拾参話 お土産の紅猪口、その意味は
「お雪さん、ただいま帰りました」
屋敷に帰って俺は、まずお雪さんのもとへと向かった。
声は震えていないだろうか。今の俺は少し……というかかなり緊張している。
「内蔵助様……! おかえりなさい、お待ちしておりましたっ」
お雪さんは本当に心配してくれていたのだろう。俺の顔を見るとほっと胸を撫で下ろし、上品な所作で頭を下げてくれた。
最初の縁からかお雪さんには随分とよくしてもらっている。会って間もないのに顔を合わせれば笑顔で挨拶してくれ、今日なんかは弁当まで作ってくれた。
他の皆は突然住み込むようになった俺に、敵意こそないもののどこかよそよそしい。だからこの世界で知り合いのいない俺は、本当に彼女の笑顔に救われたのだ。
だからそれらに対するささやかなお礼が、今俺の懐にある。
※ ※
刻は半刻ほど前に遡る。
ギルドの帰り、露天商を目撃した俺はふと「お雪さんに何かお土産を買って帰ろう」と思い至った。
特に何か目当てのものがあったわけではないが、物珍しさから俺はその露天商に寄ってみる。
「いらっしゃい。何かお探しで?」
俺に気付いた店主は揉み手をしながらそう聞く。俺はほぼ冷やかしのつもりであったが、本当に揉み手をする人間を初めて見たためそちらに気を取られ、反射的に「ええまあ、土産を……」と答えてしまった。
「ほう、土産を。失礼ですがお相手はオナゴで?」
「えーと、まあ……一応」
念のため補足するが、この場合の「一応」とはお雪さんは一応オナゴか、ではなく「俺という人間でも、一応女性に土産を買おうと考えたりするんだよ」という意味である。何だかネガティブな思考だが、母の日以外で女性に贈り物をすることなんてなかったため仕方ないことだ。
「なるほどなるほど! でしたらこちらの簪はいかがでしょうか? 上方で流行りの紅色を使った一点物ですよ!」
ヤケにぐいぐいと押してくる店主の勢いに押されながら簪を受け取る。確かに綺麗な色だし造りもしっかりしていた。だがお雪さんの髪は短く、簪を使うことはないだろう。
「すみません、相手はそこまで髪が長くないもので」
「となると……こちらは非常にオススメですね。上方で今一番人気の花魁が使っているものと同じ口紅です。紅でしたらどんな女性も使いますし、消耗品ですので定番の土産ですよ!」
「はぁ……」
花魁といえばなんとなく華やかというか派手すぎるイメージがある。彼女たちはこういう世界のファッションリーダーというか、まあモデルのようなものだから女性たちの憧れだったり男ウケもいいだろうが、お雪さんにはあまり似合わないような……。
「おっ」
しかし紅猪口……お酒を飲む時に使うお猪口に塗り固められた口紅は、桜色の上品なものだった。
派手さもいいが、男はやはりお淑やかな女性に弱い。この紅を塗った花魁が人気になるのも良く分かる。
「……店主、値段は?」
「紅一匁は金一匁と言います……ですが当方、上方より参りまして本日が白国初の商いです。なのでこちらも勉強させていただく意味も込めて、銀三匁でいかがでしょう」
なるほど、上手い言い方だ。まず紅の価値を教え、その上で可能な限り落とした値段を言う。こちらは元の値段を知らないのだから、それが定価でも安くなったと錯覚してしまうわけだ。
そのことを伝えたり、そもそも上方の花魁がどうとか俺は知らないためそれを盾にして値下げを迫ってもいい。
だけども、お雪さんへのプレゼントなのだ。値下げ交渉などせず普通に買ってあげたい。
「……分かりました。一つください」
「まいどありッ!」
そんなわけで俺は収入の半分以上を使い、お雪さんにプレゼントするための紅を買ったのだった。
※ ※
「内蔵助様?」
停止したまま動かない俺を不審に思ったのか、お雪さんが俺の顔を覗き込む。
「うわっ!? えっと! あの……おむすび、めちゃくちゃ美味しかったです!!」
懐の紅猪口を握ったままテンパりながらもそれを伝える。逃げたわけじゃない。おむすびが美味しかったということも、やはり伝えるべきであろう。
「え? あっ……その……本当はお味噌を塗って焼きおにぎりにしたり、工夫したかったんですよ? でも時間がなくて普通の塩おむすびしか……お恥ずかしい……」
