映ったカレンダーが目に入った。物心ついたときから同じカレンダー。一月一日は必ず月曜日で、五月二十日は必ず日曜日だった。なぜだろう……。

「ウッ!」

 頭を抱える。

 少女はため息をついた。

『また〈常識〉のこと考えちゃったのね?』

 毎朝九時に高校のアイコンをタッチして授業を受ける。飲料水は世界をとりまく環状水道からパイプを通じて供給され、六月と十二月は節電五十パーセント、各層の床から天井までの高さは二一三メートル五〇、気温計は二十二℃を常にさし、夕方六時になると天井の光が少しずつ暗くなっていく。主食は配給制で、人や動物を故意に殺してはならず、何人もKY区域に入ってはいけなかった。

「とにかく、死ぬのだけはもうちょっと待ってくれ」

『どうしようかな』

 板橋(いたばし)ミナト……この色白の女子高生とは、知り合って以来、いつもこんなやり取りだった。学年は同じだが学校は別で、カツシは第四層、ミナトは第十五層の住民だった。出会ったきっかけは、お互い等身大の化身(アバター)で、電脳仮想世界をうろうろしているときだった。相手が望んだため、次の週からは顔をさらしてTV通話するようになった。

 ただ虚しい……それがミナトの口癖だった。彼女には趣味はおろか、好きな事というものがまるでなく、ほとんど習慣だけで生きていた。電脳世界も単なる逃避にすぎず、甘い菓子の話で誘っても無駄だった。聞けば成績は常に学年三位以内だそうだが、勉強が好きなわけでもない。一方で、死に方や死に場所にかけてはやたら詳しく、オタクと言えるほどだった。

 今日はどう説得しようか。そう悩んでいると、ミナトが先に口を開いた。

『どうして死んではいけないの?』

「そ、それは……」

『それは?』

 ネタはもう尽きていた。カツシは顔を横に向けた。

「常識だからさ」

『ヘンなの』

 ミナトは口もとを緩める。

『守らない人、いっぱいいるじゃない』

 なんだか急に腹が立ってきた。

「じゃあ聞くけど、そんなに死にたいなら、なんで今すぐ実行しないの?」

『……』

 少女の顔が曇った。

 しまった。カツシは胃のあたりがジリと熱くなった。

『わかった。そうする』

 ミナトは机の引き出しを開けた。

「だーっ! 今のなし! あ、いや、だめな理由、一つあった!」

『……』

 細った手は、それを無視して目的のものを探っている。

「その……いなくなったら俺が困る。困るっていうか、ええと、何ていうかな……」

 ミナトの首筋のあたりがキラリと光った。

 カツシは身を乗りだす。

「話聞けって!」

『聞いてるよ』

 少女は長い髪を銀色の櫛でとかしはじめた。

「ブラシだろ、フツー……」

 少年はどっとイスにもたれた。

『カツシ君が困ることは、あまりしたくないな』

 小さな笑顔を残して、画面は虚空に消えた。

 あまり……か。

 カツシは席を立つと、窓のカーテンを開けた。

 どこまでも続く灰色の壁に、この窓と寸分違わぬ正方形が縦横無数に並んでいる。中央広場へ行けば、同じ規格の建造物が放射状に等間隔で並んでいるのがわかる。いつだったか、別の層へ出かけたときも、自分が生まれ育った『四層』とまったく同じ造りをしていた。

「なんでだろう……ッツ!?」

 あまりの痛さに頭を抱えた。

 消し忘れた小ウィンドウ。電子カレンダーがふと目に入った。明日は月に一度の登校日だ。



 2



 カツシが所属する高校は、自宅と同じ建物の中にあった。といっても、遅刻ギリギリまで寝ていられるような近所ではない。第七十七棟と七十八棟の間の通りを、中央広場と反対方向へ歩くこと二キロ先にあった。

 居住部とほとんど同じ造りの、こぢんまりとした玄関を抜け、エレベーターで五十六階へ。ドアが開くともうそこは高校の廊下だった。今日は二年生の登校日、見知った顔が行き来する。お決まりの挨拶は『リアひさ』(リアルでは久しぶり)だ。

 廊下の突き当たりにある一組の教室。

 ドアを開けると『リアル』な冷やかしが待っていた。

「よう変態」「死神ちゃんは元気かい?」

 中学の頃からの腐れ縁どもが、別々の席で笑っている。

「おまえらなんかに話さなきゃよかったよ」

 カツシはどかっと自分の席についた。

 前の席を囲んで女三人が盛り上がっている。座っていた一人が振りむきざまに言った。

「で、この頃はどんなプレイしてるの?」

「うるせー。俺はMじゃねー」

「ぜったいMだよ。ドM。なんで頭痛起こすような自滅ばっかすんのよ」

「しらねー。考えるとそうなるんだよ」

「バカねぇ。常識があるおかげで、余計なこと考えなくてすむんじゃない」

「……」

 悪友が死神よばわりする板橋ミナト、彼女にも画面の向こうから同じことを言われた。

 やがて、担任の若い女教師がやってきて雑談をはじめた。授業の話はない。そういったことは自宅でリラックスして聞くのが校則以前の常識であり、月に一回の集まりは顔見せのプチ同窓会のようなもの、というのも常識だった。

 登校日の出席率はほぼ一〇〇パーセントだ。

 面倒だな。っていうか誰もサボりたいって思わないんだろうか? カツシは一度じっくり考えたことがあったが、頭痛と嘔吐にやられた。以来、校則には従うことにしている。

 生活指導の話でしめくくると、女教師は満足そうに教室を出ていった。思春期の男どもが数人、気配もなく教室から消えた。カツシは好みではなかった。もっぱら脳みそは、ネットゲームや仮想現実空間『トゥルーライフ』のことでいっぱいだった。

 高校を卒業すれば、それぞれの能力に応じ、学校側が職種を決める。不満をいう者はなかった。世の中そういうものなのだ。

 だが、ネット世界は別だった。

「昨日ウィルステロに遭っちゃってさ。もう少しで英雄になれたのに隔離病棟送りだよ」小柄な悪友Aは言った。「スペアの体、起動したのはいいんだけど、ナンパされまくって、うぜーし」

 言いつつも、顔はうっとりしている。スペアのときの彼は女であり、グラビアアイドルのようなムッチリボディーで、ナルシストだった。美女になりたくない男なんかいない、ある日彼はそう漏らしたのだが、カツシはピンとこなかった。

 太った方のBは言った。

「俺は廃墟調査に行ってきた。途中で濃塩酸のプールに落ちちゃってさ、危うくドライスーツが溶けるところだったけど、ギリで脱出してやったぜ」

 そういう彼は、架空世界『マース』の3Dマップを作りつづける、抱かれたい男ランク総合八位の勇者だった。しかし、別のサーバーに属しているカツシの耳には、そんな噂は一つも入ってこなかった。

