潜在意識の中の命の価値
貴方は身の回りの人の命の価値は平等だと考えますか。
人間の命に価値はあるのか?
人間としての生を授かり、様々な境遇を生きぬき、同じ人生を歩んできた人はいないであろうこの世の中で、誰もが一度は考えた事のある疑問ではないだろうか。
個人的な見解による結論から言ってしまおう。
価値はあるだろう。何を今更当たり前な、そもそも価値をつけるという行為自体、非道徳的な行為だと捉える人も少なからずいるだろう。それでも人の命、生きている人が死ぬという事に価値は見出せると僕は考える。
命に価値があるとわかる実質的な例に、生命保険がある。人が死ぬと、その人の生きていた場合の対価として保険会社からお金が入る仕組みだ。例えば、ある家族の大黒柱である夫が急死した場合に、その後の家計をやり繰りしていくにはその保険金がなくては路頭に迷い、一家心中(流石に大袈裟な気もするが、そのようなことが無いとは言い切れない気もするからだ)、という事態を避けるために設けられた、社会的な命に対する価値の等価交換であると考えられる。命の価値が現金として変換されるいい例である。
命の価値を感じる瞬間は何も保険会社からの現金が振り込まれた時だけではない。精神的な面でも命の価値が影響しているだろう。普段私たちが何気なく過ごしている日常に、死の匂いが漂えばそれは明らかに非日常的なスリルと恐怖、刹那的な命の尊さに包まれる事だろう。そしてそれは神秘的なもの、価値のある日常に変わる気がしなくもない。
想像してもらいたい。もし自分に恋人がいて、恋人はあと余命数時間しかないと告げられたら。残りの恋人と過ごす僅かな時間は、恋人と健康的に過ごしていた何もない日々の時間と比べたら圧倒的にかけがえのないものになるのではないか?余命を告げられてから恋人と過ごした時間は、その後の人生においても忘れられない時間になるだろう。その時の恋人の命は、余命を告げられる前の恋人の命よりも尊く感じるのではないだろうか。
このように命の価値は変動する事もあると言えよう。
例えばだ。道端で老人とその孫である小さな赤ん坊が交通事故で倒れてしまったとしよう。救急車で病院に運び込まれたが、急いで手術を行わなければ二人とも死んでしまう程の大怪我をしてしまった。しかし、病院の人手不足と手術室が空いてないという問題が発生した。一人分の手術しか出来ないということだ。貴方ならどちらの手術を優先するだろうか?
そしてこの問いに対して悩む際、貴方は「どちらの命に価値があるだろうか」を基にして考えるのではないだろうか?赤ん坊には未来がある、親からの愛情をまだ注ぎ切ってもらってない小さな子の命が消えていくなんて悲しい、そう思わないだろうか?それに対して老人の方には、十分長生きしただろう、終わりこそ納得のいくものではないが孫の顔も見れている事だし本人も病気を患って死ぬよりはまだいいのではないか、実は末期ガンで遅かれ早かれ、などと老人の命を赤ん坊の命よりも軽んじてはいないか。このように命の価値には希望や未来が関わった際に、大きく変動するだろう。対して、歳をとり脂肪と諦めの匂いが染み付いてしまった命の価値は下がってしまうだろう。
少し例外的な観点ではあるが、命の価値が性的に影響してくる人も少なからずいるだろう。フランスの思想家、バタイユは生と死の狭間に崇高なものを感じると論じた。そして彼は、母親の死体を目にした時にも、エロスを感じたと言う。死姦にも興味があったと言われている(流石に行為に及びまではしなかったようだが)。しかし、死そのものこそが美しいというわけでもないようだ。生と死の境界線にだけ生まれる生への力にとてつもない美徳を感じるようだ。それには僕も大いに賛同した。生と死を彷徨った際に現れる生への渇望。全身麻酔を打った事がある人ならわかるであろうが、自分の意識が徐々に一点に集中され、そのまま遠く、小さくなっていく感覚。あれは一種の臨死体験であり、生への執着を強くするいい経験だと思う。生への執着と言ったが、それは同時に性にも同じく執着しているだろう。人が死にかけると、無意識的に興奮を覚えるという(死にかけるの状態にもよるだろうが)。
またフェティシズムの中にはマラソンなどで息切れしている異性を見ると欲情を覚える人もいるという。これは息切れという一種の完全な生からの隔離でもある現象故の興奮なのではないかと考える。瀕死の状態の異性を見ると性的魅力が高まるという事もどこかの研究で明らかにされたいうのを聞いた事もある(信憑性に欠ける文章で申し訳ない)。
さあここまでの事を踏まえると、命に価値はあるけども、変動もするという事がわかったであろう。
ここまでつらつらと書いてきて僕が言いたい事は、冒頭に述べたように命に価値はある、という事だけではない事は明瞭であろう。
命の価値という物は、生と死との狭間に置かれた瞬間変動していくものだ。それも無意識のうちに命の価値を見定めているのだ。ただこの行為を恥じるのではなく、人間の本能的でいて利己的な防衛反応と捉えるくらいが丁度いいのではないだろうか。
そして最高の死の瞬間を迎えられるように、今生きているというこの現状でやれることだけの事をやって自分の死の価値を高める。これが今やるべきこと、人生における課題とも言えるのではないだろうか。
起承転結の結がズッコケがちなのは僕の特徴です。