拾話 高貴なる者の義務
「……いいか、内蔵助。これだけは言っておく。ここ数百年、我が国では目立った戦争は起きていない。それは小競り合いも含めてだと思っていい。そんな国で軍備が縮小されるのは当然のことで、今や殿より金を持った豪商は何人もいる」
そこまで歴史に詳しいわけじゃないが、確かに江戸末期は武士の立場が危うくなっていたという。もちろん武士は何人もいたが、従来の剣術に優れた存在は追いやられ、算術が得意な者の方が出世も早かったらしい。そしていつしか武士という職業は消えた。
ここ白国もいまそういう状態に近付いているのだろう。
「そんな中、殿は税を重くしてでも軍を維持しておられる。……もちろんそれで民がどう思うか、どういう行動を取るか……お前にはわざわざ語らなくてもいいだろう」
ああ、そうだ。ずっと思っていたことである。
この国は城下町ですらも賑やかさとは程遠い。
体力のある者、金のある者は早々に別の国へ逃げたのだろう。残ったのは先祖代々の土地を守るためだとか、移動する体力や金がない人間である。当然活気ある街とは逆の道を歩むはずだ。
「この国は皆が思っている以上に危うい状態にある。内々に眠る怒りはいつ爆発してもおかしくはなく、当然武士に支払われる米も随分と減った。……とはいえ職があるだけありがたいのだが、無論米が減ったという目の前のことしか頭にない人間もいるからな。城勤めの人間ですら殿を悪く言ったりするわけだ」
「……その人間は?」
「腹を切らせた。当然だろう? 争いの種になるし、そもそも不敬を働いた者を罰するのは当然の話だ。だがそれすらも争いの種になるような時代なのだ」
殿に対する暴言ですら、国を思っての発言。忠義の証になるらしい。
まあ、分からない言い分ではない。だが国を憂いて殿に直談判するならまだしも、要するに陰口を叩いていたわけだ。そして不必要に不安を煽り、人々を先導していたのであればそれはもう叛乱の域である。
「この国にいる武士はな、既に米を食うために武士をやっているか、国に仕えている者しかいないのだ。……つまり殿が雇い、殿に仕えている侍はお前しかいない。…………私はこの国の人間ではないからな」
ふっ、と綱吉さんは自嘲気味に笑った。
そうだ、あれだけ殿至上主義の綱吉さんも、殿に仕えているわけじゃない。……詳しく聞いたことはなかったが、綱吉さんはこの現状をどう思っているのだろうか。今殿の元にいるのは殿の母君に命令されたからなのか、それとも……。
「綱吉さんは……」
このわずかな期間で俺と綱吉さんは……なんというか、仲良くなった。だけど殿のことについて聞けるほど親しい仲だとは断言できない。だから俺は質問を変えた。
「綱吉さんは、この現状をどう思っているんですか? やはり軍備は縮小すべきだと思います?」
この世界の武士は武官であり文官である。だから綱吉さんも当然頭が良く、休みの日は兵法書の書き写しをしていたこともあった。……それも見て写すのではなく、頭の中にある文章を。
覚えてしまうほど繰り返してきたのだろう。その教えの中には今のように滅んだ国の話もあるはずだ。
だから綱吉さんは是と答えるだろう。……そう思ったが、返事はどちらでもなかった。
「内蔵助。私は殿に進言するし諫言もする。だけど最終的な決定権は殿にあって、決められたことには従うだけだ。あくまで我々は臣下であることを間違ってはいけない。殿が白だと言えば、黒でも白なのだ」
「……はい」
それは要するに、軍備は縮小すべきだと考えている、と思っていいのだろうか。綱吉さんは黒だと思っている。殿に黒だとも言った。だがそれでも殿は白だといい、綱吉さんはそれに従っている。そう考えていいのだろうか。
……綱吉さんと話していると自信がなくなる。俺は俺なりに祖父の背中を見て、武士という像を見てきた。だがそれが容易く揺るがされる。
忠義とは何なのだろうか。死ねと言われれば腹を切り、殺せと言われれば無辜の民すら殺す。それは果たして武士と言えるのか。