「で」「おまえは最近どうなんだ?」

 悪友ABコンビの暑苦しい顔が迫ってきた。

「俺は……」

 仮想空間に入ることはめっきり減ってしまった。いつからだろう。そう、あの死にかけの少女、板橋ミナトと知り合ってからだ。 

 ABコンビは察しているようだった。

「やめとけよ」「道連れを探してるだけだ」

「……」

 その可能性は否定できなかった。だが、見捨てるつもりにもなれなかった。

 悪友たちは説得をくり返す。

 カツシはある考えに取りつかれていて、話を聞いていなかった。

「おい」

 Aのチョップが脳天に刺さった。

 ハッと我に返り、カツシは言った。

「実際、それほど楽しいってわけじゃないんだ。ログアウトすると、しょせん(仮)(カッコカリ)の世界じゃないかって、ね」

 Bは笑った。

「リアルだってしょせん『かりそめ』じゃん。リアルがダメなら、ヴァーチャルでなりたいようになればいいのさ」

「リアルでもヴァーチャルでも、なりたいものも行きたいところも、なかったら?」

 Aは帰り支度をしながら言った。

「生まれる世界を間違えた、ってことだな」

「世界か……世界の外側には何があるんだろうな」

 ABコンビは顔を見合った。

「そりゃあ、ただの余白さ」「常識だろうが」

「くあっ!」

 カツシは目の前が真っ白になり、机に突っ伏した。

「バカだねぇ」「いや、ただのドMだろ」

 ABコンビはカツシを放ったまま、教室を出ていった。

 カツシは顔を上げると、虚ろな頭で思った。

 何もない所で生きるのは、何でもある所で命を絶つことよりマシだろうか……。

 明日会いに行っていいか、帰ったら彼女に聞いてみよう。



 3



 中央広場。どの棟で暮らしていても、迷うことなくたどり着く、各層の中心。その昔、ガイセンモンという名の似たような場所があったらしいが、残ったのは名前だけで、どこのことを指しているのか、歴史の権威でも知る者はなかった。

 広場の中心にそびえる巨大な柱は、エレベーター塔といった。

 カツシは塔のふもとの自動改札を抜けると、『カグヤ三号機』と書かれた鋼鉄のドアの前に立った。しばらくしてドアが開くと、定員百名の薄暗い密室が広がった。ステンレス色で窓一つない、貨物兼用のケージだ。何号機に乗っても条件は同じだった。人は疎らで、中へ入ったのはカツシを含めて八名。未成年は、うつむきがちなメガネの高校生一人だけだった。

 この世界は、上から下まで計二十三層でできていた。どの層で生まれ育っても構造から施設、色や配置まですべて同じで、違うのは『第何層の』というあたまの数字だけだった。各層で完結している人々にとって、上下に移動するということは、それ相当な理由が必要だった。カツシは生まれてから今回でやっと三度目だ。過去二回は家庭の事情。当時とは違う胸の高鳴りが、今はあった。

 各層停車のエレベーター。七層、八層、九層……ドアが開いても人の出入りは少ない。かつては層を超えた出会いも多かったようだが、仮想世界が充実していくにつれてそれは、難儀な事という認識に変わっていった。

 銀色の壁に歪んでうつった自分を見つめながら、カツシは思った。悪友どもが今日のことを聞いたらなんて言うだろう。

 不気味な箱に金払ってまで乗って、そんなに遠くまで、死神ちゃんに会いにだって? ドMもたいがいにしろ……とかなんとか。

 だが、カツシはこの『大旅行』を苦痛だとは感じていなかった。この感覚はなんだろう。仮想世界でレベル五〇〇の魔王を倒したときでさえ、今日ほどの充実感はなかった。

 楽しみ……なのか? 見知らぬ所へ行くことが。それとも、板橋ミナトにリアルで会うことが? 

「クッ!?」

 また頭痛か。カツシはひとり首を横にふった。危険の許容量を超えた発想だ。ただ、限界値は少しずつ上がっている気はしていた。

 十一層、十二層、次は『KANTO(カントー)ステーション』だ。KANTOとはこの二十三層世界の正式名で、他にSAITO(サイトー)という同じ規模の世界がある。二つの世界は細い通路でつながっていた。唯一の移動手段が、ステーションから乗る高速シャトル『スーパーヒカリ号』だ。シャトルを利用する者は、一日当たりではエレベーターよりさらに少なく、人々の興味の低さもそれに比例していた。

 ステーションから乗ってくる者は十名ほど。スーツ姿の大人が多い。カツシが立っているそばに、赤いスーツの女がぶつぶつ言いながらやってきた。三十歳……いや、ちょっと手前くらいか。『常』という漢字をもじった小さなバッジが、左の胸元に光っていた。

 カツシは何気なく足をずらして距離をとった。

 常識管理委員会……武器を所持できる数少ない職種の一つ。ナントカは危うきに近寄らず、というのが一般市民の常識だ。

 おかっぱ風で化粧濃いめのその女は、急に黙ったかと思うと、カツシの方へ近寄ってきた。

「ちょっと君」

「えっ、あぐ、あぇ!?」

 カツシはいきなり先生に指されるのが苦手な人種だった。アドリブは利きようがない。つい、両手が挙がってしまった。

「う、撃たないで!」

「ハァ?」

 女の右眉がつり上がる。

「お、俺、いや僕はただ、上の層の人に用があるだけで……」

「そりゃそうでしょうよ。わざわざ遠出するくらいだから」

 女は『遠出』のところで語気を強めた。常識とまではいかないが、そこが不満なのは、カツシにもわかっていた。

「で、でも、殺されるようなことじゃ……」

「なんでそうなるのよ」

 女はイラついた顔でつづけた。

「メガネ、似合ってないわ。外しなさい」

「!」

 今までの緊張が吹っ飛んだ。そこだけは触れてほしくなかった。誰にも批判される筋合いはなかった。

「それは自由でしょう?」

「なんですって!?」

 少年と女はにらみ合った。

 密室はざわめきに包まれた。

 女はきょろきょろ周りを見回すと、顔を赤らめ、わざとらしい咳払いをして、隅の方へ離れていった。かと思うと、次の層でさっと降りていった。

 ドアが閉まると、客の視線はカツシ一点に集まった。勇者をあおぐような目、非難混じりの目、様々だ。

 教室以外で目立つことに慣れていないカツシは、どうしていいかわからず、それからずっと下を向いていた。なんとなく勝った、という感じだけが、震える足下を支えていた。

 やがて、ミナトが暮らす十五層に到着というアナウンス。ドアが開くと、カツシはとにかく走った。エレベーター塔が小さくなるまで、スピードは緩まなかった。



 カツシは放射道路を外側へ行った。官庁街を抜け、公共施設群や商業地帯を抜け、環状道路を一つまた一つとまたいでいくと、居住区だ。景色はどこまでいっても同じだった。道の左右に天井までとどく建物の壁があるだけだ。昔の言葉で『タニゾコ』というのは、今歩いているような場所をさすらしい。

