壱話 異世界転移
壱
ある冬の日、祖父が餓死した。
祖父は昔ながらの……いわゆる侍的な精神を大事にしている人間で、田舎町の小さな剣道場を営んでいた。昔はそこそこ盛況だった頃もあるらしいが、この世の中、しかも少子化の状態で門下生も集まらず……気が付いた時には俺と祖父しかいなかった。
元々食事は質素なものを意識し、ご飯に漬物や味噌汁といった「一汁一菜」が基本。だから食費などはそこまでかからないはずである。
しかし気が付いた時には米を買う金すらなかったようで、祖父はこの現代で餓死した。
両親は祖父と疎遠気味で、俺も高校に上がってからは勉強が忙しくなり祖父の道場には通っていない。だから祖父が死んでいることにすら一ヶ月ほど気が付かなかった。
「武士は食わねど高楊枝」
とは祖父がよく言っていた言葉の一つであるが、刀で身を立てられなくなった以上恥ずかしくて助けを求められなかったのだろう。武士……が本当はどう考えていたかは知らないが、少なくとも祖父にとって恥とは忌避すべきもので、武士らしくあることが命よりも大切だと考えていた。
武士とは、侍とは何か。
それは祖父のもとで十年間刀を振っていた俺にも分からない。
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な言葉があるが、少なくとも餓死することが武士道ではないだろう。
であれば祖父の無念は想像を絶するものであり、この現代に生まれてきたことそれ自体が間違ったことなのかも知れない。
そして生まれる時代を間違えたのは、そんな祖父のもとで刀を振り続けた俺も同様で――――。
「ん?」
不意に。
何かに引っ張られるような感覚と共に身体が上昇する。目を開けているはずなのに真っ暗な空間をひたすらに上昇していく過程で、そういえば己は今寝ているのだったと思い出した。
ああ、目が覚めてしまう――――
「――――け。…………すけ。……内蔵助!」
誰かが呼んでいる。そういえば、授業中何故か突然眠くなって……それで。
「いい加減起きろ、クララ」
「誰がクララだ」
ふざけたあだ名に目が冴える。俺は机の上に散らばっている筆記用具の中から定規を掴み取ると、そのまま真横に一閃した。
「が!?」
股間に定規での一撃を喰らった男が悶絶して蹲る。
こいつの名前は原 金忠。クラスメイトというか友人というか、いわゆる悪友のようなものだ。
赤穂 内蔵助という可愛げのない名前に愛嬌をもたせるという謎の理由で、俺のことをクララと呼んでいる。正直不愉快極まりなく、呼ばれる度にこうして一撃を入れているためそのあだ名は流行っていない。
「内蔵助てめえ……起こしてやった親友に対する感謝はねえのかよ……!」
金忠は股間を押さえながら上目遣いに俺を睨む。
そういえば俺は寝ていたんだっけか、と教室の壁にかかった時計を見やれば、短針が「4」の字を指していた。
午後四時。授業は終わり、とっくに放課後である。登校し、一限と二限を受けた記憶はあるが昼食を食べた記憶はないため……俺は六時間近く居眠りをしていたようだ。
果たして六時間の睡眠を居眠りと呼称していいのかは不明だが、そんなことよりも何故俺は六時間も寝ていたのだろうか。
昨日は鍛錬である素振り千回を終え、二十二時には床に就いた。起床は五時であるため睡眠時間は十分足りているはずである。
「金忠。何故誰も俺を起こさなかった?」
「何でってそりゃ……ん? なんでだろうな?」
金忠は不思議そうに首を捻る。
それはそうだ。六時間も寝ていて、友人どころか教師でさえ起こそうとしなかったのだ。はっきり言っておかしい。常識的に考えて起こり得ないはずである。
「誰か俺を起こそうとはしたか?」
「いや……というか、お前が寝ていることに誰も気が付いてなかったって感じかな。俺も帰ろうとしてようやく気が付いたくらいだし」
「誰も気が付いていない……?」
そんなことが有り得るだろうか。今こうやって有り得ているのだが、それでも釈然としない。
「……考えても無駄、か。……金忠、お前は今日部活か?」