武士道とは何なのか。
どれだけ悩んでもその答えには至らない。
「話しはここまでにしよう。私は部屋に戻るから、お前も戻れ」
「あ、はい……っと、その前に……殿は今自室に?」
「おそらくそうだろうが……何か用事か?」
問われ、俺は懐に仕舞っていた黒色の簪と赤い紅を取り出した。
「お雪さんと綱吉さんに渡して、殿に渡さないのは不公平というか何というか、気持ち悪いので一緒に買ったんですけど……まずいですかね?」
貢物にしては安価すぎる。それに俺が勘違いしていたことを知っている殿相手とはいえ、改めて簪と紅を渡すのはまずいかもしれない……ということにふと思い至ってしまった。
こんなことなら買う前に聞いておくべきだった……と若干後悔したが、どうやらその後悔は杞憂のようである。
綱吉さんはふんわりと笑い、慈母のような眼差しで俺を見ると口を開いた。
「……殿も喜ばれるだろう。私が取り次ぐから、直接渡すといい」
「ありがとうございます」
綱吉さんと殿の寝室に向かい、俺は外で待機する。
彼女が取り次ぐと言ってくれたのだから、きっと問題はないはずだ。……とはいえ変に緊張するというか、手の平にじっとりとした汗を掻くことは止められない。
「内蔵助、入りなさい」
「……失礼します」
中に入ると、綱吉さんはいつもの場所に座っていた。しかし普段は薄布の先で待っている殿は外に出ており、長い黒髪を綱吉さんに持たせてその隣に座っている。
「それで、内蔵助。用事とは何かしら? 私はそれよりも早く、今日のデートについて詳しく聞きたいのだけれど」
「えっと……その前に、まずはこちらを……」
綱吉さんやお雪さんに渡した時とは違った緊張に喉が渇くが、唇を舐めて湿らせると何とかそれだけを口にして隠し持っていた簪と紅を渡した。
「何かしら? ……って、これは――――」
「その、白雪様からいただいた金子でというのも恥ずかしい話なのですが、俺にとっての一番はやはり白雪様なので……ぜひ、受け取っていただきたく思い買ってきました」
「……っ」
息を呑む音がした。俺は色々な感情――主に羞恥と緊張――により白雪様のご尊顔を拝見することができないわけだが、その表情がほんの少しでも喜びに近いものであると嬉しい。
しかし白雪様からは何の言葉も返ってこない。
まずったかと思いちらりと白雪様の顔を見れば――――その顔は、真っ赤に染まっていた。
と言っても乙女的なそれじゃない。どっちかといえば「内蔵助の癖に生意気な」と言わんばかりの、こう……ややキレ気味な表情を浮かべていた。
「白雪様……?」
俺、やっちまいました? ご慈悲的なものは頂戴できますか? という懇願の声をあげる俺に、白雪様は「はっ!」とした顔をすると、ぐるりと凄い勢いで身体を回転させる。
お前の顔など見たくないという意思表示だろうか。
「えっと――――」
「いつもの」
「え?」
「いつもの時間に、また来なさい」
それがどういう意味なのか、俺には分からなかった。
ただ臣下として、命じられれば答えはイエスしかない。
「わ、分かりました」
困惑しながらも白雪様の部屋を後にする。
外はもう少しで陽が落ちようとしているところで、オレンジと藍色のグラデーションが綺麗だ。
しかしそんな綺麗な夕焼けには興味ないとばかりに、緊張から解放された俺の腹がぐぅと鳴る。
そういえばもうじき夕餉の時間か。
白雪様の考えは俺には分からない。故に考えるだけ無駄だと思い、俺は呑気に献立を考えながら自室に戻った。
「白雪様、内蔵助です」
亥の刻。俺は言いつけ通り再び白雪様の寝室にやってきた。
「入りなさい」
「失礼します」
いつも通りの時間、いつも通りの場所、そしていつも通りの対応。
御帳台の横には綱吉さんが座っており、帳越しに白雪様の影が揺らめいている。
俺はいつも通り御帳台の中に入る――――が、中にいた白雪様はいつもとは違い座ったまま俺を待っていた。