捌話 方便
「っ」
時折絡めた指に力を入れたり、比較的可動域の広い親指の腹で綱吉さんの手のひらをくすぐると、彼女は顔を赤くして震えた。だけどデートだからだろうか。綱吉さんはやはり何も言わなかった。
俺はそれを勝手に「許し」だと解釈して、軟らかな肌の感触を堪能する。
やがて。
「内蔵助」
「はい」
相変わらず疎らな人々の隙間から、露天商の姿が見てとれた。夕餉には少し早いが、天ぷらや寿司を扱う屋台も準備をし始めている。
「まあ、手は離しませんけどね」
指を絡めたまま見ることを宣言すると、多少なりともその覚悟をしていたであろう綱吉さんは、小さくため息を吐いたが拒否しなかった。綱吉さんは多分、押しに弱い。俺の辞書にそんな言葉が追加された。
「何かお探しで?」
押し車にこれでもかと商品を詰めた露店の主が、俺たちの視線に気付いて声をかけてきた。
もちろん以前出会ったあの店主だという奇跡があるはずもなく、俺たちはなんとなくそこに近付いた。もとよりここ以外に露店がないわけだし。
「勝手に見るんで遠慮なく」
前回のようにいろいろ言われても困るし、こっちはデート中なんだから空気読めよな、という意思を瞳に乗せて伝えると、店主は「何かあれば声かけてくだせえ」と品出しに戻った。
売れ行きが良くないからか、それともライバルのいない今こそ勝機だとあくせく働いているからか、展示された品に欠けは見受けられない。選り取り見取りというやつだが、果たしてここに綱吉さんが満足する品はあるのか。まあなくてもここで選ぶしかなさそうなんだが。
「やっぱり血色の良さそうな真紅に近い紅ですかね」
貝に塗り固められた赤い紅を手に取る。綱吉さんの格好にあまり真紅は似合わない気がしたが、たとえば血の雨が降る戦場で血より赤い色はさぞかし映えることだろう。まあここ数百年戦争のない世界で、どれだけ人と斬り合う機会があるわかは不明だが……しかしだからこそ、とっておきの化粧として持っておくのもありだろう。
「そうか? こちらの薄い桃色の方が似合うと思わないか?」
「いや、今の格好にはそっちの方が似合うと思いますけど、刀を振る時はこっちの方が良くないですか?」
「ん? 何故刀を振るうのだ?」
「え?」
「え?」
お互い微妙に話が噛み合っておらず首を傾げる。
だがすぐに、綱吉さんはお雪さんのことを言っているのだと気付いた。
「ああいや、今選んでいるのは綱吉さんの分ですよ」
「……え?」
「元々そういう話だったじゃないですか。今日のメインは綱吉さんですよ」
「なっ……いや、だがお前はお雪殿の土産、そのついでだと……」
「ああ、あんなの方便ですよ」
あんなの、というのは失礼な話ではあるが、俺は敢えてその言葉を使った。だって今日のために着飾って、髪結い屋で丁寧に髪まで結ってきてくれた綱吉さんがついでだなんて、そっちの方が失礼だろう。
「方便ってお前……」
どこか呆れたように綱吉さんが言う。だがその顔は満更でもなさそうだ。
「じゃあ紅はこれということで、次は簪ですね」
「簪も買うのか!?」
「そりゃそうでしょ。簪の方が普段から使うでしょうし」
綱吉さんはあまり化粧っ気のない人で、朝もキンキンに冷えた井戸水で豪快に顔を洗うような人だから紅を使う機会は少ない。だが簪なら毎日使うだろう。やはりプレゼントした側としては使っているところを見たいわけで、簪を買うことは確定事項なわけだ。
それにお雪さんもそうだが、綱吉さんにも随分とお世話になった。だから俺は、二人の間であまり差は付けたくなかったのである。
「……今日はまあ、内蔵助に全て任せる。オナゴとはこういう時、そうするものなんだろう?」
「そうですね」
一概にそうとは言えないが、間違いというわけでもない。それに俺としてはそっちの方が有り難いため、特に否定はせずに頷いた。
「……ふむ」
数十種類はある簪を眺める。
幸い白雪様から金子はいただいており、値段は気にせず買える。そのため単純にそれが綱吉さんに似合うか否かで考えることができた。
候補は……二つ。
一つは朱を散りばめられた華やかな簪。もう一つは紺を基調としたシックな感じの落ち着いた簪。
今の格好なら当然前者である。しかし普段使いを考えるなら、綱吉さんの紺色の和服に合わせて後者の方が合うように思えた。
昨日までの俺なら当然後者を選んでいたが、綱吉さんの女性らしく可愛らしい一面を見た今だと前者も捨てがたく思える。
「うーむ……」
わずかに今、天秤は紺色の簪に傾いている。だがこれを受け取った綱吉さんはどう思うだろうか。
何せ俺は今、両方を買うと決めている。
つまり綱吉さんに渡さない方をお雪さんに渡す簪とする予定なのだ。
であれば、だ。綱吉さんに地味な色を渡し、お雪さんに女性らしい華やかな簪を渡すことになる。
もしかしてのもしかしたら、綱吉さんは傷ついてしまうのではないかという危惧があった。
……悩んだ末、俺は一つの結論を出す。考えてみれば、悩む必要はなかったのだ。
「店主、これください」
いくつかの簪と紅を見せ、金子を支払う。
綱吉さんの分はそのままで、残りの土産は懐に仕舞った。そしてどこかそわそわと落ち着かない綱吉さんに向き直って、買ったばかりの紅と簪を差し出す。
「……綱吉さん、あなたのことを考えて選びました。受け取ってください」
俺は真紅の紅と――――少し地味な、紺色の簪を差し出した。
「……ああ、いただこう」
それを綱吉さんは複雑そうな表情で受け取った。俺には彼女が何を考えているかは分からない。本当に紅と簪を送られて困惑しているだけかも知れないし、先ほど想像した通りかも知れない。だがまあ、そんなものはどうでもいいのだ。
「この簪は、いつもの綱吉さん用ですから、普段はこれを使ってくれると嬉しいです。――――それと、今のような格好に似合う簪は、次回また一緒に買いましょう」
そう俺の思いを伝えると、綱吉さんは驚いたように目を見開いた。
また一緒に茶屋に行く約束はしたが、その立場は部下と上司のものかも知れない。だけど簪を買いに行くのであれば話は別である。
その考えが分かったのか分かっていないのか……それこそ俺には分からないが、綱吉さんは小さく笑い、
「ああ、そうだな」
と了承してくれた。
「……それじゃあ、そろそろ帰るか」
「もうですか?」
「目的は果たしたからな。あまり遅くなるとお雪殿も家に帰ってしまうだろう?」
思わず出た本心の言葉に、綱吉さんは童をあやすような声色で言う。
だがまあ、確かに今日の目的は果たした。それでももう少しデート気分を味わいたいのは、男として当然のことだろう。
「……だがまあ、帰るまではその………………ほら」
綱吉さんはそっぽを向き、俺に手を差し出した。わずかに見える耳は真っ赤に染まっている。
俺は彼女も意識してくれているのだという喜びと嬉しさを押し隠しながらも、その手をそっと握った。もちろん指を絡めて。
「……綱吉さん」
「なんだ」
「今日、楽しかったですね」
「……まあ、そうだな」
「絶対また来ましょうね」
「……ばか」
それから会話は途切れ、俺たちは無言のまま屋敷に帰った。
だがそれは気まずさというよりも、単に言葉なんていらなかっただけである。