 中心からもう十キロは歩いたろう。週に一度ジムに通うのが常識なので、疲れはしないが、時間がかかってしょうがない。せめて高速シャトルのような乗り物があればと、カツシは思った。

 この世界を維持するためには、とにかく乗り物を減らさねばならなかった。そうしないと、昼がなくなってしまうのだという。そんな恐ろしいことにならぬよう、健常な人々はせっせと自転車のペダルをこぐのだった。カツシのような酔狂な客はもうほとんどいないため、レンタサイクルはずっと前に廃止となった。

 しばらく居住区を歩いていくと、左右の壁がなくなり、急に視界が開けた。環状道路を一つはさんで、一面緑のじゅうたんが広がっている。農畜区だ。カツシは広い道路を横切り、さらに先へ進んだ。

 退屈な場所だった。人々の命をつないでいるありがたい場所なのは知っている。しかし、如何せん高二の男子には刺激が足りなさすぎた。どこにいるのか区別がつかないし、静かすぎて感覚が鈍ってくる。

「ここで、いいんだよな?」

 カツシはぺらぺらに薄い携帯端末の画面を確かめた。

 待ち合わせ場所は、自宅でも中央広場でもなく、座標の数字だけが頼りの、だだっ広い田んぼの真ん中だった。

「ちょっと早かったな」

 カツシは端末を尻ポケットにしまった。

 たぶん五分くらい待った。なんだか落ち着かなくなってきた。何かしていないと不安だ。かといって今、誰かとメールを交わしたり、ゲームしたりするのも、ちょっと違う気がする。

 しかたないので、遠くを見つめた。農畜区のずっと先に、灰色の連なりが霞んで見える。工業区だ。ここからは見えないが、その先はKY区域で、さらに先には世界の『横』の果てがあるのだという。KY区域に入ろうと試みて帰ってきた者は一人もいない。そこは、この世とあの世の裂け目であるとか、有毒ガスが充満しているとか、奈落の底へつながる吹き抜けであるとか、さまざまな都市伝説がネット界で蔓延していた。今では近づこうとする者すらいない。

 KYとは何か。危険で憂鬱? 空気が淀んでいる? 正しく説明できる者はおらず、世界の果てというのも、噂が作りだした想像上の境界だった。

 この世界の地名や施設名の多くは有史以前のものである。歴史のデータベースを見ると、有史の一年目は平凡なことしか書かれておらず、それ以前は空白となっていた。

 カツシはふと疑問に思った。

 世界の果ては余白が広がってるだけだっていうけど、それって何でできてるんだ?

「ぐあっ!」

 脳天が割れたかと思った。こうなるとわかってはいても、近頃はなかなか止められない。

 チリン! 

 自転車のベルが鳴った。

 カツシは両手で頭をおさえつつ、ふり返った。

 長い黒髪がそよ風になびいた。白い肌。薄い唇。画面で見る姿と同じはずだが、何かが違う。

「お、おう」

 そんな言葉しか出てこなかった。

 チリン! チリン!

 板橋ミナトは不愉快そうに瞳を細めてベルを鳴らす。

「バカなのはわかってるさ」

 チリン!

 ミナトは微笑んだ。

 黒のブラウスに黒のスカート、ソックスから靴まで黒。カツシは思わず口にした。

「まるで喪服だな」

「……」

 黒めのうのような瞳がにゅっと正面を見た。

 しまった。またやってしまったか?

 どうやって取り繕おうかあたふたしていると、ミナトは自転車を降りた。

「いつでもお葬式できるから便利でしょ?」

「……」

 それはまだ生きてる奴のすることだろうが……カツシはツッコみたかったが、ぐっとこらえた。

「それで、聞きたいことって?」

 カツシは、二百メートル上のソラ色の天井をちらと仰ぎ、言った。

「もう一度聞くけど、なんで死にたいの?」

「なんとなく」

「それじゃ理由になってない」

「理由がなくちゃダメなの?」

「あーもう……」

 いつもと同じ問答はもうたくさんだった。どうすれば生きたくなるのか、理想を聞いても無駄なのもわかっている。この人には『好み』というものがないのだ。当然、恋愛経験もゼロ。誰かのゴシップ話もゼロ。トラウマになるような事件を探したが、それもなかった。親に対する愚痴はなく、誰かが嫌いということもない。

 ふとカツシは、ミナトの服を見つめた。思い当たることが一つ浮かんだ。

「黒、好きなの?」

「どうして?」

「服」

「ああ。気がつくと、こういう感じになってる」

 さっき言ったことと違っている。自分の葬式のために選んだというより、普段の心理状態を表しているだけのような気がした。

「うーん、じゃあ……」

 カツシは緑の田んぼを見つめた。また一つひらめいた。

「ここで待ち合わせたのは、なぜ?」

「なんとなく」

「それ、NGワードにしよう」

「だってほんとに……」ミナトは言いかけて、ふっと横を向いた。「誰もいないから……かも」

「そっか……」

 壁にぶち当たった。彼女にロマンチックなシチュエーションという発想はない。とすれば、人が苦手なのだろう。この世界で人のいない場所といえば、本当に少ない。ましてや暮らすとなると、農畜委員になるしかない。あれはあれで、計画だの加工だのと人との関わりがある。ミナトには居場所がないのかもしれない。

「聞きたいことって、それだけ?」

「世界の外側ってさ、本当にただの空白だと思う?」

「なによ、いきなり」

「いいから」

 チリ……。

 ミナトは自転車のベルを鳴らそうとして、手を止めた。

「それが常識でしょ?」

「空気とか光もないのかな?」

「どうでもいい」

「ごちゃごちゃした世界の中で十七歳で人生を終えるのと、何もないところであと何年か生きてみるのと、どっちがいいと思う?」

「……」

 痩せた少女は、スベった芸人を見るような目で少年を見た。

 ズキズキする頭をさすりながら、カツシはつづけた。

「本当に何もないのかどうか、確かめてみない?」

「クッ……」

 ミナトは額をおさえて、その場にうずくまった。

 謝る気はなかった。

「どうせ死ぬならさ、知ってからでも遅くないと思うんだ」

「……」

 ミナトは立ち上がると、ストッパーをはずして自転車にまたがり、黙ったまま居住区のほうへ走っていってしまった。



 4



「うあああああ!」

 カツシは、がばと身を起こした。

 Tシャツがぐっしょりだ。シーツまで濡れている。

 悲惨な姿だった。間に合わなかった。また同じ夢だ。思い出したくもない。

 あれからミナトと連絡が取れない。TV通話にコールしても、仮想世界につないでも、ステータスは常にオフラインだった。

 まさかの三文字がよぎってから、はや一週間。オンライン授業にもゲームにも、まったく身が入らない。のどに何かつまったような感じがして、食事もままならず、立ち上がると目眩がした。ベッドに横になって、白い壁を見つめているだけで、時間ばかりが過ぎていった。一日はとてつもなく長く、一週間はあっという間だった。

 空調は完璧なはずなのに、なぜか息苦しかった。部屋にいたくない。成分は〇・一パーセントしか違わないはずだが、それでも外へ行きたくなった。

 どうせ誰にも会わないと、無地のパーカーにくたびれたジーンズで共同廊下へ出て、エレベーターで一階まで下り、ふらつきながらエントランスの重たいガラス扉を肩で押し開けた。

「ハァハァ……ったく、健常人は病気になっても、住居は健常のまんまだもんな」

 ゴン!

