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漆話 初物七十五日、初鰹


 弐


 異世界に迷い込んで、そして運良く……運悪く? 御伽衆という職に就いてから一週間が経過した。


 一週間ともなればそこそこ異世界での生活にも慣れてくるし、情報も集まり出す。しかし肝心の「御伽衆とは何をするのか」ということは全く不明なままであった。


 というのも、俺はあれから一度も白雪様にお呼ばれしていないのである。


 廊下ですれ違う度に俺を視線で射殺さんとばかりに睨む綱吉さん曰く「殿から呼ばれた時に向かえばいい。それ以外は大人しくしていろ。できれば部屋から出るな」ということらしい。


「んー」


 しかし暇だ。何の娯楽もない部屋で過ごすなんて拷問に近い。数冊本が置いてあるも、「御家流」で書かれた文字は特徴的な漢字いくつかと、平仮名の部分が辛うじて判別できるくらいである。読めるわけがない。


「……出かけるか」


 なるべく部屋を出るな、と釘を刺されているが完全に外出を禁止されているわけじゃない。夜四ツ……日本でいう午後九時から十一時は白雪様からお呼ばれする可能性があるため部屋で待機だが、それ以外の時間は自由である。


 前回街を歩いた時、それは即ち俺がこの世界に迷い込んだ日のことで、あの時俺は文字通り無一文であったため江戸の街並みを楽しむことができなかった。正確に言えば江戸じゃなくて白国(しらぐに)だが、それはどうでもいいだろう。


 今の俺はまだ何の仕事もしていないとはいえ、御伽衆という職に就いた武士(サラリーマン)。初月だからと給金は前もってもらっているのである。


 ちなみにその額は十両。現代の感覚に変換するなら大体三百万円というところだ。普通は十石三人扶持……のようにお米で支払われるものなのだが、俺のような下っ端は銀で支払われるのである。現金ならぬ現銀というやつで、銀行もこの現銀からきているわけだ。


 そんなわけで懐ほくほくの俺は早速街へと向うことにした。


 まあ懐ほくほくと言ってもいきなり大金を持つのは怖いということで、俺は特別に年給ではなく月給にしてもらっている。そのため懐に入っている額は六十匁。銭に変換すれば五千四十文。茶屋の団子がひと串あたり四文だったことを考えると、街で飲み食いするには十分すぎるだろう。


「あっ、内蔵助様」


「ん?」


 廊下を歩いていると前方からやってきたお雪さんに声をかけられた。


 お雪さんは俺が眠っていた間、身を清めてくれていたあの小間使い……こっち風に言うなら小者や下人の女性で、俺が白雪様の屋敷にやっかいになるようになってからというものの、会えば言葉を交わす仲になっていた。


「珍しいですね。お出かけですか?」


「はい。お雪さんは今から夕餉の準備を?」


「ええ。今日は初鰹が届いておりますので、内蔵助様も楽しみにしておいてください」


 初鰹……そういえば今はまだ涼しさの残る五月中旬ちょうど鰹が旬というわけだ。


「それは楽しみですね……初鰹は値段が張る分、それはそれは極上だと聞いたことがあります」


「一尾五千文もしましたからね。本当なら私のような庶民は、そう簡単に口にできませんから」


「五千文!?」


 その値段に度肝を抜かれる。五千文は俺の一ヶ月の給金……それがたった一尾で消え去るのだ。


 あまり意識はしていなかったが、やはり殿様は金持ちなんだな……いやまあ、俺のような人間を年収三百万で雇ってる時点で分かったことだが。


「うふふ……それでは、あまり遅くならないうちにおかえりくださいね」


「は、はい……」


 俺たちは会釈すると、止めていた歩みを進める。


 お雪さんは鰹を捌きに。そして俺は街へと遊びに。


 しかしいつも通り軽やかな彼女とは違い俺の足取りは重い。金があるのをいいことに好き勝手飲み食いしてやろうと思っていたのだが、初鰹を食べるとなると自重した方がいいかも知れないからだ。やはり空腹は最高の調味料というし、たかが四文のお団子でその幸せを無に帰すのはどうかと思う。


