玖話 早漏侍
屋敷に着いた俺は、まず炊事場に向かった。もちろん夕餉の下準備をしているであろうお雪さんに会うためである。綱吉さんに付いてきてもらった方がスムーズに事が進む気がしたが、自分で蒔いた種なのだから自分でどうにかするしかない。
「あ、お雪さん。ちょっといいですか?」
「え!? く、内蔵助様!?」
俺が炊事場に顔を出すと、お雪さんは大きく丸い瞳をさらに丸くさせた。その顔は「嗚呼、ついにその時が来てしまったのですね」とでも言いたげである。
そして俺とお雪さんを見て、その他小間使いたちがざわついた。
「……ちょっと、例のお侍様が」
「え!? 噂の紅侍!?」
なんだその紅侍ってのは。
と聞きたいことはいろいろとあったが、要するに俺がお雪さんに紅猪口を渡したことは知れ渡っているようだ。
まあ噂というものは娯楽の多い現代でも親しまれていたのだから、こんな世界では特に顕著であろう。どうせ誤解は解けるわけだし、今はあることないこと言われたとしても耐えるしかない。何も調べなかった俺にも非があるわけだしな。
「あ、あの……私、お仕事が……」
「大丈夫です。ものの数分で終わる用事ですから」
「えっ」
「えっ」
何故か驚愕するお雪さんに俺は首を捻った。
「まあ! 数分で!」
「……早漏侍……」
おい、聞こえてるぞ!
という念を込めて睨むと、小間使いたちは慌てて自らの作業に戻った。……なるほど、だからお雪さんは驚いたのか。俺も驚きだよ。
「……言っておきますけど、そういう用事じゃありませんから」
「あ、あはは……」
お雪さんは目を逸らして乾いた笑みを浮かべた。なんて倫理観なのだ、この世界は。
「取り敢えずここじゃいろいろと目がありますし、ちょっと離れましょう」
「は、はい……」
おそるおそる付いてくるお雪さんを伴って、俺は屋敷の廊下を歩いた。
……ここら辺でいいか。
「お雪さん、まず先に一つ謝らせてください」
「謝る、ですか」
「はい。そういえばお雪さんには話していませんでしたが、俺はこの国の人間ではありません」
「白国の方ではない……?」
「そうです。なので率直に言うと……紅を送ることの意味を全く知りませんでした! 何も知らなかったとはいえ、お雪さんを困らせてしまったことを謝らせてください!」
ガバッ、と頭を下げる。お雪さんからすると俺は「弁当を作ってやったら勘違いしてセクハラしてきた男」でしかないため土下座でも構わなかったが、そんな場を見られた方がお雪さん的には困るだろう。主に新たな噂の中心人物として。
「そ、そんな……お顔を上げてください」
そして頭を下げればこうして許してくれるだろうと考えていたため、思い通りと言えば思い通りだが、だからこそ申し訳ない気持ちがあった。こうやって謝ればお雪さんは許すしかない。
その申し訳なさも込めて、俺はお雪さんに簪を差し出した。
「簪を送る時の意味も聞きました。でも、だからこそ受け取ってください。俺の国で土産とは誠意の証なので、念を押して言いますが他意はありません」
「……しかし紅をいただいて、簪までは……」
もちろんそう返答があることは織り込み済みである。そしてそれに対する回答も事前に用意していた。
「今回、本当に他意がないことを証明するために、俺がお世話になった人たち全員に土産を用意しているんです。お雪さんが受け取ってくれないと綱吉さんに渡せないんで、できれば受け取ってもらえると嬉しいです」
「綱吉様にも……」
ちなみにこの簪、髪の短いお雪さんは使わないだろう。だからこそ受け取りやすいし、綱吉さんと別のものを買うと他意があるように思えるために購入したのだ。
「……分かりました。そこまで言われて、受け取らないわけにもいきませんしね」
「ありがとうございます……! 無論他意はまったくないので、そこは安心してください」
「…………それはそれで、何か思うところがあったりするんですけど……」
「え? 何か言いました?」
心の中で小躍りしていると、何やら不満そうな表情を浮かべるお雪さんと目が合った。
「何でもありません! ……それでは仕事がありますので、失礼させていただきます」
……あれ? 何か怒っていたりするような気がするのは俺の気のせいだろうか。まさか、使えない簪を送ったのはやはり問題があったか?
少し不安になったが、廊下の角を曲がったお雪さんは顔だけを出すと、
「……内蔵助様、ありがとうございます。お土産、嬉しいです」
とはにかんで去って行った。
「…………狙ってやったとしたら、とんだ魔性の女だな」
逸る鼓動を押さえながら、俺は誰に言うわけでもなく呟いた。
「何が魔性なのだ?」
「うわ!?」
突然どこからか現れた綱吉さんに声をかけられ、俺はその場で小さくジャンプした。
いきなり声をかけられて驚いたのもあるが、何故か浮気現場にニアミスされたみたいな緊張がある。俺と綱吉さんは、どころかお雪さんとも何か特別な関係であったりするわけではないが、それでもデートの後にすぐさま他の女性に見惚れるのはよろしくない。
「あはは、なんでもないです。……それより、おかげさまでお雪さんの誤解を解くことができました。ありがとうございます」
「うむ、それは良かった。私が付き添った甲斐があったというものだな」
本当に殿と綱吉様々である。お礼の紅と簪は白雪様にいただいた金子から出したという後ろめたさがあるので、次の簪は何としてでも俺の金で購入せねばならない。
もちろん簪を買う蓄えくらいはあるが、念には念を入れてギルドに通うことにしよう。
「して、内蔵助。前々から聞いておきたかったのだが、お前はお雪殿に恋慕の情を抱いていたりするのか?」
「ぶっ!?」
油断していた瞬間を突かれ、俺は反射的に吹き出した。
思春期の男にとって恋愛云々はそう単純なものではない。優しくされれば、どころか綺麗な女性に微笑まれただけで胸がときめく年頃というやつである。
「……俺にとってお雪さんは、そういう対象ではないですよ」
……とはいえ、流石に俺が抱いている感情が恋心でないという判断くらいは着いた。
綺麗だと思うし、可愛らしさもある。この世界で唯一、年齢の近い知り合いであるから気になる女性ではあった。
だけど美人で気になる女性といえば綱吉さんもそうだし、殿もそうである。つまりこの感情は恋などではない――――
「そうか! それは良かった」
――――のだが、そういう反応をされるとやはり心臓が跳ねる。
こう、もしかして嫉妬とかそういうあれだろうかとか思ってしまうわけだ、俺は。
いやだって、殿公認のデートを果たして、しかもそれが終始いい雰囲気だったのだから期待せざるを得ないだろう。
「……なんで、良かったんですか?」
そして俺はつい聞いてしまった。もはや答えを聞くような暴挙である。
だが聞かないわけにはいかなかったのだ。
しかし。
「それはもちろん、お前が身も心も殿のものであるからだ」
帰ってきた答えは俺が予想したものとは違ったし、その態度も予想とは全く別のものであった。
だがまあ、確かに綱吉さんっぽくはあった。常に殿を一番に考えている綱吉さんなのだから、おかしくはない。
「まあ、そうですね。俺の忠誠も命も、殿に捧げるつもりですし」
とは言ったものの、俺が言うと随分軽いものに聞こえた。仮に綱吉さんが同じ言葉を使ったとして、その覚悟の違いだとか説得力には大きな開きがあるように思える。
そういう些細な点で俺は、まだまだ武士には程遠いのだなと思わされてしまった。