 黒くて重たい何かが顎に当たった。弱っていたカツシは、たまらず尻餅をついた。

 なんだか世界がひん曲がっている。うねった白い腕がのびてきた。

「ご、ごめんなさい」

 聞いたことのある声。骨張った助けの手を取って立ち上がる。

 えーと、誰だっけ? 昨日の夢に出てきた死神……じゃなくて。

「板橋! ……さん? なんで?」

 引きこもって頭も弱ったかと思ったが、確かに板橋ミナトだ。

 ミナトはきょとんとしている。

「あの……どこかで会いました?」

 まさか双子のはずは……。

 目をこすってみるか。メガネのフレームに手をやろうとしたが、黒い縁はどこにもなかった。

「しまった、メガネ忘れた」

「えっ? もしかして、カツシ……君?」

 あれだけ似合わないと言っておいて、素顔に気づかないとはね!

 ため息一つでなにげにアピールしてみたが、ミナトは聞いていないようだった。下を向いてもじもじしている。

「あ、そうだった。なんでここに? っていうか何度も連絡したのに」

「うん……」

 ミナトは言ったきり、黙ってしまった。

 棟の玄関前では人目につく、か。カツシは重いガラス扉を押しのけて、ひと気のないエントランスへミナトを誘った。

 ミナトはむき出しのコンクリ壁に背をもたれると、言った。

「死に場所を探してたの」

 ひどくエコーのかかった声が、細長いエントランスの向こう口まで響いた。

「俺は……」

 心中なんてゴメンだ……とはまだ言えなかった。

「気づいたら、ここにいた」

「……」

 カツシは少女に背を向けた。

「一人で見に行かなきゃ、ダメ?」

「えっ?」

 思わずふり返った。

 ミナトは首筋に光るものを当てている。今度は櫛などではなかった。

「や、やめ! ……ろ?」

 カツシは手をのばそうとしたまま固まった。

 長かった髪はもう、肩まで届かなくなっていた。

「なにをやめろって?」

 ミナトは微笑んだ。

 またからかわれて腹が立ったが、それ以上に言うべきことがあった。

 カツシは鋭くささやいた。

「さっさとしまえよ。『常管』に通報されたら……」

 運良く監視カメラは、あさっての方を向いていた。集音マイクはついてない。

 ミナトは折りたたみナイフを背中の小さなリュックにしまった。なにしろ黒ずくめなので、一瞬『そういう』服なのかと思ってしまう。

「運動するには邪魔だと思ったから」

「運動って……まさか、KY区域に行くつもりで?」

「だって、その先にあるんでしょ?」

「……」

 カツシは生唾を飲みこんだ。急に怖くなってきた。忘れていた。あそこに入って帰ってきた者はいないのだ。

 逃げ出したい……自分から誘ったのに、なんてことだ。

 見捨てたくない。そして見てみたい……もし自分が神で、何でも叶うのなら。

「っっ!」

 声にならぬ声をもらし、カツシは地団駄をふんだ。決められない。どうすることもできない。

「やっぱり、一人で行く」

 ミナトは出口の方へ足を向けた。

「待った!」

 細い足が止まった。

 少年の荒い息づかいだけが何度か響いた。

「メガネ、取ってくる」

「しない方がいいのに……」

「よけーなお世話だ」

 カツシは降りてきたばかりのエレベーターに飛び乗った。



 カツシは携帯端末の時計を見た。端のほうに小さく『1830』と光っている。

 第四層の天井の明かりはすっかり落ちて、街灯だけが頼りとなった。それもお互いの顔がやっとわかる程度の代物だ。夜はエネルギー節約のため出歩かないというのが『奨励』だった。常識ではないものの、夜遊びが過ぎると常識管理委員会のリストにチェックマークが入ってしまう。

 カツシとミナトは居住区、農畜区、工業区と、放射道路を外側へ向かって歩いた。工業区の最も外れには、衣料部の平べったいリサイクル工場があり、最後の環状道路があり、それをまたぐと幅五十メートルの『KANTO第四環水道』があった。

 橋はどこにもなかった。二人は『立ち入り不能』と書かれた二重のフェンスの前で、そよそよ流れる環状水道を見つめていた。

 水は無駄なく再生され、完璧に循環している。これは世界の外側がまったくの空白、つまりは無であることを示している、というのが常識だった。このもっともらしい決まり事に、カツシは疑問を抱いていた。

「水もなければ、床も天井もないかもしれない。だからって、何もないということにはならないだろ」

 カツシは言った。慣れのせいか、頭痛はもう苦にならない。

「もし本当に何もなかったら?」

 ミナトは言った。

「その時考える。っていうか、まだ水道も渡ってないんだからさ……」

「そうね」

 先のことなど考えたら、恐怖で何もできなくなってしまう。恐れないためには、余計なことは考えない、それしかなかった。

「さてと」

 カツシはぺらぺらの携帯端末を手のひらにのせた。画面に光が灯り、付近の地図が現れた。年輪のような筋の、外側に近い部分が並んでいる。内から順に、環状道路(灰色)、緑地(緑)、環水道(青)、KY区域(黒)、余白となっている。

 現在地から百メートル離れた環水道の縁に、赤いピンがささっている。そこには隠されたマンホールがあって、暗渠(地下水道)とつながっていることがわかっている。かつてKY区域へ渡ろうとした者がネット上のログ(オリジナルは常管によって削除されたが、コピーが裏で出回っている)に残した偉大な功績だった。

「その勇者は、どうなったの?」

 ミナトは先を歩きながら言った。

「水死体で発見されたそうだ」

 仮想図書館へ行って百科事典を開けば、人間は泳げない生き物の一つである、と書いてある。

「溺れるのは苦しいから嫌」

「なんだよそれ」

 よく考えたら、死に方を選ぶなんて妙な話だと、カツシは思った。だが、少なくとも苦しみたくないという『好み』は発見した。

「ってことは、Mじゃないのか」

「なに?」

 ミナトは立ち止まり、振り返った。

 カツシはシルエットに苦笑いを向けた。

「いや、こっちの話」

 目的地は何の目印もない、さっきと変わらぬ平たい工場と道路と水道の延長線上だった。環状道路と水道の間には、幅三メートルほどの草地があり、二条のフェンスがそれを挟んでいた。