「ああ。つーか内蔵助も、いい加減部活やったら? 剣道部とか」
その言葉に、自分の眉がぴくりと動くのが分かった。
「剣道部? 未経験者が高校二年の夏に入って、どうにかなるような部活じゃないと思うが」
「いや、未経験って……道場に通っていた人間が言うセリフじゃないだろ」
金忠が言いたいことは分かる。しかし俺は断固として主張せねばならない。剣道と剣術は全くの別物であると。
「それはあれだ。玉を蹴るからという理由で、空手家にサッカー部を勧めているようなものだぞ」
「そこまで違うのか?」
「お遊びと一緒にしないでくれ」
「……まあいいけどそれ、剣道部のやつには言うなよ?」
わざわざ喧嘩を売る気はないと、俺は首をすくめて答えた。
剣道をやっている人間を侮辱する意図は全くない。だが剣術は人を殺す技であり、剣道はスポーツだ。その差は一般人が思っている以上に大きい。
それに剣道はどちらかと言うと西洋剣術に近い。いわゆる侍的な技は居合道のような流派がより近いだろう。剣術は基本的に鍔迫り合いを良しとしないからな……なんて、真剣で斬り合ったこともないのに言えるセリフじゃないか。
変なプライドが剣道は邪道だと言っているが、所詮それは時代に取り残された者の妄言だ。祖父も俺も、生まれてくる時代を間違えたのだろう。
「んじゃ、そろそろ行くわ。疲れが溜まってんなら早く寝ろよー」
「ああ」
部活に向かう金忠を見送り、帰宅しようと教科書の入った鞄を持ち上げれば、ずっしりとした重みが腕にのしかかる。普段の訓練で使っている木刀よりも重い。
置き勉すればいいのだが、融通の利かない俺はわざわざ持って帰っていた。
たまには寄り道でもしてみようかと思うも、金忠の言葉に従って大人しく帰ることにする。
疲れが溜まっているような自覚はなかったが、六時間もぐっすりと眠ってしまった以上自分は信用できない。だから真っ直ぐ自分の家に向かう……その道中、俺は耐え難い眠気に襲われた。
ふっと、突然暗くなる意識に抗いながらふらふらと前に進む。眠気というよりはもはや気絶に近かった。間違いなく家まで意識が持ちそうにない。
「金忠……いや」
眠い、というだけで部活中の金忠に電話するのも悪い。それに部活中ならメッセージを送っても気が付かないだろう。
わずかに逡巡し、取り出したスマホをポケットに戻した。
「……くっ」
どこか休める場所はないかと必死に足を動かすと、近くに小さな公園があった。ベンチはあるが俺が眠れそうな大きさじゃない。
あまりの眠気に両目を開けることができず、左目だけとなった状態で辺りを見渡す――――あった。
公園で一番大きな桜の木。そこなら気持ち良く眠れそうだし、人様に迷惑かけないで済みそうだ。
俺はなんとかその桜の木の下まで向かうと、ポケットの財布とスマホをなるべく奥に入れ直し、鞄を枕代わりにして横たわる。
意識を失うまで、五秒もかからなかった。
「…………んっ」
肌寒さに俺は目を覚ました。ガヤガヤと喧騒が聞こえる。
そういえば公園で急遽お昼寝と洒落込んだんだっけか、と立ち上がって伸びをする。それにしてもよく寝た。やはり知らずのうちに疲れが溜まっていたのか、振り返ってみれば感じていた肩の重さや倦怠感は全て吹き飛んでいる。
「案外気が付かないもんなんだな――――」
と。
独りごちる俺の目に、大量の情報が飛び込んでくる。
「……え?」
目の前を川が流れている。先ほどまでは存在しなかったものだ。頭上を見上げるとそこに桜はなく、川の向こう岸に伸びる橋がある。
川というよりも用水路に近く、橋も当然小振りだ。
夢でも見ているのだろうかと立ち上がり、少し離れて橋の全貌を瞳に映す。
「は……はは」
乾いた笑いが出た。立派なアーチを描く木の橋の上を、着物を着た女が歩いている。髷を結った武士のような男が腰に大小を佩いていた。
大小とはもちろん本差とその予備である脇差、つまりは刀のことである。
「嘘……だよな?」
まるで江戸時代にしか見えない人々とその装いに、俺の口からは言葉に表せない感情がこぼれ落ちた。