焼きおにぎり! 焼きおにぎりと言えば普通は醤油だろう。しかしそこで敢えて味噌を塗るのか……ああ、想像するだけでお腹が空いてきそうだ。
一般家庭は未だに直火やら間接焼きが一般的らしいが、殿様の屋敷だけあってここには七輪が置いてある。だからきっと、それはいい焼き目と香ばしさが――――って、今はそれどころじゃない。
今お雪さんは頬を赤らめて恥ずかしがっている。つまり言うなればウィーク状態だ。攻めるなら今しかない。
「あの、お雪さん!」
「は、はい!」
思いのほか大きな声が出てしまい、お雪さんは驚いて背筋をぴんと伸ばした。
「これ、お弁当の……それに普段美味しいご飯を作ってくれているお礼です! 受け取ってください!!」
懐から取り出した紅猪口を差し出す。その後お雪さんがどういった行動を取るか、それも既に考えてきていた。
「え!? そ、そんな! 受け取れませんよ!? 私はその、お仕事なんですし!」
そう。当然お雪さんは断る。少し考えれば分かることだ。お雪さんはそんな打算的な人じゃない。何か見返りを求めて俺によくしてくれているわけじゃないのだ。
だがそれと同時に、とても押しに弱い性格であることには薄々勘付いている。だから俺が取る方法は一つ。
「いいんです、俺の気持ちですから!」
そう言ってお雪さんの手を握り、強引に紅猪口を持たせる。そして。
「それじゃあ、今日はありがとうございました! 晩御飯も楽しみにしています!」
脱兎の如く逃亡する。何度も言うがこれは逃げじゃない。こうすればお雪さんは紅猪口を受け取らざるを得ないわけだ。
言うなればそう、未来への前進。
俺はそう自分に言い訳しながら、脳裏で紅を付けたお雪さんを想像する。それはそれは可憐で――――
「ぶっ!?」
「っと」
軽快のスキップをしながら廊下の角を曲がると、ちょうど向こう側から出てきた何者かとぶつかり跳ね飛ばされた。
しかし何だろう。弾力というか柔らかさというか、人とぶつかったというのに痛みはなくむしろ……。
「おい貴様。人にぶつかってなんだそのほうけた顔は」
「あ」
尻もちをついたまま顔を上げると、そこには少しばかり苛立っていらっしゃる綱吉さんがいた。
どうやら不思議な感触はあの大きな乳房であったらしい。確かにあれなら弾力と柔らかさを兼ね備えており、ぶつかってもあまり痛くはないだろう。ただしその後どうなるかは別として。
「ど、どうも……」
「何がどうも、だ。殿の屋敷で童子のようにはしゃぎおって」
「は、はは……すみません……」
自分でも気分がどん底まで沈んでいくのが分かった。何でこういう時に限って出会ってしまうのだろうか。敵か味方か分からない状況で呂布と出くわしたようなものだ。戦国時代なら本多忠勝。現代なら……クマ、か。
「大体お前は何故いつもそう屁っ放り腰なのだ。大小を佩いて多少は武士らしくなったと思えばすぐこれだ」
綱吉さんのお説教が始まってしまった。実はこのお説教、今日が初めてではない。
どうやら最初から綱吉さんにとって俺の印象は最悪なものであるらしく、ことあるごとに説教をくらっている。
ただそれで俺が文句を言えないのは、運悪くではあるがこうやって俺に非があるからであり、しかしだからこそ不満は募る。女性を軽視するわけではないが、この年で年上の女性に叱られるのは精神的に厳しいものがあった。
せめて場所を選んでくれるのならまだしも、こうやって廊下のど真ん中で説教は始まるのだ。小姓や小間使いの人たちがクスクスと笑いながら通り過ぎていく。
ああもう、早く終わってくれ……。
そんな思いが顔に出ていたらしい。綱吉さんは顔を引き攣らせながら笑みを浮かべた。
「……どうやら全く懲りていないようだな、貴様は。一度性根から叩き直す必要がありそうだ」
「え”」
「離れにある道場は分かるな? その大小を置いてすぐに来い。仮にも屋敷住まいの武士なのだからな。私が直々に指導してやろう」
け、結構です……なんて言えるはずもなく、俺も綱吉さん同様に笑顔を引き攣らせながら答えた。
「は、はい……」
どうしてこんなことに……そう落ち込む俺を慰めてくれる人はおらず、俺は悲しみに満ち溢れながら大小を置きに部屋へと走った。