 道路側の高さ二メートルのフェンスは問題ない。水道側の五メートルのフェンスは触れてはいけないと、勇者の記録が残っている。

 つい半日前までフラフラしていたカツシだったが、障害を前に、がぜんやる気が出てきた。生きているという実感が湧いてくる。

 カツシは金網をよじ上り、頂でフェンスをまたぐと、手をさしのべた。

「大丈夫。行けそうだ」

 ミナトは少し上って少年の手をとったが、腕の力が足りなかった。いったん降りて肩で息をする。

「ハァハァ……無理」

 カツシは励まそうとして、ハッと辺りを見回した。

「まずい。車が来た」

 ヘッドライトが遠くに見えた。障害者用の終バスか、それとも警備委員か。現存する車といえばそんなところだ。

 カツシは道路側に飛び降り、どこかに隠れようとミナトの手を引い……。

 見慣れた人影がない。

「あれ? 板橋?」

「なにしてるの?」

 ミナトはなぜかフェンスの向こう側にいた。

「な、なんだよ」

「ごめん。後がないって思ったら、できちゃった」

 カツシは金網をがしがし上って下り、草地に伏せた。

 電動モーターの音が近づいてくる。

 息をひそめる二人。

 カツシがさらに身を低めようとしたとき、ミナトがつぶやいた。

「板橋っていうの、やめて」

「なんでさ」

「いいから」

 車が通過した。どうやら終バスの方だったようだ。

 カツシは立ち上がると、埃を払いながら言った。

「じゃあ、俺もカツシでいい」

「やだ」

「なんでだよ」

 ミナトは聞いていなかった。つま先で草場をつついている。

 カサカサした音に、途中からゾゾッと硬い音が加わった。

「人工草だ。見つけた」

 カツシは手触りの悪い草をつかんだ。直に触るまでは区別がつかない、精巧な作品だ。命をかけた者だけが知り得る秘密だった。

 偽の草を引っ張り上げると、ウレタンの塊のようなものが一緒にくっついてきて、マンホールがあらわになった。

 それを見るなりカツシはうなった。

「げ、聞いてないよ」

「どうしたの?」

「電子ロックがある」

 情報にはないものだった。最後の勇者が失敗した後に、役人が取りつけたのだろうか。

 電子ロックは八桁の数字をテンキー入力するだけの簡素なものだったが、その道の専門家ならまだしも、出来合いの仮想世界に浮かれてきた一介の高校生などに破れるものではなかった。

「そういうことなら……」

 ミナトは背中のリュックから、厚めの電子端末を取り出した。何回か画面を触ると、鍵束を持った悪そうな猫の画像が現れた。端末をマンホールに近づけると、ガチャと金属音がした。

「便利なアプリでしょ?」

「そんなヤバいもの、どうやって手に……」

「システム破りは、たしか極刑よね?」

「……」

 死に方を研究していった末の功名とは……。カツシは別の意味で頭が痛くなった。

「と、ともかく入ってみよう」

 カツシは重いマンホールを開けた。

 金属のタラップが、闇の底に向かってつづいていた。



 手探りでタラップを下りきったカツシとミナトは、流水の音を聞いていた。

「案外いいものね。見えないと」

 ミナトは言った。

「何のこと?」

 カツシは携帯端末のディスプレイを照明代わりに点した。全体が光るので、暗がりでは黄金のカードを手にしているような感じだ。

 暗渠の水路と、その脇に沿った狭い足場。出口の先には大きな水道があった。水道の方がわずかに上を走っているようで、支流が暗渠の奥へ向けてコンクリートの斜面を下っている。

 ミナトは不機嫌そうにため息をついた。

 何を怒っているのか、カツシにはよくわからなかった。

 二人は狭い足場に気をつけながら、暗渠の出口へ向かった。

 水面より一メートルほど高いコンクリートの縁に立って、カツシは言った。

「カワって、こういう流れのことをいうのかな?」

「私に聞かれても」

 ミナトはネットの辺境に伝わる古い言葉には興味を示さなかった。

 少年は端末の明かりを消して、腕組みした。

「にしても、五十メートルかぁ……」

「五メートルだって泳げないでしょ? 人間は」

「常識ではね」

「泳いだこと、あるの?」

「夢の中で溺れたことならある」

「バカね」

 ミナトは壁にどっと背をもたれた。

「でも、その時は冷蔵庫より寒くて、この流れの倍はあったな。体力がつづかなくて、途中で死んじゃった。仮想世界で会ったヒーラー見習いの子にそのことを話したら、前世の記憶に違いないって力説してたよ。あ、ちなみにヒーラーってリアルの属性の方ね」

「バカバカしい……」

 ミナトは額に手をやった。

 実際にはヒーラーという職業は存在しないことになっている。常識管理委員会は非科学的な職業を一切認めていなかった。

「とりあえずその水路で練習してみるか。これ持ってて」

 カツシは端末をミナトに渡すと、もそもそ服を脱ぎだした。

「え? あ、ちょっと!」

「いいよ。明かり点けて」

「よくないでしょ!」

「大丈夫だって。『はいてる』から」

「ああ……」

 ため息と共に、ミナトの右手の辺りが光った。

 カツシは赤い『風呂パン』一丁だった。エネルギーと水節約のため、居住区の風呂はみんな共同大浴場だ。混浴のため、そこでは水着を装着するのが常識だった。ちなみに辞書を引くと、水着は風呂場で身につけるもの、とだけ書かれている。

 水路の深さは、ペンキの目盛りから一二〇センチとわかった。カツシは身長一七九センチ。

「余裕で立てるな。まずは浸かって慣れる」

「ちょっと待……」

 ドボン!

 ミナトの引き止めは遅かった。

「れ、れれ?」

 カツシは暗渠の奥へ一歩ずつ運ばれていった。水の力のことが、まるで頭になかった。

 立つには立っている。が、前に進めない。このままではスタミナを消耗するばかりだ。

「練習するんでしょ!」

 ミナトの声にハッとした少年は、水底から足を離し、手足をばたつかせた。

「も、もがっ!」

 進むどころか、水をたらふく飲んで沈んでしまった。まさか背の立つところで溺れ死ぬとは……。 

 薄れいく意識のなか、どこからか裸の天使が降りてきて笑った。

「あなたはこれまでに八十六回溺れてる。でも、ンニャララ(聞き取れない)カイキョーを半分渡ったこともあるよ」

「な、なんすか、そのナントカカイキョーって」

「いいところよ。美しい場所」

「美しい……場所。そんなの……この世界になんか……」

 悔しいな。見られずじまいなんてさ。

 体が光に包まれていく。ああ、これで俺もあの羽の生えた裸娘のように……。

 そのとき、天使は少年の後頭に飛び蹴りを放った。

「痛てっ!」

 コンクリの水底に頭をぶつけた。

 あれ? なんか急に思い出した。

 気がつくと、カツシはクロールで泳いでいた。息継ぎの仕方も、名前もわかる。習った事ないのに、なぜ?