 だが、今はまだ日が落ちる手前。夕餉には少し時間があり、部屋で無作為に時間を浪費するのもいかがなものか。元々俺は暇つぶしの名目で街に繰り出すつもりだったのだから。


「あっ」


「む」


 それでも街に行ったら絶対何か買ってしまうよな、と悩みながら歩いていると、今度は前方に綱吉さんを見つけた。


「き、奇遇ですね」


 その出自の怪しさから俺は綱吉さんに嫌われている。いやもう、目の敵にされていると言ってもいい。


「……内蔵助か。貴様、こんな時間に屋敷をほっつき歩いて、どこに行くつもりだ?」


「あ、あはは……ちょっと手持ち無沙汰なもので、街にでも行こうかと」


 何も疚しいことはないため正直に答えるも、綱吉さんはぎらりと俺を睨んだ。手はしっかりと刀の柄を握っている。


「ほぉ……街へ、か。語るに落ちたな、内蔵助。街へ行くなら出口はこっちじゃない。貴様、何を隠している?」


 チャキ、と鯉口を切る音が廊下に響く。


「うぇ!?」


 そんな馬鹿な!? と咄嗟に辺りを見回すと、確かにこの道は出入り口に通ずる道ではなかった。しかも最悪なことに、この先にあるのは白雪様の寝室である。


 しまった。完全に鰹に気を取られていた。くそ、五千文の値は伊達じゃないということか! ここまで振り回されることになるなんて思いもしなかった。


「ちょ、ちょっと待ってください、俺は……」


「俺は?」


 鰹に意識を奪われた、と言おうものならなんと馬鹿にされるか。しかし良い言い訳がこんな土壇場で思いつくわけもなく、俺は嘲笑されることを覚悟して口を開いた。


「……お雪さんに、初鰹が届いたと聞いて夕餉のことを考えていたら……その、気が付けばここに」


 ああもう、絶対馬鹿にされる……そう思って足先を見つめるが、意外なことに笑われることはなかった。


「何、初鰹だと!?」


「っ、は、はい」


 綱吉さんは柄から手を離して俺の肩を掴むと、真相を確かめるように勢いよく前後に揺らす。その剣幕に圧倒されながらも言葉を返すと、綱吉さんは満面の笑みを浮かべた。


「そうか! 初鰹か! ……うむ、それなら致し方あるまい」


 正直綱吉さんは怒った表情や不機嫌な姿しか見たことがなかったため、不意に見せられた笑顔に心臓が跳ねた。


 よくよく見なくともこの綱吉という人、かなりの美人である。俗に言うポニーテールのため晒された真っ白なうなじが男の情欲を掻き立てるし、何よりもそのプロポーション。着物の上から分かる乳房のでかさに、折れるほど細く引き締まった腰。


 紛うことなき美女が少女のように天真爛漫な笑顔を浮かべているのだから、見惚れてしまうのもそれこそ「致し方ない」というやつだ。


「……ん? 私の顔に何か付いているのか?」


「い、いえ! 旬の鰹は確かに美味ですが、何故そこまで喜ばれているのかと疑問に思いまして」


「貴様知らんのか? 『初物七十五日』と言って、初物を食べると長生きすると昔から言われているのだ。ぜひ今回の鰹も殿に食べていただかねば」


 そう言う綱吉さんの笑顔は本当に綺麗で、綱吉さんみたいな人にそこまで言わせる我が殿はどういった人なのか俄然興味が湧いた。


 ……いやしかし我が殿、か。自分で言っておきながらも不思議な語感である。あれだけ生まれてくる時代を間違えたと思っていた俺に、主君ができたのだ。そのことに関する喜びよりもまだ、困惑の方が大きい。何せ俺は自分の主君のことを何も知らないのだから。


 それでもやはり。


「そうですね。ぜひ殿には一番良い部分を、一番美味しい食べ方で食していただきたいです」


「おお! 珍しく気が合うな内蔵助! やはり初鰹、であれば殿には――――」


 俺たちは珍しく微笑み合い、自分が考えるベストな調理法を同時に口にした。


 そうだ、鰹と言えばやはり。


「タタキ、ですね」


「握り、だな」


 そしてお互いの顔を見合ったまま固まった。

お金の計算は「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)」より「現代感覚」を参考にしております。

現在価値ではないこと、また必ずしも当時に即した値段設定ではないことを留意してお読みいただきますと幸いです。

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