 少年はミナトのいる所まで泳ぎ進むと、ざばっと立った。

「人間は、生まれつき泳げるらしいな」 



 ミナトは水着を持ってきていなかった。まさか泳ぐ、つまり不可能に挑むことになるとは思っていなかったようだ。広い水道を越えなければ先へ行けないことは、知っていたはずだが……。

「秘密の抜け道があるんだと思ってた」

 仮想世界では、設定上どうしても立ち入れないゾーンがいくつか存在するが、そこをこっそり抜ける道はあるにはあった。だが、代々の勇者の記録によれば、現実世界にそんな都合のいいものはなかった。

 カツシは言った。

「諦めるなら今のうちだよ」

「今日はまだ死にたくない」

 ミナトは言うと、服を脱ぎはじめた。スカートに手をかけたとき、ぼそと言った。

「見たら、刺すから」

「……」カツシはそそくさと端末の明かりを消した。「でもさ、向こうがもし明るかったら、どうしてもさ……」

 ドボン!

「そのときは、そのとき」

 水をかく音がした。溺れた様子はないようだが……。

「どう?」

「触手にからまれてるみたいな感じ。あン……」

「ぶっ!」

 カツシは何かを想像してのぼせた。

「ウソ……初めてなのに、教わった通りに泳げる」

 前世の行いが良かったのかどうか、ミナトには泳ぎの才能があった。

「先、行ってるから、服とかよろしくね」

 一定のリズム、平泳ぎなのだろう、水かきの音が遠ざかっていく。

「よろしくねって……おい!」

 ミナトの黒いリュックは生活防水で、伸縮性にも優れていた。中身はナイフと厚めの携帯端末、その他用途不明の袋やら小物がいくつか。

「風呂場にナイフ持ちこんで、どうするつもりだったんだかな……」

 カツシはぶつぶつ言いながら、二人分の服や靴と、赤面しつつも下着を袋に詰めこみ、それを背負うと、冷たくもぬるくもない水道めがけて飛びこんだ。



 少年と少女は硬い壁に手を触れると、立ち泳ぎに移った。五十メートルの幅はどうにか泳ぎきった。

 ずいぶん横に流されてしまったと、カツシは思った。真っ暗でもそういう感覚はあった。

 風呂パンに手を突っこみ、ぺらぺら端末の明かりを点す。

 どこまでも水道に沿ったコンクリの壁が、水面から数メートルもの高さでそびえている。刃物で切ったように見事な平面。このままでは上がれそうにない。

「あっちへ行ってみよう」

 カツシは水の流れていく方を指した。

 ミナトはうなずきもせず、さっさと一人で泳いでいってしまった。

 おっと、そういえば水着じゃなかったんだ……。

 壁づたいに少し泳ぐと、細いパイプが一本、上の方までのびているのが見えた。パイプは水面の下までつづいている。

 二人は互いに背を向けたまま、一本のパイプにそれぞれ片手をかけた。

「えーと、あの……」

 カツシは仕方なく誰もいない方を照らした。

「リュック返して」

 どうやらミナトは先に上って服を着たいようだ。

 カツシは自分の肩に手をやった。あるのは濡れた左肩だけだった。

「あれ? ない?」

 行き止まりの壁に着くまでは確かにあったはず。肩ひもに一度触れた記憶がある。

「落としたの?」

「みたい……です」

 女のため息が一つ。

 沈黙。

 そよそよ水が流れてゆく。

 額に汗。

 怒鳴られるほうがまだマシだった。

「骨くらいは拾ってあげる」

 潜っていって、命と引き換えに取ってこいと、姫様はおっしゃるのだった。

「そ、そんな……」

「一回で取ってこれたら、ご褒美に……見てもいいよ」

「な……」

「見たく、ないの?」

 カツシは〇・三秒後には泡まみれになっていた。



 人間には潜るという才能も、天から与えられていたようだ。途中で耳が痛くなったが、いつの間にか耳抜きをしていた。カツシはパイプと壁の目盛りを頼りに、深みへ入っていった。

 水位十メートル(水面下十メートル)。底は見えない。ただ、パイプの出口があった。手を当てると、圧を感じた。謎に包まれたKY区域から引いているのだろうか。まさか……水の循環は完璧じゃない、とか?

 そんなことを考えている場合ではなかった。

 何としても、一回で! だ。

 天はなぜか、ふしだらな少年に味方した。ミナトのリュックは水位八メートル(水面下十二メートル)の辺りに刺さっていた金属杭に引っかかっていた。カツシは光る端末を口にくわえると、パイプをつかんだ腕を目一杯のばし、足の指先で黒いリュックを拾い上げた。

 だが、もう息がつづかない。気が遠くなってきた。

 ご褒美、ご褒美、ご褒美……ミナトの声の幻聴があった。

 なめらかな肌色の幻覚が広がった。

 そして……。

「ぶはっ!」

 しばらくは荒く息をするだけで、何も目に入らなかった。

 パイプにつかまりながら、つま先にあったリュックを拾い上げる。

 カツシは左手にした荷物と光る端末を、堂々と裸の少女に向けた。

 生きてて良かった。生まれてきて良かった。人生最高の瞬……。

「あれ?」

 ミナトはそこにいなかった。

「どう? あった?」

 ずっと上の方から女の声が響いた。

 カツシはそこに明かりを向けた。

 壁のてっぺんに、ミナトの顔と手先だけがあった。

 カツシはむすっとして、リュックを掲げた。

「フフ、なに怒ってるの?」

 ミナトは笑った。

「だって……見てもいいって……」

「何を?」

「だから……その……」

 ミナトは主語を言わなかった。まんまとやられた。

 悔しさを噛みしめながら、カツシはパイプをよじのぼっていった。

「ハァハァ……あれ? あんまり進まないや」

 想像よりずっときつい運動だった。ミナトはどうやって上ったのだろう。あんな細い手足で。

 それはともかく、ミナトはここを、あのまんまで、よじ上ったわけで……。

「なに、匂いなんか嗅いでるのよ!」

 カツシはあわてて残りを上りきった。



 ミナトは先に服を着て待っていた。ゴール直前でぜいぜい言ってるカツシから、サッとリュックを奪ったのだ。

 カツシは頂上に片足を引っかけ、どうにか体を引き上げ、そして立ち上がった。

「ハァハァ……手くらい貸してくれたって……」

 口が渇いてそれ以上言えなかった。

「見て」

 ミナトは水道を背にしていた。視線の先には、天井までつづくガラス様の壁があった。壁は曇っていて向こう側は見えない。昼間、最も外側の環状道路から見える、そのままの姿だった。

 ぱっと見たところ入口は見当たらない。

「事実上の世界の果て……か」

「……」

 ミナトはそれからずっと黙ったままだった。

 服を着たカツシは、前へ回りこんで少女の顔をうかがった。

 黒いめのうの瞳はガラスの障壁を睨みつけている。

「どうしたのさ」

「私たちが映ってない」

「なんだって?」

 たしかにミナトの言う通りだった。ガラスは光を反射するものだ。カツシは光る端末を上下させたが、何も変わりなかった。

 ミナトは不意に、ガラス壁に向かって歩きだした。

「ヤケになって頭打つなよ?」

 カツシの冷やかしを無視して、少女はガラスにぶち当たった。

「!」

 ……かと思いきや、姿が消えてしまった。

「ミナト?」

「何もないよ。()()()は」

「こっちって……」

 カツシはおそるおそるガラス壁に近づき、手をのばした。感触がなかった。

 常識上の世界の最果ては、ただの立体映像だった。とはいっても、暗くなれば環境に合わせて見えなくなり、そうかと思えば端末の小さな光にさえも反応する、リアリティを追求した技術の結晶だ。

 カツシは一歩踏み出した。

 何もなかった。本当に何も。

 まるで夢の中に出てくる、果てのない闇。

 ガラス壁の向こう側は、平らな床と暗闇が、小さな光の届く限り広がっていた。

「どういう、ことなんだ? これがKY区域? あんなに恐れられていた?」

「私に訊かれても」

 ミナトは自分の端末の光を頼りに、ひたひたと暗闇を突き進んでいった。

「気をつけろよ。この世とあの世の裂け目があるかもしれない。有毒ガスが充満しているって説もあるし」

「誰が調べたのよ、それ」

「いや、都市伝説だけど」

「それで?」

「べ、別に」

 カツシは急に恥ずかしくなった。ガラス壁の曇りが『有毒ガス説』の根拠だったことを考えると、噂はもう当てにはできなかった。

 ミナトを包む光の輪がどんどん小さくなっていき、ほとんど点にしか見えなくなってしまった。方角を見失ってはならないので、カツシは原点から動けない。

「どうよ、そっちは!」

 少年の張り上げた声は、反響しなかった。

「まだ先が見えないよ!」

 ミナトを包む光が揺れた。手を振っているのだろう。

 無線通信を試みたが、返ってきたのはノイズばかり。妨害の意図が感じられた。

 進むべきか退くべきか、二人は話し合うことにした。

 しばらくしてミナトが帰ってきた。うかない顔をしている。

「奈落の落とし穴でもあった?」

 カツシは冷やかした。

 ミナトは答えず、来た道を振り返った。

「歩いた距離と時間が合わないような気がする」

「……」首筋に冷たいものが走った。「ど、どうしよう?」

 カツシの一言に、ミナトは肩を落とした。

「どうしようって……」

 しばらく沈黙がつづいた。

 ネット世界のイメージが次々と浮かび上がった。ためた百万ポイント、有効期限内に使わないと。仲良くなったあの長耳娘と、もうパーティーを組めないのかな。悪友ABコンビには、まだ言い足りないことがたくさんある……。

 ミナトは寂しげに微笑んだ。

「今帰れば、朝には間に合うよ」 

 売り言葉に買い言葉のようなものだった。

「だ、誰が帰るっつったよ」

「じゃあ、いいの、ね?」

「……」

 カツシは額に汗をにじませ、黙ってうなずいた。腹が決まってないとは、もはや言えそうにない。

 カツシとミナトは、どちらからともなく手をつないだ。

「ごめんね、道連れにしちゃって」

「心中じゃ、ないんだからな」

「そう……だといいね」

 しばし沈黙があった。

 二人うなずき合い、歩き出そうとした、そのときだった。

 背後で女の声がした。

「残念だけど、その子の願いは叶ってしまうわね」

「!」

 二人は身を翻す。

 赤いスーツの女。片手に拳銃を携えている。

 カツシは見覚えがあった。

「あ、あの時の!」

 女の左胸に『常』のバッジが光る。

 常識管理委員会……重大な常識破りの現行犯を抹殺()すのは、彼らの仕事の一つだ。

 女の名は墨田千江(すみだちえ)といった。広げた電子委員手帳に、素顔の写真と名前が光っていた。

 千江はため息をついた。

「心中だけでも第一級の罪なのに、電子ロックは破るわ、水道に入るわ、KY区域に足を踏み入れるわ……もし公表すれば、伝説のKYね」

 カツシは震える声で訊いた。

「あ、あのKYって、何ですか?」

 千江は聞いていなかった。

「それにしても、五十メートル泳ぎきっちゃうなんてね。でもって、君はさらに十二メートル潜った。新記録だわ」

「全部、見られてたのね……」

 ミナトはうつむいた。

「それが仕事だもの」

「どうして、止めなかったの?」

「どうせ溺れると思ったから」

「そんなのおかしい。死にそうな人を放っとくなんて、それこそ常識破りよ!」

 千江は小さくうめいたものの、すぐにつづけた。

「常識データベースには、水道で溺れた者についての処置なんて存在しないわ」

「屁理屈よ!」

「屁……だなんて、それ以上罪を重ねても、痛みが増えるだけよ」

 千江は自動拳銃(オートマチック)のスライドを引いた。

 カツシは言った。

「これまでに、ここで何人殺した?」

「一人も」

 女は肩をすくめた。

「えっ?」

「KANTOを担当するようになったのは、つい最近だもの。SAITOのほうがよかったんだけど、人事異動だから仕方ないわ」

 カツシはミナトの背中にそっと手をまわしてから言った。

「丸腰の未成年でも撃つのかよ」

「丸腰の未成年は初めてだわね」千江は言うと、銃口をミナトに絞った。「少年、ナイフを投げても無駄よ」

「クッ!」カツシはヤケになった。「なにモタモタしてんだ! さっさと撃てばいいだろ!」

「ったく、最近の若いもんは言葉の常識がなってないわね」

 千江はあごをしゃくった。

「ガッ!?」

 目の前が光ったかと思うと、カツシの意識は薄れていった……。



 5



 風を切る音が遠くで鳴っているような気がして、カツシは眠りから目覚めた。

 天井が青白く光っている。かろうじて床と壁の区別はついた。

 狭い密室だった。幅は一メートルなく、高さも同じくらい、奥行きだけその二倍はあった。

 着ていたものはそのままだった。メガネもある。他の持ち物はすべてなくなっていた。ミナトの姿も……ない。

 カツシは考える前に出口を探した。床を這っていくと、色の濃さが違う壁に突き当たった。取っ手も何もないが、床との境目にわずかな隙間がある。

 無駄と知りつつ、叩いて、蹴った。

 手足を痛めるだけだった。

「下にいるの誰?」

 上から女の声がした。

 驚いて顔を上げると、低い天井とドアとの十センチほどの隙間に、見覚えのある少女の顔上半分があった。

「ミナト!」

「ここ、どこなの?」

 カツシはがっかりした。おかげで緊張もとれた。

「そこは普通、呼び返すところだろ?」

「なによ、普通って」

 無理な体勢に疲れたカツシは、仰向けになった。

 独房の構造は容易に想像できた。扉のついた二段の棚に、細長い物を収納するようになっているのだ。

「どこかはわからないけど、俺たちが荷物扱いってことは確かだな」

「実は遺体を保管する部屋だったりして」

「や、やめろよ……」

 カツシは二階の囚人を睨みつけた。

 笑った瞳がすっと隠れて見えなくなった。クソ……面白がってやがる。

 カツシは言った。

「何の部屋かより、どこに向かってるかだよ」 

 ミナトは再び鼻から上を見せた。

「やっぱり、移動してると思う?」

「加速度がゼロだとしても、止まっているときとは、どこか感じが違う」

「さっきね、耳が痛くなった」

 カツシはネット界で得た『非常識』な情報を必死に思い出していた。耳が痛くなるのはたしか、大きな気圧の変化があった証拠だ。それは高速の乗り物で、ある条件が整うと起こる現象だとか……。

 気圧はともかく、高速ということでは、思い当たる乗り物が一つあった。

「そうか、スーパーヒカリ号だ!」

「……私たち、SAITOに向かってるの?」

「他に秘密の路線がなければね」

 スーパーヒカリ号は、遠く離れた二つの世界を結ぶ、高速シャトルだ。かつてはもう一つ世界があって、路線もそこまで延びていたようだが、どちらもずいぶん前に廃止になったという、短い記録だけが残っている。

「SAITOに常識破りの処刑場があるってこと?」

「常管には処刑権があるんだ。なんでそんな周りくどいことを……」

「強制労働、とか?」

「それこそ常識破りだ」

「どのみちあと二、三十分くらいで結果はでるようね」

「……」

 許されたとは到底思えなかった。シャトルが着けば、死よりも厳しい罰が待っているかもしれない。

「ちょっとの間だけど、楽しかった。生まれて初めて、そう思えた」

 カツシの顔に熱い雫が落ちてきた。

「あきらめるのは早いよ」

「いいの。私はもう、一生分の楽しみを味わった。今日まで生きてこられたのは、きっとこのためだったのよ」

「なに言ってんだ。十七年苦しんで、良かったのはたった一日かよ」

「きっと……そういうものなのよ。人生って」

「一つ楽しむために、十も百も苦しむなんて、俺は認めないからな!」

「じゃあ、そうじゃない世界に連れてってよ!」

「……」

 カツシはハッとした。ミナトほど極端ではなくても、自分も似た人生をこれから歩もうとしていたのだ。たいして行きたくもない学校に通い、たいして行きたくもない会社へ入って、修理と節約ばかりさせる危うい世界を支える歯車になる。選択の余地があまりに狭かった。

 その代わり、仮想世界では程々に自由な、第二の人生を与えられている。自宅にこもり、仕事以外のプログラムを立ち上げる数時間だけが自由。落ち着いて考えれば、割に合わないと認めざるを得なかった。

「第一の人生が、好きに生きられないなんて、なんかおかしいよな。いや、絶対おかしい」

「……」

 ミナトは瞼でうなずいた。

「怖いけど、今は待つしかないよ。準備だけはやろう」

 それから二人は、思いつく限りのケースを想定して、打ち合わせをした。



「のど、渇いたな」

 下段で仰向けのカツシは言った。

「けっこう、話したもの」

 上段でうつぶせのミナトは言った。

 スーパーヒカリ号の片道所要時間は、平均すると約四十八分。どう考えても、それ以上話しているという感覚があった。

 ドアの向こう側が騒がしくなってきた。

 カツシは体を丸くして、ドアに耳を当てた。

「どうなってるのよ! もう二時間よ? 何かあったら報告するのが常識でしょ!」

 常識管理委員、墨田千江の声だ。 

「それがその……管理局からは、徐行せよの一点張りでして……」

 車掌とおぼしき男の声があった。男の説明によれば、シャトルは遠隔操作による無人運転のため、こちらからは制御できないとのこと。

「故障とか事故、ではないのね?」

「でしたら、とっくにアナウンスしてますよ」

「あんのガキ!」

 どすどす、という足音が遠ざかっていった。

「あ、ああいうのは、通報しなくてもいいのかな?」

 男は独りぼそっと言った。

 常管はいなくなった。チャンスだ。カツシは力一杯ドアを叩いた。

 男は言った。

「申し訳ありません。あなた方の身柄は、常管の管理下にありますので、私にはどうにも……」

「なぁ! 俺たちは、死刑になるのか?」

「死刑というか、いわゆるその……」

 どこかでアラート音が鳴った。

「うっ! 許可もなしに車掌室……職権乱用じゃないか!」

 車掌は走って行ってしまった。

「ガキって誰のこと?」

 ミナトの問いに、カツシはてきとうに答えた。

「さぁね。局長のワンパクなお子様が、管理局でイタズラでもしてるんじゃないの?」

 外で混乱が起きているのは間違いないようだが、二人にはどうすることもできなかった。

 少しずつ慣性が働いていき、すっと押し戻される感覚。

 長い沈黙があった。

 どこかで空気が吹きだす音がして、独房のドアが開いた。

 右手に拳銃、左手にミナトの黒いリュックを手にした、二つ結びの少女が立っていた。ガスマスクで顔がよくわからない。黒い戦闘服はサイズが合っておらず、あちこちまくり上げている。

「道は確保した。ここから出て、明るい方へ逃げて!」

 カツシはリュックを受け取ると言った。

「き、君はいったい?」

「知らないほうが身のためだと思う」

「そ、そう……なんだか知らないけど、助かります!」

 カツシはミナトの手を引いて、シャトルの乗降口へ走った。後から次々と、常識破りらしき男女がついてくる。

 デッキに戦闘服姿の男が二人横たわっている。背中に『常』のロゴ。それを横目にシャトルの外へ出た。

 薄暗い明かりの下、赤いスーツの女がうつぶせに倒れていた。

「墨田千江……」

 カツシはつぶやいた。

「早く!」

 ミナトは先に走っていた。

 どこまでもまっすぐなトンネルの先に、小さな光の塊があった。

 カツシは、気を失っている千江の上着をまさぐった。奪われた携帯端末を見つけて自分の尻ポケットに入れる。

 脇下のホルダーにおさまった拳銃。

 血走った目をした脱走囚が横切っていく。カツシは拳銃をそっと懐にしまい、ミナトの後を